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2010年1月11日月曜日

因果関係を事業仕分け・短め書評・アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』

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読むだけで
絶対やめられる
禁煙セラピー
アレン・カー
 僕はタバコを吸わない。だから今回読んだ本、アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』を読む理由はなかったんだけど、母はずっと喫煙者だし、僕が帰省したときもやっぱり吸っていた。そこで、巷で評判のこの本を読んでみたというわけ。

 とはいえ、僕も25才までタバコを吸っていた。もうやめて6年だ。25という年齢でお分かりだと思うけど、そうなんです、カッコつけてたんです。25のある日、自分がカッコつけてることを腹の底から理解し、顔が真っ赤になって、タバコをやめた。それまでも口では「タバコはカッコつけ」とか言って、それでジョークのつもりだったんだけど、まあとにかくいろいろ恥ずかしいDeath。

 本書の冒頭で著者は、喫煙という行為がその他の悪癖と共通するトコロがあり、その克服方法にもまた共通点があると示唆しているが、それはとっても同感で、深酒だとかある種の人間関係だとかに決定的な終止符を打つきっかけが、本書には隠れていると思う。

 では本書のいう「人が喫煙を続ける理由」とはなんだろう。もちろんニコチンによる中毒、という物質的な側面もある。しかしもっと重要なのは、「タバコを吸うとリラックスできる」「集中力が増す」「ストレスが軽くなる」という理由だという。そこで著者は問う、「本当にそうだろうか」と。喫煙をしてきた人生を通じて、あなたはリラックスし、集中し、ストレスを軽減してきただろうか。事態は真逆であるはずだ。人間はタバコを吸って安らいだりしない。それでも安らげたような幻想を持ってしまうのは、本書の例えを使うと、自ら頭を壁に叩きつけ、それをやめた時に安らいだように感じるからだ。そしてその仮初の安らぎを得るために、また頭を壁に叩きつけているのだ。本当に安らぎたいのなら、そもそも頭を壁に叩きつけるのを止めるべきなのだ。

 落ち着かない、集中できない。だからタバコを吸う。しかしその因果関係は逆かもしれない。タバコを吸うから落ち着かない、という可能性は全くのゼロだろうか? こういった因果関係の取り違えは僕たちの人生ではとてもよくあることだ。25才頃の僕は毎日毎日、飽きもせず不機嫌だった。当時の僕は自分の不機嫌の理由は僕以外の誰かのせいだと思い込んでいたけど、実際には自分の見栄っ張りなトコロとか、結果に飛びつこうとするトコロが最大の不機嫌ジェネレーターだった(あとタバコもね)。もちろん、いつだってどこにだって失礼な人や迷惑な人はいるだろうけど、よそからやってくる不機嫌なんて拒否しちゃえばいいだけだ。来る日も来る日も不機嫌ってのは、自分が原因ではないかと疑ってみるに十分な状況証拠だ。だから毎日不機嫌な人をみると、以前の僕と同様に、「カッコつける必要」や「結果を出す必要」があると思い込んでいるんだろうな、と考えるようになった。もちろん、これもまた思い込みかもしれないけど、そうやってなんでも相対化するポストモダンチックな考え方にはスッカリ懲りたので、特に不安はないですよ?

 で、おすすめです。タバコを吸う人吸わない人、どちらも楽しめます。たまにしか吸わないから大丈夫、なんて人はにはとくに勧めます。もし中毒になりかけでないのなら、かなりねじくれた状態でしょうから。

追記:今のところ、母の禁煙は続いています。(2010/Jan/15)

2009年10月13日火曜日

まとめ・書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その4(完)

 さて間があいたけど、「おとプラ」の最終回です。いままでのをまとめます(その1はこちら)。
 
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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
 本書の主張をまとめよう。男性は子供の頃から「男らしさ」を叩き込まれているので、自分の感情を表に出すことができない(怒りと不機嫌は除く)。なので、とても悲しいことや怖いことが起きても、それを人に聞いてもらったり、助けを求めたりすることが出来ないので、鬱屈した状況に陥りやすい。ここでウツ状態が続けば、周囲の目をひくこともあるだろうけども、多くの人はそうやって自分のウツが注目を集めることを嫌う(これは女性も同じ)。そうやってうつ状態に対して手をこまねいていると、うつ病になってしまうかもしれないわけだが、それならそれで、もちろん自殺等の危険はあるけれど、本人も周りの人も危機感が生まれるわけで治療のチャンスはある。が、自分が鬱屈していること、落ち込んでいることも否定してしまう人たちがいる。落ち込んでいる自分を情けない、と思うのではなく、落ち込んではいない、と思い込む人たちだ。
 
 ただやっぱり苦しかったり寂しかったりするわけで、そういう感情を消さないと「落ち込んではいない」と思い込むのは難しい。そこで感情をごまかすために使われるのが中毒行為(本書内では嗜癖「しへき」行為)だ。アルコール、セックス、麻薬、暴力、威嚇、支配的な振る舞い、地位や名声へのこだわり、そして仕事などが代表的なところだろう。もちろん中毒行為が一つとは限らないし、程度の差もいろいろだろう。共通しているのは、自分が他人よりも優れていると感じることができる、というところだろうか。
 
 こういった中毒行為で自分のうつを隠し続けることは、男性にとってそれほど難しいことではない。それどころか社会的に評価が高まったりすることもあるだろう。なので数十年にわたって、自分の感情を無視することも珍しくはない。しかしやがて、中毒行為の御利益が得られなくなるときがくる。年を取れば出来なくなることもあるし、肩書きや評判というのは移ろいやすいものだ。予想外の出来事というのもある。そうなると、いままで無視してきた感情が一気に表面化するのだという。それを著者は「表面化したうつ病」と呼んでいる。
 
 しかし問題はうつ病ではない。いやうつ病は問題だけど、それを隠すことはもっと問題を大きくしてしまう。上記のような男性を著者は「隠れたうつ病」患者と呼ぶが、「隠れたうつ病」は人間関係を徹底的に破壊する。それもそのはずで、さっきあげたような中毒行為におぼれている人間を慕う人なんかいない(一瞬かっこよく見えることはあるかもしれないけど)。ましてそういう人と長期間一緒に暮らすなんて地獄以外のなにものでもない。
 「隠れたうつ病」の男は次の三つの理由から対人関係に対処できなくなっている。第一は、自己調整のための嗜癖的防衛行為が最優先されていること。第二は、他者との心のつながりを持つことは必然的に自分の心を覗くはめになるため、他者への親密な関わりは避けたいと願っていること。第三は、対人関係のスキルがひどく未発達なため、親密な人間関係を求められると、すでに十分感じている自信のなさをますます強めてしまうこと。

[p.319]
 こんな具合なので、彼らとともにいなければならなかった人たちの人生も、とても辛いものにしてしまう。
 
 じゃあどうすればいいのか。それは、辛かったこと、悲しかったことを、そのまま認めることだ。あの時は本当に苦しかった。本当に寂しかった。そうやって辛い出来事を認め、その解釈を変える。たとえば「自分はいじめに抵抗しなかった。はっきり主張しなかった。」という解釈を「自分は子供だったので、抵抗するすべを知らなかった。数で圧倒されれば大人だって抵抗は難しい。大人たちは「大したことない」とたかをくくっていじめを止めなかった。」というふうに変える。そうすることで、自分の感情を無視することなく、辛い経験を乗り越えることが出来る。なんでもかんでも自己責任という解釈はうつを加速させるだけだ。
 
 しかしそれでも、「隠れたうつ病」が「表面化したうつ病」になることは避けられない、と著者は言う。辛いこと、苦しいことに出会えば落ち込むのは自然な反応で、人はそれをすっ飛ばして成長することなどできないし、十分な時間が必要だ。問題は落ち込んだときにどうするかであって、そこで「落ち込んだり傷ついたりするのは男らしくない」とかそういう反応をすると「隠れたうつ病」へ一歩近づいてしまうのだろう。周りの人もそういうときは、「辛かったね」と声をかけてあげるべきなのだ。決して「男のくせにめそめそするな」ではない。

 本書で描かれる治療の様子をみると、辛かった出来事を辛かったと認めるという段階がもっとも難しいようだ。著者は家族セラピーの専門家であるので、辛かったことを認めるのは患者だけでなく、家族も一緒に患者の苦しみを認めることで治療を進めていく。これはたぶん、患者だけが辛かった経験を受け止めても、家族が「そんなことはない。悪いのはお前だ」というような反応しかしなければ治療は難しくなってしまうからだろう。
 
 とはいえ、患者に自身の苦しみを認めさせる技術は、著者とその夫人の独特なアートであるように感じた。勉強すれば誰にでも身につく技術というよりも、二人の人柄に負うところが大きいようだ。もっとも、自分の苦しみを認めてしまえば、デミアンのように「表面化したうつ病」になってしまうわけだから、すぐに治療の環境を整えられる専門家でなければ行えないということは間違いない。
 
 本書を読んで感じたのは、まさに「惻隠の情は仁の端緒なり」だ。自信が持てず対人スキルが未発達、といわれると、俺のことを言っているのか!? と思わずにはいられないのだけど、最近はその対人スキルっつーのは「惻隠の情」のことなんじゃないかと考えている。そっと思いやる心、それが持てれば、傷ついたときも絶望せずにいられるのかもしれない。

2009年9月25日金曜日

もうドキドキしない・書評・伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』

なんか続けてたのがあったような気がするけど、キニシナイ。

前回のエントリーで飯田泰之先生が紹介していた伊勢田哲治著、『哲学思考トレーニング』を読んでみた。読んでみたらこれがスゴイ本で、なんか僕の関心というか気がかりなことにドンピシャなものだった。この本が新書で買えるというのはとんでもないことなんじゃないだろうか。

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哲学思考トレーニング
伊勢田哲治
飯田先生は、本書はタイトルで損をしていると言っていて、それには同感。でも一方で、本書はタイトル通りの本でもあると思う。本書冒頭に、哲学を学ぶと、全体的な状況をとらえて分析する能力が身につく、という話がでてくる。この本ではその能力を活かしたスキルをクリティカルシンキングと呼び、クリティカルシンキングとは「ある意見を鵜呑みにせずによく吟味すること」[p.11]である。「よく吟味する」というのはちょっと曖昧な表現なんだけど、それは、この本で読者がトレーニングするのは、曖昧さだらけの日常の中で全体的な状況を捉えて分析する力だからだ。たとえばネット上で、よく分からない専門用語とか外国の学者の名前が出てくる文章に丸め込まれた経験はないだろうか。僕はしょっちゅうだ。日常に出会う議論は、教科書や論文に載っているものと違って、かなり曖昧さを含んでいる。用語の使い方が正しいのか、そのフランス人はホントに権威ある学者なのか、僕たち素人には分からない。しかしだからといって、全面的に受け入れたり拒否したりせずに、ある程度でいいので妥当性を評価できれば、いい加減な話に踊らされることもなく、本当に大事なことを見失わずにすむだろう。さらにチェックが増えれば、世の中、建設的な議論もぐっと増えちゃったりするんじゃないかな。で、そのための道具がクリティカルシンキングであるわけだ。

あらゆることについて素人である僕としては、専門家やそれっぽい肩書きの人が、「AはBであるから、政府はCという政策を実行すべき」とか「DとEは全くの無関係であり、F氏の主張は言いがかりも同然である」とか言われると、その真偽を確かめるだけの知識がないので、よく分からんがきっとそうなんだろう、ともやもやを抱えつつも説得されてしまうことが多い。もやもやしつつも、結果的には鵜呑みにしているといえる。僕は経済学に興味があるから、経済学っぽい話にはずいぶん振り回された(されてる)。今ではあまりにいい加減な経済学っぽい話は相手にしないようになったけど、以前は国際競争力っぽい話とかにはいちいち必死になって反論を考えていた。元の話がいい加減なんだから、そこで必死に考えたって何にも出てこない。おとなしく教科書開いて比較優位について勉強するべきだった、と今なら思う。

で、本書はその手のいい加減な話から身を守るための道具をたくさん提供してくれる。しかも読んだその日から使える即効性がうれしい。リアルにもネットにもいい加減な議論の種はつきない。そのいちいちにドキドキしたりしてたらきりがないし、結構時間もとられるし、たぶん友達もなくすだろう。私見だが、その手のいい加減な話というのは、妙に脅迫的なところがある。誰が悪いとか、誰が利益を独占しているとか、誰が法をかいくぐっているとか。俺の意見に賛成しないやつは…、と迫られている雰囲気がある。こんな議論に巻き込まれたら、そりゃ友達なくすでしょ? ちょっと脱線するけど、そういうのって急いで言質を取ろうとしているようで(そして言質を取れば何とかなるとでも思っているかのようで)、何かコンプレックスでもあるのかな、と思ってしまう。まあ余計なお世話ですが。

本書のテクニックでもっとも使い勝手がいいのは、誤った二分法というものだ。引用しよう。強調は原文のまま。

 ちなみに、クリティカルシンキングの議論のテクニックの一つとして「誤った二分法」(false dichotomy)を避ける、というものがある。誤った二分法とは、複雑な状況をAかBかというかたちで単純化して、AではないからBだ、と結論する過ちである。人間をすべて敵と味方に二分して、「お前は味方ではないから敵だ」というような判断をするのはこれにあたる。こういう過ちについて知っておくと、相手の議論につい説得されそうになったときに「まてよ」といって考えなおすのに役に立つ。

[p.136]

これはもう今すぐ使えるテクニックだ。誤った二分法を念頭に置いて、最近読んだもやもや文章を読み返してみてはどうだろう。仮に結論が自分にとって好ましいものでも、こういうやり方で説得されるわけにはいかない、と自信をもって言えるようになっているはずだ。

ほかにも様々な吟味の仕方が記されている。中には多くの手順がいるテクニックもあるが、ネットにあふれる、妙な迫力はあるが怪しげな議論を退けるだけなら、誤った二分法をはじめ、比較的簡単なテクだけで事足りるだろう。これはいい! と思ったのは、反証可能性と立証責任だ。どちらもネットではよく目にする言葉だけど、本書ではその日常での使い方を解説している。これらを杓子定規に使ってしまえば全否定となってしまって、結局鵜呑みにしたときと同様、もやもやだけが残るんだと痛感した。反証可能性は強力すぎるので使用するかどうか、よく注意する。そして立証責任は必ずしも「ある」と主張する側にある訳じゃない。大抵の場合、立証が容易である側がすべきであろう。と、こういうふうに曖昧さを許容しつつ、ケースバイケースで対応して、安易に結論に飛びつかない、それが本書を貫く主張だ。つまり、万能な議論の進め方は存在しないのであって、なにやら難しげな言葉を使って断言しているお話には要注意だ。

僕は本書を半分くらい読んだところで、もう一度読みたい、と思うようになった。その頃にははじめのほうを忘れはじめてたから。で、とりあえず一回読んだんだけど、「あとがき」ならぬ「「結局、何がどうだったの?」という人のためのガイド」の中で、二度目に読むときの順序が書いてあって、ホントかゆいところに手の届く本なのです。しかも参考文献が著者の解説付きで載っているので、これもうれしい。英語の本も多いが、英語の本を読むのが趣味の僕には本当にありがたい。自分で探して出会う可能性のほとんどない本だろうから、特にそう思う。

本書は手元に置いておく価値のある本だ。何かもやもやする議論に出会ったとき、この本を片手に検証していくと、それが不誠実な議論であることがよく分かるだろう。そして世のいい大人たちがいかにいい加減な議論をしているのか、ということもよく分かってしまうだろう。それでも彼らが何かいっぱしのことを言っているように見えるのは、普段から偉そうに振る舞うなどして努力してるからだ、ということも、知りたくもないけど、分かってしまうだろう。さらに、自分が調子に乗って不誠実な議論をしてきたことも思い出すだろう。だからこそこの本は、難しげな用語や肩書きに弱い僕のような人にとって必携だ。

2009年8月11日火曜日

ゆっくり生きる 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その3

承前:その1 その2

「ゆっくり生きろ」というメッセージは様々な歌に込められる。僕にもお気に入りの「ゆっくり」ソングがある。斎藤和義の「歩いて帰ろう」とかJack Johnsonの"Inaudible melody"とか。あとはなんだろう、Princeの"Little red corvette"? いやこれは違うだろう。ゆっくりしろ、と歌ってるけども。

自分が無価値に感じられるという問題から目を背けると、自分だけでなく、まわりの人々も深く傷つけるような事態を招いてしまう、というのが前回の話。ではどうしたらいいのか。その答えが「ゆっくり生きろ」だ。

「隠れたうつ病」においては、防衛的行動または嗜癖(しへき≒中毒:引用者)行為によってダメな自分から誇大化した自分へと飛躍するが、そのどちらでもない健全な自己評価に到ることはできない。うつ病の根になっている自己の内面と向き合うことなしには、健全な自尊心を持ちえないからである。どんなにあがいても、内面の痛みを隠蔽したまま癒される道はない。[p.71]


そう、ゆっくりが楽なわけじゃない。むしろ仕事中毒になったほうが、うつの症状には即効だろう。もし人をうつ病にするような出来事や環境があるとしたら、人はうつ病になるべきだ、というのが著者の考えのようだ。そうしなければ「うつ病の根」が放置されてしまう。

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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
今回はデミアンのケースを見てみよう。彼はハンサムで、職業人としても成功している40代後半の男性だ。社会的に成功しているだけでなく、美しい妻ダイアンとの間に四人の子をなし、育てている。何の問題もない夫婦のはずだったが、ダイアンが家を出て行ってしまい、夫婦のセラピーがはじまった。デミアンは妻がおかしくなってしまったと考えていたが、セラピーを重ねるうちに、妻ダイアンは問題の核心に触れた。それは夫とのセックスだった。

著者はダイアンの話から、デミアンは軽度のセックス中毒ではないか、と疑った。彼は2、3日セックスをしないとすぐ不機嫌になり、4、5日ともなればほんの些細な事で妻につっかかってくるようになるという。そうなると彼は止まらない。人前で妻をなじったり、猛烈な癇癪を起こしたりする。ダイアンは彼の怒りに触れないようにいつも注意しなければならなくなる。

ダイアンは夫は悪い人ではない、という。それどころか愛情深い人だともいう。セックスに執着しているとはいえ、浮気をしているわけでもないようだ。しかし、ダイアンは泣きながら「もう、こんな生活は耐えられないわ!」ともいうのだった。23年間、夫のセックス中毒にがまんしてつきあった結果、彼女は家をでて離婚しようと決意した。デミアンはすかさず、「別れるなんてとんでもない!」と叫ぶ。彼は欲求が満たされているかぎりは、やさしい男性でいられるのだが、満たされないと、コントロールできそうにない不安に襲われて、陰湿な攻撃を始める。「彼はどこからか襲ってくる不快感を癒すためにセックスを薬として使っていたのである。」[p.80]

セラピーの効果はてきめんだった。デミアンは妻を支配することなく愛せるようになった。ダイアンも夫の変化を喜んだ。しかしそこで禁断症状が起きた。今まで押さえ込んでいたうつ病が表面化し、入院を考えなければならないほど、デミアンは精神的に落ち込んでしまったのだ。やがて自殺を考えるようにさえなっていった。

デミアンのうつ病の根は、彼が7歳から13歳の間、兄とその友人に性行為を強要されたことだった。彼は長い間その記憶から目をそらし封印してきたのだが、ついに思い出してしまったのだった。

デミアンのうつ症状が重くなり、著者は家族セラピーを決意する。彼の両親(彼らは息子たちの行動に気づいていたが何もできなかった)と兄を呼び寄せ、加害者、関係者を含めてトラウマに向き合うことを目指す。そうすることで治癒の道が開けるのだという。

兄ピーターも両親も、その出来事を否定した。が、泣きじゃくるデミアンを見るのが耐えられない、と兄がついに認めた。ピーターはデミアンに深く謝罪した。そのときからデミアンの回復が始まったという。

実は兄も、近所の男の子から同様の仕打ちを受けていた。一人で抱えきれない衝撃を、弟と共有せざるを得なかったのだろう。彼もまた被害者であった。著者は兄の地元の精神科医の協力をとりつけた。兄にもセラピーが必要なのは明白だった。

 デミアンのケースは、「隠れたうつ病」を癒す道が「表面化したうつ病」であることを如実に示している。まず、嗜癖(しへき≒中毒:引用者)による防衛的行動を認め、それを止めることからはじめなければならない。するとやがて、隠蔽されていた痛みが表出してくる。デミアンの嗜癖行為の背後にはうつ病が隠されていた。そしてうつ病の背後にはトラウマが隠されていたのである。セラピーを通して勇気づけられた彼は、誇大化による自己防衛を止め、うつ病を表面化させると共に、そのうつ病の根になっていたトラウマと正面から向き合ったのである。[p.83]


「隠れたうつ病」の男性の自己防衛は、デミアンが妻のダイアンを深く傷つけたように、人間関係を崩壊させる。あらたなトラウマの種をばらまいているようなものだ。そして始末の悪いことに、自分がその被害をもたらしたという感覚が全くない恥知らずな状態でもある。デミアンも自分ではなく妻がおかしくなったと考えていた。

この本にでてくる男たちには二つの特徴がある。一つ目が恥知らず、である。妻が入院したそのとき、若い娘とホテルでお楽しみだった60過ぎの男(しかもそこに電話したのが長男だったり)。妻が長電話しているだけでブチ切れる男。自転車で前を走っている人を追い抜いていい気になっている男(大人です)。恥知らずの見本市である。そしてもう一つの特徴が、デミアンのケースでいえば「セックスを薬として使っていた」こと。つまり、本書でも後のほうで言及があるが、ある行為を通して「救い」を得ようとしているのだ。そしてそう考えれば、何でもコントロールしないと気が済まないとか、人の気持ちを無視して独裁者のように振る舞うとか、ちょっとのことでえらく不機嫌になるのも理解できる。なんといっても自分の人生が救われるかどうかの問題なのだから。

そこで「ゆっくり生きろ」が重要になる。

 心の病を癒すためには内面の病根を正視しなければならない。精神分析とは科学でも芸術でもなく、根源的な意味でのモラルと関わることだった。それぞれの人が「生きる道」を発見する手助けをするのが、セラピーというものである。男性のうつ病は、人生のいくつもの分岐点で横道にそれてしまった行動の集積だ。癒しへの道は、そのひとつひとつを拾い上げて軌道修正していく、忍耐のいる作業である。[p.229]


そう、むしろゆっくりしか手がない、とも言える。冒頭にあげた斎藤和義の「歩いて帰ろう」の歌詞に「ウソでごまかして過ごしてしまえば、頼みもしないのに、同じような朝がくる」とある。人生の中で「忍耐のいる作業」が求められるから、つい「ウソでごまかして」しまうというわけだ。

話はちょっと変わって、デミアンの体験は過激で特殊なもので一般的ではないのでは、という疑問に、著者は、両親が二週間不在だった一歳児の記録を例にだしながら、こう答える。

 サラエボやソマリア、また大都市のスラム街で育つ子供たちが体験するものに較べたら、幸福な上流家庭で両親が二週間の休暇をとったために起きた傷など、取るに足らないことに見える。子供は逞しいものだ、困難に打ち勝つ術を学ばねば人生を生き抜けない、と私たちは言う。実際、想像を絶する過酷な環境を生き延びた子供たちも多い。しかし、そこに寄りかかって、子供が受ける傷に無神経になってもよいということにはならない。[p.105]


ま、「世の中甘くない」とか言う当の本人が、サラエボやソマリアからみれば甘い人生を送っているわけだしね。そうやって男の子にささいなことでも男らしさを要求することが、そしてその繰り返しが、彼らを深く傷つける。

 また、強くなろうとし、弱点を認めまいとする男の姿勢は自分以外の人に対しても適用されて、弱者への同情心が薄く、思い上がりの強い人間をつくっていく。人間らしい感情を失い、表現力を失うことは、こうしたさまざまなかたちで他者とのつながりの喪失を必然的に招いていくのである。
 多くの女性が自分が受けてきた抑圧をひとつひとつ認知し、自己を有力化(empowerment)する術を見出すことでうつ病から回復してきた。男性は断ち切られた感情を蘇らせ、自分とのつながりを取り戻し、人とのつながりを学び直すことが回復への道なのである。[p.160]


恥知らずで、救いを求めて右往左往する人生が幸せであるわけがない。人は弱いから、そういう人生を生きてしまうこともあるだろうけど、希望は持っていたい。

つづく。

書きました:その4(完)

2009年8月4日火曜日

男という病 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その2

承前:その1

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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
本書で描かれる男性たちは、著者リアルのいうところの「隠れたうつ病」を患っている。著者は神話を例えにこう説明する。「ナルシスが自分の虚像に恋する姿は、私たちが銀行の預金額や外見の美醜や権力に執着する姿と同じである。「隠れたうつ病」は、健全な自尊心が欠如しているために起こる。欠けたものを外的な栄光によって補おうとしても、決して成功しないのである。(p.54)」

では症例を見ていこう。トーマスは56歳の会社重役であるが「数ヶ月にわたって不眠、焦燥感、集中力の減退という「表面化したうつ病」の症状に悩んで(p.56)」著者のセラピーを受ける事になった。かなりありふれた話だと思うので、簡単にまとめてしまおう。貧しい少年時代を送ったトーマス→三人の娘にそんな境遇を与えたくない→がむしゃらに働く→家庭を顧みない→他人のような親子の出来上がり→離婚→若い女性と再婚→三人の娘がみんな父から離れていく。こんな話だ。

あきれたことにこのトーマスという男は、娘たちが自分ではなく母親の味方だということに衝撃をうけて、うつ病が表面化したのだった。著者はこう分析する。

 トーマスのような成功した男性にとって、人間関係の崩壊を目の当たりにするまでは、仕事中毒の弊害を自覚し難いものである。娘たちに見捨てられた驚きがきっかけとなって、彼は急速に落ち込んでいった。娘たちの裏切りはトーマスの心を強烈に刺した。[p.55-56]


そうして家族セラピーが始まる。出席した娘たちは父に対して何の感情も持っていないと断言する。トーマスは皮肉な態度をとってみせるが、さすがに辛いようだ。

トーマスは娘たちに自分自身の事は何も話してこなかった。三女は泣きながら、よくは分からないが父は「とてもひどい目にあったのだって、感じるの(p.59)」と言った。

著者に「彼女は今、あなたが抱いている痛みを代わりに感じて泣いているのですよ(同)」と言われ、トーマスは過去を振り返る決意をする。

トーマスの母はアルコール中毒だったようだ。彼女は毎日酔いつぶれて眠るのだった。トーマス少年は、彼女が生きているのを確かめるため、彼女の傍らでじっとしていた。

トーマスは娘たちとの関係を改善したいと願い、セラピーを受けにきたのだが、本当の問題は「心理的に親に放棄された幼児体験によって、トーマス自身も気づかぬうちに、一生を通じて自分の感情や人間関係から目を背けること(p.63)」にある。

ここで、著者の言う「隠れたうつ病」の仕組みをまとめてみよう。幼少の頃、自尊心を歪ませるような出来事がある。ここで著者はフロイトを引用しているが、まとめると、そのような人は自分を無価値であると感じ、強烈な劣等感を抱き、生存本能さえ打ち消して睡眠や食事ができなくなる。それが「表面化したうつ病」である。「うつ病は自分が自分を痛めつける病(p.64)」であるから、「自己免疫障害のひとつ(同)」であると、著者は言う。

そうしてうつ病を患うと、自分を無価値に感じるわけだが、患者の多くはそのように感じることそのものを恥ととらえ、周囲から隠そうとする。そして症状を悪化させる。しかし「トーマスのような「隠れたうつ病」の男性は自分自身からも隠す(p.65)」ので、その結果、無感情になってしまう。

「表面化したうつ病」は自分を無価値と感じ苦しんでいる状態。「隠れたうつ病」はその苦しみを必死になって否定している状態といえる。そして苦しみを否定するために、自分の価値を自分にも周囲にも証明しなければならなくなり、自分を大きく見せようとして文字通り命がけになる。

誇大化に逃避することによって恥を避けるパターンは「隠れたうつ病」の核である。このパターンは個人によってさまざまな異なるかたちをとる。[p.66]


仕事、財産、外見、名声、セックス。神の慈悲か、それとも悪魔のいたずらか、こういった行為が不安や焦りを一時的に静めてくれたりすることもあるようだ(もちろん静めてくれる前に失敗してしまうこともあるだろう)。しかし、いずれ効能が薄れる時が来る。一度得た財産が当たり前になってしまえば、再び無価値な自分が頭をもたげてくる。

もちろん誰だって財を成せば興奮するだろう。問題は、この手の行為がなければ自分を無価値に感じてしまう、ということだ。健全な自尊心をもっていれば、出来事の結果で自分の価値は左右されない。仕事で失敗して上司に怒られたとき、落ち込むのは当然でも自己評価が変わる必要はない。自分には限界があるし、次は適切に助けを求めるなりなんなりすればいい。

では、仕事上の立派な肩書きや、いかにたくさんサービス残業をしてきたかとか、値のはる珍しいものをたくさん食べたことがあるとか、偏差値が高かったとか、ケンカが強かったとか、犯罪まがいのことをしてきたとか、過激な性体験などが自己評価とガッツリ連動してしまっている人はどうすればいいのか。というところでつづきます。

その3

2009年8月3日月曜日

だらだらいくよ 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その1

きれいなおねえさんが嫌いな人はいないでしょうけど、ガサツなオジサンは好きですか? 僕は大嫌いです。くしゃみするときに声出さないでください。というわけで、はい、今回もだらだら書評です。

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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
今度の本の題名は『男はプライドの生きものだから』で、原題は"I don't want to talk about it"、「そんなこと話したくねえよ」だ。著者のテレンス・リアルは臨床心理士であり、主に家族、夫婦のセラピーを行っているという。夫婦間の問題についての著書が多いようだ。

本書はそのタイトル通り、男性が陥りがちな心理をテーマにしている。つまり男性は、「男らしく」振る舞うよう教育を受けてきたし、周囲からもプレッシャーをかけられるので、自分自身の感情を押さえ込んでしまう。その苦しさから、アルコールやセックス、そして仕事などの中毒行為に逃避し、自分や家族の生活をぶち壊してしまう。もし男性が自分自身の「女々しい」優しさや繊細さを受け止める事ができれば何も問題はないし、認めなくても、中毒行為に逃げなければ、うつ病の症状がでて医者にかかるようになるだろうし、そうして自分自身と向き合っていくだろう。が、多くの男性は自分のうつ病を自分自身から隠すために中毒行為に走る。そうして何年も何十年も傷ついた心を放置し、ある日、(年を取ったりして状況が変わって)中毒行為ができなくなると、無視されつづけてきたうつ病が一気に襲いかかり、ただでさえ壊れている生活にとどめの一撃がくわえられる事になる。この本では男性のある種の行いをそのように分析している。

以前にこのブログで書評したW・ポラック『男の子が心をひらく親、拒絶する親』と同じテーマの本と言っていい。本文中にもポラックへの言及がある。そして訳者も同じなので、同じ問題意識でなされた翻訳なのだろう。ただし、本書のほうが先に訳されている。

この本で描かれる症例は、著者自身をも含んでいる。著者の父はとても横柄で暴力的な男であり、二人の息子たちは常に父の暴力へどう対処するのか考えながら行動しなければならなかった。著者は父に強い反発を抱え、弟は父を単純に避けるようになった。

著者リアルは20代をアルコールとドラッグに費やしてしまったという。それが、彼が自分のうつ病と戦うためにとった戦法だった。死の危険もあった。それでもやがてセラピストを志していくわけだが、その過程で父と対話することを試みる。始めのうち、父は怒りと否定以外の感情を表現することを拒むが、息子は父の怒りをというか父親をもはや恐れていない。恐れを抱えているのは父のほうであり、息子は父の恐れをやさしく肯定する。そうして時間をかけながら、父は息子に少年時代の苦しかった日々、親に、大人に拒絶された日々のことを語り出す。その苦しみを誰にも話せなかった苦しみを吐き出す。

著者と父の話は実に感動的だ。父は世をすねて他人を見下して生きていたわけで、そんな人が老境に至り、今までバカにしてきた息子に助けられながら、「人生に大切なのは愛だ」「俺のようにはなるな。家族を大事にしろ」と息子たちに言い残して死んでいくのだ。もちろん彼が家族の生活を無茶苦茶にしてきたことが帳消しになったりしない。終わりよければ、という話でもない。それでも、どんな状況でも前を向けるんだ、と素直に思いたい。

さて次回からはこの本に載っている「症例」の中から、いくつか紹介していきます。自分と、あるいは身の回りの誰かと似ているケースがきっとあると思います。

その2

2009年8月1日土曜日

集中すること、待つこと。書評なのかな? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その5(完)

承前:その4

ジョシュはまわりからのプレッシャーが増えていくなかで、ジャック・ケルアックの作品を通じて東洋思想に(いささかエキセントリックな)興味を抱き、やがて老子にであう。18歳の少年にとって、「老子は、物質的な欲求に対する自分の複雑な思いをほぐしてくれた[p.96]」という。

古代中国の思想をもっと学びたいという思いで、ジョシュはウィリアム・C・C・チェンという人の太極拳のクラスに入る。当初はテレビでよく見るようなゆったりした動きの訓練を受けていたのだが、その学びの早さと深さから、ジョシュはpush hand クラスへ入ることを勧められる。

push hand というのはどうやら投げ技が中心の格闘技のようだ。(参考動画)本書によると、大会は一日で行われ、ケガを負わずに勝ち進むのはかなり難しいのだそうだ。

心優しいチェス少年のジョシュがそんなものに挑戦するのもすでに驚きだが、彼は数年のうちに全米チャンピオン、そして世界チャンピオンになってしまうのだから、なんだかもうあきれてしまう。しかも自分の体重に比べて重い階級に挑んだというんだから。

太極拳のチャンピオンへの道はまるでドラゴンボールなんだけど、相変わらずジョシュは優しい青年のままだ。学ぶことが人の感情と密接に関わっているという、彼の心に深く根ざしたアイディアをもとに、彼は早く深く学ぶあり方を探っていく。

それは僕が読むところでは、強がったり悪ぶったり、世慣れた風を装ったり、知ったかぶりをしたりするようでは何も学べない、ということだ。そんなの当然だろ、と思ってしまうところに僕の浅はかさがあるんだなと痛感してます、ハイ。

より実践的には次の三つのステップで学習を深めていく。まずやる気をなくすような事が起きても真正面から対応したり、あるいは全否定したりしない。慌てない。感情を爆発させない。力を抜いて、やり過ごす手を考える。ちょっと顔でも洗って気分転換しよう。散歩するのもいい。

次に逆境を利用する。猛獣に立ち向かうような勇ましさではなく、逆境におかれた時にしかできないような事を考える。ジョシュの場合、利き腕である右腕を負傷してしまった時、ケガの治療に専念するのではなく、それと並行して、左腕一本で相手の攻撃を無効化する練習に取り組んだという。平常時ではなかなか思い切った特化というのは踏み切れないものだからこそ、逆境を利用しない手はない、というわけだ。

そして三つ目。それは己を知ること。自分が特に集中できた状況をよく観察して、その原因を知ること。そうすれば、自分にとって優れた環境を意図的に造り出すことができる。本書の例では、あるバスケットボール選手の場合、敵地でブーイングを浴びてると調子がいいことに気づき、相手チームのファンを挑発するような仕草をしたりするんだそうだ。これはたぶん、自分を刺激するストレスの種類を見分けよう、ということなんじゃないかと思う。時間的なプレッシャーだったり、怒りであったり、恐怖や不安であったり。感じてしまうと身動きが取れなくなるようなイヤなストレスは上手に避けて、良い刺激になるようなストレスを選びとっていくということなんだろう。ジョシュの示唆するところでは、何らかのかたちで緊急事態を連想させるような状況が、人をぐんと集中させクリエイティブな状態にさせるという。なので肉体的なストレス、空腹とか疲れとか、から探っていくといいかもしれない。

本書はジョシュのパーソナルな話と、プラクティカルな話の両方が上手く組み合わさっていて、読んでいてとても楽しかった。どちらの話にせよ、この書評もどきで扱ったものはほんの一部でしかないので、とても読み応えがあると思います。

最後にジョシュのいいやつっぷりが最も良くでてると僕が勝手に思ってる箇所を引用して、このだらだら書評を終えよう。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
My answer is to redefine the question. Not only do we have to be good at waiting, we have to love it. Because waiting is not waiting, it is life. Too many of us live without fully engaging our minds, waiting for that moment when our real lives begin. Years pass in boredom, but that is okay because when our true love comes around, or we discover our real calling, we will begin. Of course the sad truth is that if we are not present to the moment, our true love could come and go and we wouldn't even notice. And we will have become someone other than the you or I who would be able to embrace it. I believe an appreciation for simplicity, the everyday --the ability to dive deeply into the banal and discover life's hidden richness-- is where success, let alone happiness, emerges.

拙訳 ( )内はすべて引用者による。:
(突然大きなチャンスが訪れたらどうすればいいのかという疑問に対して)僕の答えは、質問をよく見直してみる、というものだ。僕たちは待つことが得意にならなきゃいけないだけじゃなく、愛さなくてもいけない。というのも、待つことは待つことじゃなくて、人生だから。僕たちの内の多くの人が、その精神を遊ばせたまま、本当の人生が始まるのを待っている。退屈のうちにいく年も過ぎていくが、それでいい。だって、本当の恋人に巡り会えた時に、あるいは天職を見つけ出した時に、僕たちの人生は始まるのだから。もちろん、残念な真実として、その決定的な瞬間に僕たちが居合わせなければ、生涯のパートナーはただ通り過ぎるだけだし、僕たちも気づくことさえないだろう。そして僕らは、その瞬間をものにした僕やあなたとは、ちがう人物になってしまっているだろう。それでも、僕はシンプリシティ(単純さ)に価値があると信ずる。平凡さのなかに深く潜って人生の隠された豊かさを発見する能力があれば、日常こそが成功とそして当然幸福が、現れる場所になる。

2009年7月27日月曜日

二つの道 書評じゃないよ・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その4

承前:その3

ストレスフルな状況に接したときに、自分の感情(怒りとか、つらい、寂しいという気持ちとか)を否定すべきではない、とジョシュはいう。そうではなくて、自分に対する攻撃的な要素を自分のために利用するべきであるという。が、彼自身認めるところだが、そんなことは簡単にはできない。

今日は、あの『ボビー・フィッシャーを探して』の少年がなぜチェスを辞めてしまったのか、という話。

ジョシュが16歳のとき、チェスプレイヤーとして次の二つの道のどちらかを選ぶことになった。それは、より攻撃的な戦い方を身につける道と、彼自身の持ち味をのばす道。
あの映画を見た人ならば、ここで不思議に思うだろう。そんなの決まっているじゃないか。選ぶ必要なんかない。ジョシュはジョシュらしく戦うことで勝利してきたんじゃないか。

映画のなかで、ジョシュの母はとても賢く愛情深い女性として描かれているけれど、本書によれば、彼女、ボニー・ウェイツキンはそれ以上の人物であるようだ。

彼女は動物たちと瞬間的に仲良くなってしまうムツゴロウさんのような人でもあるらしい。田舎に旅行した時の話で、牧場の人は馬がおびえたり騒いだりしていると、ボニーを呼んでなだめてもらうのだそうだ。

ボニーによると、馬をなつける方法は二つあるという。一つは馬が逃げないようにロープでつなぎ、馬が我を忘れるような騒音をたてて脅す。馬はやがて疲れきって服従するようになる。「衝撃と畏怖」と呼ばれる方法だ。

もう一つは馬と正面から対峙することなく、やさしくなでる。食べ物をあたえる。毛繕いをする。やがて馬はなれてきて、あなたを好きになる。馬の魂を壊さずに、馬を、時には成長しきった馬でさえも、そうやって手なずけることができる。こうしてできた人と馬の関係では、個性が塗りつぶされるというようなことはない。

にもかかわらず、ジョシュのチェスプレイヤーとしてのキャリアは、「衝撃と畏怖」の道を行くことになる。あの映画の反響が、ジョシュとそのまわりの人々にそのような選択を迫った部分もあるようだ。そしてその結果ジョシュは、「競技者としての重力の中心を失った(I lost my center of gravity as a competitor.)[p.87]」のだった。

つづき:その5

2009年7月17日金曜日

書評? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その3

承前:その2

もう書評じゃないよなあ。今回は太極拳の話に行く前に、ジョシュの転機になった出来事についてです。

インドでのチェスの大会の時、ジョシュは16歳なのだが、大事な試合中に突然、地震にみまわれる。まわりの人々は急いで建物から出て行ったが、ジョシュはそこに残り、どうすれば勝利できるのか考えていたという。

その時の様子を、彼は次のように語る。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
Everything started to shake and the lights went out. The rafters exploded with noise, people ran out of the building. I sat still. I knew what was happening, but I experienced it from within the ches position. There was a surreal synergy of me and no me, pure thought and the awareness of a thinker ---I wasn't me looking at the chess position, but I was aware of myself and the shaking world from within the serenity of pure engagement--- and then I solved the shess problem. Somehow the earthquake and the dying lights spurred me to revelation. I had a crystallization of thought, resurfaced, and vacated the trembling playing room. When I returned and play resumed, I immediately made my move and went on to win the game. [p.53]

拙訳:建物が揺れはじめ、明かりが全て消えた。屋根の木材がものすごい音をたてていて、人々は建物の外へ逃げ出した。僕はじっと座っているだけだった。何が起きているのかちゃんとわかっていた。でも僕は地震をチェスの駒の配置の中から感じていたのだった。それは僕と僕でないもの(純粋な思考と、思考するものの気づき)の非現実的なシナジーだった。僕はチェス盤を眺めている僕ではなく、純粋な没頭の持つ静けさの中から、自分自身と地震で揺れている世界を認識していた。理由はどうあれ、地震とそれに続いて明かりが消えたことが刺激となって、僕は啓示を受けたのだった。僕は水晶のように明晰な思考に入り込んでいたけれど、我に返り、まだ揺れている会場を後にした。そして試合が再開されると、僕は席に座り、すぐさま一手打ち、一気に勝利した。


なんだかスーパーサイヤ人誕生! みたいなシーンだけども、ジョシュは自分の意志でこのときの明晰な状態に入れるようになりたい、と考えた。そのために「気をそらすもの」に対処しなければならないのだが、ジョシュの経験した地震はそうとうに大きな「気をそらすもの」なわけだ。にも関わらず、ジョシュは心をクリエイティブな状態に保っていた。つまりジョシュの発見は、「気をそらすもの」への対処の仕方によって、人のパフォーマンスは劇的に変化する、ということだ。喫茶店でおばちゃんが騒いでて本に集中できない、バイクの音がうるさくて勉強が続かない、というようなことから、大きい地震がきているのにトップレベルのチェスの試合に勝ってしまう、というようなことまで変化の幅は大きい。

そうしてスーパーサイヤ人になるためのロードマップをジョシュは示しているのだが、それによると、まず何が起きても(作業なり何なりを)続けられるようになり、その後に、何が起きてもそれを自分の有利なものにしてしまえるようになり、最後に、完全に充足した状態で自分で何かを起こして、それを刺激にクリエイティブな状態になれる、という。

さあ、だんだんアヤシクなってきましたね。つづきます。

つづき:その4

2009年7月9日木曜日

書評・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その2

承前:その1

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
映画のヒットで、ジョシュは一夜にしてセレブの仲間入りを果たした。チェスの大会に出れば人だかりができて、女の子が電話番号を書いた紙をわたしてくる。フツーの高校生なら有頂天になって我を忘れてしまうところだが、幼い頃からチェスを愛してやまない彼だから、ミーハーな注目を集めてしまうことは、対処しなきゃいけない大きなノイズではあったが、自分を見失うということはなかったようだ。

本書によれば、トップレベルのチェスの世界とは何かとおっかないトコロのようで、試合中、対戦相手の気をそらすために、色々仕掛けるプレイヤーも多いんだそうだ。例えば、映画でも描かれていたけど、先手がなかなか試合を始めなかったりしていた。ジョシュがローティーンのころにソ連が崩壊して、ロシアから亡命してきたチェスプレイヤーが多かったそうで、中でも子供達はチェスのコーチとともにアメリカにわたってきていたという。彼らは独特なワザを多く持っていたそうだ。例えば、試合中にロシア語で何かを言う。コーチとロシア語で何か話す。机の下で相手の足を蹴る、等々。一度、ジョシュとロシア出身のプレイヤーがアメリカ代表としてインドの大会に参加した時、他国からアメリカへの抗議が殺到したそうだ。

もちろんジョシュはそういった戦い方を嫌ったが、対戦相手がそうである以上、何か対策を練らなければならなかった。そしてこの「気をそらすもの」との戦いが、本書の最大のテーマである。つまり『ボビー・フィッシャーを探して』という映画の成功は、ジョシュに一層の「気をそらすもの」対策への傾倒を迫ったわけだ。

そのうちにジョシュは、普段以上の集中力が発揮される瞬間に気づく。それは「気をそらすもの」にどう対処するかによって現れたり消えたりする異常な集中力だった。気をそらされる、というのは、どうやら自分の感情やあり方と深く関わっている、とジョシュは考えた。そしてその頃、彼は太極拳とであう。

つづく

追記:書きました。その3

2009年7月5日日曜日

書評・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その1

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ボビー・フィッシャー
を探して
『ボビー・フィッシャーを探して』という映画をみて、とても面白かったので、登場人物のその後が知りたくなった。映画はある実在の天才チェス少年の話で、その父親が書いた同名の本("Searching for Bobby Fisher")が原作だ。タイトルのボビー・フィッシャーはチェスの名人。奇行で有名な人だったそうだ。映画に出てくるわけじゃなくて、彼のエピソードが少年によって語られるだけだ。それでもタイトルに出てくるのは、少年がボビー・フィッシャーの再来であると期待されていたから。少年が周囲の期待にどう反応するか、というのがこの映画の見所だろう。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
その少年がジョシュ・ウェイツキン。これから書評しようとする本"The Art of Learning"の著者だ。彼は21歳以下の全米チャンピオンに8回なった。その彼にとって上述の映画はとても重要な役割をもっている。映画はアメリカ本国でかなりヒットしたそうだが、そのことが、ジョシュのチェスプレイヤーとしての人生に大きく影響することになった。映画はジョシュが6歳から8歳くらいまでをえがいているが、封切られた時、彼は高校生だったそうだ。

著者のことを、僕はあたりまえのようにジョシュと書いてるけど、彼にはそうさせる魅力がある。とてもやさしいのだ。『ボビー・フィッシャーを探して』は、彼の優しさについての映画でもある。

本書"The Art of Learning"のタイトルは、おそらく孫氏の兵法"The Art of War"をもじってつけられたんだと思うけど、タイトル通り、学習法についての本だ。でも、ジョシュの人生についても多くページを割いている。

チェスも将棋もわからない僕が本書を手に取ったのは映画のジョシュがあまりに素敵な人物であったからだが、一読してみて驚いたのは、彼がすでにチェスを辞めていたことだ。

もちろん、個人的にはプレイしているんだと思うけど、大会に出てタイトルを争ったりはもうしていない。そしてそのきっかけが、あの映画だったという。

その2へつづく

2009年6月27日土曜日

詩人のように考える "Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ その3

(その3とありますが、一応このエントリだけで読めるように書いたつもりです。
とはいえ
その1
その2 d-modeとはなにか)


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Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
Guy Claxton"Hare brain, Tortoise mind"(以下HBTM)という本について、今年の始めに二つのエントリを書いたのだけど、で、五回ぐらいつづきます、みたいなことを言っておきながら半年放置してたのを再開。でも今回で終わりです。だってあの本の英語にもう一回挑む気にはならないんだもの。丁度なくしたと思ってたメモが出てきたのでそれを基にHBTM最終回です。

で、ちょっとおさらい。人の脳は、いわゆる論理的な能力に関して、あまりすごくない。世の中の複雑さに対して、人間が理解できる程度の論理はあんまり力を持ってない。物理学とか数学に比べ、経済学がいまいち結果を出せないのもそのためだろう。対象が複雑すぎる。で、すごくないだけならともかく、そのすごくない論理的な能力を頑張って使っていると、他の能力のリソースまで喰ってしまうので、脳的に全方位すごくない状態に陥ってしまう。脳にとって得意なことをさせずに苦手なことばかりやらせるのだから、意識の上でも日々が辛いものになっていく。このあんまりすごくない論理的な能力を、本書ではd-modeと呼んでいる。deliberation(熟考)、default(初期値)のdからとられている。つまり熟考したり、何か問題が起きた時にそのまま真っ正面から取り組んだりすると、d-modeが脳をコントロールしている、ということだ。

d-modeの主な特徴として、結論を急ぐ、曖昧さや複雑さを嫌う、言葉にひっぱられる(例えば男という言葉。「男のくせに」とかd-modeは言ってしまう。本人を見てない)、上手く説明がつけば事実はどうでもいい(例えば、アイツがひどい目にあったのは前世で悪い事をしたから、とか)など、人としてろくでもないところが目立つ。最後のやつはどこが論理的なんだ、と言われそうだけど、次の特徴を考えると納得できるかもしれない。それは、完璧な情報があれば事態は完全に説明できる、と思い込んでいる、という特徴。前世の行動が現世に影響すると確認できれば、不幸の原因は特定できるわけで、これは十分論理的だ。が、問題はそんなことは確認できない、ということだ。にもかかわらず、d-modeは「もし前世の行動が現世に影響するならば」という前提に固執してしまう。そして結論を出してしまう。どうも人の差別感情は結論を急ぐ、というところからきている様な気さえしてくる。

d-modeは意識にだいぶ近いが、意識により遠い機能をHBTMではundermindと呼んでいる。無意識と言ってもいいと思うが、もっとオートマティックな感じなんだと思う。コンピューターでいうと、ユーザーが見る事のないバックグラウンドで情報を処理しているような現象を、著者はこの語で指しているようだ。

そして、d-modeは速い。すぐ結論を出したがるし、実際に出してしまう。ということでウサギさんに例えられてる。undermindは亀だ。遅い。小学校時代の記憶と昨日のコロッケが突然結びついて感情がわき上がったりする。どんだけ遅いのかと。で、ま、このウサギさんと亀さんのバランスが大事ですよね、という話なのだけど、現代社会では圧倒的にウサギさんが重要視されているのは問題です、とそうなるわけだ。まあよくあるといえばよくある話。

で、今回はどうしたら亀さんに活躍の場を与える事ができるのか、その方法を考える、ということでした。「詩人のように考える」その方法は、実にカンタン、だって脳の得意なことだから。それは、ただ待つ、だそうだ。ただじっと待つ。

d-modeにコントロールされている状態だと、人はすぐに確実さを求めるが、人が理解できる確実さなど世界の複雑さの前では何の根拠にもならない。確実=みんながそうだから、なんてこともよくある。確実=いままでそうだった、これもすごく多い。これについてはN・タレブ『ブラックスワン』をどうぞ。翻訳は読んでないけど(高すぎる*1)、人の論理的能力の限界がよくわかる本ですよ。

効率よく確実だと思う選択をしても、間違った答えを出してしまえば問題は解決しない。あたりまえ。著者が繰り返しているのだけど、まともなアイディアが生まれるには、それがどんなに突然の天啓のように思えても、時間がかかる、ということだ。まるで妊娠期間のように、アイディアやソリューションにはじっとしている時間が必要なのだ。

では、ただ待つ事がなぜ新しいアイディアや問題解決のひらめきにつながるのか。このことについては著者はかなり細かく説明しているので、僕のd-modeを使ってまとめるのは難しい。それでもざっくり言ってしまうと、問題の解決に意識の焦点を強くあてると、d-modeが思考の主導権を握る事になる。d-modeは効率を重視するので、「馴れた考え方」に沿って問題を扱おうとする。そしてそのこと自体が「馴れ」をさらに深化させてしてしまうので、d-modeを使っている限り、いつまでも同じ考えをぐるぐる巡らすことになってしまう。考えすぎは良くない、というのは誰しも経験していると思うが、その説明になっていると思う。

ひるがえって、ただじっと待つ時、人は何にも焦点をあわせないので、「馴れた考え方」にはまってしまうことはない。が、それだけではアイディアは生まれてこない。新しいアイディアは、今まで脳の中で無関係だった情報同士が、新たにつながる事で生まれると考えられる。そのためには刺激が必要なのだ。

刺激といっても奔放な性体験とかそういうことじゃなくて、一年前に観た内容も覚えていない映画の漠然とした印象とか、友達から借りパクしたゲームの思い出とかそんなことだ。さっき読んだ本の細かい内容が今意識的に思い出せないからといって(あるいは、d-modeで扱う事ができないからといって)、その情報が頭の中から消えてしまったわけじゃない。意識できなくても脳はundermindで情報を処理している。そしてそういった事に思いを巡らすことが刺激になるのだ。ただし焦点を絞りすぎない(low-focus)状態で。

この状態はただ待つ、というよりも、瞑想している、といったほうがいいのかも知れない。瞑想のことは(も)よく知らないが、その方法として、follow one's breathということばをよく見かける(気がする)。どういうことかというと、ゆったりと座って、自分の呼吸に集中する。吸ってるなー、とか、はいてるぜー、とか。するとそのうちに、先週定食屋で食べた鮭がおいしかったなあとか思ってたりする。それはそれで思考を遮ったりせずにしていると、やがて思考がおとなしくなるので、また呼吸に集中する。これの繰り返し。座禅もこんな感じなんじゃないのかな? と勝手に思ってます。

この方法だと著者のいう「詩人のように考える」ことになるんじゃないかと思う。著者は、編み物とかがいいよ、と言っている。ぼうっとすることが重要なんだよ、ともいってるけど、そうしているつもりでも、すぐに世界のあら探しをてしまうのがd-modeの特徴でもある。あと、テレビをぼうっと観ることも著者はすすめているけど、コチラの本(池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』)によると、テレビを観てても人はぼうっとしてないみたいです。まあ十年以上前の本ですからその後わかったこともあるんでしょう。


*1:上下巻で一冊1,890円。高すぎる本をおすすめするのも何だか変なので、タレブの前著『まぐれ』もおすすめします。

2009年6月23日火曜日

「去私」の人?

この間所用でお役所に行った。んで、待ち時間があったので、壁にかかってるテレビをみて待ってた。テレビのニュースをじっとみるなんて久しぶりだなあと思ってたら、与謝野大臣が出てきた。僕は新聞も読まないし、大臣の顔を見るのはホントに久しぶりだったんだけど、なんか随分痩せてるじゃないですか。やっぱ三大臣兼務なんて無理ですよ。

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山本七平の
日本の歴史(上)
山本七平
『山本七平の日本の歴史(上)』の中で、著者は夏目漱石の『こころ』を分析しながら、日本人にありがちな精神的な態度を提示している。勝手な要約をしてしまうと、危機や変化に出会った時、日本人は「去私」足らんとする。つまり自分の欲望や理想や目的をなげうって、周囲の人のために動いているかのように振る舞うということだ。このような指導者は超人的な虚のエネルギーを生み出す。何せ本人には目的がないかのような状態だから、周囲の人はいくらでも忖度できるわけで、どんどん祭り上げられてゆく。そして周囲の思惑がぶつかり合って事態がどちらに転がるか、まったく予想ができない。このような人物の例として乃木希典があげられている。乃木は明治天皇が崩御した時に自決したが、「去私」であるのだからそれも当然だったわけだ。要約はここまで。

無理をするのも「去私」の一形態なんじゃないんだろうか。しかし「去私」は人の頭の中にだけ存在するのであって、現実の問題に対しては何の効力も持たない。もちろん与謝野さんが「去私」の人かどうか、僕は知らない。でも、三大臣兼務ってのはもう超人の域だと思う。また、彼がよく言う「責任」というのも、誰の誰に対する責任なのかよく分からない。国の債務を担うのは現役世代なのだから、返済の仕方はその世代に任せるのがスジじゃないの? と僕は思う。今増税したって債務の総額から言えば微々たるものだ。返済そのものよりも、返済しやすい経済状態を目指したほうがいい。時間をかけて返していけば負担も分散できる。

親になって子供が思春期くらいになると、「去私」の構えで子供に接する人たちを結構よく見かける。僕の母もそうだったし、友人の親もそうだったようだ。自分の目的や理想を押し殺して、ただあなたの幸せを願ってる、みたいな。それは美しい態度なのかもしれないが、子供達の不安や焦燥感を癒す事は無い。

僕たちが「去私」を回避して現実と向き合うためには、おそらく凡庸な理想を(ひっそりと)掲げることが大事なんじゃないかと思っている。子供達には善良であって欲しいものだし、国の債務の返済は過激なものでなく、余裕のあるものであって欲しい。まったく凡庸だ。しかし、「将来世代に負担をかけない」という理想は、人智を離れてると思う。これでは現実に対処することは難しいだろう。

なんか話がよくわからなくなりましたが、結局言いたいことは、無理したって行いが正当化されたりしないよ、ということでした。身体にもよくなさそうなんで、三大臣兼務は辞めて欲しいですね。

2009年3月23日月曜日

書評・Charles Murray "Real Education"

(2010年3月14日に文章を少し修正しました。)

なんか書評ばっかりだけど、ま。おもしろい本、というかなんだろう。Charles Murray "Real Education"という本。

コチラのブログに素晴らしい記事があるので、続編も含めて是非どうぞ。

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Real Education
Charles Murray
本書はIQ=いわゆる学力とその人の全体的な能力には相関があるよ、という著者の以前からの主張を基に、現代アメリカの教育制度の問題点を語った本だ。計量心理学、サイコメトリクスというのは日本ではあまり聞かないけど、統計を基にした心理学ってことですよね? んで、IQの話となると荒れがちになるのはどこでも同じで、この本もその点にはかなり配慮をしていて、「IQが高い=能力が高い」というのは統計的な話なので例外はいくらでもあるし、IQが高いから偉いとかそういう話ではなくてある種のタスクに向いているということであって、運動能力や手先の器用さ、音楽の才能などと同列の「向き不向き」の一つであるとしている。

また、ここでいうIQが高いというのは上から10%の人々のことを指し、ごく少数の選抜されたエリートという意味じゃない。つまりどこにでもいるちょっと目端の利く人といったところ。

で、著者の言う教育制度の問題点は、この「向き不向き」を無視したところにあるという。それは、例えば僕には身体能力的に絶対に無理なバク宙をやらせるようなもので、そんなものは「やればできる」とか「チャレンジすることに意味がある」的な言葉でごまかした辱めでしかない。さらに本書にある例をあげると、かけ算ならばほとんどの生徒が習得できるが、微分積分となると三分の一の生徒しか習得できないという。残りの三分の二の生徒は努力をしても微分積分を使いこなすのは相当に難しいし、また努力の甲斐あってハイレベルなクラスに進学できたとしても、少しの労力で理解できる生徒と共に過ごす時間が増えるわけだから、彼らに追いつくためだけでも更なる努力が必要だし、もちろん彼ら程優れた結果は出せないし、「自分はできる」という満足感も得られなくなっていく、という。この「向き不向き」を無視した努力が本人を幸せにするのか、というのがこの本の出発点といっていいと思う。この本は学業に向いている人々をメインに扱っているが、常に「向き不向き」が問題になっている。だから学業以外のことに向いている人々には彼らに相応しい教育制度(職業教育を含め、より実践的なもの)が必要であって、不向きなことをやらせて低い評価を与えるなんてことをしている場合じゃない、としている。

で、学業に向いている人々は複雑な問題を扱うことに向いているので、放っておいても組織の運営に関わる地位に就いていく。その組織のというのは地元のボランティア組織から企業、国家にまで多岐にわたる。つまり学業に向いている人々が文化的社会的に直接的な影響力を持っている、ということになる。なぜなら、彼らがスケジュールをたててリソースの分配をし、新聞記事を書き、テレビ番組を作り、法案を準備したりするわけだからその影響力はかなりのものだろう。

そこでMurrayは、彼らは本人の努力でもなんでもなく不当に高いIQをもって生まれたのだから、現状のような事実上の特権*1なんぞを与えるのではなく倫理的な使命を負わせるべきだという。今の大学生たちはおおむね優しくて良い子たちだが、現在の教育システムを通して「みてみぬふり」という態度を身につけてしまっている。そのことが、基本的には善良だが肝心な時に無責任な態度を見せてしまう大人を作っている。

で、どうすりゃいいのよってなるわけだが、その前に、どうしちゃいけないのか、ということが書いてある。自分に自信がないので云々というのはよく聞くが、じゃあ自信があるとあなたの秘められた能力が開花するの? という一瞬まごついてしまう疑問を著者は投げかけている*2。僕も、そして僕の友人たちも、まあ自信からはほど遠い人生を送っているし、たしかに自信が持てればなあ、と思うこともある。が、最近の研究の示唆するところは、高い自己評価は、心理的な健全さ、学問的な成果、収入のどれとも関わりがないっぽいよ、ということだそうだ。だから子供たちの自己評価を高めるためになにかする必要はないよ、ということ。

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夏目友人帳
緑川ゆき
安心しました? はい、僕はなんか安心しました。だってどうやったって自分に自信は持てないなあ、と思ってたから。で、この高い自己評価についての箇所を読んで思ったのが、『夏目友人帳』というマンガで、ある登場人物が高校生の主人公に向かっていう言葉。「何を焦っているのか知らないが、無茶をしたって人は強くならない。まずは自分を知ることだ」 確かになー。自信よりも自覚が重要なんだよなー。

で、どうすりゃいいのよってことでした。答えは簡単、倫理教育。学業に向いている人たちに特別コースをもうけて倫理を教えろ、と著者は言う。うー、僕としてはここで疑問がある。倫理なんて教えられるのか? 権威にひれ伏すなと権威を使って教える? ここでポパーを引用しよう。長いけど。


これ [教育制度による選抜をポパーが批判したこと:引用者] は政治上の制度主義の批判ではない。それは以前に言ったこと、われわれは当然最善の指導者を得るように努力すべきではあるが、常に最悪の指導者に備えるべきであるということを追認しているに過ぎない。だがそれは制度、とくに教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能な課題を追わせようとする傾向に対する批判である。このようなことは決して制度の課題とされるべきではない。このような傾向は教育体系を競争場に変え、学科課程を障害物競走に変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますのではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければならない障害を越すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。換言すれば、科学の分野においてさえも、我々の選抜の方式というものは、やや粗野な形の個人的野心への呼びかけに基づいているのである(熱心な学生が仲間から疑いの目で見られるというのもこの呼びかけに対する自然な反応である)。知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥れるのである。

カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』p.138

で、文科省が倫理教育のカリキュラムを決めるとかやっぱむりだよ、と思うのだ。それとこの本全体に言えることなんだけど、長い時間をかけた人の成長をあまり考慮に入れていない。これはおそらく統計的に把握しずらい現象だからかなと思う。そしてそれ故に、IQですべてが決まると主張している、という印象を抱かせているのだろう。ただ一カ所だけ、「たとえ学業にとても秀でた子でも、高校を卒業してすぐに大学に入るのは正しい選択ではないかも」みたいなことは言っていて、著者が人の成長に鈍感であるというわけではないようだ。あくまで統計的に観察できることをベースに考えるということなんだろう。

なので、Murrayがいう倫理教育というのはもっと基礎的なことであって、ポパーが心配するような「知性の生命」の危機とか権威云々とかそういう事ではないのかもしれない。もっと統計的に観察できるような汎用性のある倫理教育の事なのかもしれない。そしてMurrayの自信は次のアリストテレスの考え方が倫理教育を押し進める最大の原動力になるという確信から来ている。それは「人生の最も根源的な喜びの一つは、己の能力を自覚し発揮することである」というもの。つまり学業に向いている人々は倫理的な生き方を模索することに「向いている」しそれを楽しむだろうということだ。

IQの事もあって、かなり否定的に受け止められるだろう本書だけど、僕は妙に納得してしまった。倫理教育への疑問はあるけど、「向き不向き」とそれを無視した努力の悲劇は、あまり他人事じゃないなあと思ったり。努力家の負のオーラに巻き込まれてしまうこともよくあるし。

「学力低下が問題だ」と言う人はたぶん学業に向いている人たちなんでしょう。だから学業には向いていない人々の違和感が分からないんじゃないだろうか。本書はその違和感、「自分には絶対にできないと分かっていることをなぜやらなきゃならないのか」という違和感を伝えるために、具体的なテスト問題とその解説をしたりもしている。そんなこんなで、自覚を促されるような、そんな本でした。文は読みやすかったです。難しい単語も少ないし。


*1: 著者は、現状では学業に向いていることが有利になりすぎているという。例えば、その職種と学歴に本当になにか関係があるの? みたいな場面でも学歴が重要視されたり、複雑すぎて多くの市民が利用を諦めてしまう制度など。

*2: そんなにはっきりとは投げかけてないです。ちょっと大げさに書きました。

2009年1月5日月曜日

"Hare brain, Tortoise mind"を読んだ その2 d-modeとは何か

(1/7 一部表現、タイポを修正しました。)

続きものです:その1

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Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
さて、Claxtonが言うundermindは無意識と同様に、脳に実体があるわけじゃなくて、機能というかそういう働きを結果的にしている現象みたいなことなんでしょう。彼の言うd-modeのスイッチが入ると、undermindが十分に働かず、人は自分を見失ってしまうのだという。

で、人が意識できる意識という感じのd-modeは一体どんなもので、何故これが現代人の人生への不満のもとなんだろうか。今回はd-modeの特徴をまとめてみる。以下は7ページから12ページに載ってます。

長いので、始めに要約してしまうと、d-modeは計画や計算や分析をする機能であり、言葉にならない想いや状況を極端に嫌う、ということのようだ。では具体的に見ていこう。

D-mode is much more interested in finding answers and solutions than in examining the questions.

試訳:d-modeは問題を検証するよりも答えを見つけることを優先する。


結論に飛びついてしまう。手近な言い訳で納得してしまう。よくあります。

D-mode treats perception as unproblematic.

試訳:d-modeは感じたことを事実として扱う。


自分が抱いた印象を事実であるとして疑わない。もっとよく見てみれば事実は別のかたちをしているかもしれないけど、よく見ないで決めてしまう。戦国武将の思惑を語る人、みたいな。

D-mode sees conscious, articulate understanding as the essential basis for action, and thought as the essential problem-solving tool.

試訳:d-modeは、物事の意識的で明確な理解が行動や思考に欠かせない基礎であり、問題解決にとって不可欠な道具である、とする。


ここだけ読むと、そりゃそうだろ、と思うのだけれど、要は「方程式とフローチャートと難しい専門用語」を駆使すれば何でも出来る、という態度のことだそうだ。仮説を検証せずに突っ走ってしまう状態*1。

D-mode values explanation over observation, and is more concerned about 'why' than 'what'.

試訳:d-modeは観察より説明に価値をおく。そして「何」よりも「なぜ」に関心を持つ。


何が起こっているのかよりも、その理由を知りたがる。そして言葉で表現できるものにこだわる。言葉で表現の難しいものは、ハナから存在しないものと見なす。

D-mode likes explanations and plans that are 'reasonable' and justifiable, rather than intuitive.

試訳:d-modeが好む説明や計画というのは、「合理的」で正当化ができるものであって直感的なものではない。


簡単に言えば、○○博士が言ってました、と付け加えると、ぐっと説得力が増す、ということ。

D-mode seeks and prefers clarity, and neither likes nor values confusion.

試訳:d-modeは明快さを求め選び取る。が、混乱を好むことも意味の有るものとすることもない。


つまり試行錯誤を好まない。問題を把握し、分析し、解決する。寄り道も、新奇な道も避ける。○○博士がやった通りに進む。

D-mode operates with a sense of urgency and impatience.

試訳:d-modeが活動している時は、時間が無いような、待っていられないような感覚が伴う。


自分にとって重要ではない、と感じていると、さっさと答えをだそうとしてイラついてしまう。問題は自分にとって何が重要なのか、そう簡単にはわからないってことだろう。だからd-modeは僕たちに、いつだって「どんな種類の苦境」でももたらすことができる。複雑な問題にも安易な答えを要求してしまうというのは、たとえば、政治家=悪、みたいな単純なものの見方をしてしまうということだろう。

D-mode is porposeful and effortful rather than playful.

試訳:d-modeは意志が強く、努力型である。遊び心とかは無い。


こうして見ていくと、d-modeには一般的に言われる長所が多いな、と思う。が、この意志が強く努力型、というのも常に時間に追われている感覚があるからこそ生まれた特徴なのだという。つまり、時間に追われているからこそ、答えが早急に必要となるわけだ。たとえ取り組んでいる問題が「人生の意味」であったとしても。

D-mode is precise


d-modeは精確である、と。きっちり測れるものを好むということのようだ。これは人間の計算能力の限界のためだろうな、と思う。経済学では、現実の経済現象は複雑すぎて手に終えないので、モデルを作って分析するわけだ。ただそれがモデルであって現実ではないということを忘れがちになることも多々有る。統計が精確だから現実だ、ということにはならないんだけども、なんかそんな感じがしてしまう。

D-mode relies on language that appears to be literal and explicit

試訳:d-modeは文字通りで明快に見える言葉に頼る


「見える」というのがポイントだろう。そのように見えていれば、ホントに明快である必要は無いわけだ。構造改革とかバラマキとかね。その一方で曖昧さや比喩は疑うのだという。詩なんかもう最悪。

D-mode works with concepts and generalizations, and likes to apply 'rules' and 'principles' where possible.

試訳:d-modeは概念と一般化を武器に機能する。また、ルールや原則をギリギリまで適用したがる。


具体的なことは嫌いで、抽象的な話が大好きなd-mode。「労働力」とか「合理的な消費者」とか、「典型的な教師」、「環境」、「休日」、「感情」などなど。そういえば以前、ダウンタウンの松本人志が「休みの日何してるんですか、という質問が大嫌い。その日によって違うから」と言っていた。抽象的な話=万人に共通、というルールを適用してしまうことはよくある。

意識できる思考とそうでない思考を分けるのは思考のスピードである、とClaxtonはいう。ものすごく速い思考、つまり反射は、速すぎて意識がとらえることは無い。同様に、非常にゆっくりとした思考もまた、意識できないのだという。どちらにも概念と一般化という武器が通用しないので、予測が立たず、答えが出なくなってしまうから、d-modeはそれらを嫌う。抽象的な言葉を用いれば、あとは演繹的に答えが出てくるわけだから*2、ある意味で言葉に従属的な立場、といえる。

D-mode works well when tackling problems which can be treated as an assemblage of nameable parts.

試訳:取り組んでいる問題が、名付けられた部分の集合体として扱えるとき、d-modeは良く機能する。


d-modeは分割して統治するのが上手いというわけだ。なんだか分からないものは分割できない。「分かるというのは分けられる、ということなんですな」って桂枝雀が言ってた。ただし分割するためには言葉が必要だ。そして言葉が扱える複雑さには限度がある。例えば「あきらくんはおじいちゃんが会計士さんの牧師さんはいい人だという発言をまにうけているのを白々しく思った」という文はどうだろう。まだなんとかいける。ではさらに、「おまわりさんは洋子さんがまことくんのあきらくんはおじいちゃんが会計士さんの牧師さんはいい人だと言う発言を真に受けているのを白々しく思ったことを言いふらしているのを咎めると笑った」*3と、このようにだんだんと複雑さが増していけば、すぐに誰が何をしているのか分からなくなってしまうだろう。

さて、長々書いてきたこういった特徴が、僕たちのd-modeにはある。ではなぜこんなイヤな上司みたいな機能がたっとばれるようになったのか。Claxtonは、17世紀以降、時間が貴重なものとされるようになったことに一因があるという。時間が無いことは無茶苦茶やるための格好のいいわけになる、というわけだ。

そして物事を知る方法は一つしか無い、つまりd-modeを使うしかない、というのは欧米文化の偏見である、とClaxtonはいう。ゆっくりと知る方法もあるのだ。

長くなりましたがここで終わりです。次のエントリではd-modeの弱点と、亀さん登場です。

書きました:その3


*1 「1940年体制」とか「中国発デフレ」なんて言葉が思い浮かびました。

*2 バラマキ=悪ならば、定額給付=バラマキ=悪、定額給付=悪となるわけだ。高い学歴=優越ならば、とドンドン続く。

*3 これを書いているとき、谷川俊太郎・和田誠『これはのみのぴこ』を思い出しました。

2009年1月1日木曜日

"Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ

あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良い年でありますように。

cover
Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
さて、今年一発目から五発目くらいまでのエントリはだらだらします(いつも以上に、という意味です)。Guy Claxtonという人が書いた"Hare brain, Tortoise mind"という本を随分前に読んで、ブログに書評を書こうと思っていたんだけど、全然うまくまとめられないので投げ出していた。せっかくだから書きたいので、うまくまとめるという目標を放棄して、だらだらと書きます。ま、五回くらいに収まれば、と思ってます。

認知科学の成果を一般に紹介する、みたいな本で、コーディリア・ファイン『脳は意外とおバカである』や、池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』のような感じ。ただし十年前の本なので最新情報というわけにはいかない。とはいえ、ダニエル・カーネマンやエイモス・トヴェルスキーの研究も出てきたりして、話題の行動経済学にも通じるものがあったりもする。著者のGuy Claxtonは心理学者で、基礎的な教育が研究対象だそうだ。

正直なところ僕はこの本を読み終える気がしなかった。もうすごい難しいんだもの、英語が。主語があって述語が出てくるまで三行くらいあったりしてさ、もう忘れちゃうよ、主語。だからひと月かけて読み終えたとき、満足感なんて微塵も無くて、ホントに読んだのかオレっていう感じで手応えなしでした。

で、認知科学とか行動経済学とか呼ばれる学問の一端が一般に紹介されると、その度に驚きもあるし考え方を変えなきゃいけないこともある。それでも、じゃあどーしたらいいのよ、という疑問が解消する事はなかったし、その為のヒントさえも滅多に得られない。それはたぶん、実験室の脳と実際の脳*1に差があるからなんだと思う。なので、人間の本性が実験であぶり出されても、僕たちがその結果を活かすには通訳のような実践者のような人*2が必要なんだろう。

で、この本はその学問の結果を活かす事を真剣に考えている。目標は、言うなれば、詩人の様に考えること。たとえば、人が閃く仕組みを考察し、古典や先人たちの言葉を参照して検証する。そうすれば詩人の心が得られるというわけだ。

本書のタイトルはウサギと亀のお話からつけられていて、「ウサギ脳と亀ゴコロ」とでも訳しましょうか。

Claxtonは本書で二つの造語を使って、脳の機能を説明していく。一つ目は"undermind"で、こちらが亀だ(こち亀だ)。試みに訳せば下心、じゃなくて「奥心」という感じでしょうか。無意識というより、無意識の持つ機能という感じ。奥心こそが知性なんだよ、ということが言いたいらしい。で、二つ目。意識的に計算したり推測したり決断したり記憶したりする能力を、"d-mode"と呼んでいる。"d"は"deliberation"=熟考と"default"=初期設定から取られている。こちらがウサギ。脳にはウサギと亀、二つの機能がある。人はこの二つの機能を使って、感じたり学んだり考えたりする。で、この本のメインとなるメッセージは、

D-mode and the slower ways of knowing work together, but they can get out of balance, and lose coordination.(p.86)

試訳:d-modeとゆっくりと学んでいくやり方は、ともに協力して機能するものだが、バランスを崩し、協調を失うこともある。


という箇所がよく表していると思う。「ゆっくりと学んでいくやり方」は僕の訳がヒドいが、"undermind"、つまり亀のことだ。Claxtonは現代の欧米文化は、d-modeの能力を過大評価している、という。それこそが、現代人の人生に対する不満や恐怖、不安や絶望につながっているのだ、と。また、本書でもそのようなd-mode偏重文化を作り出した犯人として、デカルトがあげられている。なんか最近読む本はデカルトの悪口しか書いてないよな、と思うのであった。

んで、ウサギと亀のバランスをとる、というのが目標なわけだけど、じゃあd-modeとはなんなのか。どんな特徴があるのだろう、というところで今回は終わります。


書きました:その2 その3



*1 マッドサイエンティストな話じゃなくて、やっぱり実験室で起こることは現実の模倣であって、現実とは違うんじゃないですか、ということ。

*2 マインドマップのトニー・ブザンとか、『影響力の武器』のロバート・B・チャルディーニとか。

2008年8月7日木曜日

書評・「男の子が心をひらく親、拒絶する親」ウィリアム・ポラック

cover
男の子が心を
ひらく親、
拒絶する親
ウィリアム・ポラック

男の子たちは「男の掟」を守るために全力を尽くしてしまっている。彼らは傷つき、うつになり、自殺していく。成人男性であっても耐えられないようなプレッシャーに、少年たちは日々さらされている。本書『男の子が心をひらく親、拒絶する親』は、そうした「男の子だから」で済まされてきた彼らの想いを探った本だ。著者のポラックは心理学者で、彼のサイトをみると、少年の発育と教育、男性の性的役割(暴力、自殺、うつを含む)、職場の暴力、ジェンダー研究、子育てなどなど、すごい専門家ですよ的なことが書いてある。本書には臨床心理士という肩書きが最初に来ているので、そこが大事なところのなのかもしれない。本書は多彩な事例が満載で、そこが説得力の源泉でもある。

ポラックが本書で一貫して主張しているのは、男性は「男の掟」に縛られ、不幸な人生を送っている、そしてその苦しみはほんの幼い頃から始まるのだ、ということだ。では「男の掟」とはなんだろうか。
  • 何者にも動じないこと(感情を表に出さない。怒りだけは可)
  • 挑戦的で向こう見ずで暴力的であれ
  • 人の上に立て
  • 女々しくなるな


と、こんな具合。一種の世間体ってことだけども、これに縛られると、男性はつねに他人の目をうかがって生きなければならない。寂しさや不安を誰かと共有することも出来ず、休日にイチゴジャム作りに精を出してもいけない。本書を一読して思うのは、アメリカの学校の「男の掟」って怖ぇー、ということだ。日本の学校でここまでのことってあるかなあと思うけど、コミュニティによってはあるのかも知れない。ただどこだろうと共通しているだろうと思われるのが、掟に縛られると、感情を表に出さなくなるということだ。だから常に不機嫌だし、何を聞かれてもウザったそうな反応しか返さない。なんか自分のことを書いているみたいだけど、まあそうなんですよね。

今も母からメールが来て不機嫌になってるところだし。オレは頑張ってコミュニケーションとろうとしてんじゃん。返事の第一声がそれかよ、という不機嫌。まあ第一声に関しては0点の人だから意外ではないんだけども。親の立場を意識しすぎてしまうんでしょうね、それでこっちはグサグサ傷ついてるわけですが。この、「そんなこと言われたら傷ついちゃうぜ」というのが、男は言い出せない。男の子も言い出せない。幼稚園にいく頃にはもう言い出せない。

女の子に対して、「女は女らしくしろ。男に従え」なんて言ったらもう虐待を疑われてもしかたがない。でも男の子には言う。寂しくて泣いていても「我慢しろ」。早過ぎる親離れを強いられて教室の隅でもどしてしまう男の子は「母親と密着しすぎている。特殊クラスへ入れろ」。

男の子を苦しめるのは悪の化身のような大人たちじゃない。善良で、子供のためになにができるか真剣に考えている人たちだ。しかし、そのような人たちが、男の子と感情的なつながりを保つことに不安を感じている。その不安の原因は何なのか。ま、見栄だったり偏見だったりするんですよねー。

けがをして入院したクリストファー君の話。無事退院したものの、やがてうつ病と診断された。10歳だった。「入院中は両親はかまってくれたが、退院したら妹にばかりかまう。僕を無視している」という。彼はもっと甘えたかったけど、両親はそんなことではやっていけなくなる、と考えた。別に虐待ではない。が、クリスは寂しい、甘えたいという気持ちを表にだせないから、うつ状態になるまで両親は息子の苦しみに気づかなかった。うつ病が死ぬ病気であることを考えるとぞっとする。

甘やかすと依存心が増すというのは神話といっていいのじゃないだろうか。土居健郎の本を読むとそんな感じがするけども。ともかく、この両親が善良な人たちであることは疑いようもないんだけど、「世間でやっていけるかどうか」を子育ての基準にはしないでほしいもんだ。僕の場合だと、両親の離婚もあって20歳ぐらいまでは完全に放置されていたけど、大学を留年するようになって母は僕が「世間でやっていけるかどうか」が気になりだしたみたい。ま、その危惧が現実のものになっているけども。たださんざん放置しといて、高校は酒浸りの日々だった子が大学行っただけで上手く行くとは思えないでしょうよ。

本書の後半には両親が離婚した場合について書かれている章があって、もうここは嘆息しっぱなし。離婚後、子供の面倒を見るのは圧倒的に母親が多いが、母親の負担が激増して子供は放っておかれる。子供と連絡すらとらなくなる父親も多い。この場合、多くの父親がうつ状態になっている。母子家庭にたいする偏見がさらに親子を孤立させる。

世間の圧力と親がどう戦うのか。これが大問題だろうけど、根が深いというか、解決することなんてないんだろう。親が世間体第一で子育てをしていたことを認める、ということは自分の失敗を認めるということだし、そんなのはあり得ない。時が全てを変えるのをじっと待つしかない。

救いがねぇな、と思うなかれ。本書には確かに既に手遅れ(子供が成人してる)な例もたっぷり出てくるけれど、そんな馬鹿げた掟に従わず、勇気と優しさで幸せに生きている男の子たちのエピソードも多い。実にさわやかな話が多いので一つ引用しよう。

 ジェイソンは野球、フットボール、バスケットボール、サッカーの全種目で正規部員として引き抜きを受けた高校スポーツの花形選手だ。その彼が、男子生徒が自由に語り合えるクラブをつくろうと思いついた。
「僕たちはみんな抑圧を感じているのに、それを語る場がないんです。だから、からかう奴は入室禁止という規則にして、誰もがお互いの気持ちに耳を傾けて助け合う場が必要だと思ったんです」
 ジェイソンの提案は校長の支持を得て実行されたのだが、たちまち参加者が殺到して、いくつものグループをつくらなければならなくなった。校長先生は「男の子たちがつながりをもつために自分たちだけの場を望んでいたなんて想いもかけませんでした」と私に語った。


ジェイソン君だから出来たんじゃないの? ともちろん思うけど、彼のようなスターみたいな子でも、やっぱりそうなんだ。「からかう奴は入室禁止という規則」は、ここでは世間体は気にするな、ということだ。そのような場が家庭にあれば、子は強く育つだろう。まずは大人が世間体を家庭に持ち込まないというのはどうだろう。地域社会が衰退しているとか言われてるし、これはどんどんやりやすくなっていると思うのだけど。

cover
菜根譚
洪自誠
本書は男の子とどう接していけばいいのか、そのヒントに満ちている。何でもいいから共同作業をしなさい。いきなり核心をつく質問をしないで、時間をかけなさい。彼が苦しんでいることを認めてあげなさい。大人でも不安で寂しい時があるんだよ、と告げなさい。などなど。そう、この本は人付き合いの本なのだ。別に男の子だけじゃない。目の前にいる人を人として扱う、そういう本だ。だから『菜根譚』なんかと合わせて読んでみてはいかが?