2012年10月6日土曜日

[訳してみた] 反日スローガン


Language Logというブログに、先般の反日デモで掲げられたスローガンの英訳とその若干の解説があったので訳してみました。原文にはピンインも記されていましたが、僕はピンインも中国語もまったく読めないので翻訳文では割愛してます。

原文は『More anti-Japanese slogans, but with a twist』です。


(翻訳はじめ)

さらに反日スローガン、ただしヒネリ有り

September 21, 2012
by Victor Mair


二日前に、「『日本人は全員死んじまえ』」と題したエントリーで私は、尖閣諸島を巡って中国で起きている、暴力的な反日スローガンを掲げたデモについて書いた。それが今は、政府が支援する「日本人をぶっ殺せ」スローガンに触発された形で、同型のスローガンが他ならぬ政府に向けられている。中国政府は自身の弱点を隠すべく種々の宣撫工作を行なってきたし、その弱点には、第十八回の全人代を控えてもなお中国共産党が派閥ごとに鋭く対立していること、そして人民の不満が高まっていることが含まれている。だから、この展開は多くの中国ウォッチャーが予想していたものだ。

ではここで、実際にあらわれた官製でない、反政府的なスローガンの例を見てみよう。



先废劳教再保钓,以防保完被劳教

(政府は)まず労働者の再教育(政策)を廃止せよ(つまり労働教養(強制収容所に勾留されることが多い)のこと)。そしてその後で、魚釣島を防衛せよ。(魚釣島の)防衛後に人民が「再教育」されないようにするために。

訳注:労働教養とは、裁判抜きで人民を勾留できる制度。勾留されると労働改造所に送られて強制労働をさせられると言われている。アメリカ議会でも深刻な人権問題として取り上げられている。(参照



给我三千城管兵,一定收复钓鱼岛
给我五百贪腐官,保证吃垮小日本

城管兵が3000人もいれば、魚釣島は間違いなく取り戻せる。
汚職役人が500人もいれば、その食い意地で「小日本」を平らげる。

注:

城管兵とは、人々に非常に恐れられている準警察組織で、都市部において一般の市民(行商人や住んでいる家を破壊されてしまった人々(後述)など)との間にかなり暴力的な衝突を引き起こしている。

「吃垮」という表現の翻訳は難しい(直訳すれば、「倒れるまで食べる」になる)。これはすべての役人の満たされることのない食欲を指していて、汚職役人かどうかを問題にしている表現ではない(とはいえ、人々は「无官不贪」(腐敗していない役人などいない、つまり役人はみんな腐ってる)とも言っているが)。公式、非公式の統計はどれも、中国共産党の役人が毎年数十億元規模の税金を、宴会や会食に使っていることを示している。だから必然的に、街や企業、国その他諸々を「吃垮」する役人に対しては手厳しい物言いが溢れることになる。つまりこれは、500人の中国汚職役人を交渉のために日本に送り込めば、連中の豚のような食欲でもって小日本を「倒れるまで食べる」ことだろうよ、という意味なのだ。

さらにこの写真には(台湾の)中華民国の旗がかなり目立つ形で写っている。



これはここ最近私が目にした中国の写真の中でもっとも悲しい一枚だ。

没医保,没社保,心中要有钓鱼岛
就算政府不养老,也要收复钓鱼岛
没物权,没人权,钓鱼岛上争主权
买不起房,修不起坟,寸土不让日本人

医療保険もなく、社会保障もない。それでもあんたの心にゃ魚釣島があるわけだ。
政府が年寄りの面倒なんか見やしなくても、ワタシらは魚釣島を取り戻さにゃならんわけだ。
財産を私有する権利もなく、人権もない。でも(ワタシらの国は)魚釣島の支配権をもぎ取らにゃならんと必死になってる。
(ワタシらは)家も買えず、墓も建てられない。それでもワタシらは一片の土地を巡って日本人と争うわけだ。

では目についた他の例を見ていこう。

伝統の、政府お墨付きスローガン

十亿青年十亿兵,国耻岂待儿孙平

10億の若者と、10億の兵士。子供たちと孫たちのため、この国家的恥辱を雪ぐのに何を待つことがあるというのか?


風刺系スローガン

哪怕吃尽毒奶粉,也要杀光日本人.
哪怕喝遍地沟油,也要挥刀斩倭寇.
哪怕顿顿瘦肉精,也要出兵灭东瀛.
哪怕天天被代表,也要收复钓鱼岛.
哪怕养老没人管,也要占领富士山.
哪怕老家被强拆,也要活捉福原爱.

たとえ汚れた粉ミルクしか飲むものがなくとも、日本人は全員必ずぶっ殺す。
たとえ全土で地溝油を使うはめになったとしても、刃を研いで倭寇を必ずたたっ斬る。
たとえクレンブテロール入りの肉しか食べれなくなっても、東の海に軍を送り込んで(そこにいる奴らを)必ず粉砕する。
たとえ我々人民がきっちり「代弁されている」のだとしても、魚釣島を必ず取り戻す。
たとえ我々が年老いて面倒を見てくれる人が誰もいなくても、富士山を必ず占領する。
たとえ住み慣れた我が家が強制的に破壊されても、福原愛を必ず生け捕りにする。

訳注:
地溝油は下水や排水から精製した食用油。人体に有害だが、中国政府の管理の外で流通しているため利ざやが大きい。(参照
クレンブテロールは食肉の赤みを増す効果のある薬物。人体に有害で、中国ではクレンブテロールによる中毒事件が度々起きている。(参照

注:

(訳注:倭寇については略します)

「代弁されている」とは、ちゃんとした民主制である代わりに、(訳注:人民の意志は中国共産党によって)「代弁されている(represented)」という意味。

(訳注:福原愛さんについても略します)

「破壊」とは、悪名高い「拆」で、中国国内でとんでもない騒動と抗議の源泉となっている。(訳注:拙ブログのこのエントリーを参照


养贪官,做房奴,决不放弃钓鱼岛.

クソ役人を肥やすだけの住宅ローン奴隷だとしても、オレらは絶対に魚釣島をあきらめねえ。

無数の風刺系スローガンが広がっていることと、そして政府を後ろ盾にした愛国的なスローガンがあきもせず繰り返しあらわれることから判断するに、少なくとも相当な割合の市民は、人々の注意を国内の危機から日本やアメリカ、フィリピンやベトナムなど別のターゲットにシフトさせようという中国共産党のキャンペーンに引っかかってなどいない。

このごろの中国は、体制側の日本に対する激しい非難を皮肉った、イミテーションという反動で溢れかえっているのだ。ここを見るとさらにいくつもあるのがわかる。

Language Logの読者の方で、写真にある冷笑的な文句が読める方は、是非コメント欄にその訳を書いてください。


(翻訳おわり)

いやー、おっかない国ですね。強制労働とか地溝油とか。中国の人の多くは反日に熱心ではない、なんて話は聞こえてきますが、本当の所はいまいちわからない。尖閣については日本が実効支配してるわけですから、こちらから騒ぎ立てる必要はないのでしょうし、その上で日本側が冷静になって無用な刺激をせず、あちらさんの腹芸に付き合って見せるのがいいんでしょうけど、なにせ実情がわからないからどうにも不安が拭えないですよね。いっぱしの外交上手な国になりたければそれくらいの不安には耐えろ、ということなんでしょうか。

追記:
2012年10月7日 文言をちょっと修正。

追記その2:
2012年10月16日 中国国内で流通する危険な食用油の数々について、日本語で解説している動画が有りました。こちらです。元警視庁刑事、北京語通訳捜査官の坂東忠信さんと、『検証 財務省の近現代史』の著者、倉山満さんの対談です。

2012年9月20日木曜日

[訳してみた] シカゴの教員スト

一週間ほど前に、シカゴで教員組合のストライキがあったそうです。New York Review of Booksというサイトのブログにその背景を解説した記事があったので訳してみました(原文リンク)。

組合側はオバマ政権が進める教育改革に反対しており、その政権側の改革というのが、まあなんというか、おめでたい進歩主義な感じなんですね。勉強すればするほど、努力すればするほど報われる。そういうアレです。

では本文をどうぞ。かなり教員寄りの記事です。


(翻訳はじめ)

シカゴ学校改革:二つのビジョン

Diane Ravitch


たいていのメディアの報道では、シカゴの教員がストライキをしているのは、彼らがごうつくばりの怠け者だからだ、ということになっている。あるいは、ラーム・エマニュエル市長と労働組合の議長であるカレン・ルイス氏の個人的な衝突がストの原因としているものもある。さらには、エマニュエル市長が授業時間を延長しようとしているが、教員たちがそれに反対しているのが原因だ、というものもある。

このどれもが正しくない。どの報道でも、両者が(訳注:時間延長の)補償問題では合意に近づいていたことでは一致している──つまり両者を断絶しているのはお金ではないのだ。この前の春、教員組合と教育委員会は授業時間の延長について合意している。だからこれはここでも問題にならない。このストライキは、シカゴの、ひいては国の学校改革の為には何が必要なのか、その問題に対する二つの大変に異なったビジョンの衝突なのだ。

シカゴの学校制度というのはもう20年近くも前から学校改革の実験場であった。1995年には、シカゴの学校は市長による厳しい統制下におかれるようになり、当時の市長リチャード・デイリーは、ポール・バラスを学校運営の予算管理長官に任命した。そうしてバラスは、学力テストの点を上昇させるべく動き出した。各種部門に特化した学校やチャーター・スクールを開き、同時に予算も均衡させた。バラスが知事選に出るために去っていくと(結果は落選)、デイリー市長は再び教育者でない人物、バラスの代理をつとめていたアーン・ダンカンを管理長官に任命した。ダンカンはチャーター・スクールの熱心な推進派だった。前任者のバラスは改革につぐ改革を押しつけてきたが、ダンカンはそのさらに上を行く人物であった。ダンカン長官は自身の政策プログラムをルネッサンス2010と呼び、成績の悪い学校を閉鎖し、新たに100校を開校することを目指した。そして2009年以降、ダンカンはオバマ政権の教育長官をつとめている。そこで彼は50億ドルの「トップをねらえ(Race to the Top)」プログラムを実施した。このプログラムは、教員の能力を計ること、教員の能力給の上乗せ分を決めること、学校を閉鎖する、あるいは報償を与えることなどを、生徒のテストの点数によって決めていくようにするものだ。さらに民間運営されるチャーター・スクールの普及も大いに後押ししている。

これがワシントンが支持しているビジョンだ。そして同時にこれは、現在の市長であり、オバマ政権の前の首席補佐官であるラーム・エマニュエルによって任命された、シカゴ市教育委員会が裏書きするビジョンなのだ。つまり、学校はまだまだ閉鎖されるし、民間経営の学校は増えていくし、学力テストもたくさん行われるし、能力給も支払われるし、授業時間は長くなっていくのだ。しかし、そもそもの改革のスタート地点であるシカゴ市そのものでは、ほとんどの研究者たちが、改革の結果はどう贔屓目に見ても微妙なものであることで一致している。つまり、ルネッサンスは起きなかったのだ。20年近い改革ののち、シカゴの学校は全国でもっとも低い成績にとどまったままなのだ。

シカゴの教職員組合は、また別のビジョンを持っている。彼らはより少人数のクラス、ソーシャル・ワーカーの増員、夏期講習が行われている灼熱状態の施設にエアコンを設置、カリキュラムの完全実施、諸芸術科目と外国語の教師を全ての学校に配属させることを求めている。シカゴには一クラス40人を越える学校もあるし、それどころか、そんな幼稚園まであるのだ。図書室のない学校が160校あり、40%以上の学校には芸術科目の教師がいない。

教員たちは何を求めているのか? 一番こだわっている点は、教員の能力評価というかなり難解そうな論点である。市長は、その教員が有能(ボーナスゲット!)であるか無能(クビ!)であるかを決める際に、生徒のテストの点数を大いに重視しようとしている。組合側は、テストに基づいた評価は不正確でフェアじゃないとする調査・研究の存在を指摘している。シカゴは公立校が人種ごとに深く分断されていて、若者の暴力レベルの高い街である。教員たちはテストの点数が自分たちの指導の影響だけでなく、教室の外で起きていることの影響も受けていることをよく知っているのだ。

このストライキは全国的な関心を集めている。それは現政権が後押しする政策が論点となっているためだ。それに、この問題は全国いたるところで起きているものでもある。シカゴだけでなく他の都市でも、教員たちは少人数クラスとバランスのとれたカリキュラムの実施を主張している。あたりまえのように公立校と全く同じ結果になってしまっているのに、改革派は民間経営のチャーター・スクールを増やしたがっている。チャーター・スクールの教員は90%が非組合員なので、右派のお気に入りなのだ。一方教員たちは雇用の安定を求めている。そうすれば気まぐれな理由でクビにならないし、意見の分かれるようなテーマや本について教えられるという学問的自由も手に入るからだ。

このストライキはオバマ大統領の悩みの種だ。というのも、大統領は来る11月の選挙で欠かせない二つの友軍の板挟みになっているからだ。大統領は労働組合の、特に400万人の教員たちの支持が必要だし、彼らの多くが2008年には当時のオバマ候補を熱心に応援していたのだ。といって、どうしてオバマがラーム・エマニュエルを斬れるだろうか? 大統領にとってはさらに頭の痛いことに、教員たちは政権の「トップをねらえ」プログラムの中核をなす原則にまで反旗を翻すようになっている。このプログラムは、各州が教員を評価し、能力給の額を決め、「しくじった」学校を特定して大量解雇と閉校にまで持ち込めるようにする際に、学力テストを大いに活用するものであり、シカゴのあるイリノイ州を含め、教育改革を表明している各州にその実施のお墨付きを与えるものだ。

結果から言えばこのストは、賃金体系とか解雇や再雇用の規制を見直す必要がある、といった一見すると実務上の問題のようにして収まってしまうかもしれない(学歴や経験で給料に差をつけたままでいいのかどうか、とか)。しかしそこで残された問題こそがもっとも大きな問題となるだろう。つまり、教師に対するアメと鞭は、生徒にとって良い教育を生み出せるのか? シカゴ市は公教育の民営化を続けるべきなのか? 標準化テストは教師と学校の質を計る手段として適切なのか? 学校改革によって強固な人種間の分断と貧困が乗り越えられるのか? 私たちの社会は都市部の子供たちに、今よりも遙かに高いレベルの教育を授けるだけの余裕があるのか? という問題だ。

予想通り、ストを実施した教員たちは全国メディアからの非難を浴びることになった。メディアはラーム・エマニュエルの強硬姿勢に感じ入っているが、あちこちの教員たちがシカゴのストに賛同している。多くの人々が彼らを、教員たちのために、そして団体交渉権のために立ち上がったのだと見ているのだ。団体交渉権は、1935年、大恐慌のさなか、ワグナー法が議会を通過したことで認められた(と考えられている)もので、労働者が組合に加入する権利を保障するものだ。標準化テストの濫用と誤用を懸念してきた教育問題の研究者たちは、各種の証拠によらず問題が政治的に解決してしまうことを恐れているようだ。もし市長が勝利すれば、それは教員と組合への横暴、そして学校閉鎖と民間チャーター・スクールの推進政策の勝利と見なされるだろう。反対に、あり得そうにないが教員たちが勝利すれば、シカゴの子供たちが少人数クラスと今よりマシなカリキュラムを手に入れることになるだろう。一番良いのは友好的な落としどころに落ち着くことだろう。つまり、テストは増やさずに優れた教育を約束することだ。


(翻訳終わり)

日本でもかつては少人数クラスが話題になったりしていましたけど、最近はあまり聞きません。阿部彩著『子供の貧困』の書評でも書きましたが、若い人たちに対する無関心が深まっているのかもしれません。高島俊男先生が、
cover
お言葉ですが…
〈第11巻〉
高島俊男
一般に戦後の日本人は学歴に関して苛刻になり、学歴の低い者やない者を容赦しなくなった。学校なんかどこを出てようと出てまいと、立派な人は立派だ、つまらんやつはつまらん、というあたりまえのことが通用しなくなった。


と言ってましたが、この変化は、個々人が生まれ持った特徴を社会がネガティブにしか認めなくなってきたとも言い換えられるのではないでしょうか。そういった特徴は、思うようにはならない類のものであり、ときに冷静に直視するのが難しいものにもなります。個人の特徴から目をそらせてテストの点でもって一列に並べてしまう。まあそのほうが管理は楽です。さらに日本の学校は行事が目白押しですから、表面的には忙しいでしょうが、個々人の特徴を見極めて教育する、という点ではほぼ何もしていない。現場の先生に丸投げで、組織的には楽なもんです。

これじゃ職場でノルマを一律に課すようなもので、企業の利益のためならば場合によっては正当化もされましょうが、子供たちをそのように扱う目的は何なのでしょう?

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シカゴと言えば、高山マミ著『ブラック・カルチャー観察日記 黒人と家族になってわかったこと』同『黒人コミュニティ、「被差別と憎悪と依存」の現在――シカゴの黒人ファミリーと生きて』によると、今時のシカゴの黒人コミュニティでは誰も『ブルース・ブラザーズ』を見てないとか。もう心底ショック。