2008年8月12日火曜日

書評・マンガ・『きのう何食べた?』

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きのう何食べた?
よしながふみ
よしながふみ『きのう何食べた?』を読んだ。スゲー面白かった。二巻はまだか。

四十代同棲ゲイカップルの話で、弁護士と美容師の二人。ゲイも大きなテーマだけど、タイトル通りに、料理もテーマ。弁護士のシロさんが料理をつくるのだけど、彼は料理好きである一方お金大好き人間でもあるので、用いる食材はたいてい底値で買ってくる。

その他にも、シロさんは典型的なoptimizerで、生きてて楽しいのかな、と思わなくもない。optimizerとは何かといえば、そのときそのときで、最大限の効用(まあ、利益、でしょうかね)を得ようとする人、といった感じでしょうか。optimizeで最適化する、みたいな意味ですよね。この手の人たちが見落としてしまうのは、自分にとっての効用、利益、プラスになること、が他人のそれとは違うかもしれない、ということ。だから最も効率の良いやり方が、最も自分にとって良い、と思い込んでいる。しかも、情況が変われば最も効率の良い状態もどんどん変化するので、人は気がつくと50年くらいoptimizerを続けてしまったりするようだ。ま、簡単に言ってしまえば世間体に縛られているんです。

ところが一方で、シロさんは6時になったら何が何でも仕事を終えたい人でもある。収入もそこそこで構わない、とか言ってみたり。ここらへんはsatisficerなわけだ。satisficingを調べてみると、英語のウィキペディアにこうある。

Satisficing (a portmanteau of "satisfy" and "suffice") is a decision-making strategy which attempts to meet criteria for adequacy, rather than to identify an optimal solution. A satisficing strategy may often be (near) optimal if the costs of the decision-making process itself, such as the cost of obtaining complete information, are considered in the outcome calculus.

要旨:この語はsatisfy(満足させる)とsuffice(十分である)を合体させた語で、意思決定の際に最適な答えを見つけようとする代わりに、妥当な答えを採用することを指す。で、結局satisficingな答えが最適だったりすることも多い。だって、なにがなんでも最適な答えを見つけようとすると、コスト(完璧な情報を仕入れたり(不可能)、結果を予測するために計算したり(無意味))がかかるから最適じゃなくなってしまうんだもの。


satisficingという視点からみると、シロさんの底値買いは実に不可解ではある。料理好きなんだから底値を待って食いたいものを我慢するなよな、と思う。明日交通事故で死んじゃうかもしれなんだぜ。いやいやそうじゃなくて、底値で買うというのは最適化するためだ。旨い、好きだ、という価値よりも安い、という価値を優先させている。だからシロさんはきっと、最適化のコストを支払っている。それは食べたいものが食べられないことだったり、なんか急に空しくなることだったり。

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"Fooled by
Randomness"
Nassim N. Taleb
Talebの"Fooled by Randomness"を読むと(邦訳『まぐれ』を人にあげてしまったので原書を参考にして)、satisficerたちは、何かを経験したからといってゴールや欲しいものを変えたりしないんだそうだ。だからアレを手に入れたら次はコレ、みたいなことにはならない。でもoptimizerたちは強欲だ。アレを手に入れて、しかもコレも手に入れれば、もっと良くなる、と信じているから。なので、シロさんのどん欲な底値買いは、彼の幸福を遠いものにしてるんじゃなかろうか。

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まぐれ
ナシーム
・N・タレブ
optimizerとsatisficerが一人の人間に同居することは、ままあるんでしょうけど、シロさんはかなりoptimizerが勝ってる感じかな。パートナーのケンジはsatisficer100%って感じだけども。

僕の好きなエピソードは、シロさんの昔の女の話。周りに流されてなんとなく女性と結婚して子供つくって、という人生を歩んでいたかもしれない。でもゲイであることは変わらないから、浮気してみんな傷つけて。そう思うとぞっとする。オレ、それくらいできちゃいそうだったから。こう語るシロさんに共感する大人は多いんじゃないかな。ゲイ関係なく。

ところで、シロさんが弁護士だと知って思い出したのは、"Will & Grace"のWillだ。もうなんか懐かしくっていろいろ観てしまった。やっぱ面白いなー。これはアメリカのドラマ(sitcom=シチュエーションコメディ)で、NHKで「ふたりは友達? ウィルアンドグレイス」として放送してて、僕もその放送で存在を知ったんだけど、折しも韓流ブームの始め頃で、第二シーズンで放送終了だったはず。ホントは第八シーズンまであって、最終回は実にガッカリな内容だったけど、それでも最後まで本当に面白いドラマだった。で、そのWillが弁護士でゲイなのだ。料理も結構してた。やっぱシロさんのモデルはWillなんだべか。

Willの台詞でよく覚えているのが、Thanksgivingのお祝いで、Willが実家に帰ると、兄夫婦も来てる。兄は(Willも)早く帰りたがっていて、Willに「お前が残れ、お前はゲイだけど、オレには家族が、責任が」みたいなことを言う。Willが文句を言うと、「お前はゲイであることを選んだんだから母さんの相手をしろ」的なことを言う。で、Willが "My being gay is more than choice!" と言い返す。ゲイは選んでなるものじゃない。でもこれってゲイだけの話だろうか。satisficerになるための秘密が、ここに隠されている気がする。

2008年8月9日土曜日

組織と目的

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指導者の条件
山本七平
山本七平『指導者の条件』を読んだ。鋭いなーと思うこともしばしばだったけど、それはちょっと、というところもまた多い。三十年近く経った後知恵から、それはないでしょう、と感じているのは確かで、それはアンフェアだけど、やっぱり「日本は特殊だ!」という結論ありきなんじゃないの、と思ってしまうなあ。

求められている指導者として、池田勇人が上がっていた。池田は所得倍増をやりたくて総理になった。次の佐藤栄作は世話人タイプの指導者で政治家の世話することが目的みたいなもんで、独自の政策課題なんてなかった。田中角栄に至っては総理になることが目的であって、日中国交正常化をしたいとかそんなのなかったよ、と山本はいう(大意ですよ)。

これには思い当たることがあって、池田は総理になる前、岸内閣の通産大臣をしている(改造前は無任所大臣)。入閣前、池田は岸の強引なやり方を批判し、「おれは絶対に入らない。政治というものは数であり、数は金の力だ、というような金権政治の岸内閣には絶対に入らない」(伊藤昌哉『池田勇人とその時代』)とまで言っていた。なのに、彼は入閣するのだ。岸は警職法のごたごたで国民の支持を失い、なんとしても大物を入閣させたかったとき、「君の政策を実現するためにも、ぜひ、通産大臣になってほしい」(前掲書)と池田を誘ったのだ。池田が改造前の参議院選挙の演説で所得倍増をうったえていたのを岸は知っていたのだった。

池田の入閣は、彼の周囲の人間たちも不満だったそうだ。夫人にまで本当に良かったのか、と問われたという。池田も含め、誰も、一年後に彼が総理になるとは思っていなかった。

池田には所得倍増という目的があったからこそ、前言を顧みずに通産大臣の任を引き受けたのだろう。こういうタイプの指導者といえば、もちろん小泉純一郎が思い浮かぶわけで、彼の郵政民営化も総理就任以前から掲げた持論だった。自民党をぶっ壊すってのもあったね。

安倍前総理はふたを開けてみれば、祖父の岸信介とは全然違う総理だったけど、その目的は国民から見るとちょっと曖昧だったかもしれない(憲法改正は目的ではあったんでしょうけど、今イチはっきりしなかった)。でも公務員改革とか重要な政策を実行してもいるし、辞任のいきさつを見れば、総理になることが目的だった人だとは思えない。年金問題のような短期的には何も出来ないようなことで引きずりおろされるべきではない人だったと思う。

さて福田総理はどうだろうか。世話人タイプ丸出し感はあるけど、この苦しい時期に総理になろうって人がそういうタイプだとは思えない(思いたくない)。ただやっぱり彼の目的は曖昧だ。今回の改造も、何を目指したものかよくわからない。でもこういう評価は後知恵の部分もかなりあると思うので、ま、保留ですかね。無目的で与謝野馨を起用はしないでしょ。リフレ派としては苦しい時期ですが。

2008年8月8日金曜日

[review]「BULLY」


前回のエントリでメリケンの学校は怖いね、ということをちろっと書いた。で、この「BULLY」はメリケンの高校を舞台にしたゲームなのだ。

プレイヤーは超問題児のビリーとなって、ブルワース高校という最低な学校で番長を目指すというか行きがかりでなってしまう。とはいえ青少年の健全な成長に大打撃であるともっぱら噂のビデオゲーム業界、そこらへんは抜かりなくて、基本的にビリーはいいやつ。新聞配達とかするし、教師の言うことめっちゃ聞くし(つーかほとんどパシリ)。

つくった会社は例のRockStarってところ。Grand Theft Autoシリーズのところですね。僕はGTAがあまり楽しめなくて、ミッションは何度やってもクリア出来ないし、街をぶらぶらするのは結構楽しいけどやっぱり飽きちゃう。つまり難し過ぎるわけです。で、BULLYの場合だと、学校と街が三区画とあとおまけ、みたいなもんなので、基本自転車でなんとかなる範囲。まあ15歳ですし。ミッションも簡単でありつつ単調でないという、結構いいバランスです。僕のやったことのある範囲でいうと、ゼルダの伝説風のタクトみたいな感じ。見た目は全然違うけど、自由に動き回れるところと、それでいてしっかりミッションをこなしていくところ、プレイヤーがアイテム等で順当に成長していくところなんかが、まさに風タクでした。はっきりいって面白いです。

ただ難点もあって、ビリーその他はメリケン人なのでメリケン粉じゃなくて英語をしゃべります。道行く学生に声をかけてご機嫌を伺ったりするんだけど(ジミーはフレンドリーなやつなのだ)、その字幕が出ない。字幕は重要な場面ではもちろんでるけど、その他は結構欠けててかなり残念。喧嘩の仲裁に入ったときは動きとしては地味なので字幕なしだとかなり分かりにくい(「なんでもないよ」みたいなことを相手の子は言っている)。さらにこのゲーム、体力がなくなると女の子とキスをして回復するというかなり不届きな設定なんだけど、このときの会話が実に初々しくて楽しいのだ。なのに字幕がでない。うーんもったいないなあ。ちなみにいかにもな美人キャラだと(そう、複数の女の子とキス出来るのだ!)、「アタシと一日に一回キスすると、長生き出来るかもよ」みたいなことをおっしゃいます。ガリ勉キャラだと、「男子のセクシュアリティの研究を」とかですし、めがねっ娘だと「キスがうまくなるように練習したい」なんてことをですね、もじもじしながら言ってくるわけですよ。しかもそのキスがチュッとかいうお子様キスじゃなくて、もうそれはそれは腰のはいった本気キスなわけです。やっちゃうわけですよ、クラスメイトがみている前で。

という具合に日本語アダプテーションが今イチ(英語の授業とか結構ムズイ。合格ラインは下がってると思うけど)だったりだけれども、そこは箱庭ゲーム、同じような場面は何度かあるので字幕なしでもわかっちゃうんじゃないかな。つーことで、学校で堂々とキスしたい人、是非やってみて頂戴。あ、PS2です。

2008年8月7日木曜日

書評・「男の子が心をひらく親、拒絶する親」ウィリアム・ポラック

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男の子が心を
ひらく親、
拒絶する親
ウィリアム・ポラック

男の子たちは「男の掟」を守るために全力を尽くしてしまっている。彼らは傷つき、うつになり、自殺していく。成人男性であっても耐えられないようなプレッシャーに、少年たちは日々さらされている。本書『男の子が心をひらく親、拒絶する親』は、そうした「男の子だから」で済まされてきた彼らの想いを探った本だ。著者のポラックは心理学者で、彼のサイトをみると、少年の発育と教育、男性の性的役割(暴力、自殺、うつを含む)、職場の暴力、ジェンダー研究、子育てなどなど、すごい専門家ですよ的なことが書いてある。本書には臨床心理士という肩書きが最初に来ているので、そこが大事なところのなのかもしれない。本書は多彩な事例が満載で、そこが説得力の源泉でもある。

ポラックが本書で一貫して主張しているのは、男性は「男の掟」に縛られ、不幸な人生を送っている、そしてその苦しみはほんの幼い頃から始まるのだ、ということだ。では「男の掟」とはなんだろうか。
  • 何者にも動じないこと(感情を表に出さない。怒りだけは可)
  • 挑戦的で向こう見ずで暴力的であれ
  • 人の上に立て
  • 女々しくなるな


と、こんな具合。一種の世間体ってことだけども、これに縛られると、男性はつねに他人の目をうかがって生きなければならない。寂しさや不安を誰かと共有することも出来ず、休日にイチゴジャム作りに精を出してもいけない。本書を一読して思うのは、アメリカの学校の「男の掟」って怖ぇー、ということだ。日本の学校でここまでのことってあるかなあと思うけど、コミュニティによってはあるのかも知れない。ただどこだろうと共通しているだろうと思われるのが、掟に縛られると、感情を表に出さなくなるということだ。だから常に不機嫌だし、何を聞かれてもウザったそうな反応しか返さない。なんか自分のことを書いているみたいだけど、まあそうなんですよね。

今も母からメールが来て不機嫌になってるところだし。オレは頑張ってコミュニケーションとろうとしてんじゃん。返事の第一声がそれかよ、という不機嫌。まあ第一声に関しては0点の人だから意外ではないんだけども。親の立場を意識しすぎてしまうんでしょうね、それでこっちはグサグサ傷ついてるわけですが。この、「そんなこと言われたら傷ついちゃうぜ」というのが、男は言い出せない。男の子も言い出せない。幼稚園にいく頃にはもう言い出せない。

女の子に対して、「女は女らしくしろ。男に従え」なんて言ったらもう虐待を疑われてもしかたがない。でも男の子には言う。寂しくて泣いていても「我慢しろ」。早過ぎる親離れを強いられて教室の隅でもどしてしまう男の子は「母親と密着しすぎている。特殊クラスへ入れろ」。

男の子を苦しめるのは悪の化身のような大人たちじゃない。善良で、子供のためになにができるか真剣に考えている人たちだ。しかし、そのような人たちが、男の子と感情的なつながりを保つことに不安を感じている。その不安の原因は何なのか。ま、見栄だったり偏見だったりするんですよねー。

けがをして入院したクリストファー君の話。無事退院したものの、やがてうつ病と診断された。10歳だった。「入院中は両親はかまってくれたが、退院したら妹にばかりかまう。僕を無視している」という。彼はもっと甘えたかったけど、両親はそんなことではやっていけなくなる、と考えた。別に虐待ではない。が、クリスは寂しい、甘えたいという気持ちを表にだせないから、うつ状態になるまで両親は息子の苦しみに気づかなかった。うつ病が死ぬ病気であることを考えるとぞっとする。

甘やかすと依存心が増すというのは神話といっていいのじゃないだろうか。土居健郎の本を読むとそんな感じがするけども。ともかく、この両親が善良な人たちであることは疑いようもないんだけど、「世間でやっていけるかどうか」を子育ての基準にはしないでほしいもんだ。僕の場合だと、両親の離婚もあって20歳ぐらいまでは完全に放置されていたけど、大学を留年するようになって母は僕が「世間でやっていけるかどうか」が気になりだしたみたい。ま、その危惧が現実のものになっているけども。たださんざん放置しといて、高校は酒浸りの日々だった子が大学行っただけで上手く行くとは思えないでしょうよ。

本書の後半には両親が離婚した場合について書かれている章があって、もうここは嘆息しっぱなし。離婚後、子供の面倒を見るのは圧倒的に母親が多いが、母親の負担が激増して子供は放っておかれる。子供と連絡すらとらなくなる父親も多い。この場合、多くの父親がうつ状態になっている。母子家庭にたいする偏見がさらに親子を孤立させる。

世間の圧力と親がどう戦うのか。これが大問題だろうけど、根が深いというか、解決することなんてないんだろう。親が世間体第一で子育てをしていたことを認める、ということは自分の失敗を認めるということだし、そんなのはあり得ない。時が全てを変えるのをじっと待つしかない。

救いがねぇな、と思うなかれ。本書には確かに既に手遅れ(子供が成人してる)な例もたっぷり出てくるけれど、そんな馬鹿げた掟に従わず、勇気と優しさで幸せに生きている男の子たちのエピソードも多い。実にさわやかな話が多いので一つ引用しよう。

 ジェイソンは野球、フットボール、バスケットボール、サッカーの全種目で正規部員として引き抜きを受けた高校スポーツの花形選手だ。その彼が、男子生徒が自由に語り合えるクラブをつくろうと思いついた。
「僕たちはみんな抑圧を感じているのに、それを語る場がないんです。だから、からかう奴は入室禁止という規則にして、誰もがお互いの気持ちに耳を傾けて助け合う場が必要だと思ったんです」
 ジェイソンの提案は校長の支持を得て実行されたのだが、たちまち参加者が殺到して、いくつものグループをつくらなければならなくなった。校長先生は「男の子たちがつながりをもつために自分たちだけの場を望んでいたなんて想いもかけませんでした」と私に語った。


ジェイソン君だから出来たんじゃないの? ともちろん思うけど、彼のようなスターみたいな子でも、やっぱりそうなんだ。「からかう奴は入室禁止という規則」は、ここでは世間体は気にするな、ということだ。そのような場が家庭にあれば、子は強く育つだろう。まずは大人が世間体を家庭に持ち込まないというのはどうだろう。地域社会が衰退しているとか言われてるし、これはどんどんやりやすくなっていると思うのだけど。

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菜根譚
洪自誠
本書は男の子とどう接していけばいいのか、そのヒントに満ちている。何でもいいから共同作業をしなさい。いきなり核心をつく質問をしないで、時間をかけなさい。彼が苦しんでいることを認めてあげなさい。大人でも不安で寂しい時があるんだよ、と告げなさい。などなど。そう、この本は人付き合いの本なのだ。別に男の子だけじゃない。目の前にいる人を人として扱う、そういう本だ。だから『菜根譚』なんかと合わせて読んでみてはいかが?

2008年8月6日水曜日

今日の一言

iGoogleというサービスを使っていて、"Quotes of the Day"というガジェットを利用している。毎日三つ、名言を教えてくれるおせっかいなガジェットで、毎回読んだりはしないんだけど、たまに面白いこともある。で、今日のジェシカ・アルバ嬢のは面白かった。
My theory is that if you look confident you can pull off anything - even if you have no clue what you're doing.
- Jessica Alba

試訳
自信たっぷりって顔でいればなんだってできるってのがアタシの持論。たとえ自分が何をしているのか全く分かってなくてもね。


世の中、最初にかましとけばなんとかなるし、なんとかなってきた、というオジサンが多すぎますよね。あなた、何してるかわかってんの?と問いつめたいところですが、そんなの意味ないですか、そうですか。

2008年8月5日火曜日

機能主義とOne Piece スリラーバーク編(ネタバレあり)

山本七平『指導者の条件』を読み始めた。序盤では日本において、機能主義こそが組織と個人の振る舞いを決めていた、という話。ここでいう機能主義を勝手な要約にしてしまうと、「上手くいけばいい」主義、あるいは「本人が望んでいるんだからいいんだ」主義という感じになる。

例えば、先日ファミレスの契約社員が過労死認定されたというニュースがあったけども、どんなにバカげた働き方をしても、それは「本人が望んでいるからいいんだ」というような考え方がそうだ。上手くいけば、組織が機能すればそれでいい。人に配慮するのも、「上手くいく」限りにおいて、というわけだ。

機能主義の利点は、原則がなくても「上手くいく」ということだろう。社長の訓示がまったく役に立たなくても、クラスの目標がお為ごかしでも、憲法が空文化しても、「上手くいく」のだ。山本七平は、この機能主義のおかげで日本の経済発展は成ったと考えているようだ。

機能主義が日本に独特であるとは思わない。お金で解決、なんてのは機能主義の一形態であろうから。でも、日本の機能主義は徹底している、と考えるのは、納得まではしないけど、そういうところもあるかも、とは思う。

さて、『指導者の条件』をちょっとだけ読んで思ったのがみんな大好き『One Piece』だ。僕はコミックス派なのでジャンプは買ってない。コミックスは最新が50巻で、スリラーバーク編が終わったところだ。

舞台は一年中霧で覆われた魔の海域を漂うスリラーバークと呼ばれる動く「島」。その主であるゲッコー・モリアは、迷い込んだ海賊たちの「影」を奪い、その影を天才外科医ホグバックによって強化された死体に押し込むことで、絶対服従の最強ゾンビ軍団を作り上げていた。奪われた影を取り戻すべく、麦わら海賊団は反撃にでる。

大悪党ホグバックに言わせると、モリアの能力は死者の復活であるという。人が死んでしまっても、新たな影を入れることで再び動き出す。影は記憶を失って、モリアに絶対服従になるが、死者が蘇ったにはちがいない。また生きられるのだから、死者たちも本望だろう。

そこで麦わら海賊団船医、ドクトル・チョッパーは叫ぶ。「お前が一番人間扱いしてないんじゃないか!」と。「人間ならもっと自由だ!」と。

上手くいっていれば、本人が望んでいれば(あるいはそのように見えれば)、「いい」のだろうか。そもそも上手くいくってのは、何が上手くいくってことなのか。件のファミレスは二年連続で赤字だそうだ。ゲッコー・モリアも魔の海域からは出られない(影を奪われた人間は日の光を浴びると死んでしまう。影の元の持ち主が死んでしまうと、影も消滅してしまうので、モリアは彼らに霧の中にいてもらう必要があるのだ)。

モリアは麦わらのルフィを「経験の浅い若造」とののしり、侮り、ついに敗れていった。彼は経験とやらを活かして政府に取り入り、霧の中に閉じこもっていただけだった。一体何がしたかったのか。前述のファミレスは四年前のケースでも過労死と認定されていた。一体何がしたいのか。

明治期から1970年代くらいまでは、欧米に追いつく、という暗黙の目的があった(ようだ)。だから日本社会は機能主義の良いところを活かせたのだろう。でも今は? 「何事も経験」とか「日本人の勤勉さ」とか「社会人として」とかいったフレーズを聞くと、その度にイラッとくる。目的はなんだ? 何のための経験なのか。何のための勤勉さで、何のための社会人なのか。人の自由を奪ってまで押し付けられるような価値のある目的があって、それが経験もなく勤勉でもない、社会人失格な僕には見えないだけなのか。

(日本の組織を)このまま放置しておきますと、組織の老化現象が急激に進み、あらゆる面で新しい情況に対処できない状態になるのではないかと恐れております。この状態をどのように打破するか、方法は一つしかありません。組織とは何か。これは家族ではない。組織とは、元来、一つの目標に対応してできるものであって、目標がなくなれば組織はなくなってもかまわない。この意識——当たり前のことですが、この当たり前のことを、もう一度再確認する以外にはないと思います。
山本七平『指導者の条件』より。()内は引用者注。


ところで、(いまのところ)『指導者の条件』では日本の機能主義に対して、ヨーロッパの教条主義(原理原則が大事)みたいな感じなんだけど、ルネサンス以降は教条的な教会に懐疑的な人たちこそが、人の権利意識の発展の原動力だったんじゃないかなあ。原理原則と機能主義のバランスが大事だよね、という話だと、ま、確かにあまり面白くはないけども。