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2013年2月1日金曜日

十年一日・書評・『エコノミストミシュラン』田中秀臣、野口旭、若田部正澄編

 毎年のように今更あけましておめでとうございます。本年も拙ブログ、よろしくおねがいします。

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エコノミスト・ミシュラン
田中秀臣
野口旭
若田部昌澄
 さて、年末に引っ越しをしたので本を整理していたら、2003年、つまり十年前に出版された『エコノミストミシュラン』が出てきた。奥付きを見ると、僕が買ったのは同年に出た3刷り。本書は、現在ではリフレ派としてすっかりおなじみの論者たちが、当時から乱発気味の経済書を「「経済学の基本」の尊重と、そして良識」(本書「はじめに」より)をもって書評し、その半分くらいを切り捨てていく本で、三名の編者の他、高橋洋一氏や飯田泰之氏、そして故岡田靖氏なども評者として参加している。

 編者三人の鼎談ののち、本書では計31冊の経済書がリフレ派の検証を受けている。が、晴れて「経済学の基礎」と良識を兼ね備えていると認定された本ばかりというわけにはいかない。そういう本は、これまたお馴染みの岩田規久男氏や原田泰氏、P・クルーグマン氏、J・スティグリッツ氏、P・テミン氏などなどの本で、あとは、部分的には良いけど全体としてはダメ、というのがちょぼちょぼあって、残りはゴミ、という感じ。

 書物の運命としては恵まれているのだろうけど、現実的には非常に残念なことに、十年という時間の経過をまったく感じさせない本でもある。当時2003年は、りそな国有化、財務省の大型為替介入、福井新日銀総裁のゼロ金利政策と量的緩和政策の継続などが重なって、若干の景気の回復が見られた頃。編者の一人、野口旭氏の言葉によると、

要するに、90年代は失われた10年と呼ばれていますが、それは、マクロ政策で少し株価が上がったり、景気が上向くと、すぐに横槍が入ってしまったことが原因なんです。橋本内閣のときには、少し景気が回復したのを見て、財務省の悲願だった財政再建路線という引き締め政策に転換して、景気が再び落ち込んだ。次に小渕内閣になって、大型の財政支出をやって景気が上向いたら、速水日銀がゼロ金利を解除して金利を上げ始めた──実際に上げたのは小渕首相が死んでからでしたが。とにかく、それぞれの政策当局が勝手に自分の庭先だけをきれいにしはじめる。これでは、デフレ脱却などできるはずがない。それが本格的な景気回復までいかなかった原因です。ですから今回も、この株高でまた構造改革路線に戻って財政緊縮を前のめりでやりはじめると、同じことをくりかえしてしまう気がします。
(p. 18)

という状況だった。僕たちはその後起きたことを知っているわけですが……。*1

 さて、リフレ派は書評されている本の著者たちも評者たちも主張が変わっていないから、2013年であっても言い分がそのまま通用するのは当然だ。一方の反金融政策方面の人たちの主張もまた、今見るとジョークにしか思えないものもあり、何度論破されてもよみがえるハイパーインフレになっちゃうんだぞ説、日本は特殊なんだ説、もう諦めようぜ説など、無駄ににぎやかであるのも今と変わらない。ジョークにしか思えないというのは、うっかり新しい経済学を打ち立てちゃう人が多いということで、当時はそれがこの手のご商売の人たちのマイブームだったんでしょうね。十年たって榊原経済学とかができてたら良かったんですけど。

 本書ではすでに「失われた10年」という語が多く使われていて、ため息がでる。ずーーーーっとデフレだったなあ、としみじみ思う。岡田氏がテミン氏の『大恐慌の教訓』を評したところから引用してみよう。テミン氏らの研究が影響力を持ってきたアメリカであるが、

翻って日本における大恐慌期に関する一般的理解を眺めてみると、こうした(引用者:80年代以降に大いに発展したマクロ経済学の)理論的・実証的研究の成果がほとんど理解・受容されていないことに驚かざるをえない。経済学の専門家以外の人びとのあいだでは、マルクス主義の影響が強いために、大恐慌を資本主義経済の必然的な破局だとみなす考えが広く受け入れられているし、経済分析の専門家のあいだですらケインジアンVSマネタリスト論争当時の認識が一般的なのである。
(p. 206)

一応言っておきますが10年前ですよ。さて、昨年末の選挙でリフレ政策を掲げた自民党が大勝し、安倍総理に対する期待だけで円安株高になっている現在、本書で強く批判されているような主張は若干そのトーンを弱めている感がある(『100年デフレ』の人は相変わらずのようですが)。しかしそれも一時的なことだと思う。これから日銀総裁、副総裁、そして審議委員の人事が議論されていく中で、一見リフレ政策に理解がありそうな人物が、その役職の候補者としても、その人事を決める側の人物としても多く出てくるはずだ。

 評者の一人、高橋洋一氏は加藤出氏の『日銀は死んだのか?』の書評を次のように始めている。

つい最近までデフレ対策としてのインフレ目標論議が盛んだった。2003年3月の福井俊彦氏の日銀総裁就任以降、議論は下火になったが、デフレはいまだに収束していない。
(p. 231)

 福井氏は当時の小泉総理に対し、デフレ脱却を約束することと引き替えに総裁に就任させてもらった、と言われている。 そして当面は緩和姿勢を継続したので、インフレ目標の議論も下火になった。しかし、いざ小泉総理の任期が終わりに近づくと、統計の改定期であることなど有力な反論があったにも関わらず、量的緩和もゼロ金利政策も解除してしまった。それが2006年。そうして、小泉総理が退いた後の第一次安倍政権ではデフレが再び加速したのだった。今回もこのようなことを繰り返してはいけない。

 思えば福井氏は、大蔵スキャンダルで話題になったノーパンしゃぶしゃぶの顧客名簿にその名が載っていたり、総裁任期中にインサイダー取引疑惑が浮上したりと、速見、福井、白川と続く日銀出身総裁のなかでも派手な人物だった。それでもメディアがあんまり強く批判しなかったのだから、このころが日銀の栄華の絶頂期だったのかもしれない。さすがに今の白川さんにこれだけのネタがあったらタダでは済まないだろう。少なくともそこまでは事態が進んだわけだ。

 先日、1月23日、日銀と政府は物価目標を2%とする共同声明を出した。が、一日たつ頃にはもう多くの人は失望していた。2014年になってからとか、政府の成長戦略がないとできないとか、事実上の何もしない宣言だったからだ。そうして麻生副総理が、もう日銀法改正の必要性は小さくなったと発言するなど、かなり雲行きが怪しくなっている。

 とはいえ、景気回復を願う人々にとって本丸は日銀人事と日銀法改正だ。安倍総理も法改正の意志を失ったわけではないようだし。そして特にその人事の議論の中で、本書でばっさり切られている人の名前が挙がってくこともあるかもしれない(昨年、日銀寄りすぎて? 日銀審議委員になれなかった河野龍太郎氏の著作も扱われている。この当時は円安を支持していたようだけど)。本書の鼎談でも再三言われていることだが、当時は日本経済を構造問題として読み解くという情熱がずいぶん高まっていたようだ。しかし、日本の若者にまともな仕事がなくて、30歳すぎてもお金がなくて結婚も子育てもできないような現在の状況というのは、明らかに以前の日本人の生活とは異なるものだ。なので、今となっては当時の論者たちがデフレに絡めて論じていた構造というのが何なのか、よく分からなくなっている。現状は構造改革の成果なのかそれともその失敗なのか? そう自らに問わなきゃいけない人たちが本書にはたくさん出てくるのだけど、なにぶん寡聞でありまして、存じ上げませんね、そんな殊勝な人。

 たとえば野口悠紀雄氏といえば構造改革のイデオローグとして名高い人だけど、もちろん本書でばっさりやられちゃっていて、デフレは中国の工業化が原因としているらしい。(p. 149) 当然中国と貿易しているのは日本だけではないわけで、つまり、当時から日本だけがデフレである理由がまったく説明できていなかったわけだ(ま、そこを説明するのが構造問題だったんでしょうね)。なので、これからこの手の人々の名が挙がっても、「経済学の基礎」を尊重していないし、良識のほうもちょっとあやしいよ、とちゃんと批判できるようにしておきたいものだ。

 鼎談中、田中秀臣氏は、「とにかくぼくたちは、リフレ派に反論している人たちの本をかなり読んで、構造改革派のトンデモ本の類までフォローしているのに、リフレ政策に反対する連中は勉強不足も甚だしい。自分が批判している相手の代表的な文献も読まずに批判する。そういう勉強不足のエコノミストたちが多すぎます。」(p. 65 )と言う。これもやっぱり現在と変わらない。今は、テレビのニュースキャスターが「これだけ長い間消費者物価が上がらなかったのだから、2%まで上げるといっても簡単にはできない」などと日銀の無自覚な代弁者になっている状態だ。簡単じゃなかった諦めるって選択肢ありなの? さらに、未だに、経常収支赤字=国際的な信用低下! などという読んでるこっちが恥ずかしくなるような重商主義丸出しの記者が経済記事を書く放送局があったりする。(参照)一知半解、その場で分かったふりをしただけで、大胆にも仕事をこなしたことにしてきたニッポンのオトナたちが、今回だけは黙っておこうと思うだけで、案外日本経済は復活しちゃうのかもしれない。

 また、本書でぶった切られている俗説に少子化が出てこないのもおもしろい。当時はまだ人口が減っていないのだから当然なのかもしれないが(今だって別にものすごく減ってるわけじゃないけど)、少子化問題というセンセーショナルな切り口がこのご商売で幅をきかすには、構造問題がテーマとしてが消費しつくされて、場所を明け渡す必要があったのかもしれない。

 「経済学の基本」の尊重と良識。その欠如は本書によって10年前にすでに指摘されているわけで、今回こそは、半端なところで手を打たず、しっかりとマイルドインフレの実現を見届けたい。本書を今一度読み返せば、金融政策の論点が10年前にすでに出尽くしているのがわかるはずだ。最後に編者の一人、野口旭氏の鼎談中の言葉を引用しよう。

確かに経済学は、物理学などの自然科学に較べて、人間社会を相手にしていますから、はっきりと決着がつけられていない領域がまだたくさんあります。しかし、アダム・スミスやリカードからはじまる多くの経済学者たちが明らかにし、われわれの社会に蓄積されてきた経済学の共有の知見は、現実社会を改善するのに確かに役に立ってきたと私は思っています。その知見は、経験的な証拠によって繰り返し確認され、また政策として現実に役に立ってきたからこそ、現在まで生き残っているわけです。それを否定して、いったい何をしようとしているんでしょうか。
(p. 117)


*1: ちなみにこの2000年のゼロ金利解除、当時の日銀副総裁の藤原作弥氏が積極的に推し進めたようです。そしてその藤原氏が、イェール大の浜田教授や本書の評者でもある高橋洋一氏などを、「有象無象」と呼んだなんてニュースがありました。shavetail1さんのブログによると、藤原氏はジャーナリストであり、金融は「ずぶの素人」を自称してたとか。

2012年11月25日日曜日

激突? 毎日新聞 VS 片岡剛士

 引っ越しするのでばたついていて、ブログなんか真っ先に吹っ飛んだわけですが、少しは世事も勉強せねばということで、TBSラジオのDigというラジオ番組のポッドキャストを聞いているわけです。ポッドキャストがダウンロードできるのは放送から一週間なんですが、作業の合間にぼんやりと放送タイトルを見ていたら、日銀の金融緩和がテーマになっている回(2012年11月5日放送)があったんですね。で、その日の番組パーソナリティはカンニング竹山さんと、アナウンサーの外山恵理さんで、ゲストが毎日新聞の紙面審査委員の児玉平生(ひらお)さん、そして三菱UFJリサーチ&コンサルティングの片岡剛士さんでした。

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円のゆくえを問いなおす
実証的・歴史的に見た
日本経済
片岡剛士
そうなんです。金融緩和は甘え、とか言い出しかねない毎日新聞さんと、『円のゆくえを問いなおす』で日銀の責任を冷徹に浮き彫りにした片岡さんの対決なのです。これは聞くしかありません。んで、ダウンロード可能期間も過ぎちゃってるし、一丁ブログで勝手にまとめてみましょう、というのが今回の趣向でござい。

 序盤では片岡さんから日銀の当座預金などシステムの話があって、これをラジオで説明するのは無理があるだろう、と心配になる出だし。なんとなく「難しいことはともかく日銀にばかり頼る政府はけしからん」みたいな雰囲気になってしまうんじゃないか、と気をもむワタクシ。が、そんなのは全くの杞憂で、中盤以降、児玉さんが毎日新聞っぽいことを言った途端に、片岡さんがことごとく撃ち落とすという展開で、年上相手にさぞやりにくいでしょうに、片岡さんすごい、圧倒的ではないか我が軍は、というリフレ政策支持者としては痛快な番組と相成りました。

 では放送の内容を具体的に見ていきましょう。この放送のタイトルは「日銀が二ヶ月連続の金融緩和。デフレ脱却、景気回復のシナリオとは」となっており、11月初めの追加緩和政策の発表がキッカケになっています。序盤は省略しまして、11分30秒ころの「日本銀行券をジャンジャカ刷りまくるのがダメな理由があれば教えてください」というリスナーのメールに対する片岡さんの返答から。

片岡さん:今はデフレの状態ですよね。デフレでは人々はお金をあまり借りません。しかしこの状態で、日本銀行が「将来インフレになります。信じてください」と言ってそれを各銀行が信じるならば、国債に投資するよりも、株や債券に投資をしたほうが有利になる、と考えるようになるでしょう。なのでそのように信じてもらえるまで刷ればいいと思います。あとはどうしたら将来インフレになるんだと信じてもらえるか、という点です。日本銀行の場合98年以降ずっと基本的にデフレの状態です。それをインフレにするためには、約束をする、という手があります。なので、当面は1%の物価上昇率を目途にして金融政策をやります、と日銀は言っています。これを信じて欲しい、と日銀は言っているわけですね。
外山アナ:二ヶ月連続の金融緩和はおよそ9年半ぶり、と言われていますが、その前回のときはどういう状況で、どんな結果になったんですか?
片岡さん:その当時日銀は量的緩和という政策を行なっていました。これは今現在と基本的には同じで、物価上昇率が0%以上になるまで金融緩和をします、という約束です。これは児玉さんとはご意見の違うところかもしれませんが、2001年の3月から2006年の3月までの量的緩和では、日銀が銀行に対して供給できるお金の総量であるマネタリーベースでみると、前年比で30%が最大でした。リーマンショック後、アメリカの中央銀行、FRB(連邦準備銀行)の場合、マネタリーベースは前年と比べて40%以上、時には50%から60%くらい供給しています。なので日銀の場合、量が足りなかったと言えます。
外山アナ:少なすぎる?
片岡さん:はい。ちなみに現在、2012年9月のマネタリーベースは過去最大だと言われるんですが、前年比でいうと、10%増くらいです。なので、たしかに供給はしている。けれど、アメリカのFRBやイギリスのイングランド銀行、あるいは欧州の中央銀行と比べると、日銀のお金の供給量は少ないのです。だから、少ない状況で「上手くいかない」と言うのではなくて、せめて他の国となじくらいやってみてから「上手くいかない」と言ったっていいはずです。
竹山さん:片岡さんのご意見としては、メールのかたと同じように、もっと刷ればいいじゃないか、ということですね?
片岡さん:もっと大胆に緩和すべきだと思います。そうしなければ、日銀の目標は信じてもらえません。今の1%という目標すら信じてもらえていないのですから。これは日銀が発表している展望レポートからも明らかで、10月の末に新しい展望レポートが発表されたのですが、そこでは、2012年度はデフレが続く、と予想されています。その前のレポート、例えば今年の4月のものでは、2012年度は僅かではあるけれどインフレになる、と予想されていました。これは海外の景気状況が悪いなど色々な理屈をつけていますが、結論としては物価上昇率がマイナスになっちゃう、ということです。さらに、2014年になっても、当初目標としていた1%という目途を達成できない0.8%程度になるとしてます。なので、このまま行っても1%は無理、という状況です。
児玉さん:ただ、お金を増やしたからといって借り手が増えるわけでもありません。ではそれでどうなるかというと、緩和に反応する人がいるのです。つまりそれがマーケットです。日銀が今やっていることを、リーマンショック以降、アメリカやヨーロッパもやり始めたのです。日銀の緩和の規模が小さいといいますが、日本はバブル崩壊以降、ずうっと同じことをやってきたわけです。
片岡さん:いえ、同じことではないと思います。量的緩和のときもそうですが、今のアメリカ、欧州と比べても少ないですね。日銀の量的緩和は日銀当座残高の値を目標にしていたわけですが、FRBの場合はそれがFRB自身の資産の規模なんです。たとえば国債、住宅関連の担保証券とかそういうものを買い入れて、その代金をもって金融緩和としたわけです。サブプライムローンのときに焦げ付いた住宅関連の証券などを買い取り、価格の下支えをしたんですね。なので日銀の緩和とFRBの緩和には重なる部分もありますが、そうでない部分もあるのです。
児玉さん:日米でボリュームの差はあります。ただ、市場の反応を期待しているわけですが、中でも為替の場合、日銀が金融緩和をすると円が安くなるんですね。円が安くなると、輸入価格が上がるのでデフレ対策にもなります。で、ある意味で、世界中の通貨当局が緩和しているということは、自国の通貨の切り下げ競争をしているということです。
外山アナ:今回は反応したんですか?
片岡さん:今回は発表前のタイミングで反応がありました。十月の半ばくらいから追加緩和が予想されて報道にものりました。なのである意味期待が高まっていたわけです。株式市場は今どうなのか、ということよりも、将来どうなるか、という予想によって動きます。 で、30日の発表があった途端、日経平均は一気に下がりました。為替レートもその日は円高になりました。次の日に少し戻しましたが。
児玉さん:10兆円くらいの緩和が予想されていたんですが、実際に発表されたのは11兆円でしたので、期待とあんまり違わなかったんですね。
片岡さん:前原さんが政策決定会合に出席しましたが、それでプラス1兆円だったんでしょう。(笑)


ここで福岡のリスナーのメールの紹介。「緩和は小出しではなくドカンとやったらいいのでは? 白川さんの処方箋にはのってないようですが。白川日銀総裁の地元小倉では、貧乏神とか陰口たたかれます。」とのこと。

片岡さん:おっしゃる通りです。Too Little, Too Late. なんです。
外山アナ:じゃあどれくらいやればいいんですか?
片岡さん:一つ桁が違うかな、と思います。マーケットが驚く、というのが条件ですね。今は、デフレがずっと続くだろうから国債に投資したほうが楽だ、と皆が思っているわけです。
竹山さん:そこで疑問なんですが、経済の専門家たちにはこれくらいでは驚かないということが分かっているわけですよね、なのになぜこんな額なんですか?
片岡さん:大規模に緩和するとインフレが制御できなくなるとか、そういう心配をされるかたもいます。私は今現在そんな心配はいらないと思っています、なぜなら今デフレだから。あとは、出来る限り政策のリスクをとりたくない、と思っているんじゃないでしょうか。
竹山さん:政府が、ですか?
片岡さん:日銀が、です。日銀にすれば、失敗も成功も責任は日銀が負わなきゃいけない、というわけです。白川さんは来年の4月に任期が切れます。なのでもうあまりリスクはとりたくないんでしょう。私の想像ですが。
竹山さん:ほかの新聞記事にもそのような話がありましたが、日本の経済を良くしなきゃいけなくて、一般市民のレベルで景気を良くしていかなきゃいけない。そういう事態なのに、リスクを負いたくないなんて感情論で動いてしまうものなんでしょうか?
児玉さん:マーケット側からみるとそういう面もありますが、世界中が緩和競争をするなかで、そうやって増えたお金がへんなところに行っているのです。例えば新興国の不動産価格があがったり、資源価格があかったりして、そういう悪さもしているわけです。なので途上国なんかは、先進国の為替切り下げ合戦はいい加減にしてくれ、という声もあるんです。 金利が下がって国債の価格が上がれば、金融機関は国債をいっぱい持ってますから喜ぶ人もいるんですが、喜ばない人もいるのです。金融マーケットだけみていれば、そりゃ喜ぶ人が圧倒的に多い、というのが今の仕組みなのです。
片岡さん:新興国の人々が困るとはおっしゃいますが、一方で便益も得てるはずです。
 それに、わが国はデフレですから、デフレで困っている人とデフレで恩恵を受ける人を比べれば、困っている人が圧倒的に多いわけです。GDPデフレーターで言えば94年の半ばくらいからデフレが始まっていますから15年以上はデフレで、失業率も上がったまま、様々なところで社会的な問題が発生しています。たしかに強力な金融緩和を実施してデフレから脱却することで、債権者のみなさんは困るかもしれません。でもずっとデフレでしたから、その間債権者のみなさんは得をしていたじゃないですか、という理屈もあるんですよね。なので、日本経済全体を見れば、デフレ脱却は良くない、とおっしゃるかたはどなたもいらっしゃらないと思いますよ。
外山アナ:結局11兆円で喜んでいる人は一部で、この人たちはお金を使ってるんですか?
片岡さん:あまり使っていませんね。ため込んだ方がいいんですから。
児玉さん:アメリカでリーマンショックの後に大金融緩和をやりました。それは何かと言えば、バブル崩壊で損をした金融機関を救済するためのものでした。これはつまり、バブル崩壊で損をした人々を、もう一度バブルを作って救済しようという発想なのです。
片岡さん:しかし金融機関を救済しなければ、日本のような不良債権問題が起こってしまい、結果的に割を食うのは一般の国民なわけです。公的資金を使って金融機関を救うのか、金融緩和を使って救うのか、という話ですね。
児玉さん:ただですね、一般の国民感情からすると金融機関がバブルを生み出して崩壊させたのに、また彼らのために政府のお金どんと使うのは問題になるわけです。大統領選挙でも金融機関の規制が議論されています。
片岡さん:それは別々の問題です。いきすぎた金融機関の行動を規制する話と、お金の貸し借りの土台となる金融機関の役割を守る話はそれぞれ政策の目的が異なっています。金融緩和は、金融機関を助けると表現することがありますが、それはわれわれ一般市民の生活に結びついてもいるのです。金融機関が倒産しそうになると、今持っている預金がなくなっちゃうかもしれない。一生懸命貯めていたお金がなくなってしまえばわれわれ自身の生活も困ります。そういう事態を防ぐためにやっている金融緩和と、金融機関が利益を追求しすぎて怪しげな証券を売りに出してしまうことなどを規制しなきゃいけないという話は切り分けなくてはいけません。
外山アナ:私たちのところまで金融緩和の影響を届かせるためにはどうしたら良いのでしょう?
片岡さん:一つはやはり緩和をより強力に、ということですが、これは手段の話です。もう一つは、今日銀は「目途」として1%の物価上昇率を設定していますが、これは先進国の中でももっとも低い数値です。アメリカは2%ですし、欧州もだいたい2%です。なので、目標の方をもっと上げる、ということです。目標を上げ、手段も強力にする。これをセットでやっていく。
竹山さん:目標さえ上げれば達成できるものなのでしょうか? それに向けて進んでいくものなのですか?
児玉さん:それに向けて金融緩和をもっとやれ、という話ですね。できないのなら責任をとりなさい、ということです。
外山アナ:でも物価が上がっちゃうと消費者はこまりますよね?
片岡さん:今はデフレですし、物価上昇率が2〜3%ということになれば、失業率は確実に下がります。需要が供給よりもちょこっと高いぐらいのほうが、人もたくさん雇用できるし、経済がよく回っていきます。なぜそうなのかというと、黙っていても技術革新はすすむからなんですね。思い切って均して言ってしまうと、私たちは毎年2%くらいづつ労働生産性を上昇させていますので、その分人がいらなくなるのです。なのでその分の需要が増えて物価がそれに応えていく形にならないと、雇用も維持できないし、賃金も維持できなくなるのです。 で、今の状況というのは、マイナス1%直前のデフレなのですが、これを維持することは結局、人がいらない状況を維持するということになります。 なので、2、3%のマイルドインフレを維持するのが望ましい、と言えるのです。
外山アナ:では日銀の言う、消費者物価指数が前年比で1%になるまで強力な金融緩和を進めていくっていうのは、大して強力じゃないってことなんですか?
片岡さん:もっと物価上昇率を上げた方がいいですね。
児玉さん:ただね、物価って言うのはそんなに簡単にコントロールできるのか、という疑念もあるんです。日銀の資産がそうとう肥大化しておかしくなっている、とみんなが思い始めると、日銀に対する信用が急速に悪化する、ということを言っている人もいます。 もう一点あって、今度の金融緩和の話は、景気対策でありデフレ対策なわけですが、そこで日銀にばかり焦点があたってしまっています。それは、政府が財政出動をして景気を浮揚させることもできるわけですが、今までそれをさんざんやってきて、赤字国債がたまってきて、もうお金は使えないという状況にあるからです。政府として何かやらなくちゃいけないんだけど、その手段がないので、日銀にばかり対策を押しつけているのです。
片岡さん:あのー、もともと日銀法という法律がありまして、そこで日銀は物価を安定化させるという責務が定められています。なので物価が安定化していない、つまりデフレであることの最大の責任者は日銀なのです。そして、デフレがずうっと継続しているのですから、日銀の仕事は上手く行っていない。政府は日銀の監督者なわけですから、日銀にどのような政策をさせるか、という議論は当然あるわけです。そこで今回、財務大臣と経済再生担当大臣と日本銀行の連名で、デフレ脱却を目指すという共同文書が作られたわけです。
児玉さん:ただね、日銀の中にある考え方としては、市場に資金需要がないところにお金を出しても、実体経済の刺激にはならない、というものがあります。
片岡さん:馬を水辺に連れて行くことはできても、馬に水を飲ませることはできない、というやつですね。
児玉さん:反応するのは金融マーケットだけだ、ということです。
片岡さん:それは通常の状態ならそうだ、ということですね。デフレではない状態の資金需要と資金供給の話と、デフレ下での資金需要と資金供給の話は別であることを理解しなくてはいけません。
竹山さん:日銀さんがそれを理解してくれなきゃ困りますよね。
片岡さん:そうですね。1930年代の大恐慌のときにものすごいデフレになりましたが、このときにFRBはリアルビル・ドクトリン(真正手形説)という考え方をしていて、これがまさに、貨幣需要がないと資金供給はできない、という考え方なのです。そしてFRBがそのような考え方だったからこそ、デフレになっちゃったんです。なので今ではFRBは、過去の教訓に基づいて、二度とそのような考えで金融政策を行わない、と主張しています。 しかし日銀は、貨幣需要がなければお金は刷らないと言っているわけです。業界ではこれを日銀理論なんて呼んだりしていますが、馬に水を与えても馬が飲まなければ意味はない、というわけですね。まずそもそも水が足りないのですが、この考え方が間違っているということは昔の経験からハッキリしているんですね。だからまず緩和を実行することが大事です。
児玉さん:お金さえ刷れば全てハッピーになると言っている人が結構いるんですが、それもどうかなと思います。
片岡さん:そこは実体経済と絡んできますからね。ただやったほうが良い理由はあって、まず当座のお金に困っている人たちが救えるかもしれません。今、日経平均株価は一万円割れが続いていて、下手をすると9千円割れとか7千円台になったりする状況です。例えばリーマンショックの影響を直接に被ったアメリカや欧州でも、日本ほどには株価の低迷が長続きしているところはありません。これが事実です。バブル崩壊直前、89年の大納会のときには3万8千円台でした。そこから三分の一以下の低い水準で推移しているわけです。リーマンショックでアメリカがヒドいことになっているとはいっても、アメリカの株価は今あがり続けています。なのでこの違いを理解する必要があります。
竹山さん:結局金融緩和策として、二ヶ月連続でこの程度のお金──すごい額ではありますが──を出したところで、結論としてはお二人とも、何も変わらない、ということでしょうか?
児玉さん:そうですね。私の場合は、金融政策にばかり注目するのではなくて、もっと他にもやることがあるだろう、という意見です。例えば新しい産業をおこすための規制緩和、イノベーションのためにお金を使う、減税する、そういったいろんなことをやっていって経済を暖めて行くべきだ、と思っています。
片岡さん:そこはおっしゃるとおりだと思います。ただ規制緩和をすると言っても、どういった規制緩和をするのか、という問題があります。日本はかなり規制緩和を進めてきましたから。
児玉さん:農業とか医療など、取り残されている部分があります。これは業界が反対して難しいんです。
片岡さん:しかしそのような政策は、物価を上げるための第一の手段ではない、というところが重要です。まず第一の手段として、日本銀行がお金を刷らなければ、何も解決しません。これをした上で、なおかつ規制緩和などを平行して行っていくことが大事だと思います。


ここでまたリスナーのメールから。「今回で二回目の金融緩和ということですが、私たちの生活には何の変化もありません。一体誰のための金融緩和なのでしょうか?」

片岡さん:最終的には私たち一般市民の経済が良くなっていくんですが、一番最初はマーケットです。ここのデフレ予想をインフレ予想に転換していく必要があるわけです。具体的には株価が上がったり、為替レートが円安になってきたり、債券の価格が上がったりして、銀行が国債という形で資産を塩漬けにするのではなくて、危険資産にお金を投資するような形に持って行く必要があります。そうすると、株価が上がるので株を持っている人には資産効果という影響があって消費を増やすでしょうし、予想されるインフレ率が上がればお金を借りるときに、額面の金利よりも借りるコストが安くなるので投資をしやすくなります。これを実質コストが下がる、と言います。そうなってくると需要がでてくる。今一部の大企業などは、借り入れではなくて自己資金で投資をしていますが、需要が出てくると、それだけでは足りなくなってきます。もっともっと生産するためにお金を借りる必要が出てきます。そうして資金需要が出てくるのです。なので、即座に資金需要が起こるということではなくて、資産市場を経由して、それが実体経済に波及する、つまり、GDPが増えるとか需要が増えるという形で波及してから、はじめて貸し出しの需要が起こります。そうすると、国債の名目の金利が上がってきます。そうなれば、日本銀行も、金利を上げないと実体経済が加熱しすぎてしまう、としてそこで初めて金利をあげることが可能なのです。これが正常化の過程です。
児玉さん:小泉内閣のときにそれを目指したわけですが、それで起きたことと言えば、結局円が下がってデフレ脱却に近づいたのですが、途中で息切れしてしまいました。様々な産業に影響が及ぶように全体を暖めていく必要があったんですね。
片岡さん:財政政策をもっとやるべきだったかもしれませんね。ただ別の考え方もあります。日本銀行が2006年の3月に量的緩和を解除していますが、そのときは消費者物価指数が0%を3ヶ月間上回っていました。消費者物価指数という統計は、1%弱程度上ぶれする数値です。ですから1%を越えると、そこでようやく0%を越える、というふうに考えられています。そのように統計上の誤差があり、0%程度ではデフレ脱却とは言えない、という議論があったわけですが、結果的に早すぎる引き締めを行ってしまった、これが失敗としてあるわけです。 2006年、2007年というのは、世界経済も好調で、外需という追い風がありました。その追い風のなかで金融緩和を行っていたので、好調なアメリカが容認してくれたこともあり、円安が進みました。なので輸出も増えましたし、それに沿うように設備投資も増えました。なのでそのときにデフレから本格的に脱却できていれば、その投資の成果として得たお金は賃金に還元され、消費にまわるはずでした。しかしそうなる前に、量的緩和をやめてしまったわけです。0%達したからもういいだろう、とか、早く金利を上げたい、ということもあって解除してしまったのです。
外山アナ:失敗しちゃったわけですよね。そういう反省材料があるのに、二ヶ月連続緩和は9年半ぶりだ! とか言っててこれでホントに大丈夫なのかな、と思うのですが、ホントにデフレ脱却しようとしているのでしょうか?
片岡さん:私もそこは疑問に思いますね。例えば白川総裁が2月14日におっしゃったように、1%を目途に金融緩和をしていくという発言も、その時点では総裁任期が切れるまで一年以上ありますから、一年間しつこく緩和を続けていれば、マーケットだってその言葉を信じたでしょう。しかし実際には、ちょっとやったら効果を検証しますと言って一回休み、また緩和しますと言ってまた休む。政府に突っつかれたら渋々緩和している、という風に見えてしまうのです。
児玉さん:日銀のパフォーマンスが良くないのも事実ですよね。アナウンスメント効果といいますが、それがとても弱い。しかし、マーケットというのは気まぐれですし、相手のいることでもあります。日本が金融緩和したとしても、アメリカやヨーロッパが金融緩和をすれば、相殺されてしまいます。
片岡さん:それは為替の話ですよね。インフレ、デフレというのは国内の問題なので、緩和を行えば国内の投資や株価には着実に反映されます。確かに為替にも影響はありますが、それは緩和をやらない理由にはなりません。
竹山さん:ということは、マスコミは2ヶ月連続だと大騒ぎしていますし、こうやってこの番組でもテーマにしてますけど、実はそんな大したことでもなんでもなくて、極端に言うとポーズにすぎなくて、野田首相が経済もしっかりやらなきゃいけないとこの間表明したこともあり、政府が日銀をせっついただけだ、と。で、日銀が面倒くさがりながら、影響が出ない程度にやった、そう考えても間違いでもない、とそういうことですか?
児玉さん:そうですね。
片岡さん:ですね。端的に言うと「できない集」を作っているということです。
外山アナ:10兆、11兆なんて日銀にとってはへでもないってことですか?
片岡さん:そうです。
竹山さん:へでもないし、経済にとってもどうしようもない程度だと。
片岡さん:これ実は二回連続じゃないんですよね。正確には10月は上旬にも一度政策決定会合があって、そのときは緩和を見送っていますから。二ヶ月連続ではあるんですけど、二回連続じゃないんです。細かい話ですが。で、二ヶ月連続ということでこれだけ報道がなされるんですから、次の月も、その次の月も緩和して大きく報道されれば、日銀がようやく本気になってきたと信じてもらえるかもしれませんね。
外山アナ:ちょびちょびやっててもだめなんですか?
片岡さん:小出しにやってても意味はないでしょう。一回やって休んで、また一回やって二回休むという逐次投入をやっていると、なかなか信じてもらえないんですよね。
外山アナ:続けないと意味がないんですね。
片岡さん:そうです。目標を決めているわけですからね。1%を目途と決めているんですからそれを達成するように続けなくちゃいけない。
竹山さん:もしずっとやっていれば、言い方は悪いけど、国民がその気になるというか、だまされるというわけじゃないけど、政府と日銀が経済を良くしようとしてるじゃん、と国民が思いこんでホントに良くなっていくという効果もあるんじゃないですか?
片岡さん:ありますね。株価が上がればそういう雰囲気になるでしょう。
外山アナ:10回で10兆づつ出すのと、1回で100兆出すのとどっちがいいんですか?
片岡さん:それは難しいですね。1回で100兆だしても、次もまだ出しますよ、という緩和の姿勢を続けることが大事なんですね。つまりスタンスを明確にすることが大切なのです。なので、一回やって一回お休み、一回やって二回お休みなんてことをして、その理由を総裁がちゃんと人々が納得する形で説明しないのが良くないのです。外国人の投資家というのは、日本銀行のスタンスを見ています。だから日銀がマジになったというのがハッキリしないと、なかなか株とか債券など、予想によって支配される市場は上向きになってきません。
児玉さん:マーケットが意外に思うこと、驚くようなことを続けてやらなくちゃいけないという話ですね。だけど、マーケットが喜べば株価が上がるというのは、本当なんだろうかという疑問もあります。際限なくやるといってもモノには限度というものがあります。
片岡さん:例えば、わが国の国債を全部日銀が買い取ってもインフレにならないのであれば、無税国家になってしまいますよね。税金を使わず、しかも財政赤字を気にせず、無限に国債を発行することが出来てしまうわけですから。こんなハッピーなことはない。でも実際にはそんなことはあり得ませんね。
児玉さん:しかし第二次大戦中に日本は似たようなことをやったわけです。戦時国債をだして、それを日銀がどんどん引き受けていく。そうして戦争に負けて、生産設備が無くなってしまい、赤字だけが残され、大インフレが起きました。国民の資産が無くなってしまったという経験をしたわけです。なので、モノには限度ってもんがあるんですよ。
片岡さん:もちろんそうです。だからこそ、物価上昇率の1%という目途を決めたわけですよ。インフレターゲットを導入して財政破綻した国はありませんしね。
児玉さん:インフレターゲットというのは、インフレ率が高い国が、低く安定させるためにはじめたものですから、逆のパターンってあまりないんですよ。
片岡さん:いえ、いくらでもありますよ。決して前例のないことではないんです。なのでやるかやならないかだけです。
外山アナ:結局二ヶ月連続で終わって、今度は消費税も上がったりしたらたまったもんじゃないですね、国民としては。
片岡さん:そうですね。政府が出来ることで重要なのは、10月末に発表された日銀の展望レポートによれば、2014年の実質GDP成長率は消費税増税の影響込みで0.6%ぐらいとされています。そこまで落ち込む、という予想をたてています。このような状況であれば、増税は一旦オシャカにして、公共事業、金融緩和を使って政府と日銀はデフレ脱却の歩調を整えるべきだ、という話も出てくるでしょう。
竹山さん:政治的にみると、野田政権は長くとも来年の夏までです。日銀の総裁は春で任期満了です。苦しい状況に置かれている人がいるわけですから、経済的には急がなくてはいけないと思うのですが、今何かをして、来年の夏までに大きく変わっていくモノなのでしょうか? 早く新政権を樹立して、そちらでやったほうがいいんでしょうか? 今野田さんがやっても政権が変わってまた一からなんでしょうか?
児玉さん:今の政権が経済対策をやろうと思っても、参院でねじれていますから、なかなかできないでしょう。なので先日の経済対策で出てきたのは、災害等のための予備費を7000億程度使うという話でした。実体的に意味のある話ではないと思います。だから政治状況がこのようであるというのも、日本の不況を長引かせることにつながっていると思います。なので、政治状況を刷新して、世の中の気分を変えるのも一つの手でしょうね。
片岡さん:そうですね。政権を変えるときに日本銀行のスタンスを変えるのもいいでしょう。しかし、政府に非があるから、日本の中央銀行は今のままでも良いのかといえば、それは良くないと思います。オバマ政権は危機が起こった直後は急激に公共事業を増やしましたが、それ以降はほとんど出来ていません。そんななかで2%台の経済成長をなんとか達成できているのは、FRBが金融緩和をしているからです。これがなければアメリカ経済はおかしくなっていたでしょう。
児玉さん:ちょっと心配なのは、アメリカも財政赤字が増えてしまって、財政の崖問題、財政支出を減らそうという動きが出てきています。ヨーロッパの債務危機もギリシャがまた怪しくなってきています。つまりこの先どうなるかわからない、先行きがすごく不透明なんですね。
片岡さん:財政の崖については、政治的に決着するのではないかと思っています。欧州のほうは、これは年中行事ですから、年末になるたびに大変だーとなってずるずる悪くなっていく、これが繰り返されてきました。
児玉さん:もう一つは、中国の高度成長がどうも終わりそうだ、という点です。新興国頼みも無理かな、という状況です。
片岡さん:なので余計国内の対処が重要ですね。
児玉さん:そこを金融政策だけでやるというのが私には疑問です。いろいろやらなきゃいけないと思います。
竹山さん:お時間ですのでまとめたいと思います。二ヶ月連続の金融緩和というのは、10兆円、11兆円と打ち出されたわけですが、これはあまり効果はない、ということですね?
片岡さん:そうですね。まだまだ足りません。
外山アナ:およそ九年半ぶりです! みたいな報道なのに。
竹山さん:そういう報道があるので勝手にスゴい!と思っちゃってるんですよね。新聞でも一面ででてますし。
外山アナ:大したこと無いんですね。
片岡さん:今までやってませんからスゴいことではあると思いますよ。もっとやったほうがいいですけど。
竹山さん:逆になぜ今までやってないんだっていう。
外山アナ:今日は、「日銀が二ヶ月連続の金融緩和。デフレ脱却、景気回復のシナリオとは」ということで、毎日新聞紙面審査委員の児玉平生さん、そして三菱UFJリサーチ&コンサルティング主任研究員の片岡剛士さんをお迎えしてお送りして参りました。ありがとうございました。
児玉さん:ありがとうございました。
片岡さん:ありがとうございました。

 おつかれさまでした。さて、そうして日本はもう15年以上もデフレなのです。この間に失われたものを数え上げたってキリがないほどの停滞です。なのに放送中、児玉さんが案の定、「資金需要がないなかで緩和しても…」という真正手形説をもちだしたときは、充分に予期していたこととはいえ、ちょっと残念な感じがしましたね。まだその話してるの? という。そりゃあ、新しい論点がホイホイ出てくるとは思ってませんけど、児玉さんの論点が平気であっちこっちに飛んでいってることもあり、緩和策の何に反対しているのか、お考えがあまりよくわかりませんでした。大メディアのみなさんには、リフレ政策に関する議論が10年以上という時間をかけてしっかり積み上げられてきたことを直視して欲しいですね。

 しかしそれでも、思ったよりも毎日新聞っぽくないなあ、とも思いました。てっきり元朝日新聞の記者さんみたいに「安倍総裁は金融右翼だ!」とか言うのかと思った。(参照) そういえば戦前、新平価解禁四人組は逮捕! とか書いてたのも朝日新聞だそうですね。

 一方で、番組としては台本通りなのかな、とも思うのです。児玉さんが俗説を取り上げて、片岡さんがそれを否定していくという構成だったのかも知れません。でもそうだとすると児玉さんの印象がちょいと悪すぎるので、是非一言、今回はこういう構成で行きますって言っておいて欲しかったです。いや違うならいいんですけど。

 現在は安倍自民党総裁が言明したリフレ政策がヤフーのトップにニュースとして載る時代です。思えば僕がリフレ政策の存在を知ったのはもう8年前ですから、ここ数週間の動きには隔世の感を覚えますね。同時に、安倍総裁の案に対する反論が、今まで幾度となく否定されてきた日銀理論の焼き直しでしかないことに虚しさも感じます。「独裁政権」なんて批判がありましたが、結局印象論かよ、と。(参照) とはいえ、日銀がこれ程までに国民の注目を集めてしまったのだから、日銀の栄華もここまでなんだろうと思います。90年代後半から不気味なまでに効果的な情報戦略を実践してきた日銀がこのまま大人しく引っ込むのか、そこがこれからの見所でしょうかね。日銀法改正と引き換えになにか要求してきそうな気もしますが、折り悪く白川日銀総裁も任期切れ間近で、何かと組織としてまとまりにくそうです。

 ちなみにDigでは、11月の20日の放送でも片岡剛士さんが登場しています。これは27日まではダウンロードできると思いますので、是非どうぞ。

2012年6月28日木曜日

[訳してみた]なぜまともな人に仕事がないのか

『なぜまともな人に仕事がないのか』という本の著者のインタビュー記事がとてもおもしろかったので、訳してみました。もとサイトはペンシルバニア大学ウォートン校のものです。えー、ちなみに本は読んでません。iPhoneのkindleアプリでも積ん読ってできるんですね、知らなかったなー(棒) ま、そのうち読むかもしれません。

 さて著者は経営学の教授さんだそうで、その人が書いた『なぜまともな人に仕事がないのか』なのですから、これはもう嫌な予感しかしないわけです。国際競争力ガー、生産性ガーという話なんじゃないの? やだよ、そんなの。というのが経済学関連書を読む現代日本人の正しい反応というものでしょう。

 あに図らんや、おとうと図るや、このピーター・カペリ教授、失業者が増えた理由の第一を、そもそも仕事が少なからだ、と言明しております。ということでどうかご安心ください。

 日本でも雇用のミスマッチとよく言われるけれど、アメリカでも同様なようで、カペリ先生、そこに噛み付いています。それは企業側の言い分に過ぎないし、現実に起きていることとはちがう。企業が人々に押し付けている雇用プロセスが本当に効果を発揮しているのか、それを検証する責任が企業にはあるのだ、とのこと。他に、空きポストを放置するコスト、報道に対する批判、などが話題になっています。

 これは日本でもいえますね。若い人の就職活動があまりに迂遠で、求職者の負担ばかり大きく、しかも本当に企業が欲している人材を選別できているのかどうかもわからない。これでは無責任と言われてもしかたがないでしょう。

 では以下本文をどうぞ。

 原文はKnowledge@Whartonの"Why Good People Can't Get Jobs: Chasing After the 'Purple Squirrel'"です。(リンク

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(翻訳はじめ)


なぜまともな人に仕事がないのか:むらさき色のリスを追い回すコスト


 ペンシルバニア大学ウォートン校のピーター・カペリ教授(経営学)の新著、『なぜまともな人に仕事がないのか 技能のミスマッチと企業にできること(Why Good People Can't Get Jobs: The Skills Gap and What Companies Can Do About It)』が、今日労働に関わるすべての人々、雇用主、労働者、リクルーター、そしてアカデミズムとメディアの間で話題になっています。カペリ教授は、雇用主サイドから繰り返し発せられる、求職者に充分な技能が備わっていないという議論の誤りを指摘しています。そして教授は、むしろ責めを負っているのは企業側であり──雇用とトレーニングのコストについてきちんと情報を集めていない、というのがその一点です──、さらに、応募者をコンピュータで管理するシステムが、求めている人材を見つけやすくするどころか、逆に見つけにくくしている、と主張しています。

 カペリ教授は、ウォートン校の人材センターの長でもあります。今日は当サイトの記者と共に、新著について語ってもらいました。以下はその模様です。
記 者:ピーターさん、お時間をいただきましてありがとうございます。さて、この本では実に幅広い議論が展開されていますが、その中の一つに、不況と冷え切った労働市場のもとで、企業は巨大な求職者予備軍を相手によりどりみどりといった状況になり、雇用の際により厳しく選別するようになっている、というテーマがありますね。しかしそれでも、満足な技能を備えた求職者が見つからない、と言い放つ企業もあるわけです。このことについてお聞かせください。
ピーター・カペリ:まずすべてのプロセスを雇用主がコントロールしていることを理解しておきましょう。雇用主側が仕事の定義をし、応募条件を作り、募集の文言を決めているのです。給与の水準を定めて、どの程度おいしい仕事なのかをわかるようにしておき、その後に、選別に取りかかるわけですね。そこで応募者の情報に目を通し、より分けていきます。
 何よりハッキリしているのは、現在、シンプルに仕事が足りていない、ということです。だから雇用主がえり好みができる状態であるのは間違いありません。しかしえり好みすることをここで問題として扱う気はありません。雇用主側が見極めに時間をかけて、いざ雇う段階までなかなか進まないのは、べつにことさら驚くことでもありませんよね。なんといっても見極めるべき求職者の数が多いのですから。こんなに長い行列ができているのですから、最初の一人を採用する必要なんてないでしょう? 不自然な、そして誰から見ても良くない点はそこではなくて、「いや、雇い渋っているんじゃなくて、雇いたいと思う人があらわれないので、ずうっと雇っていないんだ」という雇用主の存在なのです。この問題の答えを出すにはまず、雇用のプロセス上すべての決定を、他ならぬ雇用主側が行っているというところから始める必要があると思います。では、このような雇用主というのは、なにか間違ったことをしていると言えるのでしょうか?
記 者:それはそうでしょう。だって仕事を探している人の存在と、雇用主側の意に満たない人しかいないという主張はマッチしてませんからね。教授が提示した問題の一つに、「ホームデポ(訳注:住宅工具の大型チェーン店)」流の雇用プロセスというのがありました。これは、雇用をまるで食洗機の部品交換のように行うもので、空いた仕事を壊れた部品と見なして、部品を食洗機にはめ込むように新しく来た人を仕事につかせておしまい、というやり方です。しかし一方で、仕事のポストを無理に埋める必要はない、今いる社員で回せばいい、と感じている企業があります。こういった企業は、空きポストが多すぎることで本業に支障がでる日がくることを理解していません──いえ、本業でなくても、会社の成長、利益率の向上、競争力でも言えることです。これも問題の一つではないですか? 雇用を遅らせる企業と、その見えないコストを理解せずにそうしている企業です。
カペリ:はい、間違いなくそこが問題なのです──ほとんどの組織の内部で行われている会計システムは、空きポストを維持するコストについては何も教えてくれません。会計システムは、誰かを雇い入れるコストは簡単に教えてくれるのですが、社員の貢献を計ることはできないのです。なので、たいていの企業では、会計システムの教えからいって、空きポストを維持することでお金を節約しているように見えてしまっているのです。会計システムを信じる限り、急いで人を雇う必要なんてどこにもないのです。問題はここから始まっていると、私は考えています。これは明らかに、社会にとっても雇用主にとっても良くないことです。しかし問題は雇用主である企業の内側から生まれているのです。会計システムが、人を雇わないように仕向けているのですから。
記 者:教授はまた、企業が市場価格の給与を支払っていない事も問題視しています。企業側は労働市場に向けて、とりあえずきわどい球を投げてきているようです。しかし、人を安く雇えるときに、どうして市場価格を支払わなくてはいけないのでしょう?
カペリ:いや実は支払いたくても支払えないんですよ──というのが企業側の言い分ですよね? マンパワー社による調査がありまして、雇用主に雇いたい人材が見つからずに困っているかどうかを聞いています。その調査では、だいたい11%の雇用主が、問題は雇用主側が提示する給与で仕事を引き受けてくれる人がいないこと、と答えています。つまり11%が、給与を充分に支払っていないと認めているわけです。11%が認めたという事は、実際にはこの倍はあると思います。人は自分自身が生み出している問題には鈍感なものです。ですから認めたのはほんの一部なのでしょう。まあ、とりあえず低めのきわどい球を投げるのは責めないとしても、その上で人材が見つからないと言うのであれば、それは技能のミスマッチと呼んではいけません。求める技能と持っている技能のミスマッチなどではなくて、単に渋ちんなだけです。
記 者:この本には「ミスマッチなのは技能ではなくてトレーニング」という章があります。そこでは1979年のデータが載っていて、その当時の若者は平均で、年に二週間半の期間、トレーニングを受けていたとあります。それが1991年になると、前の年に何らかのトレーニングを受けた若い労働者は、わずか17%になってしまっています。過去五年以内にトレーニングを受けた、という人でも21%しかいませんでした。教授は、徒弟制のような、仕事をしながらトレーニングをしていく仕組みが特に崩れていると指摘しています。では、現在の社員や将来の雇用のためにトレーニングを行う仕組みを整備していく、そういう努力が企業側に不足していることが、「技能のミスマッチ」とよばれるものの大部分を引き起こしている、ということなのでしょうか?
カペリ:そうです。特に政策に携わる人たちの間でよく言われることですが、学校がダメなせいで、子供たちは必要なだけの学位と知識を持たずに社会に出てきてしまい、雇用主側の意に沿った人材が見あたらない、という説があります。しかし、その雇用主自身のデータを見てみると、雇用主が人材を獲得する際に直面する懸念事項で、学問的な技能が大きな話題になったことなど一度もありません。現に、雇用主側の求職者に対する注文は、私が調べているこの30年間ぐらいほとんど変わっていないのです。そしてその注文というのは、端的に言って、いつの時代であっても老人が若者に対して抱く思いと同じなのです──若い奴には勤勉さが足らん、職場での態度がなっとらん、仕事はもっと一生懸命やるものだ、こういったことです。実のところ企業側は、学校を出たての若者なんかぜんぜん探していないのです。雇用主が何を求めているのか調べてみれば、それは結局経験です──どの企業も、3年から5年くらいの経験を持った人を探し回っています。企業が本当に求めている技能は教室では学べないもので、その仕事をしながらでしか学べないのです。ですから、応募要件が浮き世離れしているのはたいてい、企業が、今現在別の会社でまったく同じ仕事をしている誰かを探し回っているせいなのです。そしてこれが、雇用主が今現在失業中の応募者に会いたくない理由でもあるんですよね…。募集しているその仕事にすでに就いている人を探してるんです。問題は、学校を出たてで経験の無い人にその仕事を与えようという人がいないことです。以前にその仕事をやったことが無い人を採用し、トレーニングを授けようという人がいないのです。
 すでにトレーニングを受けている人を雇った企業を見れば、楽なほうを選んだな、とその気持を理解することはできます──少なくとも、そっちのほうが楽に見えたのでしょう。しかしそうすることで同時に、誰もが入門者を避けるわけですから、技能ミスマッチ問題を生み出してもいるのです。そしてやはり多くのケースで、水準に達している人──特殊な技能はのぞきますが──を採用し、トレーニングするのは、様々な面で充分に引き合うのです。トレーニング期間の給与は低めにしておけますし、雇う前に技能のいくつかは身につけてくることを条件にしたって別に構わないのですから。しかし会計システムがあるために、雇用主の大多数は、人をトレーニングするコストについて何も知らないままでいるのです。すでに仕事についている人を追い回して雇い入れることで、本当にお金が節約できているのか、ぜんぜん見当もつかないのです。
記 者:教授のこの本は、キャッチ22状態(訳注:自縄自縛の堂々巡り)で満たされていると言えるのではないでしょうか。雇用主は、社員が会社を辞めてしまうことを恐れているので、トレーニングを授けたくない──確かに労働者はますます企業を辞めやすくなっていますし──、そうなればトレーニングの費用がすべて無駄になってしまうわけですからね。しかしこれは同時に、すでにトレーニングを受けた求職者の数がますます少なくなって、見つけづらくなることも意味しています。どうも手詰まりな印象がありますね。
カペリ:そしてこれは労働者にとってもキャッチ22状態なのです──その仕事の経験が無いために、最初の一歩を踏み出すことさえできないのです。重要なことですが、雇用主側は、以前はずっとこのようなトレーニングを行ってきたんです。トレーニングを行い、さらに利益を出す方法があったのです。徒弟制がその例ですが、弟子をとるというのはずっと、働きながら学ぶ有力なアプローチでした。医師を育成する方法も同じです。コンサルタントや会計士を育てる方法もまったく同じです。こういった会社──会計事務所やコンサルティング企業は、事実上すべての社員が5年以内で辞めていきます。しかしそういったやり方のなかで、人々は働きながら学んでいるのです。つまり、そういった業界では人々はトレーニングを受けているのです。会社はそれでも、全員が学びながら働いているにも関わらず、そんな社員を使ってお金儲けができているのです。これに近いことを多くの企業で実施できるかどうかなんてすぐに見当がつきそうなものですが、「ウチでは無理だね」という脊髄反射的な答えが返ってくるのです。
記 者:無職の応募者が差別される理由がたくさんある、と指摘してらっしゃいます。企業側は、そういった応募者の技能が時代遅れになっているとか、高齢すぎると感じているのかもしれません。連邦政府が差別を禁止するという手段をのぞいて、この問題を回避する方法はあるのでしょうか? 政府による禁止が上手く機能することはまずないでしょうから。
カペリ:高齢の労働者の問題は特に重要です。というのも、高齢の労働者というのは普通、企業側が雇用の際に求めるものをすべて持っているからです──仕事への姿勢、経験、準備期間も育成期間も必要がない、または少ない、などです。しかしそれでも、高齢の労働者に対する差別はありふれています。禁止する法律はありますが、実行力はありません。
 問題は、雇用主側が、自分たちの利害を自己診断しているところから始まっていると思います。皮肉なことですが。私は何も、雇用主は一心に社会の為に何かを行うべきだ、と言っているのではありません。今企業が行っていること、つまり、すでにどこか別の会社に雇われている人々という小さなグループを追い回す行為が、そもそも企業自身の利害に一致していない、と言っているのです。人をトレーニングすることは理にかなっていますし、人にチャンスを与えることも理にかなっているのです。空きポストを本気で埋める為に、応募条件をもっと現実的なものにするのも、やっぱり理にかなっているのです。なので一番の難問はこれなのです。企業側が、自分の利害に沿って行動していない、という点です。ではどうしたら、企業はもっと上手く立ち回れるのでしょうか? 外部の人に手伝ってもらうことも可能でしょうね。常によその会社の人材を追い求めることがどれほど高くつくか、ということを学者とかに指摘してもらえば良いのです。たとえば、本校の同僚にマシュー・ビドウェル教授がいるのですが、彼が実に興味深い研究を行っています。よその会社から人を雇った場合と、生え抜きの人の場合を比較しているのです。すると、生え抜きの人のほうが、コストの面でも生産性の面でも優れていました──これはよその会社にいた人は絶対に雇うべきではない、という意味ではありません。そうではなくて、会社の内部で成長させていくことは、間違いなく引き合う、ということなのです。なので、雇用主側はまず、情報をしっかり集めるところから始めるべきだと考えます。皮肉なのは、そのほかの業務については、たとえば仕入先の質や在庫を抱えるコストなんかについては、詳細な情報を持っているのです。それが人事となると、何も分からなくなってしまっているんですね。
記 者:近頃では、典型的な企業の人事部の役割が効率化、省力化されてきていて、雇用のプロセスの中で重要性を失っているのではないでしょうか?
カペリ:この20年間にわたり、人事部は骨抜きにされ続けてきたという面があると思います。特に不況時にはリストラが行われますし、人事部は狙われやすいですよね。トレーニングを担当する部門は、もうほとんどの企業から姿を消しています。また、新人を発掘する様々な機能も同様に失われてしまいました。昔でしたら、求人を出す際、職務の内容などは人事部に相談して作っていました。人事部の人はそのためにいたのですし、もし応募条件が浮き世離れしていたり、労働市場とズレまくっていたら、その人が止めてくれていたのです。それが今ではそんな人はいなくなってしまった。そして基本的に、今時の「ほしいものリスト」式の応募条件は、応募者管理ソフトで作られています。実際の応募者が生きた人間の目に触れるのは、雇用プロセスの最終段階だけです。つまり、私たちは雇用プロセスの自動化を進めてすぎているのです。自動化それ自体に問題はありません、結局応募者をふるいにかける必要はあるんですから。しかし、プロセスから人間も一緒に排除しようというのは、重要な決定を機械に一任してしまうことなのです。人間による判断がやっぱりとても重要です。
記 者:さらに、多くの求職者が、管理ソフトの裏をかく術を身につけてきています。たとえば、履歴書や経歴書などにキーワードを忍ばせておく、といったことです。ソフトウェアによる管理がますます洗練されているように見える一方、抜け穴もあるわけですね。
カペリ:そうです。そこが大変重要なポイントです。ソフトの裏をかける人は応募プロセスの先に進みますから、会社側も面接で直に接触できます。しかし、そうでない人とは出会うこともないのです。果たして雇用主側は、本当にそんな人を雇いたいのでしょうか? 制度の裏をかくような人物ですよ? そのこと自体が、どんな人物であるかを物語っている、とも言えるでしょう。しかし求めていた技能については何の情報も得られません。
記 者:性格や自己を律する能力といったことはほとんど分からないですよね。
カペリ:それこそ雇用主側が求めている情報なんですけどね。
記 者:教授はまた、「熟練の労働者が見つからず企業困惑」といった見出しで記事を書く傾向があるとして、新聞メディアの責任も指摘しています。「求人、夢見がちなのは企業側」なんて記事は書かないんですね。とはいえ、メディアがそう簡単に変わることはないでしょう。連中がより分析的になり、深層をえぐるようになるとは思えません。そこで、メディアの情報から事実だけを手に入れるにはどうしたらよいのでしょう?
カペリ:まあそれが私にとっての大問題でした──それがこの本を書いた動機の一つでもあるのです。新聞を開けば、あふれんばかりの逸話、事例が載っていますよね。そして国政の場、ワシントンに行けば、本当に多くの人がそういった個別の逸話や事例を思い思いに選び出し、それが我が国の経済全体で起きている現象なんだと思いこんでいるのです。基本的に、私がこの『なぜまともな人に仕事がないのか』でやったことは、ある程度まとまった量の、現実のデータを調べることです。そしてデータを見れば、新聞に載っているような逸話がどれも真実ではないことが分かるはずです。たとえば、雇用主側が新聞が伝える通りの行動をしていないことなんかが分かります。新聞記者の方々が、ほんの二三でいいので質問をぶつけてくれればいいのに、と思います。雇用主側が、技能の面でミスマッチがあって、求める水準に達する応募者がいない、と言うとき、彼らは単に、状況を自己診断しているだけなのです。しかし実際に起きているのは、単に企業が人を雇えずにいて、その理由は分からない、ということでしょう? ミスマッチ云々というのは雇用主側がそう言っているというだけなのです。これはただ単に、雇用主側が出した応募条件がクレイジーな代物だとか、給与が低すぎるとか、ふるいの目が細かすぎて誰も通れなかっただけなのに、雇いたくなる人材がいないんだ、と言っているわけです。
記 者:この本の中に、どの世代も重大な技術革新を経験していると感じてきた、という箇所があって、面白く思いました。考えてみれば、電力、電話、自動車すべてが10年のうちに広く使えるようになった時代もあったのですね。しかし、現在の、何でもコンピューターが動かす私たちの時代の変化の大きさでさえ、以前の変化と特に変わらないという教授の指摘は、ちょっと信じられないのです。現在の医療、ナノテクノロジー、ロボット工学の変化はすごいですから。
カペリ:ここでの真の疑問は、雇用のミスマッチが発生するほど、技能の要求水準を高めるような事態が起きているのか、ということです。ご存知のように、いつの時代にも新しいテクノロジーを身につけなくては就けない仕事があります。そしてそうでない仕事もあるのです。合衆国の全仕事を並べてみれば、増えていくものもあれば、少なくなっていくのもあるでしょうが、増えているほうには、大きなグループが二つ見つかるはずです。需要に応じて増えている高給の仕事、そして、医療ケア、介護など、給与は低いけれど需要に応じてものすごく増えている仕事です。全部ひっくるめると、(訳注:必要な技術水準は)全体ではあまり大きな変化にはなりません。すべての職業を貫くような構造的な変化は起きていないのです。今時はコンピュータとITがとにかく重要なんだ、というのが私たちの口癖なわけですが、PCがオフィスに登場したのはもう30年から35年前ですよね。社員みんなのデスクにPCが置かれていなかった光景、それをあなたが最後に見たのは何年前でしょうか? 思い出せる人もいるでしょうが、ほとんどの労働者はもうそんな光景を見たことさえないのです。コンピューターはそれくらい長い間利用されてきました。
 私が思うに、私たちは、若い人たちがブラックベリーやiTunesを始終使い倒しているのを見て圧倒されているんじゃないでしょうか。しかし年のいった人だって同じテクノロジーを利用しているじゃないですか。同じ事ですよね? 違うのは、若い人たちは24時間友達としゃべっていて、私たちが友たちと話す時間はもっと短い、という点だけです。なので、テクノロジーが違うのではないのです。若者がテクノロジーを使い倒していることに、私たちの意識が集中してしまっているだけなのです。でも私たちだって使ってはいるのです。
記 者:我が国の新卒は、他国の新卒よりも技術的、質的に劣っているという主張はどうでしょうか。教授はOECDの報告を引いて、合衆国の学生は先進国中でだいたい真ん中あたりであることを示していますね。同時に、たとえばアジアの国々が、教育と職業訓練の面で合衆国に追いついてきているとも書いています。この点で我が国が心配しなくてはいけないことが何かあるのでしょうか。
カペリ:先ほど話題になった説──学校がマズいので技能のミスマッチが起きている説──は本当に強力で、それは我が国では学校がとにかくヒドい状況なんだ、という見方が根付いているからです。しかし平均で見ればそれは事実ではないのです。学校制度はこの20年間で、少しずつ改善を続けてきました。もちろん我が国にはまだ極端にヒドい学校が残ってはいるので、そういった学校がやたらと注目を集めているのです。しかしそれは我が国のほんの一部分にすぎません。すばらしい学校も、ヒドい学校もあるのです。外国と比べてみると、私たちはだいたい真ん中です。そして結構長い間真ん中あたりにいました。
 高校の生徒の学力世界トップ5には、シンガポール、上海、香港が含まれています。競争相手をヨーロッパに絞ってみると、私たちはやっぱり真ん中くらいです。違う点があるといえば、我が国では大学に通う人がよその国よりも多い、というところでしょう。ですから、合衆国の典型的な労働者は、たいていの国に比べて高い教育を受けているのです。我が国の教育はまだ充分ではない、と主張する人たちもいます。でも何をもって充分とするかという議論は、それこそ永遠に続けられますよね。なのでやはり、次のシンプルな点が大事ですね。雇用主側は、応募者の学力について文句なんか言ってない、という点です。そして、特に合衆国で顕著なのですが、労働者や学生たちは、どのような経歴を積めば仕事につけるのか、何を専攻すれば仕事につけるのか、それを見極めようとして身を削っているのです。
 さらに理系が足りない、という説も強力ですね。ここでいう理系というのは、科学、技術、工学、数学です。工学のある種の仕事は、いまでこそ超人手不足ですが、5年前まではぜんぜんそんなことはありませんでした…。なので、工学のある分野に進んだとしても、自分が労働市場に出た年に上手いこと人手不足になるかどうかは賭なのです。もし求人が少ないとなれば、他の分野に進んだ人と同じ問題に直面することになります。しかもそれに加えて、理系の技能はあっという間に時代遅れになってしまうのです。特にIT関連の技術がそうです。
 なので、たとえばコンピューター・プログラマーとしてのキャリアを目指すのは、技能が時代遅れになってしまうという点では、理想的なものとは言えないかもしれません。労働市場に放り出されると、また別の言語を身につける道を見つける必要があります。さらに、数学や科学を専攻した場合だと、そのまま数学や科学の仕事に就くのは至難のワザです。たとえばここ、ペンシルバニア大学を見ても、理系の学生の大部分は、コンサルティング企業や投資銀行に就職していきます。ですから、どこかの産業が数学や生物学の学位を持った人材を大々的に募集したけれど、見つけることができなかった、なんて事態は起きていないのです。
記 者:この本の副題は、「技能のミスマッチと企業にできること」です。この問題の解決策が示唆されています。すでにいくらか触れてらっしゃいますが、この問題を少しでも和らげる方法を二三ご教示くださいますか?
カペリ:もし私が雇用主であれば、まず空きポストを維持することのコストをちゃんと把握しているかどうかを調べますね──実はつい先週、同じ事を経営者さんたちの前で述べたのですが。もちろん、調査にはコストがかかるでしょうけどね。自分でトレーニングを施すコストと、よその会社の社員を追い求めるコスト、どちらが大きいのか、理解しているでしょうか? もしこの疑問の答えを持っているのなら、空きポストにもコストがあることを理解しはじめていることになります。どこかの誰かを永遠に追い求めることを、IT業界ではむらさき色のリス探し、と言います。あまりにユニークで、平均をものすごく上回る、どこまでも完璧な人材、しかし決して見つかることのない人材──そんな人を追っかけるのは、賢いやり方とはいえないでしょう。ですから、きっと私たちは応募条件を修正して、とりあえず空きポストを埋めて、さっさと仕事に取りかかるべきなんですよ。果たして多くの企業は、会計事務所がしているように、そしてかつて職業別労働組合が技能検定という形でおこなっていたように、トレーニングをしながらお金儲けをする方法を見つけることは不可能なのでしょうか? 直感に頼り切りになるのではなく、理にかなったやり方を探すこともできないのでしょうか? 直感は間違うことだってあるのに。今少なくない企業が、トレーニングでは得ることのできないむらさき色のリスが目の前にあらわれるのをひたすら待っているだけです。待つのに忙しいので、人々が普通にがんばるチャンスを用意する暇もないのでしょうか? 別のやり方を検討していきましょう。まったく理にかなっていないのですから。
記 者:最後になりますが、労働者サイドにはどのようなアドバイスがありますか?
カペリ:仕事を探している場合、まず気をつけておかなくてはいけないことは、大局を見れば、仕事が見つからないのはあなた個人の責任ではないということです。単に、仕事を探す人の数に比べ、仕事の数が足りていないのが現状なのです。しかも膨大な数の仕事が不足しています。なので、仕事が見つからなくてもご自分を責めないでください。
 次に、現行の雇用プロセス、特に自動化が進んでいるところをふまえると、ベストなアドバイスは、目新しいものではないのですが、自動化の裏をかけるかどうか、そして、実際の人物に会って応募書類だけでは分からない様々な技能を持っていることを納得してもらえるかどうかを確認しよう、ということですね。さらに、雇用のリスクを小さくしたいと願う人事担当者の気持ちになってみるのが良いでしょう。これは不況でなくても役に立ちます。人事担当者は本当にその仕事をやりたがっている人を見つけたいものなのです。担当者があなたで納得するかどうか、考えてみてください。
記 者:ピーターさん、どうもありがとうございました。

(翻訳おわり)


______________________


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偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
カペリ教授の問題意識は、田中秀臣先生の『偏差値40から良い会社に入る方法』(参照)と共通しているようです。現状は個人の手に負えるものではないけれど、できることもある、といったところでしょうか。

 あと、言い回しについていけなくて途中で投げ出した本で、豊田義博著『就活エリートの迷走』というのがありまして、そこに日本の新卒のみなさんがヤキモキしている、エントリーシート導入の経緯とその結果、みたいな話がありました。導入した企業からすると、エントリーシートで応募者をふるいにかけた結果、本来求めていた人材を逃しているんじゃないかという不安がある、のだそうです。「絶対に通るエントリーシートの書き方」みたいな本もあるようで、雇用のプロセスをカッチリしすぎてしまうと、受験テクニックならぬ就活テクニックを研究するコストが充分引き合ってしまうんでしょう。カペリ教授の指摘そのままですね。

 マクロの経済状況を考えると、ついつい、企業も苦しいからなあ、と思ってしまうのですが、あんまり時流に乗ろうとかしないで基本的なところではぶれないで欲しいですね。我が国でも浮き世離れした求人、「空求人」の問題があります。そして言わずと知れたサービス残業があるわけです。人を雇うという企業活動の基本的なところでお茶目してしまうのなら、景気の良し悪しによらず、批判は受けますよ、そりゃあ。

 マクロで見れば、失業率が高いということはまだまだ賃金が高どまりしているということなのでしょう。だから失業率の改善には賃金の切り下げが有効だ、とこうなるわけです。しかし細かく見れば、一律に賃金が高くなっているわけではありません。仕事の実態以上に高くなっているところと、仕事の実態よりもものすごく低くなっているところがあるわけです。そして後者はたいてい立場の弱いところに集中します。だから、「まだまだ賃金が高い」みたいな情報ばかり流れてしまうと、ただでさえ立場の強い雇用主側の振る舞いに、専門家がお墨付きを与えてしまっているようにも見えてしまう。陰鬱な学問の面目躍如で、ここら辺にも経済学の不人気な理由がある気がしますね。

 とはいえ、我が国が一番に取り組むべきことは、やはり景気が良くないことのはずではあるのです。でもそうして、日銀があんな感じで放置され、就職氷河期を繰り返しすほどの長い不況のなかで、それでも企業が人材不足であると感じているというのだから(参照)、その反省を国民が勝手に雇用プロセスに反映させたって罰はあたらないでしょう。当局が動くのを待っていたって仕方がないですよ。カペリ教授も言うように、人をトレーニングしないコストだってあるんですから。

 特に世代間での賃金差が大きすぎるのは、所得移転という点からも組織の健全さという点からも、そして社会の長期的な安定という点からも好ましくないのですから、もっと堂々と批判していきたいですね。

■ ■ ■

 ついつい完璧を求めてしまうのは人類の通弊でありまして、自分に完璧を求めれば不安と憂鬱で身動きできなくなり、他人に求めれば若い芽をせっせと摘むはめになる。荒唐無稽な空求人は、企業がハローワークにお願いされて渋々だした求人であることが多いようです。でも、だからといってその場のノリで完璧を要求しちゃだめですよ。

2010年4月2日金曜日

戦いは数だよ兄貴!・短め書評・日経BPムック 新しい経済学の教科書

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新しい経済学の教科書
日経BPムック
 ブログ・事務屋稼業でJD-1976さんが紹介されていたので読んでみたのが日経BPムック『新しい経済学の教科書』。

 まず冒頭の1章は経済学の基礎的な考え方(比較優位とかインセンティブとか)から始まり、日本経済、ビジネスと経済学、アジア経済、そして個別の経済問題と、本書が扱っているトピックは幅広い。しかも、というか当たり前だけど、どの記事も経済学の基本的な考え方に沿っているから、とても高度な話題が出てきてもさほど難しく感じないでわかった気になっちゃう。

 僕が個人的にもっともおすすめするのは6章、「気鋭の論客がズバリ切る! 経済問題の最前線」だ。ここでは20人のエコノミストたちが、メディアと景気、就職氷河期の長期的影響、財政再建、金融危機など具体的な問題について短めに解説した文章が集められている。どの記事もこの社会のどこにどのような問題(というか非効率)があるのかを知るのにとても良い記事だが、それ以上にこれだけの数の経済学者たちがどちらの方角を向いているのか一望できてしまうところがとても良い。もちろん彼らが同じ方向を向いているなんてことはありえない。でも、ある種の方向にだけは絶対に向いていないということにすぐに気づくだろう。ドルの支配体制が、とか、日本の社会構造の変化によりメインバンクが、とか、リフレ政策は異端or時代遅れor禁じ手、とか、彼らはそういう話は絶対にしない。

 もしあなたがネット上(や新聞やテレビ)のドラマティックな経済与太話に影響を受けやすい人ならば、本書をお守り代わりとして買うべきだ。そしてアメリカや中国をだしにした経済エンターテイメントや、日本は特殊だ! と言い張るだけの固陋な人々のどこか恫喝めいた決死の逃避行に出くわしたら、素直に本書を開こう。そしてそんな与太を信じるのならば、これだけの数の経済学者を説得しなければならず、そんなことは一生かけても無理だ、ということを思い出そう。

2010年3月31日水曜日

寒かった3月。相変わらずのデフレ。

 さて、寒かった3月も今日で終わって、2010年ももうすぐ4月。そして相変わらずの不況ニッポン。3月26日に発表された2月のCPI(消費者物価指数)はこんな感じ。

 (1) 総合指数は平成17年を100として99.3となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
 (2) 生鮮食品を除く総合指数は99.2となり,前月と同水準。前年同月比は1.2%の下落となった。
 (3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は97.4となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。

総務省統計局のページ

 何度も言われていることだけど、広く知られているとはとても言えないことと言えば、CPIには上方バイアスがあるってことだろう。なんといっても管大臣も知らなかったし。CPIはだいたい1%くらい大きめの数字が出てしまうというクセをもった指標だ。なので、三つのカテゴリーすべてで前年比マイナス2%というのが実情に近い数字だと思われる。つまり絶賛デフレ進行中だ。

 とはいえ、アメリカのコアCPIも前年同月比+1.3%ということなので(参照)、日本だけが苦しいわけでもないけど、日本だけがブッチギリでダメだ。

 デフレがなんでヤバイのかというのも何度も言われてきたことではあるけれど、その理由の一つが、借金が増えてしまうということだ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、例えば今日の1万円でりんごが十個買えたとすると、明日は二十個買えちゃったりするわけだ。これを借金で考えてみると、今日1万円の借金を返すのにりんごを十個売らなければならないとして、明日になると二十個売らなければ返せなくなってしまうということになる。

 責任、責任とかいって景気対策を拒んできた日本だけど、その間、国の借金は不当に増えてしまった。国が借金をして医療費や年金の支払にあてるのはしようのないことだと思えても、何もしないが故に現役世代の負担が増えるのは理不尽極まりない。

 いつの時代も政治力を持っているのは中高年以上の人たちだと思うけど、彼らはその辺のトコロどう考えてるんでしょうか。

追記(2010/April/14):CPIの上方バイアスについて、zajujiのお馬鹿ぶりがあらわに。コメント欄をみてください。

2009年11月26日木曜日

[訳してみた] J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』 目次と口上

目次



訳者の口上


 突然ですが若田部昌澄著、『危機の経済政策』を引用してみます。
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危機の経済政策
若田部昌澄

 しかし何といっても現在最も脚光を浴びているのはケインズ、あるいはケインズ経済学でしょう。「今の時代に頼りにすべき経済学者は一人しかいない。それはケインズだ」とグレゴリー・マンキュー(ハーヴァード大学)は『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムで書きましたし(Mankiw 2008)、2008年ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン(プリンストン大学)も現在は「ケインズの時」であるといいました。またジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学)はケインズ経済学の復活を宣言し、思想的にはリバタリアン(自由至上主義)に分類される人気経済ブロガーのタイラー・コーウェン(ジョージ・メイソン大学)はケインズ『一般理論』のブログ上読書会をはじめました。

[p. 248]
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The End of
Laissez-Faire
&
The Economic
Consequences
of The Peace
John Maynard
Keynes

 じゃあ読んでみましょうと思っても、日本語で手に入りやすいケインズの本って『雇用、利子および貨幣の一般理論』ぐらいですよね。あんなの読めるわけねー。ということでケインズの代表的な作品の中で、僕にもなんとか読める短いヤツを訳してみました。原題はJohn Maynard Keynes "The End of Laissez-Faire" (1926)です。普通『自由放任主義の終焉』と訳されているところを今風な感じに変えてみました。自由放任というと、最終的には立派なオジサンが出てきて責任を取る、みたいなパターナリスティックなイメージがあるので(僕だけかな)。『ケインズ全集 第九巻』に収録されている宮崎義一先生の翻訳を参考にして訳しました。
  

 この作品が書かれた背景を、もう一度『危機の経済政策』から引用しましょう。

 1918年に大戦が終了すると主要各国は金本位制への復帰を模索し、アメリカが先陣を切りました。その復帰(1919年)は旧平価によるものでしたので、その後に激しいデフレ不況(1920-21年不況)が到来しました。しかし、このデフレ不況を乗り切った後に、アメリカでは繁栄の20年代が訪れます。
 他方ドイツをはじめとする中欧諸国ではハイパーインフレーション(1922-23年)が起きます。その収束には、金本位制への新平価復帰が必要とされました。20年代のイギリスはマイルドなデフレが進行し失業率が高止まる停滞期を迎えました。1925年4月に旧平価による金本位制復帰を行いましたが、その是非と平価の設定をめぐっては論争が起きました。安定化論者たちは安定化を阻害する金本位制そのものに懐疑的でした。そして、意図的なデフレ政策を意味する旧平価での復帰には反対でした。しかしこれらの論者は金本位制を完全に廃止する提案にまでは至りませんでした。

[p. 30]
 「マイルドなデフレが進行し失業率が高止まる停滞期」、どこかで聞いたことのあるような話です。この『自己責任主義の終わり』はそんな中書かれた一般の人向けのパンフレットだったそうです。なので経済理論について詳しく語ったものではなくて、いかに政府が積極的に経済の安定を図るべきか(でも社会主義に陥らないようにするにはどうしたらいいか)、について解説したものです。安定化というのは今で言うマクロ経済政策の実施です。放っておけば経済は自然に調整されて回復するから何もするな、という考えに反対する人たちを安定化論者といい、彼らが現在のマクロ経済学の礎を築いたわけです。もちろんケインズはその超重要な一人でした。

蛇足:訳してて思ったんですが、第1章の前半部分がとくにメンドクサイです。それってマーケティング的にどうなんですか? ケインズさん。みんなちょっと読んだら引き返しちゃいますよ。

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訳者のあとがき


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対話でわかる
痛快明快
経済学史
松尾匡
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子どもの貧困
阿部彩
 訳してみて、ケインズが引っ張り出してくる例が恣意的なのでは? と思う個所がいくつかありました。ダーウィンってホントにそんな主張したの? とか、特に過激な人の発言だけを切り取ってるんじゃないの? とか。最近読んだ松尾匡『対話でわかる 痛快明快経済学史』でも、ケインズの主張に癖があることに触れていて納得。「わざと読者に論敵の主張を誤解させるような言い回しをして信用をなくして」(p. 185)おいてから攻撃している感じ。

 とはいえ、「タイミングよく有能であったり幸運であったりする個人が、その時点までに実った果実をすべて持って行ってしまうようなシステムは、確実に、良い時期によい場所に居合わせるテクニックを学ぶ大きなインセンティブを人々に与えるだろう。(第3章)」というケインズの言葉にはまったくもって同感です。友人の高校教師が「3教科に絞って小学校から教えれば、たいていの子は早慶に入れさせることができる」とものすごくイヤそうにつぶやいたのを思い出します。学力がまるで遺伝しているかのように親から子へ受け継がれている現状を、阿部彩『子どもの貧困』(参照)でも批判していましたが、これも世襲のひとつの形なのでしょう。

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国会学入門
第二版
大山礼子
 ケインズはイングランド銀行を例に「組織のための組織」を防ぐ仕組みを描いていましたが、この場合の民主的な基盤というのが議会でした(第4章参照)。この議会ですが、もちろんイギリスの議会ですから日本の国会とはちがいます。大山礼子『国会学入門 第二版』(参照)にあるように、イギリスの内閣は議会の中にあり、さらに政策を決定する場というよりも、与野党の意見を国民にアピールするパフォーマンスの場であるんだそうです。なのでケインズは、内閣がイングランド銀行総裁を選ぶ責任を、国民が明確に理解できる仕組みを評価しているのだと思います。つまり国民に見える形で、幾分大げさにでもアピールすれば、どこかの中央銀行みたいにこそこそしないだろう、ということなんじゃないでしょうか。その点、日本の場合、内閣は国会の外にある、ということになっているようです。そのため、内閣が議会で政策を堂々とアピールすることがない。総理は議会が選んでいるのだから、内閣に対するチェックも議会の仕事だと思うのですが。ところが、日銀の現総裁、白川さんを選任する時は、ねじれ国会ということで大もめにもめたので国民の注目も集まりました。そしてこのようなニュースもあります。

「日銀総裁人事に民主・西岡氏、反省の弁」


……西岡氏は、「純粋に武藤さんがいい、悪いという前に、政治状況があった」と述べ、当時の自公政権と対決するのが主眼であったと説明した。そのうえで「(財政運営と金融行政を分ける)『財金分離』を理由に武藤さんがはねられたのは、今でもおかしいと思っている」と語った。……

読売新聞
 国民の注目を集めるだけで、民主的な圧力が生まれるということだと思います。もちろんそれだけでは不十分で、ちゃんと議会による修正ができるようでないとダメですが。

 僕は『国会学入門』を読んだ時、イギリスのようなパフォーマンスの場としての議会の利点がよく分からなかったのですが、今回ケインズの文章を読んで、国民の見ている中でパフォーマンスをさせればコミットメントにもなる、と納得しました。日本の国会の本会議は何をやっているのかいまいちよくわからない状態にあります。事実上政策を決めるのは与党内部、そして国会の各委員会です。だから国民からは見えにくい。そこで党首討論が導入されたんでしょうけど、与党側の思惑で実施したりしなかったりするようでは意味がないでしょう(民主党政権になって一度も実現してませんし)。

 なんかケインズと関係なくなっちゃったんでここでおしまい。

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第5章

<<第4章||目次||

第5章

 本稿の省察は、組織的に活動する機関を用いて現代の資本主義における政策技術をめいっぱい改善することを目指してなされたものだ。この中に、私たちにとって資本主義の本質的な特徴と思えるものと深刻な矛盾を来すものは一つもない。その特徴とはつまり、個々人の金儲けと貨幣に対する本能的な愛着を、経済というマシーンの強力な原動力とし、それに依存しているという特徴だ。本稿も終わりに近づいたので、話題をそらすわけにはいかないが、それでも読者の皆さんには、次のことを覚えておいていただきたい。つまり、これから数年の間に勃発するであろう、とんでもなく激烈な論争や、絶対に埋まることなどありえなさそうな意見の溝というのは、主に経済政策についての技術的な問題を巡るものではなく、上手く言えないけど、心理的とか、あるいはおそらく道徳を巡る対立なのだということを。

 ヨーロッパ、少なくともその一部では——でもアメリカではちがうと思う——、私たちが個人の貨幣愛を育て後押しし保護しすぎている、という潜在的な反発が広範に存在する。私たちの社会を人々の貨幣愛を刺激することで動かしていくというやり方について、その刺激は少ない方が多いよりも好ましいのかどうか、無条件に決まっている必要はない。社会の事例の比較に基づいて決められるべきだろう。人それぞれ選んだ職業が異なれば、日常生活の中で貨幣愛の演じる役割の大小も異なってくる。さらに歴史家たちは、貨幣愛が現在ほど重要でない社会組織のあれこれについて教えてくれる。ほとんどの宗教とほとんどの哲学は、控えめに言っても、預金口座の数字を増やすことばかり考えている人生を全く評価しない。しかしその一方で、今日の人々の大部分は禁欲的な警句を無視するし、現実に裕福であることの有利さを疑ったりしない。それどころか、人々は、貨幣愛なしでは物事が立ちゆかなくなるし、無茶苦茶なレベルでなければ貨幣愛は上手く機能していることは明らかだ、と考えているようだ。その結果、平均的な人々は問題から目を背けてしまい、複雑で大局的な事柄に対して、自分自身が本当のところ何を考え感じているのか、はっきりしたイメージを持てないでいるのだ。

 頭と心の混乱は、言論の混乱につながる。資本主義的な人生のあり方に切実に反対している人の多くは、まるで資本主義がその資本主義的な目標を上手く達成できていない、として資本主義に反対しているかのようだ。その裏返しで、資本主義の熱烈なファンたちは、不必要なまでに保守的で、政策の技術的な改革さえ拒否する始末だ。それは、改革を実行すれば当の資本主義が強化され長持ちするかもしれないのに、改革へ踏み出すことが資本主義からの離脱の第一歩になるかも知れないと恐れているからだ。しかしそれでも、資本主義は社会運営の手段として効率的なのか、それとも非効率なのかと議論している現在よりも、そして資本主義は社会にとって望ましいのか、それとも本質的に問題を抱えているのかと議論している現在よりも、物事をより明確に把握できる時代が近づいているのかもしれない。私見では、資本主義は上手く管理されれば、現存するどの社会体制よりも効率良く経済的な成果を上げることが出来ると思う。しかし本質的に実に様々な問題を内包してもいる。私たちの課題は、人々の満足いく人生の条件を損なうことのない、めいっぱい効率的な社会の仕組みを機能させることである。

 そして次のステップは政治的なアジテーションや時期尚早な社会の実験ではなく、思考によって踏み出されなければならない。私たちは、理性を働かせて自らの感情を解明する必要があるのだ。現在のところ、私たちの人を思いやる心と実際に下す判断はバラバラになりがちである。これは痛々しくマヒした精神状態と言っていい。現実の行動に移す場合、改革を志す人々は、自分たちの知性と感情を調和させ、明確でハッキリとした目標に着実に近づいていくのでない限り、成功を収めることはないだろう。現在、世界には、正しい目標を正しい方法で目指している政党は、私には見あたらない。物質的な貧困は社会的に実験を行う余地がほとんどない状態でも、明確な変革へのインセンティブを人々に与える。がしかし、物質的な繁栄は、安全な賭に出るチャンスであるかもしれない時に、変革へのインセンティブを奪い去ってしまう。前進するために、ヨーロッパは手段を欠き、アメリカは意志を欠いている。私たちは心の内の感情と外的な事実の関係を誠実に検証して、そこから自然に生まれ出た新しい信念を必要としているのである。

<<第4章||目次||

J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第4章

<<第3章||目次||第5章>>

第4章

 事あるごとに、自己責任主義の根拠とされてきた形而上学的だったり一般的だったりする原理原則など一掃してしまおう。個人が経済活動において一定規格の「自然的自由」を有しているなんていうのは、まるで事実とちがう。「持てる者」あるいは「持たざる者」に永遠の権利を授ける「契約」なんて存在しない。この世界は常に個人と社会の利害が上手いこと一致するように天上から調整されてはいない。ここ下界でも、両者の利害はそれほど上手く調整されていない。経済学の原則から導いた、文化的で節度ある個人の利益追求はいつだって公共の利益にとってプラスに働く、という推理は正しくない。個人の利益追求がいつでも文化的で節度があるというのも、やっぱり間違いだ。バラバラに自分自身の目的へ突き進む個人は、大抵の場合、あまりにも愚かであるか、あまりにも貧弱であるので、ささやかな結果にたどり着くことさえない。人が集まって群れをなすと、いつだって先を見通すことの出来ないマヌケになってしまうから、個々人は独立していた方が有能であるなんてことは、私たちが経験してきたことと矛盾している。

 なので、私たちは抽象的な結論で満足するわけにはいかない。むしろ、バークが言うところの「法律を作る際の最も細かい問題、つまり、国家が世間知を用いて積極的に指図すべき事柄と、個人の能力が発揮されるのを極力邪魔しないようにほおって置くべき事柄に線を引くこと*1」の結果を詳しく検討し、そのメリットを議論しなければならない。ベンサムが使った用語で、忘れられてしまったがとても有用なものがある。Agenda(なすべきこと)とNon- Agenda(なすべからざること)だ。私たちはこの二つをはっきりと分別しなければならないが、その際に、政府の介入は「一般に不必要」であり、同時に「一般に有害」であるというベンサムが使った大前提*2は退けなくてはならない。おそらく、今時の経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。そこで、私が今考えている二つのアイディアを記してみたい。

*1 マカロック(J.R. McCullock)の『政治経済学原理』(Principles of Political Economy)に引用がある。
*2 ベンサムの死後に刊行されたボーリング編『政治経済学綱要』(1843)より。

 (1) 統制力と行政組織の理想的な大きさというのは、大抵の場合、個人と現代国家の間にあるはずである。そこで私の提案は、国家の仕組みの内側で活動する準自治組織体(semi-autonomous organization bodies)の成長と普及の中にこそ進歩がある、というものだ。準自治組織体が担当する領域での活動の基準は、各組織体によって定められた公共の利益の追求、これ一点である。なので、その組織自身のための利益追求という目的は、この組織体のとりくみから除外されることになる。とはいえ、人々の間に利他的な行動が広まるまでは、特定の集団、階級、公共の機関にそれぞれの利益を追求する余地を残しておくことが必要であるかもしれない。またこの組織体は、日常の業務については明確な基準内で自治的に対処するが、究極的には議会を通して民主的に表明される国民の主権に従属する。

 私の提案は中世の独立自治組織の復活とみなされるかもしれない。しかし、いずれにせよイギリスでは、自治的な団体(corporations)が統治の方式として重要性を失ったことはなく、我が国の慣習にも親和的である。実は、このような組織の例をすでに存在するものからあげるのはとても簡単である。私が先に述べたような、独立した自治を獲得しているか獲得しかけている組織。総合大学、イングランド銀行[中央銀行]、ロンドン港湾委員会、そして鉄道会社を含めてもよいだろう。ドイツにもそんな例があるにちがいない。

 しかしもっと興味深いのは、株式組織(Joint Stock Institutions)の傾向である。株式組織は、ある程度の年季と規模に達すると、個人主義的な私企業というより、公的な自治組織といった状態に近づいていっている。ここ数十年で最も興味深く、それでいてあまり気づかれない社会の展開があって、それは、大企業が自ら社会のものっぽくなっていく傾向だ。巨大な組織——とくに大きな鉄道会社や公益事業団体、さらに大銀行や保険会社——がある程度成長すると、出資者たち、つまり株主たちはほぼ完全に経営から分離される。その結果、経営陣にとって、大きな利潤を生み出すことに対する直接的で個人的な関心が二次的なものになっていく。このような段階に近づくと、その組織の安定性と名声の方が、株主のために最大の利潤を上げることよりも経営陣にとって重要になってくる。そうなると、株主は社会的文化的に妥当な配当で満足しなければならない。というのも、一度このような状態が確立すれば経営の眼目は社会や顧客からの批判を回避することに置かれることが多いからだ。これは組織が大きくなったり半ば独占的な地位を得て人々の目に付きやすくなって、風評に弱くなったりした時になおさら当てはまる。理屈の上では自由な個々人の財産であり、なんら拘束されることのない組織が上記のような傾向を持つことの極端な例は、おそらくイングランド銀行であろう。これはもうほとんど真実と言っていいのだが、イングランド銀行総裁が政策を決定する時に、この王国のあらゆる階級の人々のことよりも株主を優先させるなんて事はあり得ないだろう。つきなみな配当を受け取ること以上の株主の権利は、もうほとんどなくなってしまった。それは、他の大きな組織についてもだいたい同様である。時間がたつにつれ他の大組織も、自ら社会のものになっていく。

 しかしこれは100%良いことばかりというわけではない。今見てきた事[組織の社会化]が保守主義の台頭と企業の衰えの原因となっている。実際私たちは国家社会主義の長所と同様、短所もたくさん経験してきた。それでも私たちが目撃しているのは進化の自然な経路であると私は思う。私的利益の際限のない追求に反対する社会主義の戦いは、些細な点においてさえ毎日のように勝利を得ている。この特定の話題——それ以外の話題では社会主義の戦いは熾烈なものだが—— では両者の対立は、もはや差し迫った問題ですらない。例えば、鉄道会社の国有化問題ほど、重要な政治問題と言われていながら、実際には重要でも何でもなく、イギリスの経済活動の再編成からほど遠いものはない。

 大きな事業、特に公益事業団体や他の巨大な固定資産を必要とする事業は、今はまだある程度社会化される必要がある。しかしこの「ある程度の社会化」の有り様について、私たちは柔軟に考えなければならない。昨今の自然な傾向[大組織の自発的な社会化]の利点を生かしていく必要があるし、おそらく私たちは国務大臣が直接的な責任を負う中央政府機関よりも準自治組織を選ぶべきなのだ。

 私が教条的な国家社会主義を批判するのは、それが社会の運営のために人々の利他主義的な衝動を求めているからではなく、それが自己責任主義に反するものだからでも、人々が金儲けする自由を奪うものだからでも、また、大胆な社会実験をためらわないものだからでもない。私はこれらすべてに喝采をおくろう。私が批判する理由はそれが現実に起きていることの重要さを見逃しているからであり、実際、国家社会主義というのは誰かが百年前に言ったことの誤解に基づいて作られた、五十年前の問題に対処するための古くさい計画の生き残りと変わるところがないからである。19世紀の国家社会主義は、ベンサムや、自由競争その他の理念から生まれたものであり、19世紀の個人主義に流れる哲学と同じものが、ある部分ではより明確に、ある部分ではよりわかりにくくなった別バージョンでしかない。どちらも揃って自由を強調し、一方は控えめに目前の自由に対する制限を回避しようとするが、もう一方は積極的に、世襲であろうが努力の結果であろうがとにかく独占的な地位をブチ壊そうとする。この二つは同じ知的雰囲気に対する異なったリアクションなのである。

 (2) さて次に、Agenda(なにをすべきか)の基準に移ろう。近い将来の内に急いでやらなければならないこと、やるのが望ましいことの中で、どれが特に妥当なのか示したい。私たちは、「技術上社会のもの」である事業と、「技術上個人のもの」である事業の区別を目指す必要がある。国家の最も重要なAgenda は、私的な領域において個人がすでに満足している活動に関係しないところで、個人の手には負えない役割や、国家が決めなければ他に決めようのない意志決定などに関係することである。政府にとって重要なことは、個人がすでに行っていることをしないこと(個人より上手に、あるいは下手にやってもいけない)、そして現在のところ全く手つかずのことをやることである。

 実際の政策を作ることは今回の私の目的から外れている。なので、私が最も頭を悩ませることになった問題の中から、具体例を示すにとどめよう。

 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。

 さて二つ目の例は、貯蓄と投資に関することだ。次の三つのことに関して、知的な判断に基づいた、調和のとれた行動が求められている、と私は考えている。まず、共同体が全体として貯蓄すべき規模について。そしてその中から海外投資として国外に出すべき規模について。さらに現在の投資市場の仕組みが、国内の最も生産的な経路に沿って貯蓄資金を分配できているのかどうかについてだ。わたしはこういったことを、現状のように民間の判断と私的な利殖活動の出たとこ勝負に全面的に任せられてはいけないと思う。

 三つ目の例は、人口に関することだ。各国にとって最も適切な人口の規模が現在よりも大きいのか小さいのか、それとも同じ水準を維持するのか、真剣に考えなければならない時期がすでにきている。そして政策が決定されたら、絶対に実行しなくてはならない。そうすれば、共同体が将来生まれてくる人々の頭数ばかりでなく、彼らの生まれ持った素質にも注目していくような時代がやってくるだろう。

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第3章

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第3章

 経済学者というのは、他の科学者たちと同様、初学者を前にしたときには最もシンプルな仮説を取り上げて説明を始めるものだ。これは決して最もシンプルな仮説が最も現実に近いからではない。経済学者が次に記すような想定をするのも、一つにはそのような理由からだが、私のみるところもう一つの理由があって、それはただこの科目の伝統に従っているだけ、とうものだ。その想定とは、個人の試行錯誤を通して正しい道を進んだものは栄え、誤った道を選んだものは滅びていくというプロセスを経て、生産的な資源の最適な分配が行われる、というものである。この想定は、誤った方向に自身の資本や労働力を投入しようとしているものを止めるべきではない、ということを暗に意味しているのだ。つまりこれこそが最大の利益を生み出せるものを発見する方法である。効率の悪い弱きものの破滅によって、最も効率の良いものが選び抜かれる血も涙もない過酷な生存競争というわけだ。このような考え方は、過酷な競争のコストを無視している。それでいて、競争によって得られた結果を勝手に永続的なものと想定し重要視している。もしも生きることの目的が出来る限り高いところにある木の葉をむしり取ることであったなら、最も効率の良い方法は、首の短いキリンが餓死するのに任せてればいい。そうすれば最も首の長いキリンが得られることだろう。

 異なる産業間で生産手段を理想的に分配するこの方法に対応して、購買力の理想的な分配についても似たような想定が存在する。まずはじめに、個々人はいろいろな選択肢を試行錯誤して検討して、自分が最も欲しいものを「最もお得だと考えたところ」に見出す。さらにこれは、各消費者が自らの購買力を自分にとって最も有利になるように使うというだけでなく、商品の方も、その商品を誰よりも欲しがっている消費者の下へたどり着くということになっている。なぜなら、一番欲しがっている人が、一番良い値をつけるから。ということで、もし私たちがキリンを放ったらかしにすると、(1)木の葉の消費量が最大になる。なぜなら、低い位置にある葉っぱしか食べられないキリンが飢え死にするから。(2)キリンたちは届く範囲で最もみずみずしい葉を選んで食べ、(3)「あの葉っぱが食べたい!」と最も強く思ったキリンが最も遠くまで首を伸ばそうとするはずだ。このようにして、よりジューシーな葉っぱから食べられていくし、首を伸ばす努力に値すると思われる葉から食べられていくだろう。

 自然淘汰が邪魔されることなく進歩を導き出していく。そのためには今見てきたような条件を想定しなくてはいけないわけだが、その想定は自己責任主義を支える二つの急ごしらえな想定の一つでしかない(にもかかわらず文字通りの真実として受け入れられているのだが)。そのもう一つの想定は、個々人の全的な努力を引き出すにたるだけの必要十分なチャンス(個々人が自由に金儲けできるチャンス)が存在している、という想定である。自己責任主義の下では、利益というのは、己の能力だか運だかを使って、自分の時間や資本を正しい時に正しい場所で保持しているものに転がり込むことになっている。タイミングよく有能であったり幸運であったりする個人が、その時点までに実った果実をすべて持って行ってしまうようなシステムは、確実に、良い時期によい場所に居合わせるテクニックを学ぶ大きなインセンティブを人々に与えるだろう。こうして人間の行動の理由のうち最も強力なもの、つまり貨幣に対する愛着が、最も効率よく富を生むとされる方法を通して、経済の資源を分配するために利用されるのだ。

 ここまでに簡単に触れてきた経済的な自己責任主義と、ダーウィニズムの間の平行関係は、ハーバート・スペンサーが真っ先に気づいたように、今ではとても接近してきている。ダーウィンは、性愛が性的な選抜を通して作用することで、競争による自然淘汰を補助し、最適であると同時に最も望ましい進化のコースを導く、と主張した。同様に個人主義者は、貨幣愛が利益の追求を通じて作用することで、自然淘汰を補助し、(交換価値で計られた)人々が最も欲しがるものの最大規模の産出をもたらす、と主張するのである。

 このような理屈のシンプルさと美しさは実にたいしたもので、当の理屈が事実に基づいているのではなく、簡便のために用意した不完全な仮説に基づいていることなんかを見事に忘れさせてくれるほどだ。個人が自身の利益のために自律して活動することが、社会全体として最も多くの富を生み出すという結論は、一つどころではない非常識な想定に基づいているのである。その想定は生産と消費のプロセスにまで及んでいて、将来のビジネス環境や必要な所得などをしっかりと予見することは可能であり、またそのような予知をする機会は十分に存在するという全く人間的でないものだ。経済学者というのは、たいてい、次のような複雑な問題が持ち上がった場合、議論のシンプルさを保つため、そういう問題を後回しにするものだ。(1)有効な生産力が消費に比べて大きい場合。(2)共通費用、結合費用がある場合。(3)内部の諸経済が生産の集約に向かう傾向を持っている場合。(4)様々な調整に長い時間が必要な場合。(5)無知がはびこり知を圧倒している場合。(6)独占企業と労働組合が取引の平等を妨げている場合。——このような場合に経済学者たちは、現実の分析を後回しにするのである。さらに、先ほどの単純化された仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。

 しかし、事実の取り扱いに関する疑問の他にも考えなきゃいけない問題があって、生存競争そのもののコスト、その性質についてや、富というものが好ましくないところに集まりがちであることなども、ちゃんと計算に入れているのかどうかという問題だ。キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。

 ところが、自己責任の原則には、経済学の教科書の他にも頼もしい味方がいるのである。立派な思想家や、分別ある人々の頭の中に自己責任主義が根付いているのは、彼らの天敵——その一つは保護主義で、もう一つはマルクス派社会主義——が低レベルな連中だからである、というのは認めざるをえない。この二つの主義は、主に自己責任主義にとって好都合な前提をブチ壊す性質を持っているというだけでなく、全く理屈に合わないという点でも共通している。両者とも貧弱な思考、そして物事のプロセスを分析して結論を導く能力の欠如の見本である。この二つへの反論のために自己責任の原則にお呼びがかかるわけだが、別に絶対にそうしなければ論破できないわけではないのだ。二つの内、保護主義は少なくとも説得力はあるし一般によく受ける主張であるから、それにすり寄っていく連中がいるのは不思議ではない。しかし、マルクス派社会主義は、人類の思想の歴史をたどる者たちにとって、凶兆でありつづけるだろう。あんなにも非論理的で鈍くさえない教義が、いったいどうやって人々の頭脳と歴史的なイベントに対して、あんなにも強力で消えがたい影響を及ぼすことが出来たのだろう。いずれにせよ、この二つの主張のあからさまな科学的欠陥が、19世紀において自己責任主義が特権と権威を手にするのに大いに貢献したのである。

 あの誰の目にも明らかで、大規模な社会活動の中央集権化——先の戦争の遂行——でさえも、改革を志す人々を勇気づけたり、古くさい偏見を追い払ったりすることはなかった。いや実際、どちらの側にも言い分はたくさんあるのだ。国家に統合された生産組織のなかでの戦争体験は、おりこうさんたちの頭の中に平時でも同じ事をやってみたいという楽観的な渇望を残していった。戦時社会主義は平和時には想像することさえ難しい程の大量の富(wealth)を生み出したことは間違いない。というのも、大量に作られた財やサービスは、すぐに何の役にも立つこともなく消えてしまう運命にあったが、それでも富ではあったからだ。無駄にした労力の異常な量や、浪費的でコストを全く気にしない雰囲気は、倹約で将来の蓄えばかり考えている精神にとっては唾棄すべきことだったはずなのに。

 個人主義と自己責任主義は古くは18世紀後半から19世紀初頭にかけての政治的道徳哲学にそのルーツがあるにもかかわらず、社会がどうあるべきかということに関して、ついにがっちりと人々の心をつかんではなさなくなった。だがこれは、当時のビジネス界のニーズや願望に追従しなければ成しえなかっただろう。この二つの哲学は、かつて我らのヒーローだった偉大なるビジネスマンに目一杯の自由を与えた。マーシャルは常々このように言っていた。「西洋世界で最も才能のある人々、少なくともその半数はビジネス界にいる。」 当時の「より高いレベルの想像力(the higher imagination)」はそこで活用された。そのような人々の活動に、私たちの進歩への希望が集中していったのだ。マーシャルは次のように書いている*1。

「この階級の人々は、自らの頭の中にこしらえた常に変化するビジョンの中に生きている。そのビジョンというのは、彼らの望む結果へと至る様々なルートのことで、どのルートを進んでも自然が彼らの邪魔をするという困難がある。だからビジョンには、自然の障害に打ち勝つためのアイディアも含まれている。しかしこのような想像力も、人々の信頼を得ることはそんなにない。なぜなら、好き勝手に暴れ回ることが許されているわけではないからだ。その[想像力の]力強さもまた、より強固な意志の統制を受ける。なので、その[企業家の]想像力の最高の栄誉とは、とても単純な方法で偉大な結果を出すこと、になるのだ。その単純さとは、どうやったらパッと見そのアイディアと同じくらい素晴らしい無数のアイディアを退けることが出来たのか誰にもわからないほどに、あるいは、専門家だけがようやく推理できる程に単純なのだ。このような人物の想像力は、チェスの名人の想像力にも似て、壮大な計画の妨げを予測することと、素晴らしい提案に対し常に反撃の手段を用意して拒絶していくことに使われるのである。人間の本質において、彼の強靱な精神力はお手軽なユートピア思考を受け入れる無責任な精神の対極にあるものだ。その無責任さというのは、チェスのたとえで言うならば、白駒も黒駒も自由勝手にに動かしてチェスの最大の難問を解いている下手なプレイヤーの図々しい手際の良さといったところだろう。」

*1 「経済騎士道の社会的可能性」("The Social Possibilities of Economic Chivalry," Economic Journal, 1907, xvii, p. 9)

 この文章はまさに、「産業界の勤勉なるリーダー」のよくできた肖像画である。いわば彼は、個人主義のお師匠なのであり、他の芸術家たちと同様に、自分の利益のために生きることで、私たちのために生きているのである。とはいえ、芸術家同様、彼ら実業家もすすけた偶像になりかけてはいるのだが。というのも、その手で私たちを楽園へ連れて行ってくれるのが彼らなのか、大変疑わしくなってきたから。

 こういった様々な要素が現代の知性がもつバイアス、精神構造、正統性をもたらしている。本来の理屈が持っていた説得力の多くはすでに失われているにもかかわらず、よくあることだが、結論の方が理屈よりも長生きなのだ。今ロンドンのシティ[金融街]で公共の利益のための行動を呼びかけることは、60年前にカソリック主教と『種の起源』について話し合うようなものだ。どちらも最初のリアクションは知的なものではなく道徳的なものになるに決まってる。正統性こそが問題なのだから、議論の説得力が増すほどに敵意も深まる。それでも、こののろまなモンスターの棲みかに飛び込んで、その主張とその系譜をたどってきたのは、そのモンスターが私たちを支配してきたのは、彼の優れた能力のためではなく、親から受け継いだもののためだったことを示したかったからだ。

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第2章

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第2章

 18世紀の哲学と、白日の下にさらされた宗教の破綻。この中からでてきたのが、ビジネスマンこそが利己主義と社会主義の矛盾を解くことが出来る、というアイディアである。私は経済学者がその考えに科学的なお墨付きを与えた、と書いた。が、それは簡便のためであったので、急いで補足したいと思う。正確に言えば、経済学者たちは、そのようなことを言ったと思われているのである。偉大な経済学者たちの著作にはそのような教条的な発言はみられない。自己責任主義とは大衆を煽るだけのような連中の言葉の中にこそあるものであり、ヒュームの利己主義を受け入れる一方で、ベンサムの平等主義も受け入れてしまうような功利主義者たちの言葉なのだ*1。それは彼らがこの両者を統合するために信じるしかなかった信条なのだ。経済学者たちの言葉は、自己責任主義の解釈に確かに役に立った。しかしこの教義が人気を博したのは、当時の政治哲学者たちのお気に入りだったことにその理由がある。政治経済学者のせいではない。

*1 レズリー・スティーヴンが要約しているコールリッジの主張は実に共感できるものだ。「功利主義者というものは、すべての結束をブチ壊し、社会を個人的利益を追求するための闘技場にしてしまい、秩序、郷土愛、詩的な心情、そして宗教を打ち落とす。」

「我らに自由を」という格言は、17世紀の終わり頃にコルベートに進言した商人ルジャンドルのものであると長い間言われてきた*1。一方で、この文句を明確に自己責任主義とかけて書き記した人物は疑いなく判明している。1751年頃のアルジャンソン侯爵だ*2。侯爵は、政府が貿易に手出しをしないことの有利さを熱心に説いた最初の人物だ。より良く統治したければ、より少なく統治せよ*3。彼曰く、製造業が不振である真の理由は、私たちが彼らに与えている保護なのだ*4。"Laissez faire, telle devrait être la devise de toute puisssance publique, depuis que le monde est civilisé." "Detestable principe que celui de ne vouloir notre grandeur que par l'abaissement de nos voisins! Il n'y a que la méchanteté du coeur de satisfaites dans ce principe, et l'intérêt y est opposé. Laissez faire, morbleu! Laissez faire!!"[ zajuji:この二つの文はご覧の通りフランス語です。zajujiはフランス語が全くわからないので、『ケインズ全集第九巻』より、宮崎義一先生の訳を以下に引用させてもらいます。「自由放任、この言葉こそ、世界の文明化とともに、あらゆる政府当局の標語にならねばならなくなった。」「われわれの隣人の地位を低下させることによって、はじめて自分自身の偉大さを望むことができるような、憐れむべき原理よ! この原理によって満足させられる精神は、悪意と敵意しかなく、そこでは利害が対立している。おお神よ、願わくは自由放任をこそ! 自由放任をこそ!!」 ]

*1 "Que faut-il faire pour vous aider?" とコルベートは尋ねた。すると"Nous laisser faire,"とルジャンドルは答えた。
*2 この言葉の歴史については以下を参照せよ。オンケン『自由放任の格率』(Oncken, Die Maxime Laissez faire et Laissez passer. ) 次に続く引用の大部分はここからとられたものだ。アルジャンソン侯爵の主張は、オンケンによって指摘されるまで、見逃されてきたものだ。その理由の一つは、私が引用した文章が発表されたときを含め、存命中、彼は匿名を用いていたこと(Journal Economique, 1751)。もう一つは彼の作品が完全な形で公開されるのは1858年までなかったことによる(おそらく存命中は回し読みされていただろう)(Mémoires et Journal inédit du Marquis d'Argenson)。
*3 "Pour gouverner mieux, il faudrait gouverner moins."
*4 "On ne peut dire autant de nos fabriques: la vraie cause de leur declin, c'est la protection outrée qu'on leur accorde."

 ついに私たちは見まごうことのない自己責任の経済原則を手に入れた。そしてその最も熱心な主張は自由貿易であった。このフレーズと考え方はその時からパリ中を流れるうねりとなっている。しかし、自己責任主義が時代を超えて読み継がれる著作の中に定着するのにはまだ時間がかかった。重農主義者——とくにド・ゴネーとケネー——と自己責任主義を結びつけようという試みは古くからあったものの、自己責任主義を訴える著作上ではほとんど支持されてこなかった。もちろん重農主義者たちは個人の利益と公共の利益の根源的な調和という考え方の支持者たちではあったのだが。一方で、自己責任というフレーズは、アダム・スミス、リカード、マルサスの著作中には見あたらない。さらにこの考えが教条的な形で示されることもない。アダム・スミスといえばもちろん自由貿易主義者であり、18世紀の様々な貿易制限に反対していた。しかし彼の航海法や高利禁止法に対する態度は、彼が教条的な人物ではなかったことを示している。彼の有名な「見えざる手」についての文章も、ぺーリーの神の摂理につながるものであって自己責任という経済的ドグマではない。シジウィックとクリフ・レズリーが指摘するように、アダム・スミスの「自然的自由の明らかで単純なシステム」という主張は、政治経済の専門家としての問題意識からではなく、有神論的で楽観的な世界観からでてきたもので、それは彼の『道徳感情論』(Theory of Moral Sentiments, 1759)のなかに見て取れる*1。自己責任主義というフレーズが英国で初めて一般的に使われたのは、有名なフランクリン博士の文章であったろうと思う*2。実際、私たちの祖父たちがよく理解していた、そしてやがて功利主義哲学に取り込まれた自己責任主義は、ベンサム——彼は経済学者ではない——の後期の著作の中にようやくちゃんとした形で発見できるという有様だ。例えば『政治経済学綱要』(A Manual of Political Economy)*3の中で彼は、「一般的な原則として、政府は何もしてはならないし、しようと思ってもいけない。こういった場合、政府のモットーあるいは標語は、お静かに、であるべきだ。……農家や製造業者や商人の政府に対するこの要求は、ディオゲネスのアレキサンダー大王に対する要求、私の日差しを遮らないでください、のように穏やかで妥当なものである。」

*1 シジウィック『政治経済学原理』(Sidgwick, Principles of Political Economy, p. 20.)
*2 ベンサムは"laisseznous faire,"という表現を使っている。『著作集』(Works, p. 440)
*3 1793年に執筆され、一つの章が1798年に『イギリス双書』(Bibliothequé Britannique)で発表された。全文はボーリングの編集による『著作集』(Works)で1843年に刊行された。

 この時から自由貿易のための政治キャンペーンが始まった。マンチェスター学派とか呼ばれる連中やベンサム流の功利主義者たちの影響、そして二流の経済評論家の発言力、マルティノー女史とマーセット夫人の啓蒙書、こういったことが重なり合って、自己責任主義は政治経済学が到達した実用的で正統な結論であるとして、一般の人々の心に定着してしまったのだ。とはいうものの、この間にマルサス的な人口過剰の考え方が今あげたような人たちに広く受け入れられたから、 18世紀後半の陽気な自己責任主義はなりをひそめ、19世紀の前半の自己責任主義は陰鬱なものになっていくという大きな違いも生まれたのだが*1。

*1 シジウィックの前掲書を参照(op. cit., p. 22)。「アダム・スミスがいう政府の活動範囲の制限をおおむね認めた経済学者たちでさえ、晴れやかに制限を主張したのではなく、悲しげに、しぶしぶそうしたのである。つまり「自然的自由」がもたらした結果として現在の社会秩序があり、それを賞賛するために主張したのではなく、政府が選び取るかも知れないその他の人工的な秩序にくらべたら一番マシ、と考えての主張だった。」

 マーセット夫人の『政治経済学にかんする対話』(Marcet, Conversation on Political Economy, 1817)の中で、「キャロライン」という登場人物は富裕層の支出をコントロールするという考えに固執する役回りである。が、418ページにいたり、彼女はついに敗北を認めるのであった。

キャロライン——この問題について学べば学ぶほどこれまで対極にあると思っていた国同士の利害と個人の利害が完璧に調和するって事が納得できました。

B夫人——自由で広い視野を持っている人は皆、いつだって同じような結論にたどり着くものです。さらにお互いに寛容な心で接するよう教えてもくれますね。ここからもわかるように、科学というのは単なる経験的な知識に止まるものではないのです。


 B夫人は、キャロラインが感じた自己責任主義への疑問を時々は認めてくれていたが、キリスト教知識普及協会が1850年までばらまいていた『若い人々のためのやさしい教訓集』(Easy Lessons for the Use of Young People)では、それすらも許されていない。それによれば「引き締めであろうと、緩和であろうと、あるいは買い入れであろうと、売却であろうと政府が市場のお金のやりとりに介入するのは、悪い結果を引き起こしこそすれ、良い結果を生むことなどほとんどない」のであって、真の自由とは「まわりの人々に害をなすのでない限り、自分の持ち物、時間、強み、技術を自分の思うとおりに使えるような状態のこと」を言うのだという。

 つまり、自己責任主義という教義は教育システムをも取り込んでしまったのである。そうしてつまらないお説教になってしまった。この政治哲学はそもそも、 17、18世紀に王やお偉い聖職者たちを追い落とすために急造されたわけだが、今や赤ん坊のミルクとなり、文字通り、子ども部屋に入り込んでしまった。

 そしてついに、バスティアの著作の中に、この手の政治経済学が信奉する宗教の最もあからさまで、最も熱狂的な表現を私たちは発見する。『経済の調和』(Bastiat, Harmonies Economiques)の中で彼は、「私は、この人間社会を司る神の摂理がいかに調和しているか、それを立証してみようと思う。この法則が不調和に陥ることなく調和しているのは、すべての原則、すべての理由、すべての行為の源泉、すべての利害、これらが互いに協力し合って一つの大いなる最終目標への向かっているからである。……その目標というのは、すべての階級が同じ水準に向けて限りなく接近するということであり、しかもその水準というのは上昇し続けるのだ。これを言い換えれば、社会全体が良くなっていく中で、個人間の平等が実現するということになる。」こんな調子だから、他の司祭連中と同じく、彼が自身の信仰告白を記したときも、次のようになったのは当然だった。「この物質世界を絶妙なバランスで作り上げた神が、人間社会の調整を躊躇したはずがないと、私は信じる。また神が、自ら動き出すことのない分子と同様に、自由な個々人を結びつけ調和に向かって動かしてきたと信じる。……私は何ものにも邪魔されない社会の傾向というものを信じる。それは、人類が一段上の共通の倫理、知能、肉体レベルに向かって恒常的に接近するという傾向である。しかも同時に、それのレベルは、無限に上昇していくのである。人類の平和的発展を一歩ずつ実現していくために必要なのは、この傾向が乱されないようにすることであり、個々人が持っているこの傾向が発揮される自由を破壊しないことであると、私は信じる。」

 ジョン・スチュアート・ミルの時代から、著名な経済学者たちはこのような考え方に強く反対してきた。キャナン教授は次のように述べている。「名声も実績もあるイギリスの経済学者が、社会主義に対する全面的な攻撃の最前線に参加することは、まずないだろう。」 とはいえ、キャナンはこう補足する。「名が知られていようがいまいが、すべての経済学者には、社会主義的政策の欠点を指摘する準備が常に出来ていると言っていい。*1」 経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。

*1 キャナン『生産と分配に関する諸言説』(Cannan, Theories of Production and Distribution, p. 494.)

 ケアンズは、1870年、ロンドンのユニバーシティカレッジの「政治経済と自己責任主義」(Political Economy and Laissez-faire)という講義において、おそらくオーソドックスな経済学者としては初めて、自己責任主義全般に対する真っ正面からの攻撃を行った。彼はこう断言する。「自己責任という格言は、いかなる科学的根拠も持たない。せいぜいお手軽な経験則でしかない。*1」 これこそがここ50年の主導的な経済学者たちの見解であった。例えば、アルフレッド・マーシャルの最も重要な著作のいくつかは、個人と社会の利害が調和しないケースの解明に向けられている。にもかかわらず、経済学者というものは、個人主義的で自己責任主義を教えて回っている人であり、また、そうあるべきだという一般的な印象に対し、最も優れた経済学者たちの慎重で独断を避ける姿勢が広く評価されることはなかった。

*1  ケアンズは同じ講義の中で、この「支配的な見解」について、実によくまとめている。「今現在の支配的見解とはつまり、政治経済学は富を最速でため込む方法と、それを最も公平に配分する方法を解き明かす、という類のものだ。人間社会において、個々人は手つかずのまま放置されているときにこそ、最も繁栄するというその見解によれば、個々人として己の感じるままに自己利益を追求させ、政府や世評などの締め付けのない状態、しかし暴力や詐欺のない状態、そういう時に、個々人は最も力を発揮するのだという。これが、自己責任の原則としてよく知られたものだろう。そして政治経済学というのは、この格言の科学っぽい表現だと思われているようだ。その表現とは、個人、私企業の自由の証明であり、あらゆる産業が抱える問題に対する充分な解決策なのである。」

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第1章

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自己責任主義の終わり

ジョン・メイナード・ケインズ


訳:zajuji
[ ]内は訳者による補足です。

第1章

 私たちが便宜的に個人主義とか自己責任主義とまとめている社会のあるべき姿についての考え方がある。それは他のライバル思想とか、人々の感覚から飛び出してきたようなものからいろいろと栄養分をもらってたりする。実に100年以上にわたって、哲学者たちは私たちの精神を支配してきた。というのも、この[個人主義って大事だねという]件について彼らは、それはもう奇跡的に一致してたし、少なくともそう見えた。というわけで、相変わらず私たちはまだ新しい音楽にあわせて踊ってさえいないが、雰囲気は変わってきている。とはいえ、かつてくっきりはっきりと政治的な連中を導いていた声も、いまではぼんやりと曖昧にしか聞こえない。さまざまな楽器によるオーケストラ。正確な音を発するコーラス。こういったものがついに遠く去ろうとしている。
 
 17世紀の終わり、君主の神権は自然的自由と社会契約に置き換えられ、教会の神権は宗教的寛容の原理と「絶対的に自由で自発的」な「人々の自発的な共同体としての教会」という見方に置き換えられた*1。 そして50年後には、神聖さの根拠と義務としての絶対的な発言力は、利益(効用)の打算に置き換えられることになった。ロックとヒュームの手によって、この原則は個人主義の礎を築いた。社会契約論は、個々人に様々な権利がそなわっているとする。それが新しい倫理学である。それは個人を中心に据え、合理的な自己愛がもたらすものを科学的に探求するということ、それ以外の何ものでもない。ヒュームはいう。「徳が要求するただ一つの関心事とは打算であり、より大きな幸福へのたしかな選好である*2。」 このアイディアは、たしかに保守派や法律家たちの実際の考えと一致している。彼らは所有権や所有しているものを個人がどうしようとかまわない自由に対して、知的で申し分のない足場を提供した。これこそが、今私たちが感じている雰囲気への、18世紀からの貢献の一つだ。
 
*1 ロック『寛容についての書簡』(John Locke, A Letter Concerning Toleration.)
*2 ヒューム『道徳の諸原理に関する一研究』第60節(David Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals, section lx.)

 個人を称揚する目的は君主と教会との決着をつけることだった。その影響として——社会契約論がもたらした新しい倫理的な意義を通して——所有権と時効取得を強化することになった。が、まもなく、世の空気は自らを再び個人主義と相対する立場におくことになる。ぺーリーとベンサムは、ヒュームとその先輩たちの手から功利的快楽主義*1を受け取ったが、それを公共の利益にまで応用して見せた。ルソーは、ロックから社会契約論を取り出し、そこから一般意志を描き出した。どちらの場合も、新しく人々の平等を強調するという美徳によってその移行を遂げている。「ロックは彼の社会契約論を、社会全般の安全を考え、人類の生得的な平等というアイディアを修正するために活用した。その平等に、財産や特権の平等をも含意させようとしたのだ。しかしルソーの社会契約論では、平等はスタート地点であるというだけでなく、ゴールでもある*2。」

*1  ぺーリー大執事はいう。「私は、人間の本質的な威厳と許容力についてのよくある熱弁のほとんどを退ける。肉体に対する魂の優越だとか、人間の動物的な部分に対する理性の優位だとか、あるいは、満足感には価値あるもの、優雅なもの、繊細なものがある一方、下品で、不潔で、好色なものもあるといったものだ。なぜなら、持続性と強度以外の点で、これらの快楽は互いに変わらないものだからだ。」——『道徳および政治哲学の諸原理』(Principles of Moral and Political Philosophy, Bk.I, chap.6.)
*2 レズリー・スティーヴン『十八世紀のイギリス思想』(Leslie Stephen, English Thought in Eighteenth Century, ii, 192.)

 ぺーリーとベンサムも同じ地点にたどり着いたのだが、たどったルートが異なる。ぺーリーは、自身の快楽主義に対して利己的な結論をもたせることを回避したが、そのために、超自然的で都合の良い神を用いた。「徳とは」と彼は言う。「人類への奉仕であり、神の意志への従順さであり、永遠の幸福のためにあるということである。」——こうやって、「私」と「他人」を同等のものに引き戻したのだ。ベンサムは同様の結論に、純粋理性を使ってたどり着いた。彼の議論では、特定の個人、あるいは自分自身の幸福を、他の誰かの幸福よりも大事に思う理論的な根拠などないという。故に、最大多数の最大幸福が人生の唯一の理性的な目標となる——ヒュームから効用の概念を持ってきてはいるが、その賢人の[次にあげる]皮肉が効いた命題は忘れてしまったようだ。「自分の指がちょっと傷つくことよりも、全世界の破滅を選ぶというのは、まったく理性に反しているというわけではない。同様に、どこかの国の全く知らない人がちょっとしたことで困らないようにするために、自らの破滅を選ぶのも、全く理性に反しているとは言えない。... 理性とは、情の奴隷であるし、ただそうあるべきだ。そして情以外のものに従い奉仕するなんてことは、フリだってできない。」
 
 ルソーは人類の平等を自然状態から引き出した。ぺーリーは神の意志から、ベンサムは血も涙もない数理的な原則から引き出した。こうして平等と利他主義は、政治哲学の世界に足を踏み入れた。そして、ルソーとベンサムが合わさったところから民主主義と功利的社会主義が生まれ出た。これが二つ目の、長く忘れられていたが今もなお命脈を保っている潮流である。この潮流は多くの詭弁を生み出し、未だに私たちの思考が持つ性質に浸透している。
 
 しかし、この流れは第一の潮流を駆逐しなかった。19世紀初頭に奇跡的な合体が起こったのだ。ロック、ヒューム、ジョンソン、そしてバークの保守的な個人主義[これが第一の潮流]と、ルソー、ぺーリー、ベンサム、そしてゴドウィン*1の社会主義と民主的平等主義[第二の潮流]の調和が起こったのだ。

*1  ゴドウィンはすべての政府は邪悪である、というところまで自己責任主義を広げた。この点については、ベンサムもほとんど賛成していた。ゴドウィンの場合、平等という原則は極端な個人主義そして無政府主義へ近づいていった。彼はいう。「どんな時でも私的な判断を行使すること、これこそは言葉で表せないほどに美しいドクトリンなのだ。だから、真の政治家たるものは、このドクトリンを少しでも妨げようなどという考えには、無限のためらいを必ず感じるだろう。」——レズリー・スティーヴン、前掲書(Vide Leslie Stephen, op. cit., ii, 277.)
 
 しかしながら、この両極端の合体は、この時期にノリノリな状態だった経済学者たちがいなければ実現が困難だったろう。私的な生活の優位と公共の利益の神聖な調和は、明らかにぺーリーの主張に見て取れる。そして、その考えに充分な科学的根拠を与えたのは、経済学者たちだった。個人が自然の摂理に従って、自由に、文化的に自分の幸福を追求すれば、いつだって社会一般の利益も同時に満たすようになるというのだ! 私たちの哲学的な困難はこれで解決だ。少なくとも、己の自由を守るために全力で取り組むことの出来る人にとっては。
 
 政府には人々の生活に介入する権利はない、という哲学の原則。そして一切の介入は不要であるという完璧な神の計画。そこに、やっぱり介入は不必要であるという科学的な証拠が現れたのである。これが人々の思想の第三の潮流である。この思想はまさに、「個々人が己の生活を良くしようと励むこと」が、公共の利益の基礎となると考えていたアダム・スミスに見いだすことが出来る。が、19世紀が始まるまでは、意識的に発展させられなかった。しかしやがて、自己責任主義の原則は、個人主義と社会主義を調和させるに至った。そして最大多数の最大幸福をヒューム的な利己主義の中に実現させた。そうして政治哲学者は、ビジネスマンにその席を明け渡すことになったのだ。ビジネスマンは自分の利益を追求することで、政治哲学者の最高善(summum bonum)を手に入れることが出来てしまうのだ。
 
 それでもプディングに必要な材料はまだそろっていない。まず、その多くが19世紀にまで持ち込まれてしまった18世紀の権力の腐敗と無能である。政治哲学者たちの個人主義は、自己責任主義を指向していたし、(場合によっては)神による、あるいは科学的な個人の利益と公共の利益の調和もまた自己責任主義を指し示してはいた。しかしそれ以上に、当時の支配者層の愚かさというのは、現実的な人々を自己責任主義へと強く駆り立てた。人々のそういった想いは今も変わっていない。18世紀の政府がやったことは、ほとんどすべてと言っていいほど、有害で不必要であったか、そういうふうに見えたのだ。
 
 その一方で、1750年から1850年の間に、個々人の創意によって物質的な進歩がみられた。しかも、統制のとれた国家なんていうものの指図を受けずになされた進歩だった。この経験がとても自然に感じられる理屈を補強した。哲学者と経済学者たちは、いろいろ深い理由があるけど、結局私企業が自由に活動したら社会全体の幸福を増進させるよ、と語るようになった。ビジネスマンにとってこれ以上の哲学があるだろうか? また、これを実際に目撃した人が、彼の生きた時代を彩る進歩の恩寵を否定することが出来ただろうか? しかもその恩寵は、「金儲けに夢中」な個人の活動がもたらしたのだ。政府の介入は最小限にとどめ、経済活動には手をつけずあるがままにして、成功を求めるというあっぱれな動機に突き動かされている人々の技術と創意にゆだねられるべきである。つまりそういう教義をはぐくむ土壌が出来上がっていたのだ。神聖であったり、自然であったり、科学的であったりする土壌が。
 
 そしてそのころまでには、ぺーリーとその眷属の影響力は衰えていて、ダーウィンによる革新が人々の信念を揺さぶっていた。古い信念と新しい信念。これほどまで相容れないものはないと思われた。この世界を神聖なる時計職人の偉業とみる教義と、この世界を確率と混沌、そして気の遠くなるような長い時間から成り立っているとみる教義。しかしある一点において、新しいアイディアは、古い考えを補強することになった。それまで経済学者たちは「富、商業の発展、機械化は自由競争によってもたらされたのであり、自由競争こそがロンドンをつくったのだ」と教えていた。しかし進化論者たちはさらに先を行っていた。「自由競争が人類をつくったのだ」と。もはや人間の目は超人的なデザインの存在を示すものではなく、すべてが奇跡的に上手くいった結果得られたものであり、自由競争と自己責任主義の下でこそあり得たことなのだ。適者生存の原則は、リカード的経済学の幅広い一般化と捉えることができた。この壮大な統合の下では、政府による介入は不要であるばかりでなく、邪悪な行為であるのだった。なんといっても、私たちが太古の海のバクテリアからアフロディーテのように立ち上がった力強いプロセスの前進を妨害するものと見なされたのだから。
 
 それゆえ、私は19世紀の政治哲学に特異な調和をみる。それは、多様で相争う学派を統一し、もろもろを一つの結論に一致させることに成功している。ヒュームとぺーリー、バークとルソー、ゴドウィンとマルサス、コベットとハスキッソン、ベンサムとコールリッジ、ダーウィンとオックスフォード主教。実際のところ、彼ら [対立者たち] は互いに同じこと ——つまり個人主義と自己責任主義——を説いていたのだ。これこそが英国国教会なのであり、その使徒たちなのだ。さらに経済学者の一団が、この教義からわずかにでも逸脱すれば、不信心の報いとして経済的困窮は免れない、と証明することになっていたわけだ。
 
 これらの理屈や雰囲気が、自覚のあるなしに関わらず、私たちがここまで強力に自己責任主義に惹かれる理由であるし、貨幣価値の操作、投資の方向性や人口問題に政府が介入しようとすると多くの人に熱のこもった疑念を抱かせる理由でもある。とはいえ、この堕落した時代、私たちの多くはこの問題に気づいてさえいないのだが。ところが実際には、私たちは彼らの著作を読んでさえいない。仮に読んで理解したならば、彼らの議論はバカげていると考えるだろう。にもかかわらず、もしホッブス、ロック、ヒューム、ルソー、ぺーリー、アダム・スミス、ベンサム、そしてマーティノー女史が、彼らが考えたように考えずに、そして書き記しように書き記さなければ、私たちは現在考えているようには考えていないだろうと思うのだ。人々の間で有力なものの考え方の歴史を研究することは、人間の精神の解放のためには不可欠な準備作業である。現在のことばかり知っていることと、過去のことばかり知っていること、私にはどちらがより人を保守的にするのかわからない。

||目次(PDFあります)||第2章>>

2009年10月8日木曜日

統計のもやもや

 世の中のことをわかってる人になりたい、と子供の頃はよく思っていて、大人の振りをよくしたけど、参考にした大人たちがかなり見栄っ張りで知ったかぶりする人たちだったので、思春期以降、おかしな振る舞いをなおすのにずいぶん苦労した。どんな話題でも、瞬間的に「そりゃそうだよ」と言いそうになってしまう。今はそういうのはなくなったけど、あぶないのが統計の数字を聞いたときだ。ついつい「統計上それはナントカだ」とか言いたくなってしまう。が、それをこらえてちょっと考えてみると、統計の数字だけではなかなか納得できない、もやもやした感じが残ることも多い。

 社会の変動を統計を通して見るのは社会科学では必須の作業だ。でも、これが難しい。先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだときも、統計ってこわいなーと痛感した。書評にも書いたように、実際に人が殺された殺人事件の統計は存在しない。なので、被害者数から推測したり、事件の性質から分類したりしなきゃいけない。つまり統計上の数字をそのまま議論に持ってくるのは危険だよ、ということだ。

 同じように、統計の比較も難しい。なんでも殺人事件の統計に毒殺を含めない国があるそうだ。こんなところにも、歴史的なバリエーションが生まれるんですね。一つの統計をそのまんま真に受けるとしっぺ返しを食らうかもしれないのだから、それを比較するのはそうとう慎重にならなきゃいけない。

 20代のとき就職難で非正規雇用しかなくても、30代ではちゃんとした職に就けている。だから景気と非正規雇用問題はあまり関係がない。雇用のミスマッチが起きている。という話を聞いた。その実際の数字を不勉強な僕は知らないけれど、なんかおかしいな、と感じた。まず思ったのは、景気が悪くなれば一番最初に削られるのが非正規雇用だから、非正規 / 正規で割合をみると、分子が減っていくので、そりゃ数字上は改善かもね、ということ。失業率との比較が必要な気がする。でも失業率は失業率で問題を抱えた数字だしね。

 次に思ったのは自殺者の数のこと(以下はここを参照)。自殺が景気とはリンクしていない、という研究もあるようだけど、日本の場合、やはり97年に激増していて、そのときの水準から戻ってきていない。たしかに自殺者数はこの10年間の失業率にはリンクしていないけど、不景気と無関係というのは考えづらい。というか、失業率と自殺者数の動きがばっちりつながっていないから両者は関係ない、と言えちゃうんだろうか? いや、それはここではいいや。そうじゃなくて、30代の自殺は一貫して増えている、ということが言いたかった。団塊ジュニアの数が多いから? とも思うし、確かに団塊ジュニアの先頭(1970年生まれ)が30歳になった2000年以降20代の自殺は減り始めるんだけど、2003年になると微増、そして横ばいになっていく。これは世代のボリュームだけでは説明はつかないんじゃないかな。というか、若い世代の人口が減っているのに、10、20、30代の自殺者数(割合ではなく)は横ばいか増加ってなんか怖い。

 田中秀臣先生がブログで書いていた。

まだ僕の本務校は統計とってる真っ最中ではっきりいえないんだけど、他の大学の来年3月卒業の学生の就職率がどうも実質ベースで10〜20%程度前年比で低下しているという情報がある。このブログたぶん多くの大学教員がみているはずだから、学生の就職状況がちょっとまずいのは直感でもわかってるんじゃないか、と思う。

 高卒の方はかなり深刻化しているわけで、この事態をみてまだメディアとかは「雇用のミスマッチ」とかたわけたことを書いている。そりゃ、見つかりますよ。この不況だって構造的に人材難もしくは待遇低くて人手が来ない企業なんて日本にごまんとあるから。


 正規雇用が増えたのは、景気が悪いので、非正規雇用が削られ、ひどい待遇でも我慢してる人が増えたからかもしれない。いやこれもそういうことが言いたいのじゃなくて、30代で正規雇用の割合が増えたとして、それを不景気で説明することもできるよ、ということが言いたかった。そして自殺者数の推移は、待遇の低さや本当の失業者数を示唆しているのかもしれない。

 以前書いたんだけど、オバマ政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長のクリスティーナ・ローマー先生が、職の数だけじゃなくより良い職を作り出すことが重要だ、と力説してた。それが景気対策なんだ、と。

 さらに勝間和代さんとの対談で飯田泰之先生は「効用とは心で感じる満足度」であり「効用は経済学では重要な概念」と言っている。たぶん、統計の数字で議論をひっくり返しても、それが人々の効用を反映しているものでないとあまり説得力はないんだろう。といって効用を計る手段はなくて、統計を参考に推測するしかない。なので僕のような粗忽者としては、いい加減なこと言っちゃうフラグが立ちまくりで、まあこれまで通りこれからもいい加減なことは言っていくんだけども、やっぱり今生きている人の効用が大事だよね、長期的には我々は皆死んでいるんだから、と思う。んで、統計の数字が話題になるときに感じるもやもやは、統計がどうしても長期的な視点になりがちだからだろう。二年くらいの統計を真に受ける人はあんまりいないだろうし。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール

 最近、ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』を読んだときのメモを読み返していた(感想)。で、ケインズの貯蓄に対する考え方のまとめがあった。彼は貯蓄する意図を問題にしていた。そりゃ長期的には貯蓄は将来の消費と同じだろう。お金を貯め込んだ本人が死んでしまえば、遺産として家族の手に渡りいくらかは消費されるだろうし、一部は税金として吸い上げられて公共サービスの維持なんかに使われるだろう。でもそれはもうずいぶん気の長い話だ。実際にはお金を貯め込むような人は消費もしないし、リスクの大きい投資もしない。ので、人の一生程度の時間では、貯蓄は格差をいっそう拡大させているし、なんだかんだいって世代を超えて受け継がれている(つまり長期的に貯蓄=消費というのは理屈だけで、実際は違う)。

 だからケインズは「長期的には我々は皆死んでいる」と言ったわけだ。だから今すぐなんとかしなきゃ、と。長期的には貯蓄は消費だし、北海道の失業と沖縄の求人だって、長期的にはマッチするだろう。では、貯蓄が消費に変わるまで、僕たちは10年も20年も待ち続けなければいけないのだろうか。待つことに失敗してしまったら、それは自己責任なんだろうか。もし待たなければいけない時間が100年だとしたら、運が悪かったとあきらめるしかないのだろうか。

 長期的な視点から現状を肯定するのは危険だ。統計が話題になったときのもやもやは、僕たちがその危険をなんとなく感じとったということなんだと思う。

2009年9月19日土曜日

勝間和代のBook Loversを聴いた その2

はい。珍しく予告通りのその2です。前回のエントリーは経済学者の田中秀臣先生をはじめ、ブログ等で紹介してくださった方々がいました。ありがとうございます。

さて、今回は経済学者の飯田泰之先生です。前半はミクロ経済学の話ですが、徐々にマクロの話へ移行していきます。経済成長とは具体的に何なのか、何をどうすれば経済成長といえるのかが語られます。

僕はさっそく本編で紹介されている『哲学思考トレーニング』と『将軍たちの金庫番』を買いました。んで、江戸時代の経済史を解説した『金庫番』は僕もおすすめします、文庫本ですし。前回の内容とも関わりますが、官僚と金融政策がテーマと言ってもいい本で、とくに幕府とハリスの交渉の解説は必読でしょう。官僚的な人ってのはいつの時代でも変わらないのか、と脱力すること間違いなしです。江戸の三大改革の経済的な実態は、もうなんというか情けなさでいっぱいです。自分の不遇さや劣等感を、倹約や禁欲と称して正当化し、周囲に押しつけるオジサンがたくさん出てきますよ。

さて、前回同様、実際の文言とはかなり違います。あとやっぱり長いです。何を言っているのか正確に知りたい方はBook Lovers本編を聴いてください。(2009年8月17日から21日までの放送です。)

(一日目)
勝間さん(以下 K):経済学の面白さ、志した理由を教えてください。

飯田さん(以下 I):もともと歴史好きなのですが、歴史が大きく動くときは経済も大きく動きます。例えば世界恐慌、そして昭和恐慌を経て、日本は貧困の問題を抱えて軍国主義に向かいました。こういうダイナミズムを研究してみたい、と思って大学院にいきました。院にいくと民間の就職先はそうそうないんで、気づいたら大学の先生になってましたね。

K:経済学は日常でこそ活きるんだ、と私は思ってるんですが、あまり理解されません。

I:そうですね。経済学のベースは個人の選択、何をして何をしないか、です。そこで問題になるのが限りある貴重なものをどう分配するか、ということです。勝間さんの本の中にもよく出てきますが、僕らにとって最も貴重なものは時間だと思います。その時間の割り振りというのは、一番経済学的な思考を必要としていると思います。これは日常の時間の使い方にも当てはまります。貴重なものの分配をどうするか、これをロジカルにやるのが経済学です。

K:私は会計士の勉強で経済学をやりました。経済学的に考える習慣がある人ない人で随分違いますね。

I:そうですね。特に機会費用という考え方が重要ですね。家で半日ぼうっとしているコストはどれくらいでしょう? お金を使わないのでコストゼロだ、と思ってしまうところですが、何か楽しいことをしたり、将来のために勉強したり、仕事をしてお金を稼いだりすることができたわけです。その実際の利益と実際には生まれなかった利益の差額が機会費用です。

K:時間の使い方に対する考え方が変わってきますね。

I:一般に経済学というとGDPとか為替というイメージですが、それはかなり応用の話で、基本は身近な意思決定です。応用の話はビジネスの最前線にいる人でないと、あまり重要ではないかもしれません。

K:応用がわかったところで予測も難しい。

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哲学思考
トレーニング
伊勢田哲治
I:予測できない、ということがわかります。なので日常に活きる経済学的思考が重要だと考えています。今日の本はそういう本です。

K:タイトルに「哲学」がついているのでわかりにくいですが、内容としてはロジカル・シンキング、クリティカル・シンキングの本ですね。クリティカル(批判的)にはネガティブなイメージがあるようですが、そうではないんですよね。

I:確かに批判というと文句ばっかり言っているイメージですが、考え方をブラッシュ・アップしていこう、ということだと思っています。この本はタイトルで随分損をしていて、なんだかカントとかが出てきそう。実際には論理的思考トレーニング、といったところです。

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ロジカル・シンキング
照屋華子・岡田恵子
K:類書に照屋華子さん、岡田恵子さんの『ロジカル・シンキング』という本があります。

I:はい。大学の僕のゼミでは必ず『ロジカル・シンキング』が一冊目です。これで基本の型を作ります。そして次に自分にあった思考法を今回の本で見つけてもらいたいんですね。自分で思考の型を作るための支援をしてくれる本です。具体的には、良い推論と悪い推論のちがいや、演繹法だけでなく帰納法も必要な理由、科学と疑似科学の差、などがやさしく解説されています。

(一日目はここまで)
(二日目)
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東大を出ると
社長になれない
水指丈夫
I:この本は小説なのであまり内容に触れるわけにはいかないのですが、昨日お話しした機会費用が大きく関わってきます。サラリーマンにとって起業はとても大きな賭けです。起業10年後に生き残っている会社は実に3%しかない、というデータもあります。この本は、ある男の子が起業をしようとするけど周りから止められる、迷っているうちに友人が……、というふうに進んでいきます。普通ビジネス小説というと、努力して困難に打ち勝って成功する、というイメージですが、この本はかなり違います。経済学的に妥当な展開をしていきます。

K:本文中に経済理論の説明が出てきます。

I:はい。経済理論に基づいた意思決定が描かれています。経済学の教科書というのははっきり言って面白くないんですね。この本は身近な出来事を題材にしているので、入門に良い本だと思います。この本を読んだ後、すこし堅めの経済学の本に進んでみるといいと思います。

K:小説の中で屈曲需要曲線に出会ったのは初めてです。

I:(笑) 実際に経済学を必要としているのはビジネス・パーソンです。しかし、経済学の本の多くはそういう人に向けて書かれていません。これまで経済学者たちは、経済学そのもののセールスをしてきませんでした。

K:アカデミックな場面以外で経済学が使えるということを、一般の人に知ってもらおうとしてこなかったわけですね。

I:僕は自分のことを「経済学のセールスマン」であると思っています。今大学では経済学があまり人気がないんです。

K:特に女子に人気がないですね。

I:ないですね〜。大学にもよりますが、男女比8:2くらいの大学も多いと思いますよ。東大に至っては9:1くらいでしょう。これは実にもったいないことです。英米系の大学ではエコノミクスが一番メジャーな専攻*1です。日本の場合、社会科学なら法学部、文学部。あとは工学部でしょうか。経済学は世界言語といえますから、これはホントにもったいないです。

K:私は日常で「効用」という言葉を使ってしまうのですが、通じていないのかもしれません。

I:効用というと、お薬の効能のことだと思われているかもしれません。効用というのは、自分の心の中で感じる満足度、のことです。経済学では重要な概念です。

K:機会費用を考えるというのはまさに、効用を比べるということですね。自分にとって一番満足のいく選択肢を探るということですから。自分の満足と手持ちの資源(時間やお金)、これを計って選択をしていくと、とても人生が面白いですよね。

I:そうなんです。「どうやったら自分の効用を改善していけるんだろう?」という疑問を頭の片隅に置いておくだけで、小さな意思決定の際に良い方を選べるようになってきます。逆に漫然と何かをすると、結局何もしないで終わってしまいがちですよね。

K:機会費用の概念を理解するだけで人生は随分変わってきます。

I:経済学というと金のことばっかり考えてる、と言われてしまうんですが、重要なのは自分の心の中の満足や目標です。それがちょっとづつでも改善したり前進したりすることが大事です。

(二日目はここまで)
(三日目)
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景気って何だろう
岩田規久男
I:昨日と一昨日は個人にとっての経済学の話でした。実際にビジネスを続けていくと、景気や経済政策が重要な意味を持ってきます。僕は景気についての理解が、日本の場合あまり広まっていないと思います。一般的にもそうですが、新聞記者さんでも曖昧な理解しかしていないようです。そこでこの本を紹介します。

K:サイクルとしての景気と、絶対水準としての景気がありますが、日本の場合、絶対水準としての景気ばかり注目されているようです。

I:はい。絶対水準としての景気と、景気が拡大しているかどうか(良くなっているのか悪くなっているのか)。この二つを区別しないと政策はうまくいきません。例えばいざなぎ越えと言われた2003年から07年にかけての好景気があります。一応これは景気の拡大、です。が、好景気だったのは一年もないと僕は考えています。

K:つまり絶対水準としての景気は良くなっていない、ということですね。そもそも好景気って何なんでしょうか。

I:経済学的には、潜在成長率を越えて成長しているかどうか、です。潜在成長率というのは計測が難しいんですが、今ある資源や人材を全て活かしたらどの程度モノが生み出せるのか、ということです。潜在成長率は計測する人によってバラバラの数字が出てきますが、大変おおざっぱに言いますと、年率2%です。なので名目GDPから物価上昇率を差し引いた実質GDPで2%以上成長していれば好景気といえます。

K:それは日本だけでなく?

I:はい。潜在成長率は、世界的にここ100年くらいそういう水準です。日本の場合、実質GDPがここ20年、年率0.数%でしか成長していません。なので、いざなぎ越えといわれる好景気でも、自分たちの暮らしが良くならない、と感じるわけです。そこで「景気が良いなんてのはイカサマか?」と言われてしまうんですが、景気は拡大しているんですが、絶対水準としての景気は良くなっていない、ということなんですね。この程度の拡大ではどうにもならないんです。

K:実感できないんですね。

I:そのせいで、経済成長や景気に対する非常に大きな不信感を生んでしまいました。さらに、日本銀行や財務省は、景気が良すぎる、と言いはじめました。

K:はあ!?

I:2006年の量的緩和解除の理由の一つが、バブル的に景気が良くなるかもしれない、というものでした。その予防的な措置だ、と日銀は言っています。予防も何も良くなってないじゃないかと思うのですが、なんだかよくわかりません。

K:解除は大失敗でした。

I:『景気って何だろう』にはそういった問題がよく整理されて載っていますし、ちくまプリマー新書の想定読者は高校生ですから、とてもわかりやすく書かれています。本書のなかにもありますが、景気の話で重要になるのはインフレとデフレです。景気の拡大を継続して、絶対水準で良いところに持っていきたいわけですが、デフレ状態では不可能です。デフレで景気が良いというのは、ほとんど形容矛盾です。

K:ハイパーインフレは恐れるのにデフレは恐れないというのが本当に不思議です。

I:その理由の一つに、デフレで心地よくなる人が結構いるってことが言えると思います。

K:はあ!?

I:(笑) 自分で商売をしている人や、ビジネスの最前線にいる人にとっては、まさに「はあ!?」としか言いようがないんですが、例えば僕の母親は「モノが安くなった」と大変喜んでいます。

K:お給料が一定で支払われいる人にすれば、収入は変わらないわけですからモノが安くなるほうが良いに決まってるわけですね。

I:そういう人びとが初めてデフレの害に気づくのは失業したときと倒産したときです。そこまで行かないと気づかないというのは、とても恐ろしいことです。

K:貧困問題のディベートに参加したときに、「デフレがいけないんですよ」と言ってもまったく理解してもらえませんでした。一体それが貧困問題とどう結びつくのか気づいてもらえませんでした。

I:貧困問題は企業が強欲だからだ、と言い返されてしまいますよね。しかし企業を攻撃するのはあまり意味がないと思います。実際に価値を生み出しているのは企業セクターですから。

K:デフレは例えるなら血液がどんどん減っている状況です。不健康になるのは当然といえます。

I:そうですね。ここ一年間でイギリスの中央銀行、Bank of Englandは貨幣の供給、つまり血液の供給を倍にしています。ものすごく輸血しているわけです。アメリカの中央銀行FRBも、80%くらい増やしてます。ケチで有名なユーロ圏の中央銀行ECBも50%くらい増やしてます。もちろんこれらの措置は金融危機に対応するためです。で、日本銀行は、だいたい5%くらい減らしています。さらにお金を増やしたときの波及効果(貨幣乗数)も下がってきていますので、急速な勢いでお金が足りなくなっている、といえます。血が足りない、でも輸血はしたくない、という状況です。

K:どう考えたらそういう政策になるのか、そこが謎なんです。謎といえば、法学部をでている人がなんで日銀に行くのかも謎です。

I:それは確かに不思議なんですが、日銀に入る人はエコノミスト組もけっこういます。しかし彼らの意見が政策に反映されることは全くありません。関係ないって思われているようです。

K:ひどい話です。

I:日銀は国民の審判を受けていない組織です。なので逆に世論を過度に気にします。つまり「自分たちは国民の信任に基づいて政策を実行する」という風に強気には出れないんですね。なので国民が嫌がるであろうインフレ政策を採用できないんです。

K:なるほど。飯田さんのお母様だったら「物価が上がって困る」と感じるから、ですね(笑)。

I:そうなんです(笑)。

K:この間石油や小麦(コモディティ)の値段が上がったとき、国民は大騒ぎでした。私はこれでインフレになるかも、と期待していましたが。

I:そもそもコモディティの値段は、中央銀行にはどうしようもないわけです。石油価格が上がって、それによってインフレになるのを日銀がコントロールすることはできません。仕方のないことですから。逆に石油価格が上昇しているのに金融を引き締めてしまえば、ますます血液が足りなくなってしまう。他の商品を一部あきらめて石油にお金を割かざるを得ないのに、さらにお金が減ってしまうわけですからね。資源インフレのときは、むしろ金融を緩和する必要があったんです。

K:それは経済学を学んでいればわかることですよね。

I:これは僕の仮説ですが、日銀が世論をすごく気にするのは、政治家がインフレを嫌がる国民の期待に応えて、日銀法を改正して独立性を取り上げてしまう、そうなることを一番恐れているからだと思います。なので、政治家以上に過剰に世論に反応してしまう。これがデフレの原因の一つだと思っています。

K:合成の誤謬ですね。一人一人の利益と国民全体の利益が相反している。こうなると国民の正しい理解がカギになってきます。

(三日目はここまで)
(四日目)
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将軍たちの
金庫番
佐藤雅美
I:今日の本は、江戸時代の経済の歴史の本です。江戸時代の経済政策、そのなかでも金融政策について詳しく書かれています。著者の佐藤雅美さんは小説家ですが、佐藤さんの小説は変わっていて、いつも江戸時代の経済、裁判、医療の話なんですね。今日紹介する本は小説ではなくて資料の解説のような感じです。

K:江戸時代の社会学的な作品をつくる作家さんなんですね。

I:僕は将来歴史小説家になりたいんですが、それほど江戸時代におもしろさを感じています。江戸時代に唯一足りなかったのはエネルギー革命だけだったと考えています。

K:それで人口も増えなかったんですよね。生産性もそんなに上がらなかった。

I:商業のシステムは発達していました。世界で初の先物取引所がありましたし、商人の力もあり教育水準が高い。国内の流通、郵便網もできていましたし、貨幣経済も発達していました。ここまでできて日本で産業革命が起こらなかったのは、やはり蒸気機関が日本にはなかったからでしょうね。

K:石炭はとれていたわけですから、作っていてもおかしくないんですけどね。発想がなかった。科学における遅れは、やはり貿易制限の影響でしょうか。

I:そうですね。それと日本の場合は、誰が偉いかといえば文系が偉いわけです。

K:どうしてもその話になりますね(笑)。士農工商ですもんね。

I:時代劇で見るような江戸の町並みはすべて1820年代を再現したものです。また、僕たちが江戸っぽいな、と思うもの、寿司、うなぎ、天ぷら、歌舞伎、浮世絵、こういったものも1820年代のものです。

K:もう明治の直前なんですね。

I:そうなんです。なので時代劇で徳川吉宗や水戸黄門が1820年代の江戸の町並みを歩いているというのは実に困った話なんですが、撮影されている太秦の町並みが1820年代ですからそうなっちゃうんですね。

K:私たちが2300年代にいるような感じですね。

I:ではなぜ1820年代がこんなに影響力を持つほど素晴らしい時代だったのかというと、これが金融政策の話になります。徳川家斉という浪費家の将軍がいまして、彼が老中に「どうしても贅沢がしたいんだ」と、そんなことを言うわけです。で、老中はお金をなんとか集めなきゃいけなくなるんですが、そこで貨幣の改鋳を行います。一枚の貨幣に含まれる金や銀の量を減らすことで、貨幣をより多く作ったわけです。例えるなら、一円分の銀しか入っていないのに、これは十円です、って言い張るわけですから、九円儲かるわけです。

K:今のお金の作り方と同じですよね。

I:そうなんです。これを乱発したんです。そうするとどうなるかというと、インフレになります。その結果、江戸の街は好景気になりました。そして、うなぎを食べたり、初鰹に一両なんて値がついたり、みんなで歌舞伎を見に行ったり、お伊勢参りに行ったりするようになったんですね。

K:バブルですね。

I:そう、文政バブル絶頂期というのが、今の日本人の江戸のイメージを作り上げているんです。

K:バブルというのはいつか弾けますが、文政バブルも弾けたんでしょうか。

I:ここが非常に賢いところで、急激なバブルを起こさないようにゆっくりとお金の量を増やしていったんですね。年率にすると1%くらいです。1%というのは現代ではすごく少ないんですが、当時はお金の量というのは減るかそのままかどちらかでしたから、その頃としては1%インフレが10年続くというのは充分に影響力のある数字です。そのおかげでとても安定して成長していきました。

K:まさにインフレ・ターゲットですね。

I:やがてバブルも弾ける、というよりもしぼんで終わってしまうのですが、それはこの政策をすすめた老中が在職中に亡くなってしまったからです。そうするとやはり、「こんな貨幣を乱発するような政策はけしからん」という雰囲気になってきます。そうして引き締め政策、つまりデフレ政策がとられるようになりました(天保の改革*2)。さらに、「商人は儲けすぎている」ということになって、規制が増えていきました。

K:そんなことをすれば大変な失業を生み出しますよね。

I:このデフレ政策によって、江戸というのは、ほとんど街の火が消えてしまったような状態になりました。

K:どこかで聞いたような話ですよね(笑)。1980、90年代の日本みたいです。

I:そうなんです。実は日本は江戸時代の頭からこれを繰り返しています。景気が良くなると意図的に引き締めてしまう。80年代後半からのバブルでも、アメリカのサブプライムローンバブルのように派手に弾けることはしないで、意図的に規制や金融引締めを行って潰しましたよね。そこで問題なのは、弾けたときよりも、意図的に潰したときの方がダメージが少なかったと言えるのか、ということです。

K:とんでもない。長期停滞を招きました。

I:弾けた後に手を打った方が軟着陸となったかもしれません。江戸時代の経済史を見ていくと、景気を重視し商人の活躍を評価する人たちと、商人がのさばるような世の中はけしからん、という人たちのせめぎ合いがあるようです。

K:それもどこかで聞いたことがありますね(笑)。

I:はい(笑)。江戸時代はそれでもいいんです。武家政権なわけですから、お侍が一番偉い。でも現代でも何故かそういう考え方が残っているんですね。

K:経済学部が不人気だというお話がありました。私は商学部なんですが、経済学部よりもさらに人気がないんです。ビジネス、商売、というとさらに女子が少なくなります。MBAというと元々商学部なんですが、こちらは何故か人気があります。

I:女性がビジネスに関心を持つ、ということに抵抗を持っている人がいるんですよね。会社の中に優秀な女性を囲い込もうとしない、結婚退職させる、なんていうのはとんでもない資源の浪費です。女性がビジネスに向かないと考えるのは男だけですね。

K:日本の男性だけですよ。日本は先進国のなかでも女性経営者、女性管理職の割合が極端に低いです。その上でそういう浪費をするから景気が回復しないんです。なので、潜在成長率は2%というお話がありましたが、それを越えて成長するためには、お金を刷って、典型的な働き方をしなくても人びとが活躍できる社会にすればいいんですよね。ある意味これだけなんです。

I:そうなんです。僕は非常に単純な一本道だと思っています。

(四日目はここまで)
(五日目)
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経済成長って
なんで必要なんだろう
芹沢一也・飯田泰之ほか
K:最終日の本は『経済成長ってなんで必要なんだろう』です。飯田さんが中心となっている対談を収めた本です。なぜ経済成長は必要なんでしょう?

I:どうやら人間というのは、毎年2%くらい要領が良くなっていくようなんです。人びとが2%分、より仕事ができるようになっているのに、経済の規模が成長しない場合どうなるかというと、毎年2%の人が必要なくなっていくんです。

K:恐ろしい話です。

I:言い換えると、毎年2%の人が失業していくわけです。アメリカやヨーロッパでは、もちろん経済の成長が2%を下回ることはあるんですが、平均すると2.5%~3%で成長しています。こうなると、いつもちょっと人が足りていないような、そういう状態が維持できます。

K:新しく社会に出る若者の雇用が生まれるわけですね。

I:そうです。それに対して日本の場合、1%かそれ以下の成長がずっと続いています。そうすると、だんだん人が要らなくなってくるわけです。長い目で見ると経済成長の源泉は、人びとが仕事に馴れて、そして新しい発明が生まれ、付加価値をより多く生み出していくことです。個々人が2%の成長を繰り返していく中で、新しい産業が起こり、経済全体も成長していきます。ところが、若者に雇用が足りていないと、2%成長するチャンスがない、ということになりますから、周囲との格差が生まれますし、経済も長期的に停滞します。これを防ぐためには、経済が2%成長しないと話になりません。

K:最低限実質成長率が2%ないと社会が維持できないんですね。

I:定常型社会を目指す、とかよく言われますが、定常型社会というのは0%成長のことではありません。人間の成長に会わせた2%の経済成長がなければ無理です。こういうふうに言うと、経済成長はもう出来ない、と言い返されます。これだけ物が豊かな社会のどこで成長するのか、と。この主張に対する重要な反論は「日本以外全部成長してますが、何か?」です。むしろ、なぜ日本だけできないのか説明して欲しい。なぜか日本では若者でも「もう成長をあきらめよう」というようなことを言う人たちがいますね。

K:アメリカもヨーロッパも成長しているのに。

I:はい。しかも、多くの人が経済成長のイメージとして、米を二倍食うとか、服を二倍買う、という感じでとらえているようです。付加価値という考え方が広まっていないんですね。

K:機会費用の考え方が理解されない、というのが今週のテーマのようになっていますが、付加価値の考え方もですか。

I:どうしても量で考えてしまって、もっと美味しいもの、もっとデザインの優れたもの、という質的な経済成長の考え方になかなか至らないんですね。しかし現実には1970年代に量的な成長というのは終わっています。

K:買い物をするときにいつもより高いシャツを買う、とかそういう成長なんですよね。

I:それと、この本で貧困問題について取り組んでいらっしゃる湯浅誠さんと対談しました。何が貧困をつくりだしているのか? デフレと不況がつくっているんだ、ということが、貧困問題を語る人たちの考えから抜けてしまっているように思いました。

K:私も湯浅さんと対談しましたが、そこが議論になりました。湯浅さんは介護や農業にまわればいい、と言っていましたが、それだけでは全然足りないと思います。

I:現在ここまで失業が深刻になったのは、まさしく不況だからです。さらに、不況で失業者が多いですから、上司は部下にプレッシャーをかけやすくなります。「お前の代わりはいくらでも」というわけです。これが生きづらさ生む要因にもなっているでしょう。このように考えますと、様々な問題がありますが、本丸は景気が悪いこと、です。もし景気が良くなって、人手不足になれば企業は労働者の様々な要求に応じるでしょう。例えば、労働時間を自分で選ぶ、とか。

K:なぜ日本では景気が悪くなると長時間労働になるんでしょう。

I:景気が悪くなると、企業は給料を下げたくなるんですが、これはなかなか実現しません。なので同じ月給で長時間働かせることで時給を下げるわけです。デフレで売上げが落ちてますから、企業としてはそうでもしないとペイしないわけですね。

K:デフレだからこそ長時間労働になるんですね。だからインフレ・ターゲットと総労働時間規制を一緒にしないとだめだと思うんです。そこで最低賃金だけ上げてしまうと、単に失業者を増やすだけになってしまう。

cover
脱貧困の経済学
飯田泰之・雨宮処凛
I:そうなんです。最低賃金についてはこの本でも語りましたが、雨宮処凛さんと出した『脱貧困の経済学』という本でも解説しています。最低賃金がもし1,000円になったら、地方のサービス業は壊滅です。例えば東北地方の県庁所在地じゃない市の居酒屋さんは一時間1,000円も稼げているわけがないんですよ。

K:民主党はマニュフェストに入れてしまいました。

I:一つカラクリがあるとすれば、日本では最低賃金を守っている企業はほとんどないということです。守っているのは一部の大企業だけ。しかも破ったところで目立った罰則もないですし。なので、今は選挙直前ですが、もしかしたら民主党は最低賃金を上げると主張しても実害はない、と踏んでいるのかもしれません。

K:各政党のマニュフェストを見るたびに、そこが本質じゃないだろう、というような話ばかりです。

I:そうなんですよね。各政党の経済理解の問題もありますが、選挙民の前で経済の話をしてもわかってもらえない、というのもあると思います。インフレにする、なんて言ったら選挙には落ちてしまうでしょうね。増税や再配分のしかたを変更する、というのも同様でしょう。しかし実際には、2%のインフレと2%の実質成長があると、毎年だいたい4.5%税収が伸びるんですね。

K:良い話じゃないですか。今デフレで国債の実質負担がどんどん増えてますよね。額面だけが注目を集めていますが、政府は何を考えているんでしょう。

I:それには財務省内のセクト主義が関係しています。景気が良い時には、国債の額面の金利が上がります。お金を返す時、名目では利子が高くみえるわけですね。それがいやだから、デフレを放置している。

K:ええ!? クーポン(表面金利。国債の額面の金利)なんかより元本のほうがよっぽど大きいじゃないですか。物価が下がれば発行した国債全ての実質負担が上がってしまいます。新しく出す国債の額面の金利なんか問題にならないでしょう?

I:その通りなんですが、「それはウチの課の仕事ではないんで」と言うんですね。「ウチは国債のクーポンを決めるのが仕事であって、返済についてはヨソでやってます」ということです。

K:……。一度二人で行脚しましょうか。国会議員に経済学を知ってもらわないと。

I:どちらの政権になるにせよ、議員の先生方に説明しなくてはいけないでしょうね。ところで、今日紹介した二冊の本の中では、ベーシック・インカムの導入を推奨しています。

K:今の税制や社会保障は、国民を年齢や家族形態で分けて扱っています。そうではなくて、人びとの生活における必要性で分けていくべきですよね。

I:そうですね。そこで一番大きな問題は、日本の若者の場合、税金を取られた後の方が不平等度が上がってしまっているんです。普通の国では、税金というのは多く持っている人から多く取るわけですから、取った後再配分すると、人びとの不平等はちょっと是正されるはずなんです。ところが日本の場合は不平等が拡大されてしまう。

K:特に高所得者の負担が意外と低いんです。これは社会保障料が一定額であるからだと思います。どんなに貧乏でも国民年金保険料には14,660円、どんなにお金持ちでも14,660円です。社会保障における税金の割合を上げて、社会保障料の割合を下げないと不公平感はなくならないでしょう。お金持ちは税金で5割取られてるんだからもう充分だ、と反論してくるでしょうけども。

I:しかしそれも10年くらい前までは最高で75%でした。75%はやり過ぎですが、せめて90年代半ばの水準、60%にはもどして欲しいですね。

K:5割取られるのがイヤな人は法人税にしてしまうんですよね。それでおおむね4割になりますから。他にも抜け穴があります。納税者番号のない弊害です。

I:納税者番号がない、そして消費税がよくわからない大福帳方式、というのが問題です。

K:益税の問題ですね。消費者が税金として支払ったお金が、事業者によって納税されずにどこかに消えてしまう。

I:今日紹介した二冊では、今何が必要なのか語っています。生活が苦しかったり、ビジネスがうまく行かなかったりするその元の原因はなんなのか、知って欲しいですね。
(おしまい)

さて、統計は難しいなあとつくづく思うのですが、日本の経済が過去20年、どれくらい成長したのか、ずばっと言い表すのはなかなか難しいようです。というもの、数値が過去にさかのぼって改訂されることがままあるからです。本編中で飯田先生は「0.数%」「1%かそれ以下」としていますが、扱う数値によって差があるようです。しかしそれでも2%は超えないみたいですよ。(僕の手元にある伊藤元重・下井直毅『マクロ経済学パーフェクトマスター』の付録には2001年までの数値しかありませんが、1990〜2001年の経済成長率の平均は、1.583%です。また、飯田泰之・中里透『コンパクトマクロ経済学』では「1993年から2002年の平均経済成長率は1%前後であり、これは過去の日本経済や最近の先進国と比べてもとくに低い成長率となっています。」[p.170]とあります。)

アメリカの経済学者レベッカ・ワイルダーさんがブログで、FRB、BOE、ECBの比較をしていました。それによると、この3中央銀行の金融緩和は不十分であるかもしれない、とのこと。貸し出しがのびておらず、信用創造が進んでいないので、金融緩和を止めるにはあまりにも早すぎる、としています。もちろんこの比較に我らがBOJは出てきません。だって始めから引き締めてるんだもの。

追記:飯田先生が紹介している伊勢田哲治著『哲学思考トレーニング』を読んで書評を書きました。コチラです。

*1:……。

*2Wikipediaの天保の改革のページをみると、風紀取り締まりの一環として、歌舞伎の都心からの追放があります。しかも明治まで復活しないんですね。またクメール・ルージュばりに都市住民を農村に強制移住とか、貸出金利の引き下げとかもしてますね。一部の商人が流通を独占しているから物価があがるんだ! として、株仲間が解散させられたりもしました。なぜか21世紀に生きる僕らにとって妙になじみ深い「改革」であります。日本人にとって改革=デフレなんでしょうか。