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2009年8月3日月曜日

だらだらいくよ 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その1

きれいなおねえさんが嫌いな人はいないでしょうけど、ガサツなオジサンは好きですか? 僕は大嫌いです。くしゃみするときに声出さないでください。というわけで、はい、今回もだらだら書評です。

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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
今度の本の題名は『男はプライドの生きものだから』で、原題は"I don't want to talk about it"、「そんなこと話したくねえよ」だ。著者のテレンス・リアルは臨床心理士であり、主に家族、夫婦のセラピーを行っているという。夫婦間の問題についての著書が多いようだ。

本書はそのタイトル通り、男性が陥りがちな心理をテーマにしている。つまり男性は、「男らしく」振る舞うよう教育を受けてきたし、周囲からもプレッシャーをかけられるので、自分自身の感情を押さえ込んでしまう。その苦しさから、アルコールやセックス、そして仕事などの中毒行為に逃避し、自分や家族の生活をぶち壊してしまう。もし男性が自分自身の「女々しい」優しさや繊細さを受け止める事ができれば何も問題はないし、認めなくても、中毒行為に逃げなければ、うつ病の症状がでて医者にかかるようになるだろうし、そうして自分自身と向き合っていくだろう。が、多くの男性は自分のうつ病を自分自身から隠すために中毒行為に走る。そうして何年も何十年も傷ついた心を放置し、ある日、(年を取ったりして状況が変わって)中毒行為ができなくなると、無視されつづけてきたうつ病が一気に襲いかかり、ただでさえ壊れている生活にとどめの一撃がくわえられる事になる。この本では男性のある種の行いをそのように分析している。

以前にこのブログで書評したW・ポラック『男の子が心をひらく親、拒絶する親』と同じテーマの本と言っていい。本文中にもポラックへの言及がある。そして訳者も同じなので、同じ問題意識でなされた翻訳なのだろう。ただし、本書のほうが先に訳されている。

この本で描かれる症例は、著者自身をも含んでいる。著者の父はとても横柄で暴力的な男であり、二人の息子たちは常に父の暴力へどう対処するのか考えながら行動しなければならなかった。著者は父に強い反発を抱え、弟は父を単純に避けるようになった。

著者リアルは20代をアルコールとドラッグに費やしてしまったという。それが、彼が自分のうつ病と戦うためにとった戦法だった。死の危険もあった。それでもやがてセラピストを志していくわけだが、その過程で父と対話することを試みる。始めのうち、父は怒りと否定以外の感情を表現することを拒むが、息子は父の怒りをというか父親をもはや恐れていない。恐れを抱えているのは父のほうであり、息子は父の恐れをやさしく肯定する。そうして時間をかけながら、父は息子に少年時代の苦しかった日々、親に、大人に拒絶された日々のことを語り出す。その苦しみを誰にも話せなかった苦しみを吐き出す。

著者と父の話は実に感動的だ。父は世をすねて他人を見下して生きていたわけで、そんな人が老境に至り、今までバカにしてきた息子に助けられながら、「人生に大切なのは愛だ」「俺のようにはなるな。家族を大事にしろ」と息子たちに言い残して死んでいくのだ。もちろん彼が家族の生活を無茶苦茶にしてきたことが帳消しになったりしない。終わりよければ、という話でもない。それでも、どんな状況でも前を向けるんだ、と素直に思いたい。

さて次回からはこの本に載っている「症例」の中から、いくつか紹介していきます。自分と、あるいは身の回りの誰かと似ているケースがきっとあると思います。

その2

2009年7月5日日曜日

書評・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その1

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ボビー・フィッシャー
を探して
『ボビー・フィッシャーを探して』という映画をみて、とても面白かったので、登場人物のその後が知りたくなった。映画はある実在の天才チェス少年の話で、その父親が書いた同名の本("Searching for Bobby Fisher")が原作だ。タイトルのボビー・フィッシャーはチェスの名人。奇行で有名な人だったそうだ。映画に出てくるわけじゃなくて、彼のエピソードが少年によって語られるだけだ。それでもタイトルに出てくるのは、少年がボビー・フィッシャーの再来であると期待されていたから。少年が周囲の期待にどう反応するか、というのがこの映画の見所だろう。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
その少年がジョシュ・ウェイツキン。これから書評しようとする本"The Art of Learning"の著者だ。彼は21歳以下の全米チャンピオンに8回なった。その彼にとって上述の映画はとても重要な役割をもっている。映画はアメリカ本国でかなりヒットしたそうだが、そのことが、ジョシュのチェスプレイヤーとしての人生に大きく影響することになった。映画はジョシュが6歳から8歳くらいまでをえがいているが、封切られた時、彼は高校生だったそうだ。

著者のことを、僕はあたりまえのようにジョシュと書いてるけど、彼にはそうさせる魅力がある。とてもやさしいのだ。『ボビー・フィッシャーを探して』は、彼の優しさについての映画でもある。

本書"The Art of Learning"のタイトルは、おそらく孫氏の兵法"The Art of War"をもじってつけられたんだと思うけど、タイトル通り、学習法についての本だ。でも、ジョシュの人生についても多くページを割いている。

チェスも将棋もわからない僕が本書を手に取ったのは映画のジョシュがあまりに素敵な人物であったからだが、一読してみて驚いたのは、彼がすでにチェスを辞めていたことだ。

もちろん、個人的にはプレイしているんだと思うけど、大会に出てタイトルを争ったりはもうしていない。そしてそのきっかけが、あの映画だったという。

その2へつづく

2008年5月27日火曜日

結局統計ってつかえるの? その3

しか し、統計が弱い人を救うことだってあるかもしれない。日銀だって統計に基づいて、弱い人になってしまった失業者を救えるだろうし。そしてとくにエアーズの 本はその可能性が多岐に渡ることを示しているように思える。たとえば教育とか医療の分野で、属人的な判断を減らして統計に基づいた判断を導入すれば、効率 だけでなく公正さも向上させられる可能性があるようだ。

で、結局統計ってつかえるの? なわけだが、分かりません。ただ己の中の第二審判 決に従えば、統計の結果だけが騒がれているような時は気をつけろってことでしょうか。教育でいえば、日本の子供の学力が上がった下がったというのは無視し てもよさそう。でもある教授法を使うとテストの点数が、とか、出席率が、とかいう話なら、拒絶するのは待った方がいい。特に、直観に反する現象というのは なんというかチャンスなんじゃないかと思う。

自分で考える教育よりも、分からないところはさっさと答えを見ちゃう教育のほうが、特に学校 では、上手くいく。そういう反直観的な統計が出てきたときに、保身に走って拒絶するのはもったいない。というか保身に走ると、老後は塗炭の苦しみを味わう ことになる気がする。効率も公正さも向上させるチャンスを潰したのかもしれないんだから、そのために傷ついた人たちのことをさっぱり忘れるなんて出来ない と思う。

そう、統計を真に受けても、拒絶しても、人生ヒドいことになるかもしれない。統計にもまた、第一法則はないということでした。ちゃんちゃん。

2008年3月19日水曜日

結局統計ってつかえるの?

ものすごく使えるよ派
エアーズ『その数学が戦略を決める』
飯田泰之『考える技術としての統計学』

基本使えないよ派
Taleb "The Black Swan"


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その数学が
戦略を決める
イアン・エアーズ
最近読んだ本を参考に、結局統計って使えるの? とくに我ら一般庶民に、という問題を考えてみる。

今日本では日銀総裁が決まらなくてすごくもめているけど、日銀の政策は統計が無いと成り立たない最たるものでしょう。だって一億人以上の経済活動をすべて把握は出来ないから、具体的な、誰がどこで何を買ったの売ったのということは切り捨てて、100人、1,000人でどんな傾向があるのかを見ていく事になる。いわばどんぶり勘定だ。ホントは箸で一粒ひとつぶ取り出して調べることが出来たら一番いいけど、ま、無理。統計をとるのに時間がかかって、五年前のデータで来年の事を決めるわけにもいかないもの。

なので統計は正確ではない。そんなの当たり前。正確に把握できないから統計が必要なんだ。何年か前に、うっすらとした記憶なんだけど、朝日新聞社内で起きた事件があった。靖国神社に首相が参拝しても良い? ダメ? っていう調査をして、51%/49%で参拝賛成が多かった(逆かも)。そしたら上役と部下が喧嘩になって、たぶん部下が「そういう時代になったんですよ」とか言ったんじゃないの? 上役が部下を殴ったっていう事件。その後どうなったのか全く知らないし興味もないけど、間の抜けた話です。誤差でしょ、どう見ても。賛成も反対もおんなじくらいです、とはいえるけど、どっちが多い、とはいえない。統計は正確じゃないから、何かを読み取るには慎重さが必要なわけだ。そしてだから、統計は分かりにくい。

ただ単に正確じゃない、っていうだけじゃない。どういうふうに不正確なのか、これも大問題だ。さっきの靖国参拝のデータは、たぶん小泉純一郎氏が首相だった時の話だ。いま聞いたら違う回答をする人も多いんじゃないか。これはつまり、データが古いから正確でない、ということになる。

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考える技術としての
統計学
飯田泰之
日銀の仕事は物価の安定だけれども、そこで参考にするのが消費者物価指数(CPI)だ。CPIにはバイアス(偏り)があることが知られている。スーパーで売っている商品の価格を調べるにしても、すべてのスーパーを調べるのは無理だから、いくつかのお店を抜き出して調べるわけだ。でも人々は絶対に同じ店で同じものを買い続けるわけではなくて、そのときどきで安いお店に行ったりもする。だから同じお店を調べ続けると、実際に人々が使った金額よりも多めに、ココ大事、多めに価格を見積もってしまう。他にも、三年前に外付けハードディスク120Gを2万円で買ったとしよう。で、今年、320Gを2万円で買いました。これで僕は同じものを同じ値段で買ったと言えるだろうか。もちろん言えない。でも、CPI調査の品目はそんなに細かく分かれていないから、性能が上がって実質の値段が下がっているケースはCPIに反映されない。だからこれも実際よりも値段が高め、ハイまた来た、高めに計算されてしまう。

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The Black Swan
N.N.Taleb
日銀はなぜか、日本ではこういった上方バイアスはあんまりないよ、と言っている。とくに根拠があるわけではないようだ。1.8%ポイントぐらい高めに出てるよ、という人もいる。1.8%ポイントはすごいよ、やばいよ。だって日銀は、日本の物価はほとんど変化していない(CPIがゼロ近傍)からデフレじゃない的なことを言っているけど、もし1.8ポイント多めに評価しているとしたら、本当の日本の物価は1.2~5%で下がっていることになって、しかもここ十年以上そんな感じで、立派なデフレなわけだ。

こういうふうに調査の過程で結果が歪んでしまうことがある。というか必ず歪んでいる。日銀のようなエリート集団でさえ、統計をうまく使えていないんじゃないかと疑われる昨今、果たして縁なき衆生である我々が統計を使うメリットなんてあるんでしょうか。続く。