各種報道では、安倍総理がすでに来年4月の消費税増税を決断したかのように言われていますね。一方で、安倍総理本人の口からはまだ何も語られていません。明らかな誤報、あるいは宣伝工作が行われているという異常な事態が続いています。
ということで、官邸にメールしました。何の意味があるのかわからないけれど、ただじっと安倍総理の発表を待つのはあまりに辛かったので。メールの内容を要約すると、札幌で塾講師をしている就職氷河期ど真ん中のワタクシですが、財務省が何と言おうが1997年の増税の轍を踏まないでください、アベノミクスで税収は増えていると聞いています、まだデフレです、教え子たちを路頭に迷わせるような政策はやめてください、というもの。
官邸のホームページはこちら。増税はまだ決定事項ではありません。この消費税増税に関する法律は、増税しないことを公約として政権を取った民主党が、選挙の数年後に牽引役となって作った法律であり、最近の選挙で争点になったことのない政策です。我が国の民主的基盤を維持・強化するためにも、近々の消費税増税の是非を選挙で国民に問うべきでしょう。解散がすぐには無理ならば、附則18条にもとづいて、総理が増税を先送りにすべきです。
財務省の現事務次官、木下康司さんが増税の旗振り役だと言われています。一官僚に政策の失敗の責任など取りようもなく、せいぜい天下り先の格が下がるくらいでしょう。そんな人物に結果的にであるにしろ、いいように使われてしまっている国会議員の先生方は、この政策の行方を真剣に考えてもらいたいものです。税収が増えているのに、あるいは増える見込みが強いのに、なぜすぐに増税しなければならないのでしょう?
2013年9月20日金曜日
2010年3月31日水曜日
寒かった3月。相変わらずのデフレ。
さて、寒かった3月も今日で終わって、2010年ももうすぐ4月。そして相変わらずの不況ニッポン。3月26日に発表された2月のCPI(消費者物価指数)はこんな感じ。
何度も言われていることだけど、広く知られているとはとても言えないことと言えば、CPIには上方バイアスがあるってことだろう。なんといっても管大臣も知らなかったし。CPIはだいたい1%くらい大きめの数字が出てしまうというクセをもった指標だ。なので、三つのカテゴリーすべてで前年比マイナス2%というのが実情に近い数字だと思われる。つまり絶賛デフレ進行中だ。
とはいえ、アメリカのコアCPIも前年同月比+1.3%ということなので(参照)、日本だけが苦しいわけでもないけど、日本だけがブッチギリでダメだ。
デフレがなんでヤバイのかというのも何度も言われてきたことではあるけれど、その理由の一つが、借金が増えてしまうということだ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、例えば今日の1万円でりんごが十個買えたとすると、明日は二十個買えちゃったりするわけだ。これを借金で考えてみると、今日1万円の借金を返すのにりんごを十個売らなければならないとして、明日になると二十個売らなければ返せなくなってしまうということになる。
責任、責任とかいって景気対策を拒んできた日本だけど、その間、国の借金は不当に増えてしまった。国が借金をして医療費や年金の支払にあてるのはしようのないことだと思えても、何もしないが故に現役世代の負担が増えるのは理不尽極まりない。
いつの時代も政治力を持っているのは中高年以上の人たちだと思うけど、彼らはその辺のトコロどう考えてるんでしょうか。
追記(2010/April/14):CPIの上方バイアスについて、zajujiのお馬鹿ぶりがあらわに。コメント欄をみてください。
(1) 総合指数は平成17年を100として99.3となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
(2) 生鮮食品を除く総合指数は99.2となり,前月と同水準。前年同月比は1.2%の下落となった。
(3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は97.4となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
総務省統計局のページ
何度も言われていることだけど、広く知られているとはとても言えないことと言えば、CPIには上方バイアスがあるってことだろう。なんといっても管大臣も知らなかったし。CPIはだいたい1%くらい大きめの数字が出てしまうというクセをもった指標だ。なので、三つのカテゴリーすべてで前年比マイナス2%というのが実情に近い数字だと思われる。つまり絶賛デフレ進行中だ。
とはいえ、アメリカのコアCPIも前年同月比+1.3%ということなので(参照)、日本だけが苦しいわけでもないけど、日本だけがブッチギリでダメだ。
デフレがなんでヤバイのかというのも何度も言われてきたことではあるけれど、その理由の一つが、借金が増えてしまうということだ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、例えば今日の1万円でりんごが十個買えたとすると、明日は二十個買えちゃったりするわけだ。これを借金で考えてみると、今日1万円の借金を返すのにりんごを十個売らなければならないとして、明日になると二十個売らなければ返せなくなってしまうということになる。
責任、責任とかいって景気対策を拒んできた日本だけど、その間、国の借金は不当に増えてしまった。国が借金をして医療費や年金の支払にあてるのはしようのないことだと思えても、何もしないが故に現役世代の負担が増えるのは理不尽極まりない。
いつの時代も政治力を持っているのは中高年以上の人たちだと思うけど、彼らはその辺のトコロどう考えてるんでしょうか。
追記(2010/April/14):CPIの上方バイアスについて、zajujiのお馬鹿ぶりがあらわに。コメント欄をみてください。
2010年1月1日金曜日
短め書評・高橋洋一 竹内薫『鳩山由紀夫の政治を科学する 帰ってきたバカヤロー経済学』
あけましておめでとうございます。今年も本ブログ、まったりいきますんでよろしくお願いします。
高橋洋一氏といえば、小泉政権から安倍政権のときに大活躍して注目を浴びた元財務官僚。彼が注目されるのは理系な経歴を持ちながら経済学はもちろん、政治のもやもやしたところにも明快な説明をしてくれるところにあるのだと思う。今回の本は『バカヤロー経済学』の続編であり、前回同様サイエンスライターの竹内薫氏との対談形式で、民主党政権をきれいに説明してくれる。僕は『バカヤロー経済学』は未読だけど、本書、とても楽しめました。
民主党が政権を取ってみて見えてきたのは、自民党ってそれほどすごくなかったね(すくなくともここ最近は)、ということだと思う。なので日本国民が本当に決めなきゃいけないのはどの政党を選ぶかではなくて、結局何がしたいのか、だったわけだ。
で、国民が望むことがあったとして、ではそれをどう実現しましょうか、となる。そこで政党の出番となるわけだが、政党というのは当然支持者のいうことばっかり聞くので、民主党・鳩山由紀夫政権を理解しようとすればその支持者を理解しなきゃいけない。
本書は民主党の支持者を起点にして、党内、閣内の人事、財源など、民主党の行動を科学的に分析している。つまり鳩山政権の振る舞いを妥当な根拠でもって説明しているわけだ。そしてやっぱり、高橋氏の明快さは今回もまた炸裂している。
![]() 鳩山由紀夫の政治 を科学する 高橋洋一 竹内薫 |
民主党が政権を取ってみて見えてきたのは、自民党ってそれほどすごくなかったね(すくなくともここ最近は)、ということだと思う。なので日本国民が本当に決めなきゃいけないのはどの政党を選ぶかではなくて、結局何がしたいのか、だったわけだ。
で、国民が望むことがあったとして、ではそれをどう実現しましょうか、となる。そこで政党の出番となるわけだが、政党というのは当然支持者のいうことばっかり聞くので、民主党・鳩山由紀夫政権を理解しようとすればその支持者を理解しなきゃいけない。
本書は民主党の支持者を起点にして、党内、閣内の人事、財源など、民主党の行動を科学的に分析している。つまり鳩山政権の振る舞いを妥当な根拠でもって説明しているわけだ。そしてやっぱり、高橋氏の明快さは今回もまた炸裂している。
一番のポイントは、何をムダと定義するのか、ということですよ。でね、基本的には「自民党にとって有益でも、民主党にとっては有益でないもの」が全部、ムダと定義されるんです
[p.119] 強調は原文ママ
2009年10月15日木曜日
知らないことばかり・書評・大山礼子『国会学入門 第二版』
(先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』と今回の本は、法哲学者の大屋雄裕先生が紹介されていたので読んでみました。)
さて今回は、大山礼子著、『国会学入門 第二版』。国会は立法府である。言論の府である。国民に選ばれた議員たちが法案を審議する。法案の多くは実は官僚が作っている。僕の国会についての知識は、恥ずかしい話、こんなものだった。そりゃあ、参院で否決された法案が、衆院の2/3の賛成で可決したってのが最近あったから、「これは衆議院の優越」だよね、みたいなことは言える。でも会派ってよく聞くけど政党と何が違うの? とか聞かれたら長時間にわたって「あー」とか「うー」とか言う羽目になるだろう。
で、本書はタイトル通りの本で、国会の仕組みを一般向けに解説した本だ。といって、中学の教科書のような箇条書きを散文にしただけって感じじゃなくて、慣習の由来、規則の理念、実態、国際比較と至れり尽くせりだ。文言が堅いけど読んでいてとても面白かった。とくに、国際比較が充実している。簡単に言ってしまえば、単純な国際比較はできないということなのだが、それほど各国の議会の運営方法には特徴がある。本書ではアメリカをはじめ、主要国の議会の特徴どころか仕組みまで解説してくれているので、かなりお得な一冊といえる。この第二版は2003年に出ている。そろそろ第三版を期待したい。
日本の国会って地味だから、とりあえずアメリカっぽく改革しようという気持ちになっちゃう日本人は大変多いようだ。僕も自覚がないだけでそういう日本人なのかもしれない。しかし、誰もが知っているとおり、アメリカは大統領制で日本は議院内閣制だ。……。で、どうちがう? 字がちがう。そうじゃなくて、アメリカは三権がはっきりと分かれて牽制しあうという制度なので、議会から選ばれた内閣というものがまず存在しない。アメリカの大統領は行政のトップであるから、立法には手が出せない。もちろん大統領の意向をうけた議員が法案を提出するわけだけど、大統領と同じ考えの議員が自主的にそうするんであって、その手の法案はかなり頻繁に否決されたり、むちゃくちゃに修正されたりしているそうだ。基本的に議院内閣制の国に比べて党議拘束がゆるゆるなのがアメリカだ。大統領と同じ政党の議員でも平気で反対票を投じる。本書では、議員一人一人がそれぞれ一つの政党のような振る舞いをする、と書かれている。行政の(つまり大統領の)監視が議会の役目という認識がかなり強いようだ。
さて、こんなにもちがうアメリカの制度を、日本にぶち込んでもいいんだろうか。アメリカ流の二大政党制というのは、日本ではまったく意味をなさないのではないだろうか。大統領の意をくんだ法案に、おんなじ政党の議員が平気で反対するような制度を、与党議員の反発は重大な裏切りととられる日本の制度に組み込むことに意味なんてないと思う。
じゃあ日本の制度は野蛮で時代遅れなのかというとそうでもない。たとえばイギリスの場合、内閣が議会の一部になって与党と合体しているような状況だ。日本の場合内閣は議会の外に作られると考えられている。つまり形式上、そしてある程度実際上、内閣と与党は別の組織である。しかしイギリスの内閣は与党とまったく同じであり、閣僚以外の与党議員には仕事がないくらい与党そのものだ。議院内閣制の国ではどこも、議会と行政の距離がかなり近いが、イギリスは一体化していると言っていいだろう。そしてそのイギリスも二大政党制なわけだ。日本では内閣のブレーキ役は与党だけど、イギリスではそれはありえない。なので、野党がブレーキ役になるわけだ。
となると、日本の野党は何やってんの? と思うわけだが、政権交代が起こった今、日本の国会もイギリス型の議会になろうとしているのかもしれない。
さて、日本では、国会議員たちは当選するとすぐに、所属する委員会を決める。学校のホームルームみたいだけどそうではなくて、国会において法案を審議する実質的な場所というのは、ニュースで見るような本会議ではなくて各委員会である。だから議員は自分の利害に関わる委員会の中で立法に携わるわけだ。これを委員会中心主義というそうだ。帝国議会時代は本会議中心主義だったそうだが、GHQがアメリカの議会に習って委員会中心主義を導入させたらしい。
現在の日本がこうしてあるのだから、このGHQの考えもそんなに悪くはなかったといえると思う。が、弊害もでてきた。とくに、法案が内閣なり議員なりから提出されると、まず議長がどの委員会で審議すべきかを決める。そして委員会で審議され、最終的に本会議で決をとるわけだ。弊害というのは、本会議に至るまで国民が審議されている法案について知るのが難しいということだ。さらに、野党が法案の趣旨説明を要求することができるのだが、その間、委員会での審議はしないという慣習がある。最近ではこの慣習を利用した遅延戦術がよく用いられ、審議が遅れるという事態が相次いでいる。実はGHQの意見が採用される前、日本人の担当者たちは、まず本会議で提出された法案の趣旨説明を行い、その後委員会に付託して審議して、そしてまた本会議に戻して決をとる、というスタイルでいこうとしていたそうだ。これは帝国議会時代の仕組みを一部受け継いだものでもあり、また、現在のドイツ連邦議会の仕組みにも似たものだったようだ。今までの仕組みが全然だめだ、という主張は極端すぎてナンセンスだけども、日本独自の議会のあり方を模索しましょうよ。
さて、現在の民主党政権下で、なにやら議員立法がどうのこうのという話がある。では議員立法ってなんだろうか。国会は立法府で、そこにいるのは議員さんなんだから、わざわざ議員立法なんて言い方しなくてもいいんだけど、実際には内閣が提出する法案が半数以上を占めているというのはご存知でしょう。で、これは無知で野蛮な日本独特の現象なんだろうか、といえばそうでもない。議院内閣制の国はたいていそうだ。アメリカの議会だけは例外で、そもそも内閣がないのだから議員立法しかない。それでも大統領の意向は党を通じて影響力を持っている。
日本の国会では一時期、議員立法を増やそうとしていたことがあるそうだ。が、結果から言えば、内閣が与党議員に法案の提出を依頼することで名目上の議員立法が増えただけだったそうだ。実際のところ、行政側にしかない情報というのはたくさんあるわけで、なんでもかんでも議員立法である必要はない。議員立法に向いているのは、議員秘書制度の改正案等の超党派で取り組むべき問題だろう。今、国会法の改正が話題になっているけど、これも内閣よりは議員が提出すべきものだと思う。とはいえ、超党派の議員立法にも問題はあって、たとえば産業界などの要請を受けた議員たちが法案を提出して可決したとすれば、そこには国民が不在である、といわれてもしかたながい。議員立法だから民意に添っている、とはいえないわけだ。
と、まあとりとめもなく書いてしまったのだけど、本書を読んで僕が感じた国会の問題点は、会派と政党が実質同じになってしまっていること、会期があることで時間切れを狙う戦術を使うインセンティブがあること、そして行政の監視機能が脆弱であること、だと感じた。ここでは特に、会派と行政の監視機能について書いてみたい。
現代の法律はとても複雑だ。僕は実際の法律を読んだことはないけど(断片ならありますよ。本とかに出てくるから)、まあ複雑って聞いてます。なので、国会で法律を作ったとしても、その法律が議員、lawmakerの考え通りに運用される保証はどこにもない。法の執行機関(お役所)が最もらしい理由をでっち上げてテキトーなことをしているかもしれない。でもやっぱ複雑な内容の法がいちいち実現しているかどうかリアルタイムで監視はできないわけで、事後的に評価するよりないわけだ。だーけーどー、高橋洋一さんが言っているように、お役所ってのはとにかく評価をいやがるところでもある。
歴史的には行政を監視するために議会は立法権を手に入れたそうだ。立法っていうと派手なので議会と言えば立法ってイメージだけど、今日の日銀の暴走(別に最近だけじゃないみたいだけど)をみていると、日本の国会にはまず行政監視の能力を向上させて欲しいと思う。
次に会派の問題。会派の明確な定義はないらしいんだけど、同じ政治的意向を持つ議員のグループであり、政党が議会の外の組織であるのにたいして、会派は議会内部で作られる。なので、アメリカだと会派が政党の指示を無視する、なんてことがあるんだそうだ。日本の場合、本来議会の外の存在である政党がそのまま会派と同一視されているので、法案のほとんどすべてが与党の内部で出来上がってしまい、国民どころか野党議員にも詳しいことは知らされないまま委員会での審議になってしまう。さらに内閣(や議員)は、本来なら各会派を説得して法案を通せばいいが、会派が与党と同じであるから、内閣はどうしたって与党の意向を無視できない。結局与党を説得する必要がある。このため与党の有力議員に権力が集中する。こうして国民には評判の悪い、議会を無視した与党内での密室政治が生まれるわけだ。
で、政権交代が成ったわけですが、こういった問題は解決されたんでしょうか? まだよくわからない。でも、閣僚入りしたわけでもない小沢さんがとても影響力を発揮しているみたいだし、やっぱ与党の内側でいろいろ話が進んでいるような雰囲気。もちろん与党なんだから影響力があって当然なんだけど、何が起こっているのか分からない、というのが問題なのよね。議会の内部で、堂々と、会派として議論してもらいたいもんです。国会法の改正がどういうものかよくわからないけど、実質的な議論の場を議会の外である与党から内である会派に引っ張り込むようなものであれば、歓迎したいですね。
![]() 国会学入門 第二版 大山礼子 |
で、本書はタイトル通りの本で、国会の仕組みを一般向けに解説した本だ。といって、中学の教科書のような箇条書きを散文にしただけって感じじゃなくて、慣習の由来、規則の理念、実態、国際比較と至れり尽くせりだ。文言が堅いけど読んでいてとても面白かった。とくに、国際比較が充実している。簡単に言ってしまえば、単純な国際比較はできないということなのだが、それほど各国の議会の運営方法には特徴がある。本書ではアメリカをはじめ、主要国の議会の特徴どころか仕組みまで解説してくれているので、かなりお得な一冊といえる。この第二版は2003年に出ている。そろそろ第三版を期待したい。
日本の国会って地味だから、とりあえずアメリカっぽく改革しようという気持ちになっちゃう日本人は大変多いようだ。僕も自覚がないだけでそういう日本人なのかもしれない。しかし、誰もが知っているとおり、アメリカは大統領制で日本は議院内閣制だ。……。で、どうちがう? 字がちがう。そうじゃなくて、アメリカは三権がはっきりと分かれて牽制しあうという制度なので、議会から選ばれた内閣というものがまず存在しない。アメリカの大統領は行政のトップであるから、立法には手が出せない。もちろん大統領の意向をうけた議員が法案を提出するわけだけど、大統領と同じ考えの議員が自主的にそうするんであって、その手の法案はかなり頻繁に否決されたり、むちゃくちゃに修正されたりしているそうだ。基本的に議院内閣制の国に比べて党議拘束がゆるゆるなのがアメリカだ。大統領と同じ政党の議員でも平気で反対票を投じる。本書では、議員一人一人がそれぞれ一つの政党のような振る舞いをする、と書かれている。行政の(つまり大統領の)監視が議会の役目という認識がかなり強いようだ。
さて、こんなにもちがうアメリカの制度を、日本にぶち込んでもいいんだろうか。アメリカ流の二大政党制というのは、日本ではまったく意味をなさないのではないだろうか。大統領の意をくんだ法案に、おんなじ政党の議員が平気で反対するような制度を、与党議員の反発は重大な裏切りととられる日本の制度に組み込むことに意味なんてないと思う。
じゃあ日本の制度は野蛮で時代遅れなのかというとそうでもない。たとえばイギリスの場合、内閣が議会の一部になって与党と合体しているような状況だ。日本の場合内閣は議会の外に作られると考えられている。つまり形式上、そしてある程度実際上、内閣と与党は別の組織である。しかしイギリスの内閣は与党とまったく同じであり、閣僚以外の与党議員には仕事がないくらい与党そのものだ。議院内閣制の国ではどこも、議会と行政の距離がかなり近いが、イギリスは一体化していると言っていいだろう。そしてそのイギリスも二大政党制なわけだ。日本では内閣のブレーキ役は与党だけど、イギリスではそれはありえない。なので、野党がブレーキ役になるわけだ。
となると、日本の野党は何やってんの? と思うわけだが、政権交代が起こった今、日本の国会もイギリス型の議会になろうとしているのかもしれない。
さて、日本では、国会議員たちは当選するとすぐに、所属する委員会を決める。学校のホームルームみたいだけどそうではなくて、国会において法案を審議する実質的な場所というのは、ニュースで見るような本会議ではなくて各委員会である。だから議員は自分の利害に関わる委員会の中で立法に携わるわけだ。これを委員会中心主義というそうだ。帝国議会時代は本会議中心主義だったそうだが、GHQがアメリカの議会に習って委員会中心主義を導入させたらしい。
現在の日本がこうしてあるのだから、このGHQの考えもそんなに悪くはなかったといえると思う。が、弊害もでてきた。とくに、法案が内閣なり議員なりから提出されると、まず議長がどの委員会で審議すべきかを決める。そして委員会で審議され、最終的に本会議で決をとるわけだ。弊害というのは、本会議に至るまで国民が審議されている法案について知るのが難しいということだ。さらに、野党が法案の趣旨説明を要求することができるのだが、その間、委員会での審議はしないという慣習がある。最近ではこの慣習を利用した遅延戦術がよく用いられ、審議が遅れるという事態が相次いでいる。実はGHQの意見が採用される前、日本人の担当者たちは、まず本会議で提出された法案の趣旨説明を行い、その後委員会に付託して審議して、そしてまた本会議に戻して決をとる、というスタイルでいこうとしていたそうだ。これは帝国議会時代の仕組みを一部受け継いだものでもあり、また、現在のドイツ連邦議会の仕組みにも似たものだったようだ。今までの仕組みが全然だめだ、という主張は極端すぎてナンセンスだけども、日本独自の議会のあり方を模索しましょうよ。
さて、現在の民主党政権下で、なにやら議員立法がどうのこうのという話がある。では議員立法ってなんだろうか。国会は立法府で、そこにいるのは議員さんなんだから、わざわざ議員立法なんて言い方しなくてもいいんだけど、実際には内閣が提出する法案が半数以上を占めているというのはご存知でしょう。で、これは無知で野蛮な日本独特の現象なんだろうか、といえばそうでもない。議院内閣制の国はたいていそうだ。アメリカの議会だけは例外で、そもそも内閣がないのだから議員立法しかない。それでも大統領の意向は党を通じて影響力を持っている。
日本の国会では一時期、議員立法を増やそうとしていたことがあるそうだ。が、結果から言えば、内閣が与党議員に法案の提出を依頼することで名目上の議員立法が増えただけだったそうだ。実際のところ、行政側にしかない情報というのはたくさんあるわけで、なんでもかんでも議員立法である必要はない。議員立法に向いているのは、議員秘書制度の改正案等の超党派で取り組むべき問題だろう。今、国会法の改正が話題になっているけど、これも内閣よりは議員が提出すべきものだと思う。とはいえ、超党派の議員立法にも問題はあって、たとえば産業界などの要請を受けた議員たちが法案を提出して可決したとすれば、そこには国民が不在である、といわれてもしかたながい。議員立法だから民意に添っている、とはいえないわけだ。
と、まあとりとめもなく書いてしまったのだけど、本書を読んで僕が感じた国会の問題点は、会派と政党が実質同じになってしまっていること、会期があることで時間切れを狙う戦術を使うインセンティブがあること、そして行政の監視機能が脆弱であること、だと感じた。ここでは特に、会派と行政の監視機能について書いてみたい。
現代の法律はとても複雑だ。僕は実際の法律を読んだことはないけど(断片ならありますよ。本とかに出てくるから)、まあ複雑って聞いてます。なので、国会で法律を作ったとしても、その法律が議員、lawmakerの考え通りに運用される保証はどこにもない。法の執行機関(お役所)が最もらしい理由をでっち上げてテキトーなことをしているかもしれない。でもやっぱ複雑な内容の法がいちいち実現しているかどうかリアルタイムで監視はできないわけで、事後的に評価するよりないわけだ。だーけーどー、高橋洋一さんが言っているように、お役所ってのはとにかく評価をいやがるところでもある。
歴史的には行政を監視するために議会は立法権を手に入れたそうだ。立法っていうと派手なので議会と言えば立法ってイメージだけど、今日の日銀の暴走(別に最近だけじゃないみたいだけど)をみていると、日本の国会にはまず行政監視の能力を向上させて欲しいと思う。
次に会派の問題。会派の明確な定義はないらしいんだけど、同じ政治的意向を持つ議員のグループであり、政党が議会の外の組織であるのにたいして、会派は議会内部で作られる。なので、アメリカだと会派が政党の指示を無視する、なんてことがあるんだそうだ。日本の場合、本来議会の外の存在である政党がそのまま会派と同一視されているので、法案のほとんどすべてが与党の内部で出来上がってしまい、国民どころか野党議員にも詳しいことは知らされないまま委員会での審議になってしまう。さらに内閣(や議員)は、本来なら各会派を説得して法案を通せばいいが、会派が与党と同じであるから、内閣はどうしたって与党の意向を無視できない。結局与党を説得する必要がある。このため与党の有力議員に権力が集中する。こうして国民には評判の悪い、議会を無視した与党内での密室政治が生まれるわけだ。
で、政権交代が成ったわけですが、こういった問題は解決されたんでしょうか? まだよくわからない。でも、閣僚入りしたわけでもない小沢さんがとても影響力を発揮しているみたいだし、やっぱ与党の内側でいろいろ話が進んでいるような雰囲気。もちろん与党なんだから影響力があって当然なんだけど、何が起こっているのか分からない、というのが問題なのよね。議会の内部で、堂々と、会派として議論してもらいたいもんです。国会法の改正がどういうものかよくわからないけど、実質的な議論の場を議会の外である与党から内である会派に引っ張り込むようなものであれば、歓迎したいですね。
2009年9月11日金曜日
勝間和代のBook Loversを聴いた
さてちょっと涼しくなってきたので更新再開です。ってさぼってただけだけども。今回は前回の続きじゃなくて、べつの話題。
八月に経済学者の飯田泰之さんが、勝間和代さんの「BOOK LOVERS」というwebラジオ番組に出る、と聞いたので楽しみに待っていました。で、ついでにどんな人たちがこの番組に出てるのか、と思ってさかのぼってみてみたら、元財務官僚の高橋洋一さんが出ているじゃありませんか。この間の衆院選、もし高橋さんが活動できていたら、まああんまり結果は変わらなかったでしょうが、こんな発言のいくらかは減ったかもしれないと思うと、返す返すも残念な事件だったなと思うのでした。
「BOOK LOVERS」は勝間さんが毎週ゲストを迎えて、ゲストおすすめの本を五冊くらい紹介するという番組。10分くらいで、一日一冊紹介したり、時にはトークだけの日もあるという感じ。ゲストには小飼弾さんや、押切もえさんなどなど。
で、僕が聴いたのは高橋さんと飯田さんの回で、とても楽しかったので、今日は勝手にまとめちゃおうという趣向。まずは高橋さんの一週間から。リフレ派はこんなに批判しているのになぜ日銀や財務省は政策を変えないのか、その理由が語られます。長いです。実際の文言とは全然違いますのでご注意。(高橋さんは2008年の12月22日から26日まで、飯田さんは今年の8月17日から21日まで)
追記:飯田さんの回のまとめも書きました。コチラです。
(一日目)
勝間さん(以下 K):財務省の人は東大法学部出身だったりしますが、経済学を学ばなくてもできるものなのでしょうか?
高橋さん(以下 T):経済官僚が経済学を学んでいない国は、確かに珍しい。彼らは経済政策を作る時、経済学を使っていないんです。
K:じゃあ何を使うんですか?
T:雰囲気とか空気を読んだり、政治的な折衝で政策を作る。日本の独特なところといっていいですね。これは90年代以降の日本の経済停滞をどう解釈するか、というところが問題です。マクロ経済政策が失敗したという解釈と、仕方がなかったという解釈。仕方がなかったという人が多いので、なかなか政策が変わっていかない。というのも、日銀も財務省も、失敗したとなれば責任問題になると思っているから。
K:でも責任問題ではないですよね? 間違ったのならば改めればいい。
T:私は過去に役所の評価制度を作る仕事をしてましたが、みんな反対してました。なんであれ役所は評価されるのをいやがりますからね。
K:役所の終身雇用に問題があると思うのですが。
T:身内の論理になってしまいがち。外部からの評価をいやがります。さらに、自分たちの政策を後になって評価することもしません。よくある役所の弊害なんです(笑)。
K:……。でも被害を受けるのは役所の人も含めて国民ですよね。
T:役人はあまり困らないですね。終身雇用で年功序列ですから(笑)。
K:今、非正規雇用の解雇が問題になっています。これも政策の失敗でしょうか?
T:景気を良くしないと対策が難しい問題ですが、景気の底上げをやっていない。
K:財政危機だから景気対策はできない、という話を良く聞きますが。
T:日本政府の負債はネットで300兆円。財務省は1,000兆円とか言っているが、資産が700兆円ある。さらに国には徴税権、つまり税金をあつめる権利があって、これは確実な収入だから、債務超過といっても一般企業と違ってすぐに破産にはならない。借金をいくら増やしてもいいとは言わないが、今すぐ増税という段階ではまるでないんですね。
K:プライマリーバランスが悪いから増税! みたいな議論が横行しています。
T:プライマリーバランスは指標としては財政収支より優れている。プライマリーバランスは企業で言えば営業収支(営業利益)。プライマリーバランスはちょっと景気が良くなれば簡単に改善するものです。景気の話をしないで増税の話をするのがおかしい。
K:増税して景気の足を引っ張るよりも景気を良くしたほうがいい。それも財政じゃなくて金融で、ということですね。
T:そうです。金融というとすぐにゼロ金利だからもう無理っていうんですけど、金融の世界では実質金利(物価の影響を差し引いた金利)でみます。アメリカはもうマイナス金利です。日本は他の国にくらべて引き締めぎみなので円高になってます。円高は景気の足を引っ張ります。そうやって悪循環になってますね。
K:2008年10月の先進各国の協調利下げに日銀は参加しませんでした。
T:驚きましたね。円高になるに決まってます。
K:その三週間後にちょっとだけ利下げしました。
T:後だしにしても意味ないです。他の国と同様に、金融緩和を断行する、と宣言すべきなんですが何故かしませんね。今の日銀総裁は以前、金融を引き締めて失敗した人。なので、ここで緩和策を打って成功してしまうと、過去の失敗を認めなきゃいけなくなると考えている。日本にとっては不幸なことです。
K:いくら財政政策を発動しても金融政策が縮小しては意味がないですよね?
T:両方拡張しないと意味ないです。政府と中央銀行が協力する必要があります。現在はどちらも引き締め気味ですね。協力もしてませんが。
K:それは経済学者にとっては常識だと思うのですが、なぜ政府や日銀には通用しないのでしょう?
T:一つは98年に日銀法を改正するときに、世界的に例がないほど、日銀の独立性を強めてしまったこと。それで日銀が政府を無視するようになった。法律をつくった人たちがあまりよく分かってなかったんですね。もう一つは政府のリーダーシップの問題。麻生総理(当時)が金融政策を否定してしまっている。
K:なぜ?
T:麻生さんに最初に言った人がいるから。誰かが麻生さんに「財政政策だけでいきましょう」と言って、それを麻生さんが表で言っちゃう。そうなると、それをひっくり返すのは難しくなってしまう。よくあるパターンです(笑)。
(ここまで一日目)
(二日目)
T:経済政策のしわよせはどこに行くかというと、この本に描かれているような所得の低い人たちのところに行きます。
K:私たちは金銭格差ばかり問題にしがちですが、人的な資本でも格差ができてしまっている。経済政策で景気が良くなれば、こういった窮状はなくなるのでしょうか?
T:ちょっと景気が良くなればそれで解決、という話ではないです。でも、一番最初にするべきことは上げ潮、つまり景気を良くして失業を減らすことです。しかし失業率だけでは非正規の窮状は分からないですから注意が必要です。
K:上げ潮という考えには私も賛成ですが、小泉・竹中路線ではそれをねらったにも関わらず格差が拡大したという批判があります。
T:上げ潮で一番重要なのは最下層の所得を上げること。ですが、それがうまく行かなかったのは事実です。平均的にはちょっと上がったんですが、最下層の所得は上がりませんでした。政策としては成功しませんでした。
K:何がいけなかったんでしょう? 最低賃金が低すぎる?
T:名目成長率が上がらなかったことです。名目成長率が上がると、最下層の賃金は結構上がります。
K:なるほど。彼らには資産も資本もないので、額面通りの賃金が一番重要だから、名目成長率の上昇が直接効くわけですね。
T:名目成長率はこの10年間くらい、0%から2%の間。これはいくら何でも低すぎる。この状態では最低賃金は上げられない。今、政府の目標として、名目成長率2%となっているが、3年間達成していない。これじゃ経済政策は落第です。他の国は4%くらいです。それくらいだと最下層の賃金はけっこう上がります。最下層が上がると、富裕層の所得が増えても、社会的な問題は起きにくいようです。要するに、最下層の賃金が下がるとか上がらない、というのが一番悪い結果です。なので、マイルドインフレーション、物価の上昇が1%か2%、そういう状態にしておけば、名目成長率は4%前後になります。そうなれば様々な貧困対策がやりやすくなりますよ。
K:そんな簡単な道があるのになぜ日銀はそうしないのでしょう?
T:引締めに生き甲斐を見出している人たちですからね。白川総裁の発言を聞いていると、デフレでもよい、と考えているのがよくわかります。
K:どうすればいいんでしょう? 誰が日銀を制御できるんでしょう?
T:総理大臣です。経済財政諮問会議の議長は総理です。日銀総裁が議員として参加してますから、そこで「頼むからやってくれ」と言うだけでいいんです。総理や与党の議員が公の場で日銀に要請して日銀がどう答えるか。流石に無視はできないでしょう。とはいえ、日銀は政府と目標を共有、と口では言いますが、実際には拒否しています。
K:そうなると何のための日銀なのか、と。
T:自分たちの組織を守ることが大事なんでしょう。
K:政府も日銀も国民の幸せのために存在するはずですよね?
T:もちろんそうです。こういう危機的な状況では、言葉は悪いけど「挙国一致体制」になって、各省庁で連携することが大事です。どこの国も同じです。しかし日銀がどこまで政府とコミュニケーションをとっているのか、私にはよくわかりません。
K:これではいくら財政政策でお金を使っても効かないですよね。
T:マンデル=フレミング理論というノーベル経済学賞をとった理論があります。変動相場制のもとで財政政策をするとその国の通貨が強くなり、政策の効果が外国に流れ出てしまう、だから金融政策のほうが有効である、という理論です。まさに今日本で起こっていることです。
K:日銀に方向転換する勇気も度量もなさそうです。
T:総裁選びにすでに問題がありました。総裁になったら何をする、と目標を掲げる人を選ぶべきでしたが、官僚的な人物を選んでしまいました。
(二日目はここまで)
(三日目)
T:この本は私の愛読書です。私は学部では数学を学んでいました。この本はその後経済学を学びはじめたころに読んだ本です。他の経済学の本は何を言っているのかよく分からなかったんですが、この本は理論的で、言葉の定義もちゃんとしているので読みやすかったです。経済学的思考をわかりやすく説明してくれます。私がアメリカに留学しているとき、経済学者が自分の教科書以外でどの本をすすめるかといえばこの本が一位でした。1960年代の本ですが、今でも売れている名著です。
K:現在、新自由主義やリバタリアニズムが攻撃されています。ミルトン・フリードマンといえばそういった主張をする人だと言われますよね。
T:フリードマンを新自由主義者とかリバタリアンと呼ぶのは、ただのレッテルはりだと思います。彼の本を読んでいないんじゃないでしょうか。この本は社会保障について非常に立派なことを言っています。この本には負の所得税というアイディアが載っているんですが、これは今、ヨーロッパで議論されていますよね。彼はそれを50年前に言っているんです。
K:ベーシック・インカム、つまり(全ての、あるいは低所得の)国民に一定水準のお金を支給する、という考え方ですね。フリードマンのそういう主張を無視して攻撃している、と。
T:やっぱり読んでいないんだと思いますよ。著者の初期に出した本というのはその人の考え方をよくあらわすと思います。私は読んでいて彼のやさしさを感じました。数式も使っていないのでおすすめします。
K:さて現在の日本の場合、社会保障費がどんどん減額しています。必要な人にさえ行き渡っていない現状です。
T:そうですね。日本の場合、社会保障を複数の省がバラバラにやっています。その最たるものが、歳入と社会保障がべつの役所で扱われていることです。こういう状態なので、後期高齢者医療制度のように利用者の年金から捻出みたいなことになるんです。こうすると厚生労働省の一部局の裁量の範囲で収まるというわけです。フリードマンは、社会保障は税務当局と一緒にするべきだ、と言っています。そうすれば後期高齢者医療制度でも、年金ではなくて税金を使えます。フリードマンはまた、社会保障を支給する際に官僚の裁量に任せてはいけない、とも言っています。水準を下回る所得の人には無条件にお金をわたすべきだ、と。正しいと思います。今、生活保護の認定基準は現実にはとてもあやふやですから、所得で基準を設ければ必要な人にも行き渡るでしょう。しかしそれをしてしまえば、担当の役人は必要なくなってしまいます。だから反対するでしょうね。
K:官僚は官僚のルールで動いてしまう。
T:フリードマンは官僚について、まず裁量をあたえるな、と言います。どうしても必要なときは明確なルールをかすべきだ、と。この本では補助金の問題も扱っています。官僚を通して補助金を配るのはだめで、たとえば学校に対する補助金は官僚経由にするのではなくて、学生に配ってしまえば良い。そうすれば学生が自分で学校を選びます。そして多くの学生を獲得した学校が学生を通して補助金を受け取るわけです。これをバウチャーと言います。バウチャーを導入すれば、学校は官僚ではなく学生のほうを向くようになるでしょう。この訳本の解説にも書きましたが、日本の現状はフリードマンに笑われてしまうようなものが多いです。たとえば雇用能力開発機構。廃止が議論されて役人が反対していますが、問題はそのお金を他の人に配った時何ができたのか、ということです。フリードマンは政府の機能を全部民間企業にやらせろなんて言っていません。同じことをやるにしても、市場を通してやるやり方も良いんだ、と言っています。彼はある意味で政府の役割を重視していました。私は「役所がやるよりもっと良いやり方がある」ということをフリードマンから学びました。実際仕事でもよく使った考え方ですよ。
K:官僚の問題は、依頼人(プリンシパル)が代理人(エージェント)をどう動かすか、というプリンシパル=エージェント理論の問題なんですよね。
T:そうです。官僚がちゃんと働くようなインセンティブを考えなくてはいけないんです。日本の役人には監視がついていません。そしてお金だけは集ってくるわけですから、やりたい放題なんですね。
(三日目はここまで)
(四日目)
四日目は正直つまらない。高橋さんは行動経済学に対して結構距離をおいている感じだ。まあ僕も同感。まだよくわからないジャンルだと思う。なので一部だけまとめて、あとは飛ばします。
T:プリンストン大学に行っていたときに、まわりに行動経済学をやっている人が結構いました。経済学の想定する合理性があわない人も多いので、こういう本だと入りやすいんじゃないでしょうか。とはいえ、経済学の想定する合理性はあくまで仮定ですから、経済学者が「どんなときでも合理的な人間」の存在を信じているわけではないです。複雑な経済現象をあつかうモデルを作るときに、そのような人間を想定しているだけですし、そこから応用が効きます。が、結果だけみると「経済学はありえない仮定の上に成り立っている」と思われてしまうようです。
(だいぶ略)
K:この本では人は同じものでも自分が持っているものの価値を高く評価しがちである、という考え方が紹介されています。
T:取り替えるのがメンドクサイ、とも言えます。行動経済学の理論で説明できることを、普通の経済学の合理性で説明することもできますね。天の邪鬼に読むと面白いですよ。
(四日目はここまで)
(五日目)
T:この本では普通の教科書を書いたつもりです。数式を使って説明しても分かってもらえないので、普通の言葉で書きました。ベースはオーソドックスな経済理論です。
K:デフレにどう対処するのか、とても分かりやすく書いてあります。
T:政府は100年に一度の危機と言っていますが、それならばそれなりの政策が出てきそうなものですが、そうはなっていない。つまり危機だと思っていないんです。
K:危機だと気づいていればデフレを放置したりしませんよね。
T:今の問題だけじゃなくて、2006年3月にも金融を引き締めました。外国では考えられないことです。その時物価上昇率が0.5%という数字でした。私は当時は総務省にいましたから、統計の基準が変わったことを知っていましたし、もちろん、この指数は数字が実態よりも大きめに出るものだということも知っていました。ですからそう述べました。実際には物価はマイナスだったんです。にもかかわらず、日銀は金融を引き締めてしまいました。景気が悪くなって当然です。なので竹中大臣(当時)にも言ったんです。大臣はその通りだ、と理解してくれましたが、日銀の当時の総裁の福井さんはまったく聞いてくれなかった。とにかく量的緩和の解除をしたかったようです。マスコミや役所の金融政策に対する理解に問題があると感じます。
K:理解の問題ならまだ良いんですが、もうマインドシェアの問題なのではないでしょうか。
T:日銀がこれだけ批判をうけても頑であるというのは、確かに理解の問題ではないかもしれません。
K:補正予算の話題が新聞に載るシェアはとても多いのに、金融政策の話題はほとんどありません。議論の俎上に載せられていないようです。
T:役所は載せたくないんでしょう。アメリカのウォールストリートジャーナル紙などではFRB議長のバーナンキさんの名前がすごくよく出てきます。日本の新聞に白川さんの名前が出てくることはあまりないですね。
K:金融政策を変えるには日銀総裁候補の育成も含め、戦略的な視点が必要なのではないでしょうか?
T:日銀法を変えなければ無理でしょう。
K:しかし私たちは間違いに気づいたわけですから、改善できそうですよね。
T:金融政策の話題は実にマイナーです。この話題が日経新聞にしょっちゅう載るくらいにならないと、間違いに気づいた、とまでは言えないでしょう。
K:前述の協調利下げの時、メディアの反応がほとんどありませんでした。
T:信じられなかったですね。誰かが「ゼロ金利にはできない」というと、それが簡単に受け入れられてしまう。アメリカではすでに量的緩和に入ってますよ。もうやらなきゃいけない時ですが、やりませんね。不思議です。
K:日本人の多くの人が名目と実質の区別がついていない、というのが障害ですね。
T:名目と実質の区別については、ちょっと前の日本銀行の総裁もわかっていませんでした。これは議事録に載ってますよ。今でもゼロ金利が低金利だという認識がありますね。でもそれは名目値が低金利なだけです。
K:以前、海外の金融商品で名目金利が高いものがあるけど、こういうものは買わないでください、という記事を書いたことがあります。計算するととても不利なんです。
T:海外の実質金利の計算は為替の影響があるので難しいかもしれません。でも国内は簡単です。2001年に竹中さんが大臣になったとき、実質金利の良い指標はないか、と問われたので、物価連動国債というのを導入しました。これが実質金利の指標になります。今10年で2%くらいではないでしょうか。
K:名目金利より高いんですよね。
T:はい。将来のデフレ予想、物価が下がるという予想がはいっているからです。名目は0.5%くらいですが、実質は2~2.5%くらいの金利であるわけです。これをみれば実質金利はすぐにわかります。
K:物価のデータは公表されています。メディアがこれを活用していません。
T:そうですね。あと、マーケットには予想値があります。今の数字だけでなく予想値もみなくてはいけません。実質金利というのは 「名目金利」 − 「将来の物価の予想値」 です。今は将来の物価がマイナスなので、実質金利が名目金利を上回っています。驚くべきことですが、日銀の政策決定会合では、最近までこの予想値のデータがありませんでした。
K:それでどうやって政策を決めるんですか?
T:よくわかりません。経済対策閣僚会議を通してこのデータ(ブレーク・イーブン・インフレーション・レート)を使うようにしてもらいました。でも見てる人はすくないようです。日銀の人はこの資料をいっつも批判します。あてにならない、と。それで彼らは自分たちが作ったアンケート調査の予想値を使います。アンケートですから、正直に言って彼らに都合のいい数値がでていると思います。そう言う意味で、今の金融政策はフェアではありません。
K:そういうアンケートではインフレ気味の結果がでるんですよね。
T:もちろんそうです。ブレーク・イーブン・インフレーション・レートですと、マーケットは-2.5%くらいの数値を予想しています。これはとんでもない数字ですよ。
K:最後に、これだけはやって欲しい、という政策を教えてください。
T:デフレというのはお金が必要なのに、どんどん少なくなっていくことです。だからどんどんお金を刷ることが大事です。日本銀行がお金を出さない、というのが現状ですから、ならば政府が出せば良いんです。GDPの5%くらい、20兆から30兆円のお金を政府が発行する、というのを検討して欲しいですね。
K:日銀に頼らない金融政策が可能なわけですね。
T:そうです。それにこのお金は財源になりますよ。増税ではなく、このお金を財源に社会保障をやったらいいと思いますよ。この政策は普段やればインフレになりますが、今はデフレですから丁度いいんですね。デフレの場合この政策が世界でも標準的です。歴史をみても同様です。
K:いっぺんに30兆じゃなくてもいいんですよね。様子を見ながらでも。
T:年10兆で三年間とか。途中で景気がよくなったら止めればいいんです。
K:是非政府紙幣の発行を検討して欲しいですね。
(おしまい)
と、こんな感じです。この放送を聞いて、97年に橋本総理にウソの不良債権額を報告した大蔵省の人たちは、その後どんな人生を歩んでいるんだろう、なんて考えてました。偉いお役人ってのはどの程度先を見てるもんなんでしょうかね。因果な人たちだなと思います。
そして、この放送から総選挙を経て、さて民主政権はどうなることやら、という状況の現在ですが、ブレーク・イーブン・インフレーション・レートはだいたい-1.5%近辺のようです(財務省のページ。「ブレーク・イーブン・インフレ率の推移」でPDFをダウンロードすると見れます)。つまりマーケットはデフレ予想のまま、というわけですね。残念ながら民主党も自民党と同様、金融政策を軽視しているようですから、目覚ましい改善は期待できません。
追記:このエントリを書いた翌朝、こんなニュースが。
【政権交代 どうなる経済】「日銀とアコード」波紋
民主党の大塚議員が、「日銀との政策協調(アコード)をしていく」的な発言をしたら、なんと「金融界などから批判が続出した」ので議員が釈明に追われているというニュース。金融界が誰のことなのか記事中には書いてないけど、日銀に独立性を与えすぎているといういい例だと思います。アコードに言及するだけで大騒ぎなんですね。そのうちやんごとなき日銀関係者の前を横切ったとかで国会議員が辞職しちゃうんじゃないの?
さらに追記 2009/09/23:
Baatarismさんの「混迷するアコード論議」という記事で知ったんですが、民主党大塚議員が事実関係として以下のように語っています。
なんか、こわ〜。Baatarismさんは、日銀が産経新聞の記者を通して議員に圧力をかけようとしたのでは? と推測しています。たしかにそれ以外の理由ってちょっと思いつかないです。こわ〜。
次回は飯田先生の回をまとめてみたいと思います。ひと月以内にはやるぞ>自分
追記:書きました。飯田先生の回のまとめ
八月に経済学者の飯田泰之さんが、勝間和代さんの「BOOK LOVERS」というwebラジオ番組に出る、と聞いたので楽しみに待っていました。で、ついでにどんな人たちがこの番組に出てるのか、と思ってさかのぼってみてみたら、元財務官僚の高橋洋一さんが出ているじゃありませんか。この間の衆院選、もし高橋さんが活動できていたら、まああんまり結果は変わらなかったでしょうが、こんな発言のいくらかは減ったかもしれないと思うと、返す返すも残念な事件だったなと思うのでした。
「BOOK LOVERS」は勝間さんが毎週ゲストを迎えて、ゲストおすすめの本を五冊くらい紹介するという番組。10分くらいで、一日一冊紹介したり、時にはトークだけの日もあるという感じ。ゲストには小飼弾さんや、押切もえさんなどなど。
で、僕が聴いたのは高橋さんと飯田さんの回で、とても楽しかったので、今日は勝手にまとめちゃおうという趣向。まずは高橋さんの一週間から。リフレ派はこんなに批判しているのになぜ日銀や財務省は政策を変えないのか、その理由が語られます。長いです。実際の文言とは全然違いますのでご注意。(高橋さんは2008年の12月22日から26日まで、飯田さんは今年の8月17日から21日まで)
追記:飯田さんの回のまとめも書きました。コチラです。
(一日目)
![]() 日本は 財政危機ではない! 高橋洋一 |
高橋さん(以下 T):経済官僚が経済学を学んでいない国は、確かに珍しい。彼らは経済政策を作る時、経済学を使っていないんです。
K:じゃあ何を使うんですか?
T:雰囲気とか空気を読んだり、政治的な折衝で政策を作る。日本の独特なところといっていいですね。これは90年代以降の日本の経済停滞をどう解釈するか、というところが問題です。マクロ経済政策が失敗したという解釈と、仕方がなかったという解釈。仕方がなかったという人が多いので、なかなか政策が変わっていかない。というのも、日銀も財務省も、失敗したとなれば責任問題になると思っているから。
K:でも責任問題ではないですよね? 間違ったのならば改めればいい。
T:私は過去に役所の評価制度を作る仕事をしてましたが、みんな反対してました。なんであれ役所は評価されるのをいやがりますからね。
K:役所の終身雇用に問題があると思うのですが。
T:身内の論理になってしまいがち。外部からの評価をいやがります。さらに、自分たちの政策を後になって評価することもしません。よくある役所の弊害なんです(笑)。
K:……。でも被害を受けるのは役所の人も含めて国民ですよね。
T:役人はあまり困らないですね。終身雇用で年功序列ですから(笑)。
K:今、非正規雇用の解雇が問題になっています。これも政策の失敗でしょうか?
T:景気を良くしないと対策が難しい問題ですが、景気の底上げをやっていない。
K:財政危機だから景気対策はできない、という話を良く聞きますが。
T:日本政府の負債はネットで300兆円。財務省は1,000兆円とか言っているが、資産が700兆円ある。さらに国には徴税権、つまり税金をあつめる権利があって、これは確実な収入だから、債務超過といっても一般企業と違ってすぐに破産にはならない。借金をいくら増やしてもいいとは言わないが、今すぐ増税という段階ではまるでないんですね。
K:プライマリーバランスが悪いから増税! みたいな議論が横行しています。
T:プライマリーバランスは指標としては財政収支より優れている。プライマリーバランスは企業で言えば営業収支(営業利益)。プライマリーバランスはちょっと景気が良くなれば簡単に改善するものです。景気の話をしないで増税の話をするのがおかしい。
K:増税して景気の足を引っ張るよりも景気を良くしたほうがいい。それも財政じゃなくて金融で、ということですね。
T:そうです。金融というとすぐにゼロ金利だからもう無理っていうんですけど、金融の世界では実質金利(物価の影響を差し引いた金利)でみます。アメリカはもうマイナス金利です。日本は他の国にくらべて引き締めぎみなので円高になってます。円高は景気の足を引っ張ります。そうやって悪循環になってますね。
K:2008年10月の先進各国の協調利下げに日銀は参加しませんでした。
T:驚きましたね。円高になるに決まってます。
K:その三週間後にちょっとだけ利下げしました。
T:後だしにしても意味ないです。他の国と同様に、金融緩和を断行する、と宣言すべきなんですが何故かしませんね。今の日銀総裁は以前、金融を引き締めて失敗した人。なので、ここで緩和策を打って成功してしまうと、過去の失敗を認めなきゃいけなくなると考えている。日本にとっては不幸なことです。
K:いくら財政政策を発動しても金融政策が縮小しては意味がないですよね?
T:両方拡張しないと意味ないです。政府と中央銀行が協力する必要があります。現在はどちらも引き締め気味ですね。協力もしてませんが。
K:それは経済学者にとっては常識だと思うのですが、なぜ政府や日銀には通用しないのでしょう?
T:一つは98年に日銀法を改正するときに、世界的に例がないほど、日銀の独立性を強めてしまったこと。それで日銀が政府を無視するようになった。法律をつくった人たちがあまりよく分かってなかったんですね。もう一つは政府のリーダーシップの問題。麻生総理(当時)が金融政策を否定してしまっている。
K:なぜ?
T:麻生さんに最初に言った人がいるから。誰かが麻生さんに「財政政策だけでいきましょう」と言って、それを麻生さんが表で言っちゃう。そうなると、それをひっくり返すのは難しくなってしまう。よくあるパターンです(笑)。
(ここまで一日目)
(二日目)
![]() 「生きづらさ」について 萱野稔人・雨宮処凛 |
K:私たちは金銭格差ばかり問題にしがちですが、人的な資本でも格差ができてしまっている。経済政策で景気が良くなれば、こういった窮状はなくなるのでしょうか?
T:ちょっと景気が良くなればそれで解決、という話ではないです。でも、一番最初にするべきことは上げ潮、つまり景気を良くして失業を減らすことです。しかし失業率だけでは非正規の窮状は分からないですから注意が必要です。
K:上げ潮という考えには私も賛成ですが、小泉・竹中路線ではそれをねらったにも関わらず格差が拡大したという批判があります。
T:上げ潮で一番重要なのは最下層の所得を上げること。ですが、それがうまく行かなかったのは事実です。平均的にはちょっと上がったんですが、最下層の所得は上がりませんでした。政策としては成功しませんでした。
K:何がいけなかったんでしょう? 最低賃金が低すぎる?
T:名目成長率が上がらなかったことです。名目成長率が上がると、最下層の賃金は結構上がります。
K:なるほど。彼らには資産も資本もないので、額面通りの賃金が一番重要だから、名目成長率の上昇が直接効くわけですね。
T:名目成長率はこの10年間くらい、0%から2%の間。これはいくら何でも低すぎる。この状態では最低賃金は上げられない。今、政府の目標として、名目成長率2%となっているが、3年間達成していない。これじゃ経済政策は落第です。他の国は4%くらいです。それくらいだと最下層の賃金はけっこう上がります。最下層が上がると、富裕層の所得が増えても、社会的な問題は起きにくいようです。要するに、最下層の賃金が下がるとか上がらない、というのが一番悪い結果です。なので、マイルドインフレーション、物価の上昇が1%か2%、そういう状態にしておけば、名目成長率は4%前後になります。そうなれば様々な貧困対策がやりやすくなりますよ。
K:そんな簡単な道があるのになぜ日銀はそうしないのでしょう?
T:引締めに生き甲斐を見出している人たちですからね。白川総裁の発言を聞いていると、デフレでもよい、と考えているのがよくわかります。
K:どうすればいいんでしょう? 誰が日銀を制御できるんでしょう?
T:総理大臣です。経済財政諮問会議の議長は総理です。日銀総裁が議員として参加してますから、そこで「頼むからやってくれ」と言うだけでいいんです。総理や与党の議員が公の場で日銀に要請して日銀がどう答えるか。流石に無視はできないでしょう。とはいえ、日銀は政府と目標を共有、と口では言いますが、実際には拒否しています。
K:そうなると何のための日銀なのか、と。
T:自分たちの組織を守ることが大事なんでしょう。
K:政府も日銀も国民の幸せのために存在するはずですよね?
T:もちろんそうです。こういう危機的な状況では、言葉は悪いけど「挙国一致体制」になって、各省庁で連携することが大事です。どこの国も同じです。しかし日銀がどこまで政府とコミュニケーションをとっているのか、私にはよくわかりません。
K:これではいくら財政政策でお金を使っても効かないですよね。
T:マンデル=フレミング理論というノーベル経済学賞をとった理論があります。変動相場制のもとで財政政策をするとその国の通貨が強くなり、政策の効果が外国に流れ出てしまう、だから金融政策のほうが有効である、という理論です。まさに今日本で起こっていることです。
K:日銀に方向転換する勇気も度量もなさそうです。
T:総裁選びにすでに問題がありました。総裁になったら何をする、と目標を掲げる人を選ぶべきでしたが、官僚的な人物を選んでしまいました。
(二日目はここまで)
(三日目)
![]() 資本主義と自由 ミルトン・フリードマン |
K:現在、新自由主義やリバタリアニズムが攻撃されています。ミルトン・フリードマンといえばそういった主張をする人だと言われますよね。
T:フリードマンを新自由主義者とかリバタリアンと呼ぶのは、ただのレッテルはりだと思います。彼の本を読んでいないんじゃないでしょうか。この本は社会保障について非常に立派なことを言っています。この本には負の所得税というアイディアが載っているんですが、これは今、ヨーロッパで議論されていますよね。彼はそれを50年前に言っているんです。
K:ベーシック・インカム、つまり(全ての、あるいは低所得の)国民に一定水準のお金を支給する、という考え方ですね。フリードマンのそういう主張を無視して攻撃している、と。
T:やっぱり読んでいないんだと思いますよ。著者の初期に出した本というのはその人の考え方をよくあらわすと思います。私は読んでいて彼のやさしさを感じました。数式も使っていないのでおすすめします。
K:さて現在の日本の場合、社会保障費がどんどん減額しています。必要な人にさえ行き渡っていない現状です。
T:そうですね。日本の場合、社会保障を複数の省がバラバラにやっています。その最たるものが、歳入と社会保障がべつの役所で扱われていることです。こういう状態なので、後期高齢者医療制度のように利用者の年金から捻出みたいなことになるんです。こうすると厚生労働省の一部局の裁量の範囲で収まるというわけです。フリードマンは、社会保障は税務当局と一緒にするべきだ、と言っています。そうすれば後期高齢者医療制度でも、年金ではなくて税金を使えます。フリードマンはまた、社会保障を支給する際に官僚の裁量に任せてはいけない、とも言っています。水準を下回る所得の人には無条件にお金をわたすべきだ、と。正しいと思います。今、生活保護の認定基準は現実にはとてもあやふやですから、所得で基準を設ければ必要な人にも行き渡るでしょう。しかしそれをしてしまえば、担当の役人は必要なくなってしまいます。だから反対するでしょうね。
K:官僚は官僚のルールで動いてしまう。
T:フリードマンは官僚について、まず裁量をあたえるな、と言います。どうしても必要なときは明確なルールをかすべきだ、と。この本では補助金の問題も扱っています。官僚を通して補助金を配るのはだめで、たとえば学校に対する補助金は官僚経由にするのではなくて、学生に配ってしまえば良い。そうすれば学生が自分で学校を選びます。そして多くの学生を獲得した学校が学生を通して補助金を受け取るわけです。これをバウチャーと言います。バウチャーを導入すれば、学校は官僚ではなく学生のほうを向くようになるでしょう。この訳本の解説にも書きましたが、日本の現状はフリードマンに笑われてしまうようなものが多いです。たとえば雇用能力開発機構。廃止が議論されて役人が反対していますが、問題はそのお金を他の人に配った時何ができたのか、ということです。フリードマンは政府の機能を全部民間企業にやらせろなんて言っていません。同じことをやるにしても、市場を通してやるやり方も良いんだ、と言っています。彼はある意味で政府の役割を重視していました。私は「役所がやるよりもっと良いやり方がある」ということをフリードマンから学びました。実際仕事でもよく使った考え方ですよ。
K:官僚の問題は、依頼人(プリンシパル)が代理人(エージェント)をどう動かすか、というプリンシパル=エージェント理論の問題なんですよね。
T:そうです。官僚がちゃんと働くようなインセンティブを考えなくてはいけないんです。日本の役人には監視がついていません。そしてお金だけは集ってくるわけですから、やりたい放題なんですね。
(三日目はここまで)
(四日目)
![]() 経済は感情で動く マッテオ・モッテルリーニ |
四日目は正直つまらない。高橋さんは行動経済学に対して結構距離をおいている感じだ。まあ僕も同感。まだよくわからないジャンルだと思う。なので一部だけまとめて、あとは飛ばします。
T:プリンストン大学に行っていたときに、まわりに行動経済学をやっている人が結構いました。経済学の想定する合理性があわない人も多いので、こういう本だと入りやすいんじゃないでしょうか。とはいえ、経済学の想定する合理性はあくまで仮定ですから、経済学者が「どんなときでも合理的な人間」の存在を信じているわけではないです。複雑な経済現象をあつかうモデルを作るときに、そのような人間を想定しているだけですし、そこから応用が効きます。が、結果だけみると「経済学はありえない仮定の上に成り立っている」と思われてしまうようです。
(だいぶ略)
K:この本では人は同じものでも自分が持っているものの価値を高く評価しがちである、という考え方が紹介されています。
T:取り替えるのがメンドクサイ、とも言えます。行動経済学の理論で説明できることを、普通の経済学の合理性で説明することもできますね。天の邪鬼に読むと面白いですよ。
(四日目はここまで)
(五日目)
![]() この金融政策が 日本経済を救う 高橋洋一 |
K:デフレにどう対処するのか、とても分かりやすく書いてあります。
T:政府は100年に一度の危機と言っていますが、それならばそれなりの政策が出てきそうなものですが、そうはなっていない。つまり危機だと思っていないんです。
K:危機だと気づいていればデフレを放置したりしませんよね。
T:今の問題だけじゃなくて、2006年3月にも金融を引き締めました。外国では考えられないことです。その時物価上昇率が0.5%という数字でした。私は当時は総務省にいましたから、統計の基準が変わったことを知っていましたし、もちろん、この指数は数字が実態よりも大きめに出るものだということも知っていました。ですからそう述べました。実際には物価はマイナスだったんです。にもかかわらず、日銀は金融を引き締めてしまいました。景気が悪くなって当然です。なので竹中大臣(当時)にも言ったんです。大臣はその通りだ、と理解してくれましたが、日銀の当時の総裁の福井さんはまったく聞いてくれなかった。とにかく量的緩和の解除をしたかったようです。マスコミや役所の金融政策に対する理解に問題があると感じます。
K:理解の問題ならまだ良いんですが、もうマインドシェアの問題なのではないでしょうか。
T:日銀がこれだけ批判をうけても頑であるというのは、確かに理解の問題ではないかもしれません。
K:補正予算の話題が新聞に載るシェアはとても多いのに、金融政策の話題はほとんどありません。議論の俎上に載せられていないようです。
T:役所は載せたくないんでしょう。アメリカのウォールストリートジャーナル紙などではFRB議長のバーナンキさんの名前がすごくよく出てきます。日本の新聞に白川さんの名前が出てくることはあまりないですね。
K:金融政策を変えるには日銀総裁候補の育成も含め、戦略的な視点が必要なのではないでしょうか?
T:日銀法を変えなければ無理でしょう。
K:しかし私たちは間違いに気づいたわけですから、改善できそうですよね。
T:金融政策の話題は実にマイナーです。この話題が日経新聞にしょっちゅう載るくらいにならないと、間違いに気づいた、とまでは言えないでしょう。
K:前述の協調利下げの時、メディアの反応がほとんどありませんでした。
T:信じられなかったですね。誰かが「ゼロ金利にはできない」というと、それが簡単に受け入れられてしまう。アメリカではすでに量的緩和に入ってますよ。もうやらなきゃいけない時ですが、やりませんね。不思議です。
K:日本人の多くの人が名目と実質の区別がついていない、というのが障害ですね。
T:名目と実質の区別については、ちょっと前の日本銀行の総裁もわかっていませんでした。これは議事録に載ってますよ。今でもゼロ金利が低金利だという認識がありますね。でもそれは名目値が低金利なだけです。
K:以前、海外の金融商品で名目金利が高いものがあるけど、こういうものは買わないでください、という記事を書いたことがあります。計算するととても不利なんです。
T:海外の実質金利の計算は為替の影響があるので難しいかもしれません。でも国内は簡単です。2001年に竹中さんが大臣になったとき、実質金利の良い指標はないか、と問われたので、物価連動国債というのを導入しました。これが実質金利の指標になります。今10年で2%くらいではないでしょうか。
K:名目金利より高いんですよね。
T:はい。将来のデフレ予想、物価が下がるという予想がはいっているからです。名目は0.5%くらいですが、実質は2~2.5%くらいの金利であるわけです。これをみれば実質金利はすぐにわかります。
K:物価のデータは公表されています。メディアがこれを活用していません。
T:そうですね。あと、マーケットには予想値があります。今の数字だけでなく予想値もみなくてはいけません。実質金利というのは 「名目金利」 − 「将来の物価の予想値」 です。今は将来の物価がマイナスなので、実質金利が名目金利を上回っています。驚くべきことですが、日銀の政策決定会合では、最近までこの予想値のデータがありませんでした。
K:それでどうやって政策を決めるんですか?
T:よくわかりません。経済対策閣僚会議を通してこのデータ(ブレーク・イーブン・インフレーション・レート)を使うようにしてもらいました。でも見てる人はすくないようです。日銀の人はこの資料をいっつも批判します。あてにならない、と。それで彼らは自分たちが作ったアンケート調査の予想値を使います。アンケートですから、正直に言って彼らに都合のいい数値がでていると思います。そう言う意味で、今の金融政策はフェアではありません。
K:そういうアンケートではインフレ気味の結果がでるんですよね。
T:もちろんそうです。ブレーク・イーブン・インフレーション・レートですと、マーケットは-2.5%くらいの数値を予想しています。これはとんでもない数字ですよ。
K:最後に、これだけはやって欲しい、という政策を教えてください。
T:デフレというのはお金が必要なのに、どんどん少なくなっていくことです。だからどんどんお金を刷ることが大事です。日本銀行がお金を出さない、というのが現状ですから、ならば政府が出せば良いんです。GDPの5%くらい、20兆から30兆円のお金を政府が発行する、というのを検討して欲しいですね。
K:日銀に頼らない金融政策が可能なわけですね。
T:そうです。それにこのお金は財源になりますよ。増税ではなく、このお金を財源に社会保障をやったらいいと思いますよ。この政策は普段やればインフレになりますが、今はデフレですから丁度いいんですね。デフレの場合この政策が世界でも標準的です。歴史をみても同様です。
K:いっぺんに30兆じゃなくてもいいんですよね。様子を見ながらでも。
T:年10兆で三年間とか。途中で景気がよくなったら止めればいいんです。
K:是非政府紙幣の発行を検討して欲しいですね。
(おしまい)
と、こんな感じです。この放送を聞いて、97年に橋本総理にウソの不良債権額を報告した大蔵省の人たちは、その後どんな人生を歩んでいるんだろう、なんて考えてました。偉いお役人ってのはどの程度先を見てるもんなんでしょうかね。因果な人たちだなと思います。
そして、この放送から総選挙を経て、さて民主政権はどうなることやら、という状況の現在ですが、ブレーク・イーブン・インフレーション・レートはだいたい-1.5%近辺のようです(財務省のページ。「ブレーク・イーブン・インフレ率の推移」でPDFをダウンロードすると見れます)。つまりマーケットはデフレ予想のまま、というわけですね。残念ながら民主党も自民党と同様、金融政策を軽視しているようですから、目覚ましい改善は期待できません。
追記:このエントリを書いた翌朝、こんなニュースが。
【政権交代 どうなる経済】「日銀とアコード」波紋
民主党の大塚議員が、「日銀との政策協調(アコード)をしていく」的な発言をしたら、なんと「金融界などから批判が続出した」ので議員が釈明に追われているというニュース。金融界が誰のことなのか記事中には書いてないけど、日銀に独立性を与えすぎているといういい例だと思います。アコードに言及するだけで大騒ぎなんですね。そのうちやんごとなき日銀関係者の前を横切ったとかで国会議員が辞職しちゃうんじゃないの?
さらに追記 2009/09/23:
Baatarismさんの「混迷するアコード論議」という記事で知ったんですが、民主党大塚議員が事実関係として以下のように語っています。
今日の大手紙及びその関連紙が、「アコード」に関連した動きについて興味深い報道をしていました。おもしろく読ませて頂きましたが、記事にあるような「批判続出」ということは全くありません。「火消しに奔走」という事実もありません。日銀からのクレームも一切ありません。記事を書いたと思われる記者からの取材もありません。驚くべきことです。マスコミの体質は社会にも大きな影響を与えますので、報道の質の向上に真面目に取り組んでいる記者、正当派のジャーナリストの取材にはできる限り応じていきたいと思います。
なんか、こわ〜。Baatarismさんは、日銀が産経新聞の記者を通して議員に圧力をかけようとしたのでは? と推測しています。たしかにそれ以外の理由ってちょっと思いつかないです。こわ〜。
次回は飯田先生の回をまとめてみたいと思います。ひと月以内にはやるぞ>自分
追記:書きました。飯田先生の回のまとめ
2009年6月23日火曜日
「去私」の人?
この間所用でお役所に行った。んで、待ち時間があったので、壁にかかってるテレビをみて待ってた。テレビのニュースをじっとみるなんて久しぶりだなあと思ってたら、与謝野大臣が出てきた。僕は新聞も読まないし、大臣の顔を見るのはホントに久しぶりだったんだけど、なんか随分痩せてるじゃないですか。やっぱ三大臣兼務なんて無理ですよ。
『山本七平の日本の歴史(上)』の中で、著者は夏目漱石の『こころ』を分析しながら、日本人にありがちな精神的な態度を提示している。勝手な要約をしてしまうと、危機や変化に出会った時、日本人は「去私」足らんとする。つまり自分の欲望や理想や目的をなげうって、周囲の人のために動いているかのように振る舞うということだ。このような指導者は超人的な虚のエネルギーを生み出す。何せ本人には目的がないかのような状態だから、周囲の人はいくらでも忖度できるわけで、どんどん祭り上げられてゆく。そして周囲の思惑がぶつかり合って事態がどちらに転がるか、まったく予想ができない。このような人物の例として乃木希典があげられている。乃木は明治天皇が崩御した時に自決したが、「去私」であるのだからそれも当然だったわけだ。要約はここまで。
無理をするのも「去私」の一形態なんじゃないんだろうか。しかし「去私」は人の頭の中にだけ存在するのであって、現実の問題に対しては何の効力も持たない。もちろん与謝野さんが「去私」の人かどうか、僕は知らない。でも、三大臣兼務ってのはもう超人の域だと思う。また、彼がよく言う「責任」というのも、誰の誰に対する責任なのかよく分からない。国の債務を担うのは現役世代なのだから、返済の仕方はその世代に任せるのがスジじゃないの? と僕は思う。今増税したって債務の総額から言えば微々たるものだ。返済そのものよりも、返済しやすい経済状態を目指したほうがいい。時間をかけて返していけば負担も分散できる。
親になって子供が思春期くらいになると、「去私」の構えで子供に接する人たちを結構よく見かける。僕の母もそうだったし、友人の親もそうだったようだ。自分の目的や理想を押し殺して、ただあなたの幸せを願ってる、みたいな。それは美しい態度なのかもしれないが、子供達の不安や焦燥感を癒す事は無い。
僕たちが「去私」を回避して現実と向き合うためには、おそらく凡庸な理想を(ひっそりと)掲げることが大事なんじゃないかと思っている。子供達には善良であって欲しいものだし、国の債務の返済は過激なものでなく、余裕のあるものであって欲しい。まったく凡庸だ。しかし、「将来世代に負担をかけない」という理想は、人智を離れてると思う。これでは現実に対処することは難しいだろう。
なんか話がよくわからなくなりましたが、結局言いたいことは、無理したって行いが正当化されたりしないよ、ということでした。身体にもよくなさそうなんで、三大臣兼務は辞めて欲しいですね。
![]() 山本七平の 日本の歴史(上) 山本七平 |
無理をするのも「去私」の一形態なんじゃないんだろうか。しかし「去私」は人の頭の中にだけ存在するのであって、現実の問題に対しては何の効力も持たない。もちろん与謝野さんが「去私」の人かどうか、僕は知らない。でも、三大臣兼務ってのはもう超人の域だと思う。また、彼がよく言う「責任」というのも、誰の誰に対する責任なのかよく分からない。国の債務を担うのは現役世代なのだから、返済の仕方はその世代に任せるのがスジじゃないの? と僕は思う。今増税したって債務の総額から言えば微々たるものだ。返済そのものよりも、返済しやすい経済状態を目指したほうがいい。時間をかけて返していけば負担も分散できる。
親になって子供が思春期くらいになると、「去私」の構えで子供に接する人たちを結構よく見かける。僕の母もそうだったし、友人の親もそうだったようだ。自分の目的や理想を押し殺して、ただあなたの幸せを願ってる、みたいな。それは美しい態度なのかもしれないが、子供達の不安や焦燥感を癒す事は無い。
僕たちが「去私」を回避して現実と向き合うためには、おそらく凡庸な理想を(ひっそりと)掲げることが大事なんじゃないかと思っている。子供達には善良であって欲しいものだし、国の債務の返済は過激なものでなく、余裕のあるものであって欲しい。まったく凡庸だ。しかし、「将来世代に負担をかけない」という理想は、人智を離れてると思う。これでは現実に対処することは難しいだろう。
なんか話がよくわからなくなりましたが、結局言いたいことは、無理したって行いが正当化されたりしないよ、ということでした。身体にもよくなさそうなんで、三大臣兼務は辞めて欲しいですね。
2009年4月29日水曜日
『占領下三年のおもいで』について
このエントリは書評・池田勇人『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』(とその補足)のつづきです。
池田勇人は昭和24年に大蔵大臣に就任した。この『占領下三年のおもいで』(以下『おもいで』)という文章は、それから3年間の出来事を実業之日本編集局長山田勝人に語ったものを編集したものだ。文庫本で100ページ近くあり読み応えのあるものになっている。
で、タイトル通り、占領時代の話なわけで、「はしがき」に次のようにある。
さすが19世紀生まれ、という感じです。つづいて、世の中から学者といわれるような人がソ連を含んだ全面講和がなされないのなら占領継続のほうがマシ、とかいう人がいるけど信じられないよ、と述べて本文がはじまる。
『均衡財政』では戦後の経済を立て直す政策の解説をしたわけだが、『おもいで』ではその政策を決定するまでのいきさつや、あるいは実現されなかった政策について語っている。
さて、池田が蔵相になったのはドッジの来日直後であった。
ドッジと池田はまず政府の補助金を大きく減らすことで一致するが、この案が司令部では随分と受けが悪い。
二人は反対を押し切ってしまう。そして、
もう一つできなかったのが減税だ。池田の意を察した民自党の幹部がドッジに掛け合ったのだが、
という理由で断られてしまったようだ。池田とドッジは大まかな方針では一致しつつも、具体的な政策では常にもめていた。で、その大まかな方針というのは、財政を均衡させながら国民の生活水準を高めるというもの。
そうしてインフレが収まると、こんどはデフレの危機が迫ってきた。『均衡財政』にもあるが、池田はリフレ政策の承認を得るために渡米することになった。その前にマッカーサーと面談することになったのだが、その様子が面白い。長く引用しよう。
立派な考えだなあと素直に思います。池田もその点を認めていて高く評価している。が、
反映されなかった理由として、マッカーサーが孤高の人なので、彼の考えを周囲はよく理解できなかったし、彼の考えの勝手な解釈が司令部にあふれて、衝突し、統一のとれぬまま日本政府に押し付けられたため、としている。
さて池田の渡米は経済政策の承認をドッジから得るためだけではなく、経済の好転から独立の気運が高まったきたために、ワシントンに打診するためでもあった。と、ここで先に進む前に、当然の疑問に答えている。
そして渡米と相成るわけだが、彼の地において、一行は「高からず安からぬ中位のホテルに入れられ[p.230]」余計なことを言って東京の司令部を刺激しては困る、ということでタイトなスケジュールが組まれていたそうだ。ここで白洲次郎が登場してくる。
その次の文は随分謎めいている。
さて、独立についての話は、というと、
帰朝後、池田が吉田総理にした報告の抜粋がのっているが、これも面白い。ジョンソン国防長官とアチソン国務長官の相違、トルーマンの性格、ダレス日本担当官の影響などが記されている。が、すでに僕は本文を引用しすぎていると思うので、ここら辺でやめよう。次に「今日に至るまで米の問題だけが解決できないでいる」という米の統制の問題について書いて終わりにしよう。
米の統制撤廃は、インフレの間は農家に非常に人気のあるスローガンだったので、政治家達は声高に訴えていたけど、インフレが収束していくと、とうの農家が統制撤廃に反対しはじめた。つまり、物不足のうちは、いくらでも高く売れるのだから価格統制なんて邪魔以外の何者でもない。市場価格のほうが公定価格よりもかなり高いのだ。だからヤミで随分もうけた農家がいる。が、物の生産が回復してくると、当然、物の値段は下がる。だから今度は価格を統制して、市場価格より高く売りたい、というわけだ。補助金の問題というのは大体こんな感じなんですね、今も昔も*1。
この後は司令部とのうんざりするような交渉、朝鮮戦争の勃発、講和条約のための国内調整(ここでは麻生太郎総理大臣のご両親が登場する)、そして講和会議の様子が描かれている。どれも無類の面白さなので、是非読んでみてください。最後に池田がとくに記しているフランスの外務大臣ロベール・シューマンの講和会議での演説を引用しよう。
*1:米の補助金って今もこんな感じなんでしょうか? よくしりません。ただ、川島博之『「食料危機」をあおってはいけない』みたいな本を読むと、まあ外国でも当たり前のようだし、問題の規模としても小さく感じるのでどうでもいいか、と思わなくもない。もちろん保護されている分だけ消費者が負担しているわけだけど、当面はしかたないかな、と。
池田勇人は昭和24年に大蔵大臣に就任した。この『占領下三年のおもいで』(以下『おもいで』)という文章は、それから3年間の出来事を実業之日本編集局長山田勝人に語ったものを編集したものだ。文庫本で100ページ近くあり読み応えのあるものになっている。
で、タイトル通り、占領時代の話なわけで、「はしがき」に次のようにある。
記憶をたどってみると随分面白い話がある。しかし、なにぶんにも生々しいことが多いし、日本も国際社会に独り立ちするようになったのだから、よその国に直接迷惑の及ぶ話しはしないのが礼儀である。それから、個人的な攻撃にわたることもいうべきでない。あの人のためにひどい目にあったという想い出ばなしは、「交断つとも悪声を出さず」という君子の道徳に反する。[p.219]
さすが19世紀生まれ、という感じです。つづいて、世の中から学者といわれるような人がソ連を含んだ全面講和がなされないのなら占領継続のほうがマシ、とかいう人がいるけど信じられないよ、と述べて本文がはじまる。
『均衡財政』では戦後の経済を立て直す政策の解説をしたわけだが、『おもいで』ではその政策を決定するまでのいきさつや、あるいは実現されなかった政策について語っている。
さて、池田が蔵相になったのはドッジの来日直後であった。
私は、昭和二十四年の二月に大蔵大臣になったのだが、それはワシントンから日本経済安定のための九原則が出されて、ドッジがその最初の具体化のために日本に来た直後だった。その時まで、日本の経済はインフレーションの渦巻のなかで崩壊の一歩前にあり、国の予算なども、四、五ヶ月に一度位ずつ補正予算を出す有様で、おまけに国会に安定勢力がなかったから、多い時は数回補正予算を出したことがあったと思う。そうなると、それはもう予算というよりは、大福帳に近いもので、国がその日暮らしをしてきたわけである。ワシントンでも、この有様をこれ以上放置しておけないとみて、ドイツで腕前を示したドッジを東京へ送ったわけだが、丁度一月の総選挙で、民自党が絶対多数をとったために、国内的には、腹さえ決まれば、かなり強引な手術ができる基盤はあったわけだ。[p.220]
ドッジと池田はまず政府の補助金を大きく減らすことで一致するが、この案が司令部では随分と受けが悪い。
[学者の他に:引用者] また司令部内でも、ニュー・ディールの系統を受けた若い理論家達が多かったので、ドッジと私との一致した結論には内外に猛烈な反対があった。[p.221]
二人は反対を押し切ってしまう。そして、
その時ついでに、もしこれが巧くいったら、三年間のうちに全部補給金を切ろう、最後に主食が残るかもしれないが、そこまでゆけば、その時米の統制撤廃ができればよし、できなくとも補給金の額は知れたものだという話をして、二人の間で三年先の約束をした。この約束は九分通り達成されたわけだが、朝鮮動乱が起きて、中共が介入してきたために、今日に至るまで米の問題だけが解決できないでいる。[p.222]
もう一つできなかったのが減税だ。池田の意を察した民自党の幹部がドッジに掛け合ったのだが、
占領軍が日本の国内のポリティックスのために動かされたといわれるのがいやだったから[p.244]
という理由で断られてしまったようだ。池田とドッジは大まかな方針では一致しつつも、具体的な政策では常にもめていた。で、その大まかな方針というのは、財政を均衡させながら国民の生活水準を高めるというもの。
彼[ドッジ]は古典的資本主義の信条を持ち、またその方法論を適用して日本の経済危機を救ったのだから、なるべく金のかからぬ政府を作ろう、という根本的な方針には賛成の人ではあるのだが、冷酷なまでに徹底した信念は、時として、私を困らせることがあった。[p.225]
そうしてインフレが収まると、こんどはデフレの危機が迫ってきた。『均衡財政』にもあるが、池田はリフレ政策の承認を得るために渡米することになった。その前にマッカーサーと面談することになったのだが、その様子が面白い。長く引用しよう。
私は昭和二十五年の四月、渡米するに先立ってマッカーサーと会った。有名な何とかいう百姓のようなパイプを右手にしてマッカーサーが開口一番「金は、」といった時、サスペンスもあり十分な役者であったが、その説くところの深いのには感心させられた。彼は要するに「金」は何世紀の間人類の交易の手段であり、したがって和解の手段であった。ところが、今やその大部分が米国に集まってしまった結果、各国の間の交易の手段は失われんとし、それにしたがって和解の道も閉ざされようとしている。しかも、金に代わるものはまだ生まれていない。その結果としてアメリカには「過剰のための貧困」があり、丁度日本の「貧困のための貧困」と対照をなしている。いずれも困難な問題である。というのである。「金」に代わるものは「信用」なのだ、と私はいおうと思ったが、マッカーサーは一度話し出すとなかなか雄弁で止まらない。「そもそも大蔵大臣というものは」というのが次のセンテンスの始まりで、大蔵大臣は国民から憎まれることをもって職とせねばならぬ(彼がこの時腹の中で、私がその一月ほど前にいった中小企業の五人や十人つぶれても云々ということばを想い浮かべていたことは明らかである)、何となれば、大蔵大臣の職務はできるだけ国の費用を切り詰め、国民の租税負担を軽くすることでなければならぬ。支那の王道は、国民の税金を減らすことを最高の目的とした。古今東西政権の交代をみるに、政道にある者が奢侈にわたれば必ず百姓は一揆し、逆に質素を旨とする王者は長く民生の安定をえている。そこで、貴下の当面の問題は、まず日本国民の税金を減らすこと、それから官吏の給料がいかにも低いから、これを適当に引き上げて、徐々に国民生活の向上をはかることであろうと思う、というのがマッカーサーの考え方の趣旨であった。[p.226]
立派な考えだなあと素直に思います。池田もその点を認めていて高く評価している。が、
ただ、これだけ立派なマッカーサーの考え方が、時として、実際の司令部の行政の上に十分に反映されなかったのは、遺憾というほかはない。[p.227]
反映されなかった理由として、マッカーサーが孤高の人なので、彼の考えを周囲はよく理解できなかったし、彼の考えの勝手な解釈が司令部にあふれて、衝突し、統一のとれぬまま日本政府に押し付けられたため、としている。
さて池田の渡米は経済政策の承認をドッジから得るためだけではなく、経済の好転から独立の気運が高まったきたために、ワシントンに打診するためでもあった。と、ここで先に進む前に、当然の疑問に答えている。
経済問題については、一見、東京の司令部の承認さえ得れば、よさそうに思われるかも知れないが、その時すでにドッジの名は、日本の経済再建から切り離せないまでに高く、彼と交渉せずに、東京の司令部が独断で、財政経済政策の決定をすることは、事実上困難であった。むしろ前にのべたように、当初ドッジの補給金削減案に反対した東京のニュー・ディラーたちは、私などに対しても冷ややかな態度であっただけに、吉田総理としては、東京の司令部の威厳を損なわぬように非常な努力を払い、私の渡米問題についても、マッカーサー元帥とは十分打ち合わせをしたようである。[p.229]
そして渡米と相成るわけだが、彼の地において、一行は「高からず安からぬ中位のホテルに入れられ[p.230]」余計なことを言って東京の司令部を刺激しては困る、ということでタイトなスケジュールが組まれていたそうだ。ここで白洲次郎が登場してくる。
同行した白洲次郎君ははじめ一日くらいは行動をともにしたが、二日目くらいから、自分は財政経済は全然分からぬから見学しても無駄だ、昔の友達がたくさんいるから、油を売ってくる、といい出し、彼だけは行動の自由を確保した。昔の友達というのは、ロックフェラアとか、グルウだとか、政府の役人にとってはうるさい人ばかりで、そこへ出掛けて、白洲君が何をいい出すか分からぬというので、陸軍省や国務省の人は随分気を揉んだらしい。何しろ、日本政府の代表者が占領軍のワクの外で物をいう最初の機会であったから、白洲君は十分に自由を行使して、講和の最初の固めをしたようだが、詳しいことはここではのべない。[p.231]
その次の文は随分謎めいている。
私は吉田総理から一つ「大事なことづけ」をされていた。それを然るべき人に然るべき場合に伝えるのが、他の経済問題より遥かに重大な使命であった。その機会をねらっていたが、色々考えて、結局、ある土曜日の午後、人気のない陸軍省の一室でそれをドッジと、日本問題を担当しているリード博士に伝えた。ドッジは国務相の顧問をかねていたので、これを伝えるのに不適当な人では無論なかったが、あえて彼を選んだのには少しわけがあった。そのわけはいずれのべる時機がくるだろう。[p.231]
さて、独立についての話は、というと、
結論だけをいえば、当時のワシントンの空気は、国務省は、占領が長びくと問題がうるさいから、とにかく、日本を独立させてしまえという論であり、国防省はあれだけの国をみすみす共産勢力に渡すわけにはゆかない、占領にあきてきたのはわかるが、それならばできる限りの自主権を日本に与えるいわゆる「戦争終結宣言」というような形をとるのがよくはないか、ただし、マッカーサーは一足飛びに講和条約に行けという主張だから、うまくこれに賛成するかどうかわからぬ、仮に賛成しなければ勢い現状維持ということになっても仕方がない、という考え方をしていたようである。[p.236]
![]() 均衡財政 附・占領下三年の おもいで 池田勇人 |
米の統制撤廃は、インフレの間は農家に非常に人気のあるスローガンだったので、政治家達は声高に訴えていたけど、インフレが収束していくと、とうの農家が統制撤廃に反対しはじめた。つまり、物不足のうちは、いくらでも高く売れるのだから価格統制なんて邪魔以外の何者でもない。市場価格のほうが公定価格よりもかなり高いのだ。だからヤミで随分もうけた農家がいる。が、物の生産が回復してくると、当然、物の値段は下がる。だから今度は価格を統制して、市場価格より高く売りたい、というわけだ。補助金の問題というのは大体こんな感じなんですね、今も昔も*1。
この後は司令部とのうんざりするような交渉、朝鮮戦争の勃発、講和条約のための国内調整(ここでは麻生太郎総理大臣のご両親が登場する)、そして講和会議の様子が描かれている。どれも無類の面白さなので、是非読んでみてください。最後に池田がとくに記しているフランスの外務大臣ロベール・シューマンの講和会議での演説を引用しよう。
「条約が寛大なのはただ人類愛からそうしたのではない。勝った者が負けた者をむやみにいじめても、結局、強い者は再び頭をもたげてくる。そういう現実的な考慮が今度の条約の底に流れている」とのべ、「フランスとしては今日のように不安な世界でこういう条約を結ぶことに、多少の危険がともなっているのは知っている。しかし、ひっきょう世の中に、絶対たしかだというものは無いのだから、まずまず危険の少ない方を選ぶしかないだろう」。最後に「われわれの平和のための努力を、たえず組織的に、また継続的に、曲解をするむきがあるのは遺憾だ」といったが、ソ連の名もあげず、だからどうしようともいわずに、ひょこひょことまた壇を下りて行った。
ことばも簡潔だが、いっていることがおよそ現実的で、どこか地方の村会の、年寄りの議長の報告を聞いているようであった。[p.310]
*1:米の補助金って今もこんな感じなんでしょうか? よくしりません。ただ、川島博之『「食料危機」をあおってはいけない』みたいな本を読むと、まあ外国でも当たり前のようだし、問題の規模としても小さく感じるのでどうでもいいか、と思わなくもない。もちろん保護されている分だけ消費者が負担しているわけだけど、当面はしかたないかな、と。
2009年4月27日月曜日
補足・書評・池田勇人『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』
先日のこのエントリの補足です。
池田勇人といえば所得倍増計画。そしてその経済政策のブレーンといえば下村治。なのだけれど、『均衡財政』では下村の名前は出てこない。下村治については上久保敏『下村治「日本経済学」の実践者』が最近出た。未読。さらに下村治の『日本経済成長論』も復刊された。未読。
『均衡財政』で扱われている時代はインフレの時代だった。日本は戦争を経て、モノを造り出す能力、つまり供給ががくんと落ちてしまっていた。でも需要のほうはそれほど減っていないから、モノがたりなくなって値上げしやすい状況にあったわけだ。そうしてヤミ市場が生まれていった。つまり「もっと金をだせば売ってやる」というわけだ。供給は短期間にどうにかなるようなものじゃない。人口が増えたり、教育が行き届いたり、労働環境が整ったりしないと伸びない。なので需要のほうを供給にあわせなきゃならなかった。これが均衡財政ってことだ。
翻って2009年の日本は供給は充分にある。足りないのは需要だ。これはバブル崩壊以降変わらない。そしてこれを放置するとデフレになる。
とあるように、池田の時代と状況がちがうからといって、彼の言葉が現在に通用しないわけじゃない。彼はドッジと共にインフレと戦って日本を救ったが、昭和25年にはリフレ政策の承認を得るために渡米しているのは先日書いた通り。結果的には朝鮮戦争が起こり経済はインフレになったが、決してインフレを抑えるためならばデフレもやむなし、という人じゃない。それも当然で、少ない需要に多すぎる供給をあわせるってのはつまり、ラッダイト、なら穏やかなもんで、人に死ねといっているようなものだからだ。
池田は国民の自発的な貯蓄を促すために腐心した。1400兆円といわれる個人資産は、その成果といえるかもしれない。本来ならその資産は金融市場を通して生産的な活動に利用されるはずのものだ*1。だがそうはなっていない。
追記:本書に納められている『占領下三年のおもいで』についてのエントリを書きました。
*1:池田はそういった資産を「貯蓄国債」を発行して利用しようと考えていたようだ。
![]() 下村治 「日本経済学」の実践者 上久保敏 |
『均衡財政』で扱われている時代はインフレの時代だった。日本は戦争を経て、モノを造り出す能力、つまり供給ががくんと落ちてしまっていた。でも需要のほうはそれほど減っていないから、モノがたりなくなって値上げしやすい状況にあったわけだ。そうしてヤミ市場が生まれていった。つまり「もっと金をだせば売ってやる」というわけだ。供給は短期間にどうにかなるようなものじゃない。人口が増えたり、教育が行き届いたり、労働環境が整ったりしないと伸びない。なので需要のほうを供給にあわせなきゃならなかった。これが均衡財政ってことだ。
翻って2009年の日本は供給は充分にある。足りないのは需要だ。これはバブル崩壊以降変わらない。そしてこれを放置するとデフレになる。
私の基本的な政策は「健全な経済」を維持するということである。その意味は、インフレも抑えるがデフレも避ける、そして経済の発展を円滑にかつ継続的ならしめるということである。インフレは国民の道徳を害し、デフレは国民の思想を偏せしめる。[p.55]
![]() 日本経済成長論 下村治 |
池田は国民の自発的な貯蓄を促すために腐心した。1400兆円といわれる個人資産は、その成果といえるかもしれない。本来ならその資産は金融市場を通して生産的な活動に利用されるはずのものだ*1。だがそうはなっていない。
追記:本書に納められている『占領下三年のおもいで』についてのエントリを書きました。
*1:池田はそういった資産を「貯蓄国債」を発行して利用しようと考えていたようだ。
2009年4月26日日曜日
なにがしたいんだ
4月24日、こんなニュースがあったとさ。
世界経済は予断許さず 日銀総裁、包括的な政策発動を訴え
日経新聞(web魚拓)
日本銀行の白川方明総裁は(中略)潤沢な資金供給や金融機関への公的資金の投入、包括的な景気刺激策の発動が必要と訴えた。
………なんか腹立つ。
この人、ものすごく頭のいい人なんでしょうが、日銀のような重要な組織のトップには向いていないのでは?
不況になると人々がお金を使わなくなる、ってのは誰でもわかる話。消費は誰かの収入になるものだ。だから不況下では人々の収入は落ちてしまう。そして少ない収入は消費をさらに少なくする。この悪循環を立たなきゃ不況は終わらない。だから人々の代わりに政府が使う。道路整備したり減税したり給付金を配ったりすればいい。この際多少無駄になっても構わない。例えば政府がお金を使って穴を掘って埋めもどしたとしよう。これはもうどうしようもなく無駄だが、少なくとも穴を掘って埋めた人は給料を得る。その人にとってはとても意味があるだろうし、その人が歯を治療したり娘にケータイを買ってやったりするだろうから消費も一人分戻ってくる。不況の時にはそんな無駄なことでさえ充分意味がある*1。
もう一つできることがある。人々がお金を使わない、というのは、言い換えれば人々はお金の価値を高く評価している、ということでもある。なので、お金の価値を少し下げてやれば良い。そうすれば人々はお金よりもモノを手に入れたり、サービスを受けるほうが価値がある、と感じるようになる。そしてこれができるのは中央銀行だけだ*2。
さて今、各国の中央銀行がリスクのある資産(債券とかね)をバシバシ買い込んでいる。当然資産の代わりにお金を払うわけで、そうやって中央銀行は市場にお金を注ぎ込んでいるわけだ。そうすれば世に出回るお金の量が増えるし、更に、お金を発行している中央銀行がリスクを取ることで、お金に対する信頼を少し傷つけることができる。そうして人々がお金を手元に置いておくよりも、モノやサービスに価値を感じてくれれば不況は終わるだろう。
翻って我らが日銀は、なんつったって「失われた10年(15年?)」を生み出した元凶なわけで、なんでも「包括的な景気刺激策の発動が必要と訴えた」そうですが、それはあなたの仕事でしょう! 「銀行券ルール」とか訳の分からんことを言って景気対策を渋っているのはどこの誰だよ!
*1:もちろん政府が意味のあることに使うほうがなおいい。でも、何が意味があるのかを決めるのには時間がかかる。不況で困っている人は、今仕事やお金が必要なわけで、時間がかかればかかるほど余計に苦しむことになる。なので多少無駄でもこの際割り切るべきだと思う。アメリカのグリーン・ニューディールは環境保護に反対する人が少ないからすんなり決まったんだろう。ま、それでも中央銀行ができることにくらべると時間は随分かかる。
*2:ホントはそうじゃない。民主国家なんだから、国民の代表である政府が決めてしまえば何でもできるでしょう。それが一時期話題になった政府発行紙幣だ。ま、日銀がちゃんと仕事すれば必要のないものではある。
2009年4月24日金曜日
書評・池田勇人『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』
毎度更新のペースが一定しないけど、こんなもんです。
さて、今回読んだ本は池田勇人著『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』。以前に、池田勇人の側近であった伊藤昌哉が書いた『池田勇人とその時代』の書評を書いたときから、読まなきゃいかんなあと思いつつ先送りにしてきた本。なぜってそりゃあ本書のタイトルが不吉すぎるから。今世界は100年に一度とかいう経済危機に直面しているわけで、こんな時に均衡財政(税収と政府の支出が釣り合っていること)の維持なんか自殺行為だ。人々がお金を使わない、これつまり不況なわけで、そのために人々は充分な所得を手に入れることができない。そんなときは政府が代わりに使いまくる! そうして所得が増えれば、人々は安心してまたお金を使うようになる。ここで政府が何もしなければ、どこぞの国みたいに失われた10年とかそんな目にあうという寸法ですよ。
で、均衡財政を目指せば国債の発行には消極的になるに決まっている。国が借金をすれば一時的に出るお金がふえるけど、長期的には使えるお金が減るんだから。だから今となっては不吉なタイトルだった。でも本書を読みはじめてすぐに杞憂だったことが分かった。池田のいう均衡財政とは国民の自発的な貯蓄を促すためのものだった。ま、本書は不況対策についての本じゃないからあたりまえなんですね。でもさ、ほらどこぞの国だとさ、不況だって言うのに増税とか以下略。
本書は昭和27(1952)年*1に出版された。つまり日本が独立を回復した年だ。池田は昭和23(1948)年に大蔵省を辞めて翌、昭和24(1949)年に衆議院議員になってそのまま大蔵大臣に抜擢されている。その大蔵大臣としての三年間の政策をみずから解説したのが本書だ。この年までの経済状況をビックリするくらい簡単にまとめると、終戦後は激しいインフレ→それを抑えるための超均衡予算(ドッジライン)実施→あれ? 全体的にはいい感じなんじゃない?→朝鮮戦争勃発→特需とよばれる異常な好景気→それも一段落。戦争成金がブーたれる、といった感じ。この本では朝鮮戦争ではなくて、朝鮮動乱と呼ばれている。その朝鮮動乱が終わるまであと一年、という時代。
本書は実に充実の一冊であるので、なかなか要約が難しい。ので、三つのテーマを取り出して、それらに沿って概観していこう。なのでこの三つのテーマが順番に出てくるということでは、もちろんない。
一つ目は終戦から昭和27年までの日本経済の解説。主にインフレ対策について。二つ目は現在、つまり昭和27年の日本経済が持つ問題を税制や金融制度を通して語っている。そして三つ目はこれからの日本はどうあるべきかという問い。これを経済政策を通して語っている。
三つのテーマは本書のあらゆるところで、時には同時に顔を出す。池田の説明は常に具体的な数字に基づくが、小さな辻褄に拘泥しているのではなく、決して全体を見失わない。なので読者は個々の政策の来歴というか必要性を実にスムーズに理解できるようになっている。
ではまず一つ目。終戦後の日本経済について。ここからは(僕の勝手な)要約を赤くする。でこの書評の地の文はそのまま。
その後朝鮮動乱が起こるんだけど、その影響について。
そして二つ目のテーマ。現在(昭和27年)の日本の問題。
このオーバーローンという問題は、なんだかバブル崩壊以降の不良債権問題と似てますな。で、池田はこの問題は解決するに越したことはないが、今すぐである必要はない、という。経済が成長していく過程で解消に向かえばそれで良い、とする。
インフレはお金の価値が下がる現象なので、そうなるとだれもお金を貯めようとは思わない。だから銀行はお金を集められなくなる。なので預金よりもかなり多めに貸し出しをしなければ企業はつぶれていくだけだった、ということだろう。で、その銀行をなんとかするだけじゃ意味ないよ、と。うーん。大局観というやつですな。
三つ目。今後どうするの?
ここからは引用をしていこう。まずもっとも大事な目標は何か、というところから。
この目標が達せられなかったらどうなるのか。
池田のいうことは、今の日本には当てはまらないのだろうか。この十五年、池田が掲げた世界平和のための四つの目標のうち、生活水準の向上と完全雇用の維持については、なぜかあまり語られなくなっているように思う。んでは、どんな経済政策がいいんでしょう?
つまり、戦後の経済状況故のディスインフレ政策であって、状況が変われば、当然政策も変わる。
この案をドッジは承認したのだが、朝鮮戦争勃発のために経済は再びインフレ基調となり政策も再びディスインフレ的になっていった。それにしても当時の読者にはリフレーションという言葉はおなじみだったみたいですね。
ここまで長々と引用したのは、池田の視点があくまで全体的なものであることを示したかったからだ。池田は、個人や個々の企業については自由で民主的であるべきで、今の(もちろん昭和27年の)経営者は政府に頼りすぎていると思う、と書いている。「近代国家の任務」は環境の整備であって細かいことに口を出すことじゃない。そういった考えが、有名な「貧乏人は麦を食え」「ヤミをやっていた中小企業の五人十人がたおれたってかまわない」*2という発言の裏にあったのだと思う。
くどいけど、この本は日本が独立を果たした昭和27(1952)年に書かれたものだ。今75歳の人が生まれたのが昭和9(1934)年、満州事変が一応収まったその翌年だから、彼らが18歳の頃になる。つまり今の老人にとっても、この本は遠いというか、よほど興味を持たなければ読んでいない本だろう。そしてこの本のすごいところは経済の全体像を見失わないよう注意深く物事を見ている、というところだと思うんだけど、その注意の射程は「遠く1930年前後の世界的不況」にまで及んでいる(まあこのときは20年前くらいの話だけど)。つまり、全体像をとらえるには人の一生は基準として小さすぎるし、時に短すぎる、ということだ。まれに老人たちを「粉骨砕身で戦後の経済成長を担った」というように表現する人がいるけれど、僕はなんか失礼だな、と感じる。彼らなりの一人一人の人生があったんだから、それを勝手に了解して全体像に組み込むな、と思う。池田だったらそうはしないだろうと思う。そして彼の考える全体像が控えめにいっても妥当なものだったからこそ、日本の経済発展はなし得たんだろう。なので現在の為政者たちも、個別の現象に拘泥するよりも、全体像の把握に注意深くなって欲しい。そうすれば自ずからとるべき道は見えてくるんじゃないだろうか。
追記:この本には付録として「占領下三年のおもいで」という文章がのせられている。これは実業之日本編集局長山田勝人に池田が語ったことを編集したものだ。これが抜群に面白い。司令部やドッジ、シャウプとのやり取りや、吉田茂との関係などが、そんなにはっきりとは書かれていないけど、ほんのり分かるように書かれている。次のエントリではこの文章について書いてみるつもりです。
さらに追記:補足エントリを書きました。こちらです。
さらにさらに追記:書きました。「『占領下三年のおもいで』について」
*1:僕の母が生まれた年だ。
*2:池田は記者クラブの人たちに、無愛想だ、と嫌われていたので、彼らに狙い撃ちにされたようだ。このエントリを参照。
![]() 均衡財政 附・占領下三年の おもいで 池田勇人 |
で、均衡財政を目指せば国債の発行には消極的になるに決まっている。国が借金をすれば一時的に出るお金がふえるけど、長期的には使えるお金が減るんだから。だから今となっては不吉なタイトルだった。でも本書を読みはじめてすぐに杞憂だったことが分かった。池田のいう均衡財政とは国民の自発的な貯蓄を促すためのものだった。ま、本書は不況対策についての本じゃないからあたりまえなんですね。でもさ、ほらどこぞの国だとさ、不況だって言うのに増税とか以下略。
本書は昭和27(1952)年*1に出版された。つまり日本が独立を回復した年だ。池田は昭和23(1948)年に大蔵省を辞めて翌、昭和24(1949)年に衆議院議員になってそのまま大蔵大臣に抜擢されている。その大蔵大臣としての三年間の政策をみずから解説したのが本書だ。この年までの経済状況をビックリするくらい簡単にまとめると、終戦後は激しいインフレ→それを抑えるための超均衡予算(ドッジライン)実施→あれ? 全体的にはいい感じなんじゃない?→朝鮮戦争勃発→特需とよばれる異常な好景気→それも一段落。戦争成金がブーたれる、といった感じ。この本では朝鮮戦争ではなくて、朝鮮動乱と呼ばれている。その朝鮮動乱が終わるまであと一年、という時代。
本書は実に充実の一冊であるので、なかなか要約が難しい。ので、三つのテーマを取り出して、それらに沿って概観していこう。なのでこの三つのテーマが順番に出てくるということでは、もちろんない。
一つ目は終戦から昭和27年までの日本経済の解説。主にインフレ対策について。二つ目は現在、つまり昭和27年の日本経済が持つ問題を税制や金融制度を通して語っている。そして三つ目はこれからの日本はどうあるべきかという問い。これを経済政策を通して語っている。
三つのテーマは本書のあらゆるところで、時には同時に顔を出す。池田の説明は常に具体的な数字に基づくが、小さな辻褄に拘泥しているのではなく、決して全体を見失わない。なので読者は個々の政策の来歴というか必要性を実にスムーズに理解できるようになっている。
ではまず一つ目。終戦後の日本経済について。ここからは(僕の勝手な)要約を赤くする。でこの書評の地の文はそのまま。
インフレはモノと金のバランスが崩れたところから起こる。敗戦後は何よりもまず生産の増強が優先された。生産の増強は復金を含めた財政赤字によって行われ、そのためにインフレが生まれたが経済的基盤が脆弱であるので、放置されていた。そこで、昭和24年に銀行家ドッジ氏が来日し、「超均衡予算」が組まれた。これが上手くいってインフレは収まった。一個人や一企業には厳しいこともあったと思うが、全体としてはどうしても必要なやむを得ない措置だったと思う。
その後朝鮮動乱が起こるんだけど、その影響について。
「特需」は均衡財政下での不安を一気に追い払ってしまった。が、昭和26年には異常なブームは収まっていた。「特需」がなくても日本経済の回復は順調であったと思う。
そして二つ目のテーマ。現在(昭和27年)の日本の問題。
インフレのせいで資本の蓄積が進んでいない。これからは更なる減税を通して資本の蓄積を促したい。銀行のオーバーローンというのが問題視されている。つまり銀行が手元の預金額に比べて大幅に貸しすぎているという問題。「特需」の後ということもあり、不況になるんじゃないかと心配されているので、オーバーローンを今すぐ解消しなくてはいけないと考える人々も居るようだ。
このオーバーローンという問題は、なんだかバブル崩壊以降の不良債権問題と似てますな。で、池田はこの問題は解決するに越したことはないが、今すぐである必要はない、という。経済が成長していく過程で解消に向かえばそれで良い、とする。
そしてやっぱりオーバーローンの原因は資本の蓄積が足りないこと。そもそも資本が少ないから、銀行の貸し出しに頼った企業経営をするしかなかったのであって、その解決策も銀行をどうにかするのではなくて、資本の蓄積と金融市場の整備を進めて資金を調達しやすくする政策が妥当である。
インフレはお金の価値が下がる現象なので、そうなるとだれもお金を貯めようとは思わない。だから銀行はお金を集められなくなる。なので預金よりもかなり多めに貸し出しをしなければ企業はつぶれていくだけだった、ということだろう。で、その銀行をなんとかするだけじゃ意味ないよ、と。うーん。大局観というやつですな。
三つ目。今後どうするの?
ここからは引用をしていこう。まずもっとも大事な目標は何か、というところから。
われわれは、心から世界平和の維持を念願する。だから、日本経済の運営に当たってもまた、この念願を実現するために、必要な経済条件を造り出すことが根本の目標とならなければならない。では、どういう経済条件が世界平和の維持のために必要だろうか。 第一には、国民の生活水準の向上をはかること。第二には、失業者を減らして完全雇用を維持すること。第三には社会福祉の増進をはかること。第四には、これらのことを、わが国だけで実現するのでなく、他国と互いに協力しつつ実現して、世界人類全体の安定と福祉を増進してゆくこと。[p.42]
均衡財政とか、健全財政とかいうと、なにか消極的なものに考える向きもあるかもしれないが、しかし、われわれの目標は、経済の進歩、発展、というところにあることを、ここに強調しておきたい。[p.43]
この目標が達せられなかったらどうなるのか。
人間が働く意志を有しながら、働くべき職がないということは、誠に堪え難いことであり、不幸なことである。失業が社会的な疾病ともいうべき慢性的な状態になると、偏った思想が生まれ、戦争が誘発される。第二次世界大戦が、遠く1930年前後の世界的不況に起因するという見方は、決して間違っていない。[p.45]
国民の生活水準を向上させ、完全雇用を継続するとともに、生産技術の進歩、働く環境の改善、公衆衛生の向上、教育の普及、文化の発展、社会保障の増進などを図ることは、近代国家の任務である。このような経済的社会的進歩発展が続けられてこそ、その進歩発展を阻害し、ひっくりかえす戦争を避けようとする意志も、また確固たるものとなる。[p.46]
池田のいうことは、今の日本には当てはまらないのだろうか。この十五年、池田が掲げた世界平和のための四つの目標のうち、生活水準の向上と完全雇用の維持については、なぜかあまり語られなくなっているように思う。んでは、どんな経済政策がいいんでしょう?
私は、大蔵大臣として過去三カ年余りにわたって、いわゆるディスインフレ政策を実行してきたが、私の基本的な政策は「健全な経済」を維持するということである。その意味は、インフレも抑えるがデフレも避ける、そして経済の発展を円滑にかつ継続的ならしめるということである。インフレは国民の道徳を害し、デフレは国民の思想を偏せしめる。私は、大蔵大臣就任以来ずっとこの考え方を通してきた。これが一般にディスインフレ政策とよばれたのは、たまたまその間に、急激な悪性インフレの克服に努力し、一応の安定を回復するや、今度は、朝鮮動乱勃発に伴うブームに対処しなければならなかったためであって、経済諸条件がディスインフレ政策をとることを必要としたからである。[p.55]
つまり、戦後の経済状況故のディスインフレ政策であって、状況が変われば、当然政策も変わる。
国民こぞって真剣に努力した甲斐あって、あのひどかったインフレがほとんど何の混乱もなく、世界史上まさに「奇跡的」といってよいほどに収束された。ところが、昭和二十五年の春頃には、私の予想したとおり安定恐慌的な現象がでてきた。私は自分の政治的感覚から見て、どうしてもデフレ傾向の緩和をはかるべき程度まできていると考えたので、早速司令部の人たちにこの意見をのべた。結局ドッジ氏に直接経済情勢を説明してその了解を得ることが必要だ、ということになり、減税、輸出増進のための輸出銀行の設立、預金部資金の活用、官公吏の給与引上等のリフレーションというか、言わばディスデフレ的ないろいろの腹案を持って私が渡米することになった。[p.56]
この案をドッジは承認したのだが、朝鮮戦争勃発のために経済は再びインフレ基調となり政策も再びディスインフレ的になっていった。それにしても当時の読者にはリフレーションという言葉はおなじみだったみたいですね。
以上のように、私はインフレとデフレを、ともに調整することを、財政金融政策の任務と考えている。従って、講話によって独立したからといって、この基本的な考え方を変更すべきだとは考えていない。基本的にはあくまで「健全な経済」を維持してゆくべきである。今後の財政金融政策の基調が、ディスインフレか、ディスデフレかは、今後の経済条件の変化如何にかかるのである。[p.57]
ここまで長々と引用したのは、池田の視点があくまで全体的なものであることを示したかったからだ。池田は、個人や個々の企業については自由で民主的であるべきで、今の(もちろん昭和27年の)経営者は政府に頼りすぎていると思う、と書いている。「近代国家の任務」は環境の整備であって細かいことに口を出すことじゃない。そういった考えが、有名な「貧乏人は麦を食え」「ヤミをやっていた中小企業の五人十人がたおれたってかまわない」*2という発言の裏にあったのだと思う。
くどいけど、この本は日本が独立を果たした昭和27(1952)年に書かれたものだ。今75歳の人が生まれたのが昭和9(1934)年、満州事変が一応収まったその翌年だから、彼らが18歳の頃になる。つまり今の老人にとっても、この本は遠いというか、よほど興味を持たなければ読んでいない本だろう。そしてこの本のすごいところは経済の全体像を見失わないよう注意深く物事を見ている、というところだと思うんだけど、その注意の射程は「遠く1930年前後の世界的不況」にまで及んでいる(まあこのときは20年前くらいの話だけど)。つまり、全体像をとらえるには人の一生は基準として小さすぎるし、時に短すぎる、ということだ。まれに老人たちを「粉骨砕身で戦後の経済成長を担った」というように表現する人がいるけれど、僕はなんか失礼だな、と感じる。彼らなりの一人一人の人生があったんだから、それを勝手に了解して全体像に組み込むな、と思う。池田だったらそうはしないだろうと思う。そして彼の考える全体像が控えめにいっても妥当なものだったからこそ、日本の経済発展はなし得たんだろう。なので現在の為政者たちも、個別の現象に拘泥するよりも、全体像の把握に注意深くなって欲しい。そうすれば自ずからとるべき道は見えてくるんじゃないだろうか。
追記:この本には付録として「占領下三年のおもいで」という文章がのせられている。これは実業之日本編集局長山田勝人に池田が語ったことを編集したものだ。これが抜群に面白い。司令部やドッジ、シャウプとのやり取りや、吉田茂との関係などが、そんなにはっきりとは書かれていないけど、ほんのり分かるように書かれている。次のエントリではこの文章について書いてみるつもりです。
さらに追記:補足エントリを書きました。こちらです。
さらにさらに追記:書きました。「『占領下三年のおもいで』について」
*1:僕の母が生まれた年だ。
*2:池田は記者クラブの人たちに、無愛想だ、と嫌われていたので、彼らに狙い撃ちにされたようだ。このエントリを参照。
2008年5月27日火曜日
ブーチャンの(戦後民主主義的な)冒険
伊藤昌哉著『池田勇人とその時代』を図書館で借りて読んだ。以下、[]内はすべて引用ではなくて要約ってことで。
なんと言っても池田勇人がカッコイイ。というかそういう風に描かれているわけだけど、池田の側近のブーチャンこと伊藤昌哉の思い入れがそれだけ凄いし、池田を通して自分自身を描く、という面もあって、ちょっとやり過ぎ? なくらいカッコイイ。
著者・伊藤昌哉は、西日本新聞東京支社の記者として池田と出会う。当時池田は大蔵大臣、例の「貧乏人は麦を食え」発言の時期だ。なんでも当時の池田は記者に無愛想でなかなか情報をださない記者泣かせな大臣だったとか。で、記者同士であいつ気に入らねえ的なことになって、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」という答弁が、貧乏人は麦を食え、に生まれ変わってしまったんだそうな。
伊藤に言わせると、池田には戦後民主主義を担うという自負があったという。三閣僚辞任騒動の時の池田の気持ちを代弁して[池田は岸のやり方が気にいらなかった。岸と池田では信じる民主主義がちがう。国民は岸がいうほど馬鹿じゃない]という。また政策で勝負する人であって、党利党略からは無縁であったとも。しかし党務に弱いが故に、常に党内人事では不満が噴出し、政権運営は安定しなかった。そんな中でも池田が求心力を発揮し続け、今日のジャペーインの繁栄の礎を築くことが出来たのは、彼が努力をやめない男前総理だったからだッとブーチャンは熱く語るのであった。
なんでも、自分が努力を続ける、とくに外交はからっきしだったのにブーチャンに促されて随分勉強したらしい、そうなってくると、人の努力や想いに敏感になり、決して見逃さず認めてくれるのだそうだ(うらやましいです、率直に)。総裁3期目、記者に質問されて、[国民が喜ぶあとに喜び、国民が悲しむまえに悲しむようになった。俺も年を取ったのかな]とこれまた男前発言。怒りっぽかった男が忍耐力も判断力もどんどん身につけて、情の人、とまで呼ばれるようになる。伊藤が語る池田は本当にカッコイイ。[総理在職中は待合にもゴルフにもいかない、だって国民はそんなとこで遊べないから][総理を辞めたらブーチャン、二人で全国行脚しよう、若い人と話し合おう] さらに総裁選で必死の工作をしかける佐藤栄作に対する思いを伊藤が代弁すると、(ここはメモあったので引用)「なんでお前そんなバカなことするんだ。そんなことに血道をあげるより、政権を担当するにふさわしい人格の持ち主になれ。そうすれば、いつでも政権など譲ってやる」とくる。うーん、マンダム。
僕はこのかっこよさを割と素直に受け止めていて、そりゃ側近の証言なわけだから真に受けるのはどうかな、とも思うけど、批判的にみればいいってわけでもないでしょう。志だけではダメだ、というのもわかるけど、結果には運不運がつきまとうから、結果だけが重要なんだと言い切れない。自分の乏しい経験から感じるのは、そりゃ結果がでないのもダメなんでしょうけど、志がないのは破滅的だよ、ということ。
評判の悪かった安倍総理も、今評判の悪い福田総理も、志ということでは、いいんじゃないの? と思ってます。安倍総理については高橋洋一氏の本を読んでそう思いました。福田総理については、記憶が曖昧だけど、年金問題について問われて(質問したのは記者じゃなくて議員だったとおもう。でも議会じゃないです)、「きみたち若い人が決めることだよ」とか言ったとき、あ、そうか、と思いましたよ。
本題の経済政策については次のエントリで書きます。
なんと言っても池田勇人がカッコイイ。というかそういう風に描かれているわけだけど、池田の側近のブーチャンこと伊藤昌哉の思い入れがそれだけ凄いし、池田を通して自分自身を描く、という面もあって、ちょっとやり過ぎ? なくらいカッコイイ。
著者・伊藤昌哉は、西日本新聞東京支社の記者として池田と出会う。当時池田は大蔵大臣、例の「貧乏人は麦を食え」発言の時期だ。なんでも当時の池田は記者に無愛想でなかなか情報をださない記者泣かせな大臣だったとか。で、記者同士であいつ気に入らねえ的なことになって、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」という答弁が、貧乏人は麦を食え、に生まれ変わってしまったんだそうな。
伊藤に言わせると、池田には戦後民主主義を担うという自負があったという。三閣僚辞任騒動の時の池田の気持ちを代弁して[池田は岸のやり方が気にいらなかった。岸と池田では信じる民主主義がちがう。国民は岸がいうほど馬鹿じゃない]という。また政策で勝負する人であって、党利党略からは無縁であったとも。しかし党務に弱いが故に、常に党内人事では不満が噴出し、政権運営は安定しなかった。そんな中でも池田が求心力を発揮し続け、今日のジャペーインの繁栄の礎を築くことが出来たのは、彼が努力をやめない男前総理だったからだッとブーチャンは熱く語るのであった。
なんでも、自分が努力を続ける、とくに外交はからっきしだったのにブーチャンに促されて随分勉強したらしい、そうなってくると、人の努力や想いに敏感になり、決して見逃さず認めてくれるのだそうだ(うらやましいです、率直に)。総裁3期目、記者に質問されて、[国民が喜ぶあとに喜び、国民が悲しむまえに悲しむようになった。俺も年を取ったのかな]とこれまた男前発言。怒りっぽかった男が忍耐力も判断力もどんどん身につけて、情の人、とまで呼ばれるようになる。伊藤が語る池田は本当にカッコイイ。[総理在職中は待合にもゴルフにもいかない、だって国民はそんなとこで遊べないから][総理を辞めたらブーチャン、二人で全国行脚しよう、若い人と話し合おう] さらに総裁選で必死の工作をしかける佐藤栄作に対する思いを伊藤が代弁すると、(ここはメモあったので引用)「なんでお前そんなバカなことするんだ。そんなことに血道をあげるより、政権を担当するにふさわしい人格の持ち主になれ。そうすれば、いつでも政権など譲ってやる」とくる。うーん、マンダム。
僕はこのかっこよさを割と素直に受け止めていて、そりゃ側近の証言なわけだから真に受けるのはどうかな、とも思うけど、批判的にみればいいってわけでもないでしょう。志だけではダメだ、というのもわかるけど、結果には運不運がつきまとうから、結果だけが重要なんだと言い切れない。自分の乏しい経験から感じるのは、そりゃ結果がでないのもダメなんでしょうけど、志がないのは破滅的だよ、ということ。
評判の悪かった安倍総理も、今評判の悪い福田総理も、志ということでは、いいんじゃないの? と思ってます。安倍総理については高橋洋一氏の本を読んでそう思いました。福田総理については、記憶が曖昧だけど、年金問題について問われて(質問したのは記者じゃなくて議員だったとおもう。でも議会じゃないです)、「きみたち若い人が決めることだよ」とか言ったとき、あ、そうか、と思いましたよ。
本題の経済政策については次のエントリで書きます。
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