2009年1月31日土曜日

たまには日本経済のことも思い出してやってください


経済に関する本とかwebの記事とかをよく読むんだけど、まー財政大好きなおじさまが多いですよねえ。日本政府は日本経済にどっぷり依存しているんだから、日本政府のお金の辻褄を合わせても日本経済が良くなるとは限らないよね。むしろ日本経済が小さくなってしまえば、日本政府は窮地に立つわけだ。なのになぜそこまで財政にこだわるのだろう。後回しにしろとまでは言わないけど、日本経済のことも心配してあげて。

と、いつも思う。

(そうそう、極端に文字数のすくないエントリはRSS配信されません。鬱陶しいでしょ?)

2009年1月27日火曜日

僕らはみんな(短期的には)生きている

原田泰『コンパクト日本経済論』を読んでいて思うのは、長期的に日本国民がやらなきゃいけないことは以前と変わらない、ということだろう。それは結局、効率を上げる(モノやサービスをより短時間により少ない人数で、より多く生み出せるようになる)、につきる。でも、どんなに古くさくて効率の悪いやり方だって、作る人が増えれば産出量も増える。それは今の日本が良い例で、効率(生産性と資本)は大して上がってないのに、産出量は増えている。

cover
コンパクト
日本経済論
原田泰
でもそれは、働く人が増え続けない限り維持できない。そして働く人は増え続けない。国立社会保障・人口問題研究所の予測では世帯数は2015年までは増え続け、その後減少に向かうだろう、とされている。が、その予測でも2010年くらいからほとんど増えなくなってくる。今何年? 2009年だ。

気がつくと、街をあるけば空き部屋が目立つ。僕の住んでいるアパートも、下の階は全部空き部屋だし、真下の部屋に至っては、もう一年以上空き部屋だ。

つまり、今後は労働者の数を増やして産出をのばすことは難しくなるだろう。ここ十年の人海戦術はもう使えない。このやり方は「無駄をなくす」のが大好きな人たちの性によく合ったみたいだ。それも当然で、たとえ表面的な変化(成果主義だとか、決算が増えたとか)が目立ったとしても、なんと言っても人件費が下がったのだから、結果的に今まで通りのしくみが温存されたわけだ。既得権を持った人にはそうとう有利な時期だったろう。上手くいかなかったら、「無駄無駄ァッ!」とか言って切り捨てれば良かったんだから*1。そしてたぶん、そういう時期が終わろうとしている。

だから今後の日本は、一人の人間が生み出せるモノやサービスの量を増やさなきゃいけないわけだ。それは新しいしくみを試すことだから、失敗がつきものだ。だから失敗を受け入れる社会を作らなきゃいけない。それが長期的にやらなきゃいけないこと。

では短期的にはどうだろう。そもそもなぜ短期的な政策が必要なのか。それは今苦しんでいる人がいるからだ、と思う。政府がいくら長期的に良い政策を採用しても、今失職している人や、経済的に見通しが立たないので出産や進学を、ときには医療をあきらめなきゃいけない人とか、現金が不足していて黒字倒産しちゃう会社の関係者には何の恩恵もないわけだ。まさにケインズの言う通り、「長期的には我々は皆、死んでいる」んだから。

現金が必要な人のトコロまで届いていないわけで、その理由は、人々が現金の価値をかなり高めに評価して溜め込んでいるからで、それを改善するには、上がりすぎた現金の価値をさげれば良い、というのがリフレ派の主張なわけだ。

具体的には現金の量を増やそうぜ、ということになる。増やしても効果がない、という批判があるけど、それなら効果が出るまで増やそうぜ、というしかない。現金が増え続ければ、いつか必ず現金の価値は下がるから。

つまり、リフレ派の主張は短期的な政策に対してのもので、長期的な政策の話ではない。そりゃ過労死続発でしかも赤字、みたいな企業はさっさとつぶれればいい、と僕も思う。でも景気が良ければ、人はそんな企業で働かないだろう。そうすれば勝手につぶれていくか、改革をするかなわけで、どちらにせよ結構なことです。それでも馬鹿げた労働環境がなくならないのなら、それはもうジャーナリズムのお仕事なんじゃないだろうか。経済政策では手に負えないと思う。

リフレ政策には批判がすごく多いけど、そういう人たちは短期的な困窮にどう対処するつもりなんだろう。ってバブル崩壊からもう15年以上経過してしまっているので短期だか長期だかわからない困窮になってしまった。彼ら批判者たちは、政府が命令すれば既得権益者たちは権益を手放すとでも思っているんだろうか。そんなの無理だよ。それに既得権益者ったって日本人なんだから、日本人全体に良い政策を選んだほうがスムーズに話が進むだろう。その点リフレ政策はかなり使いやすいと思うんだけど*2


*1:実際は「若いヤツはやっぱりダメ」とか「女の子は……」とか「フリーターだったやつは……」とか言ってたんでしょうね。

*2:日銀が国債の買い取りを大幅に増額すれば、国の借金も増えずデフレ脱却にも良い効果があるしでウハウハじゃん。ま、もし実行すればそんなに長く続けられないでしょうけど(インフレが20%とかはイヤですもんね)。

2009年1月16日金曜日

NY飛行機事故

先日こんなエントリを書いたら、今日、こんなニュースが。

NY飛行機事故、全員救助 テロ無関係と米政府

全員救助、何よりでした。

2009年1月14日水曜日

減税の効果と定額給付


ハーバード大学の経済学教授マンキュー先生がニューヨークタイムスに記事を書いていた。要約すると、不況になると人々はモノやサービスを買わなくなって、しまいには作り出さなくなるので、代わりに政府が買えばいい。すると人々の収入が増えるので、またモノやサービスを買うようになる。と、いうのが伝統的な経済学の教科書に書いてあること。でも最近の研究では政府が公共事業で1ドル使うと、1.4ドル分のモノやサービスが作られてる。ちょっと少ない。で、常々、減税はあんまり効果がないと言われていたけど、これも最近の研究によると、減税1ドル分につき、3ドル分のモノやサービスが作られているそうな。公共事業の倍以上! つまり減税は思った以上に効果があるかもしれない、という話。

この減税の効果についての研究をしたのが、クリスティーナ・ローマー先生で、オバマ政権の経済政策諮問会議(ちゃんとした訳があるはず)の議長に指名された人でもある。なので、オバマ政権は、いままで金持ち優遇政策と揶揄されてきた減税政策にマジで取り組むつもりなんだろう。





で、上のはそのローマー先生のインタビューの動画。オバマ政権の雇用を増やす政策について説明している。要約すると、政府が建物をたてれば建設業の仕事が増えるので、とても分かりやすい。でも減税によって人々がお金を使うとどのような職が増えるか推測するのは難しい。それは人々がどの分野にお金を使うかによるから。でも、減税なら幅広い職種に効果があるはず。そして、作り出される職の数が重要ではないとは言わないけど、職の質、つまりどのような仕事が増えるのか、ということもとても重要。不景気が始まって340万人がフルタイムからパートタイムに移っている。一連の政策で、パートタイムの仕事がフルタイムの仕事に変わるような効果を期待している。健全な経済にとって、「より良い職」はとても重要。単純に職を作り出すのじゃなく、「より良い職」を作り出すことが国民にとっても良いこと。ただお金を使って景気を刺激するだけじゃなくて長期的にも有用な云々。

はい、そこ、ため息つかない。こちらのエントリで書いたけど(そして上手く書けなかったけど)、2003年からの日本の景気回復は、労働力が増えたことによる。つまり職が増えたわけだ。ではどんな職が? そう、派遣やアルバイトの増加や、サービス残業の蔓延などで労働力が安く利用できるようになったので、企業は生産を増やすことができたわけだ。で、国民の生活の質が向上しただろうか。うーん、実感なき景気回復と言われるのも無理はない。

もちろん、回復が無いよりはマシだったろう。でもなあ、人にとって「より良い職」に出会うのはかなり重要なことで、それは不況下では難しくて、だから国は不況を短くする、あるいは特定の職業じゃなくて様々な職が生まれる環境を整える使命があると思うんだけどなあ。

もちろん、減税の効果がホントに以前に思われていた以上にあるのか、よくわからない面もある。でも、こうやってアメリカの動向なんぞを横目で見ていると、我が国って…、という気にはなる。今回の定額給付ってさ、言わば減税じゃん。額が少ないから効果も少ないだろうけど、バラマキだからダメ、という扱いを受けるようなものじゃない。公共事業で特定の職を増やすよりは、なんというか、より民主的な景気刺激策でもあるだろう。額が少ないけど。バラマキ=悪というのは、不景気をナメているとしか思えない。景気が悪いと人が死んだり戦争が起きたりすることもあるんだぜ(放言)。バラマキに一時的でも効果があるのなら、そのことは否定しちゃダメよ。まあ、額が少ないからムキになってもアレなんだけど。

んで、「より良い職」について語る人が少なくないか? と思う。長期的にどうすべきか、という問いが非常に難しいのはわかるけど、それでも「仕事が有るだけマシ」といって諦めてしまうには早すぎるでしょう? 大恐慌時のアメリカのように失業率が25%とかだったら、そりゃ職の質なんかどうでもいいでしょうけどね。

2009年1月13日火曜日

安全な空の旅

お昼を食べながらFox Newsをネットで見てたら、アメリカの航空機事故での被害者がここ2年(ほとんど?)いないよ、という話をしていた。で、専門家が解説してて、技術の進歩のおかげで、危険を回避できるようになったよ、と言ってた。さらに、ヒューマンエラー対策も進んで、機長や副機長がミスをしても、すすんで報告するような体制が整えられたのも大きいよ、とも言っていた。つまり、ミスを報告しても、怒られたり懲罰を受けたりせずに済むようにしたら、ささいなミスも報告されるようになり、危機の回避がスムーズになったという。

航空機が墜落して検証してみると、計器が異常な数値を出しているのに、機長や副機長が「おかしいな、故障かな」みたいな発言を繰り返して、対処せずに事故に至るケースがあるのだそうだけど、こういったケースの教訓なのだろう。

そういえば、以前勤めていた会社は、ある事情から、必ず午後7時までは仕事をしなきゃいけなかった。これは強制とかそういうことじゃなくて、そういう仕事だったから。でも、そこは午前9時始まりの午後6時終わりの職場なのだ。だから当然、必ず1時間は残業することになる。客商売じゃないので、別に10時始まりでも構わない仕事だった。そういう職場だから、どんな人が管理しているのかお分かりいただけると思う。なので「10時始業にしたら?」という提案にも「何時に始めても遅刻するヤツは遅刻する」というよくわからない答えが返ってきて、みんな提案をしなくなった。

無駄な残業代を支払っている自覚が全然なかった。月20時間くらいまで残業代は出ていたけど、さらにサービス残業が20時間ぐらいあった。もちろん始業を1時間ずらしても残業時間は変わらないかもしれない。でも働く側の意識は随分違ったんじゃないかな。満員電車を避けられるしね。

航空機を墜落させない、という目的の前では、職員の態度なんてどーだっていい。「おまえがしっかりしていないから云々」というのはただの責任転嫁であって、本来の目的ににコミットできていないと見なすべきだ。

2009年1月12日月曜日

経済が成長しないのはなぜ?

cover
コンパクト
日本経済論
原田泰
今回の金融危機以前からすっかり不景気の日本だけど、なんだってこんな感じなのだろう。と、思ったり思わなかったりしていたら、原田泰『コンパクト日本経済論』というテキスト発見。この著者の本はいくつか読んだことがあるので、なんというか何の迷いもなく買いました。で、まだちょっとしか読んでないけど、すごい本です。オススメです。でもちょっと難しいかも。数学が結構でてくるし、僕、全然数学ダメだし。それでもオススメです。「豊かな国と貧しい国はどこが違うのか?」「同じ経済でも成長する時と衰退する時では何が違うのか?」こういった疑問にきっちり、それでいてあっさり答えてくれるのがうれしすぎる。タイトル通り、日本の経済がメインテーマなので、考え方がダイレクトに変わる感じがする。学部の授業で使う教科書なので、もちろん文化論に逃げたりしない(これって良い経済書を選ぶ時の重要なポイントだと思う)。と、まあオススメポイントはいくらでもあるんだけど、僕に教科書の書評は無理なので、ちょっと読んで思ったことを書きます。

経済はなぜ成長するのか。この『日本経済論』では、生産性、資本、労働の三つが合わさって経済が成長していく、としている。つまり、効率の良いやり方(高い生産性)があって、そのやり方に必要な機械設備や場所があり(充分な資本)、多くの人が長時間働いている(労働投入量が多い)と、経済は成長していく=モノやサービスを生み出す量が増えていく。

日本の「失われた十年」においても、意外なことに生産性は伸びていた。が、資本と労働が減ってしまっていたので経済は成長どころではなかった。とくに資本がかなり落ち込んだ。しかも今現在も改善されていないようだ。でも、2003年以降は労働量が増えはじめ、日本経済は回復しつつあった。

じゃあなんで資本と労働は減ったのか。著者は、「実質賃金の上昇」が原因であるとしている。バブル崩壊以降、実は実質賃金が上昇していた。まず週休二日制の導入。これで労働時間が減ったけど給料はそのままだったので、時間あたりの金額は上がったわけだ。そしてデフレ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、同じ額の給料でも、デフレが進行すれば以前よりもたくさんモノが買える。つまり給料の価値は上がっているわけだ。

不況なのに実質賃金が上がると、解雇にはいろいろ制約があるので、企業としては新しい雇用を抑制するしかない。さらに人件費が高止まりして、設備投資のための資本を蓄えることができなくなる。そのうえ、デフレになると実質金利が上がるので、見かけ以上に借金が重くなってしまう。企業としては投資よりも返済を優先させざるを得ない。

日本全体の平均をみると生産性が低い=効率が悪いから「失われた十年」になったわけじゃない。とはいえ、それは例外的に生産性の高い企業が平均を引き上げているからであって、一部の製造業以外の生産性は低いままであるようだ。そして、この間に回復した労働投入量は、生産性の低い企業をさらに増やしてるんじゃないだろうか、というのが今回の思いつき。つまり、雇用を守るために若者にしわよせが来たわけだけど、あぶれた彼らの(というか僕らの)労働力が安価になった為に、ある種の企業にとって生産性を向上させるインセンティブが働いていないんじゃないのかな、と思うのだ。

(この段落、表現を修正しました)
非正規雇用なら給料は低くてもいいし、正規雇用でもサービス残業なんて当たり前なんだから、苦労して効率の良いやり方なんか考えなくても、企業は生き残れてしまう。2003年以降、労働投入量が増えて経済は回復しはじめたが、「本書の「労働投入」は、労働の質を考慮していない」、とあるように、手放しで喜べるようなものじゃない。それに大して景気が良くなったわけでもない。依然として資本が経済を成長させるほどには回復していないのだから、新しく仕事が増えたというよりも、団塊世代をバイトに置き換えただけ、みたいな部分もありそうだ。

サービス業の生産性は低いって言われてる。こういう風な話を聞くと、なんか現場の非効率の問題のような気がするけど、ホントはそうではなくて、経営というかマネジメントの問題なんだろうと思う。たとえば無駄に営業時間が長いとか、儲かっていないデリバリーサービスとかはあきらかに現場の効率が悪いという問題じゃない。

そういう企業って派遣やアルバイトに依存してしまって、生産性を高めようなんて気はないように見える。例外的に生産性の高い製造業の企業だって、派遣を大いに活用したわけだけど(だから派遣切りなんてのが話題になるわけだが)、やっぱり国際的な競争をしていれば生産性の向上は避けられない。で、もし多くの企業が生産性を高めようという気になれば、資本の蓄積が進んで、新しい職場が作られはじめるかもしれない。その為には、生産性の高い企業のように国際的な競争に加わるか(あるいは外圧という形で強制的に競争に参加させられるか)、時間あたりの実質賃金のさらなる上昇が必要なんじゃないだろうか。

で、ベーシック・インカムってのは時間あたりの実質賃金を上げるいい手だと思う。これがあればアホみたいな低賃金の職とか無茶苦茶な労働環境の職には人が集まらなくなるだろう。そうすれば、生産性を上げるか職場を増やさないと、産出量が維持(あるいは増加)できなくなる。

バブル崩壊後に実質賃金が上昇したのち、派遣業法が改正されて、企業は安価な労働力を手に入れ、なんとか産出量は増えてきた。今また同じようなことが起きたらどうだろう。移民を大量に受け入れるべき、という話が急展開するんだろうか。既に企業の偉い人たちはそんなことを言ってきているわけだしね。でも、少子化でいずれ労働投入量は減っていくんだから、いい加減に生産性と資本で経済を拡大させる道を模索しろよ、と強く思う。

上手くまとまらなかったけどここでおしまい。こんなに長くなるとは思ってなかった。"Hare brain, Tortoise mind"はちゃんと続けていきますよ(たぶん)。

関係あるかもしれないエントリ:
僕らはみんな(短期的には)生きている

2009年1月5日月曜日

"Hare brain, Tortoise mind"を読んだ その2 d-modeとは何か

(1/7 一部表現、タイポを修正しました。)

続きものです:その1

cover
Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
さて、Claxtonが言うundermindは無意識と同様に、脳に実体があるわけじゃなくて、機能というかそういう働きを結果的にしている現象みたいなことなんでしょう。彼の言うd-modeのスイッチが入ると、undermindが十分に働かず、人は自分を見失ってしまうのだという。

で、人が意識できる意識という感じのd-modeは一体どんなもので、何故これが現代人の人生への不満のもとなんだろうか。今回はd-modeの特徴をまとめてみる。以下は7ページから12ページに載ってます。

長いので、始めに要約してしまうと、d-modeは計画や計算や分析をする機能であり、言葉にならない想いや状況を極端に嫌う、ということのようだ。では具体的に見ていこう。

D-mode is much more interested in finding answers and solutions than in examining the questions.

試訳:d-modeは問題を検証するよりも答えを見つけることを優先する。


結論に飛びついてしまう。手近な言い訳で納得してしまう。よくあります。

D-mode treats perception as unproblematic.

試訳:d-modeは感じたことを事実として扱う。


自分が抱いた印象を事実であるとして疑わない。もっとよく見てみれば事実は別のかたちをしているかもしれないけど、よく見ないで決めてしまう。戦国武将の思惑を語る人、みたいな。

D-mode sees conscious, articulate understanding as the essential basis for action, and thought as the essential problem-solving tool.

試訳:d-modeは、物事の意識的で明確な理解が行動や思考に欠かせない基礎であり、問題解決にとって不可欠な道具である、とする。


ここだけ読むと、そりゃそうだろ、と思うのだけれど、要は「方程式とフローチャートと難しい専門用語」を駆使すれば何でも出来る、という態度のことだそうだ。仮説を検証せずに突っ走ってしまう状態*1

D-mode values explanation over observation, and is more concerned about 'why' than 'what'.

試訳:d-modeは観察より説明に価値をおく。そして「何」よりも「なぜ」に関心を持つ。


何が起こっているのかよりも、その理由を知りたがる。そして言葉で表現できるものにこだわる。言葉で表現の難しいものは、ハナから存在しないものと見なす。

D-mode likes explanations and plans that are 'reasonable' and justifiable, rather than intuitive.

試訳:d-modeが好む説明や計画というのは、「合理的」で正当化ができるものであって直感的なものではない。


簡単に言えば、○○博士が言ってました、と付け加えると、ぐっと説得力が増す、ということ。

D-mode seeks and prefers clarity, and neither likes nor values confusion.

試訳:d-modeは明快さを求め選び取る。が、混乱を好むことも意味の有るものとすることもない。


つまり試行錯誤を好まない。問題を把握し、分析し、解決する。寄り道も、新奇な道も避ける。○○博士がやった通りに進む。

D-mode operates with a sense of urgency and impatience.

試訳:d-modeが活動している時は、時間が無いような、待っていられないような感覚が伴う。


自分にとって重要ではない、と感じていると、さっさと答えをだそうとしてイラついてしまう。問題は自分にとって何が重要なのか、そう簡単にはわからないってことだろう。だからd-modeは僕たちに、いつだって「どんな種類の苦境」でももたらすことができる。複雑な問題にも安易な答えを要求してしまうというのは、たとえば、政治家=悪、みたいな単純なものの見方をしてしまうということだろう。

D-mode is porposeful and effortful rather than playful.

試訳:d-modeは意志が強く、努力型である。遊び心とかは無い。


こうして見ていくと、d-modeには一般的に言われる長所が多いな、と思う。が、この意志が強く努力型、というのも常に時間に追われている感覚があるからこそ生まれた特徴なのだという。つまり、時間に追われているからこそ、答えが早急に必要となるわけだ。たとえ取り組んでいる問題が「人生の意味」であったとしても。

D-mode is precise


d-modeは精確である、と。きっちり測れるものを好むということのようだ。これは人間の計算能力の限界のためだろうな、と思う。経済学では、現実の経済現象は複雑すぎて手に終えないので、モデルを作って分析するわけだ。ただそれがモデルであって現実ではないということを忘れがちになることも多々有る。統計が精確だから現実だ、ということにはならないんだけども、なんかそんな感じがしてしまう。

D-mode relies on language that appears to be literal and explicit

試訳:d-modeは文字通りで明快に見える言葉に頼る


「見える」というのがポイントだろう。そのように見えていれば、ホントに明快である必要は無いわけだ。構造改革とかバラマキとかね。その一方で曖昧さや比喩は疑うのだという。詩なんかもう最悪。

D-mode works with concepts and generalizations, and likes to apply 'rules' and 'principles' where possible.

試訳:d-modeは概念と一般化を武器に機能する。また、ルールや原則をギリギリまで適用したがる。


具体的なことは嫌いで、抽象的な話が大好きなd-mode。「労働力」とか「合理的な消費者」とか、「典型的な教師」、「環境」、「休日」、「感情」などなど。そういえば以前、ダウンタウンの松本人志が「休みの日何してるんですか、という質問が大嫌い。その日によって違うから」と言っていた。抽象的な話=万人に共通、というルールを適用してしまうことはよくある。

意識できる思考とそうでない思考を分けるのは思考のスピードである、とClaxtonはいう。ものすごく速い思考、つまり反射は、速すぎて意識がとらえることは無い。同様に、非常にゆっくりとした思考もまた、意識できないのだという。どちらにも概念と一般化という武器が通用しないので、予測が立たず、答えが出なくなってしまうから、d-modeはそれらを嫌う。抽象的な言葉を用いれば、あとは演繹的に答えが出てくるわけだから*2、ある意味で言葉に従属的な立場、といえる。

D-mode works well when tackling problems which can be treated as an assemblage of nameable parts.

試訳:取り組んでいる問題が、名付けられた部分の集合体として扱えるとき、d-modeは良く機能する。


d-modeは分割して統治するのが上手いというわけだ。なんだか分からないものは分割できない。「分かるというのは分けられる、ということなんですな」って桂枝雀が言ってた。ただし分割するためには言葉が必要だ。そして言葉が扱える複雑さには限度がある。例えば「あきらくんはおじいちゃんが会計士さんの牧師さんはいい人だという発言をまにうけているのを白々しく思った」という文はどうだろう。まだなんとかいける。ではさらに、「おまわりさんは洋子さんがまことくんのあきらくんはおじいちゃんが会計士さんの牧師さんはいい人だと言う発言を真に受けているのを白々しく思ったことを言いふらしているのを咎めると笑った」*3と、このようにだんだんと複雑さが増していけば、すぐに誰が何をしているのか分からなくなってしまうだろう。

さて、長々書いてきたこういった特徴が、僕たちのd-modeにはある。ではなぜこんなイヤな上司みたいな機能がたっとばれるようになったのか。Claxtonは、17世紀以降、時間が貴重なものとされるようになったことに一因があるという。時間が無いことは無茶苦茶やるための格好のいいわけになる、というわけだ。

そして物事を知る方法は一つしか無い、つまりd-modeを使うしかない、というのは欧米文化の偏見である、とClaxtonはいう。ゆっくりと知る方法もあるのだ。

長くなりましたがここで終わりです。次のエントリではd-modeの弱点と、亀さん登場です。

書きました:その3


*1 「1940年体制」とか「中国発デフレ」なんて言葉が思い浮かびました。

*2 バラマキ=悪ならば、定額給付=バラマキ=悪、定額給付=悪となるわけだ。高い学歴=優越ならば、とドンドン続く。

*3 これを書いているとき、谷川俊太郎・和田誠『これはのみのぴこ』を思い出しました。

2009年1月1日木曜日

"Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ

あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良い年でありますように。

cover
Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
さて、今年一発目から五発目くらいまでのエントリはだらだらします(いつも以上に、という意味です)。Guy Claxtonという人が書いた"Hare brain, Tortoise mind"という本を随分前に読んで、ブログに書評を書こうと思っていたんだけど、全然うまくまとめられないので投げ出していた。せっかくだから書きたいので、うまくまとめるという目標を放棄して、だらだらと書きます。ま、五回くらいに収まれば、と思ってます。

認知科学の成果を一般に紹介する、みたいな本で、コーディリア・ファイン『脳は意外とおバカである』や、池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』のような感じ。ただし十年前の本なので最新情報というわけにはいかない。とはいえ、ダニエル・カーネマンやエイモス・トヴェルスキーの研究も出てきたりして、話題の行動経済学にも通じるものがあったりもする。著者のGuy Claxtonは心理学者で、基礎的な教育が研究対象だそうだ。

正直なところ僕はこの本を読み終える気がしなかった。もうすごい難しいんだもの、英語が。主語があって述語が出てくるまで三行くらいあったりしてさ、もう忘れちゃうよ、主語。だからひと月かけて読み終えたとき、満足感なんて微塵も無くて、ホントに読んだのかオレっていう感じで手応えなしでした。

で、認知科学とか行動経済学とか呼ばれる学問の一端が一般に紹介されると、その度に驚きもあるし考え方を変えなきゃいけないこともある。それでも、じゃあどーしたらいいのよ、という疑問が解消する事はなかったし、その為のヒントさえも滅多に得られない。それはたぶん、実験室の脳と実際の脳*1に差があるからなんだと思う。なので、人間の本性が実験であぶり出されても、僕たちがその結果を活かすには通訳のような実践者のような人*2が必要なんだろう。

で、この本はその学問の結果を活かす事を真剣に考えている。目標は、言うなれば、詩人の様に考えること。たとえば、人が閃く仕組みを考察し、古典や先人たちの言葉を参照して検証する。そうすれば詩人の心が得られるというわけだ。

本書のタイトルはウサギと亀のお話からつけられていて、「ウサギ脳と亀ゴコロ」とでも訳しましょうか。

Claxtonは本書で二つの造語を使って、脳の機能を説明していく。一つ目は"undermind"で、こちらが亀だ(こち亀だ)。試みに訳せば下心、じゃなくて「奥心」という感じでしょうか。無意識というより、無意識の持つ機能という感じ。奥心こそが知性なんだよ、ということが言いたいらしい。で、二つ目。意識的に計算したり推測したり決断したり記憶したりする能力を、"d-mode"と呼んでいる。"d"は"deliberation"=熟考と"default"=初期設定から取られている。こちらがウサギ。脳にはウサギと亀、二つの機能がある。人はこの二つの機能を使って、感じたり学んだり考えたりする。で、この本のメインとなるメッセージは、

D-mode and the slower ways of knowing work together, but they can get out of balance, and lose coordination.(p.86)

試訳:d-modeとゆっくりと学んでいくやり方は、ともに協力して機能するものだが、バランスを崩し、協調を失うこともある。


という箇所がよく表していると思う。「ゆっくりと学んでいくやり方」は僕の訳がヒドいが、"undermind"、つまり亀のことだ。Claxtonは現代の欧米文化は、d-modeの能力を過大評価している、という。それこそが、現代人の人生に対する不満や恐怖、不安や絶望につながっているのだ、と。また、本書でもそのようなd-mode偏重文化を作り出した犯人として、デカルトがあげられている。なんか最近読む本はデカルトの悪口しか書いてないよな、と思うのであった。

んで、ウサギと亀のバランスをとる、というのが目標なわけだけど、じゃあd-modeとはなんなのか。どんな特徴があるのだろう、というところで今回は終わります。


書きました:その2 その3



*1 マッドサイエンティストな話じゃなくて、やっぱり実験室で起こることは現実の模倣であって、現実とは違うんじゃないですか、ということ。

*2 マインドマップのトニー・ブザンとか、『影響力の武器』のロバート・B・チャルディーニとか。