「ゆっくり生きろ」というメッセージは様々な歌に込められる。僕にもお気に入りの「ゆっくり」ソングがある。斎藤和義の「歩いて帰ろう」とかJack Johnsonの"Inaudible melody"とか。あとはなんだろう、Princeの"Little red corvette"? いやこれは違うだろう。ゆっくりしろ、と歌ってるけども。
自分が無価値に感じられるという問題から目を背けると、自分だけでなく、まわりの人々も深く傷つけるような事態を招いてしまう、というのが前回の話。ではどうしたらいいのか。その答えが「ゆっくり生きろ」だ。
「隠れたうつ病」においては、防衛的行動または嗜癖(しへき≒中毒:引用者)行為によってダメな自分から誇大化した自分へと飛躍するが、そのどちらでもない健全な自己評価に到ることはできない。うつ病の根になっている自己の内面と向き合うことなしには、健全な自尊心を持ちえないからである。どんなにあがいても、内面の痛みを隠蔽したまま癒される道はない。[p.71]
そう、ゆっくりが楽なわけじゃない。むしろ仕事中毒になったほうが、うつの症状には即効だろう。もし人をうつ病にするような出来事や環境があるとしたら、人はうつ病になるべきだ、というのが著者の考えのようだ。そうしなければ「うつ病の根」が放置されてしまう。
男はプライドの 生きものだから テレンス・リアル |
著者はダイアンの話から、デミアンは軽度のセックス中毒ではないか、と疑った。彼は2、3日セックスをしないとすぐ不機嫌になり、4、5日ともなればほんの些細な事で妻につっかかってくるようになるという。そうなると彼は止まらない。人前で妻をなじったり、猛烈な癇癪を起こしたりする。ダイアンは彼の怒りに触れないようにいつも注意しなければならなくなる。
ダイアンは夫は悪い人ではない、という。それどころか愛情深い人だともいう。セックスに執着しているとはいえ、浮気をしているわけでもないようだ。しかし、ダイアンは泣きながら「もう、こんな生活は耐えられないわ!」ともいうのだった。23年間、夫のセックス中毒にがまんしてつきあった結果、彼女は家をでて離婚しようと決意した。デミアンはすかさず、「別れるなんてとんでもない!」と叫ぶ。彼は欲求が満たされているかぎりは、やさしい男性でいられるのだが、満たされないと、コントロールできそうにない不安に襲われて、陰湿な攻撃を始める。「彼はどこからか襲ってくる不快感を癒すためにセックスを薬として使っていたのである。」[p.80]
セラピーの効果はてきめんだった。デミアンは妻を支配することなく愛せるようになった。ダイアンも夫の変化を喜んだ。しかしそこで禁断症状が起きた。今まで押さえ込んでいたうつ病が表面化し、入院を考えなければならないほど、デミアンは精神的に落ち込んでしまったのだ。やがて自殺を考えるようにさえなっていった。
デミアンのうつ病の根は、彼が7歳から13歳の間、兄とその友人に性行為を強要されたことだった。彼は長い間その記憶から目をそらし封印してきたのだが、ついに思い出してしまったのだった。
デミアンのうつ症状が重くなり、著者は家族セラピーを決意する。彼の両親(彼らは息子たちの行動に気づいていたが何もできなかった)と兄を呼び寄せ、加害者、関係者を含めてトラウマに向き合うことを目指す。そうすることで治癒の道が開けるのだという。
兄ピーターも両親も、その出来事を否定した。が、泣きじゃくるデミアンを見るのが耐えられない、と兄がついに認めた。ピーターはデミアンに深く謝罪した。そのときからデミアンの回復が始まったという。
実は兄も、近所の男の子から同様の仕打ちを受けていた。一人で抱えきれない衝撃を、弟と共有せざるを得なかったのだろう。彼もまた被害者であった。著者は兄の地元の精神科医の協力をとりつけた。兄にもセラピーが必要なのは明白だった。
デミアンのケースは、「隠れたうつ病」を癒す道が「表面化したうつ病」であることを如実に示している。まず、嗜癖(しへき≒中毒:引用者)による防衛的行動を認め、それを止めることからはじめなければならない。するとやがて、隠蔽されていた痛みが表出してくる。デミアンの嗜癖行為の背後にはうつ病が隠されていた。そしてうつ病の背後にはトラウマが隠されていたのである。セラピーを通して勇気づけられた彼は、誇大化による自己防衛を止め、うつ病を表面化させると共に、そのうつ病の根になっていたトラウマと正面から向き合ったのである。[p.83]
「隠れたうつ病」の男性の自己防衛は、デミアンが妻のダイアンを深く傷つけたように、人間関係を崩壊させる。あらたなトラウマの種をばらまいているようなものだ。そして始末の悪いことに、自分がその被害をもたらしたという感覚が全くない恥知らずな状態でもある。デミアンも自分ではなく妻がおかしくなったと考えていた。
この本にでてくる男たちには二つの特徴がある。一つ目が恥知らず、である。妻が入院したそのとき、若い娘とホテルでお楽しみだった60過ぎの男(しかもそこに電話したのが長男だったり)。妻が長電話しているだけでブチ切れる男。自転車で前を走っている人を追い抜いていい気になっている男(大人です)。恥知らずの見本市である。そしてもう一つの特徴が、デミアンのケースでいえば「セックスを薬として使っていた」こと。つまり、本書でも後のほうで言及があるが、ある行為を通して「救い」を得ようとしているのだ。そしてそう考えれば、何でもコントロールしないと気が済まないとか、人の気持ちを無視して独裁者のように振る舞うとか、ちょっとのことでえらく不機嫌になるのも理解できる。なんといっても自分の人生が救われるかどうかの問題なのだから。
そこで「ゆっくり生きろ」が重要になる。
心の病を癒すためには内面の病根を正視しなければならない。精神分析とは科学でも芸術でもなく、根源的な意味でのモラルと関わることだった。それぞれの人が「生きる道」を発見する手助けをするのが、セラピーというものである。男性のうつ病は、人生のいくつもの分岐点で横道にそれてしまった行動の集積だ。癒しへの道は、そのひとつひとつを拾い上げて軌道修正していく、忍耐のいる作業である。[p.229]
そう、むしろゆっくりしか手がない、とも言える。冒頭にあげた斎藤和義の「歩いて帰ろう」の歌詞に「ウソでごまかして過ごしてしまえば、頼みもしないのに、同じような朝がくる」とある。人生の中で「忍耐のいる作業」が求められるから、つい「ウソでごまかして」しまうというわけだ。
話はちょっと変わって、デミアンの体験は過激で特殊なもので一般的ではないのでは、という疑問に、著者は、両親が二週間不在だった一歳児の記録を例にだしながら、こう答える。
サラエボやソマリア、また大都市のスラム街で育つ子供たちが体験するものに較べたら、幸福な上流家庭で両親が二週間の休暇をとったために起きた傷など、取るに足らないことに見える。子供は逞しいものだ、困難に打ち勝つ術を学ばねば人生を生き抜けない、と私たちは言う。実際、想像を絶する過酷な環境を生き延びた子供たちも多い。しかし、そこに寄りかかって、子供が受ける傷に無神経になってもよいということにはならない。[p.105]
ま、「世の中甘くない」とか言う当の本人が、サラエボやソマリアからみれば甘い人生を送っているわけだしね。そうやって男の子にささいなことでも男らしさを要求することが、そしてその繰り返しが、彼らを深く傷つける。
また、強くなろうとし、弱点を認めまいとする男の姿勢は自分以外の人に対しても適用されて、弱者への同情心が薄く、思い上がりの強い人間をつくっていく。人間らしい感情を失い、表現力を失うことは、こうしたさまざまなかたちで他者とのつながりの喪失を必然的に招いていくのである。
多くの女性が自分が受けてきた抑圧をひとつひとつ認知し、自己を有力化(empowerment)する術を見出すことでうつ病から回復してきた。男性は断ち切られた感情を蘇らせ、自分とのつながりを取り戻し、人とのつながりを学び直すことが回復への道なのである。[p.160]
恥知らずで、救いを求めて右往左往する人生が幸せであるわけがない。人は弱いから、そういう人生を生きてしまうこともあるだろうけど、希望は持っていたい。
つづく。
書きました:その4(完)