2009年6月27日土曜日

詩人のように考える "Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ その3

(その3とありますが、一応このエントリだけで読めるように書いたつもりです。
とはいえ
その1
その2 d-modeとはなにか


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Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
Guy Claxton"Hare brain, Tortoise mind"(以下HBTM)という本について、今年の始めに二つのエントリを書いたのだけど、で、五回ぐらいつづきます、みたいなことを言っておきながら半年放置してたのを再開。でも今回で終わりです。だってあの本の英語にもう一回挑む気にはならないんだもの。丁度なくしたと思ってたメモが出てきたのでそれを基にHBTM最終回です。

で、ちょっとおさらい。人の脳は、いわゆる論理的な能力に関して、あまりすごくない。世の中の複雑さに対して、人間が理解できる程度の論理はあんまり力を持ってない。物理学とか数学に比べ、経済学がいまいち結果を出せないのもそのためだろう。対象が複雑すぎる。で、すごくないだけならともかく、そのすごくない論理的な能力を頑張って使っていると、他の能力のリソースまで喰ってしまうので、脳的に全方位すごくない状態に陥ってしまう。脳にとって得意なことをさせずに苦手なことばかりやらせるのだから、意識の上でも日々が辛いものになっていく。このあんまりすごくない論理的な能力を、本書ではd-modeと呼んでいる。deliberation(熟考)、default(初期値)のdからとられている。つまり熟考したり、何か問題が起きた時にそのまま真っ正面から取り組んだりすると、d-modeが脳をコントロールしている、ということだ。

d-modeの主な特徴として、結論を急ぐ、曖昧さや複雑さを嫌う、言葉にひっぱられる(例えば男という言葉。「男のくせに」とかd-modeは言ってしまう。本人を見てない)、上手く説明がつけば事実はどうでもいい(例えば、アイツがひどい目にあったのは前世で悪い事をしたから、とか)など、人としてろくでもないところが目立つ。最後のやつはどこが論理的なんだ、と言われそうだけど、次の特徴を考えると納得できるかもしれない。それは、完璧な情報があれば事態は完全に説明できる、と思い込んでいる、という特徴。前世の行動が現世に影響すると確認できれば、不幸の原因は特定できるわけで、これは十分論理的だ。が、問題はそんなことは確認できない、ということだ。にもかかわらず、d-modeは「もし前世の行動が現世に影響するならば」という前提に固執してしまう。そして結論を出してしまう。どうも人の差別感情は結論を急ぐ、というところからきている様な気さえしてくる。

d-modeは意識にだいぶ近いが、意識により遠い機能をHBTMではundermindと呼んでいる。無意識と言ってもいいと思うが、もっとオートマティックな感じなんだと思う。コンピューターでいうと、ユーザーが見る事のないバックグラウンドで情報を処理しているような現象を、著者はこの語で指しているようだ。

そして、d-modeは速い。すぐ結論を出したがるし、実際に出してしまう。ということでウサギさんに例えられてる。undermindは亀だ。遅い。小学校時代の記憶と昨日のコロッケが突然結びついて感情がわき上がったりする。どんだけ遅いのかと。で、ま、このウサギさんと亀さんのバランスが大事ですよね、という話なのだけど、現代社会では圧倒的にウサギさんが重要視されているのは問題です、とそうなるわけだ。まあよくあるといえばよくある話。

で、今回はどうしたら亀さんに活躍の場を与える事ができるのか、その方法を考える、ということでした。「詩人のように考える」その方法は、実にカンタン、だって脳の得意なことだから。それは、ただ待つ、だそうだ。ただじっと待つ。

d-modeにコントロールされている状態だと、人はすぐに確実さを求めるが、人が理解できる確実さなど世界の複雑さの前では何の根拠にもならない。確実=みんながそうだから、なんてこともよくある。確実=いままでそうだった、これもすごく多い。これについてはN・タレブ『ブラックスワン』をどうぞ。翻訳は読んでないけど(高すぎる*1)、人の論理的能力の限界がよくわかる本ですよ。

効率よく確実だと思う選択をしても、間違った答えを出してしまえば問題は解決しない。あたりまえ。著者が繰り返しているのだけど、まともなアイディアが生まれるには、それがどんなに突然の天啓のように思えても、時間がかかる、ということだ。まるで妊娠期間のように、アイディアやソリューションにはじっとしている時間が必要なのだ。

では、ただ待つ事がなぜ新しいアイディアや問題解決のひらめきにつながるのか。このことについては著者はかなり細かく説明しているので、僕のd-modeを使ってまとめるのは難しい。それでもざっくり言ってしまうと、問題の解決に意識の焦点を強くあてると、d-modeが思考の主導権を握る事になる。d-modeは効率を重視するので、「馴れた考え方」に沿って問題を扱おうとする。そしてそのこと自体が「馴れ」をさらに深化させてしてしまうので、d-modeを使っている限り、いつまでも同じ考えをぐるぐる巡らすことになってしまう。考えすぎは良くない、というのは誰しも経験していると思うが、その説明になっていると思う。

ひるがえって、ただじっと待つ時、人は何にも焦点をあわせないので、「馴れた考え方」にはまってしまうことはない。が、それだけではアイディアは生まれてこない。新しいアイディアは、今まで脳の中で無関係だった情報同士が、新たにつながる事で生まれると考えられる。そのためには刺激が必要なのだ。

刺激といっても奔放な性体験とかそういうことじゃなくて、一年前に観た内容も覚えていない映画の漠然とした印象とか、友達から借りパクしたゲームの思い出とかそんなことだ。さっき読んだ本の細かい内容が今意識的に思い出せないからといって(あるいは、d-modeで扱う事ができないからといって)、その情報が頭の中から消えてしまったわけじゃない。意識できなくても脳はundermindで情報を処理している。そしてそういった事に思いを巡らすことが刺激になるのだ。ただし焦点を絞りすぎない(low-focus)状態で。

この状態はただ待つ、というよりも、瞑想している、といったほうがいいのかも知れない。瞑想のことは(も)よく知らないが、その方法として、follow one's breathということばをよく見かける(気がする)。どういうことかというと、ゆったりと座って、自分の呼吸に集中する。吸ってるなー、とか、はいてるぜー、とか。するとそのうちに、先週定食屋で食べた鮭がおいしかったなあとか思ってたりする。それはそれで思考を遮ったりせずにしていると、やがて思考がおとなしくなるので、また呼吸に集中する。これの繰り返し。座禅もこんな感じなんじゃないのかな? と勝手に思ってます。

この方法だと著者のいう「詩人のように考える」ことになるんじゃないかと思う。著者は、編み物とかがいいよ、と言っている。ぼうっとすることが重要なんだよ、ともいってるけど、そうしているつもりでも、すぐに世界のあら探しをてしまうのがd-modeの特徴でもある。あと、テレビをぼうっと観ることも著者はすすめているけど、コチラの本(池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』)によると、テレビを観てても人はぼうっとしてないみたいです。まあ十年以上前の本ですからその後わかったこともあるんでしょう。


*1:上下巻で一冊1,890円。高すぎる本をおすすめするのも何だか変なので、タレブの前著『まぐれ』もおすすめします。

デフレ、再び

再びっていうか、バブル崩壊以降ずっとデフレですけどね。一段と物価が下がったそうです。以下は2009年5月のCPI(消費者物価指数)。

概況
(1) 総合指数は平成17年を100として100.6となり,前月比は0.2%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
(2) 生鮮食品を除く総合指数は100.5となり,前月比は0.2%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
(3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は98.9となり,前月と同水準。前年同月比は0.5%の下落となった。



(3)の食料及びエネルギーを除いた指数が大事*1。何度も書いてるけど、デフレはお金の価値が増す現象だ。そしてお金の価値が増すということは、何か別のモノ(やサービス)、言い換えると、お金と交換して手に入るモノの価値が減っていることになる。それは労働の価値であったりするわけだ。

人が働くってことよりもお金のほうが大事ってんだから、ここ十五年の日本を拝金主義と呼ばずしてなんとする。

*1:農産物とか海産物とかって気候や災害の影響を強く受けることがある。つまり日本国民の経済活動と関係ないところで取れ高と価格が変化する。エネルギーはほぼ輸入に頼っているわけだから、外国の事情で価格が変化する。これも日本国民の経済活動とは関係ない。ので、この二つを除外した数字、コアコアCPIが重要になってくる。

2009年6月26日金曜日

書評・海音寺潮五郎『中国英傑伝』

中国の古典は、なんというか、僕にとって秘密の先生みたいなものだ。論語の話を誰かとすることなんてないし、王陽明なんて名前を知っている人はあまりいない。だからまるで僕が中国古典を幾つか愛読しているってことが隠し事みたいな気がするときがある。といって、僕が中国古典に詳しいと思われては困る。自慢じゃないが漢文は全く読めない。書き下し文も怪しい。訳文を読みながら、たまに書き下し文を見て使われている漢字を確認するくらいの幼稚な読み方しかできない。

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中国英傑伝
海音寺潮五郎
で、この本だ。海音寺潮五郎の『中国英傑伝』。上巻は主に項羽と劉邦の話で、下巻は春秋時代、つまり孔子が生きていた頃の話だ。この本は、タイトル通り、その時代の英傑たちのエピソードを楽しく分かりやすく書いたもので、とてもスピーディに話が進んでいくので気持ちがいい。中国古典の背景を知るのに最適な本だと思う。

時系列で見ると、まず周王朝の時代があって、春秋時代その後戦国時代となり、秦による統一、項羽と劉邦の激突、漢の成立、となる。あとがきによると著者は戦国時代についても書くつもりだったけど、体調が思わしくないということでやめたらしい。すごく残念だ。

とはいえ、英傑たちの数は多く、下巻だけでも、斉の桓公に晋の文公こと重耳、伍子胥と孫子(孫武)、魯に帰ってきた孔子と弟子の子貢、呉王夫差に越王匂践、夫差の側近伯嚭に匂践の側近范蠡と文種などなど、オールスターといっていい。

ある意味あきれてしまうのだが、こんなに登場人物が多いのに、各人各様の人生があるもので、しかもそれぞれに道行きの理由というか必然性のようなものがある。古典からダイレクトに教訓を引き出すと、なんだか薄っぺらい説教にしかならないものだけど、この本の英傑たちの人生も同様で、何か単純な教訓が学べたりするわけじゃない。ただ人がしがちなこと、考えがちな事、苦しみがちな事がよくわかる。人が何につまずいて、何に拘るのか。人間とは何なのか、ということの症例がたくさん載っている。中国古典が取っ付きづらいときは、この本がいいと思う。当時一体何が問題だったのか、人々の関心事は何だったのか、おぼろげながら雰囲気がつかめると、古典のほうも読みやすくなるんじゃないだろうか。

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孟嘗君と戦国時代
宮城谷昌光
ちなみに、戦国時代については、ごく最近出た宮城谷昌光『孟嘗君と戦国時代』という本がいいと思う。まるで『中国英傑伝』から漏れてしまった戦国時代を埋めるかの様な本で、特に孟子の入門的な解説になっていて、とても面白かった。孟子の時代にはまだ論語が成立していなかった、という話は不勉強な僕には衝撃だった。孟子は「たとえ孔子が言った事でも、自分が納得しなければ信じない」というようなことを言っていたと思うけど、なるほどね、まだ論語がなかったとなれば、孔子の言葉として伝えられるものもちゃんと吟味しないといけなかったんだろう。

2009年6月23日火曜日

「去私」の人?

この間所用でお役所に行った。んで、待ち時間があったので、壁にかかってるテレビをみて待ってた。テレビのニュースをじっとみるなんて久しぶりだなあと思ってたら、与謝野大臣が出てきた。僕は新聞も読まないし、大臣の顔を見るのはホントに久しぶりだったんだけど、なんか随分痩せてるじゃないですか。やっぱ三大臣兼務なんて無理ですよ。

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山本七平の
日本の歴史(上)
山本七平
『山本七平の日本の歴史(上)』の中で、著者は夏目漱石の『こころ』を分析しながら、日本人にありがちな精神的な態度を提示している。勝手な要約をしてしまうと、危機や変化に出会った時、日本人は「去私」足らんとする。つまり自分の欲望や理想や目的をなげうって、周囲の人のために動いているかのように振る舞うということだ。このような指導者は超人的な虚のエネルギーを生み出す。何せ本人には目的がないかのような状態だから、周囲の人はいくらでも忖度できるわけで、どんどん祭り上げられてゆく。そして周囲の思惑がぶつかり合って事態がどちらに転がるか、まったく予想ができない。このような人物の例として乃木希典があげられている。乃木は明治天皇が崩御した時に自決したが、「去私」であるのだからそれも当然だったわけだ。要約はここまで。

無理をするのも「去私」の一形態なんじゃないんだろうか。しかし「去私」は人の頭の中にだけ存在するのであって、現実の問題に対しては何の効力も持たない。もちろん与謝野さんが「去私」の人かどうか、僕は知らない。でも、三大臣兼務ってのはもう超人の域だと思う。また、彼がよく言う「責任」というのも、誰の誰に対する責任なのかよく分からない。国の債務を担うのは現役世代なのだから、返済の仕方はその世代に任せるのがスジじゃないの? と僕は思う。今増税したって債務の総額から言えば微々たるものだ。返済そのものよりも、返済しやすい経済状態を目指したほうがいい。時間をかけて返していけば負担も分散できる。

親になって子供が思春期くらいになると、「去私」の構えで子供に接する人たちを結構よく見かける。僕の母もそうだったし、友人の親もそうだったようだ。自分の目的や理想を押し殺して、ただあなたの幸せを願ってる、みたいな。それは美しい態度なのかもしれないが、子供達の不安や焦燥感を癒す事は無い。

僕たちが「去私」を回避して現実と向き合うためには、おそらく凡庸な理想を(ひっそりと)掲げることが大事なんじゃないかと思っている。子供達には善良であって欲しいものだし、国の債務の返済は過激なものでなく、余裕のあるものであって欲しい。まったく凡庸だ。しかし、「将来世代に負担をかけない」という理想は、人智を離れてると思う。これでは現実に対処することは難しいだろう。

なんか話がよくわからなくなりましたが、結局言いたいことは、無理したって行いが正当化されたりしないよ、ということでした。身体にもよくなさそうなんで、三大臣兼務は辞めて欲しいですね。