2013年9月20日金曜日

消費税増税について官邸にメールした

各種報道では、安倍総理がすでに来年4月の消費税増税を決断したかのように言われていますね。一方で、安倍総理本人の口からはまだ何も語られていません。明らかな誤報、あるいは宣伝工作が行われているという異常な事態が続いています。

ということで、官邸にメールしました。何の意味があるのかわからないけれど、ただじっと安倍総理の発表を待つのはあまりに辛かったので。メールの内容を要約すると、札幌で塾講師をしている就職氷河期ど真ん中のワタクシですが、財務省が何と言おうが1997年の増税の轍を踏まないでください、アベノミクスで税収は増えていると聞いています、まだデフレです、教え子たちを路頭に迷わせるような政策はやめてください、というもの。

官邸のホームページはこちら。増税はまだ決定事項ではありません。この消費税増税に関する法律は、増税しないことを公約として政権を取った民主党が、選挙の数年後に牽引役となって作った法律であり、最近の選挙で争点になったことのない政策です。我が国の民主的基盤を維持・強化するためにも、近々の消費税増税の是非を選挙で国民に問うべきでしょう。解散がすぐには無理ならば、附則18条にもとづいて、総理が増税を先送りにすべきです。

財務省の現事務次官、木下康司さんが増税の旗振り役だと言われています。一官僚に政策の失敗の責任など取りようもなく、せいぜい天下り先の格が下がるくらいでしょう。そんな人物に結果的にであるにしろ、いいように使われてしまっている国会議員の先生方は、この政策の行方を真剣に考えてもらいたいものです。税収が増えているのに、あるいは増える見込みが強いのに、なぜすぐに増税しなければならないのでしょう?

2013年2月1日金曜日

十年一日・書評・『エコノミストミシュラン』田中秀臣、野口旭、若田部正澄編

 毎年のように今更あけましておめでとうございます。本年も拙ブログ、よろしくおねがいします。

cover
エコノミスト・ミシュラン
田中秀臣
野口旭
若田部昌澄
 さて、年末に引っ越しをしたので本を整理していたら、2003年、つまり十年前に出版された『エコノミストミシュラン』が出てきた。奥付きを見ると、僕が買ったのは同年に出た3刷り。本書は、現在ではリフレ派としてすっかりおなじみの論者たちが、当時から乱発気味の経済書を「「経済学の基本」の尊重と、そして良識」(本書「はじめに」より)をもって書評し、その半分くらいを切り捨てていく本で、三名の編者の他、高橋洋一氏や飯田泰之氏、そして故岡田靖氏なども評者として参加している。

 編者三人の鼎談ののち、本書では計31冊の経済書がリフレ派の検証を受けている。が、晴れて「経済学の基礎」と良識を兼ね備えていると認定された本ばかりというわけにはいかない。そういう本は、これまたお馴染みの岩田規久男氏や原田泰氏、P・クルーグマン氏、J・スティグリッツ氏、P・テミン氏などなどの本で、あとは、部分的には良いけど全体としてはダメ、というのがちょぼちょぼあって、残りはゴミ、という感じ。

 書物の運命としては恵まれているのだろうけど、現実的には非常に残念なことに、十年という時間の経過をまったく感じさせない本でもある。当時2003年は、りそな国有化、財務省の大型為替介入、福井新日銀総裁のゼロ金利政策と量的緩和政策の継続などが重なって、若干の景気の回復が見られた頃。編者の一人、野口旭氏の言葉によると、

要するに、90年代は失われた10年と呼ばれていますが、それは、マクロ政策で少し株価が上がったり、景気が上向くと、すぐに横槍が入ってしまったことが原因なんです。橋本内閣のときには、少し景気が回復したのを見て、財務省の悲願だった財政再建路線という引き締め政策に転換して、景気が再び落ち込んだ。次に小渕内閣になって、大型の財政支出をやって景気が上向いたら、速水日銀がゼロ金利を解除して金利を上げ始めた──実際に上げたのは小渕首相が死んでからでしたが。とにかく、それぞれの政策当局が勝手に自分の庭先だけをきれいにしはじめる。これでは、デフレ脱却などできるはずがない。それが本格的な景気回復までいかなかった原因です。ですから今回も、この株高でまた構造改革路線に戻って財政緊縮を前のめりでやりはじめると、同じことをくりかえしてしまう気がします。
(p. 18)

という状況だった。僕たちはその後起きたことを知っているわけですが……。*1

 さて、リフレ派は書評されている本の著者たちも評者たちも主張が変わっていないから、2013年であっても言い分がそのまま通用するのは当然だ。一方の反金融政策方面の人たちの主張もまた、今見るとジョークにしか思えないものもあり、何度論破されてもよみがえるハイパーインフレになっちゃうんだぞ説、日本は特殊なんだ説、もう諦めようぜ説など、無駄ににぎやかであるのも今と変わらない。ジョークにしか思えないというのは、うっかり新しい経済学を打ち立てちゃう人が多いということで、当時はそれがこの手のご商売の人たちのマイブームだったんでしょうね。十年たって榊原経済学とかができてたら良かったんですけど。

 本書ではすでに「失われた10年」という語が多く使われていて、ため息がでる。ずーーーーっとデフレだったなあ、としみじみ思う。岡田氏がテミン氏の『大恐慌の教訓』を評したところから引用してみよう。テミン氏らの研究が影響力を持ってきたアメリカであるが、

翻って日本における大恐慌期に関する一般的理解を眺めてみると、こうした(引用者:80年代以降に大いに発展したマクロ経済学の)理論的・実証的研究の成果がほとんど理解・受容されていないことに驚かざるをえない。経済学の専門家以外の人びとのあいだでは、マルクス主義の影響が強いために、大恐慌を資本主義経済の必然的な破局だとみなす考えが広く受け入れられているし、経済分析の専門家のあいだですらケインジアンVSマネタリスト論争当時の認識が一般的なのである。
(p. 206)

一応言っておきますが10年前ですよ。さて、昨年末の選挙でリフレ政策を掲げた自民党が大勝し、安倍総理に対する期待だけで円安株高になっている現在、本書で強く批判されているような主張は若干そのトーンを弱めている感がある(『100年デフレ』の人は相変わらずのようですが)。しかしそれも一時的なことだと思う。これから日銀総裁、副総裁、そして審議委員の人事が議論されていく中で、一見リフレ政策に理解がありそうな人物が、その役職の候補者としても、その人事を決める側の人物としても多く出てくるはずだ。

 評者の一人、高橋洋一氏は加藤出氏の『日銀は死んだのか?』の書評を次のように始めている。

つい最近までデフレ対策としてのインフレ目標論議が盛んだった。2003年3月の福井俊彦氏の日銀総裁就任以降、議論は下火になったが、デフレはいまだに収束していない。
(p. 231)

 福井氏は当時の小泉総理に対し、デフレ脱却を約束することと引き替えに総裁に就任させてもらった、と言われている。 そして当面は緩和姿勢を継続したので、インフレ目標の議論も下火になった。しかし、いざ小泉総理の任期が終わりに近づくと、統計の改定期であることなど有力な反論があったにも関わらず、量的緩和もゼロ金利政策も解除してしまった。それが2006年。そうして、小泉総理が退いた後の第一次安倍政権ではデフレが再び加速したのだった。今回もこのようなことを繰り返してはいけない。

 思えば福井氏は、大蔵スキャンダルで話題になったノーパンしゃぶしゃぶの顧客名簿にその名が載っていたり、総裁任期中にインサイダー取引疑惑が浮上したりと、速見、福井、白川と続く日銀出身総裁のなかでも派手な人物だった。それでもメディアがあんまり強く批判しなかったのだから、このころが日銀の栄華の絶頂期だったのかもしれない。さすがに今の白川さんにこれだけのネタがあったらタダでは済まないだろう。少なくともそこまでは事態が進んだわけだ。

 先日、1月23日、日銀と政府は物価目標を2%とする共同声明を出した。が、一日たつ頃にはもう多くの人は失望していた。2014年になってからとか、政府の成長戦略がないとできないとか、事実上の何もしない宣言だったからだ。そうして麻生副総理が、もう日銀法改正の必要性は小さくなったと発言するなど、かなり雲行きが怪しくなっている。

 とはいえ、景気回復を願う人々にとって本丸は日銀人事と日銀法改正だ。安倍総理も法改正の意志を失ったわけではないようだし。そして特にその人事の議論の中で、本書でばっさり切られている人の名前が挙がってくこともあるかもしれない(昨年、日銀寄りすぎて? 日銀審議委員になれなかった河野龍太郎氏の著作も扱われている。この当時は円安を支持していたようだけど)。本書の鼎談でも再三言われていることだが、当時は日本経済を構造問題として読み解くという情熱がずいぶん高まっていたようだ。しかし、日本の若者にまともな仕事がなくて、30歳すぎてもお金がなくて結婚も子育てもできないような現在の状況というのは、明らかに以前の日本人の生活とは異なるものだ。なので、今となっては当時の論者たちがデフレに絡めて論じていた構造というのが何なのか、よく分からなくなっている。現状は構造改革の成果なのかそれともその失敗なのか? そう自らに問わなきゃいけない人たちが本書にはたくさん出てくるのだけど、なにぶん寡聞でありまして、存じ上げませんね、そんな殊勝な人。

 たとえば野口悠紀雄氏といえば構造改革のイデオローグとして名高い人だけど、もちろん本書でばっさりやられちゃっていて、デフレは中国の工業化が原因としているらしい。(p. 149) 当然中国と貿易しているのは日本だけではないわけで、つまり、当時から日本だけがデフレである理由がまったく説明できていなかったわけだ(ま、そこを説明するのが構造問題だったんでしょうね)。なので、これからこの手の人々の名が挙がっても、「経済学の基礎」を尊重していないし、良識のほうもちょっとあやしいよ、とちゃんと批判できるようにしておきたいものだ。

 鼎談中、田中秀臣氏は、「とにかくぼくたちは、リフレ派に反論している人たちの本をかなり読んで、構造改革派のトンデモ本の類までフォローしているのに、リフレ政策に反対する連中は勉強不足も甚だしい。自分が批判している相手の代表的な文献も読まずに批判する。そういう勉強不足のエコノミストたちが多すぎます。」(p. 65 )と言う。これもやっぱり現在と変わらない。今は、テレビのニュースキャスターが「これだけ長い間消費者物価が上がらなかったのだから、2%まで上げるといっても簡単にはできない」などと日銀の無自覚な代弁者になっている状態だ。簡単じゃなかった諦めるって選択肢ありなの? さらに、未だに、経常収支赤字=国際的な信用低下! などという読んでるこっちが恥ずかしくなるような重商主義丸出しの記者が経済記事を書く放送局があったりする。(参照)一知半解、その場で分かったふりをしただけで、大胆にも仕事をこなしたことにしてきたニッポンのオトナたちが、今回だけは黙っておこうと思うだけで、案外日本経済は復活しちゃうのかもしれない。

 また、本書でぶった切られている俗説に少子化が出てこないのもおもしろい。当時はまだ人口が減っていないのだから当然なのかもしれないが(今だって別にものすごく減ってるわけじゃないけど)、少子化問題というセンセーショナルな切り口がこのご商売で幅をきかすには、構造問題がテーマとしてが消費しつくされて、場所を明け渡す必要があったのかもしれない。

 「経済学の基本」の尊重と良識。その欠如は本書によって10年前にすでに指摘されているわけで、今回こそは、半端なところで手を打たず、しっかりとマイルドインフレの実現を見届けたい。本書を今一度読み返せば、金融政策の論点が10年前にすでに出尽くしているのがわかるはずだ。最後に編者の一人、野口旭氏の鼎談中の言葉を引用しよう。

確かに経済学は、物理学などの自然科学に較べて、人間社会を相手にしていますから、はっきりと決着がつけられていない領域がまだたくさんあります。しかし、アダム・スミスやリカードからはじまる多くの経済学者たちが明らかにし、われわれの社会に蓄積されてきた経済学の共有の知見は、現実社会を改善するのに確かに役に立ってきたと私は思っています。その知見は、経験的な証拠によって繰り返し確認され、また政策として現実に役に立ってきたからこそ、現在まで生き残っているわけです。それを否定して、いったい何をしようとしているんでしょうか。
(p. 117)


*1: ちなみにこの2000年のゼロ金利解除、当時の日銀副総裁の藤原作弥氏が積極的に推し進めたようです。そしてその藤原氏が、イェール大の浜田教授や本書の評者でもある高橋洋一氏などを、「有象無象」と呼んだなんてニュースがありました。shavetail1さんのブログによると、藤原氏はジャーナリストであり、金融は「ずぶの素人」を自称してたとか。