ラベル book の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル book の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年3月25日火曜日

挫折のない人生・書評・村松岐夫著『日本の行政 活動型官僚制の変貌』

cover
日本の行政
活動型官僚制の変貌
村松岐夫
今年2014年の四月一日から、つまり来週から消費税が5%から8%に上がる。このブログではずっと政府の、そして主に日銀の政策についての疑問を書いてきました。僕自身就職氷河期世代の比較的はじめの方だし、いろいろ本を読んでいるとどうも僕くらいから50代前半くらいまでの人は、年金でもババを引くことになりそうで、どうしたって我が国の経済状況についてはあれこれ思いを巡らせてしまうので、今回の増税もかなりの心配事なのです。

増税が発表された2013年の10月とか11月ごろは、意外と景気が失速しないのではないか、という楽観的な観察もあったし、そうだといいなと心から思っていたけれど、いざ10〜12月のGDPの値が出てみると思ったより良くないもんだから、やれ貿易赤字のせいだ、ウクライナの混乱のせいだと、増税から目を逸らさせようとするかのような話が沸いてでていますよね。21世紀も十年以上たって未だに貿易赤字というか経常収支に対する国民の無知に付け入ろうという人たちがいることにまず驚いちゃうんだけれど、引っかかる方も引っかかる方で、やっぱり人間日々のお勉強が大事ですね(棒)。

(と思ったら、Foreign Affairsの新しい号を読んでいると、アメリカでも相変わらず貿易赤字の数値だけでどうのこうの言う人がいて困るみたいな記事が。どこも大変なんですね。[(Mis)leading Indicators --- Why Our Economic Numbers Distort Reality
By Zachary Karabell])

さて、増税とか年金とか、そしてたぶん貿易赤字の話題とかに当事者として関わっていながら、なかなか顔と名前が出てこない人たちがいるわけです。そう、政治家、ではなくて、国民、でもなくて、官僚です。官僚というのはとにかく悪い奴だ、なんて意見にはくみしませんが、はっきりいって何者なのかよくわからなくてキモいわけです。特に財務省は官庁のなかの官庁などと言われ、ものすごくエラいらしいんだけど、じゃあそのトップ、事務次官の名をどれだけの人が知っているのかといえば、新聞にもテレビにも出てこない以上、知っている人は限られてくる。ちなみに今回の増税が決定した時の財務事務次官は木下康司さんで、任期は今年の6月までだそうですよ。

で、以前から、日銀や財務省の人たちはどうして経済学の穏当なところ、多くの学者の合意がとれているところに基づいた政策を政治家に提示しないのだろう、と思っていたわけです。それに対してはバカ仮説はじめ、様々な仮説があるわけですが、一番の疑問は、間違っている政策を主張しているのに、組織としての統制がとれているように見えることでした。どうして異を唱える人たちが集団として出てこないのだろう? で、巷間よく言われるのは、天下りが約束されていることで、役所内で波風をたてようなんて人はいなくなる、というものです。これには一定の説得力はあるものの、それだけで若手(40代含む)まで手懐けられるだろうか、と感じていました。

そこで今回読んだ本、村松岐夫著『日本の行政 活動型官僚制の変貌』です。1994年の本で、55年体制が崩れた! と大騒ぎしてたころのもの。副題にもあるように、様々な政策、そして法の運用に大きな影響力を持つ我が国の官僚を分析した本です。97年の省庁再編以前の本なので、当然本書の内容を現在の官僚にそのまま当てはめることはできないけれど、我が国のキャリア官僚が持つ「らしさ」はどこからきているのか、それを考える重要なヒントが詰まった一冊です。

元々財務官僚でもあった高橋洋一さんの本を読んでいたので、財務省のキャリア官僚は入省して数年で地方の税務署長になる、という話は知っていました。本書にはさらにその根っこの話があります。
筆者は、日本の高級官僚集団の管理において最も注意を払われているのは、激しい競争をさせるが同時に、「脱落者を出してはいけない」という人事管理戦略であると思う。
村松岐夫著『日本の行政 活動型官僚制の変貌』50ページ
とし、
高級官僚に機密も重要問題もゆだねる日本の行政の能率は、公共セクターのポスト(誘因)競争という経済学的説明だけでは十分とはいえない。経済的誘因以上に、忠誠を確保しなければならない。そのため、心理的自信の維持を可能にするための「育成人事」(自信の継続と熟練の開発)が行われる。
同上
といいます。ここから先は就職氷河期世代にはまぶしすぎる世界なので苦手な人は気をつけてくださいね。
具体的な事例をあげれば、たとえば大蔵省が行う税務署派遣がある。これは、経験五年ぐらいの若者の派遣である。これには失敗しないように補佐がついている。仕事への学習の機会を与えると同時に、失敗の危険回避が行われている。外国経験・省間委員会への参加なども大事に扱われていることを実感させる場面である。その他、挫折感をいだかせないメカニズムが各所で働いている。そして、最終的には天下りが保障されるのである。このようにキャリア組の忠誠は確保される。
本書51ページ
どうですか? 目的が忠誠なのか洗脳なのかよくわからない研修しか知らない一般庶民からするとなんとキラキラと輝いていることか。で、なぜこんなことが必要なのかと言えば、役人の数が少ないから、だといいます。数が少ないので、一人一人の効率を挙げて人員の不足をカバーしようというわけです。

何にせよ、この「挫折感フリー」な職場というのが、財務官僚が結束する理由だという説ですが、僕は大いに得心しました。確かにこんな職場に長くいれば、そこの空気を乱すのは難しいでしょう。一方で激烈な出世競争もあるわけですから、省としての方針が決まってしまえば、もう内部の力ではどうにもならないのだろうとも思います。

本書では実に幅広い論点が扱われているのでそれらをここでまとめるようなことはしませんが、著者が一貫して主張するのは、日本の官僚制は70年代、80年代まではあるいは上手く機能してきたが、それは欧米諸国へのキャッチアップが国是であったためで、その時期は目的が共有されて省庁間のセクショナリズムを抑えやすかった。しかし80年代も後半になると明確で統一感のある目的を持てず、いたずらに省益を追うようになり、デメリットが目立つ。それを克服するには、トップの指導力を増強することだ、としています。これは別に政治家が細かいところまであれこれ口を出すということではなくて、首相とその側近たちに情報を上げない省庁があるようではイカンよね、という話。
ある官庁は、新入者の研修において他官庁との折衝の秘訣を次のように教える。すなわち、理論的にでき得る限りの主張をせよ。ここまでは当然である。情報を集めよ。これも当然である。その後、不利な結論が出そうになったら、とにかく粘れ、時間をかけて粘れと教えるのだろうである。その上、省庁ごとの決定の透明度は低い。許認可の実施においても、基準が明確でないし、容易に変わる。これでは個人間の公平の達成は困難である。そうであれば、トップはトップで、各所から主要な情報を吐き出させ国益に結びつける装置を工夫すべきである。
本書106ページ
20年も不景気の我が国でしたが、この間経済政策、特に金融政策はじりじりとした停滞を続けていました。あの停滞も、誰かがどこかで「粘った」のかもしれません。というか、速水・福井・白川日銀が本石町で粘ってましたよね。

そして、昨年9月末までの増税政局では、アベノミクス効果で増税せずとも税収が回復しつつあることが、なぜかテレビ、新聞ではほとんど語られませんでした。税収が増えているのになぜ増税する必要があるのか、増税を主張する人たちでこの疑問に答えられた人がいたでしょうか。ここでも国益とは別の何かを目的とした「粘り」が感じられました。20年続いた被害を一年でどうにかすることはできないのだから、今は好景気を維持することが大事だ、という当たり前の感覚は、この粘りと、やったことの結果は今すぐ味わいたいという焦れた老人のような欲求の前に無視されたように感じました。

さて、なんだかんだといって政治というか、政党のほうが官僚よりも強いのだ、というのも本書の重要な観察の一つです。これこそ本当に大切な論点だと思います。それは、政治家は必ず民意を気にする存在であり、その政治家がアホで、素朴理論(たとえは貿易黒字は国の利益だ、みたいな)に疑いを持たないでいると、民意を煽って政治家を操ろう、追い込んでしまおうというインセンティブを、官僚に与えてしまうからです。

「国の借金が1000兆円だから今こそ」増税が必要だ、「オリンピックが決まったから今こそ」増税が必要だ、「このままで年金が持たないから今こそ」増税が必要だ、「人口が減るから今こそ」増税が必要だ。こういった説が政界の空気となって、自分の手柄としての増税をしたい人たちの思惑が実現していっているわけですから、政治家にはどうしても政策の善し悪しを判断する力をつけてもらわないと困るわけです。本書は1994年の本ですが、それから20年たって、現状は悪い方に進んでいると思います。特に現政権に強い影響力がある麻生大臣、石破幹事長からは政策の理解を深めようという気が感じられません。というかなんとなく政策を選んできただけで、根拠なんかないんじゃないかという印象しかありません。安倍総理自身は勉強家のようですが、自民党内では多勢に無勢というもので、消費税増税も押し切られたように見えます。そういう状況にあって、財務省はまるで国民生活には関心がないようで、さらなる増税を目指しているようです。この点に関しては、日銀の三代続いたプロパー総裁時代を終わらせた黒田現総裁に格別の期待をするわけにもいきません。彼だって財務省出身ですから、省の方針に外部から口を出すことはありえないでしょう。

挫折のない人生を与えてくれた組織に忠誠を尽くすのは人情です。ならば政治の力で進むべき方向を示さなきゃいけない。僕からすればアベノミクスはその方向性を明確に示していると思うけれど、たぶん、増税して財務省の権限を増やしたい挫折を知らない人や、そのおこぼれが欲しい人、そして何でもいいから直ぐにストレスを解消したい老人たちには届いていないのでしょう。

本書の重要なメッセージは、我が国の官僚の活動量の多さに目を向けよ、ということだと思います。彼らがそれほどまでに活動的になるにはそれなりのインセンティブがあるし、活動的であるがゆえに、その範囲も国民の多くがぼんやり感じているよりも広く、政治、メディア、大学それぞれの世界で意外に大活躍しちゃっているわけです。何より、彼らにとって国民生活の改善、つまり国益には、必ずしもインセンティブを感じていないという点が大事です。

そして彼ら自身では、その膨大な活動量をどうするのか、減らすのか維持するのか、活動範囲を狭めるのかこのままでいくのかを決めることはできないのです。彼らの活動をどこに向けるのか、それは国民が政治の場で決めることです。本書の出版から20年経って、国民は官僚の領分について、相変わらずおっかなびっくり、当の官僚の顔色をうかがいながら、野放しにしているのが現状だと思います。

2013年2月1日金曜日

十年一日・書評・『エコノミストミシュラン』田中秀臣、野口旭、若田部正澄編

 毎年のように今更あけましておめでとうございます。本年も拙ブログ、よろしくおねがいします。

cover
エコノミスト・ミシュラン
田中秀臣
野口旭
若田部昌澄
 さて、年末に引っ越しをしたので本を整理していたら、2003年、つまり十年前に出版された『エコノミストミシュラン』が出てきた。奥付きを見ると、僕が買ったのは同年に出た3刷り。本書は、現在ではリフレ派としてすっかりおなじみの論者たちが、当時から乱発気味の経済書を「「経済学の基本」の尊重と、そして良識」(本書「はじめに」より)をもって書評し、その半分くらいを切り捨てていく本で、三名の編者の他、高橋洋一氏や飯田泰之氏、そして故岡田靖氏なども評者として参加している。

 編者三人の鼎談ののち、本書では計31冊の経済書がリフレ派の検証を受けている。が、晴れて「経済学の基礎」と良識を兼ね備えていると認定された本ばかりというわけにはいかない。そういう本は、これまたお馴染みの岩田規久男氏や原田泰氏、P・クルーグマン氏、J・スティグリッツ氏、P・テミン氏などなどの本で、あとは、部分的には良いけど全体としてはダメ、というのがちょぼちょぼあって、残りはゴミ、という感じ。

 書物の運命としては恵まれているのだろうけど、現実的には非常に残念なことに、十年という時間の経過をまったく感じさせない本でもある。当時2003年は、りそな国有化、財務省の大型為替介入、福井新日銀総裁のゼロ金利政策と量的緩和政策の継続などが重なって、若干の景気の回復が見られた頃。編者の一人、野口旭氏の言葉によると、

要するに、90年代は失われた10年と呼ばれていますが、それは、マクロ政策で少し株価が上がったり、景気が上向くと、すぐに横槍が入ってしまったことが原因なんです。橋本内閣のときには、少し景気が回復したのを見て、財務省の悲願だった財政再建路線という引き締め政策に転換して、景気が再び落ち込んだ。次に小渕内閣になって、大型の財政支出をやって景気が上向いたら、速水日銀がゼロ金利を解除して金利を上げ始めた──実際に上げたのは小渕首相が死んでからでしたが。とにかく、それぞれの政策当局が勝手に自分の庭先だけをきれいにしはじめる。これでは、デフレ脱却などできるはずがない。それが本格的な景気回復までいかなかった原因です。ですから今回も、この株高でまた構造改革路線に戻って財政緊縮を前のめりでやりはじめると、同じことをくりかえしてしまう気がします。
(p. 18)

という状況だった。僕たちはその後起きたことを知っているわけですが……。*1

 さて、リフレ派は書評されている本の著者たちも評者たちも主張が変わっていないから、2013年であっても言い分がそのまま通用するのは当然だ。一方の反金融政策方面の人たちの主張もまた、今見るとジョークにしか思えないものもあり、何度論破されてもよみがえるハイパーインフレになっちゃうんだぞ説、日本は特殊なんだ説、もう諦めようぜ説など、無駄ににぎやかであるのも今と変わらない。ジョークにしか思えないというのは、うっかり新しい経済学を打ち立てちゃう人が多いということで、当時はそれがこの手のご商売の人たちのマイブームだったんでしょうね。十年たって榊原経済学とかができてたら良かったんですけど。

 本書ではすでに「失われた10年」という語が多く使われていて、ため息がでる。ずーーーーっとデフレだったなあ、としみじみ思う。岡田氏がテミン氏の『大恐慌の教訓』を評したところから引用してみよう。テミン氏らの研究が影響力を持ってきたアメリカであるが、

翻って日本における大恐慌期に関する一般的理解を眺めてみると、こうした(引用者:80年代以降に大いに発展したマクロ経済学の)理論的・実証的研究の成果がほとんど理解・受容されていないことに驚かざるをえない。経済学の専門家以外の人びとのあいだでは、マルクス主義の影響が強いために、大恐慌を資本主義経済の必然的な破局だとみなす考えが広く受け入れられているし、経済分析の専門家のあいだですらケインジアンVSマネタリスト論争当時の認識が一般的なのである。
(p. 206)

一応言っておきますが10年前ですよ。さて、昨年末の選挙でリフレ政策を掲げた自民党が大勝し、安倍総理に対する期待だけで円安株高になっている現在、本書で強く批判されているような主張は若干そのトーンを弱めている感がある(『100年デフレ』の人は相変わらずのようですが)。しかしそれも一時的なことだと思う。これから日銀総裁、副総裁、そして審議委員の人事が議論されていく中で、一見リフレ政策に理解がありそうな人物が、その役職の候補者としても、その人事を決める側の人物としても多く出てくるはずだ。

 評者の一人、高橋洋一氏は加藤出氏の『日銀は死んだのか?』の書評を次のように始めている。

つい最近までデフレ対策としてのインフレ目標論議が盛んだった。2003年3月の福井俊彦氏の日銀総裁就任以降、議論は下火になったが、デフレはいまだに収束していない。
(p. 231)

 福井氏は当時の小泉総理に対し、デフレ脱却を約束することと引き替えに総裁に就任させてもらった、と言われている。 そして当面は緩和姿勢を継続したので、インフレ目標の議論も下火になった。しかし、いざ小泉総理の任期が終わりに近づくと、統計の改定期であることなど有力な反論があったにも関わらず、量的緩和もゼロ金利政策も解除してしまった。それが2006年。そうして、小泉総理が退いた後の第一次安倍政権ではデフレが再び加速したのだった。今回もこのようなことを繰り返してはいけない。

 思えば福井氏は、大蔵スキャンダルで話題になったノーパンしゃぶしゃぶの顧客名簿にその名が載っていたり、総裁任期中にインサイダー取引疑惑が浮上したりと、速見、福井、白川と続く日銀出身総裁のなかでも派手な人物だった。それでもメディアがあんまり強く批判しなかったのだから、このころが日銀の栄華の絶頂期だったのかもしれない。さすがに今の白川さんにこれだけのネタがあったらタダでは済まないだろう。少なくともそこまでは事態が進んだわけだ。

 先日、1月23日、日銀と政府は物価目標を2%とする共同声明を出した。が、一日たつ頃にはもう多くの人は失望していた。2014年になってからとか、政府の成長戦略がないとできないとか、事実上の何もしない宣言だったからだ。そうして麻生副総理が、もう日銀法改正の必要性は小さくなったと発言するなど、かなり雲行きが怪しくなっている。

 とはいえ、景気回復を願う人々にとって本丸は日銀人事と日銀法改正だ。安倍総理も法改正の意志を失ったわけではないようだし。そして特にその人事の議論の中で、本書でばっさり切られている人の名前が挙がってくこともあるかもしれない(昨年、日銀寄りすぎて? 日銀審議委員になれなかった河野龍太郎氏の著作も扱われている。この当時は円安を支持していたようだけど)。本書の鼎談でも再三言われていることだが、当時は日本経済を構造問題として読み解くという情熱がずいぶん高まっていたようだ。しかし、日本の若者にまともな仕事がなくて、30歳すぎてもお金がなくて結婚も子育てもできないような現在の状況というのは、明らかに以前の日本人の生活とは異なるものだ。なので、今となっては当時の論者たちがデフレに絡めて論じていた構造というのが何なのか、よく分からなくなっている。現状は構造改革の成果なのかそれともその失敗なのか? そう自らに問わなきゃいけない人たちが本書にはたくさん出てくるのだけど、なにぶん寡聞でありまして、存じ上げませんね、そんな殊勝な人。

 たとえば野口悠紀雄氏といえば構造改革のイデオローグとして名高い人だけど、もちろん本書でばっさりやられちゃっていて、デフレは中国の工業化が原因としているらしい。(p. 149) 当然中国と貿易しているのは日本だけではないわけで、つまり、当時から日本だけがデフレである理由がまったく説明できていなかったわけだ(ま、そこを説明するのが構造問題だったんでしょうね)。なので、これからこの手の人々の名が挙がっても、「経済学の基礎」を尊重していないし、良識のほうもちょっとあやしいよ、とちゃんと批判できるようにしておきたいものだ。

 鼎談中、田中秀臣氏は、「とにかくぼくたちは、リフレ派に反論している人たちの本をかなり読んで、構造改革派のトンデモ本の類までフォローしているのに、リフレ政策に反対する連中は勉強不足も甚だしい。自分が批判している相手の代表的な文献も読まずに批判する。そういう勉強不足のエコノミストたちが多すぎます。」(p. 65 )と言う。これもやっぱり現在と変わらない。今は、テレビのニュースキャスターが「これだけ長い間消費者物価が上がらなかったのだから、2%まで上げるといっても簡単にはできない」などと日銀の無自覚な代弁者になっている状態だ。簡単じゃなかった諦めるって選択肢ありなの? さらに、未だに、経常収支赤字=国際的な信用低下! などという読んでるこっちが恥ずかしくなるような重商主義丸出しの記者が経済記事を書く放送局があったりする。(参照)一知半解、その場で分かったふりをしただけで、大胆にも仕事をこなしたことにしてきたニッポンのオトナたちが、今回だけは黙っておこうと思うだけで、案外日本経済は復活しちゃうのかもしれない。

 また、本書でぶった切られている俗説に少子化が出てこないのもおもしろい。当時はまだ人口が減っていないのだから当然なのかもしれないが(今だって別にものすごく減ってるわけじゃないけど)、少子化問題というセンセーショナルな切り口がこのご商売で幅をきかすには、構造問題がテーマとしてが消費しつくされて、場所を明け渡す必要があったのかもしれない。

 「経済学の基本」の尊重と良識。その欠如は本書によって10年前にすでに指摘されているわけで、今回こそは、半端なところで手を打たず、しっかりとマイルドインフレの実現を見届けたい。本書を今一度読み返せば、金融政策の論点が10年前にすでに出尽くしているのがわかるはずだ。最後に編者の一人、野口旭氏の鼎談中の言葉を引用しよう。

確かに経済学は、物理学などの自然科学に較べて、人間社会を相手にしていますから、はっきりと決着がつけられていない領域がまだたくさんあります。しかし、アダム・スミスやリカードからはじまる多くの経済学者たちが明らかにし、われわれの社会に蓄積されてきた経済学の共有の知見は、現実社会を改善するのに確かに役に立ってきたと私は思っています。その知見は、経験的な証拠によって繰り返し確認され、また政策として現実に役に立ってきたからこそ、現在まで生き残っているわけです。それを否定して、いったい何をしようとしているんでしょうか。
(p. 117)


*1: ちなみにこの2000年のゼロ金利解除、当時の日銀副総裁の藤原作弥氏が積極的に推し進めたようです。そしてその藤原氏が、イェール大の浜田教授や本書の評者でもある高橋洋一氏などを、「有象無象」と呼んだなんてニュースがありました。shavetail1さんのブログによると、藤原氏はジャーナリストであり、金融は「ずぶの素人」を自称してたとか。

2010年1月11日月曜日

因果関係を事業仕分け・短め書評・アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』

cover
読むだけで
絶対やめられる
禁煙セラピー
アレン・カー
 僕はタバコを吸わない。だから今回読んだ本、アレン・カー『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー』を読む理由はなかったんだけど、母はずっと喫煙者だし、僕が帰省したときもやっぱり吸っていた。そこで、巷で評判のこの本を読んでみたというわけ。

 とはいえ、僕も25才までタバコを吸っていた。もうやめて6年だ。25という年齢でお分かりだと思うけど、そうなんです、カッコつけてたんです。25のある日、自分がカッコつけてることを腹の底から理解し、顔が真っ赤になって、タバコをやめた。それまでも口では「タバコはカッコつけ」とか言って、それでジョークのつもりだったんだけど、まあとにかくいろいろ恥ずかしいDeath。

 本書の冒頭で著者は、喫煙という行為がその他の悪癖と共通するトコロがあり、その克服方法にもまた共通点があると示唆しているが、それはとっても同感で、深酒だとかある種の人間関係だとかに決定的な終止符を打つきっかけが、本書には隠れていると思う。

 では本書のいう「人が喫煙を続ける理由」とはなんだろう。もちろんニコチンによる中毒、という物質的な側面もある。しかしもっと重要なのは、「タバコを吸うとリラックスできる」「集中力が増す」「ストレスが軽くなる」という理由だという。そこで著者は問う、「本当にそうだろうか」と。喫煙をしてきた人生を通じて、あなたはリラックスし、集中し、ストレスを軽減してきただろうか。事態は真逆であるはずだ。人間はタバコを吸って安らいだりしない。それでも安らげたような幻想を持ってしまうのは、本書の例えを使うと、自ら頭を壁に叩きつけ、それをやめた時に安らいだように感じるからだ。そしてその仮初の安らぎを得るために、また頭を壁に叩きつけているのだ。本当に安らぎたいのなら、そもそも頭を壁に叩きつけるのを止めるべきなのだ。

 落ち着かない、集中できない。だからタバコを吸う。しかしその因果関係は逆かもしれない。タバコを吸うから落ち着かない、という可能性は全くのゼロだろうか? こういった因果関係の取り違えは僕たちの人生ではとてもよくあることだ。25才頃の僕は毎日毎日、飽きもせず不機嫌だった。当時の僕は自分の不機嫌の理由は僕以外の誰かのせいだと思い込んでいたけど、実際には自分の見栄っ張りなトコロとか、結果に飛びつこうとするトコロが最大の不機嫌ジェネレーターだった(あとタバコもね)。もちろん、いつだってどこにだって失礼な人や迷惑な人はいるだろうけど、よそからやってくる不機嫌なんて拒否しちゃえばいいだけだ。来る日も来る日も不機嫌ってのは、自分が原因ではないかと疑ってみるに十分な状況証拠だ。だから毎日不機嫌な人をみると、以前の僕と同様に、「カッコつける必要」や「結果を出す必要」があると思い込んでいるんだろうな、と考えるようになった。もちろん、これもまた思い込みかもしれないけど、そうやってなんでも相対化するポストモダンチックな考え方にはスッカリ懲りたので、特に不安はないですよ?

 で、おすすめです。タバコを吸う人吸わない人、どちらも楽しめます。たまにしか吸わないから大丈夫、なんて人はにはとくに勧めます。もし中毒になりかけでないのなら、かなりねじくれた状態でしょうから。

追記:今のところ、母の禁煙は続いています。(2010/Jan/15)

2009年12月14日月曜日

二兎を追え!・書評・濱口桂一郎『新しい労働社会——雇用システムの再構築へ』

cover
新しい労働社会
濱口桂一郎
 僕たちにとって働く環境は重要だ、ってもう当たり前すぎて何言ってんだかわからないけど、一般に労働環境が悪いって話は聞いても良いって話はとんと聞こえてこない不況の2009年ももう終わり。皆様いかがお過ごしでしょうか。で、今回読んだのは濱口桂一郎『新しい労働社会——雇用システムの再構築へ』。今若者が置かれている状態(低賃金とか長時間労働とか不安定な雇用とか)を思うと、この3、40年、日本人が今のような働き方をして暮らしてきたとは考えにくい。では今と昔、何がちがうんだろうか。
 
 山本夏彦とか山本七平の本を読むと、戦前と戦後の日本社会は地続きなのであって、敗戦によって一から社会を作り直したという漠然としたイメージは間違いである、という主張によく出会う。ひるがえって現在、経済的な停滞が続く中で「敗戦から立ち直った日本」のイメージがまぶしく見えてしまうことはままあって、なにか(戦争ほどではない)劇的な出来事が都合よく起きてガラガラポンってなことを期待してしまう心情が世にはある、と思う。
 
 本書はダブル山本がいうような連続性を過去の法令や判決をあげて、かなり明確に示していると思う。もちろんそれが本書のテーマではないんだろうけど、一読して強く感じたことだった。
 
 ということで、本書は日本の雇用形態とその変化をかなり詳しく描いていて、何というかもう漢字ばっかりで僕にはかなり難しかったんだけど、そんな僕がざっくりまとめてしまうと、当面日本国民が対処しなきゃいけない労働問題の大きな山は、オジサンのお給料には奥さんと子どもたちの生活費、教育費が含まれている(生活給という)ので高額になりがちだけど、オジサン以外の人は働いた分(職務給という)しかもらえないので、家族を養うことも出来ないほど(ときには自分の生活もままならないほど)少ないお給料になりがちだ、という問題だ。
 
 これは誰が国民の生活を保障するのかという問題で、職務給は景気の影響をもろに受けてしまうから、個人でどうにかできるようなものでもないわけだ。今時の議論なら、国民が生きていくための収入は国が保障すればいいんじゃないの? ベーカム(ベーシック・インカム)やろうぜ! となるんだろう。本書でも公的な給付の充実を提案しているし、僕も賛同する。ではなぜ、日本の企業はオジサンたちが働いた分だけでなく、生きていくための分まで彼らに支払ってきたのだろうか。
 戦前の賃金制度は職種別賃金から大企業を中心として勤続奨励給に移行してきましたが、生活保障の観点はありませんでした。これを初めて提唱したのは呉海軍工廠の伍堂卓雄氏で、1922年に、労働者の思想悪化(共産化)を防ぐため、年齢が上昇し家族を扶養するようになるにつれ賃金が上昇する仕組みが望ましいと説きました。この生活給思想が戦時期に皇国勤労観の立場から唱道され、政府が類似の法令により年齢と扶養家族数に基づく賃金制度を企業に義務づけていったのです。
 敗戦によってこれら法令が廃止されると、今度は急進的な労働運動が生活給思想の唱道者となりました。1946年の電算型賃金体系は戦後賃金制度の原型となったものですが、年齢と扶養家族数に基づく生活保障給でした。当時、占領軍や国際労働運動が年功賃金制度を痛烈に批判していたにもかかわらず、労働側は同一労働同一賃金原則を拒否し、生活給原則を守り抜いたのです。
[p.p. 119]
 この生活給のせいで日本の賃金制度の改革はベラボーに難しくなってしまっている。というか政府も経営側も何度も職務給の導入を働きかけたが、その都度失敗しているという。本書にもあるように、オジサンたちに生活給にかわる収入を保障しないかぎり、オジサンたちは生活給を絶対に手放さないだろう。もちろん、生活給は働いた分以上の金額になりがちだから、一部の人の生活給を保障するかわりに、他の人の給料が低いままで押しとどめられるわけだが。
 
 もちろんオジサンを悪者にしたところで解決したりしない。が、どのみち生活給制度の改革は避けられない。だって商売の実績に基づかない高額の給料を支払っていたら、会社なんか成り立たないし、そもそも会社がつぶれてしまえば元も子もない。それにやっぱり同じだけ働いて給料がちがうというのは、公平な社会とはいえず、とても差別的な現象だ。オジサンにしたって引き替えに異常な責任を背負わされてきたし、奥さんだって労働市場から閉め出されたりしてきたわけで、もう利点のほうが霞んできている。
 
 しつこく拙訳を参照してしまうんだけど、ケインズは「経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。」(『自己責任主義の終わり』第4章)と言っている。Agendaとは政府のするべき事。本書はもちろん後者の「政治学」に関わる本だと思う。で、本書でも何度か経済学者の発言が引用されているんだけど、彼らの発言は総じておおざっぱすぎる気がした。景気を良くしたり規制をなくしたりすれば改善されることも多いとは思う。けど民主的に実現されなければ意味がない。例えば生活給制度は一部の国民の利害を強烈に反映していて、他の国民の利害を軽視している。でも市場に任せたからといって、より多くの国民にとって望ましい分配が実現するとは限らない。この点はケインズも批判している。「先ほどの単純化された(個々人の自由な活動が最適な結果をもたらすという)仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。」(『自己責任主義の終わり』第3章( )内は引用者)*1
 
*1:これに似たことはノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授も言っていて、「国際的な財やサービスや生産要素の流れは、経済学者がよく仮定したがるような、なめらかで効率的な動きを見せないんです。実際の国際市場は不完全競争で、不完全な情報を特徴として、ときには露骨に非効率だったりします。」(『どうして為替レートはこんなに不安定なんだろうか。』山形浩生訳(PDFです))  日本の労働市場も効率的とはほど遠いと思う。規制をなくせば効率的だ、というのはかなり無理がある。規制があろうと無かろうと求職者には企業についての充分な情報が無いことが多いわけで、そんな状態で効率的な市場が実現するとは思えない。そりゃ長期的には効率的かもしれないけど、長期的には我々は皆、ってやつでして。
 
 不況こそが貧困が増えた最大の原因なのは間違いない。オジサンたちが馴染んだ雇用の仕組みでも以前はそれなりに上手くいっていたんだから。だから貧困対策は経済学者に相談しよう。しかしそれでも、例えば進学を諦めるとか、結婚出産を諦めるとか、ひどい労働環境という問題を、経済的であるか構造的であるかすっぱり切り分けることは難しい。経済状態が良くなればどれもかなり改善されると思うけど、といって一緒くたに扱うわけにもいかない。景気対策で生活給制度がどうにかなるわけではないし、生活給制度をいじくったからって景気が回復するわけでもないからだ。貧困の解決に経済的な基盤は欠かせない、というかそんなの当たり前。で、同時に生活給みたいなものを民主的に変えていく必要もあるわけだ。なんといっても差別的な現象であるわけだし。どちらか片方というわけにいはいかなくて、景気も良くしながら制度的な改革もしなけりゃならない。両方やらないといけないのが民主主義のつらいところだな、と某ギャング団のリーダーなら言うところだろう。
 
 本書はまさにタイトル通り、新しい労働環境を作る際に絶対に欠かせない資料だ。本書抜きの議論は全く民主的でなくなる可能性すらあると思う。もちろん本書が扱う問題は生活給制度だけじゃなくて、派遣や労働時間など幅広く解説している。専門家ではない大多数の国民にとってこれ以上の本は当面望めないだろう。そして、何はともあれ、景気をナントカしないとだめだこりゃ、と強く思い直した。パイが縮小していく中で各人の取り分を(民主的に)調整するのは死ぬほど難しいからだ。こんな身動きがとれない状態では、ガラガラポンを期待してしまうのも無茶とは言えない。そしてそれを避けるには好景気と本書が必要だ。

2009年11月30日月曜日

経済学者から首の短いキリンたちへ・書評・田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』

cover
偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
 学生の就職状況が悪いというニュースがでるようになってきた。で、関係ないけど、複雑だったり新奇だったりする出来事に出くわすと、知ったかぶりをしちゃうってのが大人にありがちな反応だ。その反応にも二種類あって、一つは「俺の経験」を大声で言って開き直るというやつで、人一人の経験なんてたかが知れてるんだからそこから一般化はできないよ、とスルーすればいい。もう一つは「そもそも論」で、「そもそも能力のあるヤツなら企業が放っておかない」みたいな確かめようのないことを大声で言ってみたらホントっぽく聞こえたというやつで、これは願掛けと変わらないから、そうなるといいですね、でスルー決定。でも口に出したらだめですよ、そういう人ってメンドクサイから(若者が大人を怖がるのも納得だ)。
 
 今回読んだ本、田中秀臣著『偏差値40から良い会社に入る方法』は「俺の経験」でも「そもそも論」でもない就活本だ(著者の経験も書かれてるけど)。本書のターゲットは就職活動が苦手なフツーの人なので、優秀な俺様が過酷な現実に立ち向かって勝利を得た話をしてやるからお前らもがんばれみたいな本ではない。著者は経済学者なのだ。かなり強引な引用をしてしまうと、経済学者というのはケインズによると、
経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な(自己責任という)哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。
 
 僕はこの前の就職氷河期を学生として経験してるけど、この時まともで、凡人にも実行可能なアドバイスなんて存在しなかった(なので『菜根譚』とか読んでた)。その時の僕は思い至らなかったけど、結局のところ大人たちもどうすればいいのか知らなかった。僕の出た大学はその年の内定率が50%で、本書にもあるけどそもそも職を探す学生が減ってしまっていたので、実際に仕事にありついた学生は50%よりも少ないだろう。しかもこれまた本書にあるように、離職率の非常に高い職種、金融営業とか、についた学生が多かったようだ。
 
 で、本書にはいままで見あたらなかった実行可能でまともなアドバイスが具体的に書かれている。特に大事なのは、企業の都合を良く知ろう、ということ。その調べ方、考え方も書いてある。なので、この本を読んで得をするのは学生だけじゃない。極端に言ってしまえば、一生役に立つ心構え(しかも超人的な努力を必要としない)が手に入る。が、その手の金言はいつもそうだけど、すぐに結果が出たりしないかもしれないし、時にはずっと結果が出ないかもしれない。
 
 その理由も本書にある。本書に載っているのは実践的なアドバイスだけじゃなくて、もっと根本的な疑問も提示されている。つまり、本当に個人の問題なのか? という疑問だ。就職活動は求職者側の負担が妙に重い。だからこそ不満足な職に引っかかる人が多いのだと思う。本来なら労働環境や離職率などの情報は求職者に提供されているべきだろう*1。どう考えてもフツーの個人が調べることは難しいんだし。個人の限界を超えているのなら、それは社会の問題だ。だから本書のアドバイスを実行しても結果が出ない可能性もある。
 
 ケインズは拙訳『自己責任主義の終わり』のなかで、キリンの群れを例えに個人の能力に頼る社会のデメリットを説いている。高いところに葉をたくさんつける木と、それに群がるキリンを想像してほしい。キリンは努力してめいっぱい首をのばすだろう。その努力の甲斐あって首の長いキリンが肥え太る一方で、首の短いキリンは飢えていく。

 キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。


 もちろんケインズは個人の能力を否定しているわけではない。彼は、個人の能力や成功は運次第だ、と言っている(のだと思う)。たしかに能力のある人物は存在するが、両親から受け継いだ才能と、それを育てる境遇があればこそだ。100%自力で優秀になる人なんていない。ちょっとマシな参考書にであうのだって運が必要なんだから。
 
 就職氷河期を繰り返してしまうということは、僕たちが何でも個人の問題にすりかえてしまう悪癖に耽っているということでもある。首の短いキリンが飢えているのを見て、「短い首のヤツにはそのような運命がお似合いだ」と言えるだろうか。感情的にそれは難しいだろう。しかし現実の判断としては、僕たちは首が短いという理由で飢えゆくキリンを見捨てている。しかも、首が短ければ、つまりこの場合就職活動が下手ならば、能力が低いといえるのだろうか? という大きな疑問も放置したままだ。あと、能力が高いはずの人たちがどれほど社会に貢献しているのか? という疑問も。
 
 本書の後半部分はまさに、次のケインズの言葉をわかりやすく丁寧に説いているといえる。
 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。


 さらに本書には一生役に立つ就職活動のコツも書かれているのだから、1,400円(+税)は安いと思いますよ。ちなみに、本書後半の内容を詳しく知りたいときは同じ著者の『雇用大崩壊』をおすすめ。
 
*1:本来ハローワークってそのためにあるんでしょうけど、現状では右から来た求人を左の求職者に受け流してるだけに見えますよね。

2009年11月5日木曜日

運まかせ・書評・阿部彩『子どもの貧困—日本の不公平を考える』

cover
子どもの貧困
阿部彩
 日本の貧困率が話題になっている昨今、読んでみたのが本書、阿部彩著『子供の貧困—日本の不公平を考える』だ。2008年の11月に出た本だから、ちょうど一年前になる。正直に言って、冷静に読み進めるのが難しかった。僕自身、母子家庭で育ったので立場の弱い人に負担が集中してしまうことは経験的に知っていたつもりだったけど、なんというか、壮大な無関心が進行中なのだな、とガックリきた。著者があくまで慎重に、淡々と描く日本の子供たちの現状は、「自己責任」というフレーズでは隠しきれないほど深刻だ。
 
 本書で言う貧困とは相対的な貧困を指す。先日長妻大臣が取り上げた日本の貧困率と同じものだ。なので日本国内で所得の多少を比較して、中央値の50%に満たない所得の世帯は貧困、となる。この数字を使うと、他国の貧困とくらべればマシとかいわれそうだけど、著者のいうように、その社会の中では比較的貧しいということと、文化や社会を考慮せずとも絶対的に貧しいという状態というのは、それほどかけ離れたものではない。
いま、仮に、靴が買えず、裸足で学校に行かなければならない子どもが日本にいたとしよう。日本の一般市民のほとんどは、この子をみて「絶対的貧困」の状態にあると考えるだろう。しかし、もし、この子がアフリカの農村に住んでいるのであれば、その村の人々は、靴がないことを必ずしも「絶対的貧困」とは思わないかも知れない。つまり、「絶対的貧困」であっても、それを判断するには、その社会における「通常」と比較しているのであり、「相対的観点」を用いているのである。
[p.43]
とはいえ、もちろんこれは目安だ。相対貧困率は所得でみているから、働いていないけど現金をたっぷり貯め込んだ高齢者も、貧困にカウントされてしまう。でもそういうケースはそんなに多くないと思うが、やっぱり、ここからこっちが貧困、という線を日常生活の中で引くことは無理だ。でも、何かあるとすぐに「感じ方は人それぞれだから」と言って問題をなかったことにしてしまうのはもうやめたい。

 さて、本書では数多くの理不尽が描かれている。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ! といいたくなるような話ばかりだ。こんな状態でよく年金をネタに馬鹿騒ぎができたな、と率直に思う。
 
 例えば、若い夫婦がいて夫の所得だけでは子育てがままならないとしたら、この夫婦はどうするだろうか。おそらく妻も働きに出るだろう。そうすれば世帯としての所得は増えるからだ。あったりまえの足し算だ。しかし、日本ではこの足し算がぎりぎりでかろうじて成り立っているという有様なのだ。これは、ふたり親世帯において、共働きすることで貧困率がどの程度改善するか、というOECDの国際比較から言えることだ(本書第2章)。例えばアメリカの場合、ふたり親世帯で一人が働いている場合の貧困率が30%と異常に高いが、共働きの場合、10%を下回る。ドイツの場合、一人就業の場合は7~8%の貧困率、共働きの場合はそれが2~3%まで改善している。では日本はどうだろうか。一人就業の時は12.3%の貧困率で、共働きの時は10.6%だ。もうぎりっぎりなのだ。
 
 これは、女性、小さな子を持つ親、新卒ではない人たちが労働市場で差別を受けていることの現れだろう。ふたり親世帯でこの有様だから、片親世帯はさらに追い詰められている。シングルマザーの場合、子育ての時間を犠牲にしなければちゃんとした仕事にありつくことは不可能と言っていいだろう(勝間和代さんみたいな人はめったにいない)。僕の経験から言うと、やっぱり小学校高学年から中学生の間、母と過ごした時間はかなり少なかったし、とにかく断片的だった。あの状況でもし僕が幼児であったら彼女はどうしただろうと思うと、なかなかひやっとするものがある。さらに、両親が離婚すると母親が子供を引き取るケースが圧倒的に多いが、圧倒的に多くの父親が養育費を払わない。僕の父もそうだった。こうして立場の弱い人ほど負担が重くなっているのが日本の現状なのだ*1
 
 こういう風に書くと、辛い境遇から社会的に成功した人の話がでてきたりするが、その成功者たちも統計の数字を改善させるほどには成功していないようなので、その能力や努力、忍耐力を使ってもらってもうちょっとナントカならないものだろうか。さらに言えば、親が常人以上の能力や努力や忍耐力がなければ貧困にぐっと近づいてしまうというのならば、子供の貧困問題の解決は運まかせになってしまう。実際には、小さな子供を抱えながらも共働きだったり片親であるなら、当然、人並み以上の努力をしていると思うけれど。
 
 本書はデータがとても充実しているので、是非手元においておきたい一冊だ。テレビや新聞であつかえる量ではないので、この本を読まなければ、余程専門的な本を読んでいない限り、日本子供たちの現状を知ることは難しいだろう。
 
 さらに、本書を読んだ後に、景気対策を重視する経済学者の意見に逆らうのもかなり難しくなっているだろう。なぜなら、著者の考える貧困対策と経済学者たちの考える景気対策が同じものだからだ。長めに引用しよう。(日本にとって重要なのは、)
「多くの」ではなく、「よい」就労である。「よい」の中には、収入がよいというだけではなく、「ディーセント」(decent = まっとうな)という意味も含まれる。母親も父親も、「まっとうな」時間に帰宅し、子育てを楽しみ、かつ、「まっとうな」給与が得られる仕事をもつという意味である。
 第2章にて指摘した問題を思い出してほしい。日本のふたり親世帯は、勤労者が一人の場合の貧困率はOECD平均を下回るものの、勤労者が二人の世帯(共働き世帯)の場合の貧困率は、勤労者一人の世帯と大きく変わらず、OECD平均の二倍以上となる。つまり女性(母親)の収入が貧困率の削減にほとんど役立っていないのである。ほかの国では、ふたり親世帯が共働きであると、貧困率が大きく減少する。日本の母子世帯の貧困率が突出しているのも同じ理由による。
 今の日本の労働市場には、「ディーセント・ジョブ」がどんどん少なくなってきている。男性にも、女性にも、「ディーセント・ジョブ」を増やすこと、これが子どもの貧困を抜本的に解決する最大の方法である。
[pp.228]

 この主張は、オバマ政権誕生のときに大統領経済諮問委員会(CEA)の議長に任命されたクリスティーナ・ローマー氏の主張と同じだ。以前、彼女の就任時のインタビューについてのエントリーを書いたけど、彼女も職の数だけではなく、その質が重要だ、と説いていた。クリスティーナ・ローマー氏といえば、大恐慌の研究で有名な経済学者だ。彼女は、大恐慌の原因をデフレとその対策の失敗とし、デフレ脱却のための金融政策の重要性を強く主張している(英語版Wikipediaの記事)。本書の著者と経済学者の主張の一致は、この問題が個々人の能力や努力によっては(つまり運まかせでは)、解決しないということを強く示唆しているのだろう。


*1: どこで読んだのか正確には思い出せないので名前はふせるけど、ある女性作家が「日本のシングルマザーたちの就業率が高いのは、働かなければ得られない満足感があるから」的なことを書いていて、ずいぶんと悔しく思ったことがある。今思えば、彼女のその言葉のおかげで、僕は機会費用の概念を受け入れやすくなったのかもしれない。悔しいのは変わらずだけど。

2009年10月25日日曜日

フツーの社会・書評・落合淳思『古代中国の虚像と実像』

cover
古代中国の
虚像と実像
落合淳思
 今回書評するのは落合淳思『古代中国の虚像と実像』だ。書店で平積みされているのをみて思わず買ってしまった。本書は主に前漢以前の時代を対象にしている。まず伝説上の王朝「夏」、そして酒池肉林の紂王で有名な「殷」、封建制とか共和制という言葉の元になった「周」、その周王を担ぎ上げて覇権をきそう春秋・戦国時代、初の中国統一をなした「秦」、そして項羽と劉邦の争いまでの通説の数々が、かなり足早にではあるが検証されている。
 
 本書の帯には「最新研究でわかった4000年前の歴史!」とあって、いかにも既存の学説がひっくりかえる新しい証拠が出てきそうなんだけど、読んでみるとそういう個所は多くなくて(文字も残っていない本当に古い時代だけ)、大半は一般的によく知られた歴史に対する常識的な批判だ。そしてその常識的な批判がすごくほっとするというか、ある種の安心感さえある本当に妥当な批判なのだ。
 
 中国の古典を引用して何かを伝えようとする人は、相手を黙らせようとか、無理矢理納得した気分にさせようとか、とにかく良からぬ事を考えているものだ。そういう風に使われるのが故事成語の宿命であるから、その効果を最大限にするために古典のエピソードは「真実」である必要がある。本書の常識的な批判というのはまさにその点をついたもので、「その話が伝わっているのは不自然だ」し、「それが真実であるのも不自然だ」というふうに展開される。
 
 たとえば、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉がある。これは始皇帝が死んだ後に反乱を起こした陳勝の言葉だ。小さな考えを持つ人物は、大きな考えを持つ人物を理解できない、という意味なのはご存知の通り。
 
 なんとなくそうなのかな、と思ってしまうところだが、やっぱりこの発言が残っているのは不自然だ。陳勝は雇われ農民だった。この言葉もその頃の言葉だという。陳勝の反乱はわずか6ヶ月で鎮圧され、陳勝は殺されている。反乱を起こす前の農民の言葉をいったい誰が記録するというのか。
 
 ではなぜ残っているのか。それは司馬遷の『史記』に載っているからだ。本書を読んで感じたのは、この『史記』がかなりくせ者だな、ということ。とにかく『史記』に載っているんだから事実とされてきたけれど、相当長い期間を扱っている歴史書であるから、当然資料が少ない時代もあるはずで、「『史記』のうち、始皇帝の時代から前漢の成立までは作り話が特に多い。混乱の時代は正確な記録が残りにくいのであるから、司馬遷を責めるべきではないだろう(p.162)」と本書にもある。
 
 なんと言っても白髪三千丈の国だから、表現が大げさなのはよく知られたことだけど、ちゃんと考えれば発言そのもの、出来事そのものが伝わっていることがおかしい、というものがかなりある。今度は始皇帝の話で、彼は不老不死になろうとして徐福に霊薬を探させた。んで徐福は日本に来た。みたいな伝説があるが、これも『史記』による。一方で、始皇帝のお墓(の一部)といえば兵馬俑なわけだ。あの巨大な兵馬俑を短期間で作ることなど絶対に無理なわけで、始皇帝は自分の死をしっかり準備してたということになる。はたして彼は本当に不老不死を望んだのだろうか。それはもちろんわからないけど、今残っている資料をもとに始皇帝は不老不死を望んだ、ということはできるだろうか。僕は出来ないと思う。本書では、徐福も実在しないだろう、としている。
 
 とまあこういう具合に常識的な検証がなされていて実に小気味よい。では『史記』とはなんだろうか。なぜこんなファンタジックなエピソード*1が満載なのだろう。本書によればそれは『史記』が比較的平和な前漢という時代に作られたからであり、文学や講談の需要を満たすため、不確かな伝説も多く取り込まれたのだろう、としている。
 

司馬遷は、資料の収集や整理については非凡な才能があったが、その当時は、歴史学はまだ学術として存在しておらず、資料の考証も司馬遷個人では不完全であった。その結果、創作された伝説がそのまま『史記』に記載されてしまったのである。

[p.144]

 本書では文献ごとの特徴などもやさしく解説されてあって、これも面白かった。たとえば『孫子』だが、これは呉の国の孫武の言葉ということになっているが、呉は南にある国であり、船を使った活動が盛んに行われている土地である。にもかかわらず『孫子』には船を使った戦術の記述がない*2。孫武が実在したかどうかも怪しいが、呉の戦術家が書いたものでもないだろう。
 
 先進的な貨幣論を記したとして有名な『管子』だが、これは紀元前7世紀の斉の国の有能な大臣、管仲の作とされている。しかし『管子』が作られたのは戦国時代の後半だそうで、すでに管仲の死から数百年たっているわけだ。社会のありかたからして全く変わってしまっていただろう。なので春秋時代よりも戦国時代の社会を描いた作とみるべきだという。
 
 では信頼できる文献はないのだろうか。本書によれば、『論語』『孟子』『荀子』『韓非子』は、名目上の著者の生きた時期と編纂の時期が近いことから、比較的信頼できるとしている。これらと反対のものは『墨子』『老子』『六韜』だそうだ。
 
 著者は「はじめに」で、

 夢のない話を延々とするので、「現実的な話は聞きたくない」という人は、本書を読まないことをお薦めしたい。また、高校の世界史の授業で教えられている情報が、いかに古く間違っているかとということも述べるので、受験生が読んで混乱するおそれがあることも注意しておきたい。


と書いていて、「おわりに」では、

 本書は、虚像をできるだけ排し、古代中国の実像を提示することを試みたが、どちらかと言えば普通の古代社会であり、あまりおもしろみのない歴史だったかもしれない



なんて書いているんだけど、なかなかどうして、僕にはとても面白かった。聖人君子や豪傑じゃない普通の人々の社会があったんだと知ることで、信頼度の高い文献もファンタジックな故事成語も、どちらも普通の人々の残したものだと納得できた。この本、とてもおすすめです。特に『論語』を読んでいる人は改めて『論語』が好きになってしまうかも。

*1:『史記』には、孔子が妖怪について得々と解説するシーンがあるそうだ。孔子は怪力乱神を語らず、のはずなのに。というのを去年放送してたアニメ『魍魎の匣』でやってました。

*2:三国志に出てくる曹操といえば『孫子』を熱心に研究していたことで有名だけど、彼はまさに船を用いた戦術をうまく使えず赤壁の戦いで大敗してしまう。

2009年10月15日木曜日

知らないことばかり・書評・大山礼子『国会学入門 第二版』

(先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』と今回の本は、法哲学者の大屋雄裕先生が紹介されていたので読んでみました。)


cover
国会学入門
第二版
大山礼子
 さて今回は、大山礼子著、『国会学入門 第二版』。国会は立法府である。言論の府である。国民に選ばれた議員たちが法案を審議する。法案の多くは実は官僚が作っている。僕の国会についての知識は、恥ずかしい話、こんなものだった。そりゃあ、参院で否決された法案が、衆院の2/3の賛成で可決したってのが最近あったから、「これは衆議院の優越」だよね、みたいなことは言える。でも会派ってよく聞くけど政党と何が違うの? とか聞かれたら長時間にわたって「あー」とか「うー」とか言う羽目になるだろう。
 
 で、本書はタイトル通りの本で、国会の仕組みを一般向けに解説した本だ。といって、中学の教科書のような箇条書きを散文にしただけって感じじゃなくて、慣習の由来、規則の理念、実態、国際比較と至れり尽くせりだ。文言が堅いけど読んでいてとても面白かった。とくに、国際比較が充実している。簡単に言ってしまえば、単純な国際比較はできないということなのだが、それほど各国の議会の運営方法には特徴がある。本書ではアメリカをはじめ、主要国の議会の特徴どころか仕組みまで解説してくれているので、かなりお得な一冊といえる。この第二版は2003年に出ている。そろそろ第三版を期待したい。
 
 日本の国会って地味だから、とりあえずアメリカっぽく改革しようという気持ちになっちゃう日本人は大変多いようだ。僕も自覚がないだけでそういう日本人なのかもしれない。しかし、誰もが知っているとおり、アメリカは大統領制で日本は議院内閣制だ。……。で、どうちがう? 字がちがう。そうじゃなくて、アメリカは三権がはっきりと分かれて牽制しあうという制度なので、議会から選ばれた内閣というものがまず存在しない。アメリカの大統領は行政のトップであるから、立法には手が出せない。もちろん大統領の意向をうけた議員が法案を提出するわけだけど、大統領と同じ考えの議員が自主的にそうするんであって、その手の法案はかなり頻繁に否決されたり、むちゃくちゃに修正されたりしているそうだ。基本的に議院内閣制の国に比べて党議拘束がゆるゆるなのがアメリカだ。大統領と同じ政党の議員でも平気で反対票を投じる。本書では、議員一人一人がそれぞれ一つの政党のような振る舞いをする、と書かれている。行政の(つまり大統領の)監視が議会の役目という認識がかなり強いようだ。
 
 さて、こんなにもちがうアメリカの制度を、日本にぶち込んでもいいんだろうか。アメリカ流の二大政党制というのは、日本ではまったく意味をなさないのではないだろうか。大統領の意をくんだ法案に、おんなじ政党の議員が平気で反対するような制度を、与党議員の反発は重大な裏切りととられる日本の制度に組み込むことに意味なんてないと思う。
 
 じゃあ日本の制度は野蛮で時代遅れなのかというとそうでもない。たとえばイギリスの場合、内閣が議会の一部になって与党と合体しているような状況だ。日本の場合内閣は議会の外に作られると考えられている。つまり形式上、そしてある程度実際上、内閣と与党は別の組織である。しかしイギリスの内閣は与党とまったく同じであり、閣僚以外の与党議員には仕事がないくらい与党そのものだ。議院内閣制の国ではどこも、議会と行政の距離がかなり近いが、イギリスは一体化していると言っていいだろう。そしてそのイギリスも二大政党制なわけだ。日本では内閣のブレーキ役は与党だけど、イギリスではそれはありえない。なので、野党がブレーキ役になるわけだ。
 
 となると、日本の野党は何やってんの? と思うわけだが、政権交代が起こった今、日本の国会もイギリス型の議会になろうとしているのかもしれない。
 
 さて、日本では、国会議員たちは当選するとすぐに、所属する委員会を決める。学校のホームルームみたいだけどそうではなくて、国会において法案を審議する実質的な場所というのは、ニュースで見るような本会議ではなくて各委員会である。だから議員は自分の利害に関わる委員会の中で立法に携わるわけだ。これを委員会中心主義というそうだ。帝国議会時代は本会議中心主義だったそうだが、GHQがアメリカの議会に習って委員会中心主義を導入させたらしい。
 
 現在の日本がこうしてあるのだから、このGHQの考えもそんなに悪くはなかったといえると思う。が、弊害もでてきた。とくに、法案が内閣なり議員なりから提出されると、まず議長がどの委員会で審議すべきかを決める。そして委員会で審議され、最終的に本会議で決をとるわけだ。弊害というのは、本会議に至るまで国民が審議されている法案について知るのが難しいということだ。さらに、野党が法案の趣旨説明を要求することができるのだが、その間、委員会での審議はしないという慣習がある。最近ではこの慣習を利用した遅延戦術がよく用いられ、審議が遅れるという事態が相次いでいる。実はGHQの意見が採用される前、日本人の担当者たちは、まず本会議で提出された法案の趣旨説明を行い、その後委員会に付託して審議して、そしてまた本会議に戻して決をとる、というスタイルでいこうとしていたそうだ。これは帝国議会時代の仕組みを一部受け継いだものでもあり、また、現在のドイツ連邦議会の仕組みにも似たものだったようだ。今までの仕組みが全然だめだ、という主張は極端すぎてナンセンスだけども、日本独自の議会のあり方を模索しましょうよ。
 
 さて、現在の民主党政権下で、なにやら議員立法がどうのこうのという話がある。では議員立法ってなんだろうか。国会は立法府で、そこにいるのは議員さんなんだから、わざわざ議員立法なんて言い方しなくてもいいんだけど、実際には内閣が提出する法案が半数以上を占めているというのはご存知でしょう。で、これは無知で野蛮な日本独特の現象なんだろうか、といえばそうでもない。議院内閣制の国はたいていそうだ。アメリカの議会だけは例外で、そもそも内閣がないのだから議員立法しかない。それでも大統領の意向は党を通じて影響力を持っている。
 
 日本の国会では一時期、議員立法を増やそうとしていたことがあるそうだ。が、結果から言えば、内閣が与党議員に法案の提出を依頼することで名目上の議員立法が増えただけだったそうだ。実際のところ、行政側にしかない情報というのはたくさんあるわけで、なんでもかんでも議員立法である必要はない。議員立法に向いているのは、議員秘書制度の改正案等の超党派で取り組むべき問題だろう。今、国会法の改正が話題になっているけど、これも内閣よりは議員が提出すべきものだと思う。とはいえ、超党派の議員立法にも問題はあって、たとえば産業界などの要請を受けた議員たちが法案を提出して可決したとすれば、そこには国民が不在である、といわれてもしかたながい。議員立法だから民意に添っている、とはいえないわけだ。
 
 と、まあとりとめもなく書いてしまったのだけど、本書を読んで僕が感じた国会の問題点は、会派と政党が実質同じになってしまっていること、会期があることで時間切れを狙う戦術を使うインセンティブがあること、そして行政の監視機能が脆弱であること、だと感じた。ここでは特に、会派と行政の監視機能について書いてみたい。
 
 現代の法律はとても複雑だ。僕は実際の法律を読んだことはないけど(断片ならありますよ。本とかに出てくるから)、まあ複雑って聞いてます。なので、国会で法律を作ったとしても、その法律が議員、lawmakerの考え通りに運用される保証はどこにもない。法の執行機関(お役所)が最もらしい理由をでっち上げてテキトーなことをしているかもしれない。でもやっぱ複雑な内容の法がいちいち実現しているかどうかリアルタイムで監視はできないわけで、事後的に評価するよりないわけだ。だーけーどー、高橋洋一さんが言っているように、お役所ってのはとにかく評価をいやがるところでもある。
 
 歴史的には行政を監視するために議会は立法権を手に入れたそうだ。立法っていうと派手なので議会と言えば立法ってイメージだけど、今日の日銀の暴走(別に最近だけじゃないみたいだけど)をみていると、日本の国会にはまず行政監視の能力を向上させて欲しいと思う。
 
 次に会派の問題。会派の明確な定義はないらしいんだけど、同じ政治的意向を持つ議員のグループであり、政党が議会の外の組織であるのにたいして、会派は議会内部で作られる。なので、アメリカだと会派が政党の指示を無視する、なんてことがあるんだそうだ。日本の場合、本来議会の外の存在である政党がそのまま会派と同一視されているので、法案のほとんどすべてが与党の内部で出来上がってしまい、国民どころか野党議員にも詳しいことは知らされないまま委員会での審議になってしまう。さらに内閣(や議員)は、本来なら各会派を説得して法案を通せばいいが、会派が与党と同じであるから、内閣はどうしたって与党の意向を無視できない。結局与党を説得する必要がある。このため与党の有力議員に権力が集中する。こうして国民には評判の悪い、議会を無視した与党内での密室政治が生まれるわけだ。
 
 で、政権交代が成ったわけですが、こういった問題は解決されたんでしょうか? まだよくわからない。でも、閣僚入りしたわけでもない小沢さんがとても影響力を発揮しているみたいだし、やっぱ与党の内側でいろいろ話が進んでいるような雰囲気。もちろん与党なんだから影響力があって当然なんだけど、何が起こっているのか分からない、というのが問題なのよね。議会の内部で、堂々と、会派として議論してもらいたいもんです。国会法の改正がどういうものかよくわからないけど、実質的な議論の場を議会の外である与党から内である会派に引っ張り込むようなものであれば、歓迎したいですね。
 

2009年10月13日火曜日

まとめ・書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その4(完)

 さて間があいたけど、「おとプラ」の最終回です。いままでのをまとめます(その1はこちら)。
 
cover
男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
 本書の主張をまとめよう。男性は子供の頃から「男らしさ」を叩き込まれているので、自分の感情を表に出すことができない(怒りと不機嫌は除く)。なので、とても悲しいことや怖いことが起きても、それを人に聞いてもらったり、助けを求めたりすることが出来ないので、鬱屈した状況に陥りやすい。ここでウツ状態が続けば、周囲の目をひくこともあるだろうけども、多くの人はそうやって自分のウツが注目を集めることを嫌う(これは女性も同じ)。そうやってうつ状態に対して手をこまねいていると、うつ病になってしまうかもしれないわけだが、それならそれで、もちろん自殺等の危険はあるけれど、本人も周りの人も危機感が生まれるわけで治療のチャンスはある。が、自分が鬱屈していること、落ち込んでいることも否定してしまう人たちがいる。落ち込んでいる自分を情けない、と思うのではなく、落ち込んではいない、と思い込む人たちだ。
 
 ただやっぱり苦しかったり寂しかったりするわけで、そういう感情を消さないと「落ち込んではいない」と思い込むのは難しい。そこで感情をごまかすために使われるのが中毒行為(本書内では嗜癖「しへき」行為)だ。アルコール、セックス、麻薬、暴力、威嚇、支配的な振る舞い、地位や名声へのこだわり、そして仕事などが代表的なところだろう。もちろん中毒行為が一つとは限らないし、程度の差もいろいろだろう。共通しているのは、自分が他人よりも優れていると感じることができる、というところだろうか。
 
 こういった中毒行為で自分のうつを隠し続けることは、男性にとってそれほど難しいことではない。それどころか社会的に評価が高まったりすることもあるだろう。なので数十年にわたって、自分の感情を無視することも珍しくはない。しかしやがて、中毒行為の御利益が得られなくなるときがくる。年を取れば出来なくなることもあるし、肩書きや評判というのは移ろいやすいものだ。予想外の出来事というのもある。そうなると、いままで無視してきた感情が一気に表面化するのだという。それを著者は「表面化したうつ病」と呼んでいる。
 
 しかし問題はうつ病ではない。いやうつ病は問題だけど、それを隠すことはもっと問題を大きくしてしまう。上記のような男性を著者は「隠れたうつ病」患者と呼ぶが、「隠れたうつ病」は人間関係を徹底的に破壊する。それもそのはずで、さっきあげたような中毒行為におぼれている人間を慕う人なんかいない(一瞬かっこよく見えることはあるかもしれないけど)。ましてそういう人と長期間一緒に暮らすなんて地獄以外のなにものでもない。
 「隠れたうつ病」の男は次の三つの理由から対人関係に対処できなくなっている。第一は、自己調整のための嗜癖的防衛行為が最優先されていること。第二は、他者との心のつながりを持つことは必然的に自分の心を覗くはめになるため、他者への親密な関わりは避けたいと願っていること。第三は、対人関係のスキルがひどく未発達なため、親密な人間関係を求められると、すでに十分感じている自信のなさをますます強めてしまうこと。

[p.319]
 こんな具合なので、彼らとともにいなければならなかった人たちの人生も、とても辛いものにしてしまう。
 
 じゃあどうすればいいのか。それは、辛かったこと、悲しかったことを、そのまま認めることだ。あの時は本当に苦しかった。本当に寂しかった。そうやって辛い出来事を認め、その解釈を変える。たとえば「自分はいじめに抵抗しなかった。はっきり主張しなかった。」という解釈を「自分は子供だったので、抵抗するすべを知らなかった。数で圧倒されれば大人だって抵抗は難しい。大人たちは「大したことない」とたかをくくっていじめを止めなかった。」というふうに変える。そうすることで、自分の感情を無視することなく、辛い経験を乗り越えることが出来る。なんでもかんでも自己責任という解釈はうつを加速させるだけだ。
 
 しかしそれでも、「隠れたうつ病」が「表面化したうつ病」になることは避けられない、と著者は言う。辛いこと、苦しいことに出会えば落ち込むのは自然な反応で、人はそれをすっ飛ばして成長することなどできないし、十分な時間が必要だ。問題は落ち込んだときにどうするかであって、そこで「落ち込んだり傷ついたりするのは男らしくない」とかそういう反応をすると「隠れたうつ病」へ一歩近づいてしまうのだろう。周りの人もそういうときは、「辛かったね」と声をかけてあげるべきなのだ。決して「男のくせにめそめそするな」ではない。

 本書で描かれる治療の様子をみると、辛かった出来事を辛かったと認めるという段階がもっとも難しいようだ。著者は家族セラピーの専門家であるので、辛かったことを認めるのは患者だけでなく、家族も一緒に患者の苦しみを認めることで治療を進めていく。これはたぶん、患者だけが辛かった経験を受け止めても、家族が「そんなことはない。悪いのはお前だ」というような反応しかしなければ治療は難しくなってしまうからだろう。
 
 とはいえ、患者に自身の苦しみを認めさせる技術は、著者とその夫人の独特なアートであるように感じた。勉強すれば誰にでも身につく技術というよりも、二人の人柄に負うところが大きいようだ。もっとも、自分の苦しみを認めてしまえば、デミアンのように「表面化したうつ病」になってしまうわけだから、すぐに治療の環境を整えられる専門家でなければ行えないということは間違いない。
 
 本書を読んで感じたのは、まさに「惻隠の情は仁の端緒なり」だ。自信が持てず対人スキルが未発達、といわれると、俺のことを言っているのか!? と思わずにはいられないのだけど、最近はその対人スキルっつーのは「惻隠の情」のことなんじゃないかと考えている。そっと思いやる心、それが持てれば、傷ついたときも絶望せずにいられるのかもしれない。

2009年10月8日木曜日

統計のもやもや

 世の中のことをわかってる人になりたい、と子供の頃はよく思っていて、大人の振りをよくしたけど、参考にした大人たちがかなり見栄っ張りで知ったかぶりする人たちだったので、思春期以降、おかしな振る舞いをなおすのにずいぶん苦労した。どんな話題でも、瞬間的に「そりゃそうだよ」と言いそうになってしまう。今はそういうのはなくなったけど、あぶないのが統計の数字を聞いたときだ。ついつい「統計上それはナントカだ」とか言いたくなってしまう。が、それをこらえてちょっと考えてみると、統計の数字だけではなかなか納得できない、もやもやした感じが残ることも多い。

 社会の変動を統計を通して見るのは社会科学では必須の作業だ。でも、これが難しい。先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだときも、統計ってこわいなーと痛感した。書評にも書いたように、実際に人が殺された殺人事件の統計は存在しない。なので、被害者数から推測したり、事件の性質から分類したりしなきゃいけない。つまり統計上の数字をそのまま議論に持ってくるのは危険だよ、ということだ。

 同じように、統計の比較も難しい。なんでも殺人事件の統計に毒殺を含めない国があるそうだ。こんなところにも、歴史的なバリエーションが生まれるんですね。一つの統計をそのまんま真に受けるとしっぺ返しを食らうかもしれないのだから、それを比較するのはそうとう慎重にならなきゃいけない。

 20代のとき就職難で非正規雇用しかなくても、30代ではちゃんとした職に就けている。だから景気と非正規雇用問題はあまり関係がない。雇用のミスマッチが起きている。という話を聞いた。その実際の数字を不勉強な僕は知らないけれど、なんかおかしいな、と感じた。まず思ったのは、景気が悪くなれば一番最初に削られるのが非正規雇用だから、非正規 / 正規で割合をみると、分子が減っていくので、そりゃ数字上は改善かもね、ということ。失業率との比較が必要な気がする。でも失業率は失業率で問題を抱えた数字だしね。

 次に思ったのは自殺者の数のこと(以下はここを参照)。自殺が景気とはリンクしていない、という研究もあるようだけど、日本の場合、やはり97年に激増していて、そのときの水準から戻ってきていない。たしかに自殺者数はこの10年間の失業率にはリンクしていないけど、不景気と無関係というのは考えづらい。というか、失業率と自殺者数の動きがばっちりつながっていないから両者は関係ない、と言えちゃうんだろうか? いや、それはここではいいや。そうじゃなくて、30代の自殺は一貫して増えている、ということが言いたかった。団塊ジュニアの数が多いから? とも思うし、確かに団塊ジュニアの先頭(1970年生まれ)が30歳になった2000年以降20代の自殺は減り始めるんだけど、2003年になると微増、そして横ばいになっていく。これは世代のボリュームだけでは説明はつかないんじゃないかな。というか、若い世代の人口が減っているのに、10、20、30代の自殺者数(割合ではなく)は横ばいか増加ってなんか怖い。

 田中秀臣先生がブログで書いていた。

まだ僕の本務校は統計とってる真っ最中ではっきりいえないんだけど、他の大学の来年3月卒業の学生の就職率がどうも実質ベースで10〜20%程度前年比で低下しているという情報がある。このブログたぶん多くの大学教員がみているはずだから、学生の就職状況がちょっとまずいのは直感でもわかってるんじゃないか、と思う。

 高卒の方はかなり深刻化しているわけで、この事態をみてまだメディアとかは「雇用のミスマッチ」とかたわけたことを書いている。そりゃ、見つかりますよ。この不況だって構造的に人材難もしくは待遇低くて人手が来ない企業なんて日本にごまんとあるから。


 正規雇用が増えたのは、景気が悪いので、非正規雇用が削られ、ひどい待遇でも我慢してる人が増えたからかもしれない。いやこれもそういうことが言いたいのじゃなくて、30代で正規雇用の割合が増えたとして、それを不景気で説明することもできるよ、ということが言いたかった。そして自殺者数の推移は、待遇の低さや本当の失業者数を示唆しているのかもしれない。

 以前書いたんだけど、オバマ政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長のクリスティーナ・ローマー先生が、職の数だけじゃなくより良い職を作り出すことが重要だ、と力説してた。それが景気対策なんだ、と。

 さらに勝間和代さんとの対談で飯田泰之先生は「効用とは心で感じる満足度」であり「効用は経済学では重要な概念」と言っている。たぶん、統計の数字で議論をひっくり返しても、それが人々の効用を反映しているものでないとあまり説得力はないんだろう。といって効用を計る手段はなくて、統計を参考に推測するしかない。なので僕のような粗忽者としては、いい加減なこと言っちゃうフラグが立ちまくりで、まあこれまで通りこれからもいい加減なことは言っていくんだけども、やっぱり今生きている人の効用が大事だよね、長期的には我々は皆死んでいるんだから、と思う。んで、統計の数字が話題になるときに感じるもやもやは、統計がどうしても長期的な視点になりがちだからだろう。二年くらいの統計を真に受ける人はあんまりいないだろうし。

cover
ケインズの闘い
ジル・ドスタレール

 最近、ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』を読んだときのメモを読み返していた(感想)。で、ケインズの貯蓄に対する考え方のまとめがあった。彼は貯蓄する意図を問題にしていた。そりゃ長期的には貯蓄は将来の消費と同じだろう。お金を貯め込んだ本人が死んでしまえば、遺産として家族の手に渡りいくらかは消費されるだろうし、一部は税金として吸い上げられて公共サービスの維持なんかに使われるだろう。でもそれはもうずいぶん気の長い話だ。実際にはお金を貯め込むような人は消費もしないし、リスクの大きい投資もしない。ので、人の一生程度の時間では、貯蓄は格差をいっそう拡大させているし、なんだかんだいって世代を超えて受け継がれている(つまり長期的に貯蓄=消費というのは理屈だけで、実際は違う)。

 だからケインズは「長期的には我々は皆死んでいる」と言ったわけだ。だから今すぐなんとかしなきゃ、と。長期的には貯蓄は消費だし、北海道の失業と沖縄の求人だって、長期的にはマッチするだろう。では、貯蓄が消費に変わるまで、僕たちは10年も20年も待ち続けなければいけないのだろうか。待つことに失敗してしまったら、それは自己責任なんだろうか。もし待たなければいけない時間が100年だとしたら、運が悪かったとあきらめるしかないのだろうか。

 長期的な視点から現状を肯定するのは危険だ。統計が話題になったときのもやもやは、僕たちがその危険をなんとなく感じとったということなんだと思う。

2009年10月2日金曜日

殺人の条件・書評・河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』

cover
安全神話崩壊の
パラドックス
河合幹雄
 90年代後半から犯罪が激増したとか、増えはしてないけど凶悪化した、という説は誤りである。これはもう旧聞に属すると言っていいだろう。しかしそれでは、何がどうなってそのような説が世に出てきたのだろうか。今回読んだ本、河合幹雄著、『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』はその疑問にとても真摯に取り組んだ労作だった。本書を読んだ率直な感想は、増えたとか増えてないとか、そんなに簡単に言うんじゃない! というものだ。
 
 本書は前半と後半に分けられる(と僕が勝手に思ってる)。前半では統計資料をこれでもかというくらいに丁寧に読み解き、これでもかというくらい丁寧に解説される。後半には日本が安全な社会である理由、そしてその社会はこれからも安全なのかという問い、さらに今後どうすべきかについての指針の提案、となっている。

 前半の統計分析だが、これが実に見事だった。著者も書いているんだけど、専門家でもここまで詳しく見ている人はほとんどいないだろう。たとえば1996年から、確かに増えている犯罪がある。強姦だ。しかしここで統計の数字を真に受けるのはまだ早い。強姦には暗数、つまり被害者が泣き寝入りして発覚していない事件がかなり多いと考えられる。そして、

強姦被害の泣き寝入りは減少してきているという感触もあるが、それが正確に何年からなのかは見当がつかない。これがもし1996年であれば、1996年が最低となり、その後が増加傾向にあることの一つの説明とはなりうる。被害者への社会的注目を受けて、性犯罪被害者の話を聞く警察の担当者が、ほぼ100%男性であったのを改め、希望者には女性捜査官が聴取にあたるように変えたことは、被害届を増加させたかもしれない。この動きの完成は2002年いっぱいまでかかっているが、開始したのは、おそらく警察庁が「被害者対策要綱」を作成した1996年2月以降であろう。認知件数増加時期とは一致している。いずれにせよ、強姦認知件数の変化は、放火同様、経年変化を論ずるには正確性に問題がある。

[p.37]

 僕はこの説明を読んで、正直、犯罪が激増したと主張した人を責められないな、と強く思った。こりゃ絶対見抜けない。統計ってのはおっかねえなあと改めて思う。他にも90年代後半から統計上激増した犯罪がある。それは強制わいせつと器物破損だ。強制わいせつについても、痴漢被害者の扱いが近年改善されたことで、暗数が表に出てきたと考えられる。器物破損については、深夜に車が傷つけられた、というようなケースが多いようだが、この場合保険金の支払いの条件として警察への届け出が必要になっているそうで、保険の充実も認知件数増加の一因であろう。ここでもうすでに、こんなの見抜けるかあ! と言いたくなるんだけど、この二つの犯罪の増加はもっと急激なので、さらに別の理由がありそうだ。それは、警察が「前さばき」をやめたことだという。
 
「前さばき」とは、たとえば、上記のような自動車損壊事件のように、逮捕できる可能性が低い場合、書類を作らないで済ますことをいう。これは、手間をはぶいて、より逮捕可能性が高い、あるいは、逮捕の必要性が高い事件に人的資源を投入するために行われてきた。むろん、事件すべての増加の原因がこれあるとは言えないが、このような要因が混入してしまっては、犯罪実数の経年変化の検討には使用できない。

[p.41]
 
 さてこの「前さばき」は何で行われなくなったのだろうか。警察がそんなことを発表するわけはないから、当然予測をするしかない。殺人を除く各種の犯罪が一斉に激増するのは2000年。
 
(警察が:引用者)前年の1999年10月の桶川ストーカー殺人事件等への対応として、被害届を原則すべて受理する方向になったのであろう。なお、統計の取り方が年初に変わったのではなく、たとえば4月からであると、2000年には、その変化の8ヶ月分の影響が出て、2001年には12ヶ月分の影響がでる。したがって、2001年もかなりの増加があるのは、そのためと理解可能である。この仮説が正しいならば、2002年には落ちつくはずだが、一般刑法犯の増加傾向はわずかになっている。そこで警察庁の『犯罪統計資料』によって月ごとの認知件数を調べてグラフ化した(図は略です:引用者)。見事に2000年4月から5月にかけてジャンプしているが、それ以外は月ごとに横ばいであることが確認できる。4月に通達が出されそれが5月に各警察署に浸透し、安定状態に達したのであろう。統計の取り方に変化があったことに十分注意する必要がある。

[p.44]

 ここまできてしまえば、素人が統計の数字をもてあそぶことの危険性、赤っ恥確率の高さにドキドキしてしまう。というか、プロだって数字の変化を追うだけということも多いんじゃないだろうか。現実に何が起きているか、それはわからない。だから統計を使うわけだが、使ったからわかるということでもない。自戒を込めて、数字の扱いには要注意、と書いておこう。
 
 では凶悪化のほうはどうだろう。これはもう殺人事件の数で調べるのがいいに決まっているのだが、これもまた困ってしまう話ばかりなのだ。殺人事件は年1300件以上ある。すごく多く感じるが、実はこの数字には殺人未遂も含まれている。そして、驚いたことに、実際に人が殺されてしまった殺人事件(?)の統計は存在していない。
 
そこで、殺人によって殺された被害者の数を調べると、最近は600人台である。一度に何人も殺すことは可能だが、ほとんどの事件で、一事件で一人の犠牲者であろうから、殺人既遂事件数は、600件台かと思うとそれも大きく違う。この600件余りの内、最大のカテゴリーは心中である。

[p.48]

 これは子供を殺して自殺したケースや、親の介護に疲れ殺し、自分も自殺しようとしたが果たせなかった、というようなケースだ。なんというか、刑事ドラマの題材にはなりそうもないやるせない事件であって、一般に殺人事件と言ったときのイメージとはだいぶ違う。

 では量刑から見るのはどうだろう。殺人事件の検挙率はほぼ100%であるから、1300件ほとんどすべてが解決している。が、実際に刑務所に行くのは、たとえば2001年には583名だという。殺人を犯しても半数が刑務所に入っていない。そもそも判決が出たケースが731件で、そのうち135件で執行猶予がついている。判決が出ていないケースが600件くらいあるが、被疑者死亡(親子心中のケースなど)、心神喪失で不起訴、嫌疑不十分で不起訴または起訴猶予がそれくらいある。
 
殺人で執行猶予どころか起訴猶予があるのは驚きかもしれないが、むしろ、殺人事件には、加害者に同情すべき事情がある場合が多い。前期の介護がらみの事件は、社会にとっては実刑の必要はないが、本人が執行猶予されて帰宅したときに自殺といった結果を防ぐために、極めて短期の実刑にされたりする。誰かが面倒を見てくれるようだと執行猶予であろう。起訴猶予は、公判がないためにデータがなく、想像するしかない。唯一わかっているのは、心神耗弱による起訴猶予(2001年は3件)である。暴力団による殺人事件なのに起訴猶予がいくつかあるのは、組長に殺害を指示され拳銃を渡されたが実行できず、組にも帰れず警察に駆け込んだというようなケースであると想像する。拳銃を受け取った時点で殺人予備罪であるから統計上は殺人事件一件となるが、世間常識からすれば、殺人事件は回避されたと評価するのが常識にかなっていると考える。確かに、なるべく実行を思いとどまって警察に駆け込んで欲しいという刑事政策的観点からしても、また、拳銃の受け取りを拒むことが事実上は不可能であることも考えあわせれば、起訴猶予は頷ける。

[p.50]

 で、結局殺人事件らしい殺人事件はどれくらいなのだろう。これは本書を読んで欲しい。というかもう引用しすぎて疲れちゃった。本書後半の議論は前半ほどの説得力は感じなかったけど、妥当と思える指摘も多かった。前半以上に推測しなければならない要素が多いので、受ける印象は人によって大きく異なるのは当然だろう。面白かったのは、世話人が問題をなかったことにしてしまうという日本社会のシステムが、いや、これも読んでもらうしかないだろう。
 
 本書は残念なことに値段が高い。ので僕は図書館で借りた。一般の人が広く読むべき本であるけれど、3,500円はちょっとね。ちくま文庫で上下巻、みたいにできないでしょうか。社会科学の入門書としてもとても優れていると思います(ただ本文の最後に謎のデフレ礼賛があるのはご愛敬。アレはいくら何でも唐突すぎる。これだけ慎重に統計を分析しているのにそりゃないぜ)。

2009年9月27日日曜日

複雑さの理由・書評・三木義一『日本の税金』

 税金の仕組みはとても複雑だからシンプルにするべきだ。僕にもそう思っていた時期がありました。というか今回紹介する本を読むまでそう思ってた。税についてあんまり知らないよなーということで読んだ本、三木義一著『日本の税金』(岩波新書刊)だ。とても良い本だったけど、2003年の本であるので、2009年現在の税制とは違うところもあるのかもしれない。
 
cover
日本の税金
三木義一
 この本は節税とかそういった目的のために書かれているわけでもなく、詳しい納税の仕方が載っているわけでもない。日本に住んでいれば納めなければならない各種の税の目的や理念、そしてそれらからは幾分かけ離れてしまった現状を解説した本だ。なので、教養としての税、がテーマと言っていいかもしれない。税の種類別に解説されていて、所得税、法人税、消費税、相続税、間接税等、そして地方税の順となる。一番複雑で難しいのはやっぱり所得税と法人税なので、残念だけど本書のとっつきはちょっと悪い。
 
 で、なぜ所得税や法人税は複雑になってしまうのかというと、公平性を確保するためだ。累進課税という言葉は大抵の人が知っている言葉だけど、僕を含め多くの人は、「所得が一定以上になると、税率が上がる」と単純に考えているんじゃないだろうか。しかしこのようなやり方(単純累進税率)では公平な負担にはならない。
 
しかし、単純累進税率には重大な欠陥が含まれているのである。仮にある納税者の課税総所得金額が12月30日現在900万円であり、翌日働けば901万円になるとしよう。900万にしておけば税率は20%なので180万円の所得税を差し引いた720万円を手に入れることになるが、1万円でも多く稼ぐと901万円となり30%の税率が適用されるために、270万3000円の所得税を差し引いた630万7000円に減ってしまうのである。

(漢数字をアラビア数字に変えた。)[p.42]

 なので、現実には超過累進税率が採用されている。これは上記の例で言えば、901万円の所得に対して、900万までは20%、900万を超えた残りの1万には30%の税率がかけられることになる(もちろん900万以下が一律20%ではない。簡便のため省略した)。こうすると納税額の直感的な理解が難しくなるが、働き損は避けられるというわけだ。
 
 と、これだけならまあいいんだけど、実際には各種控除が様々に関わってくるので、さらに複雑になってしまう。それでも、本書を読んで感心したのは、この様々な控除というのが、それなりに合理的にできているんだなということ。基礎控除というのは、人が生きていくために必要な所得には課税してはいけない、という考えから導入されているもので、まったく理にかなっているな、と思う。ただ、その金額が38万円というのはいくらなんでもヒドい。そして配偶者控除も、家族内で家事や子育てを担当している人が生きていくための所得に課税するのはおかしい、という考え方がそもそもの理念だ。女性の社会的な立場の弱さと合わさった議論になりがちだが、控除の考え方自体は正しいと思う。誰かがやらなきゃいけない事をして、そのために就業の機会がなくなってしまうわけだから、その人が使うお金に税金をかけちゃいかんだろう。
 
 しかし、配偶者控除はいわゆる「103万円の壁」という問題を作り出した。これはこの控除の対象者(主に主婦)の所得が103万円を超えると、夫の所得の配偶者控除がなくなってしまい、妻が働く前よりも税負担が重くなってしまう、という問題だった。つまり女性が働くのを社会が邪魔しているようなことになってしまったわけだ。が、これは1987年の法改正で改善されている。今は控除の額が所得にあわせて減額していくようになっていて、以前のように一線を越えればすべてパァという状況ではない。にもかかわらず、世の中にはまだ「103万円の壁」があるという。その原因は、夫の勤めている会社の配偶者手当である。配偶者手当の条件を、かつての税法にあわせたままの103万円に設定しているから、未だに103万円以上の所得にならないような働き方をせざるを得ない女性たちがいる。これは各労働組合の怠慢と言っていいだろう。
 
 ではそれ以外の現行の税制がうまくいっているのかというと、そんなことは全くない。多くが時代とずれまくっている。相続税などはその典型で、本来は相続した額で税率を決めれば話が早いし、そうしている国も少なくない。しかし日本ではそうではない。なぜか。それは戦後の復興期の話。
 
 しかし、現実の日本はまだこのような制度(相続した額によって税率を決める制度:引用者)を受け入れられる状態ではなかった。とくに農家の相続では、農業経営を維持していくためには長男に単独相続させることが必要であったが、そうすると税負担が重くなる。税負担を逃れるために、平等に分割したように仮装することも横行した。税務行政もそうした分割の実態を適正に調査できる状態にはなかった。

[p.119]

 なので、相続した金額だけじゃなくて、遺産全体の金額も考慮に入れた複雑な課税方式が採用された。だから同じ金額を相続してもかかる税金は違う、というよく分からない事態を多数生み出している。この、過去の特殊な時期を反映した制度のおかげで現在に混乱が生まれる、というパターンが税の話には多いようだ。酒税もそんな感じ。
 
 酒税の場合、アルコール度数に応じて、1キロリットルあたり何%という課税方式が合理的であると考えられるが、日本の場合はやっぱりそうなってはいない。日本の場合、お酒を10種類に分け、課税する。なので同じアルコール度数でも分類が違えば税率も違うことになる。
 
 これは大衆酒には低い税率、高級酒には高い税率を、ということで導入されたわけで、それはまあいいんじゃない? と思う。が、なぜかビールの税負担割合は35.8%で、ウイスキーの14.8%よりもずいぶん高い。というか一番高い。ビールは高級酒の中でも選ばれた高級酒というわけだ。税制上は。
 
 つまり今や酒税は、合理的でもないし、当初の理念からも大きく外れてしまっている。そこで「ビールとして課税されないビール」、つまり発泡酒が登場してくる。酒税上のお酒の分類はかなり問題だらけで、酒税上のビールの定義は「麦芽、ホップ、水を原料として発酵させたもの」だそうだ。さらに副原料の規定があるのだが、要するに、「副原料を使ってもいいが、麦芽の量の半分(麦芽比率三分の二)まで」[p.153]というのが税制上のビールだった。では麦芽の量の半分以上の副原料を使ったらどうなるかというと、それは酒税法上はビールではなくなり、雑酒になる。となれば、税金が低くなり、価格も安くなるわけだ。
 
 ここで財務省がビールを大衆酒と認めれば話は早かったんだけど、発泡酒もビールだ、という法改正をしちゃった。すると、今度は副原料をさらに増やした雑酒が登場。それもビールだ、と財務省。さらに副原料を増やした雑酒登場。こういう具合に「愚かな改正を繰り返し、そのあげくますますビールとは異質な発泡酒の量を増やしているのである。」[p,154]
 
 とまあ時代遅れの乗り物をなんとか修理して使ってたら、いつの間にかグロテスクな何かになっちゃった、というのが現在の税制の姿であるようだ。で、そもそもこの本を手に取ったのは、消費税のことが知りたいからだった。聞くところによるとえらく問題があるらしいから。で読んでみて、結局、僕には要約は無理だな、と認めるしかないくらいには複雑だったので、是非本書を読んでみて欲しい。しかし複雑さの他にも、消費税が持つ本来的な欠陥もまったく補われていなかったりもする。それは低所得者のほうがより重く負担しているという逆進性の問題である。
 
実収入に対する消費税の負担割合は、一番収入の低い層の2.7%から、一番高い層への2.0%へと徐々に下がっていっているのである(財務省「収入階級別税負担平成11年分)

(漢数字をアラビア数字に変えた。)[p.104]

 つまり消費税は、シンプルでもなければ、公平でもない税であるというわけだ。消費税導入時は高齢者にも一定の負担を求める、という理由もあったそうだが、それに対して著者は次のように疑問を提示する。( )は原文ママですよ。
 
 しかし、高齢者は若者世代に比して、資産は相当多く所有し、所得も決して少なくない。若者世代と決定的に違うのは、若者世代には資産格差も所得格差もそれほどなく(皆ほどほどに貧しい)、これに対して高齢者世代では資産格差や所得格差が著しい点なのである。このように資産格差や所得格差が著しい世代が増えていく社会に、一律に負担をかする消費税がはたして本当に適切なのかは疑問が残る。

[p.114]

cover
脱貧困の経済学
飯田泰之・雨宮処凛
 経済学者の飯田泰之氏が雨宮処凛氏との共著『脱貧困の経済学』の中で、「富裕層に対する減税ばかりしているのだから財政危機になるのは当然だ」という趣旨の発言をしている。そこで本書『日本の税金』を読んで思うのは、行き当たりばったりの法改正を繰り返し、税の公平さを歪めてしまっている上、さらには税収まで落ちてしまったのだな、ということだ。また、同時に反省もしたのだけど、僕は税の理念だとか、考え方だとか、全く知らなかったな、とも思った。現在の税制は、理念はなかなか立派だと感じるところもあって驚いたんだけど、僕も含めて、どれだけの人がそれを知っているだろう? 本書はその理念というか、税についてどう考えればいいのか、詳しく説明している。複雑な税の仕組みを理解したい、という方は専門書にあたって欲しいけども、そうではなくて、税の勘所を押さえたい、という人にはぴったりだと思う。もしかしたら現行の制度とは変わっている点もあるだろうということを考慮に入れつつ、読んでみてください。ちょっと難しい本だけども。
 
 ああそうそう、僕は納税者番号についても何かあるかなと期待していたんだけど、残念ながら詳しい言及は本書にはない。本書はとても有意義な本だと思うので、是非新しい状況を反映させた改訂版を出して欲しいし、その中には納税者番号についての解説もあるとナイスですよ。

2009年9月25日金曜日

もうドキドキしない・書評・伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』

なんか続けてたのがあったような気がするけど、キニシナイ。

前回のエントリーで飯田泰之先生が紹介していた伊勢田哲治著、『哲学思考トレーニング』を読んでみた。読んでみたらこれがスゴイ本で、なんか僕の関心というか気がかりなことにドンピシャなものだった。この本が新書で買えるというのはとんでもないことなんじゃないだろうか。

cover
哲学思考トレーニング
伊勢田哲治
飯田先生は、本書はタイトルで損をしていると言っていて、それには同感。でも一方で、本書はタイトル通りの本でもあると思う。本書冒頭に、哲学を学ぶと、全体的な状況をとらえて分析する能力が身につく、という話がでてくる。この本ではその能力を活かしたスキルをクリティカルシンキングと呼び、クリティカルシンキングとは「ある意見を鵜呑みにせずによく吟味すること」[p.11]である。「よく吟味する」というのはちょっと曖昧な表現なんだけど、それは、この本で読者がトレーニングするのは、曖昧さだらけの日常の中で全体的な状況を捉えて分析する力だからだ。たとえばネット上で、よく分からない専門用語とか外国の学者の名前が出てくる文章に丸め込まれた経験はないだろうか。僕はしょっちゅうだ。日常に出会う議論は、教科書や論文に載っているものと違って、かなり曖昧さを含んでいる。用語の使い方が正しいのか、そのフランス人はホントに権威ある学者なのか、僕たち素人には分からない。しかしだからといって、全面的に受け入れたり拒否したりせずに、ある程度でいいので妥当性を評価できれば、いい加減な話に踊らされることもなく、本当に大事なことを見失わずにすむだろう。さらにチェックが増えれば、世の中、建設的な議論もぐっと増えちゃったりするんじゃないかな。で、そのための道具がクリティカルシンキングであるわけだ。

あらゆることについて素人である僕としては、専門家やそれっぽい肩書きの人が、「AはBであるから、政府はCという政策を実行すべき」とか「DとEは全くの無関係であり、F氏の主張は言いがかりも同然である」とか言われると、その真偽を確かめるだけの知識がないので、よく分からんがきっとそうなんだろう、ともやもやを抱えつつも説得されてしまうことが多い。もやもやしつつも、結果的には鵜呑みにしているといえる。僕は経済学に興味があるから、経済学っぽい話にはずいぶん振り回された(されてる)。今ではあまりにいい加減な経済学っぽい話は相手にしないようになったけど、以前は国際競争力っぽい話とかにはいちいち必死になって反論を考えていた。元の話がいい加減なんだから、そこで必死に考えたって何にも出てこない。おとなしく教科書開いて比較優位について勉強するべきだった、と今なら思う。

で、本書はその手のいい加減な話から身を守るための道具をたくさん提供してくれる。しかも読んだその日から使える即効性がうれしい。リアルにもネットにもいい加減な議論の種はつきない。そのいちいちにドキドキしたりしてたらきりがないし、結構時間もとられるし、たぶん友達もなくすだろう。私見だが、その手のいい加減な話というのは、妙に脅迫的なところがある。誰が悪いとか、誰が利益を独占しているとか、誰が法をかいくぐっているとか。俺の意見に賛成しないやつは…、と迫られている雰囲気がある。こんな議論に巻き込まれたら、そりゃ友達なくすでしょ? ちょっと脱線するけど、そういうのって急いで言質を取ろうとしているようで(そして言質を取れば何とかなるとでも思っているかのようで)、何かコンプレックスでもあるのかな、と思ってしまう。まあ余計なお世話ですが。

本書のテクニックでもっとも使い勝手がいいのは、誤った二分法というものだ。引用しよう。強調は原文のまま。

 ちなみに、クリティカルシンキングの議論のテクニックの一つとして「誤った二分法」(false dichotomy)を避ける、というものがある。誤った二分法とは、複雑な状況をAかBかというかたちで単純化して、AではないからBだ、と結論する過ちである。人間をすべて敵と味方に二分して、「お前は味方ではないから敵だ」というような判断をするのはこれにあたる。こういう過ちについて知っておくと、相手の議論につい説得されそうになったときに「まてよ」といって考えなおすのに役に立つ。

[p.136]

これはもう今すぐ使えるテクニックだ。誤った二分法を念頭に置いて、最近読んだもやもや文章を読み返してみてはどうだろう。仮に結論が自分にとって好ましいものでも、こういうやり方で説得されるわけにはいかない、と自信をもって言えるようになっているはずだ。

ほかにも様々な吟味の仕方が記されている。中には多くの手順がいるテクニックもあるが、ネットにあふれる、妙な迫力はあるが怪しげな議論を退けるだけなら、誤った二分法をはじめ、比較的簡単なテクだけで事足りるだろう。これはいい! と思ったのは、反証可能性と立証責任だ。どちらもネットではよく目にする言葉だけど、本書ではその日常での使い方を解説している。これらを杓子定規に使ってしまえば全否定となってしまって、結局鵜呑みにしたときと同様、もやもやだけが残るんだと痛感した。反証可能性は強力すぎるので使用するかどうか、よく注意する。そして立証責任は必ずしも「ある」と主張する側にある訳じゃない。大抵の場合、立証が容易である側がすべきであろう。と、こういうふうに曖昧さを許容しつつ、ケースバイケースで対応して、安易に結論に飛びつかない、それが本書を貫く主張だ。つまり、万能な議論の進め方は存在しないのであって、なにやら難しげな言葉を使って断言しているお話には要注意だ。

僕は本書を半分くらい読んだところで、もう一度読みたい、と思うようになった。その頃にははじめのほうを忘れはじめてたから。で、とりあえず一回読んだんだけど、「あとがき」ならぬ「「結局、何がどうだったの?」という人のためのガイド」の中で、二度目に読むときの順序が書いてあって、ホントかゆいところに手の届く本なのです。しかも参考文献が著者の解説付きで載っているので、これもうれしい。英語の本も多いが、英語の本を読むのが趣味の僕には本当にありがたい。自分で探して出会う可能性のほとんどない本だろうから、特にそう思う。

本書は手元に置いておく価値のある本だ。何かもやもやする議論に出会ったとき、この本を片手に検証していくと、それが不誠実な議論であることがよく分かるだろう。そして世のいい大人たちがいかにいい加減な議論をしているのか、ということもよく分かってしまうだろう。それでも彼らが何かいっぱしのことを言っているように見えるのは、普段から偉そうに振る舞うなどして努力してるからだ、ということも、知りたくもないけど、分かってしまうだろう。さらに、自分が調子に乗って不誠実な議論をしてきたことも思い出すだろう。だからこそこの本は、難しげな用語や肩書きに弱い僕のような人にとって必携だ。

2009年8月11日火曜日

ゆっくり生きる 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その3

承前:その1 その2

「ゆっくり生きろ」というメッセージは様々な歌に込められる。僕にもお気に入りの「ゆっくり」ソングがある。斎藤和義の「歩いて帰ろう」とかJack Johnsonの"Inaudible melody"とか。あとはなんだろう、Princeの"Little red corvette"? いやこれは違うだろう。ゆっくりしろ、と歌ってるけども。

自分が無価値に感じられるという問題から目を背けると、自分だけでなく、まわりの人々も深く傷つけるような事態を招いてしまう、というのが前回の話。ではどうしたらいいのか。その答えが「ゆっくり生きろ」だ。

「隠れたうつ病」においては、防衛的行動または嗜癖(しへき≒中毒:引用者)行為によってダメな自分から誇大化した自分へと飛躍するが、そのどちらでもない健全な自己評価に到ることはできない。うつ病の根になっている自己の内面と向き合うことなしには、健全な自尊心を持ちえないからである。どんなにあがいても、内面の痛みを隠蔽したまま癒される道はない。[p.71]


そう、ゆっくりが楽なわけじゃない。むしろ仕事中毒になったほうが、うつの症状には即効だろう。もし人をうつ病にするような出来事や環境があるとしたら、人はうつ病になるべきだ、というのが著者の考えのようだ。そうしなければ「うつ病の根」が放置されてしまう。

cover
男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
今回はデミアンのケースを見てみよう。彼はハンサムで、職業人としても成功している40代後半の男性だ。社会的に成功しているだけでなく、美しい妻ダイアンとの間に四人の子をなし、育てている。何の問題もない夫婦のはずだったが、ダイアンが家を出て行ってしまい、夫婦のセラピーがはじまった。デミアンは妻がおかしくなってしまったと考えていたが、セラピーを重ねるうちに、妻ダイアンは問題の核心に触れた。それは夫とのセックスだった。

著者はダイアンの話から、デミアンは軽度のセックス中毒ではないか、と疑った。彼は2、3日セックスをしないとすぐ不機嫌になり、4、5日ともなればほんの些細な事で妻につっかかってくるようになるという。そうなると彼は止まらない。人前で妻をなじったり、猛烈な癇癪を起こしたりする。ダイアンは彼の怒りに触れないようにいつも注意しなければならなくなる。

ダイアンは夫は悪い人ではない、という。それどころか愛情深い人だともいう。セックスに執着しているとはいえ、浮気をしているわけでもないようだ。しかし、ダイアンは泣きながら「もう、こんな生活は耐えられないわ!」ともいうのだった。23年間、夫のセックス中毒にがまんしてつきあった結果、彼女は家をでて離婚しようと決意した。デミアンはすかさず、「別れるなんてとんでもない!」と叫ぶ。彼は欲求が満たされているかぎりは、やさしい男性でいられるのだが、満たされないと、コントロールできそうにない不安に襲われて、陰湿な攻撃を始める。「彼はどこからか襲ってくる不快感を癒すためにセックスを薬として使っていたのである。」[p.80]

セラピーの効果はてきめんだった。デミアンは妻を支配することなく愛せるようになった。ダイアンも夫の変化を喜んだ。しかしそこで禁断症状が起きた。今まで押さえ込んでいたうつ病が表面化し、入院を考えなければならないほど、デミアンは精神的に落ち込んでしまったのだ。やがて自殺を考えるようにさえなっていった。

デミアンのうつ病の根は、彼が7歳から13歳の間、兄とその友人に性行為を強要されたことだった。彼は長い間その記憶から目をそらし封印してきたのだが、ついに思い出してしまったのだった。

デミアンのうつ症状が重くなり、著者は家族セラピーを決意する。彼の両親(彼らは息子たちの行動に気づいていたが何もできなかった)と兄を呼び寄せ、加害者、関係者を含めてトラウマに向き合うことを目指す。そうすることで治癒の道が開けるのだという。

兄ピーターも両親も、その出来事を否定した。が、泣きじゃくるデミアンを見るのが耐えられない、と兄がついに認めた。ピーターはデミアンに深く謝罪した。そのときからデミアンの回復が始まったという。

実は兄も、近所の男の子から同様の仕打ちを受けていた。一人で抱えきれない衝撃を、弟と共有せざるを得なかったのだろう。彼もまた被害者であった。著者は兄の地元の精神科医の協力をとりつけた。兄にもセラピーが必要なのは明白だった。

 デミアンのケースは、「隠れたうつ病」を癒す道が「表面化したうつ病」であることを如実に示している。まず、嗜癖(しへき≒中毒:引用者)による防衛的行動を認め、それを止めることからはじめなければならない。するとやがて、隠蔽されていた痛みが表出してくる。デミアンの嗜癖行為の背後にはうつ病が隠されていた。そしてうつ病の背後にはトラウマが隠されていたのである。セラピーを通して勇気づけられた彼は、誇大化による自己防衛を止め、うつ病を表面化させると共に、そのうつ病の根になっていたトラウマと正面から向き合ったのである。[p.83]


「隠れたうつ病」の男性の自己防衛は、デミアンが妻のダイアンを深く傷つけたように、人間関係を崩壊させる。あらたなトラウマの種をばらまいているようなものだ。そして始末の悪いことに、自分がその被害をもたらしたという感覚が全くない恥知らずな状態でもある。デミアンも自分ではなく妻がおかしくなったと考えていた。

この本にでてくる男たちには二つの特徴がある。一つ目が恥知らず、である。妻が入院したそのとき、若い娘とホテルでお楽しみだった60過ぎの男(しかもそこに電話したのが長男だったり)。妻が長電話しているだけでブチ切れる男。自転車で前を走っている人を追い抜いていい気になっている男(大人です)。恥知らずの見本市である。そしてもう一つの特徴が、デミアンのケースでいえば「セックスを薬として使っていた」こと。つまり、本書でも後のほうで言及があるが、ある行為を通して「救い」を得ようとしているのだ。そしてそう考えれば、何でもコントロールしないと気が済まないとか、人の気持ちを無視して独裁者のように振る舞うとか、ちょっとのことでえらく不機嫌になるのも理解できる。なんといっても自分の人生が救われるかどうかの問題なのだから。

そこで「ゆっくり生きろ」が重要になる。

 心の病を癒すためには内面の病根を正視しなければならない。精神分析とは科学でも芸術でもなく、根源的な意味でのモラルと関わることだった。それぞれの人が「生きる道」を発見する手助けをするのが、セラピーというものである。男性のうつ病は、人生のいくつもの分岐点で横道にそれてしまった行動の集積だ。癒しへの道は、そのひとつひとつを拾い上げて軌道修正していく、忍耐のいる作業である。[p.229]


そう、むしろゆっくりしか手がない、とも言える。冒頭にあげた斎藤和義の「歩いて帰ろう」の歌詞に「ウソでごまかして過ごしてしまえば、頼みもしないのに、同じような朝がくる」とある。人生の中で「忍耐のいる作業」が求められるから、つい「ウソでごまかして」しまうというわけだ。

話はちょっと変わって、デミアンの体験は過激で特殊なもので一般的ではないのでは、という疑問に、著者は、両親が二週間不在だった一歳児の記録を例にだしながら、こう答える。

 サラエボやソマリア、また大都市のスラム街で育つ子供たちが体験するものに較べたら、幸福な上流家庭で両親が二週間の休暇をとったために起きた傷など、取るに足らないことに見える。子供は逞しいものだ、困難に打ち勝つ術を学ばねば人生を生き抜けない、と私たちは言う。実際、想像を絶する過酷な環境を生き延びた子供たちも多い。しかし、そこに寄りかかって、子供が受ける傷に無神経になってもよいということにはならない。[p.105]


ま、「世の中甘くない」とか言う当の本人が、サラエボやソマリアからみれば甘い人生を送っているわけだしね。そうやって男の子にささいなことでも男らしさを要求することが、そしてその繰り返しが、彼らを深く傷つける。

 また、強くなろうとし、弱点を認めまいとする男の姿勢は自分以外の人に対しても適用されて、弱者への同情心が薄く、思い上がりの強い人間をつくっていく。人間らしい感情を失い、表現力を失うことは、こうしたさまざまなかたちで他者とのつながりの喪失を必然的に招いていくのである。
 多くの女性が自分が受けてきた抑圧をひとつひとつ認知し、自己を有力化(empowerment)する術を見出すことでうつ病から回復してきた。男性は断ち切られた感情を蘇らせ、自分とのつながりを取り戻し、人とのつながりを学び直すことが回復への道なのである。[p.160]


恥知らずで、救いを求めて右往左往する人生が幸せであるわけがない。人は弱いから、そういう人生を生きてしまうこともあるだろうけど、希望は持っていたい。

つづく。

書きました:その4(完)

2009年8月4日火曜日

男という病 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その2

承前:その1

cover
男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
本書で描かれる男性たちは、著者リアルのいうところの「隠れたうつ病」を患っている。著者は神話を例えにこう説明する。「ナルシスが自分の虚像に恋する姿は、私たちが銀行の預金額や外見の美醜や権力に執着する姿と同じである。「隠れたうつ病」は、健全な自尊心が欠如しているために起こる。欠けたものを外的な栄光によって補おうとしても、決して成功しないのである。(p.54)」

では症例を見ていこう。トーマスは56歳の会社重役であるが「数ヶ月にわたって不眠、焦燥感、集中力の減退という「表面化したうつ病」の症状に悩んで(p.56)」著者のセラピーを受ける事になった。かなりありふれた話だと思うので、簡単にまとめてしまおう。貧しい少年時代を送ったトーマス→三人の娘にそんな境遇を与えたくない→がむしゃらに働く→家庭を顧みない→他人のような親子の出来上がり→離婚→若い女性と再婚→三人の娘がみんな父から離れていく。こんな話だ。

あきれたことにこのトーマスという男は、娘たちが自分ではなく母親の味方だということに衝撃をうけて、うつ病が表面化したのだった。著者はこう分析する。

 トーマスのような成功した男性にとって、人間関係の崩壊を目の当たりにするまでは、仕事中毒の弊害を自覚し難いものである。娘たちに見捨てられた驚きがきっかけとなって、彼は急速に落ち込んでいった。娘たちの裏切りはトーマスの心を強烈に刺した。[p.55-56]


そうして家族セラピーが始まる。出席した娘たちは父に対して何の感情も持っていないと断言する。トーマスは皮肉な態度をとってみせるが、さすがに辛いようだ。

トーマスは娘たちに自分自身の事は何も話してこなかった。三女は泣きながら、よくは分からないが父は「とてもひどい目にあったのだって、感じるの(p.59)」と言った。

著者に「彼女は今、あなたが抱いている痛みを代わりに感じて泣いているのですよ(同)」と言われ、トーマスは過去を振り返る決意をする。

トーマスの母はアルコール中毒だったようだ。彼女は毎日酔いつぶれて眠るのだった。トーマス少年は、彼女が生きているのを確かめるため、彼女の傍らでじっとしていた。

トーマスは娘たちとの関係を改善したいと願い、セラピーを受けにきたのだが、本当の問題は「心理的に親に放棄された幼児体験によって、トーマス自身も気づかぬうちに、一生を通じて自分の感情や人間関係から目を背けること(p.63)」にある。

ここで、著者の言う「隠れたうつ病」の仕組みをまとめてみよう。幼少の頃、自尊心を歪ませるような出来事がある。ここで著者はフロイトを引用しているが、まとめると、そのような人は自分を無価値であると感じ、強烈な劣等感を抱き、生存本能さえ打ち消して睡眠や食事ができなくなる。それが「表面化したうつ病」である。「うつ病は自分が自分を痛めつける病(p.64)」であるから、「自己免疫障害のひとつ(同)」であると、著者は言う。

そうしてうつ病を患うと、自分を無価値に感じるわけだが、患者の多くはそのように感じることそのものを恥ととらえ、周囲から隠そうとする。そして症状を悪化させる。しかし「トーマスのような「隠れたうつ病」の男性は自分自身からも隠す(p.65)」ので、その結果、無感情になってしまう。

「表面化したうつ病」は自分を無価値と感じ苦しんでいる状態。「隠れたうつ病」はその苦しみを必死になって否定している状態といえる。そして苦しみを否定するために、自分の価値を自分にも周囲にも証明しなければならなくなり、自分を大きく見せようとして文字通り命がけになる。

誇大化に逃避することによって恥を避けるパターンは「隠れたうつ病」の核である。このパターンは個人によってさまざまな異なるかたちをとる。[p.66]


仕事、財産、外見、名声、セックス。神の慈悲か、それとも悪魔のいたずらか、こういった行為が不安や焦りを一時的に静めてくれたりすることもあるようだ(もちろん静めてくれる前に失敗してしまうこともあるだろう)。しかし、いずれ効能が薄れる時が来る。一度得た財産が当たり前になってしまえば、再び無価値な自分が頭をもたげてくる。

もちろん誰だって財を成せば興奮するだろう。問題は、この手の行為がなければ自分を無価値に感じてしまう、ということだ。健全な自尊心をもっていれば、出来事の結果で自分の価値は左右されない。仕事で失敗して上司に怒られたとき、落ち込むのは当然でも自己評価が変わる必要はない。自分には限界があるし、次は適切に助けを求めるなりなんなりすればいい。

では、仕事上の立派な肩書きや、いかにたくさんサービス残業をしてきたかとか、値のはる珍しいものをたくさん食べたことがあるとか、偏差値が高かったとか、ケンカが強かったとか、犯罪まがいのことをしてきたとか、過激な性体験などが自己評価とガッツリ連動してしまっている人はどうすればいいのか。というところでつづきます。

その3

2009年8月3日月曜日

だらだらいくよ 書評・テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』その1

きれいなおねえさんが嫌いな人はいないでしょうけど、ガサツなオジサンは好きですか? 僕は大嫌いです。くしゃみするときに声出さないでください。というわけで、はい、今回もだらだら書評です。

cover
男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
今度の本の題名は『男はプライドの生きものだから』で、原題は"I don't want to talk about it"、「そんなこと話したくねえよ」だ。著者のテレンス・リアルは臨床心理士であり、主に家族、夫婦のセラピーを行っているという。夫婦間の問題についての著書が多いようだ。

本書はそのタイトル通り、男性が陥りがちな心理をテーマにしている。つまり男性は、「男らしく」振る舞うよう教育を受けてきたし、周囲からもプレッシャーをかけられるので、自分自身の感情を押さえ込んでしまう。その苦しさから、アルコールやセックス、そして仕事などの中毒行為に逃避し、自分や家族の生活をぶち壊してしまう。もし男性が自分自身の「女々しい」優しさや繊細さを受け止める事ができれば何も問題はないし、認めなくても、中毒行為に逃げなければ、うつ病の症状がでて医者にかかるようになるだろうし、そうして自分自身と向き合っていくだろう。が、多くの男性は自分のうつ病を自分自身から隠すために中毒行為に走る。そうして何年も何十年も傷ついた心を放置し、ある日、(年を取ったりして状況が変わって)中毒行為ができなくなると、無視されつづけてきたうつ病が一気に襲いかかり、ただでさえ壊れている生活にとどめの一撃がくわえられる事になる。この本では男性のある種の行いをそのように分析している。

以前にこのブログで書評したW・ポラック『男の子が心をひらく親、拒絶する親』と同じテーマの本と言っていい。本文中にもポラックへの言及がある。そして訳者も同じなので、同じ問題意識でなされた翻訳なのだろう。ただし、本書のほうが先に訳されている。

この本で描かれる症例は、著者自身をも含んでいる。著者の父はとても横柄で暴力的な男であり、二人の息子たちは常に父の暴力へどう対処するのか考えながら行動しなければならなかった。著者は父に強い反発を抱え、弟は父を単純に避けるようになった。

著者リアルは20代をアルコールとドラッグに費やしてしまったという。それが、彼が自分のうつ病と戦うためにとった戦法だった。死の危険もあった。それでもやがてセラピストを志していくわけだが、その過程で父と対話することを試みる。始めのうち、父は怒りと否定以外の感情を表現することを拒むが、息子は父の怒りをというか父親をもはや恐れていない。恐れを抱えているのは父のほうであり、息子は父の恐れをやさしく肯定する。そうして時間をかけながら、父は息子に少年時代の苦しかった日々、親に、大人に拒絶された日々のことを語り出す。その苦しみを誰にも話せなかった苦しみを吐き出す。

著者と父の話は実に感動的だ。父は世をすねて他人を見下して生きていたわけで、そんな人が老境に至り、今までバカにしてきた息子に助けられながら、「人生に大切なのは愛だ」「俺のようにはなるな。家族を大事にしろ」と息子たちに言い残して死んでいくのだ。もちろん彼が家族の生活を無茶苦茶にしてきたことが帳消しになったりしない。終わりよければ、という話でもない。それでも、どんな状況でも前を向けるんだ、と素直に思いたい。

さて次回からはこの本に載っている「症例」の中から、いくつか紹介していきます。自分と、あるいは身の回りの誰かと似ているケースがきっとあると思います。

その2

2009年8月1日土曜日

集中すること、待つこと。書評なのかな? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その5(完)

承前:その4

ジョシュはまわりからのプレッシャーが増えていくなかで、ジャック・ケルアックの作品を通じて東洋思想に(いささかエキセントリックな)興味を抱き、やがて老子にであう。18歳の少年にとって、「老子は、物質的な欲求に対する自分の複雑な思いをほぐしてくれた[p.96]」という。

古代中国の思想をもっと学びたいという思いで、ジョシュはウィリアム・C・C・チェンという人の太極拳のクラスに入る。当初はテレビでよく見るようなゆったりした動きの訓練を受けていたのだが、その学びの早さと深さから、ジョシュはpush hand クラスへ入ることを勧められる。

push hand というのはどうやら投げ技が中心の格闘技のようだ。(参考動画)本書によると、大会は一日で行われ、ケガを負わずに勝ち進むのはかなり難しいのだそうだ。

心優しいチェス少年のジョシュがそんなものに挑戦するのもすでに驚きだが、彼は数年のうちに全米チャンピオン、そして世界チャンピオンになってしまうのだから、なんだかもうあきれてしまう。しかも自分の体重に比べて重い階級に挑んだというんだから。

太極拳のチャンピオンへの道はまるでドラゴンボールなんだけど、相変わらずジョシュは優しい青年のままだ。学ぶことが人の感情と密接に関わっているという、彼の心に深く根ざしたアイディアをもとに、彼は早く深く学ぶあり方を探っていく。

それは僕が読むところでは、強がったり悪ぶったり、世慣れた風を装ったり、知ったかぶりをしたりするようでは何も学べない、ということだ。そんなの当然だろ、と思ってしまうところに僕の浅はかさがあるんだなと痛感してます、ハイ。

より実践的には次の三つのステップで学習を深めていく。まずやる気をなくすような事が起きても真正面から対応したり、あるいは全否定したりしない。慌てない。感情を爆発させない。力を抜いて、やり過ごす手を考える。ちょっと顔でも洗って気分転換しよう。散歩するのもいい。

次に逆境を利用する。猛獣に立ち向かうような勇ましさではなく、逆境におかれた時にしかできないような事を考える。ジョシュの場合、利き腕である右腕を負傷してしまった時、ケガの治療に専念するのではなく、それと並行して、左腕一本で相手の攻撃を無効化する練習に取り組んだという。平常時ではなかなか思い切った特化というのは踏み切れないものだからこそ、逆境を利用しない手はない、というわけだ。

そして三つ目。それは己を知ること。自分が特に集中できた状況をよく観察して、その原因を知ること。そうすれば、自分にとって優れた環境を意図的に造り出すことができる。本書の例では、あるバスケットボール選手の場合、敵地でブーイングを浴びてると調子がいいことに気づき、相手チームのファンを挑発するような仕草をしたりするんだそうだ。これはたぶん、自分を刺激するストレスの種類を見分けよう、ということなんじゃないかと思う。時間的なプレッシャーだったり、怒りであったり、恐怖や不安であったり。感じてしまうと身動きが取れなくなるようなイヤなストレスは上手に避けて、良い刺激になるようなストレスを選びとっていくということなんだろう。ジョシュの示唆するところでは、何らかのかたちで緊急事態を連想させるような状況が、人をぐんと集中させクリエイティブな状態にさせるという。なので肉体的なストレス、空腹とか疲れとか、から探っていくといいかもしれない。

本書はジョシュのパーソナルな話と、プラクティカルな話の両方が上手く組み合わさっていて、読んでいてとても楽しかった。どちらの話にせよ、この書評もどきで扱ったものはほんの一部でしかないので、とても読み応えがあると思います。

最後にジョシュのいいやつっぷりが最も良くでてると僕が勝手に思ってる箇所を引用して、このだらだら書評を終えよう。

cover
The Art of Learning
Josh Waitzkin
My answer is to redefine the question. Not only do we have to be good at waiting, we have to love it. Because waiting is not waiting, it is life. Too many of us live without fully engaging our minds, waiting for that moment when our real lives begin. Years pass in boredom, but that is okay because when our true love comes around, or we discover our real calling, we will begin. Of course the sad truth is that if we are not present to the moment, our true love could come and go and we wouldn't even notice. And we will have become someone other than the you or I who would be able to embrace it. I believe an appreciation for simplicity, the everyday --the ability to dive deeply into the banal and discover life's hidden richness-- is where success, let alone happiness, emerges.

拙訳 ( )内はすべて引用者による。:
(突然大きなチャンスが訪れたらどうすればいいのかという疑問に対して)僕の答えは、質問をよく見直してみる、というものだ。僕たちは待つことが得意にならなきゃいけないだけじゃなく、愛さなくてもいけない。というのも、待つことは待つことじゃなくて、人生だから。僕たちの内の多くの人が、その精神を遊ばせたまま、本当の人生が始まるのを待っている。退屈のうちにいく年も過ぎていくが、それでいい。だって、本当の恋人に巡り会えた時に、あるいは天職を見つけ出した時に、僕たちの人生は始まるのだから。もちろん、残念な真実として、その決定的な瞬間に僕たちが居合わせなければ、生涯のパートナーはただ通り過ぎるだけだし、僕たちも気づくことさえないだろう。そして僕らは、その瞬間をものにした僕やあなたとは、ちがう人物になってしまっているだろう。それでも、僕はシンプリシティ(単純さ)に価値があると信ずる。平凡さのなかに深く潜って人生の隠された豊かさを発見する能力があれば、日常こそが成功とそして当然幸福が、現れる場所になる。

2009年7月27日月曜日

二つの道 書評じゃないよ・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その4

承前:その3

ストレスフルな状況に接したときに、自分の感情(怒りとか、つらい、寂しいという気持ちとか)を否定すべきではない、とジョシュはいう。そうではなくて、自分に対する攻撃的な要素を自分のために利用するべきであるという。が、彼自身認めるところだが、そんなことは簡単にはできない。

今日は、あの『ボビー・フィッシャーを探して』の少年がなぜチェスを辞めてしまったのか、という話。

ジョシュが16歳のとき、チェスプレイヤーとして次の二つの道のどちらかを選ぶことになった。それは、より攻撃的な戦い方を身につける道と、彼自身の持ち味をのばす道。
あの映画を見た人ならば、ここで不思議に思うだろう。そんなの決まっているじゃないか。選ぶ必要なんかない。ジョシュはジョシュらしく戦うことで勝利してきたんじゃないか。

映画のなかで、ジョシュの母はとても賢く愛情深い女性として描かれているけれど、本書によれば、彼女、ボニー・ウェイツキンはそれ以上の人物であるようだ。

彼女は動物たちと瞬間的に仲良くなってしまうムツゴロウさんのような人でもあるらしい。田舎に旅行した時の話で、牧場の人は馬がおびえたり騒いだりしていると、ボニーを呼んでなだめてもらうのだそうだ。

ボニーによると、馬をなつける方法は二つあるという。一つは馬が逃げないようにロープでつなぎ、馬が我を忘れるような騒音をたてて脅す。馬はやがて疲れきって服従するようになる。「衝撃と畏怖」と呼ばれる方法だ。

もう一つは馬と正面から対峙することなく、やさしくなでる。食べ物をあたえる。毛繕いをする。やがて馬はなれてきて、あなたを好きになる。馬の魂を壊さずに、馬を、時には成長しきった馬でさえも、そうやって手なずけることができる。こうしてできた人と馬の関係では、個性が塗りつぶされるというようなことはない。

にもかかわらず、ジョシュのチェスプレイヤーとしてのキャリアは、「衝撃と畏怖」の道を行くことになる。あの映画の反響が、ジョシュとそのまわりの人々にそのような選択を迫った部分もあるようだ。そしてその結果ジョシュは、「競技者としての重力の中心を失った(I lost my center of gravity as a competitor.)[p.87]」のだった。

つづき:その5

2009年7月22日水曜日

読んでみた・ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』

"The Art of Learning"はちょっとお休みで、今回はジル・ドスタレール『ケインズの闘い』について。

何せ五千円以上もする本なので図書館で借りて、で、もうすぐ返さなければいけないので、急いで感想など。

cover
ケインズの闘い
ジル・ドスタレール
ジョン・メイナード・ケインズが誰か、なんて説明はいらないだろう。とにかく市場に任せておけば全てはやがて効率的になる、という古典経済学に反旗を翻した人だ。この本はケインズの伝記のようなところもあるけれど、重点が置かれているのは彼の思考や主張で、友情や恋愛など人間関係はそこそこ詳しく描かれるものの、あくまで彼の考えの道筋を説明するためのものだ。

そのケインズの考え方の基本は、「不確実性の性格を考慮すると、将来の善のために現在の幸福を犠牲にすることには危険がともなう」[p.208]というものだ。有名な「長期的にはわれわれは皆死んでいる」というやつですな。この考え方があるので、彼は計画経済、つまり共産主義を敵視したし、物事が時空を超えて理論通り振る舞うと信じきっている古典経済学を攻撃したわけだ。

とはいえ、ケインズとその仲間たちの話もかなり面白い、が、それは実際に読んでもらった方が100倍楽しいこと間違いなしなので書かないで、ここではケインズとケインズ以前の経済思想をさくっとみてみよう。僕は経済学を専門的に勉強したことはないので、まったく的外れなものになる可能性大なのでご了承を。

なんといっても経済の大問題は失業だ。失業を放置すればやがて国が傾く。では、ケインズ以前の経済思想は失業をどうみていたのだろう。

セイの法則で有名なフランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは、供給があればそれと同じだけ需要もあるので、非自発的失業は存在しない、という考え。ま、古典的ですね。無茶いうな、という気もします。

次にデイビッド・リカード。イギリスの人ですね。ミスター比較優位。彼は、生産力が短期的に跳ね上がると失業が発生することがある、が、需要が足りないということなどありえないと主張。リカードはラッダイト運動(紡績機ぶち壊し運動)にある程度共感してたそうで、これは驚きだった。なんとなく自由主義を愛するオジサン、というイメージだったので技術革新にはもちろん肯定的なのかなと根拠なく思ってた。やり手の商人だし。

セイとリカードに共通しているのは、需要不足の否定、だ。貯蓄は将来の消費であるから、その分需要を生む。なので貯蓄=経済発展。だから金持ちの貯蓄は美徳である、と。

そして最近じゃすっかり偽予言者扱いのマルサス。この人もイギリス人。彼は貯蓄の購買力(お金の量)だけが問題なのではなく、買う意欲も重要だ、と考えていたそうで、つまり有効需要のアイディアですね。お金を貯めるだけで使わない人がいれば、そのお金の分失業が生まれる。買う意欲(=需要)が足りなければ失業が発生してしまう。だから買う意欲のないケチンボをなんとかしなきゃ、と。

そしてケインズはこのマルサスの考え方を完全に受け継いでいて、その最も過激な主張が、金利生活者の安楽死、というアイディアだった。まあ本気かどうか知りませんけど。さらにマルサスといえば『人口論』、人口は幾何級数的に増えるけど食物は算術級数的にしか増えないからアレだ、というアレですがケインズはこの見方にも共感していたそうな(wikipediaのリカードの頁をみたら彼もマルサスの人口論には賛成していたそうです。当時はすごく説得力が感じられたんですかね)。

cover
雇用・利子
および貨幣の
一般理論
J・M・ケインズ
ケインズはリカードをずいぶんこき下ろしていて、マルサスではなくリカードが学界で地位を確立したことで経済学は100年遅れた、とまで言っている。また、のちに『雇用・利子および貨幣の一般理論』とよばれる本の校正をしている時、ケインズはバーナード・ショウに、自分の新しい理論によって、「マルクス主義のリカード的基礎は打ち壊されるでしょう」[p.435]と言い、さらにヴァージニア・ウルフには「古いリカード体系が打ち捨てられ、すべてのことが新しい基礎のうえに築かれるのをあなたは見るでしょう」[p.436]と言ったという。

ケインズによれば経済を発展させるのは貯蓄ではない。貯蓄はケインズが唾棄しつつも慣れ親しんだヴィクトリア朝のいやらしい偽善的な道徳であって、人々にとって有害である。アニマルスピリットに導かれた投資こそが経済を発展させる。また、貯蓄は格差をいっそう拡大し、永続的なものにしている。だからこそ、金利生活者に安楽死を、という過激な主張がうまれたようだ。

ケインズ自身はエリート主義な人だった。そのせいか労働者の自己責任みたいな話には我慢ならなかったようだ。本書の最後の文を引用しよう。

 ケインズの見るところでは、貧困・不平等・失業・経済恐慌という問題は、外生的な偶発事でもなければ、不節制に対する懲罰でもなく、むしろそれは、十分に組織されていない社会や人間的誤謬の結果である。したがって、大きな改革の実行によってそうした問題を緩和すること、あるいはそれを解消することは、都市国家に集結した諸個人の手にかかっている。このような改革は、われわれが今日知っている資本主義経済の状況のなかで可能なのだろうか。ケインズは、それが可能であると信じていたか、あるいは少なくともそうであることを望んでいた。<福祉国家>の確立は彼が正しかったことを証明したように思われたけれども、情勢は一変した。それでもなお、資本主義の健康状態についての彼の診断ーー今となっては半世紀以上も前に提示されたことになるーーは、これまでよりもさらに適切なものとなっている。将来に何が起こるかを知っていると主張することは、誰にもできない。しかしながら将来をつくることは、われわれの手にかかっている。おそらくこれが、ジョン・メイナード・ケインズの主要なメッセージである。
[p.570]

 

2009年7月17日金曜日

書評? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その3

承前:その2

もう書評じゃないよなあ。今回は太極拳の話に行く前に、ジョシュの転機になった出来事についてです。

インドでのチェスの大会の時、ジョシュは16歳なのだが、大事な試合中に突然、地震にみまわれる。まわりの人々は急いで建物から出て行ったが、ジョシュはそこに残り、どうすれば勝利できるのか考えていたという。

その時の様子を、彼は次のように語る。

cover
The Art of Learning
Josh Waitzkin
Everything started to shake and the lights went out. The rafters exploded with noise, people ran out of the building. I sat still. I knew what was happening, but I experienced it from within the ches position. There was a surreal synergy of me and no me, pure thought and the awareness of a thinker ---I wasn't me looking at the chess position, but I was aware of myself and the shaking world from within the serenity of pure engagement--- and then I solved the shess problem. Somehow the earthquake and the dying lights spurred me to revelation. I had a crystallization of thought, resurfaced, and vacated the trembling playing room. When I returned and play resumed, I immediately made my move and went on to win the game. [p.53]

拙訳:建物が揺れはじめ、明かりが全て消えた。屋根の木材がものすごい音をたてていて、人々は建物の外へ逃げ出した。僕はじっと座っているだけだった。何が起きているのかちゃんとわかっていた。でも僕は地震をチェスの駒の配置の中から感じていたのだった。それは僕と僕でないもの(純粋な思考と、思考するものの気づき)の非現実的なシナジーだった。僕はチェス盤を眺めている僕ではなく、純粋な没頭の持つ静けさの中から、自分自身と地震で揺れている世界を認識していた。理由はどうあれ、地震とそれに続いて明かりが消えたことが刺激となって、僕は啓示を受けたのだった。僕は水晶のように明晰な思考に入り込んでいたけれど、我に返り、まだ揺れている会場を後にした。そして試合が再開されると、僕は席に座り、すぐさま一手打ち、一気に勝利した。


なんだかスーパーサイヤ人誕生! みたいなシーンだけども、ジョシュは自分の意志でこのときの明晰な状態に入れるようになりたい、と考えた。そのために「気をそらすもの」に対処しなければならないのだが、ジョシュの経験した地震はそうとうに大きな「気をそらすもの」なわけだ。にも関わらず、ジョシュは心をクリエイティブな状態に保っていた。つまりジョシュの発見は、「気をそらすもの」への対処の仕方によって、人のパフォーマンスは劇的に変化する、ということだ。喫茶店でおばちゃんが騒いでて本に集中できない、バイクの音がうるさくて勉強が続かない、というようなことから、大きい地震がきているのにトップレベルのチェスの試合に勝ってしまう、というようなことまで変化の幅は大きい。

そうしてスーパーサイヤ人になるためのロードマップをジョシュは示しているのだが、それによると、まず何が起きても(作業なり何なりを)続けられるようになり、その後に、何が起きてもそれを自分の有利なものにしてしまえるようになり、最後に、完全に充足した状態で自分で何かを起こして、それを刺激にクリエイティブな状態になれる、という。

さあ、だんだんアヤシクなってきましたね。つづきます。

つづき:その4