2010年12月14日火曜日

役人なんてららら・書評・新藤宗幸『司法官僚』

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司法官僚
裁判所の権力者たち
新藤宗幸
このブログでは経済学関連の本を取り上げることが多いので日銀の悪口じゃなくて問題点をよく話題にするんだけれども、結局その問題点は経済学というよりもお役所ってことなんだろうなあというのが正直なところ。だって日銀はぜんぜん批判に答えないし、政策を変更してもちゃんとした説明をしてくれないし、すぐ一般市民には難しい技術的な話を始めるし、なんかフツーに性格わるいですよね。で、そのお役所問題は司法府にもあるんだよ、というのが行政学者による今回の本、新藤宗幸著『司法官僚 裁判所の権力者たち』だ。扱っているテーマが司法でありその官僚機構批判であるのでとにかく漢字が多い。肩書きも法律の名前も漢字漢字漢字。読むのはちょっと大変でした。本書では裁判員制度についても扱っているけど、この書評では触れません。裁判員制度についての本は沢山あるので。

裁判官のお給料は誰が決めているのだろう。裁判官の次の転勤先を決めるのは? 裁判所法という法律に定められているところでは、最高裁判所の裁判官たちが決めることになっているそうだ(裁判官会議)。ただ全国に3,500人いる裁判官とその仲間たちの処遇のいちいちを彼らが決めるのは現実的ではないので、実質的には最高裁判所事務総局(所属する人数は30人前後)という部署が一切を取り仕切り、裁判官会議が「それでいいです」みたいな感じで承認を与えるんだそうだ。で、この事務総局ってのが本書のいう司法官僚のみなさんがいるところであり、お役所問題をばりばり生み出しているところでもある。 どんなお役所問題なのかというと、例えば、1947年、訴訟の数に対して判事が不足してたので、当面の措置として、戦前の予備判事制度をもとに判事補制度がつくられた。この制度のおかげで数年の実務経験がある判事補は裁判の指揮をとることができるようになったわけだが、それから60年、いまだにこの応急手当的なはずの制度が事実上裁判官になるための唯一の道として生きている。ここにかなり不透明な裁判官の選抜プロセスがある。法的に当面の措置だった制度を使って出世レースが行われているらしい。

本書のすごいところは、著者による調査が実に細かいところまで及んでいることだ。裁判官の経歴を細かく追っていて、現役の人たちだけでなく過去にさかのぼって調査している。この点はおそらく裁判官たちの問題意識の高さも関わっているんだろう。本書では、匿名ではあるけれど、多くの裁判官が事務総局のあり方に疑問を呈している。

さてその事務総局だが、現在局長をつとめるのは裁判官だ。というかここ数十年、裁判官が局長をつとめている。法律上は裁判官でなければ局長になれないわけじゃないけど、なんとなくお役所的にそうなっている。そして問題は、事務総局で働く裁判官が選ばれるプロセスが、先ほど書いたように出世レース的なものになっているらしいことだ。

憲法上、裁判官というのは独立した存在でなくてはいけないんだそうだ。つまり組織の都合に左右されずに判決をくださなくてはいけない。しかし司法府においてお役所的出世レースが開催されている以上、裁判官の独立はずーっと危険な状態にあったということだ。

弁護士たちのあいだでは事務総局というのは相当に問題視されているようで、事務総局が裁判官たちに何かほのめかしたり、暗黙に圧力をかけたりして判決を統制しているのではないか、と疑われている。これは根拠のないことではなくて、74年の多摩川の堤防決壊による多摩川水害訴訟では、一審で住民側の勝訴だったけれど、国の控訴をうけた高裁では国側の逆転無罪となった。やがて高裁判決以前に事務総局によって全国の裁判官を集めた協議会が立ち上げられていたことが朝日新聞にスクープとして載った。なぜこれがスクープなのかといえば、当時は都市の発展とともに水の必要量も利用量も増え、従来までの治水能力ではまかないきれなくなっていた。そのために水害が都市部で多く起きていたが、そのような水害に対する訴訟はすべてこの協議会で事務総局が示した見解に沿ったものだった。つまり一人一人独立していなければならない裁判官の判決が統制されていたことになる。(pp. 165)

元事務総局長だった人の談話がのっていて、なんでも事務総局というのはほとんど権限なんかなくて、まあ人事くらいのもんで、言われているほど強権的じゃない、とか。なんか日本経済に対して言われるほど影響力はないと自負していた日銀みたいですね。とはいえ、人事に関しては認めているわけだ。

ではその人事を見てみよう。裁判官が誕生するには、まず司法試験にうかった人たちが判事補になるところから始まる。数年たつと彼らは裁判官になるのだけど、問題は、判事補になって2〜3年のうちにすでに事務総局長になるための選抜が始まっているらしいということだ。選ばれた彼らは事務総局で働くことになるので「局付き」と呼ばれるんだけれど、大抵が判事補になって2〜3年、遅くとも5年のうちに「事務総局長になれるかなレース」の出場権を獲得することになる。彼らはエリート。それ以外の人は脱落。もう事務総局長にはなれない。

このときに選ばれた判事補の、いったい何が事務総局のお眼鏡にかなったのかは一切不明だ。彼らの思想信条が理由ではないか、と本書は推測している。では普通の裁判官の人事評価は何にもとづいているのか? 弁護士たちは、裁判所は「影の人事評価」のようなことをしているのだろう、と批判していた。そして裁判所は従来それを公式に否定していたんだけれども、小渕内閣の司法制度改革審議会からの公開要請があると、あっさり人事評価の用紙を提出してきた。じゃあなんで何十年も否定してたんだよという話だけれど、ともかく審議会は裁判所に対してもうちょっと透明性を高めなさいよと言ったのだけど、事態はあまり改善していないようだ。言ってやるようなら役人じゃないよね。

裁判官も転勤の多い職業のようだけど、誰が何処に行くのかももちろん事務総局が決めていて、思わず笑ってしまうのだけど、転勤を命じられた当の本人はなぜ転勤を命じられたのか、転勤先で何を期待されているのか、一切知らされていないという。あるケースでは家族の都合もあり転勤は難しいと感じた裁判官が上司(裁判所長)にかけあったところ、その上司も自分の部下が転勤する理由を知らされていなかったそうだ。この転勤が、事務総局の意に反した判決に対する懲罰的な意味合いがあるのではないかと疑われている。ちょっと穿ち過ぎかなとも思うけど、わけのわからん秘密主義のせいでものすごく疑わしく見えちゃってる。理由も告げずにあっちからこっちに異動させる。ブラック企業じゃないですか。

司法官僚の問題がとくにやっかいなのは、選良による有無を言わさぬ方向転換が難しいところだ。日銀はルーピーな首相が近づいていっただけで意見を変えたけど(参照)、最高裁判所の裁判官会議に首相が口出しをしたら大問題になるだろう。なんといっても戦前の司法省は完全に行政側の組織で、市民と国の対立を解消したり緩和したりする能力をもっていなかったのだから、その反省をもとに作られた現在の司法制度の改革に政治家が積極的に関わるのは難しそうだ。識者を集めた審議会の提言が精一杯なんじゃないだろうか。

裁判官になろうなんて人はどう考えたって日本人の平均よりもだいぶ上のほうの頭脳を持っているはずだ。その彼らにしてこの様なのだと思うとかなり憂鬱。官僚制は社会の発展の基盤なのだと思うけど、それだけに青雲の志をもった中の人がどうにか出来るようなものでもないのだろう。やっぱりミルトン・フリードマンの教えの通り(参照)、お役人には裁量を与えちゃいけないということだろうから、事務総局から法的にも曖昧なその権限を奪い、本書の提言にもあるように、事務総局長には識者や弁護士をあてるよう法改正すべきだ。その役目は立法府たる国会で、当然超党派での法案提出が望ましいんだけれども、そのためには裁判所内行政の問題が国民の目に明らかでなきゃいけないだろう。この問題にいきなり政治家が出てきて果たして僕たちが冷静でいられるのかかなり怪しい(この点に関しては国会運営のやり方を変える必要があると思う。まず本会議で趣旨説明、その後委員会で審議という形に(参照))。であれば、この問題が進展するには相当の時間が必要になるだろう。

2010年11月12日金曜日

上手くいきませんでしたけど何か?・書評・中村隆英『昭和恐慌と経済政策』

例のごとく更新が滞ってしまった。再開します。

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昭和恐慌と経済政策
中村隆英
気がついたら日銀がまた量的緩和をやるんだそうで。効果ないんじゃなかったっけ? でも喜ばしい方針転換です。今日の本は中村隆英著『昭和恐慌と経済政策』。正しくタイトル通りの本で、1929年以降の米国経済の急減速の影響という形で始まった不況がなぜ恐慌とまで呼ばれるようになったのか、その原因と目される井上準之助と彼の実施した政策を中心に据えて昭和恐慌の全体像を描いていく。文庫本で手に入りやすい。

金本位制への復帰(金解禁)は浜口雄幸内閣が誕生した昭和4年(1929年)当時、政財界の総意だった。今となっては滑稽ですらあるんだけれども、当時は「経済的理由を超えて金本位制が望ましいという金本位心性」(若田部昌澄『危機の経済政策』p.27)(参照)の時代だった。で、濱口内閣で大蔵大臣に就任したのが金融界出身で元日銀総裁の井上準之助だ。彼はすぐさま金解禁を実施するものの、世界恐慌は始まるし満州の軍は言うこと聞かなくなるしで日本を未曾有の不景気に叩き込んだだけで失敗してしまう。そのあとを高橋是清が継いでリフレ政策に転換。景気は順調に回復しはじめたけれど、2・26事件が起きてしまう。と、こんなあらすじです。

一月に金解禁を実施した昭和5年、壊滅的な状況となったこの一年について、井上は自分がここまでのデフレは予想していなかったと認めている。しかしそれでも彼の方針は翌昭和6年も堅持される。この時点での井上の演説の内容をまとめた箇所があるのだが、これはもうめまいがするほど現代日本の善男善女がもつ経済観とそっくりだと思う。そのまとめをさらにまとめてしまうと、不況によって企業は普段できない合理化をすることができた。さらなるコスト削減をしなければ世界では戦えない。不況に対して政府が財政出動してしまえば、世間の人は動かない。外国もおんなじくらい悪い。今後はだんだんよくなると思う。今は雌伏の時だからぐっと耐えなくちゃダメ。日本国民が一丸となって新しく生まれ変わる必要がある、云々。

平成不況もずいぶん長いのでさすがにこのまんまな人はあんまり見ないけど、ちょっと前まではかなり一般的な感覚だったんじゃなかろうか。さて、その後も井上はかなり強気に緊縮財政に取り組むのだけれど、どうもその強気の根拠は、「そのうちに景気が回復する」ということだったようだ。終わらない不景気なんてない。確かにその通り。しかし失われた二十年が囁かれているここ現代日本では、その言葉は虚しく響くだけだ。

本書を読んで強烈に感じるのは、戦前の日本が如何に個人の力に頼っていたか、ということだ。特に最後の元老西園寺公望は政策の正当性を担保するためにことあるごとに政治家たちから相談を受けるわけだけど、一人の人間がただでさえ複雑な政治問題をいくつも捌けるはずもなく、井上の政策に対しても、その内容を理解していたのかどうか疑問が残るし、どの方針からも微妙に距離をおくことで自身の地位を保っていたようだ。もちろん彼が影響力を維持することで、過激な方針に牽制できたりもしたのだろう。しかしそうやって個人の力に頼り切りになると、外からのチェックも働かないし、メンツの問題が大きくなりすぎる。

井上の金解禁は失敗だったけど、方針転換のチャンスは当時の日本には存在しなかった。金解禁は民政党の一枚看板だったから撤回はできなかった。昭和5年(1930年)に金解禁が実施されたが、その前年にはアメリカで恐慌が起きていて、その影響が世界中に広まりつつあった。そんな時期になぜ不景気になるとわかっている金解禁を実施したのかといえば、世界の趨勢に従うことをアピールしたかったからのようだ。つまり、日本は世界の脅威ではない、とそう主張したかったらしい。金解禁を実施することがなぜそのようなアピールになるのかは本書を読んでいただこう。しかしそれも失敗に終わる。金解禁の翌年の9月、柳条湖事件が起こり、以降政府は不拡大方針を掲げるものの軍は止まらず、日本の国際的な信頼は地に落ちた。さらにこの昭和6年には金本位制の総本山イギリスが金の持ち出しを禁止して、金本位制から離脱してしまう。こうして金解禁のために井上が国民に要求した倹約や、その結果としての大不況はただただ国民を苦しめただけで終わった。浜口内閣の退陣後も、井上は自身の政策の正しさを主張するのだけれど、どうしてもたらればな言い訳に聞こえてしまう。本人も政策の間違いに気づいていた節もある。

井上の政策はことごとく裏目に出た。結果的には不況をさらに深刻化させただけで、国民の苦しみは軍にさらなる求心力を与えることになった。では井上がもっと上手くやれば状況は変わったかといえば、それもないと思う。井上個人はすごく有能な人物だったようだし、不合理な決断ばかり繰り返していたわけでも、情報収集を怠っていたわけでもない。当時の日本の政治は今以上に劇場かつ激情型だったようで、特に政策の変更=政治生命の終わり、という風潮は、貴重な政治的資源の無駄遣いという他ない。政治家がリスクをとって決断し、あとは臨機応変に、というのが民主主義の妥当なあり方だろうけど、当時の日本にとってはそれが相当難しかったようだ。井上のあとを継いだ高橋是清のリフレ政策も、国の経済がかなり追い詰められていたからこそ実現可能だったのだと思う。金解禁を見合わせるか、新平価で解禁して景気の様子をみながら政策を実施して行くなんて選択肢は理屈としては存在していても、実際のところ当時の日本にはなかったようだ。

だとすれば、マニフェストを守らないなんて可愛いものかもしれない。でも、権力が個人に集中してくるとメンツの問題が大きくなりすぎるし、意思決定のスピードもガタ落ちになる。そっちは本当に心配だ。仙谷さんと白川さんにはぜひとも気をつけていただきたい。