デフレ不況 日本銀行の大罪 田中秀臣 |
本書は経済学の本であると同時に、経済学者がジャーナリスティックな視点から日本銀行を批判した本だ。なので、まず日銀の社会的に問題のある言動が紹介されて、その上で日銀の経済学的なおかしさが解説される。ので、経済学に馴染みのない人でも何がどう問題なのかよく分かると思う。
2009年11月4日に、白川日本銀行総裁は「デフレリスクによって景気が上下動する可能性は少なくなった」(p.28) と述べている。ところが同じ月の30日には「デフレ克服のための最大限の努力を行っていく」(p.30) と正反対のことを変な言い回しで述べた。この変身イリュージョンの理由は、この間に日銀が否定してきたデフレを政府が認めてしまったことなのだが、さらに翌12月1日の政策決定会合の結果日銀は「広い意味での『量的緩和』」(p.31)を実施することを決める。
この茶番じみた退却ならぬ転進からわかるのは、日銀は自分たちの主張する日銀流理論を国民の前で堂々と実行する度胸もないということだ。普段は日本経済の低迷は国民の自信がどうのこうのと日銀大好きっ子ちゃんたちと盛り上がっているのに、政府の偉い人が近づいてきたらまともに言い返すことすらせずに従ってしまうのだ。日銀はそういう意味でも最低な組織だけども、本書ではブラック企業と見紛うほどの愚かな振る舞いも描かれている。そういう意味でも最低だ。
ところで話は変わって、恥ずかしながら、僕は世間でわかりやすいと評判の池上彰氏の本を読んでもちっとも理解が進まない。たぶん、僕がちょっとでもいいから全体像が見えないと何かを覚えることが出来ないからだと思う。池上氏の本は、僕のようなオツムを持った人間からすると、電話帳をまるまる覚えなさい、と言われている気がして気分が暗くなる。
とはいえ、全体像を伝えるのは勇気のいることだ。人類史上、次の曲がり角の先に何があるのか知っている人間はいないのだから、僕たちが持っている全体像なんてものは、あくまで感覚、印象でしかない。だから、全体像を伝えようと思えば憶測や曖昧な部分が必ず出てくるし、時には曖昧な部分同士が矛盾したりもするだろう。そしてそこは突っ込みどころになってしまう。
にもかかわらず、本書では著者が持っている全体の印象が伝わってくるようなところがあってとても新鮮だった。それは目次を見ただけでもわかる。まずは日銀の最近の言動を扱った第一章「責任逃れの「日銀理論」」、次に、その国際的な評価についての第二章「世界が酷評する日銀の金融政策」、そして、じゃあ歴史的にはどんな感じなのか、という第三章、第四章「昭和恐慌の教訓」「日本銀行、失敗の戦後史」、さらに、国民に人気のある説の問題点を描き出す第五章「「構造改革主義」の誤解」、ではどうすりゃいいんだい、という第六章、第七章「中央銀行の金融政策」「リフレ政策――デフレ不況の処方箋」と、これでもかという全体像である。
本書は専門的な本ではないけど、そのおかけで経済学からは微妙にずれた話も語られる。二箇所引用しよう。
(アメリカの中央銀行FRBの議長、バーナンキは)2005年10月に行った上院での証言でも、物価と経済成長の安定、そして市場とのコミュニケーションを円滑に行うためにインフレ目標導入を行うべきだという持論を語っています。
このバーナンキの証言に対して、委員会のメンバーから「インフレ目標を採用することによって物価安定が優先され、雇用が確保されないのではないか」という質問が出ましたが、それに対してバーナンキは「インフレ目標は物価と雇用の安定の両方に貢献することができる」と言い切っています。
[pp.78]( )内は引用者
アメリカでインフレ目標が公式な導入に至っていないのは、「連邦準備制度の目的規定(連邦準備法二A条)とのダブルスタンダードになる」という反対論があるためです。
(略)
アメリカ議会でも雇用重視の意見は強く、このためにインフレ目標論者として知られるバーナンキがFRB議長となった現在も、インフレ目標を公式にFRBに導入することはできないでいます。
[pp.251]
アメリカの金融政策 金融危機対応から ニュー・エコノミーへ 地主敏樹 |
政策討議のなかで、長期のインフレ目標発表を推す意見も提出されている。グリーンスパン議長が「それは立法問題だ」とかわしたので、本格的な議論とはならなかった。
地主敏樹『アメリカの金融政策』[p.210]
突き詰めれば国民が決めることだ、というわけだ。さらに96年の7月の会合では、
なお、この会合は一年に二回ある二日間会合で、余裕があったことから、一日目の午後に十分な時間をとって、賛否両サイドに一名ずつの報告者を準備したうえで、長期的なインフレ目標(the long-term inflation goal)について特別セッションを設けている。グリーンスパンは、そのオープニングで「この問題については、(FOMCの投票メンバー)12名だけでなく、(残りの地区連銀総裁7名も加えた)19名の合意」が必要と述べている。
地主敏樹『アメリカの金融政策』[p.260]
手法はどうあれ、物価と雇用の水準を決めるには、民主的な基礎づけが必要だ、というのがバーナンキの前任者の考えだったようだ。おそらくバーナンキも合意形成を重んじるだろう。議事録の公開は5年後(日銀は10年後)だから、実際のところはまだわからない。なので、本書『デフレ不況』は、そういうまだ分からないところに、踏み込むとまではいわないけど、全体像の中に組み込んで経済を描き出している。そういうふうに説明してくれるのでちょっと妙な説得力を持っていると思う。
で、このブログの前回のエントリーでは、消費者物価指数(CPI)の誤差についての僕の思い込みについて書いたのだけれど、本書でもCPIの誤差は問題視されていて、前回コメント欄でmaedaさんが紹介してくれた論文が参照されている。著者はCPIの誤差は無視出来ないと考えているようだ。こうなってくると僕のような素人ができることは、CPIの誤差についての新しい検証と議論を待つことだけだ、と改めて思う。正直に言って、CPIのバイアスの話は日銀批判の武器とするには時間が経ちすぎたと思う。日銀にしてみれば国民があまり興味を示さない話題は、じっと待ってやり過ごすという戦略がとても有効なのだろう。そして大手新聞がCPIの誤差を問題視するなんて日はたぶんこない。「日本のCPIのバイアスは無視できる程度」という日銀の従来の主張に根拠はなさそうだと僕も思うけれど、そうやって寝技に持ち込んで時間を稼いで曖昧にしてしまうという官僚お得意の手が上手く決まってしまっているように見える。
本書を読んで、日銀は批判に対して「〇〇だ」「〇〇でない」と一点張りをする傾向があるように感じた。CPIの誤差についても「ない」だし、バランスシートをもっと膨らませるべきだ、という批判にたいしても「増えている」だ。そしてそこで議論が終わってしまう。で、こういう白か黒かの二分法を使って勝利宣言しちゃう相手には飽和攻撃しかないと思う。つまり正攻法だ。
都合よくスキャンダルでも持ち上がれば、国民の注目が殺到して、あっというまに日銀の処理能力の限界を超えてしまうだろうけど、そんなものを期待するわけにもいかない(経済学的には相当スキャンダラスな日銀ですが)。そうなると、専門家ではないけどリフレ政策を支持する僕たちにも「CPIの誤差」とは別の使い勝手の良い武器が欲しいところだ。スキピオが扱い易い短めの剣、グラディウスをローマ軍に導入してザマの戦いに勝利したように。
本書を読んで、コレは、と思ったのは、政策決定会合の委員の決め方が恣意的すぎるということ。委員は日銀総裁が選んでいて、その基準は特に無いそうだ。どうりで日銀に従順な人ばかり選ばれるはずだし、昨年11月の政府による「デフレ宣言」を挟んで、委員同士で議論をした様子もないのに日銀の主張がガラリと変わったのもうなずける。議論なんてする必要が無いのだろう。FOMCがカッコ良すぎて生きるのが辛い。
ただ、この点を攻撃しても、結果が出るのはいつの事になるのかわからない。正攻法なんてそんなものだ。でも、この批判に対しては「日銀法に則っている」以外の反論は難しいだろう。まさか金融政策をはじめマクロ経済政策の専門家を揃えています、とは言えまい。であれば、日銀法の改正の機運を呼び込めるかもしれない。あるいは日銀が批判を気にしてリフレ政策に理解のある人物を委員に任命するかもしれない(そして手懐けようとするかもしれない)。まあ先の長い話ではある。経済成長の恩恵をたっぷり受けておきながら、その価値を否定するような空気が充満しているのだから時間がかかるのは仕方がない。いずれにしても、いつの日か国民の関心が日銀に向かったときに、お手軽な武器があるといい。僕は委員の選抜がテキトーすぎる点を強調するのがいいと思う。
で、事態がどう転ぼうと、やっぱり、どう考えても経済学の議論に決着をつけるのは日銀の仕事ではないわけだ。リフレ政策に賛否があるのはよいとして、なぜ日銀が裁判官、それも首狩り判事みたいに特別質の悪いヤツのように振舞っているのか。著者がいうように、これは民主主義の問題*1なのだ。本書がその問題を考える契機となればいいな、と思う。