池田勇人は昭和24年に大蔵大臣に就任した。この『占領下三年のおもいで』(以下『おもいで』)という文章は、それから3年間の出来事を実業之日本編集局長山田勝人に語ったものを編集したものだ。文庫本で100ページ近くあり読み応えのあるものになっている。
で、タイトル通り、占領時代の話なわけで、「はしがき」に次のようにある。
記憶をたどってみると随分面白い話がある。しかし、なにぶんにも生々しいことが多いし、日本も国際社会に独り立ちするようになったのだから、よその国に直接迷惑の及ぶ話しはしないのが礼儀である。それから、個人的な攻撃にわたることもいうべきでない。あの人のためにひどい目にあったという想い出ばなしは、「交断つとも悪声を出さず」という君子の道徳に反する。[p.219]
さすが19世紀生まれ、という感じです。つづいて、世の中から学者といわれるような人がソ連を含んだ全面講和がなされないのなら占領継続のほうがマシ、とかいう人がいるけど信じられないよ、と述べて本文がはじまる。
『均衡財政』では戦後の経済を立て直す政策の解説をしたわけだが、『おもいで』ではその政策を決定するまでのいきさつや、あるいは実現されなかった政策について語っている。
さて、池田が蔵相になったのはドッジの来日直後であった。
私は、昭和二十四年の二月に大蔵大臣になったのだが、それはワシントンから日本経済安定のための九原則が出されて、ドッジがその最初の具体化のために日本に来た直後だった。その時まで、日本の経済はインフレーションの渦巻のなかで崩壊の一歩前にあり、国の予算なども、四、五ヶ月に一度位ずつ補正予算を出す有様で、おまけに国会に安定勢力がなかったから、多い時は数回補正予算を出したことがあったと思う。そうなると、それはもう予算というよりは、大福帳に近いもので、国がその日暮らしをしてきたわけである。ワシントンでも、この有様をこれ以上放置しておけないとみて、ドイツで腕前を示したドッジを東京へ送ったわけだが、丁度一月の総選挙で、民自党が絶対多数をとったために、国内的には、腹さえ決まれば、かなり強引な手術ができる基盤はあったわけだ。[p.220]
ドッジと池田はまず政府の補助金を大きく減らすことで一致するが、この案が司令部では随分と受けが悪い。
[学者の他に:引用者] また司令部内でも、ニュー・ディールの系統を受けた若い理論家達が多かったので、ドッジと私との一致した結論には内外に猛烈な反対があった。[p.221]
二人は反対を押し切ってしまう。そして、
その時ついでに、もしこれが巧くいったら、三年間のうちに全部補給金を切ろう、最後に主食が残るかもしれないが、そこまでゆけば、その時米の統制撤廃ができればよし、できなくとも補給金の額は知れたものだという話をして、二人の間で三年先の約束をした。この約束は九分通り達成されたわけだが、朝鮮動乱が起きて、中共が介入してきたために、今日に至るまで米の問題だけが解決できないでいる。[p.222]
もう一つできなかったのが減税だ。池田の意を察した民自党の幹部がドッジに掛け合ったのだが、
占領軍が日本の国内のポリティックスのために動かされたといわれるのがいやだったから[p.244]
という理由で断られてしまったようだ。池田とドッジは大まかな方針では一致しつつも、具体的な政策では常にもめていた。で、その大まかな方針というのは、財政を均衡させながら国民の生活水準を高めるというもの。
彼[ドッジ]は古典的資本主義の信条を持ち、またその方法論を適用して日本の経済危機を救ったのだから、なるべく金のかからぬ政府を作ろう、という根本的な方針には賛成の人ではあるのだが、冷酷なまでに徹底した信念は、時として、私を困らせることがあった。[p.225]
そうしてインフレが収まると、こんどはデフレの危機が迫ってきた。『均衡財政』にもあるが、池田はリフレ政策の承認を得るために渡米することになった。その前にマッカーサーと面談することになったのだが、その様子が面白い。長く引用しよう。
私は昭和二十五年の四月、渡米するに先立ってマッカーサーと会った。有名な何とかいう百姓のようなパイプを右手にしてマッカーサーが開口一番「金は、」といった時、サスペンスもあり十分な役者であったが、その説くところの深いのには感心させられた。彼は要するに「金」は何世紀の間人類の交易の手段であり、したがって和解の手段であった。ところが、今やその大部分が米国に集まってしまった結果、各国の間の交易の手段は失われんとし、それにしたがって和解の道も閉ざされようとしている。しかも、金に代わるものはまだ生まれていない。その結果としてアメリカには「過剰のための貧困」があり、丁度日本の「貧困のための貧困」と対照をなしている。いずれも困難な問題である。というのである。「金」に代わるものは「信用」なのだ、と私はいおうと思ったが、マッカーサーは一度話し出すとなかなか雄弁で止まらない。「そもそも大蔵大臣というものは」というのが次のセンテンスの始まりで、大蔵大臣は国民から憎まれることをもって職とせねばならぬ(彼がこの時腹の中で、私がその一月ほど前にいった中小企業の五人や十人つぶれても云々ということばを想い浮かべていたことは明らかである)、何となれば、大蔵大臣の職務はできるだけ国の費用を切り詰め、国民の租税負担を軽くすることでなければならぬ。支那の王道は、国民の税金を減らすことを最高の目的とした。古今東西政権の交代をみるに、政道にある者が奢侈にわたれば必ず百姓は一揆し、逆に質素を旨とする王者は長く民生の安定をえている。そこで、貴下の当面の問題は、まず日本国民の税金を減らすこと、それから官吏の給料がいかにも低いから、これを適当に引き上げて、徐々に国民生活の向上をはかることであろうと思う、というのがマッカーサーの考え方の趣旨であった。[p.226]
立派な考えだなあと素直に思います。池田もその点を認めていて高く評価している。が、
ただ、これだけ立派なマッカーサーの考え方が、時として、実際の司令部の行政の上に十分に反映されなかったのは、遺憾というほかはない。[p.227]
反映されなかった理由として、マッカーサーが孤高の人なので、彼の考えを周囲はよく理解できなかったし、彼の考えの勝手な解釈が司令部にあふれて、衝突し、統一のとれぬまま日本政府に押し付けられたため、としている。
さて池田の渡米は経済政策の承認をドッジから得るためだけではなく、経済の好転から独立の気運が高まったきたために、ワシントンに打診するためでもあった。と、ここで先に進む前に、当然の疑問に答えている。
経済問題については、一見、東京の司令部の承認さえ得れば、よさそうに思われるかも知れないが、その時すでにドッジの名は、日本の経済再建から切り離せないまでに高く、彼と交渉せずに、東京の司令部が独断で、財政経済政策の決定をすることは、事実上困難であった。むしろ前にのべたように、当初ドッジの補給金削減案に反対した東京のニュー・ディラーたちは、私などに対しても冷ややかな態度であっただけに、吉田総理としては、東京の司令部の威厳を損なわぬように非常な努力を払い、私の渡米問題についても、マッカーサー元帥とは十分打ち合わせをしたようである。[p.229]
そして渡米と相成るわけだが、彼の地において、一行は「高からず安からぬ中位のホテルに入れられ[p.230]」余計なことを言って東京の司令部を刺激しては困る、ということでタイトなスケジュールが組まれていたそうだ。ここで白洲次郎が登場してくる。
同行した白洲次郎君ははじめ一日くらいは行動をともにしたが、二日目くらいから、自分は財政経済は全然分からぬから見学しても無駄だ、昔の友達がたくさんいるから、油を売ってくる、といい出し、彼だけは行動の自由を確保した。昔の友達というのは、ロックフェラアとか、グルウだとか、政府の役人にとってはうるさい人ばかりで、そこへ出掛けて、白洲君が何をいい出すか分からぬというので、陸軍省や国務省の人は随分気を揉んだらしい。何しろ、日本政府の代表者が占領軍のワクの外で物をいう最初の機会であったから、白洲君は十分に自由を行使して、講和の最初の固めをしたようだが、詳しいことはここではのべない。[p.231]
その次の文は随分謎めいている。
私は吉田総理から一つ「大事なことづけ」をされていた。それを然るべき人に然るべき場合に伝えるのが、他の経済問題より遥かに重大な使命であった。その機会をねらっていたが、色々考えて、結局、ある土曜日の午後、人気のない陸軍省の一室でそれをドッジと、日本問題を担当しているリード博士に伝えた。ドッジは国務相の顧問をかねていたので、これを伝えるのに不適当な人では無論なかったが、あえて彼を選んだのには少しわけがあった。そのわけはいずれのべる時機がくるだろう。[p.231]
さて、独立についての話は、というと、
結論だけをいえば、当時のワシントンの空気は、国務省は、占領が長びくと問題がうるさいから、とにかく、日本を独立させてしまえという論であり、国防省はあれだけの国をみすみす共産勢力に渡すわけにはゆかない、占領にあきてきたのはわかるが、それならばできる限りの自主権を日本に与えるいわゆる「戦争終結宣言」というような形をとるのがよくはないか、ただし、マッカーサーは一足飛びに講和条約に行けという主張だから、うまくこれに賛成するかどうかわからぬ、仮に賛成しなければ勢い現状維持ということになっても仕方がない、という考え方をしていたようである。[p.236]
均衡財政 附・占領下三年の おもいで 池田勇人 |
米の統制撤廃は、インフレの間は農家に非常に人気のあるスローガンだったので、政治家達は声高に訴えていたけど、インフレが収束していくと、とうの農家が統制撤廃に反対しはじめた。つまり、物不足のうちは、いくらでも高く売れるのだから価格統制なんて邪魔以外の何者でもない。市場価格のほうが公定価格よりもかなり高いのだ。だからヤミで随分もうけた農家がいる。が、物の生産が回復してくると、当然、物の値段は下がる。だから今度は価格を統制して、市場価格より高く売りたい、というわけだ。補助金の問題というのは大体こんな感じなんですね、今も昔も*1。
この後は司令部とのうんざりするような交渉、朝鮮戦争の勃発、講和条約のための国内調整(ここでは麻生太郎総理大臣のご両親が登場する)、そして講和会議の様子が描かれている。どれも無類の面白さなので、是非読んでみてください。最後に池田がとくに記しているフランスの外務大臣ロベール・シューマンの講和会議での演説を引用しよう。
「条約が寛大なのはただ人類愛からそうしたのではない。勝った者が負けた者をむやみにいじめても、結局、強い者は再び頭をもたげてくる。そういう現実的な考慮が今度の条約の底に流れている」とのべ、「フランスとしては今日のように不安な世界でこういう条約を結ぶことに、多少の危険がともなっているのは知っている。しかし、ひっきょう世の中に、絶対たしかだというものは無いのだから、まずまず危険の少ない方を選ぶしかないだろう」。最後に「われわれの平和のための努力を、たえず組織的に、また継続的に、曲解をするむきがあるのは遺憾だ」といったが、ソ連の名もあげず、だからどうしようともいわずに、ひょこひょことまた壇を下りて行った。
ことばも簡潔だが、いっていることがおよそ現実的で、どこか地方の村会の、年寄りの議長の報告を聞いているようであった。[p.310]
*1:米の補助金って今もこんな感じなんでしょうか? よくしりません。ただ、川島博之『「食料危機」をあおってはいけない』みたいな本を読むと、まあ外国でも当たり前のようだし、問題の規模としても小さく感じるのでどうでもいいか、と思わなくもない。もちろん保護されている分だけ消費者が負担しているわけだけど、当面はしかたないかな、と。