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2009年4月29日水曜日

『占領下三年のおもいで』について

このエントリは書評・池田勇人『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』(とその補足)のつづきです。

池田勇人は昭和24年に大蔵大臣に就任した。この『占領下三年のおもいで』(以下『おもいで』)という文章は、それから3年間の出来事を実業之日本編集局長山田勝人に語ったものを編集したものだ。文庫本で100ページ近くあり読み応えのあるものになっている。

で、タイトル通り、占領時代の話なわけで、「はしがき」に次のようにある。

記憶をたどってみると随分面白い話がある。しかし、なにぶんにも生々しいことが多いし、日本も国際社会に独り立ちするようになったのだから、よその国に直接迷惑の及ぶ話しはしないのが礼儀である。それから、個人的な攻撃にわたることもいうべきでない。あの人のためにひどい目にあったという想い出ばなしは、「交断つとも悪声を出さず」という君子の道徳に反する。[p.219]


さすが19世紀生まれ、という感じです。つづいて、世の中から学者といわれるような人がソ連を含んだ全面講和がなされないのなら占領継続のほうがマシ、とかいう人がいるけど信じられないよ、と述べて本文がはじまる。

『均衡財政』では戦後の経済を立て直す政策の解説をしたわけだが、『おもいで』ではその政策を決定するまでのいきさつや、あるいは実現されなかった政策について語っている。

さて、池田が蔵相になったのはドッジの来日直後であった。

私は、昭和二十四年の二月に大蔵大臣になったのだが、それはワシントンから日本経済安定のための九原則が出されて、ドッジがその最初の具体化のために日本に来た直後だった。その時まで、日本の経済はインフレーションの渦巻のなかで崩壊の一歩前にあり、国の予算なども、四、五ヶ月に一度位ずつ補正予算を出す有様で、おまけに国会に安定勢力がなかったから、多い時は数回補正予算を出したことがあったと思う。そうなると、それはもう予算というよりは、大福帳に近いもので、国がその日暮らしをしてきたわけである。ワシントンでも、この有様をこれ以上放置しておけないとみて、ドイツで腕前を示したドッジを東京へ送ったわけだが、丁度一月の総選挙で、民自党が絶対多数をとったために、国内的には、腹さえ決まれば、かなり強引な手術ができる基盤はあったわけだ。[p.220]


ドッジと池田はまず政府の補助金を大きく減らすことで一致するが、この案が司令部では随分と受けが悪い。

[学者の他に:引用者] また司令部内でも、ニュー・ディールの系統を受けた若い理論家達が多かったので、ドッジと私との一致した結論には内外に猛烈な反対があった。[p.221]


二人は反対を押し切ってしまう。そして、

その時ついでに、もしこれが巧くいったら、三年間のうちに全部補給金を切ろう、最後に主食が残るかもしれないが、そこまでゆけば、その時米の統制撤廃ができればよし、できなくとも補給金の額は知れたものだという話をして、二人の間で三年先の約束をした。この約束は九分通り達成されたわけだが、朝鮮動乱が起きて、中共が介入してきたために、今日に至るまで米の問題だけが解決できないでいる。[p.222]


もう一つできなかったのが減税だ。池田の意を察した民自党の幹部がドッジに掛け合ったのだが、

占領軍が日本の国内のポリティックスのために動かされたといわれるのがいやだったから[p.244]


という理由で断られてしまったようだ。池田とドッジは大まかな方針では一致しつつも、具体的な政策では常にもめていた。で、その大まかな方針というのは、財政を均衡させながら国民の生活水準を高めるというもの。

彼[ドッジ]は古典的資本主義の信条を持ち、またその方法論を適用して日本の経済危機を救ったのだから、なるべく金のかからぬ政府を作ろう、という根本的な方針には賛成の人ではあるのだが、冷酷なまでに徹底した信念は、時として、私を困らせることがあった。[p.225]


そうしてインフレが収まると、こんどはデフレの危機が迫ってきた。『均衡財政』にもあるが、池田はリフレ政策の承認を得るために渡米することになった。その前にマッカーサーと面談することになったのだが、その様子が面白い。長く引用しよう。

私は昭和二十五年の四月、渡米するに先立ってマッカーサーと会った。有名な何とかいう百姓のようなパイプを右手にしてマッカーサーが開口一番「金は、」といった時、サスペンスもあり十分な役者であったが、その説くところの深いのには感心させられた。彼は要するに「金」は何世紀の間人類の交易の手段であり、したがって和解の手段であった。ところが、今やその大部分が米国に集まってしまった結果、各国の間の交易の手段は失われんとし、それにしたがって和解の道も閉ざされようとしている。しかも、金に代わるものはまだ生まれていない。その結果としてアメリカには「過剰のための貧困」があり、丁度日本の「貧困のための貧困」と対照をなしている。いずれも困難な問題である。というのである。「金」に代わるものは「信用」なのだ、と私はいおうと思ったが、マッカーサーは一度話し出すとなかなか雄弁で止まらない。「そもそも大蔵大臣というものは」というのが次のセンテンスの始まりで、大蔵大臣は国民から憎まれることをもって職とせねばならぬ(彼がこの時腹の中で、私がその一月ほど前にいった中小企業の五人や十人つぶれても云々ということばを想い浮かべていたことは明らかである)、何となれば、大蔵大臣の職務はできるだけ国の費用を切り詰め、国民の租税負担を軽くすることでなければならぬ。支那の王道は、国民の税金を減らすことを最高の目的とした。古今東西政権の交代をみるに、政道にある者が奢侈にわたれば必ず百姓は一揆し、逆に質素を旨とする王者は長く民生の安定をえている。そこで、貴下の当面の問題は、まず日本国民の税金を減らすこと、それから官吏の給料がいかにも低いから、これを適当に引き上げて、徐々に国民生活の向上をはかることであろうと思う、というのがマッカーサーの考え方の趣旨であった。[p.226]


立派な考えだなあと素直に思います。池田もその点を認めていて高く評価している。が、

ただ、これだけ立派なマッカーサーの考え方が、時として、実際の司令部の行政の上に十分に反映されなかったのは、遺憾というほかはない。[p.227]


反映されなかった理由として、マッカーサーが孤高の人なので、彼の考えを周囲はよく理解できなかったし、彼の考えの勝手な解釈が司令部にあふれて、衝突し、統一のとれぬまま日本政府に押し付けられたため、としている。

さて池田の渡米は経済政策の承認をドッジから得るためだけではなく、経済の好転から独立の気運が高まったきたために、ワシントンに打診するためでもあった。と、ここで先に進む前に、当然の疑問に答えている。

経済問題については、一見、東京の司令部の承認さえ得れば、よさそうに思われるかも知れないが、その時すでにドッジの名は、日本の経済再建から切り離せないまでに高く、彼と交渉せずに、東京の司令部が独断で、財政経済政策の決定をすることは、事実上困難であった。むしろ前にのべたように、当初ドッジの補給金削減案に反対した東京のニュー・ディラーたちは、私などに対しても冷ややかな態度であっただけに、吉田総理としては、東京の司令部の威厳を損なわぬように非常な努力を払い、私の渡米問題についても、マッカーサー元帥とは十分打ち合わせをしたようである。[p.229]


そして渡米と相成るわけだが、彼の地において、一行は「高からず安からぬ中位のホテルに入れられ[p.230]」余計なことを言って東京の司令部を刺激しては困る、ということでタイトなスケジュールが組まれていたそうだ。ここで白洲次郎が登場してくる。

同行した白洲次郎君ははじめ一日くらいは行動をともにしたが、二日目くらいから、自分は財政経済は全然分からぬから見学しても無駄だ、昔の友達がたくさんいるから、油を売ってくる、といい出し、彼だけは行動の自由を確保した。昔の友達というのは、ロックフェラアとか、グルウだとか、政府の役人にとってはうるさい人ばかりで、そこへ出掛けて、白洲君が何をいい出すか分からぬというので、陸軍省や国務省の人は随分気を揉んだらしい。何しろ、日本政府の代表者が占領軍のワクの外で物をいう最初の機会であったから、白洲君は十分に自由を行使して、講和の最初の固めをしたようだが、詳しいことはここではのべない。[p.231]


その次の文は随分謎めいている。

私は吉田総理から一つ「大事なことづけ」をされていた。それを然るべき人に然るべき場合に伝えるのが、他の経済問題より遥かに重大な使命であった。その機会をねらっていたが、色々考えて、結局、ある土曜日の午後、人気のない陸軍省の一室でそれをドッジと、日本問題を担当しているリード博士に伝えた。ドッジは国務相の顧問をかねていたので、これを伝えるのに不適当な人では無論なかったが、あえて彼を選んだのには少しわけがあった。そのわけはいずれのべる時機がくるだろう。[p.231]


さて、独立についての話は、というと、

結論だけをいえば、当時のワシントンの空気は、国務省は、占領が長びくと問題がうるさいから、とにかく、日本を独立させてしまえという論であり、国防省はあれだけの国をみすみす共産勢力に渡すわけにはゆかない、占領にあきてきたのはわかるが、それならばできる限りの自主権を日本に与えるいわゆる「戦争終結宣言」というような形をとるのがよくはないか、ただし、マッカーサーは一足飛びに講和条約に行けという主張だから、うまくこれに賛成するかどうかわからぬ、仮に賛成しなければ勢い現状維持ということになっても仕方がない、という考え方をしていたようである。[p.236]



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均衡財政
附・占領下三年の
おもいで
池田勇人
帰朝後、池田が吉田総理にした報告の抜粋がのっているが、これも面白い。ジョンソン国防長官とアチソン国務長官の相違、トルーマンの性格、ダレス日本担当官の影響などが記されている。が、すでに僕は本文を引用しすぎていると思うので、ここら辺でやめよう。次に「今日に至るまで米の問題だけが解決できないでいる」という米の統制の問題について書いて終わりにしよう。

米の統制撤廃は、インフレの間は農家に非常に人気のあるスローガンだったので、政治家達は声高に訴えていたけど、インフレが収束していくと、とうの農家が統制撤廃に反対しはじめた。つまり、物不足のうちは、いくらでも高く売れるのだから価格統制なんて邪魔以外の何者でもない。市場価格のほうが公定価格よりもかなり高いのだ。だからヤミで随分もうけた農家がいる。が、物の生産が回復してくると、当然、物の値段は下がる。だから今度は価格を統制して、市場価格より高く売りたい、というわけだ。補助金の問題というのは大体こんな感じなんですね、今も昔も*1

この後は司令部とのうんざりするような交渉、朝鮮戦争の勃発、講和条約のための国内調整(ここでは麻生太郎総理大臣のご両親が登場する)、そして講和会議の様子が描かれている。どれも無類の面白さなので、是非読んでみてください。最後に池田がとくに記しているフランスの外務大臣ロベール・シューマンの講和会議での演説を引用しよう。

「条約が寛大なのはただ人類愛からそうしたのではない。勝った者が負けた者をむやみにいじめても、結局、強い者は再び頭をもたげてくる。そういう現実的な考慮が今度の条約の底に流れている」とのべ、「フランスとしては今日のように不安な世界でこういう条約を結ぶことに、多少の危険がともなっているのは知っている。しかし、ひっきょう世の中に、絶対たしかだというものは無いのだから、まずまず危険の少ない方を選ぶしかないだろう」。最後に「われわれの平和のための努力を、たえず組織的に、また継続的に、曲解をするむきがあるのは遺憾だ」といったが、ソ連の名もあげず、だからどうしようともいわずに、ひょこひょことまた壇を下りて行った。
ことばも簡潔だが、いっていることがおよそ現実的で、どこか地方の村会の、年寄りの議長の報告を聞いているようであった。[p.310]


*1:米の補助金って今もこんな感じなんでしょうか? よくしりません。ただ、川島博之『「食料危機」をあおってはいけない』みたいな本を読むと、まあ外国でも当たり前のようだし、問題の規模としても小さく感じるのでどうでもいいか、と思わなくもない。もちろん保護されている分だけ消費者が負担しているわけだけど、当面はしかたないかな、と。

2009年4月27日月曜日

補足・書評・池田勇人『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』

先日のこのエントリの補足です。

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下村治
「日本経済学」の実践者
上久保敏
池田勇人といえば所得倍増計画。そしてその経済政策のブレーンといえば下村治。なのだけれど、『均衡財政』では下村の名前は出てこない。下村治については上久保敏『下村治「日本経済学」の実践者』が最近出た。未読。さらに下村治の『日本経済成長論』も復刊された。未読。

『均衡財政』で扱われている時代はインフレの時代だった。日本は戦争を経て、モノを造り出す能力、つまり供給ががくんと落ちてしまっていた。でも需要のほうはそれほど減っていないから、モノがたりなくなって値上げしやすい状況にあったわけだ。そうしてヤミ市場が生まれていった。つまり「もっと金をだせば売ってやる」というわけだ。供給は短期間にどうにかなるようなものじゃない。人口が増えたり、教育が行き届いたり、労働環境が整ったりしないと伸びない。なので需要のほうを供給にあわせなきゃならなかった。これが均衡財政ってことだ。

翻って2009年の日本は供給は充分にある。足りないのは需要だ。これはバブル崩壊以降変わらない。そしてこれを放置するとデフレになる。

私の基本的な政策は「健全な経済」を維持するということである。その意味は、インフレも抑えるがデフレも避ける、そして経済の発展を円滑にかつ継続的ならしめるということである。インフレは国民の道徳を害し、デフレは国民の思想を偏せしめる。[p.55]

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日本経済成長論
下村治
とあるように、池田の時代と状況がちがうからといって、彼の言葉が現在に通用しないわけじゃない。彼はドッジと共にインフレと戦って日本を救ったが、昭和25年にはリフレ政策の承認を得るために渡米しているのは先日書いた通り。結果的には朝鮮戦争が起こり経済はインフレになったが、決してインフレを抑えるためならばデフレもやむなし、という人じゃない。それも当然で、少ない需要に多すぎる供給をあわせるってのはつまり、ラッダイト、なら穏やかなもんで、人に死ねといっているようなものだからだ。

池田は国民の自発的な貯蓄を促すために腐心した。1400兆円といわれる個人資産は、その成果といえるかもしれない。本来ならその資産は金融市場を通して生産的な活動に利用されるはずのものだ*1。だがそうはなっていない。


追記:本書に納められている『占領下三年のおもいで』についてのエントリを書きました。

*1:池田はそういった資産を「貯蓄国債」を発行して利用しようと考えていたようだ。

2009年4月24日金曜日

書評・池田勇人『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』

毎度更新のペースが一定しないけど、こんなもんです。

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均衡財政
附・占領下三年の
おもいで
池田勇人
さて、今回読んだ本は池田勇人著『均衡財政 附・占領下三年のおもいで』。以前に、池田勇人の側近であった伊藤昌哉が書いた『池田勇人とその時代』の書評を書いたときから、読まなきゃいかんなあと思いつつ先送りにしてきた本。なぜってそりゃあ本書のタイトルが不吉すぎるから。今世界は100年に一度とかいう経済危機に直面しているわけで、こんな時に均衡財政(税収と政府の支出が釣り合っていること)の維持なんか自殺行為だ。人々がお金を使わない、これつまり不況なわけで、そのために人々は充分な所得を手に入れることができない。そんなときは政府が代わりに使いまくる! そうして所得が増えれば、人々は安心してまたお金を使うようになる。ここで政府が何もしなければ、どこぞの国みたいに失われた10年とかそんな目にあうという寸法ですよ。

で、均衡財政を目指せば国債の発行には消極的になるに決まっている。国が借金をすれば一時的に出るお金がふえるけど、長期的には使えるお金が減るんだから。だから今となっては不吉なタイトルだった。でも本書を読みはじめてすぐに杞憂だったことが分かった。池田のいう均衡財政とは国民の自発的な貯蓄を促すためのものだった。ま、本書は不況対策についての本じゃないからあたりまえなんですね。でもさ、ほらどこぞの国だとさ、不況だって言うのに増税とか以下略。

本書は昭和27(1952)年*1に出版された。つまり日本が独立を回復した年だ。池田は昭和23(1948)年に大蔵省を辞めて翌、昭和24(1949)年に衆議院議員になってそのまま大蔵大臣に抜擢されている。その大蔵大臣としての三年間の政策をみずから解説したのが本書だ。この年までの経済状況をビックリするくらい簡単にまとめると、終戦後は激しいインフレ→それを抑えるための超均衡予算(ドッジライン)実施→あれ? 全体的にはいい感じなんじゃない?→朝鮮戦争勃発→特需とよばれる異常な好景気→それも一段落。戦争成金がブーたれる、といった感じ。この本では朝鮮戦争ではなくて、朝鮮動乱と呼ばれている。その朝鮮動乱が終わるまであと一年、という時代。

本書は実に充実の一冊であるので、なかなか要約が難しい。ので、三つのテーマを取り出して、それらに沿って概観していこう。なのでこの三つのテーマが順番に出てくるということでは、もちろんない。

一つ目は終戦から昭和27年までの日本経済の解説。主にインフレ対策について。二つ目は現在、つまり昭和27年の日本経済が持つ問題を税制や金融制度を通して語っている。そして三つ目はこれからの日本はどうあるべきかという問い。これを経済政策を通して語っている。

三つのテーマは本書のあらゆるところで、時には同時に顔を出す。池田の説明は常に具体的な数字に基づくが、小さな辻褄に拘泥しているのではなく、決して全体を見失わない。なので読者は個々の政策の来歴というか必要性を実にスムーズに理解できるようになっている。

ではまず一つ目。終戦後の日本経済について。ここからは(僕の勝手な)要約を赤くする。でこの書評の地の文はそのまま。

インフレはモノと金のバランスが崩れたところから起こる。敗戦後は何よりもまず生産の増強が優先された。生産の増強は復金を含めた財政赤字によって行われ、そのためにインフレが生まれたが経済的基盤が脆弱であるので、放置されていた。そこで、昭和24年に銀行家ドッジ氏が来日し、「超均衡予算」が組まれた。これが上手くいってインフレは収まった。一個人や一企業には厳しいこともあったと思うが、全体としてはどうしても必要なやむを得ない措置だったと思う。


その後朝鮮動乱が起こるんだけど、その影響について。

「特需」は均衡財政下での不安を一気に追い払ってしまった。が、昭和26年には異常なブームは収まっていた。「特需」がなくても日本経済の回復は順調であったと思う。


そして二つ目のテーマ。現在(昭和27年)の日本の問題。

インフレのせいで資本の蓄積が進んでいない。これからは更なる減税を通して資本の蓄積を促したい。銀行のオーバーローンというのが問題視されている。つまり銀行が手元の預金額に比べて大幅に貸しすぎているという問題。「特需」の後ということもあり、不況になるんじゃないかと心配されているので、オーバーローンを今すぐ解消しなくてはいけないと考える人々も居るようだ。


このオーバーローンという問題は、なんだかバブル崩壊以降の不良債権問題と似てますな。で、池田はこの問題は解決するに越したことはないが、今すぐである必要はない、という。経済が成長していく過程で解消に向かえばそれで良い、とする。

そしてやっぱりオーバーローンの原因は資本の蓄積が足りないこと。そもそも資本が少ないから、銀行の貸し出しに頼った企業経営をするしかなかったのであって、その解決策も銀行をどうにかするのではなくて、資本の蓄積と金融市場の整備を進めて資金を調達しやすくする政策が妥当である。


インフレはお金の価値が下がる現象なので、そうなるとだれもお金を貯めようとは思わない。だから銀行はお金を集められなくなる。なので預金よりもかなり多めに貸し出しをしなければ企業はつぶれていくだけだった、ということだろう。で、その銀行をなんとかするだけじゃ意味ないよ、と。うーん。大局観というやつですな。

三つ目。今後どうするの?

ここからは引用をしていこう。まずもっとも大事な目標は何か、というところから。

われわれは、心から世界平和の維持を念願する。だから、日本経済の運営に当たってもまた、この念願を実現するために、必要な経済条件を造り出すことが根本の目標とならなければならない。では、どういう経済条件が世界平和の維持のために必要だろうか。  第一には、国民の生活水準の向上をはかること。第二には、失業者を減らして完全雇用を維持すること。第三には社会福祉の増進をはかること。第四には、これらのことを、わが国だけで実現するのでなく、他国と互いに協力しつつ実現して、世界人類全体の安定と福祉を増進してゆくこと。[p.42]


均衡財政とか、健全財政とかいうと、なにか消極的なものに考える向きもあるかもしれないが、しかし、われわれの目標は、経済の進歩、発展、というところにあることを、ここに強調しておきたい。[p.43]


この目標が達せられなかったらどうなるのか。

人間が働く意志を有しながら、働くべき職がないということは、誠に堪え難いことであり、不幸なことである。失業が社会的な疾病ともいうべき慢性的な状態になると、偏った思想が生まれ、戦争が誘発される。第二次世界大戦が、遠く1930年前後の世界的不況に起因するという見方は、決して間違っていない。[p.45]


国民の生活水準を向上させ、完全雇用を継続するとともに、生産技術の進歩、働く環境の改善、公衆衛生の向上、教育の普及、文化の発展、社会保障の増進などを図ることは、近代国家の任務である。このような経済的社会的進歩発展が続けられてこそ、その進歩発展を阻害し、ひっくりかえす戦争を避けようとする意志も、また確固たるものとなる。[p.46]


池田のいうことは、今の日本には当てはまらないのだろうか。この十五年、池田が掲げた世界平和のための四つの目標のうち、生活水準の向上と完全雇用の維持については、なぜかあまり語られなくなっているように思う。んでは、どんな経済政策がいいんでしょう?

私は、大蔵大臣として過去三カ年余りにわたって、いわゆるディスインフレ政策を実行してきたが、私の基本的な政策は「健全な経済」を維持するということである。その意味は、インフレも抑えるがデフレも避ける、そして経済の発展を円滑にかつ継続的ならしめるということである。インフレは国民の道徳を害し、デフレは国民の思想を偏せしめる。私は、大蔵大臣就任以来ずっとこの考え方を通してきた。これが一般にディスインフレ政策とよばれたのは、たまたまその間に、急激な悪性インフレの克服に努力し、一応の安定を回復するや、今度は、朝鮮動乱勃発に伴うブームに対処しなければならなかったためであって、経済諸条件がディスインフレ政策をとることを必要としたからである。[p.55]


つまり、戦後の経済状況故のディスインフレ政策であって、状況が変われば、当然政策も変わる。

国民こぞって真剣に努力した甲斐あって、あのひどかったインフレがほとんど何の混乱もなく、世界史上まさに「奇跡的」といってよいほどに収束された。ところが、昭和二十五年の春頃には、私の予想したとおり安定恐慌的な現象がでてきた。私は自分の政治的感覚から見て、どうしてもデフレ傾向の緩和をはかるべき程度まできていると考えたので、早速司令部の人たちにこの意見をのべた。結局ドッジ氏に直接経済情勢を説明してその了解を得ることが必要だ、ということになり、減税、輸出増進のための輸出銀行の設立、預金部資金の活用、官公吏の給与引上等のリフレーションというか、言わばディスデフレ的ないろいろの腹案を持って私が渡米することになった。[p.56]


この案をドッジは承認したのだが、朝鮮戦争勃発のために経済は再びインフレ基調となり政策も再びディスインフレ的になっていった。それにしても当時の読者にはリフレーションという言葉はおなじみだったみたいですね。

以上のように、私はインフレとデフレを、ともに調整することを、財政金融政策の任務と考えている。従って、講話によって独立したからといって、この基本的な考え方を変更すべきだとは考えていない。基本的にはあくまで「健全な経済」を維持してゆくべきである。今後の財政金融政策の基調が、ディスインフレか、ディスデフレかは、今後の経済条件の変化如何にかかるのである。[p.57]


ここまで長々と引用したのは、池田の視点があくまで全体的なものであることを示したかったからだ。池田は、個人や個々の企業については自由で民主的であるべきで、今の(もちろん昭和27年の)経営者は政府に頼りすぎていると思う、と書いている。「近代国家の任務」は環境の整備であって細かいことに口を出すことじゃない。そういった考えが、有名な「貧乏人は麦を食え」「ヤミをやっていた中小企業の五人十人がたおれたってかまわない」*2という発言の裏にあったのだと思う。

くどいけど、この本は日本が独立を果たした昭和27(1952)年に書かれたものだ。今75歳の人が生まれたのが昭和9(1934)年、満州事変が一応収まったその翌年だから、彼らが18歳の頃になる。つまり今の老人にとっても、この本は遠いというか、よほど興味を持たなければ読んでいない本だろう。そしてこの本のすごいところは経済の全体像を見失わないよう注意深く物事を見ている、というところだと思うんだけど、その注意の射程は「遠く1930年前後の世界的不況」にまで及んでいる(まあこのときは20年前くらいの話だけど)。つまり、全体像をとらえるには人の一生は基準として小さすぎるし、時に短すぎる、ということだ。まれに老人たちを「粉骨砕身で戦後の経済成長を担った」というように表現する人がいるけれど、僕はなんか失礼だな、と感じる。彼らなりの一人一人の人生があったんだから、それを勝手に了解して全体像に組み込むな、と思う。池田だったらそうはしないだろうと思う。そして彼の考える全体像が控えめにいっても妥当なものだったからこそ、日本の経済発展はなし得たんだろう。なので現在の為政者たちも、個別の現象に拘泥するよりも、全体像の把握に注意深くなって欲しい。そうすれば自ずからとるべき道は見えてくるんじゃないだろうか。

追記:この本には付録として「占領下三年のおもいで」という文章がのせられている。これは実業之日本編集局長山田勝人に池田が語ったことを編集したものだ。これが抜群に面白い。司令部やドッジ、シャウプとのやり取りや、吉田茂との関係などが、そんなにはっきりとは書かれていないけど、ほんのり分かるように書かれている。次のエントリではこの文章について書いてみるつもりです。

さらに追記:補足エントリを書きました。こちらです。

さらにさらに追記:書きました。「『占領下三年のおもいで』について



*1:僕の母が生まれた年だ。

*2:池田は記者クラブの人たちに、無愛想だ、と嫌われていたので、彼らに狙い撃ちにされたようだ。このエントリを参照

2008年11月12日水曜日

書評・伊藤昌哉『池田勇人とその時代』

田中秀臣先生のこのエントリー末尾の「金融政策に思い当たらない世論」という言葉をみて、ぼんやり思うことがあった。で、以前から書こうと思っていた書評を書きます。

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池田勇人と
その時代
伊藤昌哉
この本、伊藤昌哉『池田勇人とその時代』は、戦後、池田勇人が総理大臣としてどう生きたか、を追った本だ。なので池田勇人首相の秘書官がみた池田勇人を描いた本であって、池田の業績をまとめて分析した本ではない。だから話がどんどん進んでいくし、やたらに楽しい。

この本の書評は以前に一度書いて、次は池田の経済政策について書こうと思っていたけども、なんとなく書きそびれというかテーマがないというか、何を書けばいいのかわからなくて頓挫してしまっていた。せっかく古本で手に入れたのに(以前の書評は図書館で借りたときに書いた)。で、田中先生の「金融政策に思い当たらない世論」がヒントになって再チャレンジというわけ。本書のなかで、著者が自分は「経済にうとい」と繰り返し述べているので、経済政策については細かく描かれるわけじゃないけど、それでも結構充実していると思う。池田の経済政策の背後にある信念が読み取れるようになっている。


著者は新聞記者から池田の秘書官になったので、本の最初のほうは記者時代の話だ。池田と言えば大蔵大臣時代の「貧乏人は麦を食え」が有名だが、実際の発言の主旨は、「低所得者が米を食べられるようにするために、米の値段を統制する気はない」ということであった。無愛想な態度が記者に不人気だった池田は、いちいち狙われていたようだ。本文を引用しよう。

そのうち[記者]クラブの中心人物が、なんとかして池田をたたこう、と言いはじめた。さんざん考えたあげく、「池田は単純だから、誘導尋問で怒らせたうえ、失言をひきずり出そう」という作戦になった。
 年があける。二月、三月は徴税期で、引き締め政策(当時はドッジ・ライン)をとっているときは、いつでも危機説が経済評論家の売りものになるころだ。
「これだ。これ、これ」というので、三月一日(昭和二十五年)、国会の委員室をかりて大臣会見をおこない、その質問の矢を放った。案のじょう、「ヤミをやっている中小企業の二人や三人、倒産してもかまわない」という放言がとび出した。それ書け、とばかり各社いっせいに砲列をしく。
p.20 [ ]内は引用者


こういった雰囲気の中で、やがて「貧乏人は麦を食え」というキャッチーなフレーズが生まれてくる。ちなみに池田自身、麦飯を食べていたのだと言う。

今も昔もあんまり変わらないなあ、と色んな意味で思う。ジャーナリズムについてもそうだけど、経済評論家についてもそうだ。現在、世界的に金融緩和政策が取られているから、日本は相対的には引き締めに見えてしまう。それでなくてもデフレが続いていたわけだから、ここ十年以上、引き締め政策だったともいえる(ドッジラインってインフレを押さえ込むためのデフレ政策でしたよね?)。危機説が大量生産されつづけているのにも納得だ。

さて記者である著者がなぜ池田の秘書官になるのか。その理由、動機ははっきりとは書かれていない。なんというか言葉できっちりと説明できるような感じではない。きっと著者の志が理由なのだろうし、池田もそれを受け止めていたようだ。もっとも、新聞との関係を良くしたいとも思ってはいたようだが。

著者はまた、金光教の信徒で、ことあるごとに教会の判断をあおいでいる(もちろん自分の事についてであって、政局の行方とかを聞くわけじゃない)。これも面白い。著者は教会の指示(?)に疑問を感じながらも従うのだけど、これが絵に描いたような信心では全くなくて、疑いながら不安を抱えながら生きていく。結果はでない。また悩む。焦る。時間がかかる。ああ、これが信仰なのかな、などと無信心者の僕なんかでも思う。この本はこういう人が書いているから抜群に面白いのだろうと思う。

さて経済政策である。池田と言えば所得倍増計画だ。しかし所得倍増計画の動機もはっきりしない。むしろ結果がでてから正当化していくような印象さえある。が、とにかく経済成長をしなければ、という思いが池田にはまずあったようだ。

 池田はもともと楽天家で、勇ましく、大きなことが好きなたちだった。それなのに、これまで大蔵大臣としてやらされてきたのは、ほとんどいつも引締めばかりだった。
p.81


また、戦後、主税局長時代の話として。

 彼の徴税ぶりは有名で、根津嘉一郎の遺産相続のときや、講談社の野間清治にたいする取り方は、すさまじいものがあったらしい。池田はのちによくそのことを思いだした。「俺はあのころ、税金さえとれば、国のためになると思っていたんだ」と言ったことがある。
p.76


それでは「国のため」にはならない、と思ったのだろう。だから政治家になったのかもしれない。だから経済成長を基本に考えるようになったのかもしれない。

そして岸内閣へのまさかの入閣を経て総理大臣となる。安保騒動の殺伐とした雰囲気が残っているなか、池田内閣は新政策を発表する。昭和35年(1960年)だ。その経済政策を引用してみる。

 経済はインフレなき高度成長政策を採用した。公共投資と減税と社会保障がこの政策の三つの柱である。こうして国内経済を発展させながら、一方では国際情勢に対応して貿易の自由化をはかり、他方では雇用を拡大し、労働の流動化を促進し、農業・中小企業の近代化をはかろうとするのだ。
 三十六年度を初年度とする道路五カ年計画、国鉄のディーゼル化と複線化(公共投資)、三十六年度はもちろん、年々1000億円以上の所得・企業両面にわたる減税、金利引き下げと公社債市場の育成(減税と金利政策)、国民年金の改善と健康保険の給付率の漸次的な引上げ(社会保障)、などが具体的な行政措置であった。
p.106 強調は引用者


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日本文明
世界最強の秘密
増田悦佐
うーん。なんか今でもなお必要な政策に見える。特に公共投資。鉄道網の発達こそが日本の発展を支えた、という増田悦佐氏の主張と合致している。今後だって、都市の生活を向上させれば高齢者の福祉にもつながるだろう。都市向けの公共投資、その中でも交通機関の整備は必須だと思う。ただここで強調したいのはやはり「金利引下げ」だ。当時、マスメディアはしきりにインフレだ、インフレだ、と騒いでいたようだ。だから金利を引き下げれば、当然インフレを押し進める要因となるわけで、今だったら無責任とか非難されるところだろう。当時も突っ込みはあった。さて池田はどう答えたか。以下、朝日新聞のインタビュー。

問い 最近の物価値上がりをどう考えるか。
答え たしかに小売り物価は上がっている。私は鉄道運賃と郵便のうち、ハガキ・封書は上げない。ほかのものはわかりませんよ。小売り物価の値上がりの原因は、野菜・豚などで、台所にひびくからなんとかしなければならない。しかし経済的に心配なのは卸売り物価だ。卸売り物価は国際収支にひびく。これはそう上がっていない。小売り物価は、国としては二義的なものである。
p.110


輸入しなければならない原材料の値段が上がると外貨が減る。これが「国際収支にひびく」という表現の意味なんじゃないかと思う。当時は為替が固定だったわけだから、輸入品の値上がりには外貨準備で対応するしかなかったってことなんだと思う。外貨は貿易で得た利益で買うわけだから、輸入物価が上がれば利益も減るし、そもそも輸入できる量が減るから経済そのものが立ち行かなくなるってことかしら?(はい、よくわかってません)

ここで注目なのは、池田が物価を上がった下がったと二つだけで見ているわけじゃないということだ。ちゃんと相対物価を見ていた。現在ではこの間まで原油価格が上昇してて、「インフレだ!」みたいな感じでしたけど、そういう見方は、池田はしなかった。つーかあれでインフレならば、原油価格が上昇する以前はデフレだったと認めるんですね? あるいは原油価格が下がればデフレなんですね? と聞きたいもんです。それはともかく、だから、池田は堂々と「インフレなき高度成長」を主張できたのだろう。そして実際に金利を下げる。

 新政策の発表前に、その一環として、池田は金利の引下げを約束し、八月二十四日には公定歩合を一厘引き下げた。これを好感して、安保の時期に低迷していた兜町はにわかに活気づき、九月十九日には、東証ダウが1200円の大台にのせる。日本人の心から、しだいに安保騒動の暗影が消えていって、繁栄への期待が、人びとの胸をかすめはじめた。
p.117


池田の掲げた新政策は三本柱(公共投資・減税と金利政策・社会保障)の他にも雇用の増加、労働の流動化、産業の近代化、貿易の自由化という目標があった。その全てで、一応の進歩はあったというのが衆目の一致するところだろう。と同時に、目標を全て達成したと考える人もいないのではないか。なのに何故昨今の政権は社会保障以外の目標を掲げないのか。雇用の増加や労働の流動化は、絶対に必要なことだと思うのだけど。

政策金利はいまや公定歩合ではなくて無担保コールオーバーナイト物の金利だ。政府が決めるんじゃなくて日銀が決める。たしかにここらへんは分かりにくい。僕もよくわかっていないんだと思う。でも「金融政策に思い至らない」ことはない。なぜならその先に雇用の増加や労働の流動化があるからだ。仮に、もし今、景気が過熱状態だったとしたら、賃金が不当に高くなって雇用は増えず、労働の流動性も低下し、産業を近代化するよりも投機を優先するような風潮が生まれ、貿易の自由化に耐えられない産業が政治的になにか企んだりするだろう。ならば金利を上げればいい。これだってやっぱり雇用の増加や労働の流動化が目的なのだ。経済を安定して成長させることが目的なのだ。

日銀の使命は物価の安定だそうだけども、経済成長に貢献しないなんてことが許されるんだろうか。以下は新政策発表前夜の様子。

 新政策の作成はしだいにすすんだ。下村治、田村敏雄など、政策ブレーンが箱根に集まった。
 成長率が問題になり、宏池会事務局案は7.2%、10年間で国民所得を倍増するという計画だった。下村案は11%で、結局、池田は、三十六年[1961年]以降、最初の3年間は9%でいくという方針をたてた。当初の成長率を高く見こんだのは、ちょうどその間に、終戦後のベビー・ブームに生まれた連中が就業する時期がやってくる。それまでに経済の規模を大きくしておかないと、失業問題がおきるという配慮からだった。
p.104 [ ]内は引用者。また、一部漢数字をアラビア数字に変えた。


今、経済成長の恩恵を受けていない日本人なんて一人もいない。高度成長はやがて公害問題を発生させ、公共投資は住民のためというより所得分配のために行われるようになった。たしかに問題だけど、経済成長の重要さとは関係ない。僕は子供の頃から、経済成長が全てではない、というような話は腐る程聞いた。僕も大学生のころはそういうことを言っちゃう、ちょっと痛い子だった。で、たぶんそれは日本だけの話でもないんだろう。そして振り返ってみると、アメリカだけが成長をあきらめてなくて、他の先進国はなんか今イチやる気があるんだかないんだか、という感じで、ブーブー文句いうくせにアメリカに頼っているというわけだ。

そういうふうに見てみると、「金融政策に思い至らない」のではなく、「経済成長に思い至らない」のではないか。その理由は、別に知りたくもないけど、たぶん因果関係を取り違えているってことなんじゃないだろうか。

さて所得倍増計画はどうなったのか。

池田が提唱した所得倍増計画は、多くの人びとを共感させ、自信をあたえ、日本の経済力を伸長させた。都市における鉱工業部門の所得の増加は、やがて各層に波及していった。農村の次、三男がぞくぞくと都市への移動を開始した。人手不足の声がではじめ、日本では完全雇用は永遠に不可能だという、漠然としたあきらめは徐々に消えていった。社会には明るい力がみなぎってきた。「これから前途は展開していく」と、人びとは思った。「日本は若い国だ」と、人びとは肌で感じた。三つの卵を五人でどう分配するかに狂奔するよりは、その五人で六つの卵をつくることに努力したほうがとくだと考えだした。
p.237


そして東京オリンピックが開催される。池田は開会式に出席するが、ガンを患ってもいた。せっかくの大会に水を差すというので、辞任はオリンピックの閉会後となった。そして、昭和四十年八月十三日、死去。

追記:新しく池田勇人の本を書評しました。こちらです。