2008年8月5日火曜日

機能主義とOne Piece スリラーバーク編(ネタバレあり)

山本七平『指導者の条件』を読み始めた。序盤では日本において、機能主義こそが組織と個人の振る舞いを決めていた、という話。ここでいう機能主義を勝手な要約にしてしまうと、「上手くいけばいい」主義、あるいは「本人が望んでいるんだからいいんだ」主義という感じになる。

例えば、先日ファミレスの契約社員が過労死認定されたというニュースがあったけども、どんなにバカげた働き方をしても、それは「本人が望んでいるからいいんだ」というような考え方がそうだ。上手くいけば、組織が機能すればそれでいい。人に配慮するのも、「上手くいく」限りにおいて、というわけだ。

機能主義の利点は、原則がなくても「上手くいく」ということだろう。社長の訓示がまったく役に立たなくても、クラスの目標がお為ごかしでも、憲法が空文化しても、「上手くいく」のだ。山本七平は、この機能主義のおかげで日本の経済発展は成ったと考えているようだ。

機能主義が日本に独特であるとは思わない。お金で解決、なんてのは機能主義の一形態であろうから。でも、日本の機能主義は徹底している、と考えるのは、納得まではしないけど、そういうところもあるかも、とは思う。

さて、『指導者の条件』をちょっとだけ読んで思ったのがみんな大好き『One Piece』だ。僕はコミックス派なのでジャンプは買ってない。コミックスは最新が50巻で、スリラーバーク編が終わったところだ。

舞台は一年中霧で覆われた魔の海域を漂うスリラーバークと呼ばれる動く「島」。その主であるゲッコー・モリアは、迷い込んだ海賊たちの「影」を奪い、その影を天才外科医ホグバックによって強化された死体に押し込むことで、絶対服従の最強ゾンビ軍団を作り上げていた。奪われた影を取り戻すべく、麦わら海賊団は反撃にでる。

大悪党ホグバックに言わせると、モリアの能力は死者の復活であるという。人が死んでしまっても、新たな影を入れることで再び動き出す。影は記憶を失って、モリアに絶対服従になるが、死者が蘇ったにはちがいない。また生きられるのだから、死者たちも本望だろう。

そこで麦わら海賊団船医、ドクトル・チョッパーは叫ぶ。「お前が一番人間扱いしてないんじゃないか!」と。「人間ならもっと自由だ!」と。

上手くいっていれば、本人が望んでいれば(あるいはそのように見えれば)、「いい」のだろうか。そもそも上手くいくってのは、何が上手くいくってことなのか。件のファミレスは二年連続で赤字だそうだ。ゲッコー・モリアも魔の海域からは出られない(影を奪われた人間は日の光を浴びると死んでしまう。影の元の持ち主が死んでしまうと、影も消滅してしまうので、モリアは彼らに霧の中にいてもらう必要があるのだ)。

モリアは麦わらのルフィを「経験の浅い若造」とののしり、侮り、ついに敗れていった。彼は経験とやらを活かして政府に取り入り、霧の中に閉じこもっていただけだった。一体何がしたかったのか。前述のファミレスは四年前のケースでも過労死と認定されていた。一体何がしたいのか。

明治期から1970年代くらいまでは、欧米に追いつく、という暗黙の目的があった(ようだ)。だから日本社会は機能主義の良いところを活かせたのだろう。でも今は? 「何事も経験」とか「日本人の勤勉さ」とか「社会人として」とかいったフレーズを聞くと、その度にイラッとくる。目的はなんだ? 何のための経験なのか。何のための勤勉さで、何のための社会人なのか。人の自由を奪ってまで押し付けられるような価値のある目的があって、それが経験もなく勤勉でもない、社会人失格な僕には見えないだけなのか。

(日本の組織を)このまま放置しておきますと、組織の老化現象が急激に進み、あらゆる面で新しい情況に対処できない状態になるのではないかと恐れております。この状態をどのように打破するか、方法は一つしかありません。組織とは何か。これは家族ではない。組織とは、元来、一つの目標に対応してできるものであって、目標がなくなれば組織はなくなってもかまわない。この意識——当たり前のことですが、この当たり前のことを、もう一度再確認する以外にはないと思います。
山本七平『指導者の条件』より。()内は引用者注。


ところで、(いまのところ)『指導者の条件』では日本の機能主義に対して、ヨーロッパの教条主義(原理原則が大事)みたいな感じなんだけど、ルネサンス以降は教条的な教会に懐疑的な人たちこそが、人の権利意識の発展の原動力だったんじゃないかなあ。原理原則と機能主義のバランスが大事だよね、という話だと、ま、確かにあまり面白くはないけども。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントをどうぞ。古い記事でもお気軽に。