2008年11月12日水曜日

書評・伊藤昌哉『池田勇人とその時代』

田中秀臣先生のこのエントリー末尾の「金融政策に思い当たらない世論」という言葉をみて、ぼんやり思うことがあった。で、以前から書こうと思っていた書評を書きます。

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池田勇人と
その時代
伊藤昌哉
この本、伊藤昌哉『池田勇人とその時代』は、戦後、池田勇人が総理大臣としてどう生きたか、を追った本だ。なので池田勇人首相の秘書官がみた池田勇人を描いた本であって、池田の業績をまとめて分析した本ではない。だから話がどんどん進んでいくし、やたらに楽しい。

この本の書評は以前に一度書いて、次は池田の経済政策について書こうと思っていたけども、なんとなく書きそびれというかテーマがないというか、何を書けばいいのかわからなくて頓挫してしまっていた。せっかく古本で手に入れたのに(以前の書評は図書館で借りたときに書いた)。で、田中先生の「金融政策に思い当たらない世論」がヒントになって再チャレンジというわけ。本書のなかで、著者が自分は「経済にうとい」と繰り返し述べているので、経済政策については細かく描かれるわけじゃないけど、それでも結構充実していると思う。池田の経済政策の背後にある信念が読み取れるようになっている。


著者は新聞記者から池田の秘書官になったので、本の最初のほうは記者時代の話だ。池田と言えば大蔵大臣時代の「貧乏人は麦を食え」が有名だが、実際の発言の主旨は、「低所得者が米を食べられるようにするために、米の値段を統制する気はない」ということであった。無愛想な態度が記者に不人気だった池田は、いちいち狙われていたようだ。本文を引用しよう。

そのうち[記者]クラブの中心人物が、なんとかして池田をたたこう、と言いはじめた。さんざん考えたあげく、「池田は単純だから、誘導尋問で怒らせたうえ、失言をひきずり出そう」という作戦になった。
 年があける。二月、三月は徴税期で、引き締め政策(当時はドッジ・ライン)をとっているときは、いつでも危機説が経済評論家の売りものになるころだ。
「これだ。これ、これ」というので、三月一日(昭和二十五年)、国会の委員室をかりて大臣会見をおこない、その質問の矢を放った。案のじょう、「ヤミをやっている中小企業の二人や三人、倒産してもかまわない」という放言がとび出した。それ書け、とばかり各社いっせいに砲列をしく。
p.20 [ ]内は引用者


こういった雰囲気の中で、やがて「貧乏人は麦を食え」というキャッチーなフレーズが生まれてくる。ちなみに池田自身、麦飯を食べていたのだと言う。

今も昔もあんまり変わらないなあ、と色んな意味で思う。ジャーナリズムについてもそうだけど、経済評論家についてもそうだ。現在、世界的に金融緩和政策が取られているから、日本は相対的には引き締めに見えてしまう。それでなくてもデフレが続いていたわけだから、ここ十年以上、引き締め政策だったともいえる(ドッジラインってインフレを押さえ込むためのデフレ政策でしたよね?)。危機説が大量生産されつづけているのにも納得だ。

さて記者である著者がなぜ池田の秘書官になるのか。その理由、動機ははっきりとは書かれていない。なんというか言葉できっちりと説明できるような感じではない。きっと著者の志が理由なのだろうし、池田もそれを受け止めていたようだ。もっとも、新聞との関係を良くしたいとも思ってはいたようだが。

著者はまた、金光教の信徒で、ことあるごとに教会の判断をあおいでいる(もちろん自分の事についてであって、政局の行方とかを聞くわけじゃない)。これも面白い。著者は教会の指示(?)に疑問を感じながらも従うのだけど、これが絵に描いたような信心では全くなくて、疑いながら不安を抱えながら生きていく。結果はでない。また悩む。焦る。時間がかかる。ああ、これが信仰なのかな、などと無信心者の僕なんかでも思う。この本はこういう人が書いているから抜群に面白いのだろうと思う。

さて経済政策である。池田と言えば所得倍増計画だ。しかし所得倍増計画の動機もはっきりしない。むしろ結果がでてから正当化していくような印象さえある。が、とにかく経済成長をしなければ、という思いが池田にはまずあったようだ。

 池田はもともと楽天家で、勇ましく、大きなことが好きなたちだった。それなのに、これまで大蔵大臣としてやらされてきたのは、ほとんどいつも引締めばかりだった。
p.81


また、戦後、主税局長時代の話として。

 彼の徴税ぶりは有名で、根津嘉一郎の遺産相続のときや、講談社の野間清治にたいする取り方は、すさまじいものがあったらしい。池田はのちによくそのことを思いだした。「俺はあのころ、税金さえとれば、国のためになると思っていたんだ」と言ったことがある。
p.76


それでは「国のため」にはならない、と思ったのだろう。だから政治家になったのかもしれない。だから経済成長を基本に考えるようになったのかもしれない。

そして岸内閣へのまさかの入閣を経て総理大臣となる。安保騒動の殺伐とした雰囲気が残っているなか、池田内閣は新政策を発表する。昭和35年(1960年)だ。その経済政策を引用してみる。

 経済はインフレなき高度成長政策を採用した。公共投資と減税と社会保障がこの政策の三つの柱である。こうして国内経済を発展させながら、一方では国際情勢に対応して貿易の自由化をはかり、他方では雇用を拡大し、労働の流動化を促進し、農業・中小企業の近代化をはかろうとするのだ。
 三十六年度を初年度とする道路五カ年計画、国鉄のディーゼル化と複線化(公共投資)、三十六年度はもちろん、年々1000億円以上の所得・企業両面にわたる減税、金利引き下げと公社債市場の育成(減税と金利政策)、国民年金の改善と健康保険の給付率の漸次的な引上げ(社会保障)、などが具体的な行政措置であった。
p.106 強調は引用者


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日本文明
世界最強の秘密
増田悦佐
うーん。なんか今でもなお必要な政策に見える。特に公共投資。鉄道網の発達こそが日本の発展を支えた、という増田悦佐氏の主張と合致している。今後だって、都市の生活を向上させれば高齢者の福祉にもつながるだろう。都市向けの公共投資、その中でも交通機関の整備は必須だと思う。ただここで強調したいのはやはり「金利引下げ」だ。当時、マスメディアはしきりにインフレだ、インフレだ、と騒いでいたようだ。だから金利を引き下げれば、当然インフレを押し進める要因となるわけで、今だったら無責任とか非難されるところだろう。当時も突っ込みはあった。さて池田はどう答えたか。以下、朝日新聞のインタビュー。

問い 最近の物価値上がりをどう考えるか。
答え たしかに小売り物価は上がっている。私は鉄道運賃と郵便のうち、ハガキ・封書は上げない。ほかのものはわかりませんよ。小売り物価の値上がりの原因は、野菜・豚などで、台所にひびくからなんとかしなければならない。しかし経済的に心配なのは卸売り物価だ。卸売り物価は国際収支にひびく。これはそう上がっていない。小売り物価は、国としては二義的なものである。
p.110


輸入しなければならない原材料の値段が上がると外貨が減る。これが「国際収支にひびく」という表現の意味なんじゃないかと思う。当時は為替が固定だったわけだから、輸入品の値上がりには外貨準備で対応するしかなかったってことなんだと思う。外貨は貿易で得た利益で買うわけだから、輸入物価が上がれば利益も減るし、そもそも輸入できる量が減るから経済そのものが立ち行かなくなるってことかしら?(はい、よくわかってません)

ここで注目なのは、池田が物価を上がった下がったと二つだけで見ているわけじゃないということだ。ちゃんと相対物価を見ていた。現在ではこの間まで原油価格が上昇してて、「インフレだ!」みたいな感じでしたけど、そういう見方は、池田はしなかった。つーかあれでインフレならば、原油価格が上昇する以前はデフレだったと認めるんですね? あるいは原油価格が下がればデフレなんですね? と聞きたいもんです。それはともかく、だから、池田は堂々と「インフレなき高度成長」を主張できたのだろう。そして実際に金利を下げる。

 新政策の発表前に、その一環として、池田は金利の引下げを約束し、八月二十四日には公定歩合を一厘引き下げた。これを好感して、安保の時期に低迷していた兜町はにわかに活気づき、九月十九日には、東証ダウが1200円の大台にのせる。日本人の心から、しだいに安保騒動の暗影が消えていって、繁栄への期待が、人びとの胸をかすめはじめた。
p.117


池田の掲げた新政策は三本柱(公共投資・減税と金利政策・社会保障)の他にも雇用の増加、労働の流動化、産業の近代化、貿易の自由化という目標があった。その全てで、一応の進歩はあったというのが衆目の一致するところだろう。と同時に、目標を全て達成したと考える人もいないのではないか。なのに何故昨今の政権は社会保障以外の目標を掲げないのか。雇用の増加や労働の流動化は、絶対に必要なことだと思うのだけど。

政策金利はいまや公定歩合ではなくて無担保コールオーバーナイト物の金利だ。政府が決めるんじゃなくて日銀が決める。たしかにここらへんは分かりにくい。僕もよくわかっていないんだと思う。でも「金融政策に思い至らない」ことはない。なぜならその先に雇用の増加や労働の流動化があるからだ。仮に、もし今、景気が過熱状態だったとしたら、賃金が不当に高くなって雇用は増えず、労働の流動性も低下し、産業を近代化するよりも投機を優先するような風潮が生まれ、貿易の自由化に耐えられない産業が政治的になにか企んだりするだろう。ならば金利を上げればいい。これだってやっぱり雇用の増加や労働の流動化が目的なのだ。経済を安定して成長させることが目的なのだ。

日銀の使命は物価の安定だそうだけども、経済成長に貢献しないなんてことが許されるんだろうか。以下は新政策発表前夜の様子。

 新政策の作成はしだいにすすんだ。下村治、田村敏雄など、政策ブレーンが箱根に集まった。
 成長率が問題になり、宏池会事務局案は7.2%、10年間で国民所得を倍増するという計画だった。下村案は11%で、結局、池田は、三十六年[1961年]以降、最初の3年間は9%でいくという方針をたてた。当初の成長率を高く見こんだのは、ちょうどその間に、終戦後のベビー・ブームに生まれた連中が就業する時期がやってくる。それまでに経済の規模を大きくしておかないと、失業問題がおきるという配慮からだった。
p.104 [ ]内は引用者。また、一部漢数字をアラビア数字に変えた。


今、経済成長の恩恵を受けていない日本人なんて一人もいない。高度成長はやがて公害問題を発生させ、公共投資は住民のためというより所得分配のために行われるようになった。たしかに問題だけど、経済成長の重要さとは関係ない。僕は子供の頃から、経済成長が全てではない、というような話は腐る程聞いた。僕も大学生のころはそういうことを言っちゃう、ちょっと痛い子だった。で、たぶんそれは日本だけの話でもないんだろう。そして振り返ってみると、アメリカだけが成長をあきらめてなくて、他の先進国はなんか今イチやる気があるんだかないんだか、という感じで、ブーブー文句いうくせにアメリカに頼っているというわけだ。

そういうふうに見てみると、「金融政策に思い至らない」のではなく、「経済成長に思い至らない」のではないか。その理由は、別に知りたくもないけど、たぶん因果関係を取り違えているってことなんじゃないだろうか。

さて所得倍増計画はどうなったのか。

池田が提唱した所得倍増計画は、多くの人びとを共感させ、自信をあたえ、日本の経済力を伸長させた。都市における鉱工業部門の所得の増加は、やがて各層に波及していった。農村の次、三男がぞくぞくと都市への移動を開始した。人手不足の声がではじめ、日本では完全雇用は永遠に不可能だという、漠然としたあきらめは徐々に消えていった。社会には明るい力がみなぎってきた。「これから前途は展開していく」と、人びとは思った。「日本は若い国だ」と、人びとは肌で感じた。三つの卵を五人でどう分配するかに狂奔するよりは、その五人で六つの卵をつくることに努力したほうがとくだと考えだした。
p.237


そして東京オリンピックが開催される。池田は開会式に出席するが、ガンを患ってもいた。せっかくの大会に水を差すというので、辞任はオリンピックの閉会後となった。そして、昭和四十年八月十三日、死去。

追記:新しく池田勇人の本を書評しました。こちらです。