2009年11月26日木曜日

J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第1章

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自己責任主義の終わり

ジョン・メイナード・ケインズ


訳:zajuji
[ ]内は訳者による補足です。

第1章

 私たちが便宜的に個人主義とか自己責任主義とまとめている社会のあるべき姿についての考え方がある。それは他のライバル思想とか、人々の感覚から飛び出してきたようなものからいろいろと栄養分をもらってたりする。実に100年以上にわたって、哲学者たちは私たちの精神を支配してきた。というのも、この[個人主義って大事だねという]件について彼らは、それはもう奇跡的に一致してたし、少なくともそう見えた。というわけで、相変わらず私たちはまだ新しい音楽にあわせて踊ってさえいないが、雰囲気は変わってきている。とはいえ、かつてくっきりはっきりと政治的な連中を導いていた声も、いまではぼんやりと曖昧にしか聞こえない。さまざまな楽器によるオーケストラ。正確な音を発するコーラス。こういったものがついに遠く去ろうとしている。
 
 17世紀の終わり、君主の神権は自然的自由と社会契約に置き換えられ、教会の神権は宗教的寛容の原理と「絶対的に自由で自発的」な「人々の自発的な共同体としての教会」という見方に置き換えられた*1。 そして50年後には、神聖さの根拠と義務としての絶対的な発言力は、利益(効用)の打算に置き換えられることになった。ロックとヒュームの手によって、この原則は個人主義の礎を築いた。社会契約論は、個々人に様々な権利がそなわっているとする。それが新しい倫理学である。それは個人を中心に据え、合理的な自己愛がもたらすものを科学的に探求するということ、それ以外の何ものでもない。ヒュームはいう。「徳が要求するただ一つの関心事とは打算であり、より大きな幸福へのたしかな選好である*2。」 このアイディアは、たしかに保守派や法律家たちの実際の考えと一致している。彼らは所有権や所有しているものを個人がどうしようとかまわない自由に対して、知的で申し分のない足場を提供した。これこそが、今私たちが感じている雰囲気への、18世紀からの貢献の一つだ。
 
*1 ロック『寛容についての書簡』(John Locke, A Letter Concerning Toleration.)
*2 ヒューム『道徳の諸原理に関する一研究』第60節(David Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals, section lx.)

 個人を称揚する目的は君主と教会との決着をつけることだった。その影響として——社会契約論がもたらした新しい倫理的な意義を通して——所有権と時効取得を強化することになった。が、まもなく、世の空気は自らを再び個人主義と相対する立場におくことになる。ぺーリーとベンサムは、ヒュームとその先輩たちの手から功利的快楽主義*1を受け取ったが、それを公共の利益にまで応用して見せた。ルソーは、ロックから社会契約論を取り出し、そこから一般意志を描き出した。どちらの場合も、新しく人々の平等を強調するという美徳によってその移行を遂げている。「ロックは彼の社会契約論を、社会全般の安全を考え、人類の生得的な平等というアイディアを修正するために活用した。その平等に、財産や特権の平等をも含意させようとしたのだ。しかしルソーの社会契約論では、平等はスタート地点であるというだけでなく、ゴールでもある*2。」

*1  ぺーリー大執事はいう。「私は、人間の本質的な威厳と許容力についてのよくある熱弁のほとんどを退ける。肉体に対する魂の優越だとか、人間の動物的な部分に対する理性の優位だとか、あるいは、満足感には価値あるもの、優雅なもの、繊細なものがある一方、下品で、不潔で、好色なものもあるといったものだ。なぜなら、持続性と強度以外の点で、これらの快楽は互いに変わらないものだからだ。」——『道徳および政治哲学の諸原理』(Principles of Moral and Political Philosophy, Bk.I, chap.6.)
*2 レズリー・スティーヴン『十八世紀のイギリス思想』(Leslie Stephen, English Thought in Eighteenth Century, ii, 192.)

 ぺーリーとベンサムも同じ地点にたどり着いたのだが、たどったルートが異なる。ぺーリーは、自身の快楽主義に対して利己的な結論をもたせることを回避したが、そのために、超自然的で都合の良い神を用いた。「徳とは」と彼は言う。「人類への奉仕であり、神の意志への従順さであり、永遠の幸福のためにあるということである。」——こうやって、「私」と「他人」を同等のものに引き戻したのだ。ベンサムは同様の結論に、純粋理性を使ってたどり着いた。彼の議論では、特定の個人、あるいは自分自身の幸福を、他の誰かの幸福よりも大事に思う理論的な根拠などないという。故に、最大多数の最大幸福が人生の唯一の理性的な目標となる——ヒュームから効用の概念を持ってきてはいるが、その賢人の[次にあげる]皮肉が効いた命題は忘れてしまったようだ。「自分の指がちょっと傷つくことよりも、全世界の破滅を選ぶというのは、まったく理性に反しているというわけではない。同様に、どこかの国の全く知らない人がちょっとしたことで困らないようにするために、自らの破滅を選ぶのも、全く理性に反しているとは言えない。... 理性とは、情の奴隷であるし、ただそうあるべきだ。そして情以外のものに従い奉仕するなんてことは、フリだってできない。」
 
 ルソーは人類の平等を自然状態から引き出した。ぺーリーは神の意志から、ベンサムは血も涙もない数理的な原則から引き出した。こうして平等と利他主義は、政治哲学の世界に足を踏み入れた。そして、ルソーとベンサムが合わさったところから民主主義と功利的社会主義が生まれ出た。これが二つ目の、長く忘れられていたが今もなお命脈を保っている潮流である。この潮流は多くの詭弁を生み出し、未だに私たちの思考が持つ性質に浸透している。
 
 しかし、この流れは第一の潮流を駆逐しなかった。19世紀初頭に奇跡的な合体が起こったのだ。ロック、ヒューム、ジョンソン、そしてバークの保守的な個人主義[これが第一の潮流]と、ルソー、ぺーリー、ベンサム、そしてゴドウィン*1の社会主義と民主的平等主義[第二の潮流]の調和が起こったのだ。

*1  ゴドウィンはすべての政府は邪悪である、というところまで自己責任主義を広げた。この点については、ベンサムもほとんど賛成していた。ゴドウィンの場合、平等という原則は極端な個人主義そして無政府主義へ近づいていった。彼はいう。「どんな時でも私的な判断を行使すること、これこそは言葉で表せないほどに美しいドクトリンなのだ。だから、真の政治家たるものは、このドクトリンを少しでも妨げようなどという考えには、無限のためらいを必ず感じるだろう。」——レズリー・スティーヴン、前掲書(Vide Leslie Stephen, op. cit., ii, 277.)
 
 しかしながら、この両極端の合体は、この時期にノリノリな状態だった経済学者たちがいなければ実現が困難だったろう。私的な生活の優位と公共の利益の神聖な調和は、明らかにぺーリーの主張に見て取れる。そして、その考えに充分な科学的根拠を与えたのは、経済学者たちだった。個人が自然の摂理に従って、自由に、文化的に自分の幸福を追求すれば、いつだって社会一般の利益も同時に満たすようになるというのだ! 私たちの哲学的な困難はこれで解決だ。少なくとも、己の自由を守るために全力で取り組むことの出来る人にとっては。
 
 政府には人々の生活に介入する権利はない、という哲学の原則。そして一切の介入は不要であるという完璧な神の計画。そこに、やっぱり介入は不必要であるという科学的な証拠が現れたのである。これが人々の思想の第三の潮流である。この思想はまさに、「個々人が己の生活を良くしようと励むこと」が、公共の利益の基礎となると考えていたアダム・スミスに見いだすことが出来る。が、19世紀が始まるまでは、意識的に発展させられなかった。しかしやがて、自己責任主義の原則は、個人主義と社会主義を調和させるに至った。そして最大多数の最大幸福をヒューム的な利己主義の中に実現させた。そうして政治哲学者は、ビジネスマンにその席を明け渡すことになったのだ。ビジネスマンは自分の利益を追求することで、政治哲学者の最高善(summum bonum)を手に入れることが出来てしまうのだ。
 
 それでもプディングに必要な材料はまだそろっていない。まず、その多くが19世紀にまで持ち込まれてしまった18世紀の権力の腐敗と無能である。政治哲学者たちの個人主義は、自己責任主義を指向していたし、(場合によっては)神による、あるいは科学的な個人の利益と公共の利益の調和もまた自己責任主義を指し示してはいた。しかしそれ以上に、当時の支配者層の愚かさというのは、現実的な人々を自己責任主義へと強く駆り立てた。人々のそういった想いは今も変わっていない。18世紀の政府がやったことは、ほとんどすべてと言っていいほど、有害で不必要であったか、そういうふうに見えたのだ。
 
 その一方で、1750年から1850年の間に、個々人の創意によって物質的な進歩がみられた。しかも、統制のとれた国家なんていうものの指図を受けずになされた進歩だった。この経験がとても自然に感じられる理屈を補強した。哲学者と経済学者たちは、いろいろ深い理由があるけど、結局私企業が自由に活動したら社会全体の幸福を増進させるよ、と語るようになった。ビジネスマンにとってこれ以上の哲学があるだろうか? また、これを実際に目撃した人が、彼の生きた時代を彩る進歩の恩寵を否定することが出来ただろうか? しかもその恩寵は、「金儲けに夢中」な個人の活動がもたらしたのだ。政府の介入は最小限にとどめ、経済活動には手をつけずあるがままにして、成功を求めるというあっぱれな動機に突き動かされている人々の技術と創意にゆだねられるべきである。つまりそういう教義をはぐくむ土壌が出来上がっていたのだ。神聖であったり、自然であったり、科学的であったりする土壌が。
 
 そしてそのころまでには、ぺーリーとその眷属の影響力は衰えていて、ダーウィンによる革新が人々の信念を揺さぶっていた。古い信念と新しい信念。これほどまで相容れないものはないと思われた。この世界を神聖なる時計職人の偉業とみる教義と、この世界を確率と混沌、そして気の遠くなるような長い時間から成り立っているとみる教義。しかしある一点において、新しいアイディアは、古い考えを補強することになった。それまで経済学者たちは「富、商業の発展、機械化は自由競争によってもたらされたのであり、自由競争こそがロンドンをつくったのだ」と教えていた。しかし進化論者たちはさらに先を行っていた。「自由競争が人類をつくったのだ」と。もはや人間の目は超人的なデザインの存在を示すものではなく、すべてが奇跡的に上手くいった結果得られたものであり、自由競争と自己責任主義の下でこそあり得たことなのだ。適者生存の原則は、リカード的経済学の幅広い一般化と捉えることができた。この壮大な統合の下では、政府による介入は不要であるばかりでなく、邪悪な行為であるのだった。なんといっても、私たちが太古の海のバクテリアからアフロディーテのように立ち上がった力強いプロセスの前進を妨害するものと見なされたのだから。
 
 それゆえ、私は19世紀の政治哲学に特異な調和をみる。それは、多様で相争う学派を統一し、もろもろを一つの結論に一致させることに成功している。ヒュームとぺーリー、バークとルソー、ゴドウィンとマルサス、コベットとハスキッソン、ベンサムとコールリッジ、ダーウィンとオックスフォード主教。実際のところ、彼ら [対立者たち] は互いに同じこと ——つまり個人主義と自己責任主義——を説いていたのだ。これこそが英国国教会なのであり、その使徒たちなのだ。さらに経済学者の一団が、この教義からわずかにでも逸脱すれば、不信心の報いとして経済的困窮は免れない、と証明することになっていたわけだ。
 
 これらの理屈や雰囲気が、自覚のあるなしに関わらず、私たちがここまで強力に自己責任主義に惹かれる理由であるし、貨幣価値の操作、投資の方向性や人口問題に政府が介入しようとすると多くの人に熱のこもった疑念を抱かせる理由でもある。とはいえ、この堕落した時代、私たちの多くはこの問題に気づいてさえいないのだが。ところが実際には、私たちは彼らの著作を読んでさえいない。仮に読んで理解したならば、彼らの議論はバカげていると考えるだろう。にもかかわらず、もしホッブス、ロック、ヒューム、ルソー、ぺーリー、アダム・スミス、ベンサム、そしてマーティノー女史が、彼らが考えたように考えずに、そして書き記しように書き記さなければ、私たちは現在考えているようには考えていないだろうと思うのだ。人々の間で有力なものの考え方の歴史を研究することは、人間の精神の解放のためには不可欠な準備作業である。現在のことばかり知っていることと、過去のことばかり知っていること、私にはどちらがより人を保守的にするのかわからない。

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