2012年6月28日木曜日

[訳してみた]なぜまともな人に仕事がないのか

『なぜまともな人に仕事がないのか』という本の著者のインタビュー記事がとてもおもしろかったので、訳してみました。もとサイトはペンシルバニア大学ウォートン校のものです。えー、ちなみに本は読んでません。iPhoneのkindleアプリでも積ん読ってできるんですね、知らなかったなー(棒) ま、そのうち読むかもしれません。

 さて著者は経営学の教授さんだそうで、その人が書いた『なぜまともな人に仕事がないのか』なのですから、これはもう嫌な予感しかしないわけです。国際競争力ガー、生産性ガーという話なんじゃないの? やだよ、そんなの。というのが経済学関連書を読む現代日本人の正しい反応というものでしょう。

 あに図らんや、おとうと図るや、このピーター・カペリ教授、失業者が増えた理由の第一を、そもそも仕事が少なからだ、と言明しております。ということでどうかご安心ください。

 日本でも雇用のミスマッチとよく言われるけれど、アメリカでも同様なようで、カペリ先生、そこに噛み付いています。それは企業側の言い分に過ぎないし、現実に起きていることとはちがう。企業が人々に押し付けている雇用プロセスが本当に効果を発揮しているのか、それを検証する責任が企業にはあるのだ、とのこと。他に、空きポストを放置するコスト、報道に対する批判、などが話題になっています。

 これは日本でもいえますね。若い人の就職活動があまりに迂遠で、求職者の負担ばかり大きく、しかも本当に企業が欲している人材を選別できているのかどうかもわからない。これでは無責任と言われてもしかたがないでしょう。

 では以下本文をどうぞ。

 原文はKnowledge@Whartonの"Why Good People Can't Get Jobs: Chasing After the 'Purple Squirrel'"です。(リンク

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(翻訳はじめ)


なぜまともな人に仕事がないのか:むらさき色のリスを追い回すコスト


 ペンシルバニア大学ウォートン校のピーター・カペリ教授(経営学)の新著、『なぜまともな人に仕事がないのか 技能のミスマッチと企業にできること(Why Good People Can't Get Jobs: The Skills Gap and What Companies Can Do About It)』が、今日労働に関わるすべての人々、雇用主、労働者、リクルーター、そしてアカデミズムとメディアの間で話題になっています。カペリ教授は、雇用主サイドから繰り返し発せられる、求職者に充分な技能が備わっていないという議論の誤りを指摘しています。そして教授は、むしろ責めを負っているのは企業側であり──雇用とトレーニングのコストについてきちんと情報を集めていない、というのがその一点です──、さらに、応募者をコンピュータで管理するシステムが、求めている人材を見つけやすくするどころか、逆に見つけにくくしている、と主張しています。

 カペリ教授は、ウォートン校の人材センターの長でもあります。今日は当サイトの記者と共に、新著について語ってもらいました。以下はその模様です。
記 者:ピーターさん、お時間をいただきましてありがとうございます。さて、この本では実に幅広い議論が展開されていますが、その中の一つに、不況と冷え切った労働市場のもとで、企業は巨大な求職者予備軍を相手によりどりみどりといった状況になり、雇用の際により厳しく選別するようになっている、というテーマがありますね。しかしそれでも、満足な技能を備えた求職者が見つからない、と言い放つ企業もあるわけです。このことについてお聞かせください。
ピーター・カペリ:まずすべてのプロセスを雇用主がコントロールしていることを理解しておきましょう。雇用主側が仕事の定義をし、応募条件を作り、募集の文言を決めているのです。給与の水準を定めて、どの程度おいしい仕事なのかをわかるようにしておき、その後に、選別に取りかかるわけですね。そこで応募者の情報に目を通し、より分けていきます。
 何よりハッキリしているのは、現在、シンプルに仕事が足りていない、ということです。だから雇用主がえり好みができる状態であるのは間違いありません。しかしえり好みすることをここで問題として扱う気はありません。雇用主側が見極めに時間をかけて、いざ雇う段階までなかなか進まないのは、べつにことさら驚くことでもありませんよね。なんといっても見極めるべき求職者の数が多いのですから。こんなに長い行列ができているのですから、最初の一人を採用する必要なんてないでしょう? 不自然な、そして誰から見ても良くない点はそこではなくて、「いや、雇い渋っているんじゃなくて、雇いたいと思う人があらわれないので、ずうっと雇っていないんだ」という雇用主の存在なのです。この問題の答えを出すにはまず、雇用のプロセス上すべての決定を、他ならぬ雇用主側が行っているというところから始める必要があると思います。では、このような雇用主というのは、なにか間違ったことをしていると言えるのでしょうか?
記 者:それはそうでしょう。だって仕事を探している人の存在と、雇用主側の意に満たない人しかいないという主張はマッチしてませんからね。教授が提示した問題の一つに、「ホームデポ(訳注:住宅工具の大型チェーン店)」流の雇用プロセスというのがありました。これは、雇用をまるで食洗機の部品交換のように行うもので、空いた仕事を壊れた部品と見なして、部品を食洗機にはめ込むように新しく来た人を仕事につかせておしまい、というやり方です。しかし一方で、仕事のポストを無理に埋める必要はない、今いる社員で回せばいい、と感じている企業があります。こういった企業は、空きポストが多すぎることで本業に支障がでる日がくることを理解していません──いえ、本業でなくても、会社の成長、利益率の向上、競争力でも言えることです。これも問題の一つではないですか? 雇用を遅らせる企業と、その見えないコストを理解せずにそうしている企業です。
カペリ:はい、間違いなくそこが問題なのです──ほとんどの組織の内部で行われている会計システムは、空きポストを維持するコストについては何も教えてくれません。会計システムは、誰かを雇い入れるコストは簡単に教えてくれるのですが、社員の貢献を計ることはできないのです。なので、たいていの企業では、会計システムの教えからいって、空きポストを維持することでお金を節約しているように見えてしまっているのです。会計システムを信じる限り、急いで人を雇う必要なんてどこにもないのです。問題はここから始まっていると、私は考えています。これは明らかに、社会にとっても雇用主にとっても良くないことです。しかし問題は雇用主である企業の内側から生まれているのです。会計システムが、人を雇わないように仕向けているのですから。
記 者:教授はまた、企業が市場価格の給与を支払っていない事も問題視しています。企業側は労働市場に向けて、とりあえずきわどい球を投げてきているようです。しかし、人を安く雇えるときに、どうして市場価格を支払わなくてはいけないのでしょう?
カペリ:いや実は支払いたくても支払えないんですよ──というのが企業側の言い分ですよね? マンパワー社による調査がありまして、雇用主に雇いたい人材が見つからずに困っているかどうかを聞いています。その調査では、だいたい11%の雇用主が、問題は雇用主側が提示する給与で仕事を引き受けてくれる人がいないこと、と答えています。つまり11%が、給与を充分に支払っていないと認めているわけです。11%が認めたという事は、実際にはこの倍はあると思います。人は自分自身が生み出している問題には鈍感なものです。ですから認めたのはほんの一部なのでしょう。まあ、とりあえず低めのきわどい球を投げるのは責めないとしても、その上で人材が見つからないと言うのであれば、それは技能のミスマッチと呼んではいけません。求める技能と持っている技能のミスマッチなどではなくて、単に渋ちんなだけです。
記 者:この本には「ミスマッチなのは技能ではなくてトレーニング」という章があります。そこでは1979年のデータが載っていて、その当時の若者は平均で、年に二週間半の期間、トレーニングを受けていたとあります。それが1991年になると、前の年に何らかのトレーニングを受けた若い労働者は、わずか17%になってしまっています。過去五年以内にトレーニングを受けた、という人でも21%しかいませんでした。教授は、徒弟制のような、仕事をしながらトレーニングをしていく仕組みが特に崩れていると指摘しています。では、現在の社員や将来の雇用のためにトレーニングを行う仕組みを整備していく、そういう努力が企業側に不足していることが、「技能のミスマッチ」とよばれるものの大部分を引き起こしている、ということなのでしょうか?
カペリ:そうです。特に政策に携わる人たちの間でよく言われることですが、学校がダメなせいで、子供たちは必要なだけの学位と知識を持たずに社会に出てきてしまい、雇用主側の意に沿った人材が見あたらない、という説があります。しかし、その雇用主自身のデータを見てみると、雇用主が人材を獲得する際に直面する懸念事項で、学問的な技能が大きな話題になったことなど一度もありません。現に、雇用主側の求職者に対する注文は、私が調べているこの30年間ぐらいほとんど変わっていないのです。そしてその注文というのは、端的に言って、いつの時代であっても老人が若者に対して抱く思いと同じなのです──若い奴には勤勉さが足らん、職場での態度がなっとらん、仕事はもっと一生懸命やるものだ、こういったことです。実のところ企業側は、学校を出たての若者なんかぜんぜん探していないのです。雇用主が何を求めているのか調べてみれば、それは結局経験です──どの企業も、3年から5年くらいの経験を持った人を探し回っています。企業が本当に求めている技能は教室では学べないもので、その仕事をしながらでしか学べないのです。ですから、応募要件が浮き世離れしているのはたいてい、企業が、今現在別の会社でまったく同じ仕事をしている誰かを探し回っているせいなのです。そしてこれが、雇用主が今現在失業中の応募者に会いたくない理由でもあるんですよね…。募集しているその仕事にすでに就いている人を探してるんです。問題は、学校を出たてで経験の無い人にその仕事を与えようという人がいないことです。以前にその仕事をやったことが無い人を採用し、トレーニングを授けようという人がいないのです。
 すでにトレーニングを受けている人を雇った企業を見れば、楽なほうを選んだな、とその気持を理解することはできます──少なくとも、そっちのほうが楽に見えたのでしょう。しかしそうすることで同時に、誰もが入門者を避けるわけですから、技能ミスマッチ問題を生み出してもいるのです。そしてやはり多くのケースで、水準に達している人──特殊な技能はのぞきますが──を採用し、トレーニングするのは、様々な面で充分に引き合うのです。トレーニング期間の給与は低めにしておけますし、雇う前に技能のいくつかは身につけてくることを条件にしたって別に構わないのですから。しかし会計システムがあるために、雇用主の大多数は、人をトレーニングするコストについて何も知らないままでいるのです。すでに仕事についている人を追い回して雇い入れることで、本当にお金が節約できているのか、ぜんぜん見当もつかないのです。
記 者:教授のこの本は、キャッチ22状態(訳注:自縄自縛の堂々巡り)で満たされていると言えるのではないでしょうか。雇用主は、社員が会社を辞めてしまうことを恐れているので、トレーニングを授けたくない──確かに労働者はますます企業を辞めやすくなっていますし──、そうなればトレーニングの費用がすべて無駄になってしまうわけですからね。しかしこれは同時に、すでにトレーニングを受けた求職者の数がますます少なくなって、見つけづらくなることも意味しています。どうも手詰まりな印象がありますね。
カペリ:そしてこれは労働者にとってもキャッチ22状態なのです──その仕事の経験が無いために、最初の一歩を踏み出すことさえできないのです。重要なことですが、雇用主側は、以前はずっとこのようなトレーニングを行ってきたんです。トレーニングを行い、さらに利益を出す方法があったのです。徒弟制がその例ですが、弟子をとるというのはずっと、働きながら学ぶ有力なアプローチでした。医師を育成する方法も同じです。コンサルタントや会計士を育てる方法もまったく同じです。こういった会社──会計事務所やコンサルティング企業は、事実上すべての社員が5年以内で辞めていきます。しかしそういったやり方のなかで、人々は働きながら学んでいるのです。つまり、そういった業界では人々はトレーニングを受けているのです。会社はそれでも、全員が学びながら働いているにも関わらず、そんな社員を使ってお金儲けができているのです。これに近いことを多くの企業で実施できるかどうかなんてすぐに見当がつきそうなものですが、「ウチでは無理だね」という脊髄反射的な答えが返ってくるのです。
記 者:無職の応募者が差別される理由がたくさんある、と指摘してらっしゃいます。企業側は、そういった応募者の技能が時代遅れになっているとか、高齢すぎると感じているのかもしれません。連邦政府が差別を禁止するという手段をのぞいて、この問題を回避する方法はあるのでしょうか? 政府による禁止が上手く機能することはまずないでしょうから。
カペリ:高齢の労働者の問題は特に重要です。というのも、高齢の労働者というのは普通、企業側が雇用の際に求めるものをすべて持っているからです──仕事への姿勢、経験、準備期間も育成期間も必要がない、または少ない、などです。しかしそれでも、高齢の労働者に対する差別はありふれています。禁止する法律はありますが、実行力はありません。
 問題は、雇用主側が、自分たちの利害を自己診断しているところから始まっていると思います。皮肉なことですが。私は何も、雇用主は一心に社会の為に何かを行うべきだ、と言っているのではありません。今企業が行っていること、つまり、すでにどこか別の会社に雇われている人々という小さなグループを追い回す行為が、そもそも企業自身の利害に一致していない、と言っているのです。人をトレーニングすることは理にかなっていますし、人にチャンスを与えることも理にかなっているのです。空きポストを本気で埋める為に、応募条件をもっと現実的なものにするのも、やっぱり理にかなっているのです。なので一番の難問はこれなのです。企業側が、自分の利害に沿って行動していない、という点です。ではどうしたら、企業はもっと上手く立ち回れるのでしょうか? 外部の人に手伝ってもらうことも可能でしょうね。常によその会社の人材を追い求めることがどれほど高くつくか、ということを学者とかに指摘してもらえば良いのです。たとえば、本校の同僚にマシュー・ビドウェル教授がいるのですが、彼が実に興味深い研究を行っています。よその会社から人を雇った場合と、生え抜きの人の場合を比較しているのです。すると、生え抜きの人のほうが、コストの面でも生産性の面でも優れていました──これはよその会社にいた人は絶対に雇うべきではない、という意味ではありません。そうではなくて、会社の内部で成長させていくことは、間違いなく引き合う、ということなのです。なので、雇用主側はまず、情報をしっかり集めるところから始めるべきだと考えます。皮肉なのは、そのほかの業務については、たとえば仕入先の質や在庫を抱えるコストなんかについては、詳細な情報を持っているのです。それが人事となると、何も分からなくなってしまっているんですね。
記 者:近頃では、典型的な企業の人事部の役割が効率化、省力化されてきていて、雇用のプロセスの中で重要性を失っているのではないでしょうか?
カペリ:この20年間にわたり、人事部は骨抜きにされ続けてきたという面があると思います。特に不況時にはリストラが行われますし、人事部は狙われやすいですよね。トレーニングを担当する部門は、もうほとんどの企業から姿を消しています。また、新人を発掘する様々な機能も同様に失われてしまいました。昔でしたら、求人を出す際、職務の内容などは人事部に相談して作っていました。人事部の人はそのためにいたのですし、もし応募条件が浮き世離れしていたり、労働市場とズレまくっていたら、その人が止めてくれていたのです。それが今ではそんな人はいなくなってしまった。そして基本的に、今時の「ほしいものリスト」式の応募条件は、応募者管理ソフトで作られています。実際の応募者が生きた人間の目に触れるのは、雇用プロセスの最終段階だけです。つまり、私たちは雇用プロセスの自動化を進めてすぎているのです。自動化それ自体に問題はありません、結局応募者をふるいにかける必要はあるんですから。しかし、プロセスから人間も一緒に排除しようというのは、重要な決定を機械に一任してしまうことなのです。人間による判断がやっぱりとても重要です。
記 者:さらに、多くの求職者が、管理ソフトの裏をかく術を身につけてきています。たとえば、履歴書や経歴書などにキーワードを忍ばせておく、といったことです。ソフトウェアによる管理がますます洗練されているように見える一方、抜け穴もあるわけですね。
カペリ:そうです。そこが大変重要なポイントです。ソフトの裏をかける人は応募プロセスの先に進みますから、会社側も面接で直に接触できます。しかし、そうでない人とは出会うこともないのです。果たして雇用主側は、本当にそんな人を雇いたいのでしょうか? 制度の裏をかくような人物ですよ? そのこと自体が、どんな人物であるかを物語っている、とも言えるでしょう。しかし求めていた技能については何の情報も得られません。
記 者:性格や自己を律する能力といったことはほとんど分からないですよね。
カペリ:それこそ雇用主側が求めている情報なんですけどね。
記 者:教授はまた、「熟練の労働者が見つからず企業困惑」といった見出しで記事を書く傾向があるとして、新聞メディアの責任も指摘しています。「求人、夢見がちなのは企業側」なんて記事は書かないんですね。とはいえ、メディアがそう簡単に変わることはないでしょう。連中がより分析的になり、深層をえぐるようになるとは思えません。そこで、メディアの情報から事実だけを手に入れるにはどうしたらよいのでしょう?
カペリ:まあそれが私にとっての大問題でした──それがこの本を書いた動機の一つでもあるのです。新聞を開けば、あふれんばかりの逸話、事例が載っていますよね。そして国政の場、ワシントンに行けば、本当に多くの人がそういった個別の逸話や事例を思い思いに選び出し、それが我が国の経済全体で起きている現象なんだと思いこんでいるのです。基本的に、私がこの『なぜまともな人に仕事がないのか』でやったことは、ある程度まとまった量の、現実のデータを調べることです。そしてデータを見れば、新聞に載っているような逸話がどれも真実ではないことが分かるはずです。たとえば、雇用主側が新聞が伝える通りの行動をしていないことなんかが分かります。新聞記者の方々が、ほんの二三でいいので質問をぶつけてくれればいいのに、と思います。雇用主側が、技能の面でミスマッチがあって、求める水準に達する応募者がいない、と言うとき、彼らは単に、状況を自己診断しているだけなのです。しかし実際に起きているのは、単に企業が人を雇えずにいて、その理由は分からない、ということでしょう? ミスマッチ云々というのは雇用主側がそう言っているというだけなのです。これはただ単に、雇用主側が出した応募条件がクレイジーな代物だとか、給与が低すぎるとか、ふるいの目が細かすぎて誰も通れなかっただけなのに、雇いたくなる人材がいないんだ、と言っているわけです。
記 者:この本の中に、どの世代も重大な技術革新を経験していると感じてきた、という箇所があって、面白く思いました。考えてみれば、電力、電話、自動車すべてが10年のうちに広く使えるようになった時代もあったのですね。しかし、現在の、何でもコンピューターが動かす私たちの時代の変化の大きさでさえ、以前の変化と特に変わらないという教授の指摘は、ちょっと信じられないのです。現在の医療、ナノテクノロジー、ロボット工学の変化はすごいですから。
カペリ:ここでの真の疑問は、雇用のミスマッチが発生するほど、技能の要求水準を高めるような事態が起きているのか、ということです。ご存知のように、いつの時代にも新しいテクノロジーを身につけなくては就けない仕事があります。そしてそうでない仕事もあるのです。合衆国の全仕事を並べてみれば、増えていくものもあれば、少なくなっていくのもあるでしょうが、増えているほうには、大きなグループが二つ見つかるはずです。需要に応じて増えている高給の仕事、そして、医療ケア、介護など、給与は低いけれど需要に応じてものすごく増えている仕事です。全部ひっくるめると、(訳注:必要な技術水準は)全体ではあまり大きな変化にはなりません。すべての職業を貫くような構造的な変化は起きていないのです。今時はコンピュータとITがとにかく重要なんだ、というのが私たちの口癖なわけですが、PCがオフィスに登場したのはもう30年から35年前ですよね。社員みんなのデスクにPCが置かれていなかった光景、それをあなたが最後に見たのは何年前でしょうか? 思い出せる人もいるでしょうが、ほとんどの労働者はもうそんな光景を見たことさえないのです。コンピューターはそれくらい長い間利用されてきました。
 私が思うに、私たちは、若い人たちがブラックベリーやiTunesを始終使い倒しているのを見て圧倒されているんじゃないでしょうか。しかし年のいった人だって同じテクノロジーを利用しているじゃないですか。同じ事ですよね? 違うのは、若い人たちは24時間友達としゃべっていて、私たちが友たちと話す時間はもっと短い、という点だけです。なので、テクノロジーが違うのではないのです。若者がテクノロジーを使い倒していることに、私たちの意識が集中してしまっているだけなのです。でも私たちだって使ってはいるのです。
記 者:我が国の新卒は、他国の新卒よりも技術的、質的に劣っているという主張はどうでしょうか。教授はOECDの報告を引いて、合衆国の学生は先進国中でだいたい真ん中あたりであることを示していますね。同時に、たとえばアジアの国々が、教育と職業訓練の面で合衆国に追いついてきているとも書いています。この点で我が国が心配しなくてはいけないことが何かあるのでしょうか。
カペリ:先ほど話題になった説──学校がマズいので技能のミスマッチが起きている説──は本当に強力で、それは我が国では学校がとにかくヒドい状況なんだ、という見方が根付いているからです。しかし平均で見ればそれは事実ではないのです。学校制度はこの20年間で、少しずつ改善を続けてきました。もちろん我が国にはまだ極端にヒドい学校が残ってはいるので、そういった学校がやたらと注目を集めているのです。しかしそれは我が国のほんの一部分にすぎません。すばらしい学校も、ヒドい学校もあるのです。外国と比べてみると、私たちはだいたい真ん中です。そして結構長い間真ん中あたりにいました。
 高校の生徒の学力世界トップ5には、シンガポール、上海、香港が含まれています。競争相手をヨーロッパに絞ってみると、私たちはやっぱり真ん中くらいです。違う点があるといえば、我が国では大学に通う人がよその国よりも多い、というところでしょう。ですから、合衆国の典型的な労働者は、たいていの国に比べて高い教育を受けているのです。我が国の教育はまだ充分ではない、と主張する人たちもいます。でも何をもって充分とするかという議論は、それこそ永遠に続けられますよね。なのでやはり、次のシンプルな点が大事ですね。雇用主側は、応募者の学力について文句なんか言ってない、という点です。そして、特に合衆国で顕著なのですが、労働者や学生たちは、どのような経歴を積めば仕事につけるのか、何を専攻すれば仕事につけるのか、それを見極めようとして身を削っているのです。
 さらに理系が足りない、という説も強力ですね。ここでいう理系というのは、科学、技術、工学、数学です。工学のある種の仕事は、いまでこそ超人手不足ですが、5年前まではぜんぜんそんなことはありませんでした…。なので、工学のある分野に進んだとしても、自分が労働市場に出た年に上手いこと人手不足になるかどうかは賭なのです。もし求人が少ないとなれば、他の分野に進んだ人と同じ問題に直面することになります。しかもそれに加えて、理系の技能はあっという間に時代遅れになってしまうのです。特にIT関連の技術がそうです。
 なので、たとえばコンピューター・プログラマーとしてのキャリアを目指すのは、技能が時代遅れになってしまうという点では、理想的なものとは言えないかもしれません。労働市場に放り出されると、また別の言語を身につける道を見つける必要があります。さらに、数学や科学を専攻した場合だと、そのまま数学や科学の仕事に就くのは至難のワザです。たとえばここ、ペンシルバニア大学を見ても、理系の学生の大部分は、コンサルティング企業や投資銀行に就職していきます。ですから、どこかの産業が数学や生物学の学位を持った人材を大々的に募集したけれど、見つけることができなかった、なんて事態は起きていないのです。
記 者:この本の副題は、「技能のミスマッチと企業にできること」です。この問題の解決策が示唆されています。すでにいくらか触れてらっしゃいますが、この問題を少しでも和らげる方法を二三ご教示くださいますか?
カペリ:もし私が雇用主であれば、まず空きポストを維持することのコストをちゃんと把握しているかどうかを調べますね──実はつい先週、同じ事を経営者さんたちの前で述べたのですが。もちろん、調査にはコストがかかるでしょうけどね。自分でトレーニングを施すコストと、よその会社の社員を追い求めるコスト、どちらが大きいのか、理解しているでしょうか? もしこの疑問の答えを持っているのなら、空きポストにもコストがあることを理解しはじめていることになります。どこかの誰かを永遠に追い求めることを、IT業界ではむらさき色のリス探し、と言います。あまりにユニークで、平均をものすごく上回る、どこまでも完璧な人材、しかし決して見つかることのない人材──そんな人を追っかけるのは、賢いやり方とはいえないでしょう。ですから、きっと私たちは応募条件を修正して、とりあえず空きポストを埋めて、さっさと仕事に取りかかるべきなんですよ。果たして多くの企業は、会計事務所がしているように、そしてかつて職業別労働組合が技能検定という形でおこなっていたように、トレーニングをしながらお金儲けをする方法を見つけることは不可能なのでしょうか? 直感に頼り切りになるのではなく、理にかなったやり方を探すこともできないのでしょうか? 直感は間違うことだってあるのに。今少なくない企業が、トレーニングでは得ることのできないむらさき色のリスが目の前にあらわれるのをひたすら待っているだけです。待つのに忙しいので、人々が普通にがんばるチャンスを用意する暇もないのでしょうか? 別のやり方を検討していきましょう。まったく理にかなっていないのですから。
記 者:最後になりますが、労働者サイドにはどのようなアドバイスがありますか?
カペリ:仕事を探している場合、まず気をつけておかなくてはいけないことは、大局を見れば、仕事が見つからないのはあなた個人の責任ではないということです。単に、仕事を探す人の数に比べ、仕事の数が足りていないのが現状なのです。しかも膨大な数の仕事が不足しています。なので、仕事が見つからなくてもご自分を責めないでください。
 次に、現行の雇用プロセス、特に自動化が進んでいるところをふまえると、ベストなアドバイスは、目新しいものではないのですが、自動化の裏をかけるかどうか、そして、実際の人物に会って応募書類だけでは分からない様々な技能を持っていることを納得してもらえるかどうかを確認しよう、ということですね。さらに、雇用のリスクを小さくしたいと願う人事担当者の気持ちになってみるのが良いでしょう。これは不況でなくても役に立ちます。人事担当者は本当にその仕事をやりたがっている人を見つけたいものなのです。担当者があなたで納得するかどうか、考えてみてください。
記 者:ピーターさん、どうもありがとうございました。

(翻訳おわり)


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cover
偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
カペリ教授の問題意識は、田中秀臣先生の『偏差値40から良い会社に入る方法』(参照)と共通しているようです。現状は個人の手に負えるものではないけれど、できることもある、といったところでしょうか。

 あと、言い回しについていけなくて途中で投げ出した本で、豊田義博著『就活エリートの迷走』というのがありまして、そこに日本の新卒のみなさんがヤキモキしている、エントリーシート導入の経緯とその結果、みたいな話がありました。導入した企業からすると、エントリーシートで応募者をふるいにかけた結果、本来求めていた人材を逃しているんじゃないかという不安がある、のだそうです。「絶対に通るエントリーシートの書き方」みたいな本もあるようで、雇用のプロセスをカッチリしすぎてしまうと、受験テクニックならぬ就活テクニックを研究するコストが充分引き合ってしまうんでしょう。カペリ教授の指摘そのままですね。

 マクロの経済状況を考えると、ついつい、企業も苦しいからなあ、と思ってしまうのですが、あんまり時流に乗ろうとかしないで基本的なところではぶれないで欲しいですね。我が国でも浮き世離れした求人、「空求人」の問題があります。そして言わずと知れたサービス残業があるわけです。人を雇うという企業活動の基本的なところでお茶目してしまうのなら、景気の良し悪しによらず、批判は受けますよ、そりゃあ。

 マクロで見れば、失業率が高いということはまだまだ賃金が高どまりしているということなのでしょう。だから失業率の改善には賃金の切り下げが有効だ、とこうなるわけです。しかし細かく見れば、一律に賃金が高くなっているわけではありません。仕事の実態以上に高くなっているところと、仕事の実態よりもものすごく低くなっているところがあるわけです。そして後者はたいてい立場の弱いところに集中します。だから、「まだまだ賃金が高い」みたいな情報ばかり流れてしまうと、ただでさえ立場の強い雇用主側の振る舞いに、専門家がお墨付きを与えてしまっているようにも見えてしまう。陰鬱な学問の面目躍如で、ここら辺にも経済学の不人気な理由がある気がしますね。

 とはいえ、我が国が一番に取り組むべきことは、やはり景気が良くないことのはずではあるのです。でもそうして、日銀があんな感じで放置され、就職氷河期を繰り返しすほどの長い不況のなかで、それでも企業が人材不足であると感じているというのだから(参照)、その反省を国民が勝手に雇用プロセスに反映させたって罰はあたらないでしょう。当局が動くのを待っていたって仕方がないですよ。カペリ教授も言うように、人をトレーニングしないコストだってあるんですから。

 特に世代間での賃金差が大きすぎるのは、所得移転という点からも組織の健全さという点からも、そして社会の長期的な安定という点からも好ましくないのですから、もっと堂々と批判していきたいですね。

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 ついつい完璧を求めてしまうのは人類の通弊でありまして、自分に完璧を求めれば不安と憂鬱で身動きできなくなり、他人に求めれば若い芽をせっせと摘むはめになる。荒唐無稽な空求人は、企業がハローワークにお願いされて渋々だした求人であることが多いようです。でも、だからといってその場のノリで完璧を要求しちゃだめですよ。

2012年6月19日火曜日

落日のエリート


また別のアメリカの左派的な雑誌『The Nation』に面白い記事があった。今回はそれを僕なりにまとめてみたいと思います。


C・Hayesという人のWhy Elites Fail?(なぜエリートはしくじるのか)という記事で、このHayesさんの新著を元にした記事のようだ。

話のつかみはこうだ。ニューヨークにはハンター・カレッジ・スクールという学校がある。日本で言う中高一貫の公立校であり、ニューヨーク中から才能ある子供が集まってくる。なぜか。ハンター校は独自の入学試験を行っていて、毎年200人弱の生徒しか突破できないほどの難関校なのだ。Hayesさんはそこの卒業生だそうだ。で、彼が在学していた1995年当時、生徒の12%が黒人、6%がヒスパニックだったという。

それが2009年には黒人が3%、ヒスパニックが1%になってしまっている。なぜだろう? 最近は両親共に白人である子供が減ってるなんてニュースも聞いていたのに。実は、Hayesさんの学生時代にはなくて、今はあるものが関係するという。それはハンター校へ入学するための予備校だ。ハンター校入学を目指す小学生が、放課後に英単語を覚えて計算練習をするために数千ドルかかるのだ。なかには時給90ドルの家庭教師をつける家庭もある。

かつてハンター校は実力主義の象徴のような学校だった。コネも金もここではおとなしくするしかなかった。テストの点が基準より上ならどんな子でも入学できた。しかも学費はタダだ。まさにアメリカンドリームの体現だった。

それが結局、裕福な白人家庭の子弟が集まる学校になってしまったのだ。予備校に通ったり家庭教師が付いている小学生が高得点をおさめるような入学テストばかりやるようになってしまった。なぜだろうか?

Hayesさんは20世紀初頭の社会学者Michelsを引きつつ、実力主義は必然的に寡頭制にたどり着く、と言う。まず実力主義(忘れてましたけど、これmeritocracyのことです)には二つ条件があって、一つ目は「個々人の能力に差があることを認めつつ、一番才能があって一番働き者なヤツを、一番難しくて一番重要な仕事に就かせる」こと、二つ目は「信賞必罰をしっかり実行する」こと。二つ目の条件はつまり、親が実力者だからって大目に見ちゃだめだよ、ということですね。逆も同じ。

と、まあ実力主義には誰もが惹かれるさわやかな魅力があるわけですが、Hayesさん曰く、私たちはここで厳然たる「実力主義、鉄の掟」に阻まれてしまう。まず時間の経過とともに、実力主義を採用する体制そのものによって、信賞必罰がゆがめられてしまうのだ。

人の出来不出来を目の当たりにすると、私たちは機会の平等の実現をあきらめてしまう。信賞必罰を行うよりも、個々人の能力差にばかり関心が行ってしまうのだ。ぶっちゃけ、仕事をしたりブログを書いたりしゃべったりしなければ能力イコール肩書きであるし、日本でも「学歴ロンダリング」なんて言葉が生まれるように、肩書きのほうはでっち上げが可能だ。そして、実力主義の階梯を駆け上がっていった人々は、自分の友人、仲間、親族、そして子供のためにハードルを下げてやる方法を必ず見つけだす。そうして低めのハードルを越えてきた人物によって重要な地位が埋まっていく。つまり、実力主義を謳い、その恩恵を受けた人々が、自分の意志で寡頭制の準備にはげむのだ。

ハンター校の卒業生はエリート大学に進学していくのだが、多くのエリート大学でマイノリティ家庭出身の学生は増えてはいる。しかしそれ以上の勢いで、「依怙贔屓グループ」出身の学生が増えているのだ。依怙贔屓グループというのは、両親がその大学の卒業生である家庭の子、スポーツ推薦の子、大学職員の子、セレブと政治家の子、寄付金を出した家庭の子だ。

これにさらに、予備校に行けるといった面での有利さも加わるわけで、ここまでくるともはや実力主義とは似ても似つかない。現状を「裕福な白人へのアファーマティブ・アクション」と批判する人もいるそうだ。

もしも実力主義が純粋な形で機能していれば、人々の格差は広がっていくはずだ。しかし同時に、信賞必罰に伴う社会階層をまたいだ移動も活発になっているはずでもある。で、Hayesさんは、アメリカは格差は拡大しているけど階層間の移動は活発でない、と言う。(それはしようがないような気もしますね。トンビが鷹を生むのは希で、普通、蛙の子は蛙なんですから。ま、鷹から生まれたトンビがね……)

で、ここから格差の話なんだけど、省略。割とよくある話なので。

問題は、「実力主義、鉄の掟」のせいで、エリート層が自家中毒を起こしている、というところ。エリート層に生まれ育ちながら、能力の方が伴わない人は必ずいる。けれど、掟があるのでこの人たちも重要な地位に就いていく。すると、この人たちがいろいろやらかして、能力が伴っている人がその尻拭いに追われている。これが、21世紀初頭のアメリカで起きていることなのだという。

エリートのみなさんは肩書きにこだわる一方で、実力主義の、その肝心かなめの知性にはあまり興味がないようだ。いや、そうじゃない。彼らはある意味で「知性」にとりつかれている。ただし、一般に言うよりももっと邪悪なたぐいのそれなのだ。

彼らが信奉する知性とは、きれいに序列づけることが可能であり、人間が二人いれば必ず差が付くものであり、どちらが上とも言い難いなんて事態はあり得ないものなのだ。

日本でこういう人たちが集まるところといえば霞ヶ関でしょうね。メリケンではウォールストリートなんだそうです。で、その中の人、イーライさん(仮名)によると「僕は良い学校を出て、頭の良い連中に囲まれて仕事をしてるけど、いまだかつて一度も、賢い連中が集まっていると自称しつつ、それがホントだった職場にいたことなんてないですよ」とのこと。この手のエリートさんたちは、自分で自分のことを頭が良いと言い、仲間のことも頭が良いと言い、そのうちに本気でそう信じ込むという宗教の人たちなわけですが、やがてその宗教の外側の人まで、その篤い信仰に心打たれて、思わず彼らの聡明さを信じてしまうところが厄介。イーライさん、さらに曰く「アメリカはもう、ウォールストリートのいいなりですよね。ウォールストリートが本当に一番賢いのかどうか、賢さの自家中毒に陥っていないかどうか、連中が自分が口にした言葉の意味を本当に分かっているかどうかなんて関係ない。それがアメリカの文化なんですよ」

本来、他人にあれこれと指図する地位に就くのであれば、必要なものは知性だけではなかったはずだ。人の痛みを理解する心とか、倫理的な厳格さだって重要だった。いや、知性にはそういった側面もあったはずだ。だから人は知性に魅了されるのだ。

しかし、現代エリートの知性は人を脅しつけるだけだ。誰が上で誰が下なのかを思い知らせるためだけのものだ。組織で何か決定をしようとすれば、最後にものを言うのは一番賢い人の意見だ。こういう人に他人をいたわる気持ちがないと、そりゃ大変なことになりますよね。

では、いかに大変なことになったのか。この前のブッシュ政権下で行われた戦争捕虜に対する決定が例としてでている。テロなので捕虜とは違うというロジックを出してきたのは、チェイニー副大統領の側近、デービッド・アディントン氏だった。ブッシュ政権の黒幕はチェイニー氏だ、とよく言われていたけど、アディントン氏はその「チェイニーのチェイニー」と呼ばれるほどの人物だった。

で、この人がむちゃくちゃ頭が良かったんだそうだ。もうこの人が何か言うとみんな反論できなくなっちゃう。日本で言うと誰だろう? 宮沢喜一さんかな? で、口を開けば相手の意見を否定する人だったそうですよ。いや、アディントンさんがね。

この邪教の信徒たちの困ったところは、頭の良さで目立つためには、頭が良いと目されている人物の主張を全面的に受け入れる他ない、というところにある。そうしないと信者仲間からバカかと思われちゃうからね。そうして自主独立の精神を投げ出してしまうのだ。

その結果どうなるのか? 制度的な腐敗が始まる。製薬会社からお金や特権をもらっちゃう医師。投資家からお金をもらい、投資家のために格付けを行っていたのに、そのうちに金融機関から直接お金をもらっちゃうようになった格付け機関。あのアイスランド政府が破綻するホンの数年前に、その政府から12万ドルで依頼を受けて、政府の経済政策に裏書きを与えちゃった経済学者(ミシュキンさんですね)。こういった人たちはお金に困っているわけじゃない。これは制度的な腐敗なのだから、現実世界の生活が問題なのじゃない。信仰上の何かなのだろう。霞が関の前例踏襲主義も、バカだと思われたくないという衝動があるのかもしれない。先輩の決定に異を唱えれば、知性の序列から外れていることを宣言したようなものなんじゃないか。

Hayesさんは最後に、エリートが誰のために働いているのか私たちには分からない、と言う。すくなくとも、私たちのために働いているわけではなさそうだ、とも。

さて、だいぶ僕の勝手な考えも混じったまとめであることをもう一度書いておきましょうかね。でもだいたい本文に沿っているつもりではあります。

我が国もやっぱりペーパーテストの文化を持っていて、大学受験等の結果は個々人の実力を反映したものである、ということになっている。しかし現実には子供たちの家庭の経済的な格差を反映している部分もあるのだ。本当に実力主義を徹底したいのであれば、入試の問題を毎年ガラッと変えて事前の対策ができないようにすればいいのだが、日本の街という街にあふれんばかりの塾・予備校の数を見れば、無理だな、と思う。

ではそんな風にして重要な地位に就いていったニッポンのエリートさんたちの、ここ最近の動向をちょっと振り返ってみましょう。

2009年、民主党は増税しませんよ、と訴えて政権の座についた。2010年、民主党は増税するかも、と言って選挙に負けた。そして今年、民主党は、重要なことを決めるのに選挙なんかしないことに決めたようだ。なお新聞各社は新聞代の軽減税率(非課税?)適用を求めているもよう。

2009年、郵便不正事件で、大阪地検の特捜部は後に無罪になる厚労省の管理職員を逮捕した。結局省内では単独犯だった厚労省職員、上村被告は、取り調べの際に検事に誘導されて、上司に命令されたことにしてしまった(裁判では上司の関与を否定していた)。その後、担当検事の前田検事が違法捜査をしちゃったとして、その上役二人と共に逮捕された。

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財務省が隠す
650兆円の国民資産
高橋洋一
2010年、陸山会事件で、参院選挙直前に民主党の石川知裕議員(当時)が今度は東京地検の特捜部によって逮捕された。石川氏は政治資金報告書の不備を認める供述をしたが、これが一部(全部?)、担当検事による捏造だった。検察は担当の田代検事の「記憶ちがい」だったとして、この件を不起訴とした。結局陸山会事件は、誰が何のためにどれほど悪質なことをしたのかよくわからなくなっている。小沢さんは怪しい、という国民感情が根強いせいか、検察の怪しさのほうがちょっと霞んでいるけど、検察がこのままでは国民は大変困る。

次に、最近高橋洋一先生の『財務省が隠す650兆円の国民資産』を読んだので、この話と通じるところを抜き書きしてみよう。まずは日銀の話。

自ら数値目標を挙げるわけでもないので、日銀には政策の失敗も成功もない。したがって、失敗の責任を追及されることもない。
p. 206

信賞必罰がゆがんでいるのがわかります。つづいて邪教の外側の人たちが障気に当てられている話。

多くの国民は、政府は厳密におカネを管理していると思っているだろうが、実態は逆である。一言でいえば、どんぶり勘定。だから、雇用保険料を取りすぎていたりするのだ。
(略)
そもそも役人には数字に弱い人が多い。東大法学部出身者が多いのだから、当然ともいえる。また数字に弱いから、それをごまかすために文章テクニックに頼っているという見方もできる。
pp. 245-246

これが日本のエリートの現実なのだ。優秀さの自家中毒を起こしていて修正が効かない。同じような失態を延々繰り返す。僕を含めて民主国家の国民というのは健忘症の気があるので、エリートたちのしくじりをボンヤリとしか覚えておらず、しくじった人がどういう処遇を受けたのかなんて気にもしていない。そのために同じようなポストに同じような人物が就く。だから、

もうそろそろ日本人は、官僚は優秀だという幻想を捨てなければならないときに来ていると思う。官僚は優秀でも有能でもない。もちろん、有能な人もいるが、全員がそうだというわけではない。組織全体で見ると、むしろ、レベルは低いとすらいえる。
もし、霞ヶ関が有能な頭脳集団であれば、この国の経済はこれほど激しく地盤沈下していなかったはずだ。債務残高が1000兆円に迫るという状況もないはずである。
pp. 208-209

そう、エリートとて別に成功していないという現実を直視するべきなのだ。矢を放って当たったところに的を書いて成功だと言い張るのが精一杯なのだ。社会には問題があって、私たちはそれに地道に取り組まなくてはいけない。頭の良いエリートが魔法のように解決してくれたりはしない。邪教だなんだと罵ってもなにも変わらないのだ(スミマセン)。

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お言葉ですが…
〈第11巻〉
高島俊男
特に彼らが独立精神を失ってしまうのが大問題で、民主国家である以上、どんな問題であろうと、その解決策の中には「異なる考えの人々の共存」が必ず含まれる。テストで選抜する以上、知性の序列化は仕方ないとしても、その結果をことさらに崇めるのは、意識的にやめていく必要がある。序列のどこに位置しようと、耳を傾けるべき意見が存在することを日々確認して生きていかなくちゃいけない。そこでうっかりしていると、「市民、幸せですか?」「市民、幸福は義務です」なんて声がどこからか響いてくる、なんてことにもなりかねない。引用ばっかで申し訳ないけど、最後に僕の大好きな高島俊夫先生の本から引用しよう。

一般に戦後の日本人は学歴に関して苛刻になり、学歴の低い者やない者を容赦しなくなった。学校なんかどこを出てようと出てまいと、立派な人は立派だ、つまらんやつはつまらん、というあたりまえのことが通用しなくなった。民主社会はイヤな社会である。主である「民」は学歴くらいしか人を判断する基準を持たない。バカは人の悲しみを理解しようとしない。

でも民主主義でやってくしかないんですから、ま、がんばりましょう。

2012年6月13日水曜日

予言者二人


アメリカの左派向け雑誌「the American Prospect」に、面白い記事があった。

日本でもおなじみの経済学者、J・スティグリッツとP・クルーグマンは米国民に広く読まれているのに、どうして彼らの警告は政府に受け入れられないのか、という記事。

本文は二人の簡単な来歴と主張のまとめがほとんどで、米国での二人の立場が、大恐慌時代のイギリスにおけるケインズのそれと似ていることなんかも書いてある。

で最後のほうに、この執筆者が考える、二人がか弱い予言者のままでいる理由が二つ載っている。一つは、二人とも政治家を名指しで批判するので、個人的な怨恨から二人の言うことを聞こうとする政治家がいないこと。そして二つ目は、なんと言っても世の中が保守的になっている、ということ。民主党の大統領でさえ緊縮財政に意欲を燃やし、格差を深めることなんかお構いなしなのだ。こんな時代に政界がスティグリッツ、クルーグマン両人の主張を受け入れるなんて、そりゃもう革命だ。

記事は、二人の主張がもっと認められれば、米国はもっと健全な社会になるのに、と結んでいる。

うーん。緊縮財政ってのは人を虜にするアイディアなんだなあと改めて思いますねえ。浪費に対して敏感なしっかり者、怠惰を許さない働き者、苦難をじっと堪え忍ぶ頑張りやさん。これさえ掲げていたらもう美徳の塊みたいな人間になった気になるのかしらん。

世の中が保守化しているといっても、別に保守派の権勢が大いに伸張しているわけではないように思う。いざ自分が当事者っぽくなると、進歩的なみなさんが進歩的(a.k.a 非現実的)な主張を、既得権層に都合のいい成果主義にさり気なくすり替えるようになってるだけじゃないでしょうかね。

ひるがえって我が国のGDPの内訳をみれば、公的固定資本形成は1990年代半ばをピークにすこぶる順調に下がっていって、今やそのピークの半分になっちゃった(1996年に約40兆円だったのが、2010年には約20兆円。2011年には約21兆円。参照)。ピークの頃が異常だったというのも一理ありますけど、減った分の雇用はどうなったんでしょうねえ。

と、どこから見ても立派な緊縮財政なのだけど、(裕福な)高徳の(老)志士たちの願う世の中が実現しているようには見えません。彼らの志についていけない我々庶民の怠惰が原因なのでしょうね、きっと。

2012年6月2日土曜日

アメリカの五月の失業率

昨日発表されたアメリカの五月の失業率が良くなかった。8.2%だった。で、New York Timesにこんな記事が。

  Jobs report makes Federal Reserve more likely to act

 要約すると、失業率が悪化したのでFRBにさらなるアクションが求められていくのは避けられない。米国債の買い換えにも限度があるから、ポートフォリオの拡大で対応する頃合いだろう、というもの。 

他にボストン連銀の頭取が追加緩和策を提案している話とか、FRBがどうしようとも政治家からは色々言われるだろうという話、インフレ率が2%でFRBが適性としてる値である話なんかがあって、なんだかため息が出てしまいましたね。日本の新聞でこんな記事が書かれる日がくるんだろうか。

 以前僕は、日本の新聞でCPIの上方バイアスが話題になる日なんて絶対にこない(参照)、と書いちゃったことがあるんだけど、この間どこかの新聞の社説(どこかは完全に忘れた)ではちょっとそれに触れていたんですよね。話題になっているのとは違うけれど、もしかしたら、と思わせるものではあった。だからひょっとすると日本でも大手の新聞が「失業率が高いので日銀の追加緩和が求められる見込み」なんて記事を載せる日が来るかも知れない。

いや、無理か。これだけ生活保護で大騒ぎしているのに失業率が話題にすらならないんだから。