2009年11月26日木曜日

J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第5章

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第5章

 本稿の省察は、組織的に活動する機関を用いて現代の資本主義における政策技術をめいっぱい改善することを目指してなされたものだ。この中に、私たちにとって資本主義の本質的な特徴と思えるものと深刻な矛盾を来すものは一つもない。その特徴とはつまり、個々人の金儲けと貨幣に対する本能的な愛着を、経済というマシーンの強力な原動力とし、それに依存しているという特徴だ。本稿も終わりに近づいたので、話題をそらすわけにはいかないが、それでも読者の皆さんには、次のことを覚えておいていただきたい。つまり、これから数年の間に勃発するであろう、とんでもなく激烈な論争や、絶対に埋まることなどありえなさそうな意見の溝というのは、主に経済政策についての技術的な問題を巡るものではなく、上手く言えないけど、心理的とか、あるいはおそらく道徳を巡る対立なのだということを。

 ヨーロッパ、少なくともその一部では——でもアメリカではちがうと思う——、私たちが個人の貨幣愛を育て後押しし保護しすぎている、という潜在的な反発が広範に存在する。私たちの社会を人々の貨幣愛を刺激することで動かしていくというやり方について、その刺激は少ない方が多いよりも好ましいのかどうか、無条件に決まっている必要はない。社会の事例の比較に基づいて決められるべきだろう。人それぞれ選んだ職業が異なれば、日常生活の中で貨幣愛の演じる役割の大小も異なってくる。さらに歴史家たちは、貨幣愛が現在ほど重要でない社会組織のあれこれについて教えてくれる。ほとんどの宗教とほとんどの哲学は、控えめに言っても、預金口座の数字を増やすことばかり考えている人生を全く評価しない。しかしその一方で、今日の人々の大部分は禁欲的な警句を無視するし、現実に裕福であることの有利さを疑ったりしない。それどころか、人々は、貨幣愛なしでは物事が立ちゆかなくなるし、無茶苦茶なレベルでなければ貨幣愛は上手く機能していることは明らかだ、と考えているようだ。その結果、平均的な人々は問題から目を背けてしまい、複雑で大局的な事柄に対して、自分自身が本当のところ何を考え感じているのか、はっきりしたイメージを持てないでいるのだ。

 頭と心の混乱は、言論の混乱につながる。資本主義的な人生のあり方に切実に反対している人の多くは、まるで資本主義がその資本主義的な目標を上手く達成できていない、として資本主義に反対しているかのようだ。その裏返しで、資本主義の熱烈なファンたちは、不必要なまでに保守的で、政策の技術的な改革さえ拒否する始末だ。それは、改革を実行すれば当の資本主義が強化され長持ちするかもしれないのに、改革へ踏み出すことが資本主義からの離脱の第一歩になるかも知れないと恐れているからだ。しかしそれでも、資本主義は社会運営の手段として効率的なのか、それとも非効率なのかと議論している現在よりも、そして資本主義は社会にとって望ましいのか、それとも本質的に問題を抱えているのかと議論している現在よりも、物事をより明確に把握できる時代が近づいているのかもしれない。私見では、資本主義は上手く管理されれば、現存するどの社会体制よりも効率良く経済的な成果を上げることが出来ると思う。しかし本質的に実に様々な問題を内包してもいる。私たちの課題は、人々の満足いく人生の条件を損なうことのない、めいっぱい効率的な社会の仕組みを機能させることである。

 そして次のステップは政治的なアジテーションや時期尚早な社会の実験ではなく、思考によって踏み出されなければならない。私たちは、理性を働かせて自らの感情を解明する必要があるのだ。現在のところ、私たちの人を思いやる心と実際に下す判断はバラバラになりがちである。これは痛々しくマヒした精神状態と言っていい。現実の行動に移す場合、改革を志す人々は、自分たちの知性と感情を調和させ、明確でハッキリとした目標に着実に近づいていくのでない限り、成功を収めることはないだろう。現在、世界には、正しい目標を正しい方法で目指している政党は、私には見あたらない。物質的な貧困は社会的に実験を行う余地がほとんどない状態でも、明確な変革へのインセンティブを人々に与える。がしかし、物質的な繁栄は、安全な賭に出るチャンスであるかもしれない時に、変革へのインセンティブを奪い去ってしまう。前進するために、ヨーロッパは手段を欠き、アメリカは意志を欠いている。私たちは心の内の感情と外的な事実の関係を誠実に検証して、そこから自然に生まれ出た新しい信念を必要としているのである。

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