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2009年8月11日火曜日

ゆっくり生きる 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その3

承前:その1 その2

「ゆっくり生きろ」というメッセージは様々な歌に込められる。僕にもお気に入りの「ゆっくり」ソングがある。斎藤和義の「歩いて帰ろう」とかJack Johnsonの"Inaudible melody"とか。あとはなんだろう、Princeの"Little red corvette"? いやこれは違うだろう。ゆっくりしろ、と歌ってるけども。

自分が無価値に感じられるという問題から目を背けると、自分だけでなく、まわりの人々も深く傷つけるような事態を招いてしまう、というのが前回の話。ではどうしたらいいのか。その答えが「ゆっくり生きろ」だ。

「隠れたうつ病」においては、防衛的行動または嗜癖(しへき≒中毒:引用者)行為によってダメな自分から誇大化した自分へと飛躍するが、そのどちらでもない健全な自己評価に到ることはできない。うつ病の根になっている自己の内面と向き合うことなしには、健全な自尊心を持ちえないからである。どんなにあがいても、内面の痛みを隠蔽したまま癒される道はない。[p.71]


そう、ゆっくりが楽なわけじゃない。むしろ仕事中毒になったほうが、うつの症状には即効だろう。もし人をうつ病にするような出来事や環境があるとしたら、人はうつ病になるべきだ、というのが著者の考えのようだ。そうしなければ「うつ病の根」が放置されてしまう。

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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
今回はデミアンのケースを見てみよう。彼はハンサムで、職業人としても成功している40代後半の男性だ。社会的に成功しているだけでなく、美しい妻ダイアンとの間に四人の子をなし、育てている。何の問題もない夫婦のはずだったが、ダイアンが家を出て行ってしまい、夫婦のセラピーがはじまった。デミアンは妻がおかしくなってしまったと考えていたが、セラピーを重ねるうちに、妻ダイアンは問題の核心に触れた。それは夫とのセックスだった。

著者はダイアンの話から、デミアンは軽度のセックス中毒ではないか、と疑った。彼は2、3日セックスをしないとすぐ不機嫌になり、4、5日ともなればほんの些細な事で妻につっかかってくるようになるという。そうなると彼は止まらない。人前で妻をなじったり、猛烈な癇癪を起こしたりする。ダイアンは彼の怒りに触れないようにいつも注意しなければならなくなる。

ダイアンは夫は悪い人ではない、という。それどころか愛情深い人だともいう。セックスに執着しているとはいえ、浮気をしているわけでもないようだ。しかし、ダイアンは泣きながら「もう、こんな生活は耐えられないわ!」ともいうのだった。23年間、夫のセックス中毒にがまんしてつきあった結果、彼女は家をでて離婚しようと決意した。デミアンはすかさず、「別れるなんてとんでもない!」と叫ぶ。彼は欲求が満たされているかぎりは、やさしい男性でいられるのだが、満たされないと、コントロールできそうにない不安に襲われて、陰湿な攻撃を始める。「彼はどこからか襲ってくる不快感を癒すためにセックスを薬として使っていたのである。」[p.80]

セラピーの効果はてきめんだった。デミアンは妻を支配することなく愛せるようになった。ダイアンも夫の変化を喜んだ。しかしそこで禁断症状が起きた。今まで押さえ込んでいたうつ病が表面化し、入院を考えなければならないほど、デミアンは精神的に落ち込んでしまったのだ。やがて自殺を考えるようにさえなっていった。

デミアンのうつ病の根は、彼が7歳から13歳の間、兄とその友人に性行為を強要されたことだった。彼は長い間その記憶から目をそらし封印してきたのだが、ついに思い出してしまったのだった。

デミアンのうつ症状が重くなり、著者は家族セラピーを決意する。彼の両親(彼らは息子たちの行動に気づいていたが何もできなかった)と兄を呼び寄せ、加害者、関係者を含めてトラウマに向き合うことを目指す。そうすることで治癒の道が開けるのだという。

兄ピーターも両親も、その出来事を否定した。が、泣きじゃくるデミアンを見るのが耐えられない、と兄がついに認めた。ピーターはデミアンに深く謝罪した。そのときからデミアンの回復が始まったという。

実は兄も、近所の男の子から同様の仕打ちを受けていた。一人で抱えきれない衝撃を、弟と共有せざるを得なかったのだろう。彼もまた被害者であった。著者は兄の地元の精神科医の協力をとりつけた。兄にもセラピーが必要なのは明白だった。

 デミアンのケースは、「隠れたうつ病」を癒す道が「表面化したうつ病」であることを如実に示している。まず、嗜癖(しへき≒中毒:引用者)による防衛的行動を認め、それを止めることからはじめなければならない。するとやがて、隠蔽されていた痛みが表出してくる。デミアンの嗜癖行為の背後にはうつ病が隠されていた。そしてうつ病の背後にはトラウマが隠されていたのである。セラピーを通して勇気づけられた彼は、誇大化による自己防衛を止め、うつ病を表面化させると共に、そのうつ病の根になっていたトラウマと正面から向き合ったのである。[p.83]


「隠れたうつ病」の男性の自己防衛は、デミアンが妻のダイアンを深く傷つけたように、人間関係を崩壊させる。あらたなトラウマの種をばらまいているようなものだ。そして始末の悪いことに、自分がその被害をもたらしたという感覚が全くない恥知らずな状態でもある。デミアンも自分ではなく妻がおかしくなったと考えていた。

この本にでてくる男たちには二つの特徴がある。一つ目が恥知らず、である。妻が入院したそのとき、若い娘とホテルでお楽しみだった60過ぎの男(しかもそこに電話したのが長男だったり)。妻が長電話しているだけでブチ切れる男。自転車で前を走っている人を追い抜いていい気になっている男(大人です)。恥知らずの見本市である。そしてもう一つの特徴が、デミアンのケースでいえば「セックスを薬として使っていた」こと。つまり、本書でも後のほうで言及があるが、ある行為を通して「救い」を得ようとしているのだ。そしてそう考えれば、何でもコントロールしないと気が済まないとか、人の気持ちを無視して独裁者のように振る舞うとか、ちょっとのことでえらく不機嫌になるのも理解できる。なんといっても自分の人生が救われるかどうかの問題なのだから。

そこで「ゆっくり生きろ」が重要になる。

 心の病を癒すためには内面の病根を正視しなければならない。精神分析とは科学でも芸術でもなく、根源的な意味でのモラルと関わることだった。それぞれの人が「生きる道」を発見する手助けをするのが、セラピーというものである。男性のうつ病は、人生のいくつもの分岐点で横道にそれてしまった行動の集積だ。癒しへの道は、そのひとつひとつを拾い上げて軌道修正していく、忍耐のいる作業である。[p.229]


そう、むしろゆっくりしか手がない、とも言える。冒頭にあげた斎藤和義の「歩いて帰ろう」の歌詞に「ウソでごまかして過ごしてしまえば、頼みもしないのに、同じような朝がくる」とある。人生の中で「忍耐のいる作業」が求められるから、つい「ウソでごまかして」しまうというわけだ。

話はちょっと変わって、デミアンの体験は過激で特殊なもので一般的ではないのでは、という疑問に、著者は、両親が二週間不在だった一歳児の記録を例にだしながら、こう答える。

 サラエボやソマリア、また大都市のスラム街で育つ子供たちが体験するものに較べたら、幸福な上流家庭で両親が二週間の休暇をとったために起きた傷など、取るに足らないことに見える。子供は逞しいものだ、困難に打ち勝つ術を学ばねば人生を生き抜けない、と私たちは言う。実際、想像を絶する過酷な環境を生き延びた子供たちも多い。しかし、そこに寄りかかって、子供が受ける傷に無神経になってもよいということにはならない。[p.105]


ま、「世の中甘くない」とか言う当の本人が、サラエボやソマリアからみれば甘い人生を送っているわけだしね。そうやって男の子にささいなことでも男らしさを要求することが、そしてその繰り返しが、彼らを深く傷つける。

 また、強くなろうとし、弱点を認めまいとする男の姿勢は自分以外の人に対しても適用されて、弱者への同情心が薄く、思い上がりの強い人間をつくっていく。人間らしい感情を失い、表現力を失うことは、こうしたさまざまなかたちで他者とのつながりの喪失を必然的に招いていくのである。
 多くの女性が自分が受けてきた抑圧をひとつひとつ認知し、自己を有力化(empowerment)する術を見出すことでうつ病から回復してきた。男性は断ち切られた感情を蘇らせ、自分とのつながりを取り戻し、人とのつながりを学び直すことが回復への道なのである。[p.160]


恥知らずで、救いを求めて右往左往する人生が幸せであるわけがない。人は弱いから、そういう人生を生きてしまうこともあるだろうけど、希望は持っていたい。

つづく。

書きました:その4(完)

2009年7月17日金曜日

書評? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その3

承前:その2

もう書評じゃないよなあ。今回は太極拳の話に行く前に、ジョシュの転機になった出来事についてです。

インドでのチェスの大会の時、ジョシュは16歳なのだが、大事な試合中に突然、地震にみまわれる。まわりの人々は急いで建物から出て行ったが、ジョシュはそこに残り、どうすれば勝利できるのか考えていたという。

その時の様子を、彼は次のように語る。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
Everything started to shake and the lights went out. The rafters exploded with noise, people ran out of the building. I sat still. I knew what was happening, but I experienced it from within the ches position. There was a surreal synergy of me and no me, pure thought and the awareness of a thinker ---I wasn't me looking at the chess position, but I was aware of myself and the shaking world from within the serenity of pure engagement--- and then I solved the shess problem. Somehow the earthquake and the dying lights spurred me to revelation. I had a crystallization of thought, resurfaced, and vacated the trembling playing room. When I returned and play resumed, I immediately made my move and went on to win the game. [p.53]

拙訳:建物が揺れはじめ、明かりが全て消えた。屋根の木材がものすごい音をたてていて、人々は建物の外へ逃げ出した。僕はじっと座っているだけだった。何が起きているのかちゃんとわかっていた。でも僕は地震をチェスの駒の配置の中から感じていたのだった。それは僕と僕でないもの(純粋な思考と、思考するものの気づき)の非現実的なシナジーだった。僕はチェス盤を眺めている僕ではなく、純粋な没頭の持つ静けさの中から、自分自身と地震で揺れている世界を認識していた。理由はどうあれ、地震とそれに続いて明かりが消えたことが刺激となって、僕は啓示を受けたのだった。僕は水晶のように明晰な思考に入り込んでいたけれど、我に返り、まだ揺れている会場を後にした。そして試合が再開されると、僕は席に座り、すぐさま一手打ち、一気に勝利した。


なんだかスーパーサイヤ人誕生! みたいなシーンだけども、ジョシュは自分の意志でこのときの明晰な状態に入れるようになりたい、と考えた。そのために「気をそらすもの」に対処しなければならないのだが、ジョシュの経験した地震はそうとうに大きな「気をそらすもの」なわけだ。にも関わらず、ジョシュは心をクリエイティブな状態に保っていた。つまりジョシュの発見は、「気をそらすもの」への対処の仕方によって、人のパフォーマンスは劇的に変化する、ということだ。喫茶店でおばちゃんが騒いでて本に集中できない、バイクの音がうるさくて勉強が続かない、というようなことから、大きい地震がきているのにトップレベルのチェスの試合に勝ってしまう、というようなことまで変化の幅は大きい。

そうしてスーパーサイヤ人になるためのロードマップをジョシュは示しているのだが、それによると、まず何が起きても(作業なり何なりを)続けられるようになり、その後に、何が起きてもそれを自分の有利なものにしてしまえるようになり、最後に、完全に充足した状態で自分で何かを起こして、それを刺激にクリエイティブな状態になれる、という。

さあ、だんだんアヤシクなってきましたね。つづきます。

つづき:その4

2009年6月27日土曜日

詩人のように考える "Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ その3

(その3とありますが、一応このエントリだけで読めるように書いたつもりです。
とはいえ
その1
その2 d-modeとはなにか


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Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
Guy Claxton"Hare brain, Tortoise mind"(以下HBTM)という本について、今年の始めに二つのエントリを書いたのだけど、で、五回ぐらいつづきます、みたいなことを言っておきながら半年放置してたのを再開。でも今回で終わりです。だってあの本の英語にもう一回挑む気にはならないんだもの。丁度なくしたと思ってたメモが出てきたのでそれを基にHBTM最終回です。

で、ちょっとおさらい。人の脳は、いわゆる論理的な能力に関して、あまりすごくない。世の中の複雑さに対して、人間が理解できる程度の論理はあんまり力を持ってない。物理学とか数学に比べ、経済学がいまいち結果を出せないのもそのためだろう。対象が複雑すぎる。で、すごくないだけならともかく、そのすごくない論理的な能力を頑張って使っていると、他の能力のリソースまで喰ってしまうので、脳的に全方位すごくない状態に陥ってしまう。脳にとって得意なことをさせずに苦手なことばかりやらせるのだから、意識の上でも日々が辛いものになっていく。このあんまりすごくない論理的な能力を、本書ではd-modeと呼んでいる。deliberation(熟考)、default(初期値)のdからとられている。つまり熟考したり、何か問題が起きた時にそのまま真っ正面から取り組んだりすると、d-modeが脳をコントロールしている、ということだ。

d-modeの主な特徴として、結論を急ぐ、曖昧さや複雑さを嫌う、言葉にひっぱられる(例えば男という言葉。「男のくせに」とかd-modeは言ってしまう。本人を見てない)、上手く説明がつけば事実はどうでもいい(例えば、アイツがひどい目にあったのは前世で悪い事をしたから、とか)など、人としてろくでもないところが目立つ。最後のやつはどこが論理的なんだ、と言われそうだけど、次の特徴を考えると納得できるかもしれない。それは、完璧な情報があれば事態は完全に説明できる、と思い込んでいる、という特徴。前世の行動が現世に影響すると確認できれば、不幸の原因は特定できるわけで、これは十分論理的だ。が、問題はそんなことは確認できない、ということだ。にもかかわらず、d-modeは「もし前世の行動が現世に影響するならば」という前提に固執してしまう。そして結論を出してしまう。どうも人の差別感情は結論を急ぐ、というところからきている様な気さえしてくる。

d-modeは意識にだいぶ近いが、意識により遠い機能をHBTMではundermindと呼んでいる。無意識と言ってもいいと思うが、もっとオートマティックな感じなんだと思う。コンピューターでいうと、ユーザーが見る事のないバックグラウンドで情報を処理しているような現象を、著者はこの語で指しているようだ。

そして、d-modeは速い。すぐ結論を出したがるし、実際に出してしまう。ということでウサギさんに例えられてる。undermindは亀だ。遅い。小学校時代の記憶と昨日のコロッケが突然結びついて感情がわき上がったりする。どんだけ遅いのかと。で、ま、このウサギさんと亀さんのバランスが大事ですよね、という話なのだけど、現代社会では圧倒的にウサギさんが重要視されているのは問題です、とそうなるわけだ。まあよくあるといえばよくある話。

で、今回はどうしたら亀さんに活躍の場を与える事ができるのか、その方法を考える、ということでした。「詩人のように考える」その方法は、実にカンタン、だって脳の得意なことだから。それは、ただ待つ、だそうだ。ただじっと待つ。

d-modeにコントロールされている状態だと、人はすぐに確実さを求めるが、人が理解できる確実さなど世界の複雑さの前では何の根拠にもならない。確実=みんながそうだから、なんてこともよくある。確実=いままでそうだった、これもすごく多い。これについてはN・タレブ『ブラックスワン』をどうぞ。翻訳は読んでないけど(高すぎる*1)、人の論理的能力の限界がよくわかる本ですよ。

効率よく確実だと思う選択をしても、間違った答えを出してしまえば問題は解決しない。あたりまえ。著者が繰り返しているのだけど、まともなアイディアが生まれるには、それがどんなに突然の天啓のように思えても、時間がかかる、ということだ。まるで妊娠期間のように、アイディアやソリューションにはじっとしている時間が必要なのだ。

では、ただ待つ事がなぜ新しいアイディアや問題解決のひらめきにつながるのか。このことについては著者はかなり細かく説明しているので、僕のd-modeを使ってまとめるのは難しい。それでもざっくり言ってしまうと、問題の解決に意識の焦点を強くあてると、d-modeが思考の主導権を握る事になる。d-modeは効率を重視するので、「馴れた考え方」に沿って問題を扱おうとする。そしてそのこと自体が「馴れ」をさらに深化させてしてしまうので、d-modeを使っている限り、いつまでも同じ考えをぐるぐる巡らすことになってしまう。考えすぎは良くない、というのは誰しも経験していると思うが、その説明になっていると思う。

ひるがえって、ただじっと待つ時、人は何にも焦点をあわせないので、「馴れた考え方」にはまってしまうことはない。が、それだけではアイディアは生まれてこない。新しいアイディアは、今まで脳の中で無関係だった情報同士が、新たにつながる事で生まれると考えられる。そのためには刺激が必要なのだ。

刺激といっても奔放な性体験とかそういうことじゃなくて、一年前に観た内容も覚えていない映画の漠然とした印象とか、友達から借りパクしたゲームの思い出とかそんなことだ。さっき読んだ本の細かい内容が今意識的に思い出せないからといって(あるいは、d-modeで扱う事ができないからといって)、その情報が頭の中から消えてしまったわけじゃない。意識できなくても脳はundermindで情報を処理している。そしてそういった事に思いを巡らすことが刺激になるのだ。ただし焦点を絞りすぎない(low-focus)状態で。

この状態はただ待つ、というよりも、瞑想している、といったほうがいいのかも知れない。瞑想のことは(も)よく知らないが、その方法として、follow one's breathということばをよく見かける(気がする)。どういうことかというと、ゆったりと座って、自分の呼吸に集中する。吸ってるなー、とか、はいてるぜー、とか。するとそのうちに、先週定食屋で食べた鮭がおいしかったなあとか思ってたりする。それはそれで思考を遮ったりせずにしていると、やがて思考がおとなしくなるので、また呼吸に集中する。これの繰り返し。座禅もこんな感じなんじゃないのかな? と勝手に思ってます。

この方法だと著者のいう「詩人のように考える」ことになるんじゃないかと思う。著者は、編み物とかがいいよ、と言っている。ぼうっとすることが重要なんだよ、ともいってるけど、そうしているつもりでも、すぐに世界のあら探しをてしまうのがd-modeの特徴でもある。あと、テレビをぼうっと観ることも著者はすすめているけど、コチラの本(池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』)によると、テレビを観てても人はぼうっとしてないみたいです。まあ十年以上前の本ですからその後わかったこともあるんでしょう。


*1:上下巻で一冊1,890円。高すぎる本をおすすめするのも何だか変なので、タレブの前著『まぐれ』もおすすめします。

2008年5月27日火曜日

結局統計ってつかえるの? その3

しか し、統計が弱い人を救うことだってあるかもしれない。日銀だって統計に基づいて、弱い人になってしまった失業者を救えるだろうし。そしてとくにエアーズの 本はその可能性が多岐に渡ることを示しているように思える。たとえば教育とか医療の分野で、属人的な判断を減らして統計に基づいた判断を導入すれば、効率 だけでなく公正さも向上させられる可能性があるようだ。

で、結局統計ってつかえるの? なわけだが、分かりません。ただ己の中の第二審判 決に従えば、統計の結果だけが騒がれているような時は気をつけろってことでしょうか。教育でいえば、日本の子供の学力が上がった下がったというのは無視し てもよさそう。でもある教授法を使うとテストの点数が、とか、出席率が、とかいう話なら、拒絶するのは待った方がいい。特に、直観に反する現象というのは なんというかチャンスなんじゃないかと思う。

自分で考える教育よりも、分からないところはさっさと答えを見ちゃう教育のほうが、特に学校 では、上手くいく。そういう反直観的な統計が出てきたときに、保身に走って拒絶するのはもったいない。というか保身に走ると、老後は塗炭の苦しみを味わう ことになる気がする。効率も公正さも向上させるチャンスを潰したのかもしれないんだから、そのために傷ついた人たちのことをさっぱり忘れるなんて出来ない と思う。

そう、統計を真に受けても、拒絶しても、人生ヒドいことになるかもしれない。統計にもまた、第一法則はないということでした。ちゃんちゃん。