新しい労働社会 濱口桂一郎 |
山本夏彦とか山本七平の本を読むと、戦前と戦後の日本社会は地続きなのであって、敗戦によって一から社会を作り直したという漠然としたイメージは間違いである、という主張によく出会う。ひるがえって現在、経済的な停滞が続く中で「敗戦から立ち直った日本」のイメージがまぶしく見えてしまうことはままあって、なにか(戦争ほどではない)劇的な出来事が都合よく起きてガラガラポンってなことを期待してしまう心情が世にはある、と思う。
本書はダブル山本がいうような連続性を過去の法令や判決をあげて、かなり明確に示していると思う。もちろんそれが本書のテーマではないんだろうけど、一読して強く感じたことだった。
ということで、本書は日本の雇用形態とその変化をかなり詳しく描いていて、何というかもう漢字ばっかりで僕にはかなり難しかったんだけど、そんな僕がざっくりまとめてしまうと、当面日本国民が対処しなきゃいけない労働問題の大きな山は、オジサンのお給料には奥さんと子どもたちの生活費、教育費が含まれている(生活給という)ので高額になりがちだけど、オジサン以外の人は働いた分(職務給という)しかもらえないので、家族を養うことも出来ないほど(ときには自分の生活もままならないほど)少ないお給料になりがちだ、という問題だ。
これは誰が国民の生活を保障するのかという問題で、職務給は景気の影響をもろに受けてしまうから、個人でどうにかできるようなものでもないわけだ。今時の議論なら、国民が生きていくための収入は国が保障すればいいんじゃないの? ベーカム(ベーシック・インカム)やろうぜ! となるんだろう。本書でも公的な給付の充実を提案しているし、僕も賛同する。ではなぜ、日本の企業はオジサンたちが働いた分だけでなく、生きていくための分まで彼らに支払ってきたのだろうか。
戦前の賃金制度は職種別賃金から大企業を中心として勤続奨励給に移行してきましたが、生活保障の観点はありませんでした。これを初めて提唱したのは呉海軍工廠の伍堂卓雄氏で、1922年に、労働者の思想悪化(共産化)を防ぐため、年齢が上昇し家族を扶養するようになるにつれ賃金が上昇する仕組みが望ましいと説きました。この生活給思想が戦時期に皇国勤労観の立場から唱道され、政府が類似の法令により年齢と扶養家族数に基づく賃金制度を企業に義務づけていったのです。この生活給のせいで日本の賃金制度の改革はベラボーに難しくなってしまっている。というか政府も経営側も何度も職務給の導入を働きかけたが、その都度失敗しているという。本書にもあるように、オジサンたちに生活給にかわる収入を保障しないかぎり、オジサンたちは生活給を絶対に手放さないだろう。もちろん、生活給は働いた分以上の金額になりがちだから、一部の人の生活給を保障するかわりに、他の人の給料が低いままで押しとどめられるわけだが。
敗戦によってこれら法令が廃止されると、今度は急進的な労働運動が生活給思想の唱道者となりました。1946年の電算型賃金体系は戦後賃金制度の原型となったものですが、年齢と扶養家族数に基づく生活保障給でした。当時、占領軍や国際労働運動が年功賃金制度を痛烈に批判していたにもかかわらず、労働側は同一労働同一賃金原則を拒否し、生活給原則を守り抜いたのです。
[p.p. 119]
もちろんオジサンを悪者にしたところで解決したりしない。が、どのみち生活給制度の改革は避けられない。だって商売の実績に基づかない高額の給料を支払っていたら、会社なんか成り立たないし、そもそも会社がつぶれてしまえば元も子もない。それにやっぱり同じだけ働いて給料がちがうというのは、公平な社会とはいえず、とても差別的な現象だ。オジサンにしたって引き替えに異常な責任を背負わされてきたし、奥さんだって労働市場から閉め出されたりしてきたわけで、もう利点のほうが霞んできている。
しつこく拙訳を参照してしまうんだけど、ケインズは「経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。」(『自己責任主義の終わり』第4章)と言っている。Agendaとは政府のするべき事。本書はもちろん後者の「政治学」に関わる本だと思う。で、本書でも何度か経済学者の発言が引用されているんだけど、彼らの発言は総じておおざっぱすぎる気がした。景気を良くしたり規制をなくしたりすれば改善されることも多いとは思う。けど民主的に実現されなければ意味がない。例えば生活給制度は一部の国民の利害を強烈に反映していて、他の国民の利害を軽視している。でも市場に任せたからといって、より多くの国民にとって望ましい分配が実現するとは限らない。この点はケインズも批判している。「先ほどの単純化された(個々人の自由な活動が最適な結果をもたらすという)仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。」(『自己責任主義の終わり』第3章( )内は引用者)*1
*1:これに似たことはノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授も言っていて、「国際的な財やサービスや生産要素の流れは、経済学者がよく仮定したがるような、なめらかで効率的な動きを見せないんです。実際の国際市場は不完全競争で、不完全な情報を特徴として、ときには露骨に非効率だったりします。」(『どうして為替レートはこんなに不安定なんだろうか。』山形浩生訳(PDFです)) 日本の労働市場も効率的とはほど遠いと思う。規制をなくせば効率的だ、というのはかなり無理がある。規制があろうと無かろうと求職者には企業についての充分な情報が無いことが多いわけで、そんな状態で効率的な市場が実現するとは思えない。そりゃ長期的には効率的かもしれないけど、長期的には我々は皆、ってやつでして。
不況こそが貧困が増えた最大の原因なのは間違いない。オジサンたちが馴染んだ雇用の仕組みでも以前はそれなりに上手くいっていたんだから。だから貧困対策は経済学者に相談しよう。しかしそれでも、例えば進学を諦めるとか、結婚出産を諦めるとか、ひどい労働環境という問題を、経済的であるか構造的であるかすっぱり切り分けることは難しい。経済状態が良くなればどれもかなり改善されると思うけど、といって一緒くたに扱うわけにもいかない。景気対策で生活給制度がどうにかなるわけではないし、生活給制度をいじくったからって景気が回復するわけでもないからだ。貧困の解決に経済的な基盤は欠かせない、というかそんなの当たり前。で、同時に生活給みたいなものを民主的に変えていく必要もあるわけだ。なんといっても差別的な現象であるわけだし。どちらか片方というわけにいはいかなくて、景気も良くしながら制度的な改革もしなけりゃならない。両方やらないといけないのが民主主義のつらいところだな、と某ギャング団のリーダーなら言うところだろう。
本書はまさにタイトル通り、新しい労働環境を作る際に絶対に欠かせない資料だ。本書抜きの議論は全く民主的でなくなる可能性すらあると思う。もちろん本書が扱う問題は生活給制度だけじゃなくて、派遣や労働時間など幅広く解説している。専門家ではない大多数の国民にとってこれ以上の本は当面望めないだろう。そして、何はともあれ、景気をナントカしないとだめだこりゃ、と強く思い直した。パイが縮小していく中で各人の取り分を(民主的に)調整するのは死ぬほど難しいからだ。こんな身動きがとれない状態では、ガラガラポンを期待してしまうのも無茶とは言えない。そしてそれを避けるには好景気と本書が必要だ。