なんか書評ばっかりだけど、ま。おもしろい本、というかなんだろう。Charles Murray "Real Education"という本。
コチラのブログに素晴らしい記事があるので、続編も含めて是非どうぞ。
Real Education Charles Murray |
また、ここでいうIQが高いというのは上から10%の人々のことを指し、ごく少数の選抜されたエリートという意味じゃない。つまりどこにでもいるちょっと目端の利く人といったところ。
で、著者の言う教育制度の問題点は、この「向き不向き」を無視したところにあるという。それは、例えば僕には身体能力的に絶対に無理なバク宙をやらせるようなもので、そんなものは「やればできる」とか「チャレンジすることに意味がある」的な言葉でごまかした辱めでしかない。さらに本書にある例をあげると、かけ算ならばほとんどの生徒が習得できるが、微分積分となると三分の一の生徒しか習得できないという。残りの三分の二の生徒は努力をしても微分積分を使いこなすのは相当に難しいし、また努力の甲斐あってハイレベルなクラスに進学できたとしても、少しの労力で理解できる生徒と共に過ごす時間が増えるわけだから、彼らに追いつくためだけでも更なる努力が必要だし、もちろん彼ら程優れた結果は出せないし、「自分はできる」という満足感も得られなくなっていく、という。この「向き不向き」を無視した努力が本人を幸せにするのか、というのがこの本の出発点といっていいと思う。この本は学業に向いている人々をメインに扱っているが、常に「向き不向き」が問題になっている。だから学業以外のことに向いている人々には彼らに相応しい教育制度(職業教育を含め、より実践的なもの)が必要であって、不向きなことをやらせて低い評価を与えるなんてことをしている場合じゃない、としている。
で、学業に向いている人々は複雑な問題を扱うことに向いているので、放っておいても組織の運営に関わる地位に就いていく。その組織のというのは地元のボランティア組織から企業、国家にまで多岐にわたる。つまり学業に向いている人々が文化的社会的に直接的な影響力を持っている、ということになる。なぜなら、彼らがスケジュールをたててリソースの分配をし、新聞記事を書き、テレビ番組を作り、法案を準備したりするわけだからその影響力はかなりのものだろう。
そこでMurrayは、彼らは本人の努力でもなんでもなく不当に高いIQをもって生まれたのだから、現状のような事実上の特権*1なんぞを与えるのではなく倫理的な使命を負わせるべきだという。今の大学生たちはおおむね優しくて良い子たちだが、現在の教育システムを通して「みてみぬふり」という態度を身につけてしまっている。そのことが、基本的には善良だが肝心な時に無責任な態度を見せてしまう大人を作っている。
で、どうすりゃいいのよってなるわけだが、その前に、どうしちゃいけないのか、ということが書いてある。自分に自信がないので云々というのはよく聞くが、じゃあ自信があるとあなたの秘められた能力が開花するの? という一瞬まごついてしまう疑問を著者は投げかけている*2。僕も、そして僕の友人たちも、まあ自信からはほど遠い人生を送っているし、たしかに自信が持てればなあ、と思うこともある。が、最近の研究の示唆するところは、高い自己評価は、心理的な健全さ、学問的な成果、収入のどれとも関わりがないっぽいよ、ということだそうだ。だから子供たちの自己評価を高めるためになにかする必要はないよ、ということ。
夏目友人帳 緑川ゆき |
で、どうすりゃいいのよってことでした。答えは簡単、倫理教育。学業に向いている人たちに特別コースをもうけて倫理を教えろ、と著者は言う。うー、僕としてはここで疑問がある。倫理なんて教えられるのか? 権威にひれ伏すなと権威を使って教える? ここでポパーを引用しよう。長いけど。
これ [教育制度による選抜をポパーが批判したこと:引用者] は政治上の制度主義の批判ではない。それは以前に言ったこと、われわれは当然最善の指導者を得るように努力すべきではあるが、常に最悪の指導者に備えるべきであるということを追認しているに過ぎない。だがそれは制度、とくに教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能な課題を追わせようとする傾向に対する批判である。このようなことは決して制度の課題とされるべきではない。このような傾向は教育体系を競争場に変え、学科課程を障害物競走に変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますのではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければならない障害を越すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。換言すれば、科学の分野においてさえも、我々の選抜の方式というものは、やや粗野な形の個人的野心への呼びかけに基づいているのである(熱心な学生が仲間から疑いの目で見られるというのもこの呼びかけに対する自然な反応である)。知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥れるのである。
カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』p.138
で、文科省が倫理教育のカリキュラムを決めるとかやっぱむりだよ、と思うのだ。それとこの本全体に言えることなんだけど、長い時間をかけた人の成長をあまり考慮に入れていない。これはおそらく統計的に把握しずらい現象だからかなと思う。そしてそれ故に、IQですべてが決まると主張している、という印象を抱かせているのだろう。ただ一カ所だけ、「たとえ学業にとても秀でた子でも、高校を卒業してすぐに大学に入るのは正しい選択ではないかも」みたいなことは言っていて、著者が人の成長に鈍感であるというわけではないようだ。あくまで統計的に観察できることをベースに考えるということなんだろう。
なので、Murrayがいう倫理教育というのはもっと基礎的なことであって、ポパーが心配するような「知性の生命」の危機とか権威云々とかそういう事ではないのかもしれない。もっと統計的に観察できるような汎用性のある倫理教育の事なのかもしれない。そしてMurrayの自信は次のアリストテレスの考え方が倫理教育を押し進める最大の原動力になるという確信から来ている。それは「人生の最も根源的な喜びの一つは、己の能力を自覚し発揮することである」というもの。つまり学業に向いている人々は倫理的な生き方を模索することに「向いている」しそれを楽しむだろうということだ。
IQの事もあって、かなり否定的に受け止められるだろう本書だけど、僕は妙に納得してしまった。倫理教育への疑問はあるけど、「向き不向き」とそれを無視した努力の悲劇は、あまり他人事じゃないなあと思ったり。努力家の負のオーラに巻き込まれてしまうこともよくあるし。
「学力低下が問題だ」と言う人はたぶん学業に向いている人たちなんでしょう。だから学業には向いていない人々の違和感が分からないんじゃないだろうか。本書はその違和感、「自分には絶対にできないと分かっていることをなぜやらなきゃならないのか」という違和感を伝えるために、具体的なテスト問題とその解説をしたりもしている。そんなこんなで、自覚を促されるような、そんな本でした。文は読みやすかったです。難しい単語も少ないし。
*1: 著者は、現状では学業に向いていることが有利になりすぎているという。例えば、その職種と学歴に本当になにか関係があるの? みたいな場面でも学歴が重要視されたり、複雑すぎて多くの市民が利用を諦めてしまう制度など。
*2: そんなにはっきりとは投げかけてないです。ちょっと大げさに書きました。