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2011年8月6日土曜日

CPI改定直前、デフレが続く

7月の終わりに発表された消費者物価指数(CPI)を確認しておこう。

概況
(1) 総合指数は平成17年を100として99.9となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は0.2%の上昇となった。

(2) 生鮮食品を除く総合指数は99.7となり,前月比は0.2%の下落。前年同月比は0.4%の上昇となった。

(3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は97.3となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は0.1%の上昇となった。

前年同月比は3つの指標とも上昇しているのものの、小幅なものでしかない。しかも、消費者物価指数は基準年の改定が近づいているのだ。

CPIの誤差を是正する手段は幾つか導入されているものの(参照)、今のところどうにもならないのが時間経過による誤差だ。なので五年に一度、物価の基準年が改定され、各商品等のウエイト付も変更される。

前回の改定は2006年に行われ、基準年が平成17(2005)年になった。その結果、CPIは改定前よりも0.5%押し下げられた。つまり2006年頃には見かけ以上にデフレが深刻だったということだ。にもかかわらず、日銀は、改定前にCPIがプラスであることを理由に、量的緩和政策を解除してしまった。

さて、今回の改定を目前に控え、内閣府は次のような発表をした。

現時点で把握できる品目の入れ替えや、指数の基準時を2010年に変更することの算術的な効果(指数のリセット効果)を踏まえ、消費者物価のコアとコアコア指数を試算すると、2011年1~6月の前年同期比は平均で-0.7~-0.8%ポイント前後の押下げ効果が見込まれる。

ということで、おそらく今現在の物価状況はCPIの数字より相当低そうだ。日銀が前回のような暴挙に出ることはないと思うけど、これを放置することだって十分暴挙といえる。

ちなみに経済財政報告では、CPIの改定について触れたすぐあとで、デフレ脱却のための処方箋を載せている。

物価動向を規定する要素として、需給ギャップとともに重要な要素は人々の期待物価上昇率の変動である。将来的な期待物価上昇率が安定していれば、例えば一時的に石油価格が上昇しても他の価格には波及しにくく、物価全体としてはインフレになりにくい。逆に、人々が物価下落の長期化を予想すれば、需給状況が改善しても最終価格への価格転嫁は難しく、デフレ傾向は改善し難い。すなわち、デフレ脱却のためには人々の期待物価自体を安定的なプラスにする必要がある。
同上 (上のリンク先からちょっと下の部分をみてください)

さらに巷で噂のデフレ人口減少原因説についても、

(略)生産年齢人口が減少している日本、ドイツ、エストニア、ハンガリーについては、物価上昇率はまちまちであり、5%を超える物価上昇率のハンガリーから物価下落の日本まで相当の幅がある。ここでも、生産年齢人口の減少と物価下落が併存しているのは我が国だけである。
こうした単純な相関関係を見る限り、生産年齢人口が減少しているからといってデフレになるとはいえない。生産年齢人口の減少が物価下落に結びつくための仲介的な、第三の要因があって初めて、我が国のような生産年齢人口の減少と物価下落の併存が生じていると考える方がよさそうである。

とバッサリ。

前回のエントリで高橋洋一さんの「ちょっと風が吹けばリフレ政策が実現する可能性がでてきます」という言葉を引いたけれども、ホントそんな感じ。

とりあえず改定後日銀が何を言い出すのか、野田大臣ばりに注視していきたい。

2010年4月26日月曜日

CPIの誤差について

 先日、2月の消費者物価指数について書いたエントリに、Agitさんからコメントを頂いた。引用させてもらいます。

CPIの上方バイアスについてなのですが、様々なところで「1%くらい大きめの数字が出てしまう」という意見をよく聞きます。
最近また聞くようになったのは自民の山本幸三議員が国会で持ち出したからだと思いますが、これ多分日銀の白塚重典氏の推計(0.9%)から来ている数字ですよね?
しかしあの推計は「多くの大胆な仮定の上に試算した結果で」あり,「数値は,必ずしも精度の高いものではないとの点は十二分に念頭におく必要がある。」と本人が書いていたと記憶しています。
例え「大胆な仮定」が全て当たっていたとしても、推計が発表されたのは1998年で、CPIが1995年基準だった時の事です。
あれからもう2回も基準改定があり、ヘドニック法も一部の品目で採用され、中間年見直しまで始まってるわけで、当時とは全然状況が違ってますよね?
実際白塚氏本人が2005年に「上方バイアスは、縮小方向にあると考えられる。」ってペーパー書いてますし、そもそも「CPIの上方バイアスについては、その大きさを固定的なものと考えることは適当でな」いと書いてます。
いつまでも0.9%という数字が一人歩きしている事のほうが問題ではないかと思うのですが、いかがお考えでしょうか。

 もう僕のバカさ大爆発で恥ずかしいんだけども、CPIには1%くらいの上方バイアス、と丸暗記状態でした。で、ちょっとだけ調べたのでそれをまとめます。

CPIの問題点


 従来から指摘されていたCPIの問題点を、ここにある宇都宮浄人氏の文章をもとに挙げてみる。
 
 1. 品質の変化
  
 2. 新製品

 これが全部ではないけれど、「日米いずれの計測結果でも、最も大きなバイアスが生じているとされた部分は、 品質調整及び新製品の登場にかかる部分である」、と本文中にもあるのでとりあえずこれらをみていこう。
 

改善策


 品質の変化に対応するために導入されたのが、ヘドニック法というものなんだそうだけど、この総務省の統計調査部の人たちの文章(ヘドニック法について(PDF))を見ると、パソコンなど品質の変化が激しい製品にこのヘドニック法を適用しているそうな。で、宇都宮氏は、ヘドニック法を不用意に使うと今度は下方バイアスがでる可能性を指摘していて、こうした懸念に対して総務省は、国際的にみて日本のCPIはヘドニック法を適用している商品の数が多いわけではないので、問題があるとは言えない、とのこと。あと、宇都宮氏は消費者の選択肢が少ない(あるいは無い)場合に、機械的に品質の変化を織り込んでいくと、変化を過大評価することになるのでは、とも述べている。しかし現状では、ヘドニック法以外に品質の変化に対応する方法がないようだ。
 
 そして、新製品が出てきた時の対応としては、総務省統計局のページを見ると、

Q. 新しい製品が次々と登場しますが、それらの価格変動が反映されていないということはないですか。

A. 調査銘柄については、各品目において代表的な銘柄の出回り状況を調べ、調査銘柄の出回りが少なくなっている場合には、出回りの多い銘柄に変更します。この変更は定期的(年2回)に行っていますが、例えば調査銘柄が製造中止になって後継の新製品が発売されるなど、出回りが急速に変化する場合は、定期的な変更時期以外でも調査銘柄の変更を行い、新製品の迅速な取り込みを図っています。このような調査銘柄の変更は、毎年数十件程度行っており、常時、品目を代表する銘柄の価格をフォローする仕組みになっています。

消費者物価指数に関するQ&A


どのくらいのバイアスがあるのか


 で、どの程度のバイアスがあるんだろうか? 正直よくわからなかった。1998年に白塚重典氏がCPIの上方バイアスは0.9%と発表してから、現在までに改善策が打たれてきたわけだけど、その結果どうなったのかはよくわからない。無視できる程度なのかそうでないのか。
 
 安売りに対応できているのか、とか、一品目一銘柄で実態をうまく観察できるのか、という論点もあり、誤差の問題は当然つきまとうわけだけど、改善策が打たれたのだから、以前よりは精度が上がったとみていいと思う。

 もちろん、誤差が狭まっていてもデフレであることにかわりはない。でも「日銀は上方バイアスを無視している」という批判は的外れかもしれない。

Agitさん、ご指摘ありがとうございました。

2010年3月31日水曜日

寒かった3月。相変わらずのデフレ。

 さて、寒かった3月も今日で終わって、2010年ももうすぐ4月。そして相変わらずの不況ニッポン。3月26日に発表された2月のCPI(消費者物価指数)はこんな感じ。

 (1) 総合指数は平成17年を100として99.3となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
 (2) 生鮮食品を除く総合指数は99.2となり,前月と同水準。前年同月比は1.2%の下落となった。
 (3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は97.4となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。

総務省統計局のページ

 何度も言われていることだけど、広く知られているとはとても言えないことと言えば、CPIには上方バイアスがあるってことだろう。なんといっても管大臣も知らなかったし。CPIはだいたい1%くらい大きめの数字が出てしまうというクセをもった指標だ。なので、三つのカテゴリーすべてで前年比マイナス2%というのが実情に近い数字だと思われる。つまり絶賛デフレ進行中だ。

 とはいえ、アメリカのコアCPIも前年同月比+1.3%ということなので(参照)、日本だけが苦しいわけでもないけど、日本だけがブッチギリでダメだ。

 デフレがなんでヤバイのかというのも何度も言われてきたことではあるけれど、その理由の一つが、借金が増えてしまうということだ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、例えば今日の1万円でりんごが十個買えたとすると、明日は二十個買えちゃったりするわけだ。これを借金で考えてみると、今日1万円の借金を返すのにりんごを十個売らなければならないとして、明日になると二十個売らなければ返せなくなってしまうということになる。

 責任、責任とかいって景気対策を拒んできた日本だけど、その間、国の借金は不当に増えてしまった。国が借金をして医療費や年金の支払にあてるのはしようのないことだと思えても、何もしないが故に現役世代の負担が増えるのは理不尽極まりない。

 いつの時代も政治力を持っているのは中高年以上の人たちだと思うけど、彼らはその辺のトコロどう考えてるんでしょうか。

追記(2010/April/14):CPIの上方バイアスについて、zajujiのお馬鹿ぶりがあらわに。コメント欄をみてください。

2009年10月8日木曜日

統計のもやもや

 世の中のことをわかってる人になりたい、と子供の頃はよく思っていて、大人の振りをよくしたけど、参考にした大人たちがかなり見栄っ張りで知ったかぶりする人たちだったので、思春期以降、おかしな振る舞いをなおすのにずいぶん苦労した。どんな話題でも、瞬間的に「そりゃそうだよ」と言いそうになってしまう。今はそういうのはなくなったけど、あぶないのが統計の数字を聞いたときだ。ついつい「統計上それはナントカだ」とか言いたくなってしまう。が、それをこらえてちょっと考えてみると、統計の数字だけではなかなか納得できない、もやもやした感じが残ることも多い。

 社会の変動を統計を通して見るのは社会科学では必須の作業だ。でも、これが難しい。先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだときも、統計ってこわいなーと痛感した。書評にも書いたように、実際に人が殺された殺人事件の統計は存在しない。なので、被害者数から推測したり、事件の性質から分類したりしなきゃいけない。つまり統計上の数字をそのまま議論に持ってくるのは危険だよ、ということだ。

 同じように、統計の比較も難しい。なんでも殺人事件の統計に毒殺を含めない国があるそうだ。こんなところにも、歴史的なバリエーションが生まれるんですね。一つの統計をそのまんま真に受けるとしっぺ返しを食らうかもしれないのだから、それを比較するのはそうとう慎重にならなきゃいけない。

 20代のとき就職難で非正規雇用しかなくても、30代ではちゃんとした職に就けている。だから景気と非正規雇用問題はあまり関係がない。雇用のミスマッチが起きている。という話を聞いた。その実際の数字を不勉強な僕は知らないけれど、なんかおかしいな、と感じた。まず思ったのは、景気が悪くなれば一番最初に削られるのが非正規雇用だから、非正規 / 正規で割合をみると、分子が減っていくので、そりゃ数字上は改善かもね、ということ。失業率との比較が必要な気がする。でも失業率は失業率で問題を抱えた数字だしね。

 次に思ったのは自殺者の数のこと(以下はここを参照)。自殺が景気とはリンクしていない、という研究もあるようだけど、日本の場合、やはり97年に激増していて、そのときの水準から戻ってきていない。たしかに自殺者数はこの10年間の失業率にはリンクしていないけど、不景気と無関係というのは考えづらい。というか、失業率と自殺者数の動きがばっちりつながっていないから両者は関係ない、と言えちゃうんだろうか? いや、それはここではいいや。そうじゃなくて、30代の自殺は一貫して増えている、ということが言いたかった。団塊ジュニアの数が多いから? とも思うし、確かに団塊ジュニアの先頭(1970年生まれ)が30歳になった2000年以降20代の自殺は減り始めるんだけど、2003年になると微増、そして横ばいになっていく。これは世代のボリュームだけでは説明はつかないんじゃないかな。というか、若い世代の人口が減っているのに、10、20、30代の自殺者数(割合ではなく)は横ばいか増加ってなんか怖い。

 田中秀臣先生がブログで書いていた。

まだ僕の本務校は統計とってる真っ最中ではっきりいえないんだけど、他の大学の来年3月卒業の学生の就職率がどうも実質ベースで10〜20%程度前年比で低下しているという情報がある。このブログたぶん多くの大学教員がみているはずだから、学生の就職状況がちょっとまずいのは直感でもわかってるんじゃないか、と思う。

 高卒の方はかなり深刻化しているわけで、この事態をみてまだメディアとかは「雇用のミスマッチ」とかたわけたことを書いている。そりゃ、見つかりますよ。この不況だって構造的に人材難もしくは待遇低くて人手が来ない企業なんて日本にごまんとあるから。


 正規雇用が増えたのは、景気が悪いので、非正規雇用が削られ、ひどい待遇でも我慢してる人が増えたからかもしれない。いやこれもそういうことが言いたいのじゃなくて、30代で正規雇用の割合が増えたとして、それを不景気で説明することもできるよ、ということが言いたかった。そして自殺者数の推移は、待遇の低さや本当の失業者数を示唆しているのかもしれない。

 以前書いたんだけど、オバマ政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長のクリスティーナ・ローマー先生が、職の数だけじゃなくより良い職を作り出すことが重要だ、と力説してた。それが景気対策なんだ、と。

 さらに勝間和代さんとの対談で飯田泰之先生は「効用とは心で感じる満足度」であり「効用は経済学では重要な概念」と言っている。たぶん、統計の数字で議論をひっくり返しても、それが人々の効用を反映しているものでないとあまり説得力はないんだろう。といって効用を計る手段はなくて、統計を参考に推測するしかない。なので僕のような粗忽者としては、いい加減なこと言っちゃうフラグが立ちまくりで、まあこれまで通りこれからもいい加減なことは言っていくんだけども、やっぱり今生きている人の効用が大事だよね、長期的には我々は皆死んでいるんだから、と思う。んで、統計の数字が話題になるときに感じるもやもやは、統計がどうしても長期的な視点になりがちだからだろう。二年くらいの統計を真に受ける人はあんまりいないだろうし。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール

 最近、ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』を読んだときのメモを読み返していた(感想)。で、ケインズの貯蓄に対する考え方のまとめがあった。彼は貯蓄する意図を問題にしていた。そりゃ長期的には貯蓄は将来の消費と同じだろう。お金を貯め込んだ本人が死んでしまえば、遺産として家族の手に渡りいくらかは消費されるだろうし、一部は税金として吸い上げられて公共サービスの維持なんかに使われるだろう。でもそれはもうずいぶん気の長い話だ。実際にはお金を貯め込むような人は消費もしないし、リスクの大きい投資もしない。ので、人の一生程度の時間では、貯蓄は格差をいっそう拡大させているし、なんだかんだいって世代を超えて受け継がれている(つまり長期的に貯蓄=消費というのは理屈だけで、実際は違う)。

 だからケインズは「長期的には我々は皆死んでいる」と言ったわけだ。だから今すぐなんとかしなきゃ、と。長期的には貯蓄は消費だし、北海道の失業と沖縄の求人だって、長期的にはマッチするだろう。では、貯蓄が消費に変わるまで、僕たちは10年も20年も待ち続けなければいけないのだろうか。待つことに失敗してしまったら、それは自己責任なんだろうか。もし待たなければいけない時間が100年だとしたら、運が悪かったとあきらめるしかないのだろうか。

 長期的な視点から現状を肯定するのは危険だ。統計が話題になったときのもやもやは、僕たちがその危険をなんとなく感じとったということなんだと思う。

2009年10月2日金曜日

殺人の条件・書評・河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』

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安全神話崩壊の
パラドックス
河合幹雄
 90年代後半から犯罪が激増したとか、増えはしてないけど凶悪化した、という説は誤りである。これはもう旧聞に属すると言っていいだろう。しかしそれでは、何がどうなってそのような説が世に出てきたのだろうか。今回読んだ本、河合幹雄著、『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』はその疑問にとても真摯に取り組んだ労作だった。本書を読んだ率直な感想は、増えたとか増えてないとか、そんなに簡単に言うんじゃない! というものだ。
 
 本書は前半と後半に分けられる(と僕が勝手に思ってる)。前半では統計資料をこれでもかというくらいに丁寧に読み解き、これでもかというくらい丁寧に解説される。後半には日本が安全な社会である理由、そしてその社会はこれからも安全なのかという問い、さらに今後どうすべきかについての指針の提案、となっている。

 前半の統計分析だが、これが実に見事だった。著者も書いているんだけど、専門家でもここまで詳しく見ている人はほとんどいないだろう。たとえば1996年から、確かに増えている犯罪がある。強姦だ。しかしここで統計の数字を真に受けるのはまだ早い。強姦には暗数、つまり被害者が泣き寝入りして発覚していない事件がかなり多いと考えられる。そして、

強姦被害の泣き寝入りは減少してきているという感触もあるが、それが正確に何年からなのかは見当がつかない。これがもし1996年であれば、1996年が最低となり、その後が増加傾向にあることの一つの説明とはなりうる。被害者への社会的注目を受けて、性犯罪被害者の話を聞く警察の担当者が、ほぼ100%男性であったのを改め、希望者には女性捜査官が聴取にあたるように変えたことは、被害届を増加させたかもしれない。この動きの完成は2002年いっぱいまでかかっているが、開始したのは、おそらく警察庁が「被害者対策要綱」を作成した1996年2月以降であろう。認知件数増加時期とは一致している。いずれにせよ、強姦認知件数の変化は、放火同様、経年変化を論ずるには正確性に問題がある。

[p.37]

 僕はこの説明を読んで、正直、犯罪が激増したと主張した人を責められないな、と強く思った。こりゃ絶対見抜けない。統計ってのはおっかねえなあと改めて思う。他にも90年代後半から統計上激増した犯罪がある。それは強制わいせつと器物破損だ。強制わいせつについても、痴漢被害者の扱いが近年改善されたことで、暗数が表に出てきたと考えられる。器物破損については、深夜に車が傷つけられた、というようなケースが多いようだが、この場合保険金の支払いの条件として警察への届け出が必要になっているそうで、保険の充実も認知件数増加の一因であろう。ここでもうすでに、こんなの見抜けるかあ! と言いたくなるんだけど、この二つの犯罪の増加はもっと急激なので、さらに別の理由がありそうだ。それは、警察が「前さばき」をやめたことだという。
 
「前さばき」とは、たとえば、上記のような自動車損壊事件のように、逮捕できる可能性が低い場合、書類を作らないで済ますことをいう。これは、手間をはぶいて、より逮捕可能性が高い、あるいは、逮捕の必要性が高い事件に人的資源を投入するために行われてきた。むろん、事件すべての増加の原因がこれあるとは言えないが、このような要因が混入してしまっては、犯罪実数の経年変化の検討には使用できない。

[p.41]
 
 さてこの「前さばき」は何で行われなくなったのだろうか。警察がそんなことを発表するわけはないから、当然予測をするしかない。殺人を除く各種の犯罪が一斉に激増するのは2000年。
 
(警察が:引用者)前年の1999年10月の桶川ストーカー殺人事件等への対応として、被害届を原則すべて受理する方向になったのであろう。なお、統計の取り方が年初に変わったのではなく、たとえば4月からであると、2000年には、その変化の8ヶ月分の影響が出て、2001年には12ヶ月分の影響がでる。したがって、2001年もかなりの増加があるのは、そのためと理解可能である。この仮説が正しいならば、2002年には落ちつくはずだが、一般刑法犯の増加傾向はわずかになっている。そこで警察庁の『犯罪統計資料』によって月ごとの認知件数を調べてグラフ化した(図は略です:引用者)。見事に2000年4月から5月にかけてジャンプしているが、それ以外は月ごとに横ばいであることが確認できる。4月に通達が出されそれが5月に各警察署に浸透し、安定状態に達したのであろう。統計の取り方に変化があったことに十分注意する必要がある。

[p.44]

 ここまできてしまえば、素人が統計の数字をもてあそぶことの危険性、赤っ恥確率の高さにドキドキしてしまう。というか、プロだって数字の変化を追うだけということも多いんじゃないだろうか。現実に何が起きているか、それはわからない。だから統計を使うわけだが、使ったからわかるということでもない。自戒を込めて、数字の扱いには要注意、と書いておこう。
 
 では凶悪化のほうはどうだろう。これはもう殺人事件の数で調べるのがいいに決まっているのだが、これもまた困ってしまう話ばかりなのだ。殺人事件は年1300件以上ある。すごく多く感じるが、実はこの数字には殺人未遂も含まれている。そして、驚いたことに、実際に人が殺されてしまった殺人事件(?)の統計は存在していない。
 
そこで、殺人によって殺された被害者の数を調べると、最近は600人台である。一度に何人も殺すことは可能だが、ほとんどの事件で、一事件で一人の犠牲者であろうから、殺人既遂事件数は、600件台かと思うとそれも大きく違う。この600件余りの内、最大のカテゴリーは心中である。

[p.48]

 これは子供を殺して自殺したケースや、親の介護に疲れ殺し、自分も自殺しようとしたが果たせなかった、というようなケースだ。なんというか、刑事ドラマの題材にはなりそうもないやるせない事件であって、一般に殺人事件と言ったときのイメージとはだいぶ違う。

 では量刑から見るのはどうだろう。殺人事件の検挙率はほぼ100%であるから、1300件ほとんどすべてが解決している。が、実際に刑務所に行くのは、たとえば2001年には583名だという。殺人を犯しても半数が刑務所に入っていない。そもそも判決が出たケースが731件で、そのうち135件で執行猶予がついている。判決が出ていないケースが600件くらいあるが、被疑者死亡(親子心中のケースなど)、心神喪失で不起訴、嫌疑不十分で不起訴または起訴猶予がそれくらいある。
 
殺人で執行猶予どころか起訴猶予があるのは驚きかもしれないが、むしろ、殺人事件には、加害者に同情すべき事情がある場合が多い。前期の介護がらみの事件は、社会にとっては実刑の必要はないが、本人が執行猶予されて帰宅したときに自殺といった結果を防ぐために、極めて短期の実刑にされたりする。誰かが面倒を見てくれるようだと執行猶予であろう。起訴猶予は、公判がないためにデータがなく、想像するしかない。唯一わかっているのは、心神耗弱による起訴猶予(2001年は3件)である。暴力団による殺人事件なのに起訴猶予がいくつかあるのは、組長に殺害を指示され拳銃を渡されたが実行できず、組にも帰れず警察に駆け込んだというようなケースであると想像する。拳銃を受け取った時点で殺人予備罪であるから統計上は殺人事件一件となるが、世間常識からすれば、殺人事件は回避されたと評価するのが常識にかなっていると考える。確かに、なるべく実行を思いとどまって警察に駆け込んで欲しいという刑事政策的観点からしても、また、拳銃の受け取りを拒むことが事実上は不可能であることも考えあわせれば、起訴猶予は頷ける。

[p.50]

 で、結局殺人事件らしい殺人事件はどれくらいなのだろう。これは本書を読んで欲しい。というかもう引用しすぎて疲れちゃった。本書後半の議論は前半ほどの説得力は感じなかったけど、妥当と思える指摘も多かった。前半以上に推測しなければならない要素が多いので、受ける印象は人によって大きく異なるのは当然だろう。面白かったのは、世話人が問題をなかったことにしてしまうという日本社会のシステムが、いや、これも読んでもらうしかないだろう。
 
 本書は残念なことに値段が高い。ので僕は図書館で借りた。一般の人が広く読むべき本であるけれど、3,500円はちょっとね。ちくま文庫で上下巻、みたいにできないでしょうか。社会科学の入門書としてもとても優れていると思います(ただ本文の最後に謎のデフレ礼賛があるのはご愛敬。アレはいくら何でも唐突すぎる。これだけ慎重に統計を分析しているのにそりゃないぜ)。

2009年3月23日月曜日

書評・Charles Murray "Real Education"

(2010年3月14日に文章を少し修正しました。)

なんか書評ばっかりだけど、ま。おもしろい本、というかなんだろう。Charles Murray "Real Education"という本。

コチラのブログに素晴らしい記事があるので、続編も含めて是非どうぞ。

cover
Real Education
Charles Murray
本書はIQ=いわゆる学力とその人の全体的な能力には相関があるよ、という著者の以前からの主張を基に、現代アメリカの教育制度の問題点を語った本だ。計量心理学、サイコメトリクスというのは日本ではあまり聞かないけど、統計を基にした心理学ってことですよね? んで、IQの話となると荒れがちになるのはどこでも同じで、この本もその点にはかなり配慮をしていて、「IQが高い=能力が高い」というのは統計的な話なので例外はいくらでもあるし、IQが高いから偉いとかそういう話ではなくてある種のタスクに向いているということであって、運動能力や手先の器用さ、音楽の才能などと同列の「向き不向き」の一つであるとしている。

また、ここでいうIQが高いというのは上から10%の人々のことを指し、ごく少数の選抜されたエリートという意味じゃない。つまりどこにでもいるちょっと目端の利く人といったところ。

で、著者の言う教育制度の問題点は、この「向き不向き」を無視したところにあるという。それは、例えば僕には身体能力的に絶対に無理なバク宙をやらせるようなもので、そんなものは「やればできる」とか「チャレンジすることに意味がある」的な言葉でごまかした辱めでしかない。さらに本書にある例をあげると、かけ算ならばほとんどの生徒が習得できるが、微分積分となると三分の一の生徒しか習得できないという。残りの三分の二の生徒は努力をしても微分積分を使いこなすのは相当に難しいし、また努力の甲斐あってハイレベルなクラスに進学できたとしても、少しの労力で理解できる生徒と共に過ごす時間が増えるわけだから、彼らに追いつくためだけでも更なる努力が必要だし、もちろん彼ら程優れた結果は出せないし、「自分はできる」という満足感も得られなくなっていく、という。この「向き不向き」を無視した努力が本人を幸せにするのか、というのがこの本の出発点といっていいと思う。この本は学業に向いている人々をメインに扱っているが、常に「向き不向き」が問題になっている。だから学業以外のことに向いている人々には彼らに相応しい教育制度(職業教育を含め、より実践的なもの)が必要であって、不向きなことをやらせて低い評価を与えるなんてことをしている場合じゃない、としている。

で、学業に向いている人々は複雑な問題を扱うことに向いているので、放っておいても組織の運営に関わる地位に就いていく。その組織のというのは地元のボランティア組織から企業、国家にまで多岐にわたる。つまり学業に向いている人々が文化的社会的に直接的な影響力を持っている、ということになる。なぜなら、彼らがスケジュールをたててリソースの分配をし、新聞記事を書き、テレビ番組を作り、法案を準備したりするわけだからその影響力はかなりのものだろう。

そこでMurrayは、彼らは本人の努力でもなんでもなく不当に高いIQをもって生まれたのだから、現状のような事実上の特権*1なんぞを与えるのではなく倫理的な使命を負わせるべきだという。今の大学生たちはおおむね優しくて良い子たちだが、現在の教育システムを通して「みてみぬふり」という態度を身につけてしまっている。そのことが、基本的には善良だが肝心な時に無責任な態度を見せてしまう大人を作っている。

で、どうすりゃいいのよってなるわけだが、その前に、どうしちゃいけないのか、ということが書いてある。自分に自信がないので云々というのはよく聞くが、じゃあ自信があるとあなたの秘められた能力が開花するの? という一瞬まごついてしまう疑問を著者は投げかけている*2。僕も、そして僕の友人たちも、まあ自信からはほど遠い人生を送っているし、たしかに自信が持てればなあ、と思うこともある。が、最近の研究の示唆するところは、高い自己評価は、心理的な健全さ、学問的な成果、収入のどれとも関わりがないっぽいよ、ということだそうだ。だから子供たちの自己評価を高めるためになにかする必要はないよ、ということ。

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夏目友人帳
緑川ゆき
安心しました? はい、僕はなんか安心しました。だってどうやったって自分に自信は持てないなあ、と思ってたから。で、この高い自己評価についての箇所を読んで思ったのが、『夏目友人帳』というマンガで、ある登場人物が高校生の主人公に向かっていう言葉。「何を焦っているのか知らないが、無茶をしたって人は強くならない。まずは自分を知ることだ」 確かになー。自信よりも自覚が重要なんだよなー。

で、どうすりゃいいのよってことでした。答えは簡単、倫理教育。学業に向いている人たちに特別コースをもうけて倫理を教えろ、と著者は言う。うー、僕としてはここで疑問がある。倫理なんて教えられるのか? 権威にひれ伏すなと権威を使って教える? ここでポパーを引用しよう。長いけど。


これ [教育制度による選抜をポパーが批判したこと:引用者] は政治上の制度主義の批判ではない。それは以前に言ったこと、われわれは当然最善の指導者を得るように努力すべきではあるが、常に最悪の指導者に備えるべきであるということを追認しているに過ぎない。だがそれは制度、とくに教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能な課題を追わせようとする傾向に対する批判である。このようなことは決して制度の課題とされるべきではない。このような傾向は教育体系を競争場に変え、学科課程を障害物競走に変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますのではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければならない障害を越すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。換言すれば、科学の分野においてさえも、我々の選抜の方式というものは、やや粗野な形の個人的野心への呼びかけに基づいているのである(熱心な学生が仲間から疑いの目で見られるというのもこの呼びかけに対する自然な反応である)。知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥れるのである。

カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』p.138

で、文科省が倫理教育のカリキュラムを決めるとかやっぱむりだよ、と思うのだ。それとこの本全体に言えることなんだけど、長い時間をかけた人の成長をあまり考慮に入れていない。これはおそらく統計的に把握しずらい現象だからかなと思う。そしてそれ故に、IQですべてが決まると主張している、という印象を抱かせているのだろう。ただ一カ所だけ、「たとえ学業にとても秀でた子でも、高校を卒業してすぐに大学に入るのは正しい選択ではないかも」みたいなことは言っていて、著者が人の成長に鈍感であるというわけではないようだ。あくまで統計的に観察できることをベースに考えるということなんだろう。

なので、Murrayがいう倫理教育というのはもっと基礎的なことであって、ポパーが心配するような「知性の生命」の危機とか権威云々とかそういう事ではないのかもしれない。もっと統計的に観察できるような汎用性のある倫理教育の事なのかもしれない。そしてMurrayの自信は次のアリストテレスの考え方が倫理教育を押し進める最大の原動力になるという確信から来ている。それは「人生の最も根源的な喜びの一つは、己の能力を自覚し発揮することである」というもの。つまり学業に向いている人々は倫理的な生き方を模索することに「向いている」しそれを楽しむだろうということだ。

IQの事もあって、かなり否定的に受け止められるだろう本書だけど、僕は妙に納得してしまった。倫理教育への疑問はあるけど、「向き不向き」とそれを無視した努力の悲劇は、あまり他人事じゃないなあと思ったり。努力家の負のオーラに巻き込まれてしまうこともよくあるし。

「学力低下が問題だ」と言う人はたぶん学業に向いている人たちなんでしょう。だから学業には向いていない人々の違和感が分からないんじゃないだろうか。本書はその違和感、「自分には絶対にできないと分かっていることをなぜやらなきゃならないのか」という違和感を伝えるために、具体的なテスト問題とその解説をしたりもしている。そんなこんなで、自覚を促されるような、そんな本でした。文は読みやすかったです。難しい単語も少ないし。


*1: 著者は、現状では学業に向いていることが有利になりすぎているという。例えば、その職種と学歴に本当になにか関係があるの? みたいな場面でも学歴が重要視されたり、複雑すぎて多くの市民が利用を諦めてしまう制度など。

*2: そんなにはっきりとは投げかけてないです。ちょっと大げさに書きました。

2008年5月27日火曜日

結局統計ってつかえるの? その3

しか し、統計が弱い人を救うことだってあるかもしれない。日銀だって統計に基づいて、弱い人になってしまった失業者を救えるだろうし。そしてとくにエアーズの 本はその可能性が多岐に渡ることを示しているように思える。たとえば教育とか医療の分野で、属人的な判断を減らして統計に基づいた判断を導入すれば、効率 だけでなく公正さも向上させられる可能性があるようだ。

で、結局統計ってつかえるの? なわけだが、分かりません。ただ己の中の第二審判 決に従えば、統計の結果だけが騒がれているような時は気をつけろってことでしょうか。教育でいえば、日本の子供の学力が上がった下がったというのは無視し てもよさそう。でもある教授法を使うとテストの点数が、とか、出席率が、とかいう話なら、拒絶するのは待った方がいい。特に、直観に反する現象というのは なんというかチャンスなんじゃないかと思う。

自分で考える教育よりも、分からないところはさっさと答えを見ちゃう教育のほうが、特に学校 では、上手くいく。そういう反直観的な統計が出てきたときに、保身に走って拒絶するのはもったいない。というか保身に走ると、老後は塗炭の苦しみを味わう ことになる気がする。効率も公正さも向上させるチャンスを潰したのかもしれないんだから、そのために傷ついた人たちのことをさっぱり忘れるなんて出来ない と思う。

そう、統計を真に受けても、拒絶しても、人生ヒドいことになるかもしれない。統計にもまた、第一法則はないということでした。ちゃんちゃん。

結局統計ってつかえるの? その2

さぼっているうちに日銀総裁が白川さんに決定。時宜を失った感じはするけどまあいいや。

このエントリは僕のような愚か者に統計は必要か? ということだった。モテるのか? 金持ちになれるのか? というのが問題なのだ。幸せか? というのがね。

統計とにらめっこして幸せってのは無理っぽい、というのが率直なところで、例えば、「二十代の若者100億人に聞きました。あなたの初セックスはいつですか?」 で、平均が16歳とかになると、もう自殺ですよ、若者たち。どうしても遅いとかはやいとか(いやそういう意味じゃなくて)言い出して、世間と歩調を合わすことの重要性を必要以上に心に刻んじゃうんじゃないかな。世間に合わせることが人生の目的になっちゃうんじゃないか。

前回の(二ヶ月前の)エントリでも書いたけど、朝日新聞のお茶目事件だって、統計を真に受けた結果じゃん。幸せではないだろう、そんな生き方は。

じゃあなんで統計を真に受けた素人は幸せではないのか。それが世間にみえるから、といってしまうとぐるぐる回ってるような気がするけどいいや、別に。

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アダム・スミス
堂目卓生
最近、堂目卓生『アダム・スミス—「道徳感情論」と「国富論」の世界』を読んだのだけれども、んで、とっても良い本でしたけども、そのなかで、「弱い人は第一審の判決を、賢人は第二審の判決を受け入れる」というようなことが書かれてあった。第一審というのは世間の目ということで、第二審というのは「公正な観察者」、つまり、世間体にとらわれない、といって自分の利益ばかり考えてるわけでもない人なんだそうだ。マイナスイオンとかに踊らされると弱い人、そうでないと賢人、みたいなことでしょうか。ここは僕の理解なので眉唾ですけど。

そして弱い人と賢人は個人の中で同居している、というようなことも書いてあった気がする。そうそう、で、モノによっては普段賢人なアイツも弱い人になっちゃうことがあって、その最たるものが失業で、やっぱり失業すると落ち込むからねえ、という話。

新聞に載るような分かりやすく加工された統計結果が、第一審判決として弱い人の人生をコントロールすることは、十分に考えられる、というかそんなのばっかり見てきたし、自分にもそういうところがある。だから凡愚な僕に統計はいらない、かもしれない。すくなくとも、新聞テレビで紹介されるような数字は無視しちゃった方が無難かも。

2008年3月19日水曜日

結局統計ってつかえるの?

ものすごく使えるよ派
エアーズ『その数学が戦略を決める』
飯田泰之『考える技術としての統計学』

基本使えないよ派
Taleb "The Black Swan"


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その数学が
戦略を決める
イアン・エアーズ
最近読んだ本を参考に、結局統計って使えるの? とくに我ら一般庶民に、という問題を考えてみる。

今日本では日銀総裁が決まらなくてすごくもめているけど、日銀の政策は統計が無いと成り立たない最たるものでしょう。だって一億人以上の経済活動をすべて把握は出来ないから、具体的な、誰がどこで何を買ったの売ったのということは切り捨てて、100人、1,000人でどんな傾向があるのかを見ていく事になる。いわばどんぶり勘定だ。ホントは箸で一粒ひとつぶ取り出して調べることが出来たら一番いいけど、ま、無理。統計をとるのに時間がかかって、五年前のデータで来年の事を決めるわけにもいかないもの。

なので統計は正確ではない。そんなの当たり前。正確に把握できないから統計が必要なんだ。何年か前に、うっすらとした記憶なんだけど、朝日新聞社内で起きた事件があった。靖国神社に首相が参拝しても良い? ダメ? っていう調査をして、51%/49%で参拝賛成が多かった(逆かも)。そしたら上役と部下が喧嘩になって、たぶん部下が「そういう時代になったんですよ」とか言ったんじゃないの? 上役が部下を殴ったっていう事件。その後どうなったのか全く知らないし興味もないけど、間の抜けた話です。誤差でしょ、どう見ても。賛成も反対もおんなじくらいです、とはいえるけど、どっちが多い、とはいえない。統計は正確じゃないから、何かを読み取るには慎重さが必要なわけだ。そしてだから、統計は分かりにくい。

ただ単に正確じゃない、っていうだけじゃない。どういうふうに不正確なのか、これも大問題だ。さっきの靖国参拝のデータは、たぶん小泉純一郎氏が首相だった時の話だ。いま聞いたら違う回答をする人も多いんじゃないか。これはつまり、データが古いから正確でない、ということになる。

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考える技術としての
統計学
飯田泰之
日銀の仕事は物価の安定だけれども、そこで参考にするのが消費者物価指数(CPI)だ。CPIにはバイアス(偏り)があることが知られている。スーパーで売っている商品の価格を調べるにしても、すべてのスーパーを調べるのは無理だから、いくつかのお店を抜き出して調べるわけだ。でも人々は絶対に同じ店で同じものを買い続けるわけではなくて、そのときどきで安いお店に行ったりもする。だから同じお店を調べ続けると、実際に人々が使った金額よりも多めに、ココ大事、多めに価格を見積もってしまう。他にも、三年前に外付けハードディスク120Gを2万円で買ったとしよう。で、今年、320Gを2万円で買いました。これで僕は同じものを同じ値段で買ったと言えるだろうか。もちろん言えない。でも、CPI調査の品目はそんなに細かく分かれていないから、性能が上がって実質の値段が下がっているケースはCPIに反映されない。だからこれも実際よりも値段が高め、ハイまた来た、高めに計算されてしまう。

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The Black Swan
N.N.Taleb
日銀はなぜか、日本ではこういった上方バイアスはあんまりないよ、と言っている。とくに根拠があるわけではないようだ。1.8%ポイントぐらい高めに出てるよ、という人もいる。1.8%ポイントはすごいよ、やばいよ。だって日銀は、日本の物価はほとんど変化していない(CPIがゼロ近傍)からデフレじゃない的なことを言っているけど、もし1.8ポイント多めに評価しているとしたら、本当の日本の物価は1.2~5%で下がっていることになって、しかもここ十年以上そんな感じで、立派なデフレなわけだ。

こういうふうに調査の過程で結果が歪んでしまうことがある。というか必ず歪んでいる。日銀のようなエリート集団でさえ、統計をうまく使えていないんじゃないかと疑われる昨今、果たして縁なき衆生である我々が統計を使うメリットなんてあるんでしょうか。続く。