2009年11月26日木曜日

J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第3章

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第3章

 経済学者というのは、他の科学者たちと同様、初学者を前にしたときには最もシンプルな仮説を取り上げて説明を始めるものだ。これは決して最もシンプルな仮説が最も現実に近いからではない。経済学者が次に記すような想定をするのも、一つにはそのような理由からだが、私のみるところもう一つの理由があって、それはただこの科目の伝統に従っているだけ、とうものだ。その想定とは、個人の試行錯誤を通して正しい道を進んだものは栄え、誤った道を選んだものは滅びていくというプロセスを経て、生産的な資源の最適な分配が行われる、というものである。この想定は、誤った方向に自身の資本や労働力を投入しようとしているものを止めるべきではない、ということを暗に意味しているのだ。つまりこれこそが最大の利益を生み出せるものを発見する方法である。効率の悪い弱きものの破滅によって、最も効率の良いものが選び抜かれる血も涙もない過酷な生存競争というわけだ。このような考え方は、過酷な競争のコストを無視している。それでいて、競争によって得られた結果を勝手に永続的なものと想定し重要視している。もしも生きることの目的が出来る限り高いところにある木の葉をむしり取ることであったなら、最も効率の良い方法は、首の短いキリンが餓死するのに任せてればいい。そうすれば最も首の長いキリンが得られることだろう。

 異なる産業間で生産手段を理想的に分配するこの方法に対応して、購買力の理想的な分配についても似たような想定が存在する。まずはじめに、個々人はいろいろな選択肢を試行錯誤して検討して、自分が最も欲しいものを「最もお得だと考えたところ」に見出す。さらにこれは、各消費者が自らの購買力を自分にとって最も有利になるように使うというだけでなく、商品の方も、その商品を誰よりも欲しがっている消費者の下へたどり着くということになっている。なぜなら、一番欲しがっている人が、一番良い値をつけるから。ということで、もし私たちがキリンを放ったらかしにすると、(1)木の葉の消費量が最大になる。なぜなら、低い位置にある葉っぱしか食べられないキリンが飢え死にするから。(2)キリンたちは届く範囲で最もみずみずしい葉を選んで食べ、(3)「あの葉っぱが食べたい!」と最も強く思ったキリンが最も遠くまで首を伸ばそうとするはずだ。このようにして、よりジューシーな葉っぱから食べられていくし、首を伸ばす努力に値すると思われる葉から食べられていくだろう。

 自然淘汰が邪魔されることなく進歩を導き出していく。そのためには今見てきたような条件を想定しなくてはいけないわけだが、その想定は自己責任主義を支える二つの急ごしらえな想定の一つでしかない(にもかかわらず文字通りの真実として受け入れられているのだが)。そのもう一つの想定は、個々人の全的な努力を引き出すにたるだけの必要十分なチャンス(個々人が自由に金儲けできるチャンス)が存在している、という想定である。自己責任主義の下では、利益というのは、己の能力だか運だかを使って、自分の時間や資本を正しい時に正しい場所で保持しているものに転がり込むことになっている。タイミングよく有能であったり幸運であったりする個人が、その時点までに実った果実をすべて持って行ってしまうようなシステムは、確実に、良い時期によい場所に居合わせるテクニックを学ぶ大きなインセンティブを人々に与えるだろう。こうして人間の行動の理由のうち最も強力なもの、つまり貨幣に対する愛着が、最も効率よく富を生むとされる方法を通して、経済の資源を分配するために利用されるのだ。

 ここまでに簡単に触れてきた経済的な自己責任主義と、ダーウィニズムの間の平行関係は、ハーバート・スペンサーが真っ先に気づいたように、今ではとても接近してきている。ダーウィンは、性愛が性的な選抜を通して作用することで、競争による自然淘汰を補助し、最適であると同時に最も望ましい進化のコースを導く、と主張した。同様に個人主義者は、貨幣愛が利益の追求を通じて作用することで、自然淘汰を補助し、(交換価値で計られた)人々が最も欲しがるものの最大規模の産出をもたらす、と主張するのである。

 このような理屈のシンプルさと美しさは実にたいしたもので、当の理屈が事実に基づいているのではなく、簡便のために用意した不完全な仮説に基づいていることなんかを見事に忘れさせてくれるほどだ。個人が自身の利益のために自律して活動することが、社会全体として最も多くの富を生み出すという結論は、一つどころではない非常識な想定に基づいているのである。その想定は生産と消費のプロセスにまで及んでいて、将来のビジネス環境や必要な所得などをしっかりと予見することは可能であり、またそのような予知をする機会は十分に存在するという全く人間的でないものだ。経済学者というのは、たいてい、次のような複雑な問題が持ち上がった場合、議論のシンプルさを保つため、そういう問題を後回しにするものだ。(1)有効な生産力が消費に比べて大きい場合。(2)共通費用、結合費用がある場合。(3)内部の諸経済が生産の集約に向かう傾向を持っている場合。(4)様々な調整に長い時間が必要な場合。(5)無知がはびこり知を圧倒している場合。(6)独占企業と労働組合が取引の平等を妨げている場合。——このような場合に経済学者たちは、現実の分析を後回しにするのである。さらに、先ほどの単純化された仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。

 しかし、事実の取り扱いに関する疑問の他にも考えなきゃいけない問題があって、生存競争そのもののコスト、その性質についてや、富というものが好ましくないところに集まりがちであることなども、ちゃんと計算に入れているのかどうかという問題だ。キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。

 ところが、自己責任の原則には、経済学の教科書の他にも頼もしい味方がいるのである。立派な思想家や、分別ある人々の頭の中に自己責任主義が根付いているのは、彼らの天敵——その一つは保護主義で、もう一つはマルクス派社会主義——が低レベルな連中だからである、というのは認めざるをえない。この二つの主義は、主に自己責任主義にとって好都合な前提をブチ壊す性質を持っているというだけでなく、全く理屈に合わないという点でも共通している。両者とも貧弱な思考、そして物事のプロセスを分析して結論を導く能力の欠如の見本である。この二つへの反論のために自己責任の原則にお呼びがかかるわけだが、別に絶対にそうしなければ論破できないわけではないのだ。二つの内、保護主義は少なくとも説得力はあるし一般によく受ける主張であるから、それにすり寄っていく連中がいるのは不思議ではない。しかし、マルクス派社会主義は、人類の思想の歴史をたどる者たちにとって、凶兆でありつづけるだろう。あんなにも非論理的で鈍くさえない教義が、いったいどうやって人々の頭脳と歴史的なイベントに対して、あんなにも強力で消えがたい影響を及ぼすことが出来たのだろう。いずれにせよ、この二つの主張のあからさまな科学的欠陥が、19世紀において自己責任主義が特権と権威を手にするのに大いに貢献したのである。

 あの誰の目にも明らかで、大規模な社会活動の中央集権化——先の戦争の遂行——でさえも、改革を志す人々を勇気づけたり、古くさい偏見を追い払ったりすることはなかった。いや実際、どちらの側にも言い分はたくさんあるのだ。国家に統合された生産組織のなかでの戦争体験は、おりこうさんたちの頭の中に平時でも同じ事をやってみたいという楽観的な渇望を残していった。戦時社会主義は平和時には想像することさえ難しい程の大量の富(wealth)を生み出したことは間違いない。というのも、大量に作られた財やサービスは、すぐに何の役にも立つこともなく消えてしまう運命にあったが、それでも富ではあったからだ。無駄にした労力の異常な量や、浪費的でコストを全く気にしない雰囲気は、倹約で将来の蓄えばかり考えている精神にとっては唾棄すべきことだったはずなのに。

 個人主義と自己責任主義は古くは18世紀後半から19世紀初頭にかけての政治的道徳哲学にそのルーツがあるにもかかわらず、社会がどうあるべきかということに関して、ついにがっちりと人々の心をつかんではなさなくなった。だがこれは、当時のビジネス界のニーズや願望に追従しなければ成しえなかっただろう。この二つの哲学は、かつて我らのヒーローだった偉大なるビジネスマンに目一杯の自由を与えた。マーシャルは常々このように言っていた。「西洋世界で最も才能のある人々、少なくともその半数はビジネス界にいる。」 当時の「より高いレベルの想像力(the higher imagination)」はそこで活用された。そのような人々の活動に、私たちの進歩への希望が集中していったのだ。マーシャルは次のように書いている*1。

「この階級の人々は、自らの頭の中にこしらえた常に変化するビジョンの中に生きている。そのビジョンというのは、彼らの望む結果へと至る様々なルートのことで、どのルートを進んでも自然が彼らの邪魔をするという困難がある。だからビジョンには、自然の障害に打ち勝つためのアイディアも含まれている。しかしこのような想像力も、人々の信頼を得ることはそんなにない。なぜなら、好き勝手に暴れ回ることが許されているわけではないからだ。その[想像力の]力強さもまた、より強固な意志の統制を受ける。なので、その[企業家の]想像力の最高の栄誉とは、とても単純な方法で偉大な結果を出すこと、になるのだ。その単純さとは、どうやったらパッと見そのアイディアと同じくらい素晴らしい無数のアイディアを退けることが出来たのか誰にもわからないほどに、あるいは、専門家だけがようやく推理できる程に単純なのだ。このような人物の想像力は、チェスの名人の想像力にも似て、壮大な計画の妨げを予測することと、素晴らしい提案に対し常に反撃の手段を用意して拒絶していくことに使われるのである。人間の本質において、彼の強靱な精神力はお手軽なユートピア思考を受け入れる無責任な精神の対極にあるものだ。その無責任さというのは、チェスのたとえで言うならば、白駒も黒駒も自由勝手にに動かしてチェスの最大の難問を解いている下手なプレイヤーの図々しい手際の良さといったところだろう。」

*1 「経済騎士道の社会的可能性」("The Social Possibilities of Economic Chivalry," Economic Journal, 1907, xvii, p. 9)

 この文章はまさに、「産業界の勤勉なるリーダー」のよくできた肖像画である。いわば彼は、個人主義のお師匠なのであり、他の芸術家たちと同様に、自分の利益のために生きることで、私たちのために生きているのである。とはいえ、芸術家同様、彼ら実業家もすすけた偶像になりかけてはいるのだが。というのも、その手で私たちを楽園へ連れて行ってくれるのが彼らなのか、大変疑わしくなってきたから。

 こういった様々な要素が現代の知性がもつバイアス、精神構造、正統性をもたらしている。本来の理屈が持っていた説得力の多くはすでに失われているにもかかわらず、よくあることだが、結論の方が理屈よりも長生きなのだ。今ロンドンのシティ[金融街]で公共の利益のための行動を呼びかけることは、60年前にカソリック主教と『種の起源』について話し合うようなものだ。どちらも最初のリアクションは知的なものではなく道徳的なものになるに決まってる。正統性こそが問題なのだから、議論の説得力が増すほどに敵意も深まる。それでも、こののろまなモンスターの棲みかに飛び込んで、その主張とその系譜をたどってきたのは、そのモンスターが私たちを支配してきたのは、彼の優れた能力のためではなく、親から受け継いだもののためだったことを示したかったからだ。

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