2009年3月23日月曜日

書評・Charles Murray "Real Education"

(2010年3月14日に文章を少し修正しました。)

なんか書評ばっかりだけど、ま。おもしろい本、というかなんだろう。Charles Murray "Real Education"という本。

コチラのブログに素晴らしい記事があるので、続編も含めて是非どうぞ。

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Real Education
Charles Murray
本書はIQ=いわゆる学力とその人の全体的な能力には相関があるよ、という著者の以前からの主張を基に、現代アメリカの教育制度の問題点を語った本だ。計量心理学、サイコメトリクスというのは日本ではあまり聞かないけど、統計を基にした心理学ってことですよね? んで、IQの話となると荒れがちになるのはどこでも同じで、この本もその点にはかなり配慮をしていて、「IQが高い=能力が高い」というのは統計的な話なので例外はいくらでもあるし、IQが高いから偉いとかそういう話ではなくてある種のタスクに向いているということであって、運動能力や手先の器用さ、音楽の才能などと同列の「向き不向き」の一つであるとしている。

また、ここでいうIQが高いというのは上から10%の人々のことを指し、ごく少数の選抜されたエリートという意味じゃない。つまりどこにでもいるちょっと目端の利く人といったところ。

で、著者の言う教育制度の問題点は、この「向き不向き」を無視したところにあるという。それは、例えば僕には身体能力的に絶対に無理なバク宙をやらせるようなもので、そんなものは「やればできる」とか「チャレンジすることに意味がある」的な言葉でごまかした辱めでしかない。さらに本書にある例をあげると、かけ算ならばほとんどの生徒が習得できるが、微分積分となると三分の一の生徒しか習得できないという。残りの三分の二の生徒は努力をしても微分積分を使いこなすのは相当に難しいし、また努力の甲斐あってハイレベルなクラスに進学できたとしても、少しの労力で理解できる生徒と共に過ごす時間が増えるわけだから、彼らに追いつくためだけでも更なる努力が必要だし、もちろん彼ら程優れた結果は出せないし、「自分はできる」という満足感も得られなくなっていく、という。この「向き不向き」を無視した努力が本人を幸せにするのか、というのがこの本の出発点といっていいと思う。この本は学業に向いている人々をメインに扱っているが、常に「向き不向き」が問題になっている。だから学業以外のことに向いている人々には彼らに相応しい教育制度(職業教育を含め、より実践的なもの)が必要であって、不向きなことをやらせて低い評価を与えるなんてことをしている場合じゃない、としている。

で、学業に向いている人々は複雑な問題を扱うことに向いているので、放っておいても組織の運営に関わる地位に就いていく。その組織のというのは地元のボランティア組織から企業、国家にまで多岐にわたる。つまり学業に向いている人々が文化的社会的に直接的な影響力を持っている、ということになる。なぜなら、彼らがスケジュールをたててリソースの分配をし、新聞記事を書き、テレビ番組を作り、法案を準備したりするわけだからその影響力はかなりのものだろう。

そこでMurrayは、彼らは本人の努力でもなんでもなく不当に高いIQをもって生まれたのだから、現状のような事実上の特権*1なんぞを与えるのではなく倫理的な使命を負わせるべきだという。今の大学生たちはおおむね優しくて良い子たちだが、現在の教育システムを通して「みてみぬふり」という態度を身につけてしまっている。そのことが、基本的には善良だが肝心な時に無責任な態度を見せてしまう大人を作っている。

で、どうすりゃいいのよってなるわけだが、その前に、どうしちゃいけないのか、ということが書いてある。自分に自信がないので云々というのはよく聞くが、じゃあ自信があるとあなたの秘められた能力が開花するの? という一瞬まごついてしまう疑問を著者は投げかけている*2。僕も、そして僕の友人たちも、まあ自信からはほど遠い人生を送っているし、たしかに自信が持てればなあ、と思うこともある。が、最近の研究の示唆するところは、高い自己評価は、心理的な健全さ、学問的な成果、収入のどれとも関わりがないっぽいよ、ということだそうだ。だから子供たちの自己評価を高めるためになにかする必要はないよ、ということ。

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夏目友人帳
緑川ゆき
安心しました? はい、僕はなんか安心しました。だってどうやったって自分に自信は持てないなあ、と思ってたから。で、この高い自己評価についての箇所を読んで思ったのが、『夏目友人帳』というマンガで、ある登場人物が高校生の主人公に向かっていう言葉。「何を焦っているのか知らないが、無茶をしたって人は強くならない。まずは自分を知ることだ」 確かになー。自信よりも自覚が重要なんだよなー。

で、どうすりゃいいのよってことでした。答えは簡単、倫理教育。学業に向いている人たちに特別コースをもうけて倫理を教えろ、と著者は言う。うー、僕としてはここで疑問がある。倫理なんて教えられるのか? 権威にひれ伏すなと権威を使って教える? ここでポパーを引用しよう。長いけど。


これ [教育制度による選抜をポパーが批判したこと:引用者] は政治上の制度主義の批判ではない。それは以前に言ったこと、われわれは当然最善の指導者を得るように努力すべきではあるが、常に最悪の指導者に備えるべきであるということを追認しているに過ぎない。だがそれは制度、とくに教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能な課題を追わせようとする傾向に対する批判である。このようなことは決して制度の課題とされるべきではない。このような傾向は教育体系を競争場に変え、学科課程を障害物競走に変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますのではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければならない障害を越すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。換言すれば、科学の分野においてさえも、我々の選抜の方式というものは、やや粗野な形の個人的野心への呼びかけに基づいているのである(熱心な学生が仲間から疑いの目で見られるというのもこの呼びかけに対する自然な反応である)。知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥れるのである。

カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』p.138

で、文科省が倫理教育のカリキュラムを決めるとかやっぱむりだよ、と思うのだ。それとこの本全体に言えることなんだけど、長い時間をかけた人の成長をあまり考慮に入れていない。これはおそらく統計的に把握しずらい現象だからかなと思う。そしてそれ故に、IQですべてが決まると主張している、という印象を抱かせているのだろう。ただ一カ所だけ、「たとえ学業にとても秀でた子でも、高校を卒業してすぐに大学に入るのは正しい選択ではないかも」みたいなことは言っていて、著者が人の成長に鈍感であるというわけではないようだ。あくまで統計的に観察できることをベースに考えるということなんだろう。

なので、Murrayがいう倫理教育というのはもっと基礎的なことであって、ポパーが心配するような「知性の生命」の危機とか権威云々とかそういう事ではないのかもしれない。もっと統計的に観察できるような汎用性のある倫理教育の事なのかもしれない。そしてMurrayの自信は次のアリストテレスの考え方が倫理教育を押し進める最大の原動力になるという確信から来ている。それは「人生の最も根源的な喜びの一つは、己の能力を自覚し発揮することである」というもの。つまり学業に向いている人々は倫理的な生き方を模索することに「向いている」しそれを楽しむだろうということだ。

IQの事もあって、かなり否定的に受け止められるだろう本書だけど、僕は妙に納得してしまった。倫理教育への疑問はあるけど、「向き不向き」とそれを無視した努力の悲劇は、あまり他人事じゃないなあと思ったり。努力家の負のオーラに巻き込まれてしまうこともよくあるし。

「学力低下が問題だ」と言う人はたぶん学業に向いている人たちなんでしょう。だから学業には向いていない人々の違和感が分からないんじゃないだろうか。本書はその違和感、「自分には絶対にできないと分かっていることをなぜやらなきゃならないのか」という違和感を伝えるために、具体的なテスト問題とその解説をしたりもしている。そんなこんなで、自覚を促されるような、そんな本でした。文は読みやすかったです。難しい単語も少ないし。


*1: 著者は、現状では学業に向いていることが有利になりすぎているという。例えば、その職種と学歴に本当になにか関係があるの? みたいな場面でも学歴が重要視されたり、複雑すぎて多くの市民が利用を諦めてしまう制度など。

*2: そんなにはっきりとは投げかけてないです。ちょっと大げさに書きました。

2009年3月19日木曜日

書評・『いつでも野菜を 保存版旬の野菜おかずレシピ378点』

コンビニのお弁当もカップ麺も、子供の頃から大好きだった。なので? この31年の人生、太ってはいないけど、痩せているとは絶対にいえない体型だった時期がほとんどだった。

料理も好きだったから、以前にも書いたけど、チャーハンどーん、パスタどーん、みたいな食生活をしてた。でもこれだとすぐにお腹がすいてしまうので、間食も結構な量食べてしまってた。で、ここ半年くらいは食生活に劇的な変化が起こってて、それは副菜を作るようになってからだった。副菜が一品あるだけで随分とお腹がもつし、なんといっても満足感が全然ちがう。そんな感じで体重4キロ減、余裕でした。

でもレパートリーが少ない。というかやっぱり一人暮らしなわけで、食材が常に充実しているなんて事はまったくなくて、材料に「おぼろ昆布」とか出てきても棒立ちになるだけで、載ってるレシピと作れるレシピの割合が問題だった。なので少ない食材でできるレシピ集を探していた。

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いつでも野菜を
保存版旬の野菜おかず
レシピ378点
そこで見つけたのが『いつでも野菜を 保存版旬の野菜おかずレシピ378点』だった。見れば15刷、2005年の本だから結構な人気レシピ集なんじゃないかしら。この本はメインのおかずになるようなレシピも載ってるけど、「野菜1つと調味料だけ」という副菜のページが素晴らしい。おつまみになるようなものも多いし、使い勝手抜群。自炊が続かないなーとお悩みでしたら是非どうぞ。気がつけば、夕飯にお弁当やカップ麺を食べなくなっていた。もちろん今でもどん兵衛とか大好きだけど、自分で作ったほうが早い、という感覚がある。時間的にはそんなわけないんだけど、いろいろひっくるめると自炊のほうが楽。

2009年3月16日月曜日

書評・田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』

日銀の白川総裁が財政政策をファイナンスすると長期金利に悪影響、とか発言してた。これは「インフレいやん」ということなわけで、各国中銀がデフレと戦おうとしているときにまさかのインフレファイター宣言。そこにシビれ(ry

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雇用大崩壊
失業率10%時代の到来
田中秀臣
そんな日銀への疑問満載の日々に読んだのが田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』。タイトルがかなりセンセーショナルだけど中身はそういう煽るばかりの本とはちがう。日本の経済政策に対するセンセーショナルじゃない本当の不満がぎっちり詰め込まれていた。失業率10%時代とはつまり、1990年代から始まった就職氷河期の再来であり、その時社会にでた若者たち(通称ロスト・ジェネレーション)が貧困の連鎖の起点になりかけているように、再び若者が不景気の犠牲になる時代ということだ。

こう書いては失礼だけれども、意外にも読みやすかった。著者の本は何冊か読んでいるけれども、どれも経済学に興味のない人にすすめるにはちょっと難しいという印象があった(そういった人に向けて書かれているわけじゃなかったのかも)。今作も図があったほうが良いのでは? という箇所(双曲割引のところ。参照されているエインズリー『誘惑される意志』は僕も読んだけど、図があっても難しかった)があったりしたけど、文自体は平易だし、難解な用語が突然でてくることもない(これは一般向けとしてはとても優れたところだと思う)し、といって用語の説明が延々つづくということもないので集中しやすいと思う。あとインフレターゲットなどのリフレ政策はなにかと妙な議論を呼びがちだけど、そこはすっきりとクルーグマンがよく使っていた例え話(子守り組合の話)でまとめていて、焦点は書名どおり雇用に当てられていることが、この本の訴求力を強めている印象を受けた。

で、政治、正規・非正規雇用、通説の誤り、セーフティーネットのあり方、そして財政・金融政策と、この本の議論は多岐にわたるので個々の議論はじっさいに読んでいただくとして、この本の精神を最もよく表現している(と僕が思う)あとがきの一番最後の文章を引用しよう。

それ(不況中の増税議論:引用者)に対して本書では一貫して、現役で働いている人たちの環境を良くすることが政府の果たす務めであることを強調してきました。現役世代、特に若い世代の経済的貧困を解消することが、彼ら彼女らだけではなく、その後の世代にも、そして現在の高齢者にとっても利益になることなのです。その意味で、不況を克服する積極的な財政・金融政策を行う政府の役割は「大きい」のです。これが本当の意味での「大きな政府」の重要性だと私は思っています。


ここでいう「大きな政府」の意味、つまり将来とか過去の話ではなく、今困っている人を助けるために税金を使う(さらに借金もする)、ということがこの本の基底となっている。そこから経済政策を語った本なので、話題性だけでとりあげられがちな年金やニートなどの議論も、日本経済の一部として扱われるのであって、なにか現代社会の病理とか昔はよかった的などうしようもない話ではまったくない。まさにノーナンセンス。

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誘惑される意志
人はなぜ自滅的
行動をするのか
ジョージ・エインズリー
以前クルーグマンが「経済にはエネルギー保存の法則のようなものがあって、価値がどこかからわいて出たりしない」というようなことを言っていた。だから、例えば増税で財政の辻褄を合わせたところで、日本経済の内側で富が移動するだけで貧困が解消されたりはしない。むしろそんなことに時間をかけているうちに日本経済そのものが縮小していってしまう。この本ではそういった現状を、椅子とりゲームの椅子が減っていくと例えている。また、椅子が少ないことはなんだかんだ言って特定の層(若者)の不利益になっている。しかもその層の子供たちにまでその不利益が受け継がれそうになっている(彼らの経済状況では子供たちに進学や就職に充分なチャンスが与えることができない)。だから本書は椅子を増やす政策を実行せよと強く訴えている。

僕はこの本が多くの人に読まれてほしいと思う。僕はロス・ジェネど真ん中なので特にそう思う。おそらく「景気を良くしよう」という訴えに対しては「しっかりとした…、ムダのない…、責任ある…」といった反論めいたものがなされるのだろう。でも、問題なのは眼前の貧困なのであって理想や大義や過去や未来の話じゃない。プラクティカルに、ノーナンセンスに必要な政策が実行されることを願うばかり。

2009年3月12日木曜日

偉い人の反対は偉そうな人


以前、ある偉い人?*1が「通貨価値が毀損するから、リフレ政策はだめだ」的なことを言ったとか言ってないとか*2

通貨価値の毀損というのは現金の価値が下がる、ということでしょう? わざわざ難しい言い方をするところが偉そうな人ポイント高めで好感触。

現金の価値が下がると、例えば今まで千円で散髪してそば喰って下駄の鼻緒をなおして二十円余ったりしてたのが、散髪しかできなくなる、といった感じですよね。これを商品やサービスの側から見てみれば、値上がりしている、というわけですね。

じゃあ反対に、現金の価値が上がるとどうなるんだろう。今まで千円で散髪してそば喰って下駄の鼻緒をなおして二十円余ったりしてたのが、ついでにビールも飲めるようになったってことですね。つまり商品が値下がりしている、と。商品ってのは労働力も当然含むわけで、おねえさんが髪を切ってくれて、おっさんがそばを作ってくれたその労働力の値段が下がっているということでもあるわけですよ。通貨価値を毀損させない、ということは、通貨以外の価値を毀損させる、ということでもある。その中には国民の生活そのものとも言える所得も入っているんですよ。お金を持っている人にとってはお金の価値が上がるのはうれしいかもしれないけど、大多数の貧乏人には苦しい話です。

江戸時代の偉い人たちだって小判の改鋳とかいって金の含有量を減らして通貨価値を毀損させてましたよね。高橋是清も金本位制からさっさと離脱して恐慌から抜け出したわけですよ。

今時の偉い人ってのは通貨よりも国民の生活を毀損させるほうを選ぶものなんですかね。

*1:どこかの三位一体な人。タイトルの「偉い人の反対は〜」はケロロ軍曹のエンディング曲の歌詞から。

*2:ホントに言ったのか未確認ですんでよろしく。言ってそうだけど。