2012年6月19日火曜日

落日のエリート


また別のアメリカの左派的な雑誌『The Nation』に面白い記事があった。今回はそれを僕なりにまとめてみたいと思います。


C・Hayesという人のWhy Elites Fail?(なぜエリートはしくじるのか)という記事で、このHayesさんの新著を元にした記事のようだ。

話のつかみはこうだ。ニューヨークにはハンター・カレッジ・スクールという学校がある。日本で言う中高一貫の公立校であり、ニューヨーク中から才能ある子供が集まってくる。なぜか。ハンター校は独自の入学試験を行っていて、毎年200人弱の生徒しか突破できないほどの難関校なのだ。Hayesさんはそこの卒業生だそうだ。で、彼が在学していた1995年当時、生徒の12%が黒人、6%がヒスパニックだったという。

それが2009年には黒人が3%、ヒスパニックが1%になってしまっている。なぜだろう? 最近は両親共に白人である子供が減ってるなんてニュースも聞いていたのに。実は、Hayesさんの学生時代にはなくて、今はあるものが関係するという。それはハンター校へ入学するための予備校だ。ハンター校入学を目指す小学生が、放課後に英単語を覚えて計算練習をするために数千ドルかかるのだ。なかには時給90ドルの家庭教師をつける家庭もある。

かつてハンター校は実力主義の象徴のような学校だった。コネも金もここではおとなしくするしかなかった。テストの点が基準より上ならどんな子でも入学できた。しかも学費はタダだ。まさにアメリカンドリームの体現だった。

それが結局、裕福な白人家庭の子弟が集まる学校になってしまったのだ。予備校に通ったり家庭教師が付いている小学生が高得点をおさめるような入学テストばかりやるようになってしまった。なぜだろうか?

Hayesさんは20世紀初頭の社会学者Michelsを引きつつ、実力主義は必然的に寡頭制にたどり着く、と言う。まず実力主義(忘れてましたけど、これmeritocracyのことです)には二つ条件があって、一つ目は「個々人の能力に差があることを認めつつ、一番才能があって一番働き者なヤツを、一番難しくて一番重要な仕事に就かせる」こと、二つ目は「信賞必罰をしっかり実行する」こと。二つ目の条件はつまり、親が実力者だからって大目に見ちゃだめだよ、ということですね。逆も同じ。

と、まあ実力主義には誰もが惹かれるさわやかな魅力があるわけですが、Hayesさん曰く、私たちはここで厳然たる「実力主義、鉄の掟」に阻まれてしまう。まず時間の経過とともに、実力主義を採用する体制そのものによって、信賞必罰がゆがめられてしまうのだ。

人の出来不出来を目の当たりにすると、私たちは機会の平等の実現をあきらめてしまう。信賞必罰を行うよりも、個々人の能力差にばかり関心が行ってしまうのだ。ぶっちゃけ、仕事をしたりブログを書いたりしゃべったりしなければ能力イコール肩書きであるし、日本でも「学歴ロンダリング」なんて言葉が生まれるように、肩書きのほうはでっち上げが可能だ。そして、実力主義の階梯を駆け上がっていった人々は、自分の友人、仲間、親族、そして子供のためにハードルを下げてやる方法を必ず見つけだす。そうして低めのハードルを越えてきた人物によって重要な地位が埋まっていく。つまり、実力主義を謳い、その恩恵を受けた人々が、自分の意志で寡頭制の準備にはげむのだ。

ハンター校の卒業生はエリート大学に進学していくのだが、多くのエリート大学でマイノリティ家庭出身の学生は増えてはいる。しかしそれ以上の勢いで、「依怙贔屓グループ」出身の学生が増えているのだ。依怙贔屓グループというのは、両親がその大学の卒業生である家庭の子、スポーツ推薦の子、大学職員の子、セレブと政治家の子、寄付金を出した家庭の子だ。

これにさらに、予備校に行けるといった面での有利さも加わるわけで、ここまでくるともはや実力主義とは似ても似つかない。現状を「裕福な白人へのアファーマティブ・アクション」と批判する人もいるそうだ。

もしも実力主義が純粋な形で機能していれば、人々の格差は広がっていくはずだ。しかし同時に、信賞必罰に伴う社会階層をまたいだ移動も活発になっているはずでもある。で、Hayesさんは、アメリカは格差は拡大しているけど階層間の移動は活発でない、と言う。(それはしようがないような気もしますね。トンビが鷹を生むのは希で、普通、蛙の子は蛙なんですから。ま、鷹から生まれたトンビがね……)

で、ここから格差の話なんだけど、省略。割とよくある話なので。

問題は、「実力主義、鉄の掟」のせいで、エリート層が自家中毒を起こしている、というところ。エリート層に生まれ育ちながら、能力の方が伴わない人は必ずいる。けれど、掟があるのでこの人たちも重要な地位に就いていく。すると、この人たちがいろいろやらかして、能力が伴っている人がその尻拭いに追われている。これが、21世紀初頭のアメリカで起きていることなのだという。

エリートのみなさんは肩書きにこだわる一方で、実力主義の、その肝心かなめの知性にはあまり興味がないようだ。いや、そうじゃない。彼らはある意味で「知性」にとりつかれている。ただし、一般に言うよりももっと邪悪なたぐいのそれなのだ。

彼らが信奉する知性とは、きれいに序列づけることが可能であり、人間が二人いれば必ず差が付くものであり、どちらが上とも言い難いなんて事態はあり得ないものなのだ。

日本でこういう人たちが集まるところといえば霞ヶ関でしょうね。メリケンではウォールストリートなんだそうです。で、その中の人、イーライさん(仮名)によると「僕は良い学校を出て、頭の良い連中に囲まれて仕事をしてるけど、いまだかつて一度も、賢い連中が集まっていると自称しつつ、それがホントだった職場にいたことなんてないですよ」とのこと。この手のエリートさんたちは、自分で自分のことを頭が良いと言い、仲間のことも頭が良いと言い、そのうちに本気でそう信じ込むという宗教の人たちなわけですが、やがてその宗教の外側の人まで、その篤い信仰に心打たれて、思わず彼らの聡明さを信じてしまうところが厄介。イーライさん、さらに曰く「アメリカはもう、ウォールストリートのいいなりですよね。ウォールストリートが本当に一番賢いのかどうか、賢さの自家中毒に陥っていないかどうか、連中が自分が口にした言葉の意味を本当に分かっているかどうかなんて関係ない。それがアメリカの文化なんですよ」

本来、他人にあれこれと指図する地位に就くのであれば、必要なものは知性だけではなかったはずだ。人の痛みを理解する心とか、倫理的な厳格さだって重要だった。いや、知性にはそういった側面もあったはずだ。だから人は知性に魅了されるのだ。

しかし、現代エリートの知性は人を脅しつけるだけだ。誰が上で誰が下なのかを思い知らせるためだけのものだ。組織で何か決定をしようとすれば、最後にものを言うのは一番賢い人の意見だ。こういう人に他人をいたわる気持ちがないと、そりゃ大変なことになりますよね。

では、いかに大変なことになったのか。この前のブッシュ政権下で行われた戦争捕虜に対する決定が例としてでている。テロなので捕虜とは違うというロジックを出してきたのは、チェイニー副大統領の側近、デービッド・アディントン氏だった。ブッシュ政権の黒幕はチェイニー氏だ、とよく言われていたけど、アディントン氏はその「チェイニーのチェイニー」と呼ばれるほどの人物だった。

で、この人がむちゃくちゃ頭が良かったんだそうだ。もうこの人が何か言うとみんな反論できなくなっちゃう。日本で言うと誰だろう? 宮沢喜一さんかな? で、口を開けば相手の意見を否定する人だったそうですよ。いや、アディントンさんがね。

この邪教の信徒たちの困ったところは、頭の良さで目立つためには、頭が良いと目されている人物の主張を全面的に受け入れる他ない、というところにある。そうしないと信者仲間からバカかと思われちゃうからね。そうして自主独立の精神を投げ出してしまうのだ。

その結果どうなるのか? 制度的な腐敗が始まる。製薬会社からお金や特権をもらっちゃう医師。投資家からお金をもらい、投資家のために格付けを行っていたのに、そのうちに金融機関から直接お金をもらっちゃうようになった格付け機関。あのアイスランド政府が破綻するホンの数年前に、その政府から12万ドルで依頼を受けて、政府の経済政策に裏書きを与えちゃった経済学者(ミシュキンさんですね)。こういった人たちはお金に困っているわけじゃない。これは制度的な腐敗なのだから、現実世界の生活が問題なのじゃない。信仰上の何かなのだろう。霞が関の前例踏襲主義も、バカだと思われたくないという衝動があるのかもしれない。先輩の決定に異を唱えれば、知性の序列から外れていることを宣言したようなものなんじゃないか。

Hayesさんは最後に、エリートが誰のために働いているのか私たちには分からない、と言う。すくなくとも、私たちのために働いているわけではなさそうだ、とも。

さて、だいぶ僕の勝手な考えも混じったまとめであることをもう一度書いておきましょうかね。でもだいたい本文に沿っているつもりではあります。

我が国もやっぱりペーパーテストの文化を持っていて、大学受験等の結果は個々人の実力を反映したものである、ということになっている。しかし現実には子供たちの家庭の経済的な格差を反映している部分もあるのだ。本当に実力主義を徹底したいのであれば、入試の問題を毎年ガラッと変えて事前の対策ができないようにすればいいのだが、日本の街という街にあふれんばかりの塾・予備校の数を見れば、無理だな、と思う。

ではそんな風にして重要な地位に就いていったニッポンのエリートさんたちの、ここ最近の動向をちょっと振り返ってみましょう。

2009年、民主党は増税しませんよ、と訴えて政権の座についた。2010年、民主党は増税するかも、と言って選挙に負けた。そして今年、民主党は、重要なことを決めるのに選挙なんかしないことに決めたようだ。なお新聞各社は新聞代の軽減税率(非課税?)適用を求めているもよう。

2009年、郵便不正事件で、大阪地検の特捜部は後に無罪になる厚労省の管理職員を逮捕した。結局省内では単独犯だった厚労省職員、上村被告は、取り調べの際に検事に誘導されて、上司に命令されたことにしてしまった(裁判では上司の関与を否定していた)。その後、担当検事の前田検事が違法捜査をしちゃったとして、その上役二人と共に逮捕された。

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財務省が隠す
650兆円の国民資産
高橋洋一
2010年、陸山会事件で、参院選挙直前に民主党の石川知裕議員(当時)が今度は東京地検の特捜部によって逮捕された。石川氏は政治資金報告書の不備を認める供述をしたが、これが一部(全部?)、担当検事による捏造だった。検察は担当の田代検事の「記憶ちがい」だったとして、この件を不起訴とした。結局陸山会事件は、誰が何のためにどれほど悪質なことをしたのかよくわからなくなっている。小沢さんは怪しい、という国民感情が根強いせいか、検察の怪しさのほうがちょっと霞んでいるけど、検察がこのままでは国民は大変困る。

次に、最近高橋洋一先生の『財務省が隠す650兆円の国民資産』を読んだので、この話と通じるところを抜き書きしてみよう。まずは日銀の話。

自ら数値目標を挙げるわけでもないので、日銀には政策の失敗も成功もない。したがって、失敗の責任を追及されることもない。
p. 206

信賞必罰がゆがんでいるのがわかります。つづいて邪教の外側の人たちが障気に当てられている話。

多くの国民は、政府は厳密におカネを管理していると思っているだろうが、実態は逆である。一言でいえば、どんぶり勘定。だから、雇用保険料を取りすぎていたりするのだ。
(略)
そもそも役人には数字に弱い人が多い。東大法学部出身者が多いのだから、当然ともいえる。また数字に弱いから、それをごまかすために文章テクニックに頼っているという見方もできる。
pp. 245-246

これが日本のエリートの現実なのだ。優秀さの自家中毒を起こしていて修正が効かない。同じような失態を延々繰り返す。僕を含めて民主国家の国民というのは健忘症の気があるので、エリートたちのしくじりをボンヤリとしか覚えておらず、しくじった人がどういう処遇を受けたのかなんて気にもしていない。そのために同じようなポストに同じような人物が就く。だから、

もうそろそろ日本人は、官僚は優秀だという幻想を捨てなければならないときに来ていると思う。官僚は優秀でも有能でもない。もちろん、有能な人もいるが、全員がそうだというわけではない。組織全体で見ると、むしろ、レベルは低いとすらいえる。
もし、霞ヶ関が有能な頭脳集団であれば、この国の経済はこれほど激しく地盤沈下していなかったはずだ。債務残高が1000兆円に迫るという状況もないはずである。
pp. 208-209

そう、エリートとて別に成功していないという現実を直視するべきなのだ。矢を放って当たったところに的を書いて成功だと言い張るのが精一杯なのだ。社会には問題があって、私たちはそれに地道に取り組まなくてはいけない。頭の良いエリートが魔法のように解決してくれたりはしない。邪教だなんだと罵ってもなにも変わらないのだ(スミマセン)。

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お言葉ですが…
〈第11巻〉
高島俊男
特に彼らが独立精神を失ってしまうのが大問題で、民主国家である以上、どんな問題であろうと、その解決策の中には「異なる考えの人々の共存」が必ず含まれる。テストで選抜する以上、知性の序列化は仕方ないとしても、その結果をことさらに崇めるのは、意識的にやめていく必要がある。序列のどこに位置しようと、耳を傾けるべき意見が存在することを日々確認して生きていかなくちゃいけない。そこでうっかりしていると、「市民、幸せですか?」「市民、幸福は義務です」なんて声がどこからか響いてくる、なんてことにもなりかねない。引用ばっかで申し訳ないけど、最後に僕の大好きな高島俊夫先生の本から引用しよう。

一般に戦後の日本人は学歴に関して苛刻になり、学歴の低い者やない者を容赦しなくなった。学校なんかどこを出てようと出てまいと、立派な人は立派だ、つまらんやつはつまらん、というあたりまえのことが通用しなくなった。民主社会はイヤな社会である。主である「民」は学歴くらいしか人を判断する基準を持たない。バカは人の悲しみを理解しようとしない。

でも民主主義でやってくしかないんですから、ま、がんばりましょう。

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