2008年7月22日火曜日

ワークライフバランス

ワークライフバランスというと、「そんなことより一人前の社会人(とか職人とか)になれよ。泥のように10年働けとは言わないけどさ」的な嫌味?を聞くことがよくある。

一人前というのも随分曖昧で、人を裁く基準としてはおっかないことこの上ないけど、そもそも、一人前を実現するために、一人分の努力と根性と忍耐だけで済んでいたのか? と考えてしまう。

家事とか子育てとか、もちろん夫として父としても一人前なんですよね、わかります。それでいて奥さんの働きたい気持ちも尊重してきたんですよね、わかります。と嫌味を返したくなる。ま、「それはあいつ(奥さん)が望んだこと」なんですよね、自己責任ですよね、わかります。

この本なんか読むと、90年代初頭までの女性新入社員キツかったろうなあ、と思う。一人暮らしができないくらいの薄給で、しかも自腹でペン習字を習わなきゃいけない、って人間なめてんのか。一人前ってのはこういうことをするんですね、わかります。

そうやって一人前の男性を生み出し保護したところで、不景気には勝てなかったじゃないの。その程度の一人前ならば、父であること、夫であること、息子であることを、若い男性は望むだろうし、女性だって夫を一人前にするために自分の人生を投げ捨てるようなことはしない。

道は人に遠からず、っていうじゃない。人に出来ないことは、人の道から外れてる。女性を犠牲にして男性を一人前にするのは、もう出来ないことだ。もう人の道から外れてる。べつにおじさんが悪いってんじゃなくて、時代が変わったんですよ、ということでしょう。盛者必衰なんですから。

2008年7月20日日曜日

あの世代

あの世代は人数が多いからずっと競争競争で大変だったとかよく聞く。だがちょっと待ってほしい((c)朝日新聞)。基本、好景気だったでしょ?

伊藤昌哉『池田勇人とその時代』を古本でゲットしたので堂々の引用。()内は引用者注。漢数字を書き換えた。


(経済)成長率が問題になり、宏池会事務局案は7.2%、10年間で国民所得を倍増するという計画だった。下村(治。池田勇人の経済政策ブレーン)案は11%で、結局、池田は、36年(1961年)以降、最初の3年間は9%でいくという方針をたてた。当初の成長率を高く見こんだのは、ちょうどその間に、終戦後のベビー・ブームに生まれた連中が就業する時期がやってくる。それまでに経済の規模を大きくしておかないと、失業問題がおきるという配慮からだった。これは目算がはずれ、38年には、多くなった人口の大部分が、所得が上がったために上級学校へ進学するようになり、若年労働者の需給はかえってひっ迫するという状態になる。


こういう状況と、不景気下での競争とどちらが大変なのか。僕が大学を卒業したとき、学校の内定率は50%だった。はたしてあの世代が経験してきたという競争は氷河期世代が経験してきた血で血を洗うような、死屍累々のものだったのか。経済がぐんぐん拡大して需要もたっぷりな中(1970年代半ばくらいまで?)での競争と、マイナス成長をも経験しつつ需要が低迷しまくっている中での競争と、どちらが激しい競争なのか。

さらに言えば、当時、女性は大学まで行ったとしても、就職にあたって同年代の男性の競争相手になることはほとんどなかったんじゃなかろうか。もちろん当時の企業が女性を受け入れなかったのはあの世代のせいじゃないし、あの世代の女性たちの選択肢の少なさに鈍感ではだめだとは思う。が、若者の就業問題が、事前に、政策課題としてちゃんと議論されていたことを無視して、競争が激しかったとは言わないでほしい。池田勇人は若者が職を奪い合うような状態を避けるために、高めの経済成長を目指したのだし、現に避けることができたのでは?

こう言うと、「昔はモノがなかった」的な戦術に切り替えてくるだろう。でもさ、そんなことを言ってしまうと、戦争に連れて行かれて殺された世代もいるわけで、「死人に口無しってこと? それはいっちゃいけないんじゃないの」的な空気になるだけだ。

最近読んだ本*1のなかで「あの世代の人たちは、子供たちが自分たちより貧しい生活しかできないことをみて、罪悪感を感じている(でも上手く対応できない)。」というようなことが書いてあって、なるへそ、と思った。たぶんあの世代は、好景気が当たり前すぎて、子供たちが苦しんでいる理由が不景気だとは思っていないのだろう。なので、本人に問題があるから苦しんでいる、というかなり分かりやすい悪役みたいな考え方になってるんじゃないだろうか(弱者は滅べ!的な。でも我が子だし…)。

こんな分かりやすい悪役が昭和30年代を舞台にした映画『Always』を観て喜び、キャスティング・ヴォートを握りしめつつ年金の話ばかりするもんだから、そりゃあ嫌われるはず。「好景気を政策的に支持すれば、その罪悪感と心中しなくても済みますよ」と誰か言ってあげればいいと思う。

*1 信田さよ子『母が重くてたまらない—墓守娘の嘆き

2008年7月9日水曜日

偶然について

今Talebの"Fooled by Randomness"を原書で読み返している(邦訳は読んだ)のだけれど、あらためて、人は(僕は)確率を理解できるようにはできていないのだな、と痛感している。

「過去の出来事はいつだって偶然じゃないように思える。」

とタレブはいう。これは気持ちの問題とかじゃない。人は何を見ても、偶然の反対、つまり必然=因果関係がある、と感じてしまうということだ。

あるお金持ちが毎朝素っ裸でベッドメーキングをする癖があったとしよう。ここに因果関係を見てしまう。毎朝素っ裸でベッドメーキングをするからお金持ちになれたんだ、という風に。人が出来事を「偶然じゃないように」思うとはそういうことだ。

人は因果関係ねつ造マシーンだ。雨が降ったら雨男のせいにするし、若者が犯罪を犯したらゲームのせいにするし、受験に失敗したら努力不足のせいにするし(全員が受かるわけじゃないのに)、障害児が生まれれば母親の飲酒のせいにする(そうやって自分を責めてしまう人もいる)。悪いほうばかりじゃない。若い頃努力したから自分は今の身分にふさわしい(景気が良かったことは何の関係もない?)とか、自分は気をつけてるから交通事故には遭わない(交通事故はすべて自業自得なの?)とか。

たぶん偶然じゃないことというのは、かなり見分けにくいものなのだろう。一度きりの出来事の中で因果関係を特定できるなんてことは、よほど単純な出来事でない限り、無理なんじゃないだろうか。

それでも、僕は因果関係に気づいてしまう。ありもしない因果関係をでっち上げてしまう。

タレブの次の作品"The Black Swan"では、博識であることがこの度し難い人間の病に対する薬であるという。でっち上げ因果関係の答え合わせをした結果が、博識だといえるから。「こいつは雨男だ。だからこいつといると雨がよく降る」という因果関係の答え合わせをするのは簡単だ。天気に気をつければいい。でも、「女だから」「年だから」「日本人だから」「○○大学出身だから」「ゆとり世代だから」という因果関係の答え合わせはどうだろう。その人を虚心坦懐にみることができているだろうか。

そうやって時間をかけて観察していけば、やがて博識になるというわけだ。もしあなたの運がよければ正しい(かもしれない)因果関係を発見するかもしれない。でもその正しさを確認するには、また時間をかけて偶然とそうでないものを選り分けなきゃいけないわけだけど。

2008年7月3日木曜日

発見と発明

科学は発明ではなくて発見だ、とよくいわれる。本当にそのとおりだと思う。

当然社会科学だって発見だ。以前のエントリでも書いたけど、「労働条件改善のためにメインバンクの協力が必要」という話があった。ぼくらは神様じゃないので、物理法則を無視して空を飛ぶ方法を発明する事はできない。同様に、社会にありもしないルールを発明したって社会が変わるわけじゃない。答えは身の回りにある。観察して、発見する。仮説をたてることもあるだろう。検証してみたら当てが外れることもあるだろう。でも基本は、観察して発見すること、これが科学である。

難しい専門用語を羅列する人に対して、うさんくさいな、と思っていた。かくいう自分も学生の頃は気取って、というか、気取る事しかしなかったので、うさんくさく思われてたんじゃないかな。だからそれは猛反省なんだけど、そういう人は発明をしているんだと思う。もちろん難しい現象を研究していれば、専門用語が必要になるのは当然。でも、本来専門用語は定義のしっかりしたものであるはずだ。でなければ難しい現象を扱えないだろう。そういったものを定義を共有していない人に向かって言っても、ただの発明でしかない。メインバンクなんて言葉は専門用語として正確な定義を持っていないから専門用語ですらないダメ発明だけど、そんなもので労働政策を論じるべきじゃない。

科学じゃないものに価値がないとかそういうことじゃない。友達と話すのに自分の想いを定義付けして共有する必要はない。見てくればかり気にしている人には気をつけろ!という話。