2008年5月27日火曜日

結局統計ってつかえるの? その2

さぼっているうちに日銀総裁が白川さんに決定。時宜を失った感じはするけどまあいいや。

このエントリは僕のような愚か者に統計は必要か? ということだった。モテるのか? 金持ちになれるのか? というのが問題なのだ。幸せか? というのがね。

統計とにらめっこして幸せってのは無理っぽい、というのが率直なところで、例えば、「二十代の若者100億人に聞きました。あなたの初セックスはいつですか?」 で、平均が16歳とかになると、もう自殺ですよ、若者たち。どうしても遅いとかはやいとか(いやそういう意味じゃなくて)言い出して、世間と歩調を合わすことの重要性を必要以上に心に刻んじゃうんじゃないかな。世間に合わせることが人生の目的になっちゃうんじゃないか。

前回の(二ヶ月前の)エントリでも書いたけど、朝日新聞のお茶目事件だって、統計を真に受けた結果じゃん。幸せではないだろう、そんな生き方は。

じゃあなんで統計を真に受けた素人は幸せではないのか。それが世間にみえるから、といってしまうとぐるぐる回ってるような気がするけどいいや、別に。

cover
アダム・スミス
堂目卓生
最近、堂目卓生『アダム・スミス—「道徳感情論」と「国富論」の世界』を読んだのだけれども、んで、とっても良い本でしたけども、そのなかで、「弱い人は第一審の判決を、賢人は第二審の判決を受け入れる」というようなことが書かれてあった。第一審というのは世間の目ということで、第二審というのは「公正な観察者」、つまり、世間体にとらわれない、といって自分の利益ばかり考えてるわけでもない人なんだそうだ。マイナスイオンとかに踊らされると弱い人、そうでないと賢人、みたいなことでしょうか。ここは僕の理解なので眉唾ですけど。

そして弱い人と賢人は個人の中で同居している、というようなことも書いてあった気がする。そうそう、で、モノによっては普段賢人なアイツも弱い人になっちゃうことがあって、その最たるものが失業で、やっぱり失業すると落ち込むからねえ、という話。

新聞に載るような分かりやすく加工された統計結果が、第一審判決として弱い人の人生をコントロールすることは、十分に考えられる、というかそんなのばっかり見てきたし、自分にもそういうところがある。だから凡愚な僕に統計はいらない、かもしれない。すくなくとも、新聞テレビで紹介されるような数字は無視しちゃった方が無難かも。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントをどうぞ。古い記事でもお気軽に。