2008年5月27日火曜日

ブーチャンの(戦後民主主義的な)冒険

伊藤昌哉著『池田勇人とその時代』を図書館で借りて読んだ。以下、[]内はすべて引用ではなくて要約ってことで。

なんと言っても池田勇人がカッコイイ。というかそういう風に描かれているわけだけど、池田の側近のブーチャンこと伊藤昌哉の思い入れがそれだけ凄いし、池田を通して自分自身を描く、という面もあって、ちょっとやり過ぎ? なくらいカッコイイ。

著者・伊藤昌哉は、西日本新聞東京支社の記者として池田と出会う。当時池田は大蔵大臣、例の「貧乏人は麦を食え」発言の時期だ。なんでも当時の池田は記者に無愛想でなかなか情報をださない記者泣かせな大臣だったとか。で、記者同士であいつ気に入らねえ的なことになって、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」という答弁が、貧乏人は麦を食え、に生まれ変わってしまったんだそうな。

伊藤に言わせると、池田には戦後民主主義を担うという自負があったという。三閣僚辞任騒動の時の池田の気持ちを代弁して[池田は岸のやり方が気にいらなかった。岸と池田では信じる民主主義がちがう。国民は岸がいうほど馬鹿じゃない]という。また政策で勝負する人であって、党利党略からは無縁であったとも。しかし党務に弱いが故に、常に党内人事では不満が噴出し、政権運営は安定しなかった。そんな中でも池田が求心力を発揮し続け、今日のジャペーインの繁栄の礎を築くことが出来たのは、彼が努力をやめない男前総理だったからだッとブーチャンは熱く語るのであった。

なんでも、自分が努力を続ける、とくに外交はからっきしだったのにブーチャンに促されて随分勉強したらしい、そうなってくると、人の努力や想いに敏感になり、決して見逃さず認めてくれるのだそうだ(うらやましいです、率直に)。総裁3期目、記者に質問されて、[国民が喜ぶあとに喜び、国民が悲しむまえに悲しむようになった。俺も年を取ったのかな]とこれまた男前発言。怒りっぽかった男が忍耐力も判断力もどんどん身につけて、情の人、とまで呼ばれるようになる。伊藤が語る池田は本当にカッコイイ。[総理在職中は待合にもゴルフにもいかない、だって国民はそんなとこで遊べないから][総理を辞めたらブーチャン、二人で全国行脚しよう、若い人と話し合おう] さらに総裁選で必死の工作をしかける佐藤栄作に対する思いを伊藤が代弁すると、(ここはメモあったので引用)「なんでお前そんなバカなことするんだ。そんなことに血道をあげるより、政権を担当するにふさわしい人格の持ち主になれ。そうすれば、いつでも政権など譲ってやる」とくる。うーん、マンダム。

僕はこのかっこよさを割と素直に受け止めていて、そりゃ側近の証言なわけだから真に受けるのはどうかな、とも思うけど、批判的にみればいいってわけでもないでしょう。志だけではダメだ、というのもわかるけど、結果には運不運がつきまとうから、結果だけが重要なんだと言い切れない。自分の乏しい経験から感じるのは、そりゃ結果がでないのもダメなんでしょうけど、志がないのは破滅的だよ、ということ。

評判の悪かった安倍総理も、今評判の悪い福田総理も、志ということでは、いいんじゃないの? と思ってます。安倍総理については高橋洋一氏の本を読んでそう思いました。福田総理については、記憶が曖昧だけど、年金問題について問われて(質問したのは記者じゃなくて議員だったとおもう。でも議会じゃないです)、「きみたち若い人が決めることだよ」とか言ったとき、あ、そうか、と思いましたよ。

本題の経済政策については次のエントリで書きます。

結局統計ってつかえるの? その3

しか し、統計が弱い人を救うことだってあるかもしれない。日銀だって統計に基づいて、弱い人になってしまった失業者を救えるだろうし。そしてとくにエアーズの 本はその可能性が多岐に渡ることを示しているように思える。たとえば教育とか医療の分野で、属人的な判断を減らして統計に基づいた判断を導入すれば、効率 だけでなく公正さも向上させられる可能性があるようだ。

で、結局統計ってつかえるの? なわけだが、分かりません。ただ己の中の第二審判 決に従えば、統計の結果だけが騒がれているような時は気をつけろってことでしょうか。教育でいえば、日本の子供の学力が上がった下がったというのは無視し てもよさそう。でもある教授法を使うとテストの点数が、とか、出席率が、とかいう話なら、拒絶するのは待った方がいい。特に、直観に反する現象というのは なんというかチャンスなんじゃないかと思う。

自分で考える教育よりも、分からないところはさっさと答えを見ちゃう教育のほうが、特に学校 では、上手くいく。そういう反直観的な統計が出てきたときに、保身に走って拒絶するのはもったいない。というか保身に走ると、老後は塗炭の苦しみを味わう ことになる気がする。効率も公正さも向上させるチャンスを潰したのかもしれないんだから、そのために傷ついた人たちのことをさっぱり忘れるなんて出来ない と思う。

そう、統計を真に受けても、拒絶しても、人生ヒドいことになるかもしれない。統計にもまた、第一法則はないということでした。ちゃんちゃん。

結局統計ってつかえるの? その2

さぼっているうちに日銀総裁が白川さんに決定。時宜を失った感じはするけどまあいいや。

このエントリは僕のような愚か者に統計は必要か? ということだった。モテるのか? 金持ちになれるのか? というのが問題なのだ。幸せか? というのがね。

統計とにらめっこして幸せってのは無理っぽい、というのが率直なところで、例えば、「二十代の若者100億人に聞きました。あなたの初セックスはいつですか?」 で、平均が16歳とかになると、もう自殺ですよ、若者たち。どうしても遅いとかはやいとか(いやそういう意味じゃなくて)言い出して、世間と歩調を合わすことの重要性を必要以上に心に刻んじゃうんじゃないかな。世間に合わせることが人生の目的になっちゃうんじゃないか。

前回の(二ヶ月前の)エントリでも書いたけど、朝日新聞のお茶目事件だって、統計を真に受けた結果じゃん。幸せではないだろう、そんな生き方は。

じゃあなんで統計を真に受けた素人は幸せではないのか。それが世間にみえるから、といってしまうとぐるぐる回ってるような気がするけどいいや、別に。

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アダム・スミス
堂目卓生
最近、堂目卓生『アダム・スミス—「道徳感情論」と「国富論」の世界』を読んだのだけれども、んで、とっても良い本でしたけども、そのなかで、「弱い人は第一審の判決を、賢人は第二審の判決を受け入れる」というようなことが書かれてあった。第一審というのは世間の目ということで、第二審というのは「公正な観察者」、つまり、世間体にとらわれない、といって自分の利益ばかり考えてるわけでもない人なんだそうだ。マイナスイオンとかに踊らされると弱い人、そうでないと賢人、みたいなことでしょうか。ここは僕の理解なので眉唾ですけど。

そして弱い人と賢人は個人の中で同居している、というようなことも書いてあった気がする。そうそう、で、モノによっては普段賢人なアイツも弱い人になっちゃうことがあって、その最たるものが失業で、やっぱり失業すると落ち込むからねえ、という話。

新聞に載るような分かりやすく加工された統計結果が、第一審判決として弱い人の人生をコントロールすることは、十分に考えられる、というかそんなのばっかり見てきたし、自分にもそういうところがある。だから凡愚な僕に統計はいらない、かもしれない。すくなくとも、新聞テレビで紹介されるような数字は無視しちゃった方が無難かも。

あああ

二ヶ月もさぼってしまった。今は反省している。

twitterを始めたのでそれを刺激にblog再開。