とはいえ
その1
その2 d-modeとはなにか)
Hare brain, Tortoise mind Guy Claxton |
で、ちょっとおさらい。人の脳は、いわゆる論理的な能力に関して、あまりすごくない。世の中の複雑さに対して、人間が理解できる程度の論理はあんまり力を持ってない。物理学とか数学に比べ、経済学がいまいち結果を出せないのもそのためだろう。対象が複雑すぎる。で、すごくないだけならともかく、そのすごくない論理的な能力を頑張って使っていると、他の能力のリソースまで喰ってしまうので、脳的に全方位すごくない状態に陥ってしまう。脳にとって得意なことをさせずに苦手なことばかりやらせるのだから、意識の上でも日々が辛いものになっていく。このあんまりすごくない論理的な能力を、本書ではd-modeと呼んでいる。deliberation(熟考)、default(初期値)のdからとられている。つまり熟考したり、何か問題が起きた時にそのまま真っ正面から取り組んだりすると、d-modeが脳をコントロールしている、ということだ。
d-modeの主な特徴として、結論を急ぐ、曖昧さや複雑さを嫌う、言葉にひっぱられる(例えば男という言葉。「男のくせに」とかd-modeは言ってしまう。本人を見てない)、上手く説明がつけば事実はどうでもいい(例えば、アイツがひどい目にあったのは前世で悪い事をしたから、とか)など、人としてろくでもないところが目立つ。最後のやつはどこが論理的なんだ、と言われそうだけど、次の特徴を考えると納得できるかもしれない。それは、完璧な情報があれば事態は完全に説明できる、と思い込んでいる、という特徴。前世の行動が現世に影響すると確認できれば、不幸の原因は特定できるわけで、これは十分論理的だ。が、問題はそんなことは確認できない、ということだ。にもかかわらず、d-modeは「もし前世の行動が現世に影響するならば」という前提に固執してしまう。そして結論を出してしまう。どうも人の差別感情は結論を急ぐ、というところからきている様な気さえしてくる。
d-modeは意識にだいぶ近いが、意識により遠い機能をHBTMではundermindと呼んでいる。無意識と言ってもいいと思うが、もっとオートマティックな感じなんだと思う。コンピューターでいうと、ユーザーが見る事のないバックグラウンドで情報を処理しているような現象を、著者はこの語で指しているようだ。
そして、d-modeは速い。すぐ結論を出したがるし、実際に出してしまう。ということでウサギさんに例えられてる。undermindは亀だ。遅い。小学校時代の記憶と昨日のコロッケが突然結びついて感情がわき上がったりする。どんだけ遅いのかと。で、ま、このウサギさんと亀さんのバランスが大事ですよね、という話なのだけど、現代社会では圧倒的にウサギさんが重要視されているのは問題です、とそうなるわけだ。まあよくあるといえばよくある話。
で、今回はどうしたら亀さんに活躍の場を与える事ができるのか、その方法を考える、ということでした。「詩人のように考える」その方法は、実にカンタン、だって脳の得意なことだから。それは、ただ待つ、だそうだ。ただじっと待つ。
d-modeにコントロールされている状態だと、人はすぐに確実さを求めるが、人が理解できる確実さなど世界の複雑さの前では何の根拠にもならない。確実=みんながそうだから、なんてこともよくある。確実=いままでそうだった、これもすごく多い。これについてはN・タレブ『ブラックスワン』をどうぞ。翻訳は読んでないけど(高すぎる*1)、人の論理的能力の限界がよくわかる本ですよ。
効率よく確実だと思う選択をしても、間違った答えを出してしまえば問題は解決しない。あたりまえ。著者が繰り返しているのだけど、まともなアイディアが生まれるには、それがどんなに突然の天啓のように思えても、時間がかかる、ということだ。まるで妊娠期間のように、アイディアやソリューションにはじっとしている時間が必要なのだ。
では、ただ待つ事がなぜ新しいアイディアや問題解決のひらめきにつながるのか。このことについては著者はかなり細かく説明しているので、僕のd-modeを使ってまとめるのは難しい。それでもざっくり言ってしまうと、問題の解決に意識の焦点を強くあてると、d-modeが思考の主導権を握る事になる。d-modeは効率を重視するので、「馴れた考え方」に沿って問題を扱おうとする。そしてそのこと自体が「馴れ」をさらに深化させてしてしまうので、d-modeを使っている限り、いつまでも同じ考えをぐるぐる巡らすことになってしまう。考えすぎは良くない、というのは誰しも経験していると思うが、その説明になっていると思う。
ひるがえって、ただじっと待つ時、人は何にも焦点をあわせないので、「馴れた考え方」にはまってしまうことはない。が、それだけではアイディアは生まれてこない。新しいアイディアは、今まで脳の中で無関係だった情報同士が、新たにつながる事で生まれると考えられる。そのためには刺激が必要なのだ。
刺激といっても奔放な性体験とかそういうことじゃなくて、一年前に観た内容も覚えていない映画の漠然とした印象とか、友達から借りパクしたゲームの思い出とかそんなことだ。さっき読んだ本の細かい内容が今意識的に思い出せないからといって(あるいは、d-modeで扱う事ができないからといって)、その情報が頭の中から消えてしまったわけじゃない。意識できなくても脳はundermindで情報を処理している。そしてそういった事に思いを巡らすことが刺激になるのだ。ただし焦点を絞りすぎない(low-focus)状態で。
この状態はただ待つ、というよりも、瞑想している、といったほうがいいのかも知れない。瞑想のことは(も)よく知らないが、その方法として、follow one's breathということばをよく見かける(気がする)。どういうことかというと、ゆったりと座って、自分の呼吸に集中する。吸ってるなー、とか、はいてるぜー、とか。するとそのうちに、先週定食屋で食べた鮭がおいしかったなあとか思ってたりする。それはそれで思考を遮ったりせずにしていると、やがて思考がおとなしくなるので、また呼吸に集中する。これの繰り返し。座禅もこんな感じなんじゃないのかな? と勝手に思ってます。
この方法だと著者のいう「詩人のように考える」ことになるんじゃないかと思う。著者は、編み物とかがいいよ、と言っている。ぼうっとすることが重要なんだよ、ともいってるけど、そうしているつもりでも、すぐに世界のあら探しをてしまうのがd-modeの特徴でもある。あと、テレビをぼうっと観ることも著者はすすめているけど、コチラの本(池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』)によると、テレビを観てても人はぼうっとしてないみたいです。まあ十年以上前の本ですからその後わかったこともあるんでしょう。
*1:上下巻で一冊1,890円。高すぎる本をおすすめするのも何だか変なので、タレブの前著『まぐれ』もおすすめします。