第2章
18世紀の哲学と、白日の下にさらされた宗教の破綻。この中からでてきたのが、ビジネスマンこそが利己主義と社会主義の矛盾を解くことが出来る、というアイディアである。私は経済学者がその考えに科学的なお墨付きを与えた、と書いた。が、それは簡便のためであったので、急いで補足したいと思う。正確に言えば、経済学者たちは、そのようなことを言ったと思われているのである。偉大な経済学者たちの著作にはそのような教条的な発言はみられない。自己責任主義とは大衆を煽るだけのような連中の言葉の中にこそあるものであり、ヒュームの利己主義を受け入れる一方で、ベンサムの平等主義も受け入れてしまうような功利主義者たちの言葉なのだ*1。それは彼らがこの両者を統合するために信じるしかなかった信条なのだ。経済学者たちの言葉は、自己責任主義の解釈に確かに役に立った。しかしこの教義が人気を博したのは、当時の政治哲学者たちのお気に入りだったことにその理由がある。政治経済学者のせいではない。
*1 レズリー・スティーヴンが要約しているコールリッジの主張は実に共感できるものだ。「功利主義者というものは、すべての結束をブチ壊し、社会を個人的利益を追求するための闘技場にしてしまい、秩序、郷土愛、詩的な心情、そして宗教を打ち落とす。」
「我らに自由を」という格言は、17世紀の終わり頃にコルベートに進言した商人ルジャンドルのものであると長い間言われてきた*1。一方で、この文句を明確に自己責任主義とかけて書き記した人物は疑いなく判明している。1751年頃のアルジャンソン侯爵だ*2。侯爵は、政府が貿易に手出しをしないことの有利さを熱心に説いた最初の人物だ。より良く統治したければ、より少なく統治せよ*3。彼曰く、製造業が不振である真の理由は、私たちが彼らに与えている保護なのだ*4。"Laissez faire, telle devrait être la devise de toute puisssance publique, depuis que le monde est civilisé." "Detestable principe que celui de ne vouloir notre grandeur que par l'abaissement de nos voisins! Il n'y a que la méchanteté du coeur de satisfaites dans ce principe, et l'intérêt y est opposé. Laissez faire, morbleu! Laissez faire!!"[ zajuji:この二つの文はご覧の通りフランス語です。zajujiはフランス語が全くわからないので、『ケインズ全集第九巻』より、宮崎義一先生の訳を以下に引用させてもらいます。「自由放任、この言葉こそ、世界の文明化とともに、あらゆる政府当局の標語にならねばならなくなった。」「われわれの隣人の地位を低下させることによって、はじめて自分自身の偉大さを望むことができるような、憐れむべき原理よ! この原理によって満足させられる精神は、悪意と敵意しかなく、そこでは利害が対立している。おお神よ、願わくは自由放任をこそ! 自由放任をこそ!!」 ]
*1 "Que faut-il faire pour vous aider?" とコルベートは尋ねた。すると"Nous laisser faire,"とルジャンドルは答えた。
*2 この言葉の歴史については以下を参照せよ。オンケン『自由放任の格率』(Oncken, Die Maxime Laissez faire et Laissez passer. ) 次に続く引用の大部分はここからとられたものだ。アルジャンソン侯爵の主張は、オンケンによって指摘されるまで、見逃されてきたものだ。その理由の一つは、私が引用した文章が発表されたときを含め、存命中、彼は匿名を用いていたこと(Journal Economique, 1751)。もう一つは彼の作品が完全な形で公開されるのは1858年までなかったことによる(おそらく存命中は回し読みされていただろう)(Mémoires et Journal inédit du Marquis d'Argenson)。
*3 "Pour gouverner mieux, il faudrait gouverner moins."
*4 "On ne peut dire autant de nos fabriques: la vraie cause de leur declin, c'est la protection outrée qu'on leur accorde."
*2 この言葉の歴史については以下を参照せよ。オンケン『自由放任の格率』(Oncken, Die Maxime Laissez faire et Laissez passer. ) 次に続く引用の大部分はここからとられたものだ。アルジャンソン侯爵の主張は、オンケンによって指摘されるまで、見逃されてきたものだ。その理由の一つは、私が引用した文章が発表されたときを含め、存命中、彼は匿名を用いていたこと(Journal Economique, 1751)。もう一つは彼の作品が完全な形で公開されるのは1858年までなかったことによる(おそらく存命中は回し読みされていただろう)(Mémoires et Journal inédit du Marquis d'Argenson)。
*3 "Pour gouverner mieux, il faudrait gouverner moins."
*4 "On ne peut dire autant de nos fabriques: la vraie cause de leur declin, c'est la protection outrée qu'on leur accorde."
ついに私たちは見まごうことのない自己責任の経済原則を手に入れた。そしてその最も熱心な主張は自由貿易であった。このフレーズと考え方はその時からパリ中を流れるうねりとなっている。しかし、自己責任主義が時代を超えて読み継がれる著作の中に定着するのにはまだ時間がかかった。重農主義者——とくにド・ゴネーとケネー——と自己責任主義を結びつけようという試みは古くからあったものの、自己責任主義を訴える著作上ではほとんど支持されてこなかった。もちろん重農主義者たちは個人の利益と公共の利益の根源的な調和という考え方の支持者たちではあったのだが。一方で、自己責任というフレーズは、アダム・スミス、リカード、マルサスの著作中には見あたらない。さらにこの考えが教条的な形で示されることもない。アダム・スミスといえばもちろん自由貿易主義者であり、18世紀の様々な貿易制限に反対していた。しかし彼の航海法や高利禁止法に対する態度は、彼が教条的な人物ではなかったことを示している。彼の有名な「見えざる手」についての文章も、ぺーリーの神の摂理につながるものであって自己責任という経済的ドグマではない。シジウィックとクリフ・レズリーが指摘するように、アダム・スミスの「自然的自由の明らかで単純なシステム」という主張は、政治経済の専門家としての問題意識からではなく、有神論的で楽観的な世界観からでてきたもので、それは彼の『道徳感情論』(Theory of Moral Sentiments, 1759)のなかに見て取れる*1。自己責任主義というフレーズが英国で初めて一般的に使われたのは、有名なフランクリン博士の文章であったろうと思う*2。実際、私たちの祖父たちがよく理解していた、そしてやがて功利主義哲学に取り込まれた自己責任主義は、ベンサム——彼は経済学者ではない——の後期の著作の中にようやくちゃんとした形で発見できるという有様だ。例えば『政治経済学綱要』(A Manual of Political Economy)*3の中で彼は、「一般的な原則として、政府は何もしてはならないし、しようと思ってもいけない。こういった場合、政府のモットーあるいは標語は、お静かに、であるべきだ。……農家や製造業者や商人の政府に対するこの要求は、ディオゲネスのアレキサンダー大王に対する要求、私の日差しを遮らないでください、のように穏やかで妥当なものである。」
*1 シジウィック『政治経済学原理』(Sidgwick, Principles of Political Economy, p. 20.)
*2 ベンサムは"laisseznous faire,"という表現を使っている。『著作集』(Works, p. 440)
*3 1793年に執筆され、一つの章が1798年に『イギリス双書』(Bibliothequé Britannique)で発表された。全文はボーリングの編集による『著作集』(Works)で1843年に刊行された。
*2 ベンサムは"laisseznous faire,"という表現を使っている。『著作集』(Works, p. 440)
*3 1793年に執筆され、一つの章が1798年に『イギリス双書』(Bibliothequé Britannique)で発表された。全文はボーリングの編集による『著作集』(Works)で1843年に刊行された。
この時から自由貿易のための政治キャンペーンが始まった。マンチェスター学派とか呼ばれる連中やベンサム流の功利主義者たちの影響、そして二流の経済評論家の発言力、マルティノー女史とマーセット夫人の啓蒙書、こういったことが重なり合って、自己責任主義は政治経済学が到達した実用的で正統な結論であるとして、一般の人々の心に定着してしまったのだ。とはいうものの、この間にマルサス的な人口過剰の考え方が今あげたような人たちに広く受け入れられたから、 18世紀後半の陽気な自己責任主義はなりをひそめ、19世紀の前半の自己責任主義は陰鬱なものになっていくという大きな違いも生まれたのだが*1。
*1 シジウィックの前掲書を参照(op. cit., p. 22)。「アダム・スミスがいう政府の活動範囲の制限をおおむね認めた経済学者たちでさえ、晴れやかに制限を主張したのではなく、悲しげに、しぶしぶそうしたのである。つまり「自然的自由」がもたらした結果として現在の社会秩序があり、それを賞賛するために主張したのではなく、政府が選び取るかも知れないその他の人工的な秩序にくらべたら一番マシ、と考えての主張だった。」
マーセット夫人の『政治経済学にかんする対話』(Marcet, Conversation on Political Economy, 1817)の中で、「キャロライン」という登場人物は富裕層の支出をコントロールするという考えに固執する役回りである。が、418ページにいたり、彼女はついに敗北を認めるのであった。
キャロライン——この問題について学べば学ぶほどこれまで対極にあると思っていた国同士の利害と個人の利害が完璧に調和するって事が納得できました。
B夫人——自由で広い視野を持っている人は皆、いつだって同じような結論にたどり着くものです。さらにお互いに寛容な心で接するよう教えてもくれますね。ここからもわかるように、科学というのは単なる経験的な知識に止まるものではないのです。
B夫人——自由で広い視野を持っている人は皆、いつだって同じような結論にたどり着くものです。さらにお互いに寛容な心で接するよう教えてもくれますね。ここからもわかるように、科学というのは単なる経験的な知識に止まるものではないのです。
B夫人は、キャロラインが感じた自己責任主義への疑問を時々は認めてくれていたが、キリスト教知識普及協会が1850年までばらまいていた『若い人々のためのやさしい教訓集』(Easy Lessons for the Use of Young People)では、それすらも許されていない。それによれば「引き締めであろうと、緩和であろうと、あるいは買い入れであろうと、売却であろうと政府が市場のお金のやりとりに介入するのは、悪い結果を引き起こしこそすれ、良い結果を生むことなどほとんどない」のであって、真の自由とは「まわりの人々に害をなすのでない限り、自分の持ち物、時間、強み、技術を自分の思うとおりに使えるような状態のこと」を言うのだという。
つまり、自己責任主義という教義は教育システムをも取り込んでしまったのである。そうしてつまらないお説教になってしまった。この政治哲学はそもそも、 17、18世紀に王やお偉い聖職者たちを追い落とすために急造されたわけだが、今や赤ん坊のミルクとなり、文字通り、子ども部屋に入り込んでしまった。
そしてついに、バスティアの著作の中に、この手の政治経済学が信奉する宗教の最もあからさまで、最も熱狂的な表現を私たちは発見する。『経済の調和』(Bastiat, Harmonies Economiques)の中で彼は、「私は、この人間社会を司る神の摂理がいかに調和しているか、それを立証してみようと思う。この法則が不調和に陥ることなく調和しているのは、すべての原則、すべての理由、すべての行為の源泉、すべての利害、これらが互いに協力し合って一つの大いなる最終目標への向かっているからである。……その目標というのは、すべての階級が同じ水準に向けて限りなく接近するということであり、しかもその水準というのは上昇し続けるのだ。これを言い換えれば、社会全体が良くなっていく中で、個人間の平等が実現するということになる。」こんな調子だから、他の司祭連中と同じく、彼が自身の信仰告白を記したときも、次のようになったのは当然だった。「この物質世界を絶妙なバランスで作り上げた神が、人間社会の調整を躊躇したはずがないと、私は信じる。また神が、自ら動き出すことのない分子と同様に、自由な個々人を結びつけ調和に向かって動かしてきたと信じる。……私は何ものにも邪魔されない社会の傾向というものを信じる。それは、人類が一段上の共通の倫理、知能、肉体レベルに向かって恒常的に接近するという傾向である。しかも同時に、それのレベルは、無限に上昇していくのである。人類の平和的発展を一歩ずつ実現していくために必要なのは、この傾向が乱されないようにすることであり、個々人が持っているこの傾向が発揮される自由を破壊しないことであると、私は信じる。」
ジョン・スチュアート・ミルの時代から、著名な経済学者たちはこのような考え方に強く反対してきた。キャナン教授は次のように述べている。「名声も実績もあるイギリスの経済学者が、社会主義に対する全面的な攻撃の最前線に参加することは、まずないだろう。」 とはいえ、キャナンはこう補足する。「名が知られていようがいまいが、すべての経済学者には、社会主義的政策の欠点を指摘する準備が常に出来ていると言っていい。*1」 経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。
*1 キャナン『生産と分配に関する諸言説』(Cannan, Theories of Production and Distribution, p. 494.)
ケアンズは、1870年、ロンドンのユニバーシティカレッジの「政治経済と自己責任主義」(Political Economy and Laissez-faire)という講義において、おそらくオーソドックスな経済学者としては初めて、自己責任主義全般に対する真っ正面からの攻撃を行った。彼はこう断言する。「自己責任という格言は、いかなる科学的根拠も持たない。せいぜいお手軽な経験則でしかない。*1」 これこそがここ50年の主導的な経済学者たちの見解であった。例えば、アルフレッド・マーシャルの最も重要な著作のいくつかは、個人と社会の利害が調和しないケースの解明に向けられている。にもかかわらず、経済学者というものは、個人主義的で自己責任主義を教えて回っている人であり、また、そうあるべきだという一般的な印象に対し、最も優れた経済学者たちの慎重で独断を避ける姿勢が広く評価されることはなかった。
*1 ケアンズは同じ講義の中で、この「支配的な見解」について、実によくまとめている。「今現在の支配的見解とはつまり、政治経済学は富を最速でため込む方法と、それを最も公平に配分する方法を解き明かす、という類のものだ。人間社会において、個々人は手つかずのまま放置されているときにこそ、最も繁栄するというその見解によれば、個々人として己の感じるままに自己利益を追求させ、政府や世評などの締め付けのない状態、しかし暴力や詐欺のない状態、そういう時に、個々人は最も力を発揮するのだという。これが、自己責任の原則としてよく知られたものだろう。そして政治経済学というのは、この格言の科学っぽい表現だと思われているようだ。その表現とは、個人、私企業の自由の証明であり、あらゆる産業が抱える問題に対する充分な解決策なのである。」
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