2010年12月14日火曜日

役人なんてららら・書評・新藤宗幸『司法官僚』

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司法官僚
裁判所の権力者たち
新藤宗幸
このブログでは経済学関連の本を取り上げることが多いので日銀の悪口じゃなくて問題点をよく話題にするんだけれども、結局その問題点は経済学というよりもお役所ってことなんだろうなあというのが正直なところ。だって日銀はぜんぜん批判に答えないし、政策を変更してもちゃんとした説明をしてくれないし、すぐ一般市民には難しい技術的な話を始めるし、なんかフツーに性格わるいですよね。で、そのお役所問題は司法府にもあるんだよ、というのが行政学者による今回の本、新藤宗幸著『司法官僚 裁判所の権力者たち』だ。扱っているテーマが司法でありその官僚機構批判であるのでとにかく漢字が多い。肩書きも法律の名前も漢字漢字漢字。読むのはちょっと大変でした。本書では裁判員制度についても扱っているけど、この書評では触れません。裁判員制度についての本は沢山あるので。

裁判官のお給料は誰が決めているのだろう。裁判官の次の転勤先を決めるのは? 裁判所法という法律に定められているところでは、最高裁判所の裁判官たちが決めることになっているそうだ(裁判官会議)。ただ全国に3,500人いる裁判官とその仲間たちの処遇のいちいちを彼らが決めるのは現実的ではないので、実質的には最高裁判所事務総局(所属する人数は30人前後)という部署が一切を取り仕切り、裁判官会議が「それでいいです」みたいな感じで承認を与えるんだそうだ。で、この事務総局ってのが本書のいう司法官僚のみなさんがいるところであり、お役所問題をばりばり生み出しているところでもある。 どんなお役所問題なのかというと、例えば、1947年、訴訟の数に対して判事が不足してたので、当面の措置として、戦前の予備判事制度をもとに判事補制度がつくられた。この制度のおかげで数年の実務経験がある判事補は裁判の指揮をとることができるようになったわけだが、それから60年、いまだにこの応急手当的なはずの制度が事実上裁判官になるための唯一の道として生きている。ここにかなり不透明な裁判官の選抜プロセスがある。法的に当面の措置だった制度を使って出世レースが行われているらしい。

本書のすごいところは、著者による調査が実に細かいところまで及んでいることだ。裁判官の経歴を細かく追っていて、現役の人たちだけでなく過去にさかのぼって調査している。この点はおそらく裁判官たちの問題意識の高さも関わっているんだろう。本書では、匿名ではあるけれど、多くの裁判官が事務総局のあり方に疑問を呈している。

さてその事務総局だが、現在局長をつとめるのは裁判官だ。というかここ数十年、裁判官が局長をつとめている。法律上は裁判官でなければ局長になれないわけじゃないけど、なんとなくお役所的にそうなっている。そして問題は、事務総局で働く裁判官が選ばれるプロセスが、先ほど書いたように出世レース的なものになっているらしいことだ。

憲法上、裁判官というのは独立した存在でなくてはいけないんだそうだ。つまり組織の都合に左右されずに判決をくださなくてはいけない。しかし司法府においてお役所的出世レースが開催されている以上、裁判官の独立はずーっと危険な状態にあったということだ。

弁護士たちのあいだでは事務総局というのは相当に問題視されているようで、事務総局が裁判官たちに何かほのめかしたり、暗黙に圧力をかけたりして判決を統制しているのではないか、と疑われている。これは根拠のないことではなくて、74年の多摩川の堤防決壊による多摩川水害訴訟では、一審で住民側の勝訴だったけれど、国の控訴をうけた高裁では国側の逆転無罪となった。やがて高裁判決以前に事務総局によって全国の裁判官を集めた協議会が立ち上げられていたことが朝日新聞にスクープとして載った。なぜこれがスクープなのかといえば、当時は都市の発展とともに水の必要量も利用量も増え、従来までの治水能力ではまかないきれなくなっていた。そのために水害が都市部で多く起きていたが、そのような水害に対する訴訟はすべてこの協議会で事務総局が示した見解に沿ったものだった。つまり一人一人独立していなければならない裁判官の判決が統制されていたことになる。(pp. 165)

元事務総局長だった人の談話がのっていて、なんでも事務総局というのはほとんど権限なんかなくて、まあ人事くらいのもんで、言われているほど強権的じゃない、とか。なんか日本経済に対して言われるほど影響力はないと自負していた日銀みたいですね。とはいえ、人事に関しては認めているわけだ。

ではその人事を見てみよう。裁判官が誕生するには、まず司法試験にうかった人たちが判事補になるところから始まる。数年たつと彼らは裁判官になるのだけど、問題は、判事補になって2〜3年のうちにすでに事務総局長になるための選抜が始まっているらしいということだ。選ばれた彼らは事務総局で働くことになるので「局付き」と呼ばれるんだけれど、大抵が判事補になって2〜3年、遅くとも5年のうちに「事務総局長になれるかなレース」の出場権を獲得することになる。彼らはエリート。それ以外の人は脱落。もう事務総局長にはなれない。

このときに選ばれた判事補の、いったい何が事務総局のお眼鏡にかなったのかは一切不明だ。彼らの思想信条が理由ではないか、と本書は推測している。では普通の裁判官の人事評価は何にもとづいているのか? 弁護士たちは、裁判所は「影の人事評価」のようなことをしているのだろう、と批判していた。そして裁判所は従来それを公式に否定していたんだけれども、小渕内閣の司法制度改革審議会からの公開要請があると、あっさり人事評価の用紙を提出してきた。じゃあなんで何十年も否定してたんだよという話だけれど、ともかく審議会は裁判所に対してもうちょっと透明性を高めなさいよと言ったのだけど、事態はあまり改善していないようだ。言ってやるようなら役人じゃないよね。

裁判官も転勤の多い職業のようだけど、誰が何処に行くのかももちろん事務総局が決めていて、思わず笑ってしまうのだけど、転勤を命じられた当の本人はなぜ転勤を命じられたのか、転勤先で何を期待されているのか、一切知らされていないという。あるケースでは家族の都合もあり転勤は難しいと感じた裁判官が上司(裁判所長)にかけあったところ、その上司も自分の部下が転勤する理由を知らされていなかったそうだ。この転勤が、事務総局の意に反した判決に対する懲罰的な意味合いがあるのではないかと疑われている。ちょっと穿ち過ぎかなとも思うけど、わけのわからん秘密主義のせいでものすごく疑わしく見えちゃってる。理由も告げずにあっちからこっちに異動させる。ブラック企業じゃないですか。

司法官僚の問題がとくにやっかいなのは、選良による有無を言わさぬ方向転換が難しいところだ。日銀はルーピーな首相が近づいていっただけで意見を変えたけど(参照)、最高裁判所の裁判官会議に首相が口出しをしたら大問題になるだろう。なんといっても戦前の司法省は完全に行政側の組織で、市民と国の対立を解消したり緩和したりする能力をもっていなかったのだから、その反省をもとに作られた現在の司法制度の改革に政治家が積極的に関わるのは難しそうだ。識者を集めた審議会の提言が精一杯なんじゃないだろうか。

裁判官になろうなんて人はどう考えたって日本人の平均よりもだいぶ上のほうの頭脳を持っているはずだ。その彼らにしてこの様なのだと思うとかなり憂鬱。官僚制は社会の発展の基盤なのだと思うけど、それだけに青雲の志をもった中の人がどうにか出来るようなものでもないのだろう。やっぱりミルトン・フリードマンの教えの通り(参照)、お役人には裁量を与えちゃいけないということだろうから、事務総局から法的にも曖昧なその権限を奪い、本書の提言にもあるように、事務総局長には識者や弁護士をあてるよう法改正すべきだ。その役目は立法府たる国会で、当然超党派での法案提出が望ましいんだけれども、そのためには裁判所内行政の問題が国民の目に明らかでなきゃいけないだろう。この問題にいきなり政治家が出てきて果たして僕たちが冷静でいられるのかかなり怪しい(この点に関しては国会運営のやり方を変える必要があると思う。まず本会議で趣旨説明、その後委員会で審議という形に(参照))。であれば、この問題が進展するには相当の時間が必要になるだろう。

2010年11月12日金曜日

上手くいきませんでしたけど何か?・書評・中村隆英『昭和恐慌と経済政策』

例のごとく更新が滞ってしまった。再開します。

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昭和恐慌と経済政策
中村隆英
気がついたら日銀がまた量的緩和をやるんだそうで。効果ないんじゃなかったっけ? でも喜ばしい方針転換です。今日の本は中村隆英著『昭和恐慌と経済政策』。正しくタイトル通りの本で、1929年以降の米国経済の急減速の影響という形で始まった不況がなぜ恐慌とまで呼ばれるようになったのか、その原因と目される井上準之助と彼の実施した政策を中心に据えて昭和恐慌の全体像を描いていく。文庫本で手に入りやすい。

金本位制への復帰(金解禁)は浜口雄幸内閣が誕生した昭和4年(1929年)当時、政財界の総意だった。今となっては滑稽ですらあるんだけれども、当時は「経済的理由を超えて金本位制が望ましいという金本位心性」(若田部昌澄『危機の経済政策』p.27)(参照)の時代だった。で、濱口内閣で大蔵大臣に就任したのが金融界出身で元日銀総裁の井上準之助だ。彼はすぐさま金解禁を実施するものの、世界恐慌は始まるし満州の軍は言うこと聞かなくなるしで日本を未曾有の不景気に叩き込んだだけで失敗してしまう。そのあとを高橋是清が継いでリフレ政策に転換。景気は順調に回復しはじめたけれど、2・26事件が起きてしまう。と、こんなあらすじです。

一月に金解禁を実施した昭和5年、壊滅的な状況となったこの一年について、井上は自分がここまでのデフレは予想していなかったと認めている。しかしそれでも彼の方針は翌昭和6年も堅持される。この時点での井上の演説の内容をまとめた箇所があるのだが、これはもうめまいがするほど現代日本の善男善女がもつ経済観とそっくりだと思う。そのまとめをさらにまとめてしまうと、不況によって企業は普段できない合理化をすることができた。さらなるコスト削減をしなければ世界では戦えない。不況に対して政府が財政出動してしまえば、世間の人は動かない。外国もおんなじくらい悪い。今後はだんだんよくなると思う。今は雌伏の時だからぐっと耐えなくちゃダメ。日本国民が一丸となって新しく生まれ変わる必要がある、云々。

平成不況もずいぶん長いのでさすがにこのまんまな人はあんまり見ないけど、ちょっと前まではかなり一般的な感覚だったんじゃなかろうか。さて、その後も井上はかなり強気に緊縮財政に取り組むのだけれど、どうもその強気の根拠は、「そのうちに景気が回復する」ということだったようだ。終わらない不景気なんてない。確かにその通り。しかし失われた二十年が囁かれているここ現代日本では、その言葉は虚しく響くだけだ。

本書を読んで強烈に感じるのは、戦前の日本が如何に個人の力に頼っていたか、ということだ。特に最後の元老西園寺公望は政策の正当性を担保するためにことあるごとに政治家たちから相談を受けるわけだけど、一人の人間がただでさえ複雑な政治問題をいくつも捌けるはずもなく、井上の政策に対しても、その内容を理解していたのかどうか疑問が残るし、どの方針からも微妙に距離をおくことで自身の地位を保っていたようだ。もちろん彼が影響力を維持することで、過激な方針に牽制できたりもしたのだろう。しかしそうやって個人の力に頼り切りになると、外からのチェックも働かないし、メンツの問題が大きくなりすぎる。

井上の金解禁は失敗だったけど、方針転換のチャンスは当時の日本には存在しなかった。金解禁は民政党の一枚看板だったから撤回はできなかった。昭和5年(1930年)に金解禁が実施されたが、その前年にはアメリカで恐慌が起きていて、その影響が世界中に広まりつつあった。そんな時期になぜ不景気になるとわかっている金解禁を実施したのかといえば、世界の趨勢に従うことをアピールしたかったからのようだ。つまり、日本は世界の脅威ではない、とそう主張したかったらしい。金解禁を実施することがなぜそのようなアピールになるのかは本書を読んでいただこう。しかしそれも失敗に終わる。金解禁の翌年の9月、柳条湖事件が起こり、以降政府は不拡大方針を掲げるものの軍は止まらず、日本の国際的な信頼は地に落ちた。さらにこの昭和6年には金本位制の総本山イギリスが金の持ち出しを禁止して、金本位制から離脱してしまう。こうして金解禁のために井上が国民に要求した倹約や、その結果としての大不況はただただ国民を苦しめただけで終わった。浜口内閣の退陣後も、井上は自身の政策の正しさを主張するのだけれど、どうしてもたらればな言い訳に聞こえてしまう。本人も政策の間違いに気づいていた節もある。

井上の政策はことごとく裏目に出た。結果的には不況をさらに深刻化させただけで、国民の苦しみは軍にさらなる求心力を与えることになった。では井上がもっと上手くやれば状況は変わったかといえば、それもないと思う。井上個人はすごく有能な人物だったようだし、不合理な決断ばかり繰り返していたわけでも、情報収集を怠っていたわけでもない。当時の日本の政治は今以上に劇場かつ激情型だったようで、特に政策の変更=政治生命の終わり、という風潮は、貴重な政治的資源の無駄遣いという他ない。政治家がリスクをとって決断し、あとは臨機応変に、というのが民主主義の妥当なあり方だろうけど、当時の日本にとってはそれが相当難しかったようだ。井上のあとを継いだ高橋是清のリフレ政策も、国の経済がかなり追い詰められていたからこそ実現可能だったのだと思う。金解禁を見合わせるか、新平価で解禁して景気の様子をみながら政策を実施して行くなんて選択肢は理屈としては存在していても、実際のところ当時の日本にはなかったようだ。

だとすれば、マニフェストを守らないなんて可愛いものかもしれない。でも、権力が個人に集中してくるとメンツの問題が大きくなりすぎるし、意思決定のスピードもガタ落ちになる。そっちは本当に心配だ。仙谷さんと白川さんにはぜひとも気をつけていただきたい。

2010年9月6日月曜日

iPhone買った

さて、買ったばかりで浮かれまくりのiPhoneから更新してみる。

どこでもブログを書いて気軽に更新出来るようになったので、さぞ更新頻度が上がることでしょうと思いきや、やっぱりリンクを貼ったりするのが結構難しいというかめんどくさいので、そういうところはPCでやらざるを得ないかなという印象ですね。

ちょっと迷ったけどAppleのキーボードを買ってみた。もともと常に本を数冊持ち歩くので、折りたたみのキーボードでなければダメってこともなかったし、結果的にはとてもよい感じで文章の入力ができてます。

iPhoneの漢字変換はとても優秀だけど、変換キー(というかスペースキー)を押すタイミングを気持ち遅らせないと最後に押したキーを認識せずに変換候補を探してしまうのでそこは注意が必要。でも、フリックキーの数倍の速度で打ち込んでいるのにちゃんとついてきているのはすごい。出先でも気軽に長文を思う存分打ち込みたくて、いつもバッグを持ち歩いている人ならiPhoneはかなり正解に近いんじゃないだろうか。

あとはワープロソフトなんだけどこれはすんなり決められそうにない。これから色々試さなきゃいけない予感。とりあえず今はEvernoteに書きちらかしてあとでmac bookでまとめる、みたいな感じです。ちょっとめんどくさい。当面App探しの旅にでます。

2010年8月31日火曜日

書評・夏休み読書感想文・その2

この夏に読んだ本のなかから。その2です。その1はコチラ

高橋洋一『日本経済のウソ』


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日本経済のウソ
高橋洋一
 本書は著者が各種媒体で書いた文章を再構成したものだ、と思う。そのためか、ちょっと読みにくかった。でも著者の従来の主張を最近の数字で語り直したという感じで、リフレ政策支持者の新しい弾薬庫、といった趣がある。例えば、
 
・「麻生政権の財政出動では十分ではありませんでした。経済規模から見れば、GDPが日本の2.4倍のアメリカで78兆円、日本とほぼ同じGDPの中国で56兆円の景気刺激策でしたが、日本の第二次補正予算は14兆円でした。」(pp. 24)

・「2009年の政権交代時、日本の10年国債の利回り(収益の割合)は1.2%、10年物価連動国債の利回りは2.4%です。これから一般物価の将来予想はマイナス1.2%となります。一方、アメリカの10年国債の利回りは3.2%、10年物価連動国債の利回りは1.5%です。これから一般物価の将来予想はマイナス1.7%となります。したがって、日本とアメリカで、それぞれ名目金利は1.2%と3.2%、実質金利は2.4%と1.5%です。このように実質金利が日本のほうが高いので、今後日本の設備投資に懸念があるのは当然です。」(p.27)

追記:2010/Oct/13
上の引用箇所でアメリカの一般物価の将来予想が「マイナス1.7%」というのはおかしい、という指摘をコメント欄で頂きました。本書で確認したところ「マイナス1.7%」となっていましたが、そこがマイナスだとアメリカもデフレということになってしまうので、本書自体(と僕の引用)のミスですね。 (追記終わり)


 日本の経済対策が不十分なこと、日本の金利は特別低いわけじゃないこと、こういったことが2008年以降、世界経済の停滞と各国の対策を経て証明されてしまったのだ。あと、本書にあるグラフはどれも日銀の仕事ぶりをこれでもかというくらい浮き彫りにするもので、強く印象に残った。

 個人的には為替介入の仕方が2000年以降変わったというところが勉強になった。介入のための資金は市場を通して調達されているので、ただ介入しただけではハイパワードマネーは増えない。これはまったくの不勉強でした。言い訳をすれば、日銀があれだけ介入を嫌がるもんだから、日銀が介入のための資金を供給してるのかと思うのは人情ってもんでしょう。現実にはそうではなくて、日銀が国債を買い上げない限り、市場のお金が移動するだけということらしい。いや勉強になりました。

 奇妙なことにこの本にも「成功にとりつかれた日本の中高年男性」の影がちらついてるような気がする。

狩集紘一『暴力相談 「こわがらせる人」との交渉術』


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暴力相談
狩集紘一
 本屋でなんとなく手にとってみたら面白そうだったので買ってみた本。で、面白かった。なによりもとても実践的なので、これを読んで損する人なんてそうそういないだろう。

 著者は警察官として暴力団対策に携わってきた人で、引退後、その経験と知恵を市民と共有する活動をしているそうだ。暴力団やそんな感じの人と接触したときにどうすればいいのか、その方法をかなり具体的に(どんなふうに話せばいいのかというぐらい具体的に)、解説しているうえに、脅しつける人の心理まで解説していて、「なるほどな」「やっぱりな」と納得すること請け合いだ。そして彼らの心理を知ってしまうと、あんまり怖くなくなっちゃうんですな。なのでどうも話しの通じないオジサンとお付き合いのあるかたは是非どうぞ。

 ところでアマゾンのレビューを見ると、対策がどれも同じという批判があるけど、その通り。それは副題にもなっている「こわがらせる人」ってのが一種類しかいないってことを示唆している。つまり「成功にとりつかれた男性」ってことだと思う。もちろん実際の現場はそれぞれ事情が異なるだろうし、予想のできないことが起こったりもするだろうけど、本書が提示する対策には説得力があると思う。

ヤマザキマリ『イタリア家族 風林火山』


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イタリア家族
風林火山
ヤマザキマリ
 あの『テルマエ・ロマエ』の作者のエッセイ漫画。買うかどうかとても悩んだ本だ。エッセイ漫画にはただでさえ薄い財布をペッタンコにされてきたので、どうしても警戒してしまう。が、本書は文句なくおすすめです。『テルマエ・ロマエ』の主人公ルシウスのモデルは著者の旦那さんだ、という話はどこかで聞いていたんだけど、僕が想像していた夫婦像とはまるでちがった。きっとみなさんが想像しているものともちがうだろう。とにかく意外だった。そもそも著者がこういう感じの人だとは『テルマエ・ロマエ』からは想像できなかったなあ。そしてさらに、著者と旦那さんの馴れ初めは必読だ。読み始めて三十数ページ、不覚にも号泣してしまった。その他は爆笑してました。9月には『テルマエ・ロマエ』の2巻が出るそうでそちらも楽しみです。

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テルマエ・ロマエII
ヤマザキマリ
 当然だけどこの本には「成功にとりつかれた日本の中高年男性」の影はちらついていない。むしろ「オマエはいったい何にとりつかれているんだ、というイタリア男性」の影というか、男性に限った話でもない何かがちらついているというかモロ見えだ。




ロバート・I・サットン『あなたの職場のイヤな奴』


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あなたの職場の
イヤな奴
ロバート・I・サットン
 ひどい労働環境で働いている友人の誕生日に贈るので久しぶりに読み返してみた。とにかく、じっと耐えていればイカれてる職場が勝手に治ったりすることなんてないし、沈みゆく船につきあう贅沢が許されるほど人の一生は長くない。直接的な因果関係があるとは言わないけど、やっぱ日銀仕事しろと改めて思った。日銀という職場がイカれてるのかもしれないけど。

 当然、この本には「成功にとりつかれた男女」の話しか載っていない。自分は大丈夫と思ったら、それが「クソッタレ」病のサインです。

書評・夏休み読書感想文・その1

毎日暑くて眠れない夏。だらだらするだけで疲れちゃう日々なのでブログもサボってたけど再開しよう。

そんな日々に読んだ本から何冊か、夏休みの宿題っぽく感想文を。今回はその1。その2まであります。

久繁哲之介『地域再生の罠』


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地域再生の罠
久繁哲之介
面白かった。何が面白いって、「あの地方都市はなんだか景気がいいって評判だけど、それってホント?」という疑問に答えてくれるから。本書によれば、なんてことはない、成功している地方都市というのは、それほど突飛な方法を使ったりしてなくて、地元の市民、企業、役所が地道に活動した結果だったりするので、大きな商業施設を立てて成功した! とか、大きなイベントを開催して成功した! という話は「成功にとりつかれた日本の中高年男性」の虚しい遠吠えであることが多いようだ。

本書はこの「成功にとりつかれた日本の中高年男性」が日本全国津々浦々で巻き起こす珍騒動を、その顛末も含めて、冷静に時間をかけて観察して分析した本だ。一読すれば、「やっぱりな」と感じる人も多いだろう。日々街を歩いて感じる違和感の理由をこれでもかというくらいはっきりと指摘してくれるので、とっても気持ちいい反面、身近にいる「成功にとりつかれた日本の中高年男性」の顔が浮かんできてイライラもするだろう。

以前秋田市に旅行に行ったとき、札幌と東京でしか暮らしたことのない僕は、なんて不便な街なんだ、と思ったものだった。どうして路面電車か地下鉄を作らないんだろうと不思議に感じた。車がなければ生活できない街は必然的に街中が駐車場だらけになってしまう。そんなに小さな街でもないのにもったいないな、というのがその旅行の感想だった(何しに行ったんだ)。

一方で、本書によれば岐阜市はコンパクトシティ構想、つまり歩いて暮らせるくらいコンパクトな街を目指すべく路面電車を廃止したそうだ。岐阜市は40万人都市だ。本書もその政策を厳しく批判しているけど、僕も同感だ。公共交通機関は都市にとって生命線だと思う。岐阜市には行ったことはないけど、いくらコンパクトシティを標榜したって市民の多くは中心部には住めないし、住みたくもないだろう。そうなればバスを利用するか車を所有するかだけど、結局時間かお金かどちらかの形で生活の費用がかさむだけだ。ある程度発展した都市に新しく交通機関を導入するのが大変だ、という話ならわかるけど、今あるものを廃止してしまうというのは、正直理解できない。

僕の育った札幌の市営地下鉄は万年赤字体質(と思ってたら今や黒字出しまくりで補助金も減らしてるとか(参照)。しらんかったなあ。2011年8月9日追記)だけど、だからって廃止せよなんて声は上がらない。雪国だけど車を持つ必要がないってのは、特に若い人やお年寄りにとっては本当に大きな利点だと思う。本書では、青森の駅ビルなどを例に自治体が赤字でも運営すべき価値のある事業を紹介している。

本書には「成功にとりつかれた日本の中高年男性」最大の弱点が身も蓋もなく暴露されている。それは「上から目線」そして「勉強しない、何も考えない」である。もうちょっと具体的には、計画段階で出来の悪いアンケート結果にしがみつく。失敗するとうすうす気づいているにも関わらず前例主義に染まって同じ失敗を繰り返す。他の街と同じ政策だから、あるいは前例どおりだからといって責任を取らない。おや? そういえば日本銀ナントカという組織がやたら自作のアンケートばかり重視して十年以上も結果がでてないのに平然と自分たちの功績を誇っていたりしたような…。ともかく、本書は地域再生計画がモゾモゾと出来上がっていく滑稽なプロセスとその成れの果てをあけっぴろげに解説してしまっている。「やっぱりなあ」とも思うけど、「想像したよりもヒドイ」とも思う。オジサンたちはあんなに偉そうだったから、もっと根拠があるのかと思ってた。

本書は名指しこそしていないけど、都市名と計画なんて隠しようも無いわけで、問題の能なしが誰なのか地元の人なら一発で分かる仕組みになっている。もちろん、なんでもかんでもオジサンのせいにすればいいってんじゃなくて、市民の生活の改善が目的なのだから、他ならぬ市民が粘り強く関わっていかないと、再生計画は上手くいかないどころか、孫の代まで続く問題をこしらえるハメになるよ、ということなのだ。で、粘り強く関わっていくうちにナントカさんはこの問題に始めから取り組んでいたんだから云々みたいな話になって結局そのオジサンの一言が不相応な重みを持っちゃったりするんでしょうね。とりあえず「上から目線」そして「勉強しない、何も考えない」という罠にはまらないように頑張りたいと思います。

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2010年7月5日月曜日

リフレ選挙

 引越しだ何だとばたばたしつつも選挙です。今や各政党のマニフェスト入りが当たり前になっているデフレ脱却ですが、今回はその目立ったところをまとめるぜという企画です。取り上げる政党は民主党、自民党、みんなの党、そしてたちあがれ日本です。引用部分は赤くします。

 まず民主党のマニフェスト(参照:民主党の政権政策)から。PDFをダウンロードしてみると、四ページ目のど真ん中、どーんと大きな文字で、
  • 「政府と日本銀行が協力して集中的な取り組みを進め、早期にデフレを克服。」
  • 「名目成長率3%超、実質成長率2%超の経済成長。(2020年度までの平均)」
  • とあります。集中的な取り組みってなんでしょうかね。コレ以外の経済政策については規制緩和と産業政策っぽいことしか書いていないようです。

     つぎに自民党(参照:自民党政策集)。経済政策を扱っている三ページ目のトップに、「この3年間に、金融政策、税・財政政策、成長戦略など、あらゆる政策を総動員し、早期のデフレ脱却と景気回復を図り、名目4%成長を目指します。仕事を創り、誰もが働く場を得られる社会を実現します。」と頼もしい。具体的には当面の経済財政運営として「デフレ脱却を急ぐため、下限がゼロを超える物価目標(例えば1.5%プラスマイナス1.0%)を定めるなどの金融緩和政策や「日米欧中を中心とした国際マクロ政策協調(平成のプラザ合意)」をはじめ、税・財政政策、成長戦略など、あらゆる政策を総動員し、GDPギャップ解消を進めます。」と書いていて、実際の政策にも踏み込んでいます。全部をちゃんと読んだわけじゃないけど(長いので)、日銀のあり方に言及した箇所はないようでした。それにしても産業政策がお好きなんですねえ。

     つづいてみんなの党(参照:みんなの党の選挙公約)。経済政策については世界標準の経済政策を遂行し、生活を豊かにする!という見出しで、1.年率4%以上の名目成長により、10年間で所得を5割アップさせることを目標とする。というふうに始まりいろいろあって10.中央銀行は手段の独立性を有するが、目標は国民が決めるとの世界標準のコンセンサスに従い、物価安定目標を設定し、危機脱出後の成長軌道を確保。という感じ。成長戦略については別ページ(参照:みんなの党成長戦略)を設けて説明していて、そこでは、「デフレからの脱却が、成長のための大前提である。デフレギャップ解消のため財政金融一体政策を講ずる。当面40兆円のデフレギャップを解消するためには、財政政策とセットで、金融政策を講じ通貨供給量を拡大する必要がある。」とか「政府から日銀に対し、例えば、20兆円の中小企業向けローン債権に政府保証を付与した上で、金融機関から日銀が買い取ることを要請できるようにする。これにより、地域金融機関のローン債権がキャッシュに変わることで、貸出余力が高まり、有効需要創出の効果が期待できる。」とあります。

     さて自民党とみんなの党がかなり明確に悪魔的な政策(参照:官房長官時代の与謝野氏の発言)に手を出しているんですけど、それでは、金融危機のさなか経済担当の大臣を三つも兼務して、特に何もしないという斬新な政策を打ち出した与謝野馨氏が共同代表をつとめるたちあがれ日本の経済政策はどうなっているのでしょう(参照:たちあがれ日本のHP)。強い国際競争力で「本物の成長」を持続すると題してはじまる経済政策ですが、その三番目に、早期デフレ脱却へ民間貸出を増大とあります。内容は、過度の量的緩和には、国債バブルと資本逃避のリスクがあります。持続的なデフレ脱却のためには、民間金融機関がリスク回避で貸出しをしぶり、成長機会を奪っている現状を打破することが不可欠です。続いて、民間貸出の年10%増加など、数値目標を掲げ、政府・日銀一体でリスク投資(研究開発、設備投資、M&Aなど)を支援します。となっています。

     本当は民主党についてもっと書きたかったんですけど、デフレ脱却についてはあんなもんなんですよね。あとたちあがれ日本の言葉のチョイスが良くないな、と思いました(いえ、党名という意味でなくて)。「本物の」とか「リスクがあります」とか、もう議論する気ないだろ、と。本物かどうかだれが決めるんじゃい、とか、そりゃ何にだってリスクはあるじゃろがい、どの程度のリスクなのかがもんだいなんじゃろーにとか思っちゃいますね。個人的には今回の選挙、一択クイズです。

    2010年6月13日日曜日

    広い意味での最低の組織・書評・田中秀臣『デフレ不況 日本銀行の大罪』

    デフレ不況
    デフレ不況
    日本銀行の大罪
    田中秀臣
     田中秀臣著『デフレ不況 日本銀行の大罪』を読むのには随分時間がかかった。文章は読みやすいし、とても良い内容なんだけど、本書が批判している日本銀行の言動にいちいちムカムカしてしまって読み進めるのが難しかった。

     本書は経済学の本であると同時に、経済学者がジャーナリスティックな視点から日本銀行を批判した本だ。なので、まず日銀の社会的に問題のある言動が紹介されて、その上で日銀の経済学的なおかしさが解説される。ので、経済学に馴染みのない人でも何がどう問題なのかよく分かると思う。

     2009年11月4日に、白川日本銀行総裁は「デフレリスクによって景気が上下動する可能性は少なくなった」(p.28) と述べている。ところが同じ月の30日には「デフレ克服のための最大限の努力を行っていく」(p.30) と正反対のことを変な言い回しで述べた。この変身イリュージョンの理由は、この間に日銀が否定してきたデフレを政府が認めてしまったことなのだが、さらに翌12月1日の政策決定会合の結果日銀は「広い意味での『量的緩和』」(p.31)を実施することを決める。

     この茶番じみた退却ならぬ転進からわかるのは、日銀は自分たちの主張する日銀流理論を国民の前で堂々と実行する度胸もないということだ。普段は日本経済の低迷は国民の自信がどうのこうのと日銀大好きっ子ちゃんたちと盛り上がっているのに、政府の偉い人が近づいてきたらまともに言い返すことすらせずに従ってしまうのだ。日銀はそういう意味でも最低な組織だけども、本書ではブラック企業と見紛うほどの愚かな振る舞いも描かれている。そういう意味でも最低だ。

     ところで話は変わって、恥ずかしながら、僕は世間でわかりやすいと評判の池上彰氏の本を読んでもちっとも理解が進まない。たぶん、僕がちょっとでもいいから全体像が見えないと何かを覚えることが出来ないからだと思う。池上氏の本は、僕のようなオツムを持った人間からすると、電話帳をまるまる覚えなさい、と言われている気がして気分が暗くなる。

     とはいえ、全体像を伝えるのは勇気のいることだ。人類史上、次の曲がり角の先に何があるのか知っている人間はいないのだから、僕たちが持っている全体像なんてものは、あくまで感覚、印象でしかない。だから、全体像を伝えようと思えば憶測や曖昧な部分が必ず出てくるし、時には曖昧な部分同士が矛盾したりもするだろう。そしてそこは突っ込みどころになってしまう。

     にもかかわらず、本書では著者が持っている全体の印象が伝わってくるようなところがあってとても新鮮だった。それは目次を見ただけでもわかる。まずは日銀の最近の言動を扱った第一章「責任逃れの「日銀理論」」、次に、その国際的な評価についての第二章「世界が酷評する日銀の金融政策」、そして、じゃあ歴史的にはどんな感じなのか、という第三章、第四章「昭和恐慌の教訓」「日本銀行、失敗の戦後史」、さらに、国民に人気のある説の問題点を描き出す第五章「「構造改革主義」の誤解」、ではどうすりゃいいんだい、という第六章、第七章「中央銀行の金融政策」「リフレ政策――デフレ不況の処方箋」と、これでもかという全体像である。

     本書は専門的な本ではないけど、そのおかけで経済学からは微妙にずれた話も語られる。二箇所引用しよう。

     (アメリカの中央銀行FRBの議長、バーナンキは)2005年10月に行った上院での証言でも、物価と経済成長の安定、そして市場とのコミュニケーションを円滑に行うためにインフレ目標導入を行うべきだという持論を語っています。
     このバーナンキの証言に対して、委員会のメンバーから「インフレ目標を採用することによって物価安定が優先され、雇用が確保されないのではないか」という質問が出ましたが、それに対してバーナンキは「インフレ目標は物価と雇用の安定の両方に貢献することができる」と言い切っています。

    [pp.78]( )内は引用者


     アメリカでインフレ目標が公式な導入に至っていないのは、「連邦準備制度の目的規定(連邦準備法二A条)とのダブルスタンダードになる」という反対論があるためです。
    (略)
     アメリカ議会でも雇用重視の意見は強く、このためにインフレ目標論者として知られるバーナンキがFRB議長となった現在も、インフレ目標を公式にFRBに導入することはできないでいます。

    [pp.251]

     もっと専門的な本であったなら、こういう感じは出なかったと思う。専門家の議論は正確さが大事だから、どうしても色々な条件に限定された狭い範囲の話になりがちだ。そうなるともう素人には信用出来そうな専門家は誰か、ということさえ決められない。そんな中で、個別の経済現象の解説があり、しかも全体像の中での位置づけもわかる本というのは、かなりお得だろう。もう新聞いらないんじゃないかな(金融政策に関しては)。実際のところ、バーナンキがインフレターゲット論者であることと、FRBが明確なインフレターゲットを導入しないのは別の話だ。

    アメリカの金融政策
    アメリカの金融政策
    金融危機対応から
    ニュー・エコノミーへ
    地主敏樹
     地主敏樹著『アメリカの金融政策 金融危機対応からニュー・エコノミーへ』という90年代のアメリカの金融政策を詳しく分析した本があって、主にFOMC(連邦公開市場委員会。日銀でいうところの政策決定会合)の議事録を読み込んでいくわけだけど、94年の12月の定例会合のなかでインフレ目標を採用すべきかどうか、という議論がなされている。

     政策討議のなかで、長期のインフレ目標発表を推す意見も提出されている。グリーンスパン議長が「それは立法問題だ」とかわしたので、本格的な議論とはならなかった。

    地主敏樹『アメリカの金融政策』[p.210]


     突き詰めれば国民が決めることだ、というわけだ。さらに96年の7月の会合では、

     なお、この会合は一年に二回ある二日間会合で、余裕があったことから、一日目の午後に十分な時間をとって、賛否両サイドに一名ずつの報告者を準備したうえで、長期的なインフレ目標(the long-term inflation goal)について特別セッションを設けている。グリーンスパンは、そのオープニングで「この問題については、(FOMCの投票メンバー)12名だけでなく、(残りの地区連銀総裁7名も加えた)19名の合意」が必要と述べている。

    地主敏樹『アメリカの金融政策』[p.260]


     手法はどうあれ、物価と雇用の水準を決めるには、民主的な基礎づけが必要だ、というのがバーナンキの前任者の考えだったようだ。おそらくバーナンキも合意形成を重んじるだろう。議事録の公開は5年後(日銀は10年後)だから、実際のところはまだわからない。なので、本書『デフレ不況』は、そういうまだ分からないところに、踏み込むとまではいわないけど、全体像の中に組み込んで経済を描き出している。そういうふうに説明してくれるのでちょっと妙な説得力を持っていると思う。

     で、このブログの前回のエントリーでは、消費者物価指数(CPI)の誤差についての僕の思い込みについて書いたのだけれど、本書でもCPIの誤差は問題視されていて、前回コメント欄でmaedaさんが紹介してくれた論文が参照されている。著者はCPIの誤差は無視出来ないと考えているようだ。こうなってくると僕のような素人ができることは、CPIの誤差についての新しい検証と議論を待つことだけだ、と改めて思う。正直に言って、CPIのバイアスの話は日銀批判の武器とするには時間が経ちすぎたと思う。日銀にしてみれば国民があまり興味を示さない話題は、じっと待ってやり過ごすという戦略がとても有効なのだろう。そして大手新聞がCPIの誤差を問題視するなんて日はたぶんこない。「日本のCPIのバイアスは無視できる程度」という日銀の従来の主張に根拠はなさそうだと僕も思うけれど、そうやって寝技に持ち込んで時間を稼いで曖昧にしてしまうという官僚お得意の手が上手く決まってしまっているように見える。

     本書を読んで、日銀は批判に対して「〇〇だ」「〇〇でない」と一点張りをする傾向があるように感じた。CPIの誤差についても「ない」だし、バランスシートをもっと膨らませるべきだ、という批判にたいしても「増えている」だ。そしてそこで議論が終わってしまう。で、こういう白か黒かの二分法を使って勝利宣言しちゃう相手には飽和攻撃しかないと思う。つまり正攻法だ。

     都合よくスキャンダルでも持ち上がれば、国民の注目が殺到して、あっというまに日銀の処理能力の限界を超えてしまうだろうけど、そんなものを期待するわけにもいかない(経済学的には相当スキャンダラスな日銀ですが)。そうなると、専門家ではないけどリフレ政策を支持する僕たちにも「CPIの誤差」とは別の使い勝手の良い武器が欲しいところだ。スキピオが扱い易い短めの剣、グラディウスをローマ軍に導入してザマの戦いに勝利したように。

     本書を読んで、コレは、と思ったのは、政策決定会合の委員の決め方が恣意的すぎるということ。委員は日銀総裁が選んでいて、その基準は特に無いそうだ。どうりで日銀に従順な人ばかり選ばれるはずだし、昨年11月の政府による「デフレ宣言」を挟んで、委員同士で議論をした様子もないのに日銀の主張がガラリと変わったのもうなずける。議論なんてする必要が無いのだろう。FOMCがカッコ良すぎて生きるのが辛い。

     ただ、この点を攻撃しても、結果が出るのはいつの事になるのかわからない。正攻法なんてそんなものだ。でも、この批判に対しては「日銀法に則っている」以外の反論は難しいだろう。まさか金融政策をはじめマクロ経済政策の専門家を揃えています、とは言えまい。であれば、日銀法の改正の機運を呼び込めるかもしれない。あるいは日銀が批判を気にしてリフレ政策に理解のある人物を委員に任命するかもしれない(そして手懐けようとするかもしれない)。まあ先の長い話ではある。経済成長の恩恵をたっぷり受けておきながら、その価値を否定するような空気が充満しているのだから時間がかかるのは仕方がない。いずれにしても、いつの日か国民の関心が日銀に向かったときに、お手軽な武器があるといい。僕は委員の選抜がテキトーすぎる点を強調するのがいいと思う。

     で、事態がどう転ぼうと、やっぱり、どう考えても経済学の議論に決着をつけるのは日銀の仕事ではないわけだ。リフレ政策に賛否があるのはよいとして、なぜ日銀が裁判官、それも首狩り判事みたいに特別質の悪いヤツのように振舞っているのか。著者がいうように、これは民主主義の問題*1なのだ。本書がその問題を考える契機となればいいな、と思う。



    *1:Baatarismさんのブログで民主党のマニフェストにインタゲがのるかどうかを追ったエントリーがあって、結局高嶋良充筆頭副幹事長の反対もあって採用されなかったようだ。Baatarismさんは日銀の根回しがあった、と推理していて、もしそうなら、ホント日銀って民主主義をバカにしているってことになる。以前にも民主党の大塚議員にかなり露骨な圧力がかかったことがあった(参照)けど、日銀出身の大塚議員ということもあるのか、上手くその露骨さが表に出た感じ。

    2010年4月26日月曜日

    CPIの誤差について

     先日、2月の消費者物価指数について書いたエントリに、Agitさんからコメントを頂いた。引用させてもらいます。

    CPIの上方バイアスについてなのですが、様々なところで「1%くらい大きめの数字が出てしまう」という意見をよく聞きます。
    最近また聞くようになったのは自民の山本幸三議員が国会で持ち出したからだと思いますが、これ多分日銀の白塚重典氏の推計(0.9%)から来ている数字ですよね?
    しかしあの推計は「多くの大胆な仮定の上に試算した結果で」あり,「数値は,必ずしも精度の高いものではないとの点は十二分に念頭におく必要がある。」と本人が書いていたと記憶しています。
    例え「大胆な仮定」が全て当たっていたとしても、推計が発表されたのは1998年で、CPIが1995年基準だった時の事です。
    あれからもう2回も基準改定があり、ヘドニック法も一部の品目で採用され、中間年見直しまで始まってるわけで、当時とは全然状況が違ってますよね?
    実際白塚氏本人が2005年に「上方バイアスは、縮小方向にあると考えられる。」ってペーパー書いてますし、そもそも「CPIの上方バイアスについては、その大きさを固定的なものと考えることは適当でな」いと書いてます。
    いつまでも0.9%という数字が一人歩きしている事のほうが問題ではないかと思うのですが、いかがお考えでしょうか。

     もう僕のバカさ大爆発で恥ずかしいんだけども、CPIには1%くらいの上方バイアス、と丸暗記状態でした。で、ちょっとだけ調べたのでそれをまとめます。

    CPIの問題点


     従来から指摘されていたCPIの問題点を、ここにある宇都宮浄人氏の文章をもとに挙げてみる。
     
     1. 品質の変化
      
     2. 新製品

     これが全部ではないけれど、「日米いずれの計測結果でも、最も大きなバイアスが生じているとされた部分は、 品質調整及び新製品の登場にかかる部分である」、と本文中にもあるのでとりあえずこれらをみていこう。
     

    改善策


     品質の変化に対応するために導入されたのが、ヘドニック法というものなんだそうだけど、この総務省の統計調査部の人たちの文章(ヘドニック法について(PDF))を見ると、パソコンなど品質の変化が激しい製品にこのヘドニック法を適用しているそうな。で、宇都宮氏は、ヘドニック法を不用意に使うと今度は下方バイアスがでる可能性を指摘していて、こうした懸念に対して総務省は、国際的にみて日本のCPIはヘドニック法を適用している商品の数が多いわけではないので、問題があるとは言えない、とのこと。あと、宇都宮氏は消費者の選択肢が少ない(あるいは無い)場合に、機械的に品質の変化を織り込んでいくと、変化を過大評価することになるのでは、とも述べている。しかし現状では、ヘドニック法以外に品質の変化に対応する方法がないようだ。
     
     そして、新製品が出てきた時の対応としては、総務省統計局のページを見ると、

    Q. 新しい製品が次々と登場しますが、それらの価格変動が反映されていないということはないですか。

    A. 調査銘柄については、各品目において代表的な銘柄の出回り状況を調べ、調査銘柄の出回りが少なくなっている場合には、出回りの多い銘柄に変更します。この変更は定期的(年2回)に行っていますが、例えば調査銘柄が製造中止になって後継の新製品が発売されるなど、出回りが急速に変化する場合は、定期的な変更時期以外でも調査銘柄の変更を行い、新製品の迅速な取り込みを図っています。このような調査銘柄の変更は、毎年数十件程度行っており、常時、品目を代表する銘柄の価格をフォローする仕組みになっています。

    消費者物価指数に関するQ&A


    どのくらいのバイアスがあるのか


     で、どの程度のバイアスがあるんだろうか? 正直よくわからなかった。1998年に白塚重典氏がCPIの上方バイアスは0.9%と発表してから、現在までに改善策が打たれてきたわけだけど、その結果どうなったのかはよくわからない。無視できる程度なのかそうでないのか。
     
     安売りに対応できているのか、とか、一品目一銘柄で実態をうまく観察できるのか、という論点もあり、誤差の問題は当然つきまとうわけだけど、改善策が打たれたのだから、以前よりは精度が上がったとみていいと思う。

     もちろん、誤差が狭まっていてもデフレであることにかわりはない。でも「日銀は上方バイアスを無視している」という批判は的外れかもしれない。

    Agitさん、ご指摘ありがとうございました。

    2010年4月2日金曜日

    戦いは数だよ兄貴!・短め書評・日経BPムック 新しい経済学の教科書

    cover
    新しい経済学の教科書
    日経BPムック
     ブログ・事務屋稼業でJD-1976さんが紹介されていたので読んでみたのが日経BPムック『新しい経済学の教科書』。

     まず冒頭の1章は経済学の基礎的な考え方(比較優位とかインセンティブとか)から始まり、日本経済、ビジネスと経済学、アジア経済、そして個別の経済問題と、本書が扱っているトピックは幅広い。しかも、というか当たり前だけど、どの記事も経済学の基本的な考え方に沿っているから、とても高度な話題が出てきてもさほど難しく感じないでわかった気になっちゃう。

     僕が個人的にもっともおすすめするのは6章、「気鋭の論客がズバリ切る! 経済問題の最前線」だ。ここでは20人のエコノミストたちが、メディアと景気、就職氷河期の長期的影響、財政再建、金融危機など具体的な問題について短めに解説した文章が集められている。どの記事もこの社会のどこにどのような問題(というか非効率)があるのかを知るのにとても良い記事だが、それ以上にこれだけの数の経済学者たちがどちらの方角を向いているのか一望できてしまうところがとても良い。もちろん彼らが同じ方向を向いているなんてことはありえない。でも、ある種の方向にだけは絶対に向いていないということにすぐに気づくだろう。ドルの支配体制が、とか、日本の社会構造の変化によりメインバンクが、とか、リフレ政策は異端or時代遅れor禁じ手、とか、彼らはそういう話は絶対にしない。

     もしあなたがネット上(や新聞やテレビ)のドラマティックな経済与太話に影響を受けやすい人ならば、本書をお守り代わりとして買うべきだ。そしてアメリカや中国をだしにした経済エンターテイメントや、日本は特殊だ! と言い張るだけの固陋な人々のどこか恫喝めいた決死の逃避行に出くわしたら、素直に本書を開こう。そしてそんな与太を信じるのならば、これだけの数の経済学者を説得しなければならず、そんなことは一生かけても無理だ、ということを思い出そう。

    2010年3月31日水曜日

    寒かった3月。相変わらずのデフレ。

     さて、寒かった3月も今日で終わって、2010年ももうすぐ4月。そして相変わらずの不況ニッポン。3月26日に発表された2月のCPI(消費者物価指数)はこんな感じ。

     (1) 総合指数は平成17年を100として99.3となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
     (2) 生鮮食品を除く総合指数は99.2となり,前月と同水準。前年同月比は1.2%の下落となった。
     (3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は97.4となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。

    総務省統計局のページ

     何度も言われていることだけど、広く知られているとはとても言えないことと言えば、CPIには上方バイアスがあるってことだろう。なんといっても管大臣も知らなかったし。CPIはだいたい1%くらい大きめの数字が出てしまうというクセをもった指標だ。なので、三つのカテゴリーすべてで前年比マイナス2%というのが実情に近い数字だと思われる。つまり絶賛デフレ進行中だ。

     とはいえ、アメリカのコアCPIも前年同月比+1.3%ということなので(参照)、日本だけが苦しいわけでもないけど、日本だけがブッチギリでダメだ。

     デフレがなんでヤバイのかというのも何度も言われてきたことではあるけれど、その理由の一つが、借金が増えてしまうということだ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、例えば今日の1万円でりんごが十個買えたとすると、明日は二十個買えちゃったりするわけだ。これを借金で考えてみると、今日1万円の借金を返すのにりんごを十個売らなければならないとして、明日になると二十個売らなければ返せなくなってしまうということになる。

     責任、責任とかいって景気対策を拒んできた日本だけど、その間、国の借金は不当に増えてしまった。国が借金をして医療費や年金の支払にあてるのはしようのないことだと思えても、何もしないが故に現役世代の負担が増えるのは理不尽極まりない。

     いつの時代も政治力を持っているのは中高年以上の人たちだと思うけど、彼らはその辺のトコロどう考えてるんでしょうか。

    追記(2010/April/14):CPIの上方バイアスについて、zajujiのお馬鹿ぶりがあらわに。コメント欄をみてください。

    2010年3月27日土曜日

    ブログのテンプレート変更

     ブログのテンプレートを変更したわけだが。

     bloggerの template designer という機能を使ったんだけど、これがすごい便利。リアルタイムでプレビューしながらデザインをいじくり回せる! 以前ならCSSをちょこちょこ書き直してたようなこともスライダーやカラーパレットで選ぶだけ。2カラム、3カラムも簡単。背景の画像も豊富。

     楽ちんすぎる。

    2010年3月16日火曜日

    結局アレはなんだったんだ・書評・若田部昌澄『危機の経済政策 なぜ起きたのか、何を学ぶのか』

     結局アレはなんだったんだ、と思うことは多い。出来事が起きたばかりの頃は情報は少ないし冷静でもないので、かなりステレオタイプな説明をひねり出すのが精一杯だったりするけど、時間がたつと思っていたのとは全然ちがう側面が見えてきたりする。問題は時間がたって調べ直そうという気にならないという、僕の怠惰だってことはわかってます。

    cover
    危機の経済政策
    若田部昌澄
     今回の本は経済学者の書いた「結局アレはなんだったんだ」本。取り上げる出来事は三つ。1930年代の大恐慌、1970年代の大インフレ、1990年代以降の日本の大停滞だ。どの出来事も人々の関心を集めたなんてもんじゃない大きなものだけど、結局なんだったのかという検証のほうはなかなか注目されない。

     もっとも、著者も書いているように、大インフレと大停滞はまだ結論を出すには早すぎる。けれど、経済学者たちの間に「何がどうだった」という合意事項がないわけじゃない。本書はその合意のあることとないこと、そして政策担当者たちの経済観と実際に採られた政策、さらにその帰結を時代ごとに追って行く。

     この書評では最初のイベント、大恐慌(本書では大不況)をとりあげたい。30年代の大恐慌は一体何がどうだったんだろう。

     池田勇人は総理大臣に就任するなり金融緩和を打ち出して、一気に日本の景気を良くしてしまったが、彼は大恐慌を「大戦の遠因」と評している(参照)。では当時のそして現代の経済学者はどう考えているのだろうか。

     大恐慌の最中、経済学者たちは安定化論者と精算主義者に分かれて議論していた。安定化論とは経済政策によって不況からの脱出は可能であり、そうすべきだという考えで、清算主義とは不況は経済にとって必要な出来事であり、不況によってこそ経済活動はより効率的になる、と考える。結論から言えば安定化論が勝利する。この安定化論から現在のマクロ経済学が生まれたわけだ。

     では当時の政策担当者(政治家や官僚たち)は大恐慌という現象をどうとらえて行動したのだろう。まず当時は金本位制の時代だったので、不況対策で金融を緩和する(お金を増やす)ためには、金(きん)の裏付けが必要だった。金を増やすにはお金が必要で、お金を増やすには金が必要だった。こんな状況で金を買うためのお金を増やす方法はただ一つ、今まで買っていた何かを諦めて、浮いたお金で金を買うというものだ。そのためには借金を清算し、財政を均衡させなければいけない、という考えが一般的だった。そうして人々の生み出したモノやサービスよりも金こそが大事な時代、つまりデフレの時代が始まった。

     こういう状況で目前の不況に手を打つためには金本位制から離脱する必要があるが、世界の政策担当者の多くは、振り返ってみれば大した根拠もなく金本位制に固執して対策が遅れた。そうしてただの不況が大恐慌に発展していき、各国とも追いつめられる。で、結局金本位制から離脱して金融緩和を実施した国から恐慌を脱出していく。そしてついに大量の金を持っているくせに引き締め気味だったアメリカも緩和に転じ、危機は去った、かと思ったら、景気回復が不十分であるのにローズヴェルト政権は再び金融を引き締め、またもや不況に陥ってしまう(ローズヴェルト不況)。

     現代の経済学者は、当時の不況が深刻化した理由を、不況下で金融を引き締めたことと、金本位制の下では制約が多く、適切な政策が採用しづらかったことであると考えている。

    cover
    日本の金融危機
    三木谷、ポーゼン編
     こうやってみていくと、現在の日本の停滞とよく似ている。デフレを放置し、財政を均衡させることばかり考え、緩和を実施しながらもすぐにやめてしまう。幸いなことにこんな馬鹿げたことをやっているのは日本くらいのものなので、「大戦の遠因」のようなことにはなりそうもない。ただ日本国民が苦しむだけ。しかし、現FRB議長ベン・バーナンキ氏はかつて次のように述べている。「日本経済の弱さは、日本を自国製品の市場とも自国向けの投資の発生源とも考えている、豊かさで日本に劣る近隣諸国に経済的負担を強いている」(三木谷、ポーゼン編『日本の金融危機』p.158) 日本人だけの問題とも言い切れない。

     ここでは大恐慌を取り上げたけど、本書で一番勉強になったのは70年代を中心とした大インフレを扱った第4章から第6章だった。この時期はスタグフレーションという言葉に象徴されるように、何か矛盾した現象が起きたのだ、と僕は漠然と考えていた。でも、どうやらそうでもなくて、やっぱりこの時期にも金融政策の失敗があったんだということがわかった。例えば需要が超過しているのに金融を緩和し続けたこと、インフレが貨幣的現象であるという理解が広まっていなかったこと、そもそもFRBが政策を決定するときにさえ経済学の知見が活かされていなかったことなどだ。もちろんまだ疑問もある。超過需要(少なくとも当時はそのように見えた)なのに失業率が高止まりしていた時代であるから、謎も多い。本書によればこの時代の研究が盛り上がってきているということなので、これから楽しみだ。

     で、続く日本の大停滞についてもとてもよいまとめになっていて、その時々に経済停滞の原因を主張した説の検証が行われている。20年にも及ぼうかというこの大停滞を説明できる理論はそう多くない。経済学者の意見はやがて集約されていくだろう。その動きはすでに始まっているようだ。

     本書に欠点があるとすれば、とても読みやすいのでうっかりスルっと読んでしまいがちなところだろう。数ヶ月前に読んだのを今回あらためて読み直したんだけど、その面白さと栄養価の高さに驚いた。本文中で言及・参照されている文献が豊富なのも嬉しい。よい読書ガイドになるだろう。数ヶ月前の僕はちょっと急ぎすぎたかなと反省。読みやすい本ですが、結論を急がずゆっくり味わうのがおすすめです。

    2010年3月13日土曜日

    ブログ更新サボリ中

     ブログの更新はサボってますが、やめたわけではないのです。いやマジでマジで。

     Civilization4というゲームにMac版があることに気づいたのが運のつき。電子ドラッグの異名は伊達じゃなかった。

     ということで更新は今後も遅れる予定。

    2010年1月11日月曜日

    因果関係を事業仕分け・短め書評・アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』

    cover
    読むだけで
    絶対やめられる
    禁煙セラピー
    アレン・カー
     僕はタバコを吸わない。だから今回読んだ本、アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』を読む理由はなかったんだけど、母はずっと喫煙者だし、僕が帰省したときもやっぱり吸っていた。そこで、巷で評判のこの本を読んでみたというわけ。

     とはいえ、僕も25才までタバコを吸っていた。もうやめて6年だ。25という年齢でお分かりだと思うけど、そうなんです、カッコつけてたんです。25のある日、自分がカッコつけてることを腹の底から理解し、顔が真っ赤になって、タバコをやめた。それまでも口では「タバコはカッコつけ」とか言って、それでジョークのつもりだったんだけど、まあとにかくいろいろ恥ずかしいDeath。

     本書の冒頭で著者は、喫煙という行為がその他の悪癖と共通するトコロがあり、その克服方法にもまた共通点があると示唆しているが、それはとっても同感で、深酒だとかある種の人間関係だとかに決定的な終止符を打つきっかけが、本書には隠れていると思う。

     では本書のいう「人が喫煙を続ける理由」とはなんだろう。もちろんニコチンによる中毒、という物質的な側面もある。しかしもっと重要なのは、「タバコを吸うとリラックスできる」「集中力が増す」「ストレスが軽くなる」という理由だという。そこで著者は問う、「本当にそうだろうか」と。喫煙をしてきた人生を通じて、あなたはリラックスし、集中し、ストレスを軽減してきただろうか。事態は真逆であるはずだ。人間はタバコを吸って安らいだりしない。それでも安らげたような幻想を持ってしまうのは、本書の例えを使うと、自ら頭を壁に叩きつけ、それをやめた時に安らいだように感じるからだ。そしてその仮初の安らぎを得るために、また頭を壁に叩きつけているのだ。本当に安らぎたいのなら、そもそも頭を壁に叩きつけるのを止めるべきなのだ。

     落ち着かない、集中できない。だからタバコを吸う。しかしその因果関係は逆かもしれない。タバコを吸うから落ち着かない、という可能性は全くのゼロだろうか? こういった因果関係の取り違えは僕たちの人生ではとてもよくあることだ。25才頃の僕は毎日毎日、飽きもせず不機嫌だった。当時の僕は自分の不機嫌の理由は僕以外の誰かのせいだと思い込んでいたけど、実際には自分の見栄っ張りなトコロとか、結果に飛びつこうとするトコロが最大の不機嫌ジェネレーターだった(あとタバコもね)。もちろん、いつだってどこにだって失礼な人や迷惑な人はいるだろうけど、よそからやってくる不機嫌なんて拒否しちゃえばいいだけだ。来る日も来る日も不機嫌ってのは、自分が原因ではないかと疑ってみるに十分な状況証拠だ。だから毎日不機嫌な人をみると、以前の僕と同様に、「カッコつける必要」や「結果を出す必要」があると思い込んでいるんだろうな、と考えるようになった。もちろん、これもまた思い込みかもしれないけど、そうやってなんでも相対化するポストモダンチックな考え方にはスッカリ懲りたので、特に不安はないですよ?

     で、おすすめです。タバコを吸う人吸わない人、どちらも楽しめます。たまにしか吸わないから大丈夫、なんて人はにはとくに勧めます。もし中毒になりかけでないのなら、かなりねじくれた状態でしょうから。

    追記:今のところ、母の禁煙は続いています。(2010/Jan/15)

    2010年1月1日金曜日

    短め書評・高橋洋一 竹内薫『鳩山由紀夫の政治を科学する 帰ってきたバカヤロー経済学』

     あけましておめでとうございます。今年も本ブログ、まったりいきますんでよろしくお願いします。

    cover
    鳩山由紀夫の政治
    を科学する
    高橋洋一
    竹内薫
     高橋洋一氏といえば、小泉政権から安倍政権のときに大活躍して注目を浴びた元財務官僚。彼が注目されるのは理系な経歴を持ちながら経済学はもちろん、政治のもやもやしたところにも明快な説明をしてくれるところにあるのだと思う。今回の本は『バカヤロー経済学』の続編であり、前回同様サイエンスライターの竹内薫氏との対談形式で、民主党政権をきれいに説明してくれる。僕は『バカヤロー経済学』は未読だけど、本書、とても楽しめました。

     民主党が政権を取ってみて見えてきたのは、自民党ってそれほどすごくなかったね(すくなくともここ最近は)、ということだと思う。なので日本国民が本当に決めなきゃいけないのはどの政党を選ぶかではなくて、結局何がしたいのか、だったわけだ。

     で、国民が望むことがあったとして、ではそれをどう実現しましょうか、となる。そこで政党の出番となるわけだが、政党というのは当然支持者のいうことばっかり聞くので、民主党・鳩山由紀夫政権を理解しようとすればその支持者を理解しなきゃいけない。

     本書は民主党の支持者を起点にして、党内、閣内の人事、財源など、民主党の行動を科学的に分析している。つまり鳩山政権の振る舞いを妥当な根拠でもって説明しているわけだ。そしてやっぱり、高橋氏の明快さは今回もまた炸裂している。

     一番のポイントは、何をムダと定義するのか、ということですよ。でね、基本的には「自民党にとって有益でも、民主党にとっては有益でないもの」が全部、ムダと定義されるんです

    [p.119] 強調は原文ママ