2008年12月22日月曜日

なんかテンプレートが

テンプレートの表示が上手くいかない。この派手な感じが好きなんだけど、上手くいかないのなら仕方が無い。と、いうことでデザイン変更します。訂正して追記:変更しました。これからぼちぼちいじっていきます。 ころころ変えるのは好きじゃないけど、ま、仕方ないですね。

これからテンプレート探しの旅にでますが、

  • やっぱり3カラムが好き
  • もう少しシンプルなヤツ
  • せめて英語でコメントしてあるヤツ(今のはポルトガル語?でコメントしてあるので、分け分からん。訂正して追記:今回も?な言語でコメントしてありました。 自分でいじれない(これは僕のスキルの問題か))

こんなところで探してきます。それまで表示に問題があるかもしれないですけど、ご辛抱いただければ。

2008年12月21日日曜日

炒め物の味付け

炒め物は大好きなのでよく作る。今日は豚バラともやしと舞茸としめじの炒め物。味付けはバターとしょうゆとオイスターソース。我ながら感動するくらいおいしかった。そこで炒め物の味付けパターンを。

めんつゆ
基本。七味を入れるのもいい。

しょうゆとみりん
きんぴら風に。七味あり。

みそとしょうゆ+オイスターソース
あと砂糖をちょっと。みそを減らして豆板醤を加えてもおいしい。オイスターソースは入れすぎないこと。

バターしょうゆ+オイスターソース
オイスターソースは神様です。でも入れすぎない。

塩(と胡椒)
肉の脂と酒や野菜の水分で塩だれっぽくするとうまい。ごまをたっぷり使う。

今の時期はきのことネギがうますぎる。


 

2008年12月19日金曜日

今日、

不思議な別れがあった。お互いに探って探って別れたという感じだった。残念だし寂しい。だからこれで良かったと思うわけでもない(思わないわけでもない)。けど、この別れがなにかの証しであるような感覚がある。道が続いていることの確証であるかのような。

cover
蟲師
漆原友紀
蟲師というマンガが終了した。大好きな作品だったから残念だし寂しいのだけど、今日経験した別れのような不思議なさわやかさがある。

蟲師・ギンコの旅は、第1話と同じようにつづいているのだろう。また出会う、という思いとは違う。でも、ああ、そうか、人の歩いている道は同じ道だったんだ。その証しだったのかもしれない。

数ヶ月前からpreciselyに予告されていたような、それでいて突然の、予期できない別れだった。

日銀、量的緩和を実施へ 追記あり

今日の読売新聞

日銀、量的緩和を実施へ

日本銀行は18日に開いた金融政策決定会合で、事実上の量的緩和政策を導入する方向で最終調整に入った。


ならばなぜ2006年に量的緩和を解除し、利上げしたのか、と問われなきゃいけないよね。なぜ追い込まれてからやるのだろう。政府につつかれて、日本より高成長のアメリカよりも出遅れているんだから、自分で自分の独立性を危うくしているようなもんだ。

この間も書いたけど、日銀にとって危機って何なのか。デフレ、雇用不安、失業、税収の落ち込み。こういった事よりも、「アメリカがやったから」という理由のほうが重要なのか。ともかく、やっと日本も金融政策が動き出す。次は財政政策だ。

追記:
経済学者の田中秀臣先生曰く、今回の利下げはシナリオ通り、つまり言い訳みたいなものだとか。ということは、相変わらず日銀はやる気が無いってことか。うーん。ここで日銀の政策委員の最近の発言を見てみると、わざとボケてるんじゃないだろうか、というような発言があったりする。例えば「政策金利から消費者物価指数の上昇率を引くとマイナスだから低金利」とか。それってCPIをそのまま使ってるんだろうか。コアでもコアコアでもなく? 日銀はCPIの上方バイアスを意図的に無視していると、高橋洋一さんが書いていたけど、既に指摘されてるのに、まだそんな感じなの? 日銀にとっての危機ってホント何なんだろう。

2008年12月18日木曜日

タンス預金についての疑問


FRBの発表から一夜明けて、なんかマスメディアは「日本も続け! 日銀何やってんだ!」みたいな雰囲気ですなあ。もちろん良い事だと思うけど、日本はずっとデフレなんだからもっともっと早くやらなきゃいけなかったんだ。メリケンを待つ理由なんかない。

経済学者のマンキューさんのブログ
を読んでいたら、オバマ政権入りが決定した物理学者のチューさんが、「アメリカのガソリン税をヨーロッパ並の水準に上げたい」と言っているんだそうな。うーん、エネルギー・環境対策チームの長官になる人として抱負を語っているのだから当然のことなのだけど、不況の入り口でそんなこと言わないで、とも思う。「消費者が燃費性能の良い自動車を選ぶことを後押しする政策を実施したい」、とかマイルドな感じでお願いします。

で、今回の本題。今更ながらタンス預金について疑問に思うことをメモ。

今現金として出回ってるお金の総額は75兆円くらいだそうだ。んで、今年の夏の日銀レビューが発表したタンス預金の予想額が30兆円。半分とは言いませんけど相当な金額ですね。レビューの中では、金融システム不安とペイオフ、低金利が、タンス預金の原因としていて、それはそうなんでしょうけど、なぜ現金? と思うのです。普通預金でいいじゃん。

預金金利が低いから、タンス。という理由が考えられるけど、それにしたって現金のまま持っていたって利子はつかないし、銀行(や郵貯)に預ければ、泥棒の心配も無いし、今はATMがどこにでもあるのだから不便でもない。ペイオフのせいというのもわかるけど、流石に1,000万円を超える金額を家の中に置く人がたくさんいるとは思えない。

このお金は使われないわけで、生活費とは当然別だ。なので流動性選好というのじゃ説明できないんじゃないかと思う。レビューによれば1995年にはタンス預金は5兆円ぐらいだったそうだ。それが6倍にも跳ね上がった理由は何だろう(ちなみにレビューにはもう一つの計算方法が載っている。その方法だと1995年に1兆円だったのが2007年では30兆円になったという)。

跳ね上がった結果をみると、デフレが続いたわけだから、実質的に利子がついたことになる。しかしこれは結果論だと思う。デフレを狙ってタンス預金はしないだろう。だってそれなら銀行に預けていたって同じなのだ。低いながらも預金金利もついてくるから、預金のほうが有利だし、流動性ったってあんまり現金と変わらないと思う。

それでも現金という形を選ぶ理由といえば税金ぐらいか。でもなあ、預金に対する税って利子に対する税(20%)だから、タンス預金の金額が数百万円で金利が0.01%だとしても数千円くらいのもんだ。結果的にはデフレだったけどインフレリスクだってあるわけだし。

うまいこといけば相続税をばっくれちゃえるかも、ということなんだろうか。脱税と言えば現金だし。それと、振り込め詐欺で、税金の還付金がどうのこうのといわれてダマされる被害者がいるという話を聞いて、随分税金に敏感なんだな、と思ったことがあった。知らぬまに税金を持っていかれているという意識があるんだろうか。例の「国の借金は国民一人当たり云々」というアレな話や、税金の無駄遣いとか、消費税アップの話とかを毎日聞いていれば、近い将来、ものすごく重税になる気がするのも頷けるが。

日銀レビューでは、

これらの点を踏まえ、先行きの銀行券や流動性預金の動向に対する見方を示すと、鍵を握る高齢者は、今までのところ金利の緩やかな上昇に対してあまり反応していない。このように、高齢者の金利感応度が相対的に低いことからすると、先行き、金利が多少変動しても、それが小幅に止まる限りは、高齢者の銀行券、流動性預金の保有は大きく変わらず、高止まりを続けるとみられる。(p.5-6)


とあって、高齢者が現金を保有し続けている理由を一応低金利としてるけど、よく分からない。

My seasonal disease

毎年のことで自分でも笑ってしまうんだけど、僕は4月と11月、すごく調子が悪い。で、これも毎年なんだけど、いっつも「あ、今回は大丈夫じゃん。快調!」とか思ってる。本気で。でも振り返ると、あーやっぱダメだったよ、と思い至る。今年はブログをはじめたので、エントリの数に如実に表れているので分かりやすい。

体調を崩すわけでもないし、生活が乱れるわけでもないけど、会話が最小限になったりする。鬱っぽいんですな。学生時代は、だからすごく苦労した。入学とかクラス替えがあるからもちろん緊張するのでそのせいもあるけど、もうデフォルトで無口、しかもそわそわしてる。まあ僕は出だしでつまずかなかったことなんてないからいーんだけどさ。

で、11月の精神状態を振り返ってみると、どうも一発どでかいホームランを狙っているせいで身構えてしまっていたような気がする。でもそれでいて、いつも通りちまちまやっていることもあったしなー。ようわからん。ただ、効率的で理論的である事に拘ったり、計算や計画や分析ばかりして、じっくり観察したり、素直に感じたりすることはなかったかもしれない。かっちょいいロボットのプラモデルでも作ればよかったのかもしれない。あとレゴとか。

今回、あ、やっと終わったよダメタイム、としみじみ感じたのは、アニメOne Pieceの第380話を観た時だった。ブルックの過去と現在が悲しくも楽しく重なっていくという感動的な回で、原作でも象徴的だったシーンを見事に描ききったな、と思わせる素晴らしいエピソードだった。お話の中心となる歌、「ビンクスの酒」は今までに何度か登場してきていたけれど、今回のアレンジがとても良かった。裏メロっていうんでしょうか、バイオリンがさわやかで切なげで、人々の思いをなぞっているようでした。



YouTubeのコメント欄をみると、誰も思う事は同じだなあとうれしくなる。日本語でも英語でも、「この海賊団に入りたい!」というコメントが必ずある。僕も同感ですよ!

あと記憶違いかもだけど、冬!っていう気温になったのもその頃だったような気がする。もしそうなら春とか秋がダメってことなのかなあ。

2008年12月17日水曜日

FRBのリフレ政策と幸せな人。


FRBがゼロ金利と量的緩和政策を宣言した。バーナンキさんはFRBの議長になる前、日本に対して量的緩和政策を説いていた。それを自分の国で実行したわけだ。その内容はまさにリフレ政策だ。量的緩和政策は日銀が初めて行ったことで有名だが、今回のFRBのそれはもっと本格的なものだ。どの程度実施するのか事前に決めていない、つまり事態が改善されるまでやる、という力強いもので、腰の引けた日銀バージョンとは大違いだ。

日銀はこの期に及んで何もしない、何かしても出し惜しみしすぎて評価されないという情況が続いていた。これで追い込まれた感じですなあ。実際に日米の金利差が逆転してしまったんだから。体面ばかりにこだわって戦力の逐次投入した挙げ句こんなことに。日銀ざまぁ、日銀涙目(って実際に苦しんだのは国民であるわけだから笑ってられないんだけど)。

さらに今回の危機で、普段から金融政策なんか効果ないよ、リフレ派ってばかじゃないの的な悪口をいいつのってきた経済学者(とか評論家とか)が次々に転向しているのだという。「今更かよ」と思うのは、まあ人情として有ります。だってリフレ派が言っていたことは経済学の教科書に書いてあることなんだから。それを「根拠が無い」とか言われてもね。コーゾーカイカクをすれば景気が良くなるって話のほうが根拠が無いじゃんか。

しかし危機に態度が変わるのは当然のことだから別にいい。問題は彼らが今の今まで危機だと思っていなかったってことだ。失業率が高止まりし、自殺者の数も減らず、アメリカ頼みの景気で、出生率も低い。これが彼らにとって危機ではなかったというのが驚きなのだ。

僕はリフレ政策が需要を喚起すると考えているので、リフレ政策がこういった苦境から脱出するための基礎になるだろうと思っている。

話変わって、どの本か忘れてしまったのだけど、幸せな人はどんな人か、という話があった(タレブだったような気もするけど、不確かです。)。幸せな人は、大切なことにはすごくこだわるが、それ以外のことにはとことん無頓着であるという。つまり、人の生き死にはもちろん、人の気持ちにすごくこだわるのだという。寂しい思いをしていないだろうか。辛い日々を過ごしているのではないだろうか。そうやって人を思いやっているのだそうだ。そしてその一方で、表面的なこと、例えば収入が、学歴が、外見が、というようなことには全然こだわらないのだという。

日々生きて、楽しんでいることこそが大事なのだ、とそういうことだ。でも、子供が欲しいと思えばどうしたってお金がかかる。仲間と過ごそうと思ったってお金はいる。バブル崩壊以降、不景気のツケはほとんど若者が支払ってきた(不安定な雇用や低賃金、子供をあきらめるという形で)。こんなことが十年以上続いている。これを大切なことの危機と見ないのであれば、それはきっと不幸な人なのだろう。人の気持ちよりも体面を保つ事に汲々として年を取っていくのは、それはそれでつらいものだろう。

が、盛者必衰。戦後育ちの老人たちの天下もいつかは終わる。それが終わった時、僕らが体面にこだわっているようなら、僕らの負けだ。

2008年12月15日月曜日

定額給付、ないの?

一ヶ月さぼってしまった。のでリハビリモード。

麻生総理の支持率がすごく低いんだそうだ。で、国民に現金を配っちゃおうという定額給付も無かった事になっちゃうんでしょうか。僕、欲しいですけど。

お金を配るなんて言う下品なことじゃなくて、弱者救済のために失業保険などのセイフティーネットを強化すべき、という人もいるようだ。今月の頭のほうで日経新聞の社説がそうだった(もうネット上にはないのかな?)。うーん、そういうこと言っちゃうのかよ。

日本の労働者が6,000万人いるとして、どのくらいの人が失業保険を受け取れる資格を持っているだろうか。既に非正規での雇用は全体の三割をしめる。ってことは1,800万人が例え失業してもお金はもらえない可能性が高いわけだ。それにそもそも失業以前に収入の少なかった人に支払われる額は低く、多かった人には多く支払われるんだから、べつに弱者救済というわけでもない。やっぱりどう考えても失業保険を受け取れない人のほうが弱者だろうし。

弱者救済が目的なのか、それとも景気対策なのか。景気が良くなれば低所得者も一息つけると思うよ。弱者救済を本格化するならその時だろう。景気が良ければ失業も減る、これ当たり前。定額給付は景気対策としては効果が薄いと思うけど、セーフティネットの一時的な強化よりは理にかなってると思う。欲しいし。

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セイヴィング
キャピタリズム
R・ラジャン
L・ジンガレス
『セイヴィング キャピタリズム』という本を読んだんだけど、この本には、景気が悪くなると既得権を持つ人たちが弱者と手を組んで権益を強化しようとする、と書いてある。これは、GMの労組が日本の自動車会社並みの給与水準を受け入れないがためにGM本体がなくなってしまうかもしれない、という今の情況をよく説明していると思う。日本車がアメリカの消費者に受け入れられたとき、BIG3は労働者と組んで日本企業に枷をはめて既得権を強化した。前回は上手くいったけど、今回はどうだろう。なんかアメリカ国民は醒めてる感じだけども。だって業界を保護したコスト(日本車の値段が割高になったこと、燃費の悪いアメリカ車の数が減らずに環境に負荷がかかったこと、など)を支払ったのは消費者である国民だものね。

アメリカも結構、特定の業界の保護とかしてるわけで、日本はさてどうでしょう、なーんて新聞社が知らない分けないよね。なので、セーフティネットの強化は、結局既得権を持った人たちのところにしか届かないと思う。それにBIG3が今回倒れそうってことは、業界の保護にも限界があるってことだ。しかも業界の末端にいる労働者(一番多い)が保護の恩恵を受けるとは限らない。保護されているのは「非効率なやり方」であって労働者じゃないかもしれない。だから労組は条件を飲まなかったんじゃないかな。ぶっちゃけ業界を通してではなくて国民をダイレクトに保護したほうが安上がりだ、と『セイヴィング〜』にもある。

なのでセーフティネットの強化に何が何でも反対をしたりはしないけど、その前に景気対策だろ、と思うのですよ。欲しいしね。

実質的に国家の保護を受けている人とそうではない人がいるってことを新聞は伝えるべきだ。新聞が既得権の味方であることを堂々と標榜しちゃうとはね。

2008年11月12日水曜日

書評・伊藤昌哉『池田勇人とその時代』

田中秀臣先生のこのエントリー末尾の「金融政策に思い当たらない世論」という言葉をみて、ぼんやり思うことがあった。で、以前から書こうと思っていた書評を書きます。

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池田勇人と
その時代
伊藤昌哉
この本、伊藤昌哉『池田勇人とその時代』は、戦後、池田勇人が総理大臣としてどう生きたか、を追った本だ。なので池田勇人首相の秘書官がみた池田勇人を描いた本であって、池田の業績をまとめて分析した本ではない。だから話がどんどん進んでいくし、やたらに楽しい。

この本の書評は以前に一度書いて、次は池田の経済政策について書こうと思っていたけども、なんとなく書きそびれというかテーマがないというか、何を書けばいいのかわからなくて頓挫してしまっていた。せっかく古本で手に入れたのに(以前の書評は図書館で借りたときに書いた)。で、田中先生の「金融政策に思い当たらない世論」がヒントになって再チャレンジというわけ。本書のなかで、著者が自分は「経済にうとい」と繰り返し述べているので、経済政策については細かく描かれるわけじゃないけど、それでも結構充実していると思う。池田の経済政策の背後にある信念が読み取れるようになっている。


著者は新聞記者から池田の秘書官になったので、本の最初のほうは記者時代の話だ。池田と言えば大蔵大臣時代の「貧乏人は麦を食え」が有名だが、実際の発言の主旨は、「低所得者が米を食べられるようにするために、米の値段を統制する気はない」ということであった。無愛想な態度が記者に不人気だった池田は、いちいち狙われていたようだ。本文を引用しよう。

そのうち[記者]クラブの中心人物が、なんとかして池田をたたこう、と言いはじめた。さんざん考えたあげく、「池田は単純だから、誘導尋問で怒らせたうえ、失言をひきずり出そう」という作戦になった。
 年があける。二月、三月は徴税期で、引き締め政策(当時はドッジ・ライン)をとっているときは、いつでも危機説が経済評論家の売りものになるころだ。
「これだ。これ、これ」というので、三月一日(昭和二十五年)、国会の委員室をかりて大臣会見をおこない、その質問の矢を放った。案のじょう、「ヤミをやっている中小企業の二人や三人、倒産してもかまわない」という放言がとび出した。それ書け、とばかり各社いっせいに砲列をしく。
p.20 [ ]内は引用者


こういった雰囲気の中で、やがて「貧乏人は麦を食え」というキャッチーなフレーズが生まれてくる。ちなみに池田自身、麦飯を食べていたのだと言う。

今も昔もあんまり変わらないなあ、と色んな意味で思う。ジャーナリズムについてもそうだけど、経済評論家についてもそうだ。現在、世界的に金融緩和政策が取られているから、日本は相対的には引き締めに見えてしまう。それでなくてもデフレが続いていたわけだから、ここ十年以上、引き締め政策だったともいえる(ドッジラインってインフレを押さえ込むためのデフレ政策でしたよね?)。危機説が大量生産されつづけているのにも納得だ。

さて記者である著者がなぜ池田の秘書官になるのか。その理由、動機ははっきりとは書かれていない。なんというか言葉できっちりと説明できるような感じではない。きっと著者の志が理由なのだろうし、池田もそれを受け止めていたようだ。もっとも、新聞との関係を良くしたいとも思ってはいたようだが。

著者はまた、金光教の信徒で、ことあるごとに教会の判断をあおいでいる(もちろん自分の事についてであって、政局の行方とかを聞くわけじゃない)。これも面白い。著者は教会の指示(?)に疑問を感じながらも従うのだけど、これが絵に描いたような信心では全くなくて、疑いながら不安を抱えながら生きていく。結果はでない。また悩む。焦る。時間がかかる。ああ、これが信仰なのかな、などと無信心者の僕なんかでも思う。この本はこういう人が書いているから抜群に面白いのだろうと思う。

さて経済政策である。池田と言えば所得倍増計画だ。しかし所得倍増計画の動機もはっきりしない。むしろ結果がでてから正当化していくような印象さえある。が、とにかく経済成長をしなければ、という思いが池田にはまずあったようだ。

 池田はもともと楽天家で、勇ましく、大きなことが好きなたちだった。それなのに、これまで大蔵大臣としてやらされてきたのは、ほとんどいつも引締めばかりだった。
p.81


また、戦後、主税局長時代の話として。

 彼の徴税ぶりは有名で、根津嘉一郎の遺産相続のときや、講談社の野間清治にたいする取り方は、すさまじいものがあったらしい。池田はのちによくそのことを思いだした。「俺はあのころ、税金さえとれば、国のためになると思っていたんだ」と言ったことがある。
p.76


それでは「国のため」にはならない、と思ったのだろう。だから政治家になったのかもしれない。だから経済成長を基本に考えるようになったのかもしれない。

そして岸内閣へのまさかの入閣を経て総理大臣となる。安保騒動の殺伐とした雰囲気が残っているなか、池田内閣は新政策を発表する。昭和35年(1960年)だ。その経済政策を引用してみる。

 経済はインフレなき高度成長政策を採用した。公共投資と減税と社会保障がこの政策の三つの柱である。こうして国内経済を発展させながら、一方では国際情勢に対応して貿易の自由化をはかり、他方では雇用を拡大し、労働の流動化を促進し、農業・中小企業の近代化をはかろうとするのだ。
 三十六年度を初年度とする道路五カ年計画、国鉄のディーゼル化と複線化(公共投資)、三十六年度はもちろん、年々1000億円以上の所得・企業両面にわたる減税、金利引き下げと公社債市場の育成(減税と金利政策)、国民年金の改善と健康保険の給付率の漸次的な引上げ(社会保障)、などが具体的な行政措置であった。
p.106 強調は引用者


cover
日本文明
世界最強の秘密
増田悦佐
うーん。なんか今でもなお必要な政策に見える。特に公共投資。鉄道網の発達こそが日本の発展を支えた、という増田悦佐氏の主張と合致している。今後だって、都市の生活を向上させれば高齢者の福祉にもつながるだろう。都市向けの公共投資、その中でも交通機関の整備は必須だと思う。ただここで強調したいのはやはり「金利引下げ」だ。当時、マスメディアはしきりにインフレだ、インフレだ、と騒いでいたようだ。だから金利を引き下げれば、当然インフレを押し進める要因となるわけで、今だったら無責任とか非難されるところだろう。当時も突っ込みはあった。さて池田はどう答えたか。以下、朝日新聞のインタビュー。

問い 最近の物価値上がりをどう考えるか。
答え たしかに小売り物価は上がっている。私は鉄道運賃と郵便のうち、ハガキ・封書は上げない。ほかのものはわかりませんよ。小売り物価の値上がりの原因は、野菜・豚などで、台所にひびくからなんとかしなければならない。しかし経済的に心配なのは卸売り物価だ。卸売り物価は国際収支にひびく。これはそう上がっていない。小売り物価は、国としては二義的なものである。
p.110


輸入しなければならない原材料の値段が上がると外貨が減る。これが「国際収支にひびく」という表現の意味なんじゃないかと思う。当時は為替が固定だったわけだから、輸入品の値上がりには外貨準備で対応するしかなかったってことなんだと思う。外貨は貿易で得た利益で買うわけだから、輸入物価が上がれば利益も減るし、そもそも輸入できる量が減るから経済そのものが立ち行かなくなるってことかしら?(はい、よくわかってません)

ここで注目なのは、池田が物価を上がった下がったと二つだけで見ているわけじゃないということだ。ちゃんと相対物価を見ていた。現在ではこの間まで原油価格が上昇してて、「インフレだ!」みたいな感じでしたけど、そういう見方は、池田はしなかった。つーかあれでインフレならば、原油価格が上昇する以前はデフレだったと認めるんですね? あるいは原油価格が下がればデフレなんですね? と聞きたいもんです。それはともかく、だから、池田は堂々と「インフレなき高度成長」を主張できたのだろう。そして実際に金利を下げる。

 新政策の発表前に、その一環として、池田は金利の引下げを約束し、八月二十四日には公定歩合を一厘引き下げた。これを好感して、安保の時期に低迷していた兜町はにわかに活気づき、九月十九日には、東証ダウが1200円の大台にのせる。日本人の心から、しだいに安保騒動の暗影が消えていって、繁栄への期待が、人びとの胸をかすめはじめた。
p.117


池田の掲げた新政策は三本柱(公共投資・減税と金利政策・社会保障)の他にも雇用の増加、労働の流動化、産業の近代化、貿易の自由化という目標があった。その全てで、一応の進歩はあったというのが衆目の一致するところだろう。と同時に、目標を全て達成したと考える人もいないのではないか。なのに何故昨今の政権は社会保障以外の目標を掲げないのか。雇用の増加や労働の流動化は、絶対に必要なことだと思うのだけど。

政策金利はいまや公定歩合ではなくて無担保コールオーバーナイト物の金利だ。政府が決めるんじゃなくて日銀が決める。たしかにここらへんは分かりにくい。僕もよくわかっていないんだと思う。でも「金融政策に思い至らない」ことはない。なぜならその先に雇用の増加や労働の流動化があるからだ。仮に、もし今、景気が過熱状態だったとしたら、賃金が不当に高くなって雇用は増えず、労働の流動性も低下し、産業を近代化するよりも投機を優先するような風潮が生まれ、貿易の自由化に耐えられない産業が政治的になにか企んだりするだろう。ならば金利を上げればいい。これだってやっぱり雇用の増加や労働の流動化が目的なのだ。経済を安定して成長させることが目的なのだ。

日銀の使命は物価の安定だそうだけども、経済成長に貢献しないなんてことが許されるんだろうか。以下は新政策発表前夜の様子。

 新政策の作成はしだいにすすんだ。下村治、田村敏雄など、政策ブレーンが箱根に集まった。
 成長率が問題になり、宏池会事務局案は7.2%、10年間で国民所得を倍増するという計画だった。下村案は11%で、結局、池田は、三十六年[1961年]以降、最初の3年間は9%でいくという方針をたてた。当初の成長率を高く見こんだのは、ちょうどその間に、終戦後のベビー・ブームに生まれた連中が就業する時期がやってくる。それまでに経済の規模を大きくしておかないと、失業問題がおきるという配慮からだった。
p.104 [ ]内は引用者。また、一部漢数字をアラビア数字に変えた。


今、経済成長の恩恵を受けていない日本人なんて一人もいない。高度成長はやがて公害問題を発生させ、公共投資は住民のためというより所得分配のために行われるようになった。たしかに問題だけど、経済成長の重要さとは関係ない。僕は子供の頃から、経済成長が全てではない、というような話は腐る程聞いた。僕も大学生のころはそういうことを言っちゃう、ちょっと痛い子だった。で、たぶんそれは日本だけの話でもないんだろう。そして振り返ってみると、アメリカだけが成長をあきらめてなくて、他の先進国はなんか今イチやる気があるんだかないんだか、という感じで、ブーブー文句いうくせにアメリカに頼っているというわけだ。

そういうふうに見てみると、「金融政策に思い至らない」のではなく、「経済成長に思い至らない」のではないか。その理由は、別に知りたくもないけど、たぶん因果関係を取り違えているってことなんじゃないだろうか。

さて所得倍増計画はどうなったのか。

池田が提唱した所得倍増計画は、多くの人びとを共感させ、自信をあたえ、日本の経済力を伸長させた。都市における鉱工業部門の所得の増加は、やがて各層に波及していった。農村の次、三男がぞくぞくと都市への移動を開始した。人手不足の声がではじめ、日本では完全雇用は永遠に不可能だという、漠然としたあきらめは徐々に消えていった。社会には明るい力がみなぎってきた。「これから前途は展開していく」と、人びとは思った。「日本は若い国だ」と、人びとは肌で感じた。三つの卵を五人でどう分配するかに狂奔するよりは、その五人で六つの卵をつくることに努力したほうがとくだと考えだした。
p.237


そして東京オリンピックが開催される。池田は開会式に出席するが、ガンを患ってもいた。せっかくの大会に水を差すというので、辞任はオリンピックの閉会後となった。そして、昭和四十年八月十三日、死去。

追記:新しく池田勇人の本を書評しました。こちらです。

2008年10月28日火曜日

前回の補足

前回のエントリーの補足で、竹森俊平『資本主義は嫌いですか』を読んで感心したのは、バブルがあるならその逆もあるだろう、ということ。ある国の経済がバブルと呼ばれる状態なら、例えば日本の土地バブルの場合なら、土地の値段はあるべき水準(ファンダメンタルズ)よりも高く評価されている、といえる。っていうか、そういう説明ばかり聞いてきた気がする。で、ファンダメンタルズよりも低い値段のときも、もちろんあるわけだ。そうでなければだれも投資なんてしないものね。問題は、バブルの場合は大幅に高く評価されるわけだけど、じゃあ大幅に低く評価されることもあるのか? というところで、あるよね、と。それが恐慌と呼ばれる状態なわけだ。

で、ここまではいいんだけど、いかにファンダメンタルズが当てにならないか、ということなんだと思う。そんなものは無いんだろう、本当は。ただある期間はあるように見える、ということなんだろう。

ここで、時価会計の問題点もわかってくる。その時々、経済環境が変わってしまえばモノの値段も変わる。それが果たしてモノの価値を上手く表現できているんだろうか。それよりは、買った時の値段のほうが当てになるんじゃなかろうか。

と、こんなことも書いてあるので、あらためてオススメです。

書評・竹森俊平『資本主義は嫌いですか』

さて遅くなったけども最近読んだ経済書二冊目です。

竹森俊平『資本主義は嫌いですか』

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資本主義は
嫌いですか
竹森俊平
昨今の、すわ金融危機か!?、という情況で、なにやら怪しげな経済書が出回っているらしい。でも竹森俊平の本なら間違いないです。『世界デフレは三度来る』『1997年』、どちらもとても面白いし、分かりやすい。分かりやすいといっても「マンガでわかる」みたいなことじゃなくて、きっちり説明していて、じっくり考えれば分かりやすい、ということ。

人間の経済活動は、あたりまえだけど、とても複雑だから予測どころか何が起こっているのか具体的に説明することさえ難しい。例えば、あなたが今持っている百円玉が1年後、どのような経路をたどってどこにたどり着くのか、予測することは不可能だろうし、その百円があなたのところにたどり着いた経路も、一手前(コンビニでおつりをもらった)までしか分からないはず。

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世界デフレは
三度来る
竹森俊平
たった一つの百円玉さえこの様なので、未来(過去もですけど)をあっさり断言しちゃうオジサンが書いた経済書には要注意だ。

本書は経済学者たちが今の世界をどう見ているのか、とても具体的に紹介してくれるし、今話題の時価会計の問題点を指摘する学者の説も、きっちり書いてある。僕が一番面白く読んだのは何故アメリカ(と原油と穀物)に資本が集中したのか、というところ。答えは中国やロシアなどの新興国の投資先不足だ、というもの。これらの国はせっかく豊かになったのに、国内に投資先がない。いや、あるんだけども、例えば地方に道路を敷いたり電気を通したりすればいいんだけども、国情が不安定であるからお金持ちたちは国内に投資することを避ける。だってせっかく自治体や地方企業に投資しても、上手くいきそうってところで政府に取り上げられたりするかもしれないから。で、こういったお金が国外へ流れ出ている上に、お国の事情もあるんでしょうけど、こういう投資家はとにかくすぐに結果を欲しがるようで、リスキーな投資を好むんだそうだ。ま、なんとなく事情はわかりますね。ちんたらやってたら政府に目をつけられるかもしれないし。

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1997年
竹森俊平
さらに、東南アジアや南米の国々が、1997年のアジア通貨危機以来、外国からお金を借りて国内に投資するというスタイルを捨てて、お金を外国に貸すようになった。今では、借り入れを国内投資にまわしているのは東欧ぐらいだという。

こうやってさまざまな国から流れ出したお金がたどり着いた先が、アメリカであり原油であり穀物だった。

日本は他人のこと言えないんだけど、なんか豊かになるという目標がねじくれちゃったような印象を持った。みんな自分の住んでいる社会を豊かにするよりも、自分が豊かになることを優先させているようだ。貧乏人ならそれが当然だけど、お金持ちがそういう行動を取るのはどうだろう。ほんと、日本人には言われたくないでしょうけど。

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景気ってなんだろう
岩田規久夫
とりあえず読んどけ、という本です。ただ名目金利、実質金利みたいな言葉があたりまえのように出てきます。あと流動性とか。こういった言葉の説明があれば、もっと読者の幅が広がっただろうし、もっと影響力のある本になったと思う。最初の20ページくらいでなんとかならなかったんだろうか。なのでそこらへんがちょっと不安だわ、という人は岩田規久夫『景気ってなんだろう』からどうぞ。ちゃんと説明してくれます。

2008年10月22日水曜日

マンガ『サナギさん』

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サナギさん
施川ユウキ
僕の大好きなマンガが終了しました。『サナギさん』です。作品の完結は残念。もっと読みたかった。

何がそんなに好きだったのか、作品が完結した今、改めて考えてみました。

ある本*1に、「不安は身体の中にいる一体の動物のようなモノだから、そいつが騒いだからといってパニックを起こすな」みたいなことが書いてありました。その文を読んで以降よく思うのが、「自分が不安を感じているときは、じっくり観察ができていない」ということです。不安を感じている時の僕は、人や出来事に点数を付けることに忙しく、何が起こっているのか全く見えていないのです。「そいつが騒いだからといってパニックを」起こしているというわけです。

サナギさんやフユちゃんならどうでしょう。彼女たちなら、仮に人より劣っていると感じたとしても、パニックを起こして自分より劣っている人を一生懸命探したりしないでしょうね。どう考えても。あの二人なら、そもそもの優劣の基準とやらがどれ程のものか、のんびり観察し始めるんじゃないでしょうか。

僕の好きな例え話に「黒い白鳥」*2があります。黒鳥の存在は、オーストラリアが発見されるまでヨーロッパ人には知られていませんでした。なので、そこでは「白鳥=白い」は当たり前のことだったわけです。もし「白くない白鳥がいるかもしれない説」を唱えようものなら、アホ扱いされたのは間違いなしです。でも黒鳥はそんな時代にだって生きていたわけですから、間違っているのは「白鳥は必ず白い」、という人のほうだったのです。この話は何が言いたいのかというと、たとえ1万羽の白い白鳥を見た事があったとしても、黒鳥が存在しない理由にはならない、ということです。

「白くない白鳥がいるかもしれない説」唱えまくりの世迷い言フレンズ・サナギさんとフユちゃんは、「世の中そんなもん」とか言っちゃう事のバカバカしさを教えてくれました。だから僕は、世の中をのんびり観察していこう、「白くない白鳥がいるかもしれない」と言い続けよう、と思うのです。ぴょんごりして死ぬその日まで。

追記(11/7):たまごまごさんに取り上げていただきました。リンク先は『サナギさん』ファンの色んな思いが集まったエントリーです。是非どうぞ。

*1  Laura Day "Welcome to your crisis"

*2  この話はナシーム・N・タレブ『まぐれ』、同じ著者の"The Black Swan"(未邦訳)に書かれています。追記(11/7):「つーかポパーだろ?」とのツッコミを直にいただく。はい、そのとおりでございます。この例え話のオリジナルはカール・ポパーです。でも読んだことないのでどの本に載っているのかは知りません。無学なワタクシ。

2008年10月16日木曜日

がっくし。『ミチコとハッチン』

『ミチコとハッチン』というアニメを見た。期待していたぶん、がっくしきた。

第一話で、孤児であるハナという少女が、神父に引き取られて、神父の家族に無茶苦茶いじめられている場面があるのだけれど、これが不快になるほど長い。そして、彼らが無防備な少女をいじめる理由が分からないので、ただ不愉快なだけなのだ。

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ハリー・ポッターと
賢者の石
J・K・ローリング
『ハリー・ポッター』シリーズを全部読んだわけじゃないけど、アレもそうとうヒドいいじめのシーンからはじまってた。でも、ハリーを引き取った親戚夫婦の心情も若干ながら描かれるから、彼らがハリーをいじめる理由が読者にはわかる。つまり、魔法使いなんて気持ち悪い、とかまあそんな感じで不安とかもあってキツくあたることを正当化しているんだろうな、で、子供はそれをまねしてるんだろうな、という具合に。

別にハリーの親戚夫婦を擁護しているわけではない。アホが現実を受け止められずアホな思い込みでアホなことをしていて、そのとばっちりがハリーに行ってかわいそうだな、と思うだけだ。だからハナをいじめてるアホにもアホな思い込みがあるはずだ。そうでなきゃ人間あそこまで行かないよ。他人を傷つけることだって正当化しないと続けられないもんだ。

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サムライチャンプルー
で、それがぜんぜん無いので、もうホント不愉快なだけなんだな。暴力の描写をポンっと渡されるだけ。リアルなのかも知れないけど僕には分からない。一体あの長いいじめのシーンで、視聴者はどういうリアクションを期待されているのだろう。「神父一家め! なんてヒドい奴らなんだ。でも今に見てろ!」とかそんな感じなんだろうか。第一回でそれはないんじゃないかな。この作品はマングローブというところが作っているんだけど、同社の仮想時代劇『サムライチャンプルー』をちょっとだけみた時にも思ったことがあって、それが、「あー、なんか学級会で元気よく発言する優等生が作った感じ*1」ってこと。先生受けしか考えてない。そういう先生がマングローブにいるんだろう、きっと。すごくお洒落な作品なので、たぶんお洒落先生なんだろう。で、今回もそんな感じなんでしょうか。

アニメっぽいアニメじゃないものを目指した作品だろうから、単純にアニメでよくあるシーンを作ったら浮いて見えたというだけのことなのかもしれない。でもさー、なんかさー、期待してたぶんだけねー。

まだ第一話なので次も見ます。第一話としては期待はずれでした。四話くらいまでは期待してます。

あと、ホントの先生ってのはモジモジして歯切れの悪い生徒を愛するんだよ。そういう生徒が一番、物事を大きく深く見てるから。一つの質問に答えが10も20も思い浮かんで上手く答えられない子を愛おしく見守っているんだよ。

追記:未だに"The Black Swan"を読み返してるんだけど、今日読んだ箇所にこんな文があった。ざっくりまとめると、「sensationalとempiricalを見分けられるようになれ!」という感じ。ここで話題にしたシーンはsensationalなだけでempiricalじゃないんだ、と得心した。名作ってのはどんなに荒唐無稽でも、empiricalな部分があるから感動するんだろう。

*1 日本びいきで、サムライになりたくて仕様がないオランダ人が出てくるところでそう思った。そのオランダ人は「日本もいつか外国人をうけいれてくれるだろう」的なことを言うのだ。教科書の「鎖国」という表現が見直されるようなご時世に、と思ってそこで見るのやめた。アンボイナ事件とか、制作者たちはどう思ってるんだろう。

2008年10月9日木曜日

書評・トラスト立木『この国の経済常識はウソばかり』

金融システムの崩壊が心配され、世界の6中銀が協調利下げをしたり、日銀が何もしなかったりするさなか、二冊の経済書を読んだ。まずはこちらから。
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この国の
経済常識は
ウソばかり
トラスト立木


以前に著者が立木信という名前で書いた『若者を喰い物にし続ける社会』という本の続編と言って良いだろう。僕は『若者を〜』も読んだけど、説得力のある本だった(←細かいところは覚えてない)。著者は新聞記者らしい。前著からの主張と同じように、世代会計という方法を使って日本財政の現状を分析・解説している。その上で、如何に新聞やテレビで語られる経済ニュースが的外れであるかを、幾分センセーショナルにこき下ろしている。

そしてこのセンセーショナルな部分が、僕は気に入らなかった。
「日本国債の格付けは、欧米の主要格付け機関によると、長らくボツワナ以下でしたから、財務省としては気が気ではありません。」(p.126)
といった表現があるのだけど、一体だから何だというのだろう。こういった表現が結構唐突にでてくる。国内の金融機関に国債を安定的に買ってもらわないと金利が上がったり下がったりして大変だから、金融を完全に自由にはできない。という説明の直後に、先に引用した文が現れる。なんだかなあ。金融機関はその格付けを参考にして国債を買っているとは思えないし、一体何が言いたいのだろう。

僕が気になる点は他にもあって、デフレについて触れない、というところだ。
「価格は通貨によって計られます。その通貨の価値を激変させてしまうこと、つまりインフレは、価格の問題解決機能を強化するマジック、いわば金融のドーピング策です。」(p.129)
なぜこんな表現なのか本当に理解に苦しむが、まず思うのは、それを言うならデフレだって同じでしょう? ということ。著者がリフレ政策を支持しているのかどうかは、結局よく分からないけど、どうもデフレの害に鈍感であるのは間違いないようだ。それと、著者にとって関心があるのは財政であってこの国の経済ではないようだ。ま、これは印象でしかないんですけど。

頷ける主張もある良い本だとは思うけど、マスコミの中の人だものな、という諦めも感じてしまう。財政に焦点を合わせすぎで、必要以上に暗い未来を見ていると思う。なので、ただ煽っているだけじゃないのかと疑ってしまう。本のタイトル『この国の経済常識はウソばかり』は、本当にその通りだと思うけど、その犯人はジャーナリズムでしょ、とも思う。嘆息。

2008年9月22日月曜日

Bailoutお助けホットライン

このワシントンポストのコラム、というか小説を読んだ。

面白かった。もしも米国財務省が金融機関を救済するためのフリーダイヤルを開設したら、みたいな話だ。財務省側のアンサーマシーンがなんというか、かわいい。軽く訳してみる。
「あなたは銀行ですか? その時は1を押すか言ってください。証券会社の場合は2を押すか言ってください。」
「2」
「あなたは役員報酬を思いのまま決められますか? その時は1を、うちのポールソンと同じ取締役会のメンバーなら2を、"生き残る体力の無い企業は淘汰されるべき、ただし自分の会社は別。"とお考えなら3を押すか言ってください。」
「3」
と、こんな具合に続いていく(数字とか適当です)。

金融機関の救済には必ずこういった批判がおこる。健全なことだと思う。でも、結局は救済というか、介入せざるを得ないんだと思う。日本がそうだった。だらだらしてても、結局りそなは税金を使って一時国有化したじゃない。そのだらだらの間に金融危機は続き、流動性の罠にはまってしまって、未だに抜け出せていない。

金融危機に政府の介入は必須。しかも素早く。これが日本の失敗の教訓*1だ。
「最後に、支援して欲しい金額を押してください。金額を押し終えたら#を押してください。」
「(金額を入力している)」
「ワァオ! こりゃ大変だ。3営業日以内にファンドを清算してくださいね。それじゃ、またお困りの時は是非。よい一日を!」
*1 日本が大失敗こいている時、スウェーデンは大成功していた。

2008年9月15日月曜日

鍛える話

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"The Black Swan"
Nassim
N. Taleb
逆境は人を鍛えるか。一般的にいえるかどうかわからないけど、そういうケースもあるかもしれない。けど、一般的に言えないのならば、逆境が人を鍛えるという信念は捨てて、手を差し伸べるべきだろう。どのみちどんな人にも逆境は訪れるものなんだから。

Nassim N. Talebの"The Black Swan"を読み返していると、「厳しく鍛える」ことの意味を問う話が出てきた。本書に記されている例をまとめると、数十匹のネズミがいるとする。ニューヨークのNNT研究所ではこのネズミたちに微弱な放射線を当てて「厳しく鍛える」(そして街に放つ)。当然、数回の実験ののち、生き残ったネズミはわずかな数になる。さて、この生き残ったネズミは強く鍛え上げられた、と言えるだろうか。ニューヨークの街は新種のネズミに支配されるだろう、と言えるだろうか。もちろん言えないし、鍛え上げられてなどいない。むしろ弱っている。

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"Hare brain
Tortoise mind"
Guy Claxton
高いハードルを設定し、厳しい選別を経ることにもリスクはある。最近読んでいる本(Guy Claxton "Hare Brain Tortois Mind")は、人の意識と無意識の関係について書かれた本だが、そこでClaxtonは、意識を使うには多大なエネルギーが必要となるので、計算とか計画とか判断とか暗記とか、意識にむち打って使っていると、無意識(Claxtonは無意識が直観やインスピレーションの源泉であるとする)がお休みしてしまう、という。

脳についても、負荷がつづくと弱体化するということが言えるのだろう。知性のあるハエは早死にする、とかいうニュースを最近聞いたような気がするし。しかし、世の中「厳しくする」ことに正義を感じて正当化している大人が多い。その「正義」の矛先は立場の弱い人たちに向かうし、おまけにもう目的を見失っているからただの嫌がらせになってる。苦しんでいる人が周りにいると自分も苦しいと思うけども。あ、見て見ぬ振りすればいいのか。

2008年9月11日木曜日

マイクロマネジメント

マイクロマネジメントってあんまり日本語では聞かないなあと思った。ウィキペディアには項目があるので、知っている人は知っている、という単語なんでしょう。

僕が知ったのはドラマ"numb3rs"だったと思う。アメリカの刑事ドラマで数学者が事件を解決したりするドラマ。で、どっかの管理職が殺されて、捜査官が「彼はマイクロマネジメントだったのか?」と関係者に聞いていた。初めて聞いた単語だったけど、意味はすぐわかった。

ウィキペディアを引用すると、

マイクロマネジメントとは、管理者である上司が部下の業務に強い監督・干渉を行うことで、一般には否定的な意味で用いられる。マイクロマネジメントを行う管理者は、業務のあらゆる手順を監督し、意志決定の一切を部下に任せない。部下の立場から見れば、上司がマイクロマネジメントを行っていると感じられることは多いが、上司がそのことを自覚することは稀であるとされる。極端な場合は、職場いじめや独善性など、病理的な現象としてとらえられる。

(中略)
また、指示・命令を与えることによって、管理者自身が有能さや職務の重要さを示していると感じることもある。このような管理者は、実際には職務に必要な能力や創造性を欠いているにも関わらず、自尊心を満たせる状況を自分で作り上げていると考えられる。
(中略)
マイクロマネジメントを行う管理者は、部下が相談なしに決断を行うことを、たとえそれが部下の権限の範囲内であったとしても、たいへん不快に感じ る。深刻な場合には、社員の自尊心や心身の健康に大変悪い影響を与える。社員が十分な自己評価を持てなくなり、能力の成長を難しくするので、そのような場 合はすぐに転職するのが最良の選択肢かもしれない。

とまあ、そういうことです。よくある話。僕もマイクロマネジメントな上司の下で働いたことはあるけど、そのときの印象から言うと、不安なんじゃないの、と思った。自分に対して否定的な出来事が起こるのを恐れているように見えた。どっちつかずの指示を人づてに出して質問を封じ(その間、上司自身は何処かに行っている)、こちらで判断して仕事のできを見せたらやっぱり怒られた、なんてほんとよくある話ですよね。これって相当ビビってるわけです。もし部下が自分の的確な指示通りに動いて失敗したら、それは自分に対して否定的な出来事だから起こしてはいけないことなんでしょう。

彼らは会社がつぶれない程度の不景気が一番居心地がいいんじゃないかな。そういう時って一致団結!とか堂々とファシズムができるから。そうすれば失敗はファシズムに反対する奴のせいで、成功はファシズムを導いたオレのおかげになる。

どうしたら経済が発展するのか。って人類の大問題だけど、コレって言う答えはない。でも試行錯誤が出来ないと発展しない、とは言えそうだ。で、試行錯誤は当然失敗をするということでもあるので、失敗を病的に恐れるマイクロマネジメントとは相容れない。

失われた10年とか言われるけれど、若者のダメさを繰り返し確認することで言いようの無い不安を紛らわせていただけの10年だったのではないか、そう考えると、不安です。

2008年9月4日木曜日

料理は楽し

以前に紹介したよしながふみ『きのう何食べた?』を読んで以来、なんか妙に料理が楽しくなってきた。もともと嫌いじゃないし、基本的には自炊なので見た目では変化は無いんだけど、なんか楽しい。

改めて料理は結果であるな、と思う。火がちゃんと通っている、これだ。この結果さえでればやり方なんてどうでもいい気がしてきた。できれば美味しいほうがいいし、栄養のバランスも大事だ。でも、まず食える、食って腹を壊さない、これですよ。

レシピ本はちょこちょこ買うんだけど、一冊に2つレギュラー入りしたらいいほうで、かなり打率は低い。でもこの間買った本はすごく良かったのでご紹介。
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おべんとうの
ちいさなおかず
300
コマツザキ・アケミ
もう『おべんとうのちいさなおかず 300』というタイトルで説明しきってるんで何が良かったのかだけ書きますけど、種類が多い、簡単、応用が利く。お弁当用なので味付けは濃いけれども、そこは勘で乗り越える。すると、普段のお食事に、あら不思議、二品ぐらい増えちゃうのだ。

自炊を始めて十年ちょいなんだけど、おかずをどかっと一品つくって飯と汁(無い時も多い)というパターンか、もう丼だのチャーハンだのパスタだのを一品どーんで終わりというのがほとんどだった。こういう食事だとすぐにお腹がすくし、栄養も偏るし、そして一番気が重いのが、食材があまってしまうことだった。その食材はその料理でしか使えなくて、なんかスゲー仕事出来ない奴みたいな気分になるのよね。

でもこの本があると、中途半端に残った食材がバシバシ片付く。レシピ本通りに作る人ってあまりいないでしょうから、材料を増やしたり減らしたりで冷蔵庫内に秩序が生まれる。これがすごく楽しい。おすすめです。安いし(1,000円)。本屋で見ていたら似たような本が幾つかあったので相性のよさげなのを探してくださいな。

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ケンタロウの
おかずの王様
ケンタロウ
でもさすがにお弁当のおかずなので脇役チックなメニューが多いです。で、おかずの主役は、『ケンタロウのおかずの王様』でカバー。なんつったって王様だし。これも簡単、応用が利く、食材が手に入りやすいメニューばかりなのでおすすめ。しかも派手目な料理が多いので人に食わせても喜ばれこそすれ、貧乏臭いとか言われないよ。ただ味付けが似たものが多いのでそこはやっぱり勘でなんとかしよう。

大げさに言ってしまうと一つ壁を超えた感じすらしてます。食費もだいぶ下がったし。

2008年8月12日火曜日

書評・マンガ・『きのう何食べた?』

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きのう何食べた?
よしながふみ
よしながふみ『きのう何食べた?』を読んだ。スゲー面白かった。二巻はまだか。

四十代同棲ゲイカップルの話で、弁護士と美容師の二人。ゲイも大きなテーマだけど、タイトル通りに、料理もテーマ。弁護士のシロさんが料理をつくるのだけど、彼は料理好きである一方お金大好き人間でもあるので、用いる食材はたいてい底値で買ってくる。

その他にも、シロさんは典型的なoptimizerで、生きてて楽しいのかな、と思わなくもない。optimizerとは何かといえば、そのときそのときで、最大限の効用(まあ、利益、でしょうかね)を得ようとする人、といった感じでしょうか。optimizeで最適化する、みたいな意味ですよね。この手の人たちが見落としてしまうのは、自分にとっての効用、利益、プラスになること、が他人のそれとは違うかもしれない、ということ。だから最も効率の良いやり方が、最も自分にとって良い、と思い込んでいる。しかも、情況が変われば最も効率の良い状態もどんどん変化するので、人は気がつくと50年くらいoptimizerを続けてしまったりするようだ。ま、簡単に言ってしまえば世間体に縛られているんです。

ところが一方で、シロさんは6時になったら何が何でも仕事を終えたい人でもある。収入もそこそこで構わない、とか言ってみたり。ここらへんはsatisficerなわけだ。satisficingを調べてみると、英語のウィキペディアにこうある。

Satisficing (a portmanteau of "satisfy" and "suffice") is a decision-making strategy which attempts to meet criteria for adequacy, rather than to identify an optimal solution. A satisficing strategy may often be (near) optimal if the costs of the decision-making process itself, such as the cost of obtaining complete information, are considered in the outcome calculus.

要旨:この語はsatisfy(満足させる)とsuffice(十分である)を合体させた語で、意思決定の際に最適な答えを見つけようとする代わりに、妥当な答えを採用することを指す。で、結局satisficingな答えが最適だったりすることも多い。だって、なにがなんでも最適な答えを見つけようとすると、コスト(完璧な情報を仕入れたり(不可能)、結果を予測するために計算したり(無意味))がかかるから最適じゃなくなってしまうんだもの。


satisficingという視点からみると、シロさんの底値買いは実に不可解ではある。料理好きなんだから底値を待って食いたいものを我慢するなよな、と思う。明日交通事故で死んじゃうかもしれなんだぜ。いやいやそうじゃなくて、底値で買うというのは最適化するためだ。旨い、好きだ、という価値よりも安い、という価値を優先させている。だからシロさんはきっと、最適化のコストを支払っている。それは食べたいものが食べられないことだったり、なんか急に空しくなることだったり。

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"Fooled by
Randomness"
Nassim N. Taleb
Talebの"Fooled by Randomness"を読むと(邦訳『まぐれ』を人にあげてしまったので原書を参考にして)、satisficerたちは、何かを経験したからといってゴールや欲しいものを変えたりしないんだそうだ。だからアレを手に入れたら次はコレ、みたいなことにはならない。でもoptimizerたちは強欲だ。アレを手に入れて、しかもコレも手に入れれば、もっと良くなる、と信じているから。なので、シロさんのどん欲な底値買いは、彼の幸福を遠いものにしてるんじゃなかろうか。

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まぐれ
ナシーム
・N・タレブ
optimizerとsatisficerが一人の人間に同居することは、ままあるんでしょうけど、シロさんはかなりoptimizerが勝ってる感じかな。パートナーのケンジはsatisficer100%って感じだけども。

僕の好きなエピソードは、シロさんの昔の女の話。周りに流されてなんとなく女性と結婚して子供つくって、という人生を歩んでいたかもしれない。でもゲイであることは変わらないから、浮気してみんな傷つけて。そう思うとぞっとする。オレ、それくらいできちゃいそうだったから。こう語るシロさんに共感する大人は多いんじゃないかな。ゲイ関係なく。

ところで、シロさんが弁護士だと知って思い出したのは、"Will & Grace"のWillだ。もうなんか懐かしくっていろいろ観てしまった。やっぱ面白いなー。これはアメリカのドラマ(sitcom=シチュエーションコメディ)で、NHKで「ふたりは友達? ウィルアンドグレイス」として放送してて、僕もその放送で存在を知ったんだけど、折しも韓流ブームの始め頃で、第二シーズンで放送終了だったはず。ホントは第八シーズンまであって、最終回は実にガッカリな内容だったけど、それでも最後まで本当に面白いドラマだった。で、そのWillが弁護士でゲイなのだ。料理も結構してた。やっぱシロさんのモデルはWillなんだべか。

Willの台詞でよく覚えているのが、Thanksgivingのお祝いで、Willが実家に帰ると、兄夫婦も来てる。兄は(Willも)早く帰りたがっていて、Willに「お前が残れ、お前はゲイだけど、オレには家族が、責任が」みたいなことを言う。Willが文句を言うと、「お前はゲイであることを選んだんだから母さんの相手をしろ」的なことを言う。で、Willが "My being gay is more than choice!" と言い返す。ゲイは選んでなるものじゃない。でもこれってゲイだけの話だろうか。satisficerになるための秘密が、ここに隠されている気がする。

2008年8月9日土曜日

組織と目的

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指導者の条件
山本七平
山本七平『指導者の条件』を読んだ。鋭いなーと思うこともしばしばだったけど、それはちょっと、というところもまた多い。三十年近く経った後知恵から、それはないでしょう、と感じているのは確かで、それはアンフェアだけど、やっぱり「日本は特殊だ!」という結論ありきなんじゃないの、と思ってしまうなあ。

求められている指導者として、池田勇人が上がっていた。池田は所得倍増をやりたくて総理になった。次の佐藤栄作は世話人タイプの指導者で政治家の世話することが目的みたいなもんで、独自の政策課題なんてなかった。田中角栄に至っては総理になることが目的であって、日中国交正常化をしたいとかそんなのなかったよ、と山本はいう(大意ですよ)。

これには思い当たることがあって、池田は総理になる前、岸内閣の通産大臣をしている(改造前は無任所大臣)。入閣前、池田は岸の強引なやり方を批判し、「おれは絶対に入らない。政治というものは数であり、数は金の力だ、というような金権政治の岸内閣には絶対に入らない」(伊藤昌哉『池田勇人とその時代』)とまで言っていた。なのに、彼は入閣するのだ。岸は警職法のごたごたで国民の支持を失い、なんとしても大物を入閣させたかったとき、「君の政策を実現するためにも、ぜひ、通産大臣になってほしい」(前掲書)と池田を誘ったのだ。池田が改造前の参議院選挙の演説で所得倍増をうったえていたのを岸は知っていたのだった。

池田の入閣は、彼の周囲の人間たちも不満だったそうだ。夫人にまで本当に良かったのか、と問われたという。池田も含め、誰も、一年後に彼が総理になるとは思っていなかった。

池田には所得倍増という目的があったからこそ、前言を顧みずに通産大臣の任を引き受けたのだろう。こういうタイプの指導者といえば、もちろん小泉純一郎が思い浮かぶわけで、彼の郵政民営化も総理就任以前から掲げた持論だった。自民党をぶっ壊すってのもあったね。

安倍前総理はふたを開けてみれば、祖父の岸信介とは全然違う総理だったけど、その目的は国民から見るとちょっと曖昧だったかもしれない(憲法改正は目的ではあったんでしょうけど、今イチはっきりしなかった)。でも公務員改革とか重要な政策を実行してもいるし、辞任のいきさつを見れば、総理になることが目的だった人だとは思えない。年金問題のような短期的には何も出来ないようなことで引きずりおろされるべきではない人だったと思う。

さて福田総理はどうだろうか。世話人タイプ丸出し感はあるけど、この苦しい時期に総理になろうって人がそういうタイプだとは思えない(思いたくない)。ただやっぱり彼の目的は曖昧だ。今回の改造も、何を目指したものかよくわからない。でもこういう評価は後知恵の部分もかなりあると思うので、ま、保留ですかね。無目的で与謝野馨を起用はしないでしょ。リフレ派としては苦しい時期ですが。

2008年8月8日金曜日

[review]「BULLY」


前回のエントリでメリケンの学校は怖いね、ということをちろっと書いた。で、この「BULLY」はメリケンの高校を舞台にしたゲームなのだ。

プレイヤーは超問題児のビリーとなって、ブルワース高校という最低な学校で番長を目指すというか行きがかりでなってしまう。とはいえ青少年の健全な成長に大打撃であるともっぱら噂のビデオゲーム業界、そこらへんは抜かりなくて、基本的にビリーはいいやつ。新聞配達とかするし、教師の言うことめっちゃ聞くし(つーかほとんどパシリ)。

つくった会社は例のRockStarってところ。Grand Theft Autoシリーズのところですね。僕はGTAがあまり楽しめなくて、ミッションは何度やってもクリア出来ないし、街をぶらぶらするのは結構楽しいけどやっぱり飽きちゃう。つまり難し過ぎるわけです。で、BULLYの場合だと、学校と街が三区画とあとおまけ、みたいなもんなので、基本自転車でなんとかなる範囲。まあ15歳ですし。ミッションも簡単でありつつ単調でないという、結構いいバランスです。僕のやったことのある範囲でいうと、ゼルダの伝説風のタクトみたいな感じ。見た目は全然違うけど、自由に動き回れるところと、それでいてしっかりミッションをこなしていくところ、プレイヤーがアイテム等で順当に成長していくところなんかが、まさに風タクでした。はっきりいって面白いです。

ただ難点もあって、ビリーその他はメリケン人なのでメリケン粉じゃなくて英語をしゃべります。道行く学生に声をかけてご機嫌を伺ったりするんだけど(ジミーはフレンドリーなやつなのだ)、その字幕が出ない。字幕は重要な場面ではもちろんでるけど、その他は結構欠けててかなり残念。喧嘩の仲裁に入ったときは動きとしては地味なので字幕なしだとかなり分かりにくい(「なんでもないよ」みたいなことを相手の子は言っている)。さらにこのゲーム、体力がなくなると女の子とキスをして回復するというかなり不届きな設定なんだけど、このときの会話が実に初々しくて楽しいのだ。なのに字幕がでない。うーんもったいないなあ。ちなみにいかにもな美人キャラだと(そう、複数の女の子とキス出来るのだ!)、「アタシと一日に一回キスすると、長生き出来るかもよ」みたいなことをおっしゃいます。ガリ勉キャラだと、「男子のセクシュアリティの研究を」とかですし、めがねっ娘だと「キスがうまくなるように練習したい」なんてことをですね、もじもじしながら言ってくるわけですよ。しかもそのキスがチュッとかいうお子様キスじゃなくて、もうそれはそれは腰のはいった本気キスなわけです。やっちゃうわけですよ、クラスメイトがみている前で。

という具合に日本語アダプテーションが今イチ(英語の授業とか結構ムズイ。合格ラインは下がってると思うけど)だったりだけれども、そこは箱庭ゲーム、同じような場面は何度かあるので字幕なしでもわかっちゃうんじゃないかな。つーことで、学校で堂々とキスしたい人、是非やってみて頂戴。あ、PS2です。

2008年8月7日木曜日

書評・「男の子が心をひらく親、拒絶する親」ウィリアム・ポラック

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男の子が心を
ひらく親、
拒絶する親
ウィリアム・ポラック

男の子たちは「男の掟」を守るために全力を尽くしてしまっている。彼らは傷つき、うつになり、自殺していく。成人男性であっても耐えられないようなプレッシャーに、少年たちは日々さらされている。本書『男の子が心をひらく親、拒絶する親』は、そうした「男の子だから」で済まされてきた彼らの想いを探った本だ。著者のポラックは心理学者で、彼のサイトをみると、少年の発育と教育、男性の性的役割(暴力、自殺、うつを含む)、職場の暴力、ジェンダー研究、子育てなどなど、すごい専門家ですよ的なことが書いてある。本書には臨床心理士という肩書きが最初に来ているので、そこが大事なところのなのかもしれない。本書は多彩な事例が満載で、そこが説得力の源泉でもある。

ポラックが本書で一貫して主張しているのは、男性は「男の掟」に縛られ、不幸な人生を送っている、そしてその苦しみはほんの幼い頃から始まるのだ、ということだ。では「男の掟」とはなんだろうか。
  • 何者にも動じないこと(感情を表に出さない。怒りだけは可)
  • 挑戦的で向こう見ずで暴力的であれ
  • 人の上に立て
  • 女々しくなるな


と、こんな具合。一種の世間体ってことだけども、これに縛られると、男性はつねに他人の目をうかがって生きなければならない。寂しさや不安を誰かと共有することも出来ず、休日にイチゴジャム作りに精を出してもいけない。本書を一読して思うのは、アメリカの学校の「男の掟」って怖ぇー、ということだ。日本の学校でここまでのことってあるかなあと思うけど、コミュニティによってはあるのかも知れない。ただどこだろうと共通しているだろうと思われるのが、掟に縛られると、感情を表に出さなくなるということだ。だから常に不機嫌だし、何を聞かれてもウザったそうな反応しか返さない。なんか自分のことを書いているみたいだけど、まあそうなんですよね。

今も母からメールが来て不機嫌になってるところだし。オレは頑張ってコミュニケーションとろうとしてんじゃん。返事の第一声がそれかよ、という不機嫌。まあ第一声に関しては0点の人だから意外ではないんだけども。親の立場を意識しすぎてしまうんでしょうね、それでこっちはグサグサ傷ついてるわけですが。この、「そんなこと言われたら傷ついちゃうぜ」というのが、男は言い出せない。男の子も言い出せない。幼稚園にいく頃にはもう言い出せない。

女の子に対して、「女は女らしくしろ。男に従え」なんて言ったらもう虐待を疑われてもしかたがない。でも男の子には言う。寂しくて泣いていても「我慢しろ」。早過ぎる親離れを強いられて教室の隅でもどしてしまう男の子は「母親と密着しすぎている。特殊クラスへ入れろ」。

男の子を苦しめるのは悪の化身のような大人たちじゃない。善良で、子供のためになにができるか真剣に考えている人たちだ。しかし、そのような人たちが、男の子と感情的なつながりを保つことに不安を感じている。その不安の原因は何なのか。ま、見栄だったり偏見だったりするんですよねー。

けがをして入院したクリストファー君の話。無事退院したものの、やがてうつ病と診断された。10歳だった。「入院中は両親はかまってくれたが、退院したら妹にばかりかまう。僕を無視している」という。彼はもっと甘えたかったけど、両親はそんなことではやっていけなくなる、と考えた。別に虐待ではない。が、クリスは寂しい、甘えたいという気持ちを表にだせないから、うつ状態になるまで両親は息子の苦しみに気づかなかった。うつ病が死ぬ病気であることを考えるとぞっとする。

甘やかすと依存心が増すというのは神話といっていいのじゃないだろうか。土居健郎の本を読むとそんな感じがするけども。ともかく、この両親が善良な人たちであることは疑いようもないんだけど、「世間でやっていけるかどうか」を子育ての基準にはしないでほしいもんだ。僕の場合だと、両親の離婚もあって20歳ぐらいまでは完全に放置されていたけど、大学を留年するようになって母は僕が「世間でやっていけるかどうか」が気になりだしたみたい。ま、その危惧が現実のものになっているけども。たださんざん放置しといて、高校は酒浸りの日々だった子が大学行っただけで上手く行くとは思えないでしょうよ。

本書の後半には両親が離婚した場合について書かれている章があって、もうここは嘆息しっぱなし。離婚後、子供の面倒を見るのは圧倒的に母親が多いが、母親の負担が激増して子供は放っておかれる。子供と連絡すらとらなくなる父親も多い。この場合、多くの父親がうつ状態になっている。母子家庭にたいする偏見がさらに親子を孤立させる。

世間の圧力と親がどう戦うのか。これが大問題だろうけど、根が深いというか、解決することなんてないんだろう。親が世間体第一で子育てをしていたことを認める、ということは自分の失敗を認めるということだし、そんなのはあり得ない。時が全てを変えるのをじっと待つしかない。

救いがねぇな、と思うなかれ。本書には確かに既に手遅れ(子供が成人してる)な例もたっぷり出てくるけれど、そんな馬鹿げた掟に従わず、勇気と優しさで幸せに生きている男の子たちのエピソードも多い。実にさわやかな話が多いので一つ引用しよう。

 ジェイソンは野球、フットボール、バスケットボール、サッカーの全種目で正規部員として引き抜きを受けた高校スポーツの花形選手だ。その彼が、男子生徒が自由に語り合えるクラブをつくろうと思いついた。
「僕たちはみんな抑圧を感じているのに、それを語る場がないんです。だから、からかう奴は入室禁止という規則にして、誰もがお互いの気持ちに耳を傾けて助け合う場が必要だと思ったんです」
 ジェイソンの提案は校長の支持を得て実行されたのだが、たちまち参加者が殺到して、いくつものグループをつくらなければならなくなった。校長先生は「男の子たちがつながりをもつために自分たちだけの場を望んでいたなんて想いもかけませんでした」と私に語った。


ジェイソン君だから出来たんじゃないの? ともちろん思うけど、彼のようなスターみたいな子でも、やっぱりそうなんだ。「からかう奴は入室禁止という規則」は、ここでは世間体は気にするな、ということだ。そのような場が家庭にあれば、子は強く育つだろう。まずは大人が世間体を家庭に持ち込まないというのはどうだろう。地域社会が衰退しているとか言われてるし、これはどんどんやりやすくなっていると思うのだけど。

cover
菜根譚
洪自誠
本書は男の子とどう接していけばいいのか、そのヒントに満ちている。何でもいいから共同作業をしなさい。いきなり核心をつく質問をしないで、時間をかけなさい。彼が苦しんでいることを認めてあげなさい。大人でも不安で寂しい時があるんだよ、と告げなさい。などなど。そう、この本は人付き合いの本なのだ。別に男の子だけじゃない。目の前にいる人を人として扱う、そういう本だ。だから『菜根譚』なんかと合わせて読んでみてはいかが?

2008年8月6日水曜日

今日の一言

iGoogleというサービスを使っていて、"Quotes of the Day"というガジェットを利用している。毎日三つ、名言を教えてくれるおせっかいなガジェットで、毎回読んだりはしないんだけど、たまに面白いこともある。で、今日のジェシカ・アルバ嬢のは面白かった。
My theory is that if you look confident you can pull off anything - even if you have no clue what you're doing.
- Jessica Alba

試訳
自信たっぷりって顔でいればなんだってできるってのがアタシの持論。たとえ自分が何をしているのか全く分かってなくてもね。


世の中、最初にかましとけばなんとかなるし、なんとかなってきた、というオジサンが多すぎますよね。あなた、何してるかわかってんの?と問いつめたいところですが、そんなの意味ないですか、そうですか。

2008年8月5日火曜日

機能主義とOne Piece スリラーバーク編(ネタバレあり)

山本七平『指導者の条件』を読み始めた。序盤では日本において、機能主義こそが組織と個人の振る舞いを決めていた、という話。ここでいう機能主義を勝手な要約にしてしまうと、「上手くいけばいい」主義、あるいは「本人が望んでいるんだからいいんだ」主義という感じになる。

例えば、先日ファミレスの契約社員が過労死認定されたというニュースがあったけども、どんなにバカげた働き方をしても、それは「本人が望んでいるからいいんだ」というような考え方がそうだ。上手くいけば、組織が機能すればそれでいい。人に配慮するのも、「上手くいく」限りにおいて、というわけだ。

機能主義の利点は、原則がなくても「上手くいく」ということだろう。社長の訓示がまったく役に立たなくても、クラスの目標がお為ごかしでも、憲法が空文化しても、「上手くいく」のだ。山本七平は、この機能主義のおかげで日本の経済発展は成ったと考えているようだ。

機能主義が日本に独特であるとは思わない。お金で解決、なんてのは機能主義の一形態であろうから。でも、日本の機能主義は徹底している、と考えるのは、納得まではしないけど、そういうところもあるかも、とは思う。

さて、『指導者の条件』をちょっとだけ読んで思ったのがみんな大好き『One Piece』だ。僕はコミックス派なのでジャンプは買ってない。コミックスは最新が50巻で、スリラーバーク編が終わったところだ。

舞台は一年中霧で覆われた魔の海域を漂うスリラーバークと呼ばれる動く「島」。その主であるゲッコー・モリアは、迷い込んだ海賊たちの「影」を奪い、その影を天才外科医ホグバックによって強化された死体に押し込むことで、絶対服従の最強ゾンビ軍団を作り上げていた。奪われた影を取り戻すべく、麦わら海賊団は反撃にでる。

大悪党ホグバックに言わせると、モリアの能力は死者の復活であるという。人が死んでしまっても、新たな影を入れることで再び動き出す。影は記憶を失って、モリアに絶対服従になるが、死者が蘇ったにはちがいない。また生きられるのだから、死者たちも本望だろう。

そこで麦わら海賊団船医、ドクトル・チョッパーは叫ぶ。「お前が一番人間扱いしてないんじゃないか!」と。「人間ならもっと自由だ!」と。

上手くいっていれば、本人が望んでいれば(あるいはそのように見えれば)、「いい」のだろうか。そもそも上手くいくってのは、何が上手くいくってことなのか。件のファミレスは二年連続で赤字だそうだ。ゲッコー・モリアも魔の海域からは出られない(影を奪われた人間は日の光を浴びると死んでしまう。影の元の持ち主が死んでしまうと、影も消滅してしまうので、モリアは彼らに霧の中にいてもらう必要があるのだ)。

モリアは麦わらのルフィを「経験の浅い若造」とののしり、侮り、ついに敗れていった。彼は経験とやらを活かして政府に取り入り、霧の中に閉じこもっていただけだった。一体何がしたかったのか。前述のファミレスは四年前のケースでも過労死と認定されていた。一体何がしたいのか。

明治期から1970年代くらいまでは、欧米に追いつく、という暗黙の目的があった(ようだ)。だから日本社会は機能主義の良いところを活かせたのだろう。でも今は? 「何事も経験」とか「日本人の勤勉さ」とか「社会人として」とかいったフレーズを聞くと、その度にイラッとくる。目的はなんだ? 何のための経験なのか。何のための勤勉さで、何のための社会人なのか。人の自由を奪ってまで押し付けられるような価値のある目的があって、それが経験もなく勤勉でもない、社会人失格な僕には見えないだけなのか。

(日本の組織を)このまま放置しておきますと、組織の老化現象が急激に進み、あらゆる面で新しい情況に対処できない状態になるのではないかと恐れております。この状態をどのように打破するか、方法は一つしかありません。組織とは何か。これは家族ではない。組織とは、元来、一つの目標に対応してできるものであって、目標がなくなれば組織はなくなってもかまわない。この意識——当たり前のことですが、この当たり前のことを、もう一度再確認する以外にはないと思います。
山本七平『指導者の条件』より。()内は引用者注。


ところで、(いまのところ)『指導者の条件』では日本の機能主義に対して、ヨーロッパの教条主義(原理原則が大事)みたいな感じなんだけど、ルネサンス以降は教条的な教会に懐疑的な人たちこそが、人の権利意識の発展の原動力だったんじゃないかなあ。原理原則と機能主義のバランスが大事だよね、という話だと、ま、確かにあまり面白くはないけども。

2008年7月22日火曜日

ワークライフバランス

ワークライフバランスというと、「そんなことより一人前の社会人(とか職人とか)になれよ。泥のように10年働けとは言わないけどさ」的な嫌味?を聞くことがよくある。

一人前というのも随分曖昧で、人を裁く基準としてはおっかないことこの上ないけど、そもそも、一人前を実現するために、一人分の努力と根性と忍耐だけで済んでいたのか? と考えてしまう。

家事とか子育てとか、もちろん夫として父としても一人前なんですよね、わかります。それでいて奥さんの働きたい気持ちも尊重してきたんですよね、わかります。と嫌味を返したくなる。ま、「それはあいつ(奥さん)が望んだこと」なんですよね、自己責任ですよね、わかります。

この本なんか読むと、90年代初頭までの女性新入社員キツかったろうなあ、と思う。一人暮らしができないくらいの薄給で、しかも自腹でペン習字を習わなきゃいけない、って人間なめてんのか。一人前ってのはこういうことをするんですね、わかります。

そうやって一人前の男性を生み出し保護したところで、不景気には勝てなかったじゃないの。その程度の一人前ならば、父であること、夫であること、息子であることを、若い男性は望むだろうし、女性だって夫を一人前にするために自分の人生を投げ捨てるようなことはしない。

道は人に遠からず、っていうじゃない。人に出来ないことは、人の道から外れてる。女性を犠牲にして男性を一人前にするのは、もう出来ないことだ。もう人の道から外れてる。べつにおじさんが悪いってんじゃなくて、時代が変わったんですよ、ということでしょう。盛者必衰なんですから。

2008年7月20日日曜日

あの世代

あの世代は人数が多いからずっと競争競争で大変だったとかよく聞く。だがちょっと待ってほしい((c)朝日新聞)。基本、好景気だったでしょ?

伊藤昌哉『池田勇人とその時代』を古本でゲットしたので堂々の引用。()内は引用者注。漢数字を書き換えた。


(経済)成長率が問題になり、宏池会事務局案は7.2%、10年間で国民所得を倍増するという計画だった。下村(治。池田勇人の経済政策ブレーン)案は11%で、結局、池田は、36年(1961年)以降、最初の3年間は9%でいくという方針をたてた。当初の成長率を高く見こんだのは、ちょうどその間に、終戦後のベビー・ブームに生まれた連中が就業する時期がやってくる。それまでに経済の規模を大きくしておかないと、失業問題がおきるという配慮からだった。これは目算がはずれ、38年には、多くなった人口の大部分が、所得が上がったために上級学校へ進学するようになり、若年労働者の需給はかえってひっ迫するという状態になる。


こういう状況と、不景気下での競争とどちらが大変なのか。僕が大学を卒業したとき、学校の内定率は50%だった。はたしてあの世代が経験してきたという競争は氷河期世代が経験してきた血で血を洗うような、死屍累々のものだったのか。経済がぐんぐん拡大して需要もたっぷりな中(1970年代半ばくらいまで?)での競争と、マイナス成長をも経験しつつ需要が低迷しまくっている中での競争と、どちらが激しい競争なのか。

さらに言えば、当時、女性は大学まで行ったとしても、就職にあたって同年代の男性の競争相手になることはほとんどなかったんじゃなかろうか。もちろん当時の企業が女性を受け入れなかったのはあの世代のせいじゃないし、あの世代の女性たちの選択肢の少なさに鈍感ではだめだとは思う。が、若者の就業問題が、事前に、政策課題としてちゃんと議論されていたことを無視して、競争が激しかったとは言わないでほしい。池田勇人は若者が職を奪い合うような状態を避けるために、高めの経済成長を目指したのだし、現に避けることができたのでは?

こう言うと、「昔はモノがなかった」的な戦術に切り替えてくるだろう。でもさ、そんなことを言ってしまうと、戦争に連れて行かれて殺された世代もいるわけで、「死人に口無しってこと? それはいっちゃいけないんじゃないの」的な空気になるだけだ。

最近読んだ本*1のなかで「あの世代の人たちは、子供たちが自分たちより貧しい生活しかできないことをみて、罪悪感を感じている(でも上手く対応できない)。」というようなことが書いてあって、なるへそ、と思った。たぶんあの世代は、好景気が当たり前すぎて、子供たちが苦しんでいる理由が不景気だとは思っていないのだろう。なので、本人に問題があるから苦しんでいる、というかなり分かりやすい悪役みたいな考え方になってるんじゃないだろうか(弱者は滅べ!的な。でも我が子だし…)。

こんな分かりやすい悪役が昭和30年代を舞台にした映画『Always』を観て喜び、キャスティング・ヴォートを握りしめつつ年金の話ばかりするもんだから、そりゃあ嫌われるはず。「好景気を政策的に支持すれば、その罪悪感と心中しなくても済みますよ」と誰か言ってあげればいいと思う。

*1 信田さよ子『母が重くてたまらない—墓守娘の嘆き

2008年7月9日水曜日

偶然について

今Talebの"Fooled by Randomness"を原書で読み返している(邦訳は読んだ)のだけれど、あらためて、人は(僕は)確率を理解できるようにはできていないのだな、と痛感している。

「過去の出来事はいつだって偶然じゃないように思える。」

とタレブはいう。これは気持ちの問題とかじゃない。人は何を見ても、偶然の反対、つまり必然=因果関係がある、と感じてしまうということだ。

あるお金持ちが毎朝素っ裸でベッドメーキングをする癖があったとしよう。ここに因果関係を見てしまう。毎朝素っ裸でベッドメーキングをするからお金持ちになれたんだ、という風に。人が出来事を「偶然じゃないように」思うとはそういうことだ。

人は因果関係ねつ造マシーンだ。雨が降ったら雨男のせいにするし、若者が犯罪を犯したらゲームのせいにするし、受験に失敗したら努力不足のせいにするし(全員が受かるわけじゃないのに)、障害児が生まれれば母親の飲酒のせいにする(そうやって自分を責めてしまう人もいる)。悪いほうばかりじゃない。若い頃努力したから自分は今の身分にふさわしい(景気が良かったことは何の関係もない?)とか、自分は気をつけてるから交通事故には遭わない(交通事故はすべて自業自得なの?)とか。

たぶん偶然じゃないことというのは、かなり見分けにくいものなのだろう。一度きりの出来事の中で因果関係を特定できるなんてことは、よほど単純な出来事でない限り、無理なんじゃないだろうか。

それでも、僕は因果関係に気づいてしまう。ありもしない因果関係をでっち上げてしまう。

タレブの次の作品"The Black Swan"では、博識であることがこの度し難い人間の病に対する薬であるという。でっち上げ因果関係の答え合わせをした結果が、博識だといえるから。「こいつは雨男だ。だからこいつといると雨がよく降る」という因果関係の答え合わせをするのは簡単だ。天気に気をつければいい。でも、「女だから」「年だから」「日本人だから」「○○大学出身だから」「ゆとり世代だから」という因果関係の答え合わせはどうだろう。その人を虚心坦懐にみることができているだろうか。

そうやって時間をかけて観察していけば、やがて博識になるというわけだ。もしあなたの運がよければ正しい(かもしれない)因果関係を発見するかもしれない。でもその正しさを確認するには、また時間をかけて偶然とそうでないものを選り分けなきゃいけないわけだけど。

2008年7月3日木曜日

発見と発明

科学は発明ではなくて発見だ、とよくいわれる。本当にそのとおりだと思う。

当然社会科学だって発見だ。以前のエントリでも書いたけど、「労働条件改善のためにメインバンクの協力が必要」という話があった。ぼくらは神様じゃないので、物理法則を無視して空を飛ぶ方法を発明する事はできない。同様に、社会にありもしないルールを発明したって社会が変わるわけじゃない。答えは身の回りにある。観察して、発見する。仮説をたてることもあるだろう。検証してみたら当てが外れることもあるだろう。でも基本は、観察して発見すること、これが科学である。

難しい専門用語を羅列する人に対して、うさんくさいな、と思っていた。かくいう自分も学生の頃は気取って、というか、気取る事しかしなかったので、うさんくさく思われてたんじゃないかな。だからそれは猛反省なんだけど、そういう人は発明をしているんだと思う。もちろん難しい現象を研究していれば、専門用語が必要になるのは当然。でも、本来専門用語は定義のしっかりしたものであるはずだ。でなければ難しい現象を扱えないだろう。そういったものを定義を共有していない人に向かって言っても、ただの発明でしかない。メインバンクなんて言葉は専門用語として正確な定義を持っていないから専門用語ですらないダメ発明だけど、そんなもので労働政策を論じるべきじゃない。

科学じゃないものに価値がないとかそういうことじゃない。友達と話すのに自分の想いを定義付けして共有する必要はない。見てくればかり気にしている人には気をつけろ!という話。

2008年6月16日月曜日

通り魔事件の反応

テレビのニュースは見ないし、新聞もとってないし、最近だとネットでニュースを仕入れるのも抑え目なので、雑感という以上のものにはならないけども。

聞こえてくる秋葉原の通り魔事件の反応に、事件とは別のイヤな気持ちを持った。

なんでも各地で派遣社員に対する扱いが変わってきているという。上司が以前より丁寧な口調で接してきたりするのだそうだ。

しかし、あのような卑劣な犯罪の為に僕たちが変わらなければならないというのは、なんだかとても屈辱的だ。こう書くと、「派遣なんて自業自得」、というふうにとられるのかもしれないけどそうではなくて、相手が派遣社員だろうが誰であろうが、人として尊重しないような態度は、通り魔と関係なく恥ずべき行為だ。それを社会的に(マスメディア的に?)注目され同情が生まれてるっぽくなると手のひら返しというのは、なんというかもう、本当にやりきれない。

職場での扱いがヒドくたって、将来が不安だったって、人は通り魔にはならない。でも、こういう反応をきくと、原因は派遣! と言いたくなるのも理解できる。

今回の件で態度を翻した上司たちは、こんなことがなければ正しい行為と恥ずべき行為の区別もつかないのだろうか。『あなたの職場のイヤな奴』問題というのは、本当に根が深く、かつ、影響の甚大な問題なのだと、改めて思う。
 

2008年6月13日金曜日

看板からはわからないもの

池田勇人関連のエントリで、志が重要なんだ、というようなことを書いた。

それはホントに信じている事だけど、だからといってこれ見よがしに掲げられた志を真に受けるほどナイーブでもない。

『あなたの職場のイヤな奴』にもあるけど、クソッタレ撲滅ルールを掲げておきながらクソッタレを放置するような職場は、ただクソッタレが放置されている職場よりもヒドい職場なのだ。

含羞とか、謙虚さとかの向こうにある志。看板からはわからない。

2008年6月12日木曜日

こちら久々の

2008年1-3月期のGDP二次速報が発表されましたね。

新聞は例によって4%の成長! と叫んどりますが、こちらをみると、

http://cloudy9.fc2web.com/sna/qe081/v/ritu-jfy0811.html


そうなんです。2007年度はこちら久々の低成長なんですねー。2002年度といいますと思い出深いのが、2003年度の内定をもらった人が過去最低の年ってことですよ(たぶん)。我が母校はたしか50%くらいじゃなかったかな? アタクシ? もちろん漏れました。以来低成長人生まっしぐらで。

それでも今回は雇用不安で騒がれたりはしていないわけで(むしろ高成長とかいってるし)、やっぱ団塊の世代の大量退職のせいですかね。うーん。こうもあっさり世代交代が起こることもあれば、就職氷河期のように手の打ちようがないこともある*1。世の無常を感じますなあ。

で、こんなお話が。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080611/1213186264


先方のコメント欄でお返事をいただいたので考えてみた。

アメリカは大恐慌みたいなことにはならないようだけれども、不景気は避けられないのかも、という雰囲気。アメリカがモノを買わなくなると、ま、世界中が困るわけです。そうなると、やっぱり日本、期待されてるのかな。日本の需要が回復、成長すればアメリカが買わない分くらいは埋め合わせられるかも。でもその兆しなんてまったくないわけですが。


*1 若者の雇用不安が事前に政策課題として議論されていなかったので、打つ手がなかった、あるいは派遣ナントカ法の改正ぐらいしかなかったわけで。それこそ池田勇人みたいに、若者の雇用のために経済成長予測を大きく見積もって、それを実現させていくこともできたのかも。目標があれば日銀だって少しは協力してくれたんじゃないかな?

2008年6月10日火曜日

Discover Your Inner Economistを読んだ



この本を貫くテーマとして、「世界を良くする」がある。もちろん、「みんながガマンすればいいと思います」じゃなくて、みんなそれぞれが最大効用を目指せる環境をつくる、といういかにも経済学者な目標で気持ちがいい。そうそう、著者は経済学者です。

だから、美術館で自分の関心を持続させる方法、とか、面白くない本をそれなりに読む方法とかは、己の最大効用をめざす、という意味でただしく世の中を良くしていくと思う。社会の中で自分はどうすればいいのか、という問題があって、自分がしたいことはなにか? それはホントにしたいことなのか? 空気読んだだけじゃないのか? と問い、自分のしたいことをしろ! というのが答えなんだけど、この個人からの目線が大事であるはずなのに、なんか行ったり来たりしてしまう。中途半端なマス目線があったり(音楽の話)して、イライラする。

で、個人の最大効用(そういう言葉はでてこないけどさ)を目指すときにも問題があって、人はコントロール感をすごく重視するので、たとえ合理的で正しい選択肢でもコントロール感がなければ選ばないよ、という。

例えば、新型の質の悪いインフルエンザが猛威をふるっています。感染者の10%が死にます。とても良くきくワクチンが作られましたが、ワクチンを接種した人の5%が死にます。さて、あなたはワクチンを接種しますか?

こういう質問をされたときに、多くの人が「接種しない」、を選ぶのだそうだ。致死率がはっきりと決まってしまう(コントロール感を失う)ことを恐れているのだろう、とコーウェンは推測してる。この例が面白いのは、じゃああなたの子供には接種させますか?<あなたが医者だったとしてあなたの患者には接種させますか?<あなたが大きな病院の経営者だったとして病院全体の患者に接種させますか? という順番で「接種させる」、が増えていくのだそうだ。人は他人の問題は冷静に見通せる、ということなんだって。

しかし、そういう僕たちがよく生きるために「世界一他人の(正しい)アドバイスを受け入れる人間」という自己イメージを持つべき、というのはヒドいんじゃないだろうか。コントロール感が全然ないじゃん。これじゃあ「強くなれ」的な精神論じゃないか。

人にうまくコントロール感を持たせてやれば、受け入れ難いが正しいことも出来るかもしれない、というのはグッドニュースなわけですよ。なのに……

と、思ったら。

なんとなくロバート・I・サットン『あなたの職場のイヤな奴』を読み返していたら、イヤな奴の多い職場で生き残るには「コントロール感」が重要、みたいなことが書いてあった。この本はイヤな奴=クソッタレのいる環境に長期間浸ることを強力に戒めている。あなた自身も早晩クソッタレになってしまうから早く出なさい、と。しかし事情があって出られない人のために、素人にはおすすめできない耐える方法を説いている。

その一つがコントロール感だった。クソッタレに対して小さな勝利を積み重ねることで、ささやかながら自分の人生をコントロールしているという感覚を持てば、苦しい環境でも生き延びられるという。ここで出てくる例が北ベトナムで捕虜になった中将だったりして、ああ、堪え難い上に正しくないことも、コントロール感を用いれば受け入れてしまうのね。

ということで、この本(Discover Your Inner Economist)の端切れが悪いのも悪用を恐れてのことなのかも。なので善良な市民におすすめ。

2008年6月5日木曜日

メインバンク

池田勇人エントリはちょっとお休み。

友達から聞いた話。非正規雇用の労働環境を改善する、あるいは正規雇用化するには企業が変わる事が必要で、そのためにはメインバンクの理解が欠かせない、らしい。

最近の何かの記事らしい。検索下手なので見つけられなかったです。なんでも、労働問題の専門家の記事らしいですよ。

それにしてもメインバンクですよ、こうなったら(?)。日本を陰で操るメインバンクですよ。官僚、銀行、ヤクザが牛耳っているんですよ、日本は。なので銀行さんにお願いして日本を変えてもらいましょうよ、そうしましょうよ。

独占禁止法にこんな箇所がある。「原則として他の国内の会社の議決権のうち、銀行については5%,保険業については10%を超えて、議決権を取得又は保有してはならない。」これはお金の貸し手が、借り手企業を意のままにしたりしないようにするための法律だ。果たして日本の銀行はこの法律の精神を踏み越えてまで企業経営に介入しているんだろうか。もしそうなら、この国は結局官僚と銀行とヤクザに牛耳られてるってことなんだろう。

ありもしないメインバンクの理解を得ても、何も解決しないんじゃないの? 専門家ってこわいね。

参考:三輪 芳朗、J.マーク ラムザイヤー『日本経済論の誤解』


いもしない専門家にむけて書いているような気がしてきたけど、まあいいや。

温故知新について

温故知新を言う人は多い。論語に出てくる言葉だ。けど、この四字熟語を聞くといつも思う。続きがなかったっけ? と。

子の曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。

先生がいわれた、「古いことに習熟してさらに新しいこともわきまえてゆくなら、人の師となれる。」
金谷治訳


温故知新は人に教えとくための条件なわけだ。僕はもちろん学者でもないし、小さい頃から古典に親しむようなこともなかったし、今だって深く論語を理解する才覚なんかないけど、それでもこの奇妙な本を読んでいくと、孔子は「人の師」であることに随分慎重なんだな、と思う。「教えることに倦まないで」なんて表現がよく出てくる。孟子も、人間の欠点は人の師になりたがること、とか言ってるし、古の賢人たちにとって「人の師」であることは、なにか危なっかしく見えたのだろうか。

で、温故知新を言う人は多い、ですよ。彼らは「人の師」を目指しているから、あるいは、「人の師」であることの危うさを避けたいから、温故知新を掲げているんですよね、きっと。
 

2008年5月27日火曜日

ブーチャンの(戦後民主主義的な)冒険

伊藤昌哉著『池田勇人とその時代』を図書館で借りて読んだ。以下、[]内はすべて引用ではなくて要約ってことで。

なんと言っても池田勇人がカッコイイ。というかそういう風に描かれているわけだけど、池田の側近のブーチャンこと伊藤昌哉の思い入れがそれだけ凄いし、池田を通して自分自身を描く、という面もあって、ちょっとやり過ぎ? なくらいカッコイイ。

著者・伊藤昌哉は、西日本新聞東京支社の記者として池田と出会う。当時池田は大蔵大臣、例の「貧乏人は麦を食え」発言の時期だ。なんでも当時の池田は記者に無愛想でなかなか情報をださない記者泣かせな大臣だったとか。で、記者同士であいつ気に入らねえ的なことになって、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」という答弁が、貧乏人は麦を食え、に生まれ変わってしまったんだそうな。

伊藤に言わせると、池田には戦後民主主義を担うという自負があったという。三閣僚辞任騒動の時の池田の気持ちを代弁して[池田は岸のやり方が気にいらなかった。岸と池田では信じる民主主義がちがう。国民は岸がいうほど馬鹿じゃない]という。また政策で勝負する人であって、党利党略からは無縁であったとも。しかし党務に弱いが故に、常に党内人事では不満が噴出し、政権運営は安定しなかった。そんな中でも池田が求心力を発揮し続け、今日のジャペーインの繁栄の礎を築くことが出来たのは、彼が努力をやめない男前総理だったからだッとブーチャンは熱く語るのであった。

なんでも、自分が努力を続ける、とくに外交はからっきしだったのにブーチャンに促されて随分勉強したらしい、そうなってくると、人の努力や想いに敏感になり、決して見逃さず認めてくれるのだそうだ(うらやましいです、率直に)。総裁3期目、記者に質問されて、[国民が喜ぶあとに喜び、国民が悲しむまえに悲しむようになった。俺も年を取ったのかな]とこれまた男前発言。怒りっぽかった男が忍耐力も判断力もどんどん身につけて、情の人、とまで呼ばれるようになる。伊藤が語る池田は本当にカッコイイ。[総理在職中は待合にもゴルフにもいかない、だって国民はそんなとこで遊べないから][総理を辞めたらブーチャン、二人で全国行脚しよう、若い人と話し合おう] さらに総裁選で必死の工作をしかける佐藤栄作に対する思いを伊藤が代弁すると、(ここはメモあったので引用)「なんでお前そんなバカなことするんだ。そんなことに血道をあげるより、政権を担当するにふさわしい人格の持ち主になれ。そうすれば、いつでも政権など譲ってやる」とくる。うーん、マンダム。

僕はこのかっこよさを割と素直に受け止めていて、そりゃ側近の証言なわけだから真に受けるのはどうかな、とも思うけど、批判的にみればいいってわけでもないでしょう。志だけではダメだ、というのもわかるけど、結果には運不運がつきまとうから、結果だけが重要なんだと言い切れない。自分の乏しい経験から感じるのは、そりゃ結果がでないのもダメなんでしょうけど、志がないのは破滅的だよ、ということ。

評判の悪かった安倍総理も、今評判の悪い福田総理も、志ということでは、いいんじゃないの? と思ってます。安倍総理については高橋洋一氏の本を読んでそう思いました。福田総理については、記憶が曖昧だけど、年金問題について問われて(質問したのは記者じゃなくて議員だったとおもう。でも議会じゃないです)、「きみたち若い人が決めることだよ」とか言ったとき、あ、そうか、と思いましたよ。

本題の経済政策については次のエントリで書きます。

結局統計ってつかえるの? その3

しか し、統計が弱い人を救うことだってあるかもしれない。日銀だって統計に基づいて、弱い人になってしまった失業者を救えるだろうし。そしてとくにエアーズの 本はその可能性が多岐に渡ることを示しているように思える。たとえば教育とか医療の分野で、属人的な判断を減らして統計に基づいた判断を導入すれば、効率 だけでなく公正さも向上させられる可能性があるようだ。

で、結局統計ってつかえるの? なわけだが、分かりません。ただ己の中の第二審判 決に従えば、統計の結果だけが騒がれているような時は気をつけろってことでしょうか。教育でいえば、日本の子供の学力が上がった下がったというのは無視し てもよさそう。でもある教授法を使うとテストの点数が、とか、出席率が、とかいう話なら、拒絶するのは待った方がいい。特に、直観に反する現象というのは なんというかチャンスなんじゃないかと思う。

自分で考える教育よりも、分からないところはさっさと答えを見ちゃう教育のほうが、特に学校 では、上手くいく。そういう反直観的な統計が出てきたときに、保身に走って拒絶するのはもったいない。というか保身に走ると、老後は塗炭の苦しみを味わう ことになる気がする。効率も公正さも向上させるチャンスを潰したのかもしれないんだから、そのために傷ついた人たちのことをさっぱり忘れるなんて出来ない と思う。

そう、統計を真に受けても、拒絶しても、人生ヒドいことになるかもしれない。統計にもまた、第一法則はないということでした。ちゃんちゃん。

結局統計ってつかえるの? その2

さぼっているうちに日銀総裁が白川さんに決定。時宜を失った感じはするけどまあいいや。

このエントリは僕のような愚か者に統計は必要か? ということだった。モテるのか? 金持ちになれるのか? というのが問題なのだ。幸せか? というのがね。

統計とにらめっこして幸せってのは無理っぽい、というのが率直なところで、例えば、「二十代の若者100億人に聞きました。あなたの初セックスはいつですか?」 で、平均が16歳とかになると、もう自殺ですよ、若者たち。どうしても遅いとかはやいとか(いやそういう意味じゃなくて)言い出して、世間と歩調を合わすことの重要性を必要以上に心に刻んじゃうんじゃないかな。世間に合わせることが人生の目的になっちゃうんじゃないか。

前回の(二ヶ月前の)エントリでも書いたけど、朝日新聞のお茶目事件だって、統計を真に受けた結果じゃん。幸せではないだろう、そんな生き方は。

じゃあなんで統計を真に受けた素人は幸せではないのか。それが世間にみえるから、といってしまうとぐるぐる回ってるような気がするけどいいや、別に。

cover
アダム・スミス
堂目卓生
最近、堂目卓生『アダム・スミス—「道徳感情論」と「国富論」の世界』を読んだのだけれども、んで、とっても良い本でしたけども、そのなかで、「弱い人は第一審の判決を、賢人は第二審の判決を受け入れる」というようなことが書かれてあった。第一審というのは世間の目ということで、第二審というのは「公正な観察者」、つまり、世間体にとらわれない、といって自分の利益ばかり考えてるわけでもない人なんだそうだ。マイナスイオンとかに踊らされると弱い人、そうでないと賢人、みたいなことでしょうか。ここは僕の理解なので眉唾ですけど。

そして弱い人と賢人は個人の中で同居している、というようなことも書いてあった気がする。そうそう、で、モノによっては普段賢人なアイツも弱い人になっちゃうことがあって、その最たるものが失業で、やっぱり失業すると落ち込むからねえ、という話。

新聞に載るような分かりやすく加工された統計結果が、第一審判決として弱い人の人生をコントロールすることは、十分に考えられる、というかそんなのばっかり見てきたし、自分にもそういうところがある。だから凡愚な僕に統計はいらない、かもしれない。すくなくとも、新聞テレビで紹介されるような数字は無視しちゃった方が無難かも。

あああ

二ヶ月もさぼってしまった。今は反省している。

twitterを始めたのでそれを刺激にblog再開。

2008年3月19日水曜日

結局統計ってつかえるの?

ものすごく使えるよ派
エアーズ『その数学が戦略を決める』
飯田泰之『考える技術としての統計学』

基本使えないよ派
Taleb "The Black Swan"


cover
その数学が
戦略を決める
イアン・エアーズ
最近読んだ本を参考に、結局統計って使えるの? とくに我ら一般庶民に、という問題を考えてみる。

今日本では日銀総裁が決まらなくてすごくもめているけど、日銀の政策は統計が無いと成り立たない最たるものでしょう。だって一億人以上の経済活動をすべて把握は出来ないから、具体的な、誰がどこで何を買ったの売ったのということは切り捨てて、100人、1,000人でどんな傾向があるのかを見ていく事になる。いわばどんぶり勘定だ。ホントは箸で一粒ひとつぶ取り出して調べることが出来たら一番いいけど、ま、無理。統計をとるのに時間がかかって、五年前のデータで来年の事を決めるわけにもいかないもの。

なので統計は正確ではない。そんなの当たり前。正確に把握できないから統計が必要なんだ。何年か前に、うっすらとした記憶なんだけど、朝日新聞社内で起きた事件があった。靖国神社に首相が参拝しても良い? ダメ? っていう調査をして、51%/49%で参拝賛成が多かった(逆かも)。そしたら上役と部下が喧嘩になって、たぶん部下が「そういう時代になったんですよ」とか言ったんじゃないの? 上役が部下を殴ったっていう事件。その後どうなったのか全く知らないし興味もないけど、間の抜けた話です。誤差でしょ、どう見ても。賛成も反対もおんなじくらいです、とはいえるけど、どっちが多い、とはいえない。統計は正確じゃないから、何かを読み取るには慎重さが必要なわけだ。そしてだから、統計は分かりにくい。

ただ単に正確じゃない、っていうだけじゃない。どういうふうに不正確なのか、これも大問題だ。さっきの靖国参拝のデータは、たぶん小泉純一郎氏が首相だった時の話だ。いま聞いたら違う回答をする人も多いんじゃないか。これはつまり、データが古いから正確でない、ということになる。

cover
考える技術としての
統計学
飯田泰之
日銀の仕事は物価の安定だけれども、そこで参考にするのが消費者物価指数(CPI)だ。CPIにはバイアス(偏り)があることが知られている。スーパーで売っている商品の価格を調べるにしても、すべてのスーパーを調べるのは無理だから、いくつかのお店を抜き出して調べるわけだ。でも人々は絶対に同じ店で同じものを買い続けるわけではなくて、そのときどきで安いお店に行ったりもする。だから同じお店を調べ続けると、実際に人々が使った金額よりも多めに、ココ大事、多めに価格を見積もってしまう。他にも、三年前に外付けハードディスク120Gを2万円で買ったとしよう。で、今年、320Gを2万円で買いました。これで僕は同じものを同じ値段で買ったと言えるだろうか。もちろん言えない。でも、CPI調査の品目はそんなに細かく分かれていないから、性能が上がって実質の値段が下がっているケースはCPIに反映されない。だからこれも実際よりも値段が高め、ハイまた来た、高めに計算されてしまう。

cover
The Black Swan
N.N.Taleb
日銀はなぜか、日本ではこういった上方バイアスはあんまりないよ、と言っている。とくに根拠があるわけではないようだ。1.8%ポイントぐらい高めに出てるよ、という人もいる。1.8%ポイントはすごいよ、やばいよ。だって日銀は、日本の物価はほとんど変化していない(CPIがゼロ近傍)からデフレじゃない的なことを言っているけど、もし1.8ポイント多めに評価しているとしたら、本当の日本の物価は1.2~5%で下がっていることになって、しかもここ十年以上そんな感じで、立派なデフレなわけだ。

こういうふうに調査の過程で結果が歪んでしまうことがある。というか必ず歪んでいる。日銀のようなエリート集団でさえ、統計をうまく使えていないんじゃないかと疑われる昨今、果たして縁なき衆生である我々が統計を使うメリットなんてあるんでしょうか。続く。

2008年3月12日水曜日

When you down and troubled.

なんとなく落ち込んでいて、nothing is going rightってな気分。友達? うーん。

こういうときはアランだ。でアラン『幸福論』。

ぱらぱらとめくって読んでみる。「25 予言」

占い師の話だ。占い師の言う事には耳を傾けない方がいい、ということ。

この世ではどんな出来事が起こるかわからない。だから、どんな強靭な判断力をも揺るがすような偶然の一致も起こる。あなたは不気味だが起こりそうもない予言を笑っている。でも、その予言が一部分でも成就したら、もう笑わないだろう。そうなったら、どんなに勇気のある人でも結果を見てからという気持ちになるだろう。われわれの不安というのは、だれでも知っているとおり、 破局そのものと同じようにわれわれを苦しめるものである。二人の予言者がお互い知らずに、同じことを予言することだってある。こういう一致にもかかわらず、あなたの知性の許す以上に、あなたを不安にしないなら、ぼくはあなたに脱帽する。

今、タレブの"The Black Swan"を(まだ)読んでいることもあって、実に腑に落ちる話だった(偶然でしょうけど)。アランはこのあと、重要な出来事は、どんなに賢くなったって予測できないんだから、人生のあれやこれやに未来を読み込まないで、目前のことだけ見ていればいい、というようなことを言う。

タレブは予測すんな、と言う。予測すると予測できなかったことが起こるので、当然予測してないからダメージでかいよ、と。それは予測しなくても同じなんじゃ? と思うけど、人間一度予測を立てればそれに沿って動くのは人情、予測を立てなかったときより無駄に資本を使っちゃう。だって「破局そのものと同じようにわれわれを苦しめる」んだもの。自分一人ならいいけど、組織となると無駄とか言ってられない。人的被害は埋め合わせできない。

「長期的には我々は皆、死んでいる」とは北斗の拳の名台詞じゃなくてケインズのお言葉でした。未来のことを考えれば不安になる(そうでなければ脱帽する)し、100年後には僕を含めて皆さんのほとんどが死んでいる。先の事ばっかり言ってないで今、景気対策を! リフレ政策を!

あれ? そんな話だったっけ?

木田元『反哲学入門』

木田元『反哲学入門』

面白かった。ソクラテス(以前)から順を追って「哲学」とは何か、を解説していく本です。とはいえ200ページとちょっとの本ですから、歴史上の主要な哲学者をとりあえず並べることさえせず、木田先生の考える俯瞰像のさらに入門編となります。口述筆記ということで、思い切りはしょってしまったのがとても良い効果をだしてます。

全体を貫くテーマとして「理性」があります。木田先生はこの「理性」というアイディアを西洋に産まれた特殊なものとして説明します。そして「理性」が揺るぎないものであると信じる人たちと疑う人たち、アイディアそのものを否定する人たちが描かれます。また、それが西洋に独特なものであるが故に、日本人には容易に理解できないものであるとも語られます。

そのような「理性」ですから、当然、キリスト教とのつながりも深いわけです。プラトンの考え方がどのようにしてキリスト教と接続されたのか。こんなこともサラリと説明してくれます。

全体をざっくり把握できるというのは単純に気持ちがいいもの。全体を把握していると物覚えもよくなるそうですし、哲学に悩まされている(いた)方は是非どうぞ。

2008年3月6日木曜日

you cannot intend to discover something not discovered

何の展望もなく始めたこのブログ。まだありません、展望。

展望があるというのは計画できる状態とも言える。計画は当然、未来予想を含むわけで、ええと、以下略。

タレブの例え話。

石器時代。あなたは上司に部族資本の今後の運用計画を作れ、と指示を受けました。あなたはクビになったら一人でマンモスと戦わなければならないので、「車輪の発明」を予測し、積極的な投資を提案しました。

発明や発見は予測できるのか。あなたは車輪がなんたるかを知っていなければ、「車輪の発明」を予測できない。予測した時点で、すでに発明はなされている。つまり未来の話じゃなくなっている。

展望の中に発見も発明もない。なので依然ノー展望で行きます。

manga I bought.

I bought the 49th "One Piece", the 9th "Mushishi" and 6th "Moyashimon".

One Piece

I thought this Thriller Bark arc was a bit boring. there were so many tantalizing hints. but on this volume Oda-sensei punched in me to straighten me up for One Piece.

You will see the strraw hat pirates in one piece.


Mushishi

The best as usual.

They feel being not accepted while they don't notice. Ginko knows it.


Moyashimon

I didn't have any expectation for the France arc of Moyashimon. but it turns out as a bunch of nice episodes although Tadayasu's ability was still in deep sleep.

2008年3月2日日曜日

Mushishi and Moyashimon!

I bought vol.9 of Mushishi and vol.6 of Moyashimon!

As usual Mushishi is the best.

I didn't have great expectations for the Paris arc of Moyashimon. But it turns out as a bunch of good episodes although Tadayasu doesn't efficiently use his ability yet.

2008年3月1日土曜日

Do not focus!

選択と集中。

選択と集中を迫られているような気がする。

行った事ないけどカジノにルーレットがあるわけですよ。カジノのルーレットには答えが必ずある。19とか赤とか。それでも一点買いなんてしないんじゃないかな、よくしらないけど。

ルーレットみたいに正解が必ずあるものに賭けるときだって集中は避けるでしょう? 僕なら避ける。なのに人生みたいなルーレット以上には複雑かもしれなくて、しかも全員不正解もあり得そうな勝負で一点買いはないよね。リスクでかすぎじゃん。不正解の結果が生卵一気飲みぐらいならいいけど、何かプレシャスなもの、何十年という時間とか健康とかをつぎ込んだ賭けだと目も当てられない。

大きな組織もそう。傾斜生産方式ってしない方がましだったんじゃないか、成功例が思い浮かばないんすけど。この前の戦争(WW2ね)だってそう。間違った選択があり得て、しかもその代償が大きすぎる時、何も選択しないってのもアリでしょう。たぶんサンクコストの誤謬*1が、過去の選択を侵してはいけないものに見せてしまうんだろう。

偉い(あるいは偉そうな)人たちは選択と集中が大事とかいうけど、実際に出来てるわけでも、出来たわけでもない。なのに僕たちに押し付けないでほしいなあ。


*1過ぎた時間も使った金も帰ってこない。だから今、最も妥当な選択をすべき。ということが見えなくなってしまうこと。『注文の多い料理店』に入ってしまったら、「せっかくここまで来たんだし」とか「やっと予約取れたし」とか言ってないでさっさと逃げ出しましょう。

confirmation bias

タレブのThe Black Swanを読んでますよ。

前置き。一個前のエントリで書いたおばあさんは怖くみえるってだけで、他意はないです。

で、タレブですよ。途中も途中、大途中なんだけど、The Black Swan、おもしろい。前作『まぐれ』よりもまとまってる? いやそうでもないかな? でも『まぐれ』と同じくらい好きになれるかも。その前に『まぐれ』を原書で読まねばね。

「自分は絶対に間違っていない」哲学。この哲学に寄り添って生きていくのは難しくない。自分の正しさを確認するのが、ものすごく、ものすごく簡単だからだ。この複雑な世界で、都合のいい証拠なんていくらでも見つかるから。

自分の推測(例えば「デキるヤツ」はカルピスが好きだ、とか)を確認するために情報を集めると、推測に反する情報(例えば、一度も働いたことのない叔父はカルピスしか飲まない、とか)には目もくれない。ただひたすら自分の推測に沿った情報ばかり集めて、カルピスを飲まない部下をいじめたりする。

実に罪作りな生き方だと思う。だって、何の根拠もないモノサシで可能性を否定してしまうのだから。そして残念ながら、僕たちが人間である以上、誰もがこの傾向(confirmation bias)を持っている。

『まぐれ』にも出てきたエピソードで、9/11のあと、WTCビルが「飛行機が激突しても大丈夫なビル」でなかったことに批判が起きたそうだ。一度事件が起こると、どんなに予想外だったことでも、予想できて当然だったかのように思えてしまうという、これも人間のもつバイアスの一つなのだろう。

思うに、予想外の出来事を予想外だと受け止めることができれば、confirmation biasからちょっとは自由になれるんじゃないだろうか。でも年取るとキツいよな、たぶん。経験もスキルとやらも役に立ちません、って(予想外にも)認めなきゃならないわけだし。でも認めようが認めまいが経験やスキルは役に立ってないと思うんだけどね。

ここまでThe Black Swanをよんで、この本を思い出した。

『ノンちゃんの冒険』

年金さんはあんましっていうかまったく根拠のない理由でノンちゃんに酷い事を言ったよね。

年金さんが言ったような酷い事ってたいてい、親とか教師とか上司とか目上の人から言われる。場合によっちゃあずっと引きずるような出来事だ(とくに親から言われると)。なんて因果*1な生き方だろう。

僕はカルピス大好きだから大丈夫だけどね(春待ち白桃サイコー!)。



*1ここで言った因果はplatonifyされてないと言いたい。だって傷つけたのも傷ついたのも嘘じゃないんだもの。って読んでない人には通じないな、コレ。

2008年2月29日金曜日

本当に怖い婆さん

今日、怖い婆さんを見た。
小柄でやせてて背筋ピンッの婆さんが、小学生くらいの孫娘に怒鳴ってるんだけど、孫の応答が実にフツーで、孫の言うことだけ聞いていたらおばあちゃんとの楽しいおしゃべりにしか思えなかったろう。

孫に「自転車であっちまで行き、そこで待て」という趣旨のことを申し渡してるんだけど、いちいち大声なので怒っているように聞こえるし、何度も何度も「わかった?」とか「ちゃんと待ってんだよ!」と確認とるし、「移動アンド待機」命令もこれでもかってくらいに繰り返していた。妙に迫力があって、怒り馴れているというか、哲学のようなものを感じたね。孫だからといって無条件に信用しないし、そのことを堂々と見せつけるぜ!って感じの「自分は絶対間違ってない」哲学。

孫も「わかった」とか「うん」とか、それはそれは繰り返してるんだけど、別におびえているとか面倒くさそうということは全然ないみたい。だからまあいいお婆ちゃんなんだろう、きっと。

馴れなんでしょうけど、孫スゲー。いやあれは怖いって。

2008年2月26日火曜日

Kekkaishi

I just watched the last episode of Kekkaishi.

They depicted people so delicately. not only our protagonists, yoshimori and tokine, but also evil guys had their own background stories.

I heard the ratings were not good. Zannen.

2008年2月25日月曜日

I know I don't have anything to say.

なんの展望もなく始めてみます。次回のエントリは一週間以内にはなんとか。