2008年6月16日月曜日

通り魔事件の反応

テレビのニュースは見ないし、新聞もとってないし、最近だとネットでニュースを仕入れるのも抑え目なので、雑感という以上のものにはならないけども。

聞こえてくる秋葉原の通り魔事件の反応に、事件とは別のイヤな気持ちを持った。

なんでも各地で派遣社員に対する扱いが変わってきているという。上司が以前より丁寧な口調で接してきたりするのだそうだ。

しかし、あのような卑劣な犯罪の為に僕たちが変わらなければならないというのは、なんだかとても屈辱的だ。こう書くと、「派遣なんて自業自得」、というふうにとられるのかもしれないけどそうではなくて、相手が派遣社員だろうが誰であろうが、人として尊重しないような態度は、通り魔と関係なく恥ずべき行為だ。それを社会的に(マスメディア的に?)注目され同情が生まれてるっぽくなると手のひら返しというのは、なんというかもう、本当にやりきれない。

職場での扱いがヒドくたって、将来が不安だったって、人は通り魔にはならない。でも、こういう反応をきくと、原因は派遣! と言いたくなるのも理解できる。

今回の件で態度を翻した上司たちは、こんなことがなければ正しい行為と恥ずべき行為の区別もつかないのだろうか。『あなたの職場のイヤな奴』問題というのは、本当に根が深く、かつ、影響の甚大な問題なのだと、改めて思う。
 

2008年6月13日金曜日

看板からはわからないもの

池田勇人関連のエントリで、志が重要なんだ、というようなことを書いた。

それはホントに信じている事だけど、だからといってこれ見よがしに掲げられた志を真に受けるほどナイーブでもない。

『あなたの職場のイヤな奴』にもあるけど、クソッタレ撲滅ルールを掲げておきながらクソッタレを放置するような職場は、ただクソッタレが放置されている職場よりもヒドい職場なのだ。

含羞とか、謙虚さとかの向こうにある志。看板からはわからない。

2008年6月12日木曜日

こちら久々の

2008年1-3月期のGDP二次速報が発表されましたね。

新聞は例によって4%の成長! と叫んどりますが、こちらをみると、

http://cloudy9.fc2web.com/sna/qe081/v/ritu-jfy0811.html


そうなんです。2007年度はこちら久々の低成長なんですねー。2002年度といいますと思い出深いのが、2003年度の内定をもらった人が過去最低の年ってことですよ(たぶん)。我が母校はたしか50%くらいじゃなかったかな? アタクシ? もちろん漏れました。以来低成長人生まっしぐらで。

それでも今回は雇用不安で騒がれたりはしていないわけで(むしろ高成長とかいってるし)、やっぱ団塊の世代の大量退職のせいですかね。うーん。こうもあっさり世代交代が起こることもあれば、就職氷河期のように手の打ちようがないこともある*1。世の無常を感じますなあ。

で、こんなお話が。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080611/1213186264


先方のコメント欄でお返事をいただいたので考えてみた。

アメリカは大恐慌みたいなことにはならないようだけれども、不景気は避けられないのかも、という雰囲気。アメリカがモノを買わなくなると、ま、世界中が困るわけです。そうなると、やっぱり日本、期待されてるのかな。日本の需要が回復、成長すればアメリカが買わない分くらいは埋め合わせられるかも。でもその兆しなんてまったくないわけですが。


*1 若者の雇用不安が事前に政策課題として議論されていなかったので、打つ手がなかった、あるいは派遣ナントカ法の改正ぐらいしかなかったわけで。それこそ池田勇人みたいに、若者の雇用のために経済成長予測を大きく見積もって、それを実現させていくこともできたのかも。目標があれば日銀だって少しは協力してくれたんじゃないかな?

2008年6月10日火曜日

Discover Your Inner Economistを読んだ



この本を貫くテーマとして、「世界を良くする」がある。もちろん、「みんながガマンすればいいと思います」じゃなくて、みんなそれぞれが最大効用を目指せる環境をつくる、といういかにも経済学者な目標で気持ちがいい。そうそう、著者は経済学者です。

だから、美術館で自分の関心を持続させる方法、とか、面白くない本をそれなりに読む方法とかは、己の最大効用をめざす、という意味でただしく世の中を良くしていくと思う。社会の中で自分はどうすればいいのか、という問題があって、自分がしたいことはなにか? それはホントにしたいことなのか? 空気読んだだけじゃないのか? と問い、自分のしたいことをしろ! というのが答えなんだけど、この個人からの目線が大事であるはずなのに、なんか行ったり来たりしてしまう。中途半端なマス目線があったり(音楽の話)して、イライラする。

で、個人の最大効用(そういう言葉はでてこないけどさ)を目指すときにも問題があって、人はコントロール感をすごく重視するので、たとえ合理的で正しい選択肢でもコントロール感がなければ選ばないよ、という。

例えば、新型の質の悪いインフルエンザが猛威をふるっています。感染者の10%が死にます。とても良くきくワクチンが作られましたが、ワクチンを接種した人の5%が死にます。さて、あなたはワクチンを接種しますか?

こういう質問をされたときに、多くの人が「接種しない」、を選ぶのだそうだ。致死率がはっきりと決まってしまう(コントロール感を失う)ことを恐れているのだろう、とコーウェンは推測してる。この例が面白いのは、じゃああなたの子供には接種させますか?<あなたが医者だったとしてあなたの患者には接種させますか?<あなたが大きな病院の経営者だったとして病院全体の患者に接種させますか? という順番で「接種させる」、が増えていくのだそうだ。人は他人の問題は冷静に見通せる、ということなんだって。

しかし、そういう僕たちがよく生きるために「世界一他人の(正しい)アドバイスを受け入れる人間」という自己イメージを持つべき、というのはヒドいんじゃないだろうか。コントロール感が全然ないじゃん。これじゃあ「強くなれ」的な精神論じゃないか。

人にうまくコントロール感を持たせてやれば、受け入れ難いが正しいことも出来るかもしれない、というのはグッドニュースなわけですよ。なのに……

と、思ったら。

なんとなくロバート・I・サットン『あなたの職場のイヤな奴』を読み返していたら、イヤな奴の多い職場で生き残るには「コントロール感」が重要、みたいなことが書いてあった。この本はイヤな奴=クソッタレのいる環境に長期間浸ることを強力に戒めている。あなた自身も早晩クソッタレになってしまうから早く出なさい、と。しかし事情があって出られない人のために、素人にはおすすめできない耐える方法を説いている。

その一つがコントロール感だった。クソッタレに対して小さな勝利を積み重ねることで、ささやかながら自分の人生をコントロールしているという感覚を持てば、苦しい環境でも生き延びられるという。ここで出てくる例が北ベトナムで捕虜になった中将だったりして、ああ、堪え難い上に正しくないことも、コントロール感を用いれば受け入れてしまうのね。

ということで、この本(Discover Your Inner Economist)の端切れが悪いのも悪用を恐れてのことなのかも。なので善良な市民におすすめ。

2008年6月5日木曜日

メインバンク

池田勇人エントリはちょっとお休み。

友達から聞いた話。非正規雇用の労働環境を改善する、あるいは正規雇用化するには企業が変わる事が必要で、そのためにはメインバンクの理解が欠かせない、らしい。

最近の何かの記事らしい。検索下手なので見つけられなかったです。なんでも、労働問題の専門家の記事らしいですよ。

それにしてもメインバンクですよ、こうなったら(?)。日本を陰で操るメインバンクですよ。官僚、銀行、ヤクザが牛耳っているんですよ、日本は。なので銀行さんにお願いして日本を変えてもらいましょうよ、そうしましょうよ。

独占禁止法にこんな箇所がある。「原則として他の国内の会社の議決権のうち、銀行については5%,保険業については10%を超えて、議決権を取得又は保有してはならない。」これはお金の貸し手が、借り手企業を意のままにしたりしないようにするための法律だ。果たして日本の銀行はこの法律の精神を踏み越えてまで企業経営に介入しているんだろうか。もしそうなら、この国は結局官僚と銀行とヤクザに牛耳られてるってことなんだろう。

ありもしないメインバンクの理解を得ても、何も解決しないんじゃないの? 専門家ってこわいね。

参考:三輪 芳朗、J.マーク ラムザイヤー『日本経済論の誤解』


いもしない専門家にむけて書いているような気がしてきたけど、まあいいや。

温故知新について

温故知新を言う人は多い。論語に出てくる言葉だ。けど、この四字熟語を聞くといつも思う。続きがなかったっけ? と。

子の曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。

先生がいわれた、「古いことに習熟してさらに新しいこともわきまえてゆくなら、人の師となれる。」
金谷治訳


温故知新は人に教えとくための条件なわけだ。僕はもちろん学者でもないし、小さい頃から古典に親しむようなこともなかったし、今だって深く論語を理解する才覚なんかないけど、それでもこの奇妙な本を読んでいくと、孔子は「人の師」であることに随分慎重なんだな、と思う。「教えることに倦まないで」なんて表現がよく出てくる。孟子も、人間の欠点は人の師になりたがること、とか言ってるし、古の賢人たちにとって「人の師」であることは、なにか危なっかしく見えたのだろうか。

で、温故知新を言う人は多い、ですよ。彼らは「人の師」を目指しているから、あるいは、「人の師」であることの危うさを避けたいから、温故知新を掲げているんですよね、きっと。