2009年10月13日火曜日

まとめ・書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その4(完)

 さて間があいたけど、「おとプラ」の最終回です。いままでのをまとめます(その1はこちら)。
 
cover
男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
 本書の主張をまとめよう。男性は子供の頃から「男らしさ」を叩き込まれているので、自分の感情を表に出すことができない(怒りと不機嫌は除く)。なので、とても悲しいことや怖いことが起きても、それを人に聞いてもらったり、助けを求めたりすることが出来ないので、鬱屈した状況に陥りやすい。ここでウツ状態が続けば、周囲の目をひくこともあるだろうけども、多くの人はそうやって自分のウツが注目を集めることを嫌う(これは女性も同じ)。そうやってうつ状態に対して手をこまねいていると、うつ病になってしまうかもしれないわけだが、それならそれで、もちろん自殺等の危険はあるけれど、本人も周りの人も危機感が生まれるわけで治療のチャンスはある。が、自分が鬱屈していること、落ち込んでいることも否定してしまう人たちがいる。落ち込んでいる自分を情けない、と思うのではなく、落ち込んではいない、と思い込む人たちだ。
 
 ただやっぱり苦しかったり寂しかったりするわけで、そういう感情を消さないと「落ち込んではいない」と思い込むのは難しい。そこで感情をごまかすために使われるのが中毒行為(本書内では嗜癖「しへき」行為)だ。アルコール、セックス、麻薬、暴力、威嚇、支配的な振る舞い、地位や名声へのこだわり、そして仕事などが代表的なところだろう。もちろん中毒行為が一つとは限らないし、程度の差もいろいろだろう。共通しているのは、自分が他人よりも優れていると感じることができる、というところだろうか。
 
 こういった中毒行為で自分のうつを隠し続けることは、男性にとってそれほど難しいことではない。それどころか社会的に評価が高まったりすることもあるだろう。なので数十年にわたって、自分の感情を無視することも珍しくはない。しかしやがて、中毒行為の御利益が得られなくなるときがくる。年を取れば出来なくなることもあるし、肩書きや評判というのは移ろいやすいものだ。予想外の出来事というのもある。そうなると、いままで無視してきた感情が一気に表面化するのだという。それを著者は「表面化したうつ病」と呼んでいる。
 
 しかし問題はうつ病ではない。いやうつ病は問題だけど、それを隠すことはもっと問題を大きくしてしまう。上記のような男性を著者は「隠れたうつ病」患者と呼ぶが、「隠れたうつ病」は人間関係を徹底的に破壊する。それもそのはずで、さっきあげたような中毒行為におぼれている人間を慕う人なんかいない(一瞬かっこよく見えることはあるかもしれないけど)。ましてそういう人と長期間一緒に暮らすなんて地獄以外のなにものでもない。
 「隠れたうつ病」の男は次の三つの理由から対人関係に対処できなくなっている。第一は、自己調整のための嗜癖的防衛行為が最優先されていること。第二は、他者との心のつながりを持つことは必然的に自分の心を覗くはめになるため、他者への親密な関わりは避けたいと願っていること。第三は、対人関係のスキルがひどく未発達なため、親密な人間関係を求められると、すでに十分感じている自信のなさをますます強めてしまうこと。

[p.319]
 こんな具合なので、彼らとともにいなければならなかった人たちの人生も、とても辛いものにしてしまう。
 
 じゃあどうすればいいのか。それは、辛かったこと、悲しかったことを、そのまま認めることだ。あの時は本当に苦しかった。本当に寂しかった。そうやって辛い出来事を認め、その解釈を変える。たとえば「自分はいじめに抵抗しなかった。はっきり主張しなかった。」という解釈を「自分は子供だったので、抵抗するすべを知らなかった。数で圧倒されれば大人だって抵抗は難しい。大人たちは「大したことない」とたかをくくっていじめを止めなかった。」というふうに変える。そうすることで、自分の感情を無視することなく、辛い経験を乗り越えることが出来る。なんでもかんでも自己責任という解釈はうつを加速させるだけだ。
 
 しかしそれでも、「隠れたうつ病」が「表面化したうつ病」になることは避けられない、と著者は言う。辛いこと、苦しいことに出会えば落ち込むのは自然な反応で、人はそれをすっ飛ばして成長することなどできないし、十分な時間が必要だ。問題は落ち込んだときにどうするかであって、そこで「落ち込んだり傷ついたりするのは男らしくない」とかそういう反応をすると「隠れたうつ病」へ一歩近づいてしまうのだろう。周りの人もそういうときは、「辛かったね」と声をかけてあげるべきなのだ。決して「男のくせにめそめそするな」ではない。

 本書で描かれる治療の様子をみると、辛かった出来事を辛かったと認めるという段階がもっとも難しいようだ。著者は家族セラピーの専門家であるので、辛かったことを認めるのは患者だけでなく、家族も一緒に患者の苦しみを認めることで治療を進めていく。これはたぶん、患者だけが辛かった経験を受け止めても、家族が「そんなことはない。悪いのはお前だ」というような反応しかしなければ治療は難しくなってしまうからだろう。
 
 とはいえ、患者に自身の苦しみを認めさせる技術は、著者とその夫人の独特なアートであるように感じた。勉強すれば誰にでも身につく技術というよりも、二人の人柄に負うところが大きいようだ。もっとも、自分の苦しみを認めてしまえば、デミアンのように「表面化したうつ病」になってしまうわけだから、すぐに治療の環境を整えられる専門家でなければ行えないということは間違いない。
 
 本書を読んで感じたのは、まさに「惻隠の情は仁の端緒なり」だ。自信が持てず対人スキルが未発達、といわれると、俺のことを言っているのか!? と思わずにはいられないのだけど、最近はその対人スキルっつーのは「惻隠の情」のことなんじゃないかと考えている。そっと思いやる心、それが持てれば、傷ついたときも絶望せずにいられるのかもしれない。

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