2009年11月26日木曜日

J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第4章

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第4章

 事あるごとに、自己責任主義の根拠とされてきた形而上学的だったり一般的だったりする原理原則など一掃してしまおう。個人が経済活動において一定規格の「自然的自由」を有しているなんていうのは、まるで事実とちがう。「持てる者」あるいは「持たざる者」に永遠の権利を授ける「契約」なんて存在しない。この世界は常に個人と社会の利害が上手いこと一致するように天上から調整されてはいない。ここ下界でも、両者の利害はそれほど上手く調整されていない。経済学の原則から導いた、文化的で節度ある個人の利益追求はいつだって公共の利益にとってプラスに働く、という推理は正しくない。個人の利益追求がいつでも文化的で節度があるというのも、やっぱり間違いだ。バラバラに自分自身の目的へ突き進む個人は、大抵の場合、あまりにも愚かであるか、あまりにも貧弱であるので、ささやかな結果にたどり着くことさえない。人が集まって群れをなすと、いつだって先を見通すことの出来ないマヌケになってしまうから、個々人は独立していた方が有能であるなんてことは、私たちが経験してきたことと矛盾している。

 なので、私たちは抽象的な結論で満足するわけにはいかない。むしろ、バークが言うところの「法律を作る際の最も細かい問題、つまり、国家が世間知を用いて積極的に指図すべき事柄と、個人の能力が発揮されるのを極力邪魔しないようにほおって置くべき事柄に線を引くこと*1」の結果を詳しく検討し、そのメリットを議論しなければならない。ベンサムが使った用語で、忘れられてしまったがとても有用なものがある。Agenda(なすべきこと)とNon- Agenda(なすべからざること)だ。私たちはこの二つをはっきりと分別しなければならないが、その際に、政府の介入は「一般に不必要」であり、同時に「一般に有害」であるというベンサムが使った大前提*2は退けなくてはならない。おそらく、今時の経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。そこで、私が今考えている二つのアイディアを記してみたい。

*1 マカロック(J.R. McCullock)の『政治経済学原理』(Principles of Political Economy)に引用がある。
*2 ベンサムの死後に刊行されたボーリング編『政治経済学綱要』(1843)より。

 (1) 統制力と行政組織の理想的な大きさというのは、大抵の場合、個人と現代国家の間にあるはずである。そこで私の提案は、国家の仕組みの内側で活動する準自治組織体(semi-autonomous organization bodies)の成長と普及の中にこそ進歩がある、というものだ。準自治組織体が担当する領域での活動の基準は、各組織体によって定められた公共の利益の追求、これ一点である。なので、その組織自身のための利益追求という目的は、この組織体のとりくみから除外されることになる。とはいえ、人々の間に利他的な行動が広まるまでは、特定の集団、階級、公共の機関にそれぞれの利益を追求する余地を残しておくことが必要であるかもしれない。またこの組織体は、日常の業務については明確な基準内で自治的に対処するが、究極的には議会を通して民主的に表明される国民の主権に従属する。

 私の提案は中世の独立自治組織の復活とみなされるかもしれない。しかし、いずれにせよイギリスでは、自治的な団体(corporations)が統治の方式として重要性を失ったことはなく、我が国の慣習にも親和的である。実は、このような組織の例をすでに存在するものからあげるのはとても簡単である。私が先に述べたような、独立した自治を獲得しているか獲得しかけている組織。総合大学、イングランド銀行[中央銀行]、ロンドン港湾委員会、そして鉄道会社を含めてもよいだろう。ドイツにもそんな例があるにちがいない。

 しかしもっと興味深いのは、株式組織(Joint Stock Institutions)の傾向である。株式組織は、ある程度の年季と規模に達すると、個人主義的な私企業というより、公的な自治組織といった状態に近づいていっている。ここ数十年で最も興味深く、それでいてあまり気づかれない社会の展開があって、それは、大企業が自ら社会のものっぽくなっていく傾向だ。巨大な組織——とくに大きな鉄道会社や公益事業団体、さらに大銀行や保険会社——がある程度成長すると、出資者たち、つまり株主たちはほぼ完全に経営から分離される。その結果、経営陣にとって、大きな利潤を生み出すことに対する直接的で個人的な関心が二次的なものになっていく。このような段階に近づくと、その組織の安定性と名声の方が、株主のために最大の利潤を上げることよりも経営陣にとって重要になってくる。そうなると、株主は社会的文化的に妥当な配当で満足しなければならない。というのも、一度このような状態が確立すれば経営の眼目は社会や顧客からの批判を回避することに置かれることが多いからだ。これは組織が大きくなったり半ば独占的な地位を得て人々の目に付きやすくなって、風評に弱くなったりした時になおさら当てはまる。理屈の上では自由な個々人の財産であり、なんら拘束されることのない組織が上記のような傾向を持つことの極端な例は、おそらくイングランド銀行であろう。これはもうほとんど真実と言っていいのだが、イングランド銀行総裁が政策を決定する時に、この王国のあらゆる階級の人々のことよりも株主を優先させるなんて事はあり得ないだろう。つきなみな配当を受け取ること以上の株主の権利は、もうほとんどなくなってしまった。それは、他の大きな組織についてもだいたい同様である。時間がたつにつれ他の大組織も、自ら社会のものになっていく。

 しかしこれは100%良いことばかりというわけではない。今見てきた事[組織の社会化]が保守主義の台頭と企業の衰えの原因となっている。実際私たちは国家社会主義の長所と同様、短所もたくさん経験してきた。それでも私たちが目撃しているのは進化の自然な経路であると私は思う。私的利益の際限のない追求に反対する社会主義の戦いは、些細な点においてさえ毎日のように勝利を得ている。この特定の話題——それ以外の話題では社会主義の戦いは熾烈なものだが—— では両者の対立は、もはや差し迫った問題ですらない。例えば、鉄道会社の国有化問題ほど、重要な政治問題と言われていながら、実際には重要でも何でもなく、イギリスの経済活動の再編成からほど遠いものはない。

 大きな事業、特に公益事業団体や他の巨大な固定資産を必要とする事業は、今はまだある程度社会化される必要がある。しかしこの「ある程度の社会化」の有り様について、私たちは柔軟に考えなければならない。昨今の自然な傾向[大組織の自発的な社会化]の利点を生かしていく必要があるし、おそらく私たちは国務大臣が直接的な責任を負う中央政府機関よりも準自治組織を選ぶべきなのだ。

 私が教条的な国家社会主義を批判するのは、それが社会の運営のために人々の利他主義的な衝動を求めているからではなく、それが自己責任主義に反するものだからでも、人々が金儲けする自由を奪うものだからでも、また、大胆な社会実験をためらわないものだからでもない。私はこれらすべてに喝采をおくろう。私が批判する理由はそれが現実に起きていることの重要さを見逃しているからであり、実際、国家社会主義というのは誰かが百年前に言ったことの誤解に基づいて作られた、五十年前の問題に対処するための古くさい計画の生き残りと変わるところがないからである。19世紀の国家社会主義は、ベンサムや、自由競争その他の理念から生まれたものであり、19世紀の個人主義に流れる哲学と同じものが、ある部分ではより明確に、ある部分ではよりわかりにくくなった別バージョンでしかない。どちらも揃って自由を強調し、一方は控えめに目前の自由に対する制限を回避しようとするが、もう一方は積極的に、世襲であろうが努力の結果であろうがとにかく独占的な地位をブチ壊そうとする。この二つは同じ知的雰囲気に対する異なったリアクションなのである。

 (2) さて次に、Agenda(なにをすべきか)の基準に移ろう。近い将来の内に急いでやらなければならないこと、やるのが望ましいことの中で、どれが特に妥当なのか示したい。私たちは、「技術上社会のもの」である事業と、「技術上個人のもの」である事業の区別を目指す必要がある。国家の最も重要なAgenda は、私的な領域において個人がすでに満足している活動に関係しないところで、個人の手には負えない役割や、国家が決めなければ他に決めようのない意志決定などに関係することである。政府にとって重要なことは、個人がすでに行っていることをしないこと(個人より上手に、あるいは下手にやってもいけない)、そして現在のところ全く手つかずのことをやることである。

 実際の政策を作ることは今回の私の目的から外れている。なので、私が最も頭を悩ませることになった問題の中から、具体例を示すにとどめよう。

 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。

 さて二つ目の例は、貯蓄と投資に関することだ。次の三つのことに関して、知的な判断に基づいた、調和のとれた行動が求められている、と私は考えている。まず、共同体が全体として貯蓄すべき規模について。そしてその中から海外投資として国外に出すべき規模について。さらに現在の投資市場の仕組みが、国内の最も生産的な経路に沿って貯蓄資金を分配できているのかどうかについてだ。わたしはこういったことを、現状のように民間の判断と私的な利殖活動の出たとこ勝負に全面的に任せられてはいけないと思う。

 三つ目の例は、人口に関することだ。各国にとって最も適切な人口の規模が現在よりも大きいのか小さいのか、それとも同じ水準を維持するのか、真剣に考えなければならない時期がすでにきている。そして政策が決定されたら、絶対に実行しなくてはならない。そうすれば、共同体が将来生まれてくる人々の頭数ばかりでなく、彼らの生まれ持った素質にも注目していくような時代がやってくるだろう。

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