2012年9月20日木曜日

[訳してみた] シカゴの教員スト

一週間ほど前に、シカゴで教員組合のストライキがあったそうです。New York Review of Booksというサイトのブログにその背景を解説した記事があったので訳してみました(原文リンク)。

組合側はオバマ政権が進める教育改革に反対しており、その政権側の改革というのが、まあなんというか、おめでたい進歩主義な感じなんですね。勉強すればするほど、努力すればするほど報われる。そういうアレです。

では本文をどうぞ。かなり教員寄りの記事です。


(翻訳はじめ)

シカゴ学校改革:二つのビジョン

Diane Ravitch


たいていのメディアの報道では、シカゴの教員がストライキをしているのは、彼らがごうつくばりの怠け者だからだ、ということになっている。あるいは、ラーム・エマニュエル市長と労働組合の議長であるカレン・ルイス氏の個人的な衝突がストの原因としているものもある。さらには、エマニュエル市長が授業時間を延長しようとしているが、教員たちがそれに反対しているのが原因だ、というものもある。

このどれもが正しくない。どの報道でも、両者が(訳注:時間延長の)補償問題では合意に近づいていたことでは一致している──つまり両者を断絶しているのはお金ではないのだ。この前の春、教員組合と教育委員会は授業時間の延長について合意している。だからこれはここでも問題にならない。このストライキは、シカゴの、ひいては国の学校改革の為には何が必要なのか、その問題に対する二つの大変に異なったビジョンの衝突なのだ。

シカゴの学校制度というのはもう20年近くも前から学校改革の実験場であった。1995年には、シカゴの学校は市長による厳しい統制下におかれるようになり、当時の市長リチャード・デイリーは、ポール・バラスを学校運営の予算管理長官に任命した。そうしてバラスは、学力テストの点を上昇させるべく動き出した。各種部門に特化した学校やチャーター・スクールを開き、同時に予算も均衡させた。バラスが知事選に出るために去っていくと(結果は落選)、デイリー市長は再び教育者でない人物、バラスの代理をつとめていたアーン・ダンカンを管理長官に任命した。ダンカンはチャーター・スクールの熱心な推進派だった。前任者のバラスは改革につぐ改革を押しつけてきたが、ダンカンはそのさらに上を行く人物であった。ダンカン長官は自身の政策プログラムをルネッサンス2010と呼び、成績の悪い学校を閉鎖し、新たに100校を開校することを目指した。そして2009年以降、ダンカンはオバマ政権の教育長官をつとめている。そこで彼は50億ドルの「トップをねらえ(Race to the Top)」プログラムを実施した。このプログラムは、教員の能力を計ること、教員の能力給の上乗せ分を決めること、学校を閉鎖する、あるいは報償を与えることなどを、生徒のテストの点数によって決めていくようにするものだ。さらに民間運営されるチャーター・スクールの普及も大いに後押ししている。

これがワシントンが支持しているビジョンだ。そして同時にこれは、現在の市長であり、オバマ政権の前の首席補佐官であるラーム・エマニュエルによって任命された、シカゴ市教育委員会が裏書きするビジョンなのだ。つまり、学校はまだまだ閉鎖されるし、民間経営の学校は増えていくし、学力テストもたくさん行われるし、能力給も支払われるし、授業時間は長くなっていくのだ。しかし、そもそもの改革のスタート地点であるシカゴ市そのものでは、ほとんどの研究者たちが、改革の結果はどう贔屓目に見ても微妙なものであることで一致している。つまり、ルネッサンスは起きなかったのだ。20年近い改革ののち、シカゴの学校は全国でもっとも低い成績にとどまったままなのだ。

シカゴの教職員組合は、また別のビジョンを持っている。彼らはより少人数のクラス、ソーシャル・ワーカーの増員、夏期講習が行われている灼熱状態の施設にエアコンを設置、カリキュラムの完全実施、諸芸術科目と外国語の教師を全ての学校に配属させることを求めている。シカゴには一クラス40人を越える学校もあるし、それどころか、そんな幼稚園まであるのだ。図書室のない学校が160校あり、40%以上の学校には芸術科目の教師がいない。

教員たちは何を求めているのか? 一番こだわっている点は、教員の能力評価というかなり難解そうな論点である。市長は、その教員が有能(ボーナスゲット!)であるか無能(クビ!)であるかを決める際に、生徒のテストの点数を大いに重視しようとしている。組合側は、テストに基づいた評価は不正確でフェアじゃないとする調査・研究の存在を指摘している。シカゴは公立校が人種ごとに深く分断されていて、若者の暴力レベルの高い街である。教員たちはテストの点数が自分たちの指導の影響だけでなく、教室の外で起きていることの影響も受けていることをよく知っているのだ。

このストライキは全国的な関心を集めている。それは現政権が後押しする政策が論点となっているためだ。それに、この問題は全国いたるところで起きているものでもある。シカゴだけでなく他の都市でも、教員たちは少人数クラスとバランスのとれたカリキュラムの実施を主張している。あたりまえのように公立校と全く同じ結果になってしまっているのに、改革派は民間経営のチャーター・スクールを増やしたがっている。チャーター・スクールの教員は90%が非組合員なので、右派のお気に入りなのだ。一方教員たちは雇用の安定を求めている。そうすれば気まぐれな理由でクビにならないし、意見の分かれるようなテーマや本について教えられるという学問的自由も手に入るからだ。

このストライキはオバマ大統領の悩みの種だ。というのも、大統領は来る11月の選挙で欠かせない二つの友軍の板挟みになっているからだ。大統領は労働組合の、特に400万人の教員たちの支持が必要だし、彼らの多くが2008年には当時のオバマ候補を熱心に応援していたのだ。といって、どうしてオバマがラーム・エマニュエルを斬れるだろうか? 大統領にとってはさらに頭の痛いことに、教員たちは政権の「トップをねらえ」プログラムの中核をなす原則にまで反旗を翻すようになっている。このプログラムは、各州が教員を評価し、能力給の額を決め、「しくじった」学校を特定して大量解雇と閉校にまで持ち込めるようにする際に、学力テストを大いに活用するものであり、シカゴのあるイリノイ州を含め、教育改革を表明している各州にその実施のお墨付きを与えるものだ。

結果から言えばこのストは、賃金体系とか解雇や再雇用の規制を見直す必要がある、といった一見すると実務上の問題のようにして収まってしまうかもしれない(学歴や経験で給料に差をつけたままでいいのかどうか、とか)。しかしそこで残された問題こそがもっとも大きな問題となるだろう。つまり、教師に対するアメと鞭は、生徒にとって良い教育を生み出せるのか? シカゴ市は公教育の民営化を続けるべきなのか? 標準化テストは教師と学校の質を計る手段として適切なのか? 学校改革によって強固な人種間の分断と貧困が乗り越えられるのか? 私たちの社会は都市部の子供たちに、今よりも遙かに高いレベルの教育を授けるだけの余裕があるのか? という問題だ。

予想通り、ストを実施した教員たちは全国メディアからの非難を浴びることになった。メディアはラーム・エマニュエルの強硬姿勢に感じ入っているが、あちこちの教員たちがシカゴのストに賛同している。多くの人々が彼らを、教員たちのために、そして団体交渉権のために立ち上がったのだと見ているのだ。団体交渉権は、1935年、大恐慌のさなか、ワグナー法が議会を通過したことで認められた(と考えられている)もので、労働者が組合に加入する権利を保障するものだ。標準化テストの濫用と誤用を懸念してきた教育問題の研究者たちは、各種の証拠によらず問題が政治的に解決してしまうことを恐れているようだ。もし市長が勝利すれば、それは教員と組合への横暴、そして学校閉鎖と民間チャーター・スクールの推進政策の勝利と見なされるだろう。反対に、あり得そうにないが教員たちが勝利すれば、シカゴの子供たちが少人数クラスと今よりマシなカリキュラムを手に入れることになるだろう。一番良いのは友好的な落としどころに落ち着くことだろう。つまり、テストは増やさずに優れた教育を約束することだ。


(翻訳終わり)

日本でもかつては少人数クラスが話題になったりしていましたけど、最近はあまり聞きません。阿部彩著『子供の貧困』の書評でも書きましたが、若い人たちに対する無関心が深まっているのかもしれません。高島俊男先生が、
cover
お言葉ですが…
〈第11巻〉
高島俊男
一般に戦後の日本人は学歴に関して苛刻になり、学歴の低い者やない者を容赦しなくなった。学校なんかどこを出てようと出てまいと、立派な人は立派だ、つまらんやつはつまらん、というあたりまえのことが通用しなくなった。


と言ってましたが、この変化は、個々人が生まれ持った特徴を社会がネガティブにしか認めなくなってきたとも言い換えられるのではないでしょうか。そういった特徴は、思うようにはならない類のものであり、ときに冷静に直視するのが難しいものにもなります。個人の特徴から目をそらせてテストの点でもって一列に並べてしまう。まあそのほうが管理は楽です。さらに日本の学校は行事が目白押しですから、表面的には忙しいでしょうが、個々人の特徴を見極めて教育する、という点ではほぼ何もしていない。現場の先生に丸投げで、組織的には楽なもんです。

これじゃ職場でノルマを一律に課すようなもので、企業の利益のためならば場合によっては正当化もされましょうが、子供たちをそのように扱う目的は何なのでしょう?

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シカゴと言えば、高山マミ著『ブラック・カルチャー観察日記 黒人と家族になってわかったこと』同『黒人コミュニティ、「被差別と憎悪と依存」の現在――シカゴの黒人ファミリーと生きて』によると、今時のシカゴの黒人コミュニティでは誰も『ブルース・ブラザーズ』を見てないとか。もう心底ショック。