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2012年6月28日木曜日

[訳してみた]なぜまともな人に仕事がないのか

『なぜまともな人に仕事がないのか』という本の著者のインタビュー記事がとてもおもしろかったので、訳してみました。もとサイトはペンシルバニア大学ウォートン校のものです。えー、ちなみに本は読んでません。iPhoneのkindleアプリでも積ん読ってできるんですね、知らなかったなー(棒) ま、そのうち読むかもしれません。

 さて著者は経営学の教授さんだそうで、その人が書いた『なぜまともな人に仕事がないのか』なのですから、これはもう嫌な予感しかしないわけです。国際競争力ガー、生産性ガーという話なんじゃないの? やだよ、そんなの。というのが経済学関連書を読む現代日本人の正しい反応というものでしょう。

 あに図らんや、おとうと図るや、このピーター・カペリ教授、失業者が増えた理由の第一を、そもそも仕事が少なからだ、と言明しております。ということでどうかご安心ください。

 日本でも雇用のミスマッチとよく言われるけれど、アメリカでも同様なようで、カペリ先生、そこに噛み付いています。それは企業側の言い分に過ぎないし、現実に起きていることとはちがう。企業が人々に押し付けている雇用プロセスが本当に効果を発揮しているのか、それを検証する責任が企業にはあるのだ、とのこと。他に、空きポストを放置するコスト、報道に対する批判、などが話題になっています。

 これは日本でもいえますね。若い人の就職活動があまりに迂遠で、求職者の負担ばかり大きく、しかも本当に企業が欲している人材を選別できているのかどうかもわからない。これでは無責任と言われてもしかたがないでしょう。

 では以下本文をどうぞ。

 原文はKnowledge@Whartonの"Why Good People Can't Get Jobs: Chasing After the 'Purple Squirrel'"です。(リンク

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(翻訳はじめ)


なぜまともな人に仕事がないのか:むらさき色のリスを追い回すコスト


 ペンシルバニア大学ウォートン校のピーター・カペリ教授(経営学)の新著、『なぜまともな人に仕事がないのか 技能のミスマッチと企業にできること(Why Good People Can't Get Jobs: The Skills Gap and What Companies Can Do About It)』が、今日労働に関わるすべての人々、雇用主、労働者、リクルーター、そしてアカデミズムとメディアの間で話題になっています。カペリ教授は、雇用主サイドから繰り返し発せられる、求職者に充分な技能が備わっていないという議論の誤りを指摘しています。そして教授は、むしろ責めを負っているのは企業側であり──雇用とトレーニングのコストについてきちんと情報を集めていない、というのがその一点です──、さらに、応募者をコンピュータで管理するシステムが、求めている人材を見つけやすくするどころか、逆に見つけにくくしている、と主張しています。

 カペリ教授は、ウォートン校の人材センターの長でもあります。今日は当サイトの記者と共に、新著について語ってもらいました。以下はその模様です。
記 者:ピーターさん、お時間をいただきましてありがとうございます。さて、この本では実に幅広い議論が展開されていますが、その中の一つに、不況と冷え切った労働市場のもとで、企業は巨大な求職者予備軍を相手によりどりみどりといった状況になり、雇用の際により厳しく選別するようになっている、というテーマがありますね。しかしそれでも、満足な技能を備えた求職者が見つからない、と言い放つ企業もあるわけです。このことについてお聞かせください。
ピーター・カペリ:まずすべてのプロセスを雇用主がコントロールしていることを理解しておきましょう。雇用主側が仕事の定義をし、応募条件を作り、募集の文言を決めているのです。給与の水準を定めて、どの程度おいしい仕事なのかをわかるようにしておき、その後に、選別に取りかかるわけですね。そこで応募者の情報に目を通し、より分けていきます。
 何よりハッキリしているのは、現在、シンプルに仕事が足りていない、ということです。だから雇用主がえり好みができる状態であるのは間違いありません。しかしえり好みすることをここで問題として扱う気はありません。雇用主側が見極めに時間をかけて、いざ雇う段階までなかなか進まないのは、べつにことさら驚くことでもありませんよね。なんといっても見極めるべき求職者の数が多いのですから。こんなに長い行列ができているのですから、最初の一人を採用する必要なんてないでしょう? 不自然な、そして誰から見ても良くない点はそこではなくて、「いや、雇い渋っているんじゃなくて、雇いたいと思う人があらわれないので、ずうっと雇っていないんだ」という雇用主の存在なのです。この問題の答えを出すにはまず、雇用のプロセス上すべての決定を、他ならぬ雇用主側が行っているというところから始める必要があると思います。では、このような雇用主というのは、なにか間違ったことをしていると言えるのでしょうか?
記 者:それはそうでしょう。だって仕事を探している人の存在と、雇用主側の意に満たない人しかいないという主張はマッチしてませんからね。教授が提示した問題の一つに、「ホームデポ(訳注:住宅工具の大型チェーン店)」流の雇用プロセスというのがありました。これは、雇用をまるで食洗機の部品交換のように行うもので、空いた仕事を壊れた部品と見なして、部品を食洗機にはめ込むように新しく来た人を仕事につかせておしまい、というやり方です。しかし一方で、仕事のポストを無理に埋める必要はない、今いる社員で回せばいい、と感じている企業があります。こういった企業は、空きポストが多すぎることで本業に支障がでる日がくることを理解していません──いえ、本業でなくても、会社の成長、利益率の向上、競争力でも言えることです。これも問題の一つではないですか? 雇用を遅らせる企業と、その見えないコストを理解せずにそうしている企業です。
カペリ:はい、間違いなくそこが問題なのです──ほとんどの組織の内部で行われている会計システムは、空きポストを維持するコストについては何も教えてくれません。会計システムは、誰かを雇い入れるコストは簡単に教えてくれるのですが、社員の貢献を計ることはできないのです。なので、たいていの企業では、会計システムの教えからいって、空きポストを維持することでお金を節約しているように見えてしまっているのです。会計システムを信じる限り、急いで人を雇う必要なんてどこにもないのです。問題はここから始まっていると、私は考えています。これは明らかに、社会にとっても雇用主にとっても良くないことです。しかし問題は雇用主である企業の内側から生まれているのです。会計システムが、人を雇わないように仕向けているのですから。
記 者:教授はまた、企業が市場価格の給与を支払っていない事も問題視しています。企業側は労働市場に向けて、とりあえずきわどい球を投げてきているようです。しかし、人を安く雇えるときに、どうして市場価格を支払わなくてはいけないのでしょう?
カペリ:いや実は支払いたくても支払えないんですよ──というのが企業側の言い分ですよね? マンパワー社による調査がありまして、雇用主に雇いたい人材が見つからずに困っているかどうかを聞いています。その調査では、だいたい11%の雇用主が、問題は雇用主側が提示する給与で仕事を引き受けてくれる人がいないこと、と答えています。つまり11%が、給与を充分に支払っていないと認めているわけです。11%が認めたという事は、実際にはこの倍はあると思います。人は自分自身が生み出している問題には鈍感なものです。ですから認めたのはほんの一部なのでしょう。まあ、とりあえず低めのきわどい球を投げるのは責めないとしても、その上で人材が見つからないと言うのであれば、それは技能のミスマッチと呼んではいけません。求める技能と持っている技能のミスマッチなどではなくて、単に渋ちんなだけです。
記 者:この本には「ミスマッチなのは技能ではなくてトレーニング」という章があります。そこでは1979年のデータが載っていて、その当時の若者は平均で、年に二週間半の期間、トレーニングを受けていたとあります。それが1991年になると、前の年に何らかのトレーニングを受けた若い労働者は、わずか17%になってしまっています。過去五年以内にトレーニングを受けた、という人でも21%しかいませんでした。教授は、徒弟制のような、仕事をしながらトレーニングをしていく仕組みが特に崩れていると指摘しています。では、現在の社員や将来の雇用のためにトレーニングを行う仕組みを整備していく、そういう努力が企業側に不足していることが、「技能のミスマッチ」とよばれるものの大部分を引き起こしている、ということなのでしょうか?
カペリ:そうです。特に政策に携わる人たちの間でよく言われることですが、学校がダメなせいで、子供たちは必要なだけの学位と知識を持たずに社会に出てきてしまい、雇用主側の意に沿った人材が見あたらない、という説があります。しかし、その雇用主自身のデータを見てみると、雇用主が人材を獲得する際に直面する懸念事項で、学問的な技能が大きな話題になったことなど一度もありません。現に、雇用主側の求職者に対する注文は、私が調べているこの30年間ぐらいほとんど変わっていないのです。そしてその注文というのは、端的に言って、いつの時代であっても老人が若者に対して抱く思いと同じなのです──若い奴には勤勉さが足らん、職場での態度がなっとらん、仕事はもっと一生懸命やるものだ、こういったことです。実のところ企業側は、学校を出たての若者なんかぜんぜん探していないのです。雇用主が何を求めているのか調べてみれば、それは結局経験です──どの企業も、3年から5年くらいの経験を持った人を探し回っています。企業が本当に求めている技能は教室では学べないもので、その仕事をしながらでしか学べないのです。ですから、応募要件が浮き世離れしているのはたいてい、企業が、今現在別の会社でまったく同じ仕事をしている誰かを探し回っているせいなのです。そしてこれが、雇用主が今現在失業中の応募者に会いたくない理由でもあるんですよね…。募集しているその仕事にすでに就いている人を探してるんです。問題は、学校を出たてで経験の無い人にその仕事を与えようという人がいないことです。以前にその仕事をやったことが無い人を採用し、トレーニングを授けようという人がいないのです。
 すでにトレーニングを受けている人を雇った企業を見れば、楽なほうを選んだな、とその気持を理解することはできます──少なくとも、そっちのほうが楽に見えたのでしょう。しかしそうすることで同時に、誰もが入門者を避けるわけですから、技能ミスマッチ問題を生み出してもいるのです。そしてやはり多くのケースで、水準に達している人──特殊な技能はのぞきますが──を採用し、トレーニングするのは、様々な面で充分に引き合うのです。トレーニング期間の給与は低めにしておけますし、雇う前に技能のいくつかは身につけてくることを条件にしたって別に構わないのですから。しかし会計システムがあるために、雇用主の大多数は、人をトレーニングするコストについて何も知らないままでいるのです。すでに仕事についている人を追い回して雇い入れることで、本当にお金が節約できているのか、ぜんぜん見当もつかないのです。
記 者:教授のこの本は、キャッチ22状態(訳注:自縄自縛の堂々巡り)で満たされていると言えるのではないでしょうか。雇用主は、社員が会社を辞めてしまうことを恐れているので、トレーニングを授けたくない──確かに労働者はますます企業を辞めやすくなっていますし──、そうなればトレーニングの費用がすべて無駄になってしまうわけですからね。しかしこれは同時に、すでにトレーニングを受けた求職者の数がますます少なくなって、見つけづらくなることも意味しています。どうも手詰まりな印象がありますね。
カペリ:そしてこれは労働者にとってもキャッチ22状態なのです──その仕事の経験が無いために、最初の一歩を踏み出すことさえできないのです。重要なことですが、雇用主側は、以前はずっとこのようなトレーニングを行ってきたんです。トレーニングを行い、さらに利益を出す方法があったのです。徒弟制がその例ですが、弟子をとるというのはずっと、働きながら学ぶ有力なアプローチでした。医師を育成する方法も同じです。コンサルタントや会計士を育てる方法もまったく同じです。こういった会社──会計事務所やコンサルティング企業は、事実上すべての社員が5年以内で辞めていきます。しかしそういったやり方のなかで、人々は働きながら学んでいるのです。つまり、そういった業界では人々はトレーニングを受けているのです。会社はそれでも、全員が学びながら働いているにも関わらず、そんな社員を使ってお金儲けができているのです。これに近いことを多くの企業で実施できるかどうかなんてすぐに見当がつきそうなものですが、「ウチでは無理だね」という脊髄反射的な答えが返ってくるのです。
記 者:無職の応募者が差別される理由がたくさんある、と指摘してらっしゃいます。企業側は、そういった応募者の技能が時代遅れになっているとか、高齢すぎると感じているのかもしれません。連邦政府が差別を禁止するという手段をのぞいて、この問題を回避する方法はあるのでしょうか? 政府による禁止が上手く機能することはまずないでしょうから。
カペリ:高齢の労働者の問題は特に重要です。というのも、高齢の労働者というのは普通、企業側が雇用の際に求めるものをすべて持っているからです──仕事への姿勢、経験、準備期間も育成期間も必要がない、または少ない、などです。しかしそれでも、高齢の労働者に対する差別はありふれています。禁止する法律はありますが、実行力はありません。
 問題は、雇用主側が、自分たちの利害を自己診断しているところから始まっていると思います。皮肉なことですが。私は何も、雇用主は一心に社会の為に何かを行うべきだ、と言っているのではありません。今企業が行っていること、つまり、すでにどこか別の会社に雇われている人々という小さなグループを追い回す行為が、そもそも企業自身の利害に一致していない、と言っているのです。人をトレーニングすることは理にかなっていますし、人にチャンスを与えることも理にかなっているのです。空きポストを本気で埋める為に、応募条件をもっと現実的なものにするのも、やっぱり理にかなっているのです。なので一番の難問はこれなのです。企業側が、自分の利害に沿って行動していない、という点です。ではどうしたら、企業はもっと上手く立ち回れるのでしょうか? 外部の人に手伝ってもらうことも可能でしょうね。常によその会社の人材を追い求めることがどれほど高くつくか、ということを学者とかに指摘してもらえば良いのです。たとえば、本校の同僚にマシュー・ビドウェル教授がいるのですが、彼が実に興味深い研究を行っています。よその会社から人を雇った場合と、生え抜きの人の場合を比較しているのです。すると、生え抜きの人のほうが、コストの面でも生産性の面でも優れていました──これはよその会社にいた人は絶対に雇うべきではない、という意味ではありません。そうではなくて、会社の内部で成長させていくことは、間違いなく引き合う、ということなのです。なので、雇用主側はまず、情報をしっかり集めるところから始めるべきだと考えます。皮肉なのは、そのほかの業務については、たとえば仕入先の質や在庫を抱えるコストなんかについては、詳細な情報を持っているのです。それが人事となると、何も分からなくなってしまっているんですね。
記 者:近頃では、典型的な企業の人事部の役割が効率化、省力化されてきていて、雇用のプロセスの中で重要性を失っているのではないでしょうか?
カペリ:この20年間にわたり、人事部は骨抜きにされ続けてきたという面があると思います。特に不況時にはリストラが行われますし、人事部は狙われやすいですよね。トレーニングを担当する部門は、もうほとんどの企業から姿を消しています。また、新人を発掘する様々な機能も同様に失われてしまいました。昔でしたら、求人を出す際、職務の内容などは人事部に相談して作っていました。人事部の人はそのためにいたのですし、もし応募条件が浮き世離れしていたり、労働市場とズレまくっていたら、その人が止めてくれていたのです。それが今ではそんな人はいなくなってしまった。そして基本的に、今時の「ほしいものリスト」式の応募条件は、応募者管理ソフトで作られています。実際の応募者が生きた人間の目に触れるのは、雇用プロセスの最終段階だけです。つまり、私たちは雇用プロセスの自動化を進めてすぎているのです。自動化それ自体に問題はありません、結局応募者をふるいにかける必要はあるんですから。しかし、プロセスから人間も一緒に排除しようというのは、重要な決定を機械に一任してしまうことなのです。人間による判断がやっぱりとても重要です。
記 者:さらに、多くの求職者が、管理ソフトの裏をかく術を身につけてきています。たとえば、履歴書や経歴書などにキーワードを忍ばせておく、といったことです。ソフトウェアによる管理がますます洗練されているように見える一方、抜け穴もあるわけですね。
カペリ:そうです。そこが大変重要なポイントです。ソフトの裏をかける人は応募プロセスの先に進みますから、会社側も面接で直に接触できます。しかし、そうでない人とは出会うこともないのです。果たして雇用主側は、本当にそんな人を雇いたいのでしょうか? 制度の裏をかくような人物ですよ? そのこと自体が、どんな人物であるかを物語っている、とも言えるでしょう。しかし求めていた技能については何の情報も得られません。
記 者:性格や自己を律する能力といったことはほとんど分からないですよね。
カペリ:それこそ雇用主側が求めている情報なんですけどね。
記 者:教授はまた、「熟練の労働者が見つからず企業困惑」といった見出しで記事を書く傾向があるとして、新聞メディアの責任も指摘しています。「求人、夢見がちなのは企業側」なんて記事は書かないんですね。とはいえ、メディアがそう簡単に変わることはないでしょう。連中がより分析的になり、深層をえぐるようになるとは思えません。そこで、メディアの情報から事実だけを手に入れるにはどうしたらよいのでしょう?
カペリ:まあそれが私にとっての大問題でした──それがこの本を書いた動機の一つでもあるのです。新聞を開けば、あふれんばかりの逸話、事例が載っていますよね。そして国政の場、ワシントンに行けば、本当に多くの人がそういった個別の逸話や事例を思い思いに選び出し、それが我が国の経済全体で起きている現象なんだと思いこんでいるのです。基本的に、私がこの『なぜまともな人に仕事がないのか』でやったことは、ある程度まとまった量の、現実のデータを調べることです。そしてデータを見れば、新聞に載っているような逸話がどれも真実ではないことが分かるはずです。たとえば、雇用主側が新聞が伝える通りの行動をしていないことなんかが分かります。新聞記者の方々が、ほんの二三でいいので質問をぶつけてくれればいいのに、と思います。雇用主側が、技能の面でミスマッチがあって、求める水準に達する応募者がいない、と言うとき、彼らは単に、状況を自己診断しているだけなのです。しかし実際に起きているのは、単に企業が人を雇えずにいて、その理由は分からない、ということでしょう? ミスマッチ云々というのは雇用主側がそう言っているというだけなのです。これはただ単に、雇用主側が出した応募条件がクレイジーな代物だとか、給与が低すぎるとか、ふるいの目が細かすぎて誰も通れなかっただけなのに、雇いたくなる人材がいないんだ、と言っているわけです。
記 者:この本の中に、どの世代も重大な技術革新を経験していると感じてきた、という箇所があって、面白く思いました。考えてみれば、電力、電話、自動車すべてが10年のうちに広く使えるようになった時代もあったのですね。しかし、現在の、何でもコンピューターが動かす私たちの時代の変化の大きさでさえ、以前の変化と特に変わらないという教授の指摘は、ちょっと信じられないのです。現在の医療、ナノテクノロジー、ロボット工学の変化はすごいですから。
カペリ:ここでの真の疑問は、雇用のミスマッチが発生するほど、技能の要求水準を高めるような事態が起きているのか、ということです。ご存知のように、いつの時代にも新しいテクノロジーを身につけなくては就けない仕事があります。そしてそうでない仕事もあるのです。合衆国の全仕事を並べてみれば、増えていくものもあれば、少なくなっていくのもあるでしょうが、増えているほうには、大きなグループが二つ見つかるはずです。需要に応じて増えている高給の仕事、そして、医療ケア、介護など、給与は低いけれど需要に応じてものすごく増えている仕事です。全部ひっくるめると、(訳注:必要な技術水準は)全体ではあまり大きな変化にはなりません。すべての職業を貫くような構造的な変化は起きていないのです。今時はコンピュータとITがとにかく重要なんだ、というのが私たちの口癖なわけですが、PCがオフィスに登場したのはもう30年から35年前ですよね。社員みんなのデスクにPCが置かれていなかった光景、それをあなたが最後に見たのは何年前でしょうか? 思い出せる人もいるでしょうが、ほとんどの労働者はもうそんな光景を見たことさえないのです。コンピューターはそれくらい長い間利用されてきました。
 私が思うに、私たちは、若い人たちがブラックベリーやiTunesを始終使い倒しているのを見て圧倒されているんじゃないでしょうか。しかし年のいった人だって同じテクノロジーを利用しているじゃないですか。同じ事ですよね? 違うのは、若い人たちは24時間友達としゃべっていて、私たちが友たちと話す時間はもっと短い、という点だけです。なので、テクノロジーが違うのではないのです。若者がテクノロジーを使い倒していることに、私たちの意識が集中してしまっているだけなのです。でも私たちだって使ってはいるのです。
記 者:我が国の新卒は、他国の新卒よりも技術的、質的に劣っているという主張はどうでしょうか。教授はOECDの報告を引いて、合衆国の学生は先進国中でだいたい真ん中あたりであることを示していますね。同時に、たとえばアジアの国々が、教育と職業訓練の面で合衆国に追いついてきているとも書いています。この点で我が国が心配しなくてはいけないことが何かあるのでしょうか。
カペリ:先ほど話題になった説──学校がマズいので技能のミスマッチが起きている説──は本当に強力で、それは我が国では学校がとにかくヒドい状況なんだ、という見方が根付いているからです。しかし平均で見ればそれは事実ではないのです。学校制度はこの20年間で、少しずつ改善を続けてきました。もちろん我が国にはまだ極端にヒドい学校が残ってはいるので、そういった学校がやたらと注目を集めているのです。しかしそれは我が国のほんの一部分にすぎません。すばらしい学校も、ヒドい学校もあるのです。外国と比べてみると、私たちはだいたい真ん中です。そして結構長い間真ん中あたりにいました。
 高校の生徒の学力世界トップ5には、シンガポール、上海、香港が含まれています。競争相手をヨーロッパに絞ってみると、私たちはやっぱり真ん中くらいです。違う点があるといえば、我が国では大学に通う人がよその国よりも多い、というところでしょう。ですから、合衆国の典型的な労働者は、たいていの国に比べて高い教育を受けているのです。我が国の教育はまだ充分ではない、と主張する人たちもいます。でも何をもって充分とするかという議論は、それこそ永遠に続けられますよね。なのでやはり、次のシンプルな点が大事ですね。雇用主側は、応募者の学力について文句なんか言ってない、という点です。そして、特に合衆国で顕著なのですが、労働者や学生たちは、どのような経歴を積めば仕事につけるのか、何を専攻すれば仕事につけるのか、それを見極めようとして身を削っているのです。
 さらに理系が足りない、という説も強力ですね。ここでいう理系というのは、科学、技術、工学、数学です。工学のある種の仕事は、いまでこそ超人手不足ですが、5年前まではぜんぜんそんなことはありませんでした…。なので、工学のある分野に進んだとしても、自分が労働市場に出た年に上手いこと人手不足になるかどうかは賭なのです。もし求人が少ないとなれば、他の分野に進んだ人と同じ問題に直面することになります。しかもそれに加えて、理系の技能はあっという間に時代遅れになってしまうのです。特にIT関連の技術がそうです。
 なので、たとえばコンピューター・プログラマーとしてのキャリアを目指すのは、技能が時代遅れになってしまうという点では、理想的なものとは言えないかもしれません。労働市場に放り出されると、また別の言語を身につける道を見つける必要があります。さらに、数学や科学を専攻した場合だと、そのまま数学や科学の仕事に就くのは至難のワザです。たとえばここ、ペンシルバニア大学を見ても、理系の学生の大部分は、コンサルティング企業や投資銀行に就職していきます。ですから、どこかの産業が数学や生物学の学位を持った人材を大々的に募集したけれど、見つけることができなかった、なんて事態は起きていないのです。
記 者:この本の副題は、「技能のミスマッチと企業にできること」です。この問題の解決策が示唆されています。すでにいくらか触れてらっしゃいますが、この問題を少しでも和らげる方法を二三ご教示くださいますか?
カペリ:もし私が雇用主であれば、まず空きポストを維持することのコストをちゃんと把握しているかどうかを調べますね──実はつい先週、同じ事を経営者さんたちの前で述べたのですが。もちろん、調査にはコストがかかるでしょうけどね。自分でトレーニングを施すコストと、よその会社の社員を追い求めるコスト、どちらが大きいのか、理解しているでしょうか? もしこの疑問の答えを持っているのなら、空きポストにもコストがあることを理解しはじめていることになります。どこかの誰かを永遠に追い求めることを、IT業界ではむらさき色のリス探し、と言います。あまりにユニークで、平均をものすごく上回る、どこまでも完璧な人材、しかし決して見つかることのない人材──そんな人を追っかけるのは、賢いやり方とはいえないでしょう。ですから、きっと私たちは応募条件を修正して、とりあえず空きポストを埋めて、さっさと仕事に取りかかるべきなんですよ。果たして多くの企業は、会計事務所がしているように、そしてかつて職業別労働組合が技能検定という形でおこなっていたように、トレーニングをしながらお金儲けをする方法を見つけることは不可能なのでしょうか? 直感に頼り切りになるのではなく、理にかなったやり方を探すこともできないのでしょうか? 直感は間違うことだってあるのに。今少なくない企業が、トレーニングでは得ることのできないむらさき色のリスが目の前にあらわれるのをひたすら待っているだけです。待つのに忙しいので、人々が普通にがんばるチャンスを用意する暇もないのでしょうか? 別のやり方を検討していきましょう。まったく理にかなっていないのですから。
記 者:最後になりますが、労働者サイドにはどのようなアドバイスがありますか?
カペリ:仕事を探している場合、まず気をつけておかなくてはいけないことは、大局を見れば、仕事が見つからないのはあなた個人の責任ではないということです。単に、仕事を探す人の数に比べ、仕事の数が足りていないのが現状なのです。しかも膨大な数の仕事が不足しています。なので、仕事が見つからなくてもご自分を責めないでください。
 次に、現行の雇用プロセス、特に自動化が進んでいるところをふまえると、ベストなアドバイスは、目新しいものではないのですが、自動化の裏をかけるかどうか、そして、実際の人物に会って応募書類だけでは分からない様々な技能を持っていることを納得してもらえるかどうかを確認しよう、ということですね。さらに、雇用のリスクを小さくしたいと願う人事担当者の気持ちになってみるのが良いでしょう。これは不況でなくても役に立ちます。人事担当者は本当にその仕事をやりたがっている人を見つけたいものなのです。担当者があなたで納得するかどうか、考えてみてください。
記 者:ピーターさん、どうもありがとうございました。

(翻訳おわり)


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cover
偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
カペリ教授の問題意識は、田中秀臣先生の『偏差値40から良い会社に入る方法』(参照)と共通しているようです。現状は個人の手に負えるものではないけれど、できることもある、といったところでしょうか。

 あと、言い回しについていけなくて途中で投げ出した本で、豊田義博著『就活エリートの迷走』というのがありまして、そこに日本の新卒のみなさんがヤキモキしている、エントリーシート導入の経緯とその結果、みたいな話がありました。導入した企業からすると、エントリーシートで応募者をふるいにかけた結果、本来求めていた人材を逃しているんじゃないかという不安がある、のだそうです。「絶対に通るエントリーシートの書き方」みたいな本もあるようで、雇用のプロセスをカッチリしすぎてしまうと、受験テクニックならぬ就活テクニックを研究するコストが充分引き合ってしまうんでしょう。カペリ教授の指摘そのままですね。

 マクロの経済状況を考えると、ついつい、企業も苦しいからなあ、と思ってしまうのですが、あんまり時流に乗ろうとかしないで基本的なところではぶれないで欲しいですね。我が国でも浮き世離れした求人、「空求人」の問題があります。そして言わずと知れたサービス残業があるわけです。人を雇うという企業活動の基本的なところでお茶目してしまうのなら、景気の良し悪しによらず、批判は受けますよ、そりゃあ。

 マクロで見れば、失業率が高いということはまだまだ賃金が高どまりしているということなのでしょう。だから失業率の改善には賃金の切り下げが有効だ、とこうなるわけです。しかし細かく見れば、一律に賃金が高くなっているわけではありません。仕事の実態以上に高くなっているところと、仕事の実態よりもものすごく低くなっているところがあるわけです。そして後者はたいてい立場の弱いところに集中します。だから、「まだまだ賃金が高い」みたいな情報ばかり流れてしまうと、ただでさえ立場の強い雇用主側の振る舞いに、専門家がお墨付きを与えてしまっているようにも見えてしまう。陰鬱な学問の面目躍如で、ここら辺にも経済学の不人気な理由がある気がしますね。

 とはいえ、我が国が一番に取り組むべきことは、やはり景気が良くないことのはずではあるのです。でもそうして、日銀があんな感じで放置され、就職氷河期を繰り返しすほどの長い不況のなかで、それでも企業が人材不足であると感じているというのだから(参照)、その反省を国民が勝手に雇用プロセスに反映させたって罰はあたらないでしょう。当局が動くのを待っていたって仕方がないですよ。カペリ教授も言うように、人をトレーニングしないコストだってあるんですから。

 特に世代間での賃金差が大きすぎるのは、所得移転という点からも組織の健全さという点からも、そして社会の長期的な安定という点からも好ましくないのですから、もっと堂々と批判していきたいですね。

■ ■ ■

 ついつい完璧を求めてしまうのは人類の通弊でありまして、自分に完璧を求めれば不安と憂鬱で身動きできなくなり、他人に求めれば若い芽をせっせと摘むはめになる。荒唐無稽な空求人は、企業がハローワークにお願いされて渋々だした求人であることが多いようです。でも、だからといってその場のノリで完璧を要求しちゃだめですよ。

2011年1月25日火曜日

飯田泰之×宮崎哲弥 トークセッションに行ってきた

 とっくにあけましておめでとうございましてました。今頃新年一発目の更新です。今年も当ブログをヨロシクお願いします。

cover
ゼロから学ぶ
経済政策
日本を幸福にする
経済政策の作り方
飯田泰之
 さて昨年の12月18日に池袋のジュンク堂で開催された経済学者飯田泰之さんと評論家宮崎哲弥さんのトークセッションに行ってきたので、今回はそのまとめをしたいと思います。

 素のiPhone4で録音してまして、うまくとれるのか不安でしたが、意外にもくっきりとした音声で、しかもマイクを使わなかった方の声も拾ってました。すごいぞiPhone!

 セッションの時間は2時間はなかったと思います。まずは飯田さんの『ゼロから学ぶ経済政策』という本の紹介から話が始まりました。ちなみに本書では経済政策を大きく三つに分けています。セッション内で飯田さんは次のように説明していました。

成長政策

(飯田さん:以下敬称略)「成長政策」は長期的に生産性をあげていくためにするものです。同じ機械、同じ人数でもより価値のあるものを作り出せるようにすることですね。ここでいう価値は数だけでなく質も含みます。


安定化政策

(飯田)企業で働いているかたはよくわかると思いますが、明日の景気がどうなるかわかならい状態で、新しい機械を買ってください、新社屋建てましょう、新しく人を雇い入れてくださいと言ったところで無理な話です。つまり長期的な成長のための投資や人材の育成を行うためには、ある程度景気が安定していなければならない。そのための政策が「安定化政策」です。


再分配政策

(飯田)現実にはものすごく必要なものなのですが、「再分配政策」だけは経済学的には根拠が薄弱です。再分配の基本は金持ちから取って貧しい人に与える、というものです。この考え方はすごく狭い意味での経済学からは出てきません。やや社会哲学の範疇と言えると思います。


 このまとめでは僕が特に面白く思ったところを文字に起こしていきます。なのでいろいろ間違いもありましょうが、もちろんそれは僕のせいですよ。まずはセッションの冒頭からいきましょう。文中一部敬称略です。


目次


日米の経済政策観

(宮崎)どうでしょう、日本経済は少しは復活したでしょうか?

(飯田)微妙に悪くなりつつも、最近はアメリカがよくなってくれたので、以前よりはマシなところもあるという感じでしょうか。

(宮崎)FRBのバーナンキさんがちょっと前に48兆円の思い切った緩和策を打ち出したのが効いたんでしょう?

(飯田)そうですね。アメリカの場合は経済が悪くなったときに「何がなんでも支える」という政策の哲学のようなものあがあります。日本の場合、経済が悪くなると改善しようとするよりも、どうにかしてあきらめようとします。あるいはあきらめてもいいという論理を探そうとしますね。論壇がそうなってしまうのは分からなくはないと思います、もちろん良くはないですが。しかし政治家が一生懸命「これは俺のせいじゃない」という理屈を探すんですよね。

(宮崎)あきらめちゃうんですよね。丸山眞男が日本には作為の契機がない、といっています。「変えるぞ」という意思を持って社会を変えよう、とは思わないんですね。日本では社会の変化をまるで天災のように扱う傾向があります。なので社会状況が悪化しても手を出さずに適応しようとする。


どうすれば経済が発展していくのか。二つの考え方

(飯田)ケインズとシュンペーターは20世紀経済学の二大スターです。まずはシュンペーターの考え方、彼の考えはこういうものです。景気がいい時と悪い時の振幅は大きいほうがいい、なぜなら景気が悪化したときに古い技術を使っていたり、人材の管理のうまくいっていない企業は市場から退出していくから。そうして残った機械や建物がもっと生産性の高い企業に利用され、同様に失業した労働者が雇われて、経済が新しい発展のフェーズに入っていく。これをシュンペーターは創造的破壊と呼びました。

(宮崎)スクラップ・アンド・ビルドの考え方なんですね、シュンペーターは。

(飯田)その一方でケインズ、あるいは彼に続くアメリカのケインジアンたちの考え方というのは、景気が安定していたほうが安心して投資も人材育成もできるから、経済もより成長していく、というものです。
 この二つの考え方は90年代に研究が進みまして、どうやら戦後については安定していたほうが経済成長していた、と言えます。その理由は、シュンペーターが想定している20世紀初頭の企業というのは、かなりプリミティブな技術を使って営業しているんですね。ドイツ製の紡績機を買ってきて、そこに上級技師と下働きを十人はりつけて、という感じです。ところが現代の日本でそのような企業は存在しません。製造業でも職場ごとで生み出される工夫、こうしたら少し便利、こうやったらちょっと効率があがる、そういう小さな積み重ねが日本の強みなわけです。ホワイトカラーの職種でも会社内のチームワークがとても重要ですから、このような手で触れないようなタイプの技術というのが、現代に近くなればなるほど必要になってきます。この技術が昔の技術と違うのは、会社が潰れたときに、チームワークや社内にだけ通用した知識を持ち出して再利用できない、というところです。つまり会社が潰れれば技術もゼロになってしまう。

(宮崎)個人やチームとしての技術だけでなく、会社同士のネットワークという技術もありますね。ネットワークの中核的な会社が潰れてしまうと会社同士の繋がりもなくなってしまう。

(飯田)そう考えると、昔のように、会社が潰れたとき、そこで働いていた労働者が簡単に別の企業でより高い生産性を発揮するとは、ちょっと考えづらい。というわけで、どうもケインジアンのほうが正しいのではないか、と考えられるようになり、ここからは実証研究の範疇ですが、90年代にラミーという人の有名な研究が出てきたりもしました。さらにこれは最近の実証研究ですが、面白いことに産業間のスクラップ・アンド・ビルドが激しいほうが成長率が高いことが分かりました。ただ条件があって、それは国レベルの経済が安定していることです。インフレやデフレが続いていると、経済は成長していなかったのです。これは不思議な現象です。

(宮崎)産業の盛衰と国の経済は連動しないんですか?

(飯田)ある産業が衰退するだけだと、国全体で平均が下がるので成長しないんですが、伸びている産業と衰退する産業が両方あると成長するんですね。しかもそれが活発に起きているのがいいんです。

(宮崎)それは最近で言うと、公共投資が随分減っているので、地方の土建屋さんはとても苦しんでいるわけですが、年来の構造改革的な考えから言うと、じゃあ転職すればいいじゃないか、となるわけですよね。もっと有望な産業、今の民主党政権なら介護とか福祉と言うでしょう、そういうもっと生産性の高いところ、人手の足りないところに行けばいいという話になるんですけど、本当にそういうものなのですか?

(飯田)小泉政権だったらIT産業でしたね。僕が範とすべきと考える産業転換の例は炭鉱です。三井三池闘争というのは最終的には雲散霧消していくわけですよね。ある意味で活動家のおもちゃになっていくわけですが、どう頑張ったって櫛の歯が抜けるように人がいなくなっていく。なぜなら、いま炭坑で貰っているお給料よりももっと高いお給料を出してくれる製造業があるからです。これは、産業が潰れたから移るのではなく、勝手に移ってしまっている状況です。同じ状況がバブル期にも起きました。80年代に多かった倒産のタイプは、後継者がいないために起きたものです。つまり町工場の経営は順調だけれど、息子が大学をでたらもっと給料のよい会社に勤めてしまったので、跡継ぎがいなくなり、じゃあ閉じましょう、という倒産です。

(宮崎)おやじさん、悲しいなあ。

(飯田)そうですね(笑)。でも今の倒産に比べるとずっと幸福な倒産だと思います。今は借金まみれになって倒産というケースが多いですから。
 というわけで、ちょっと古めの経済学の教科書に書いてあるようなスクラップ・アンド・ビルドというよりも、のっぺりと成長していくほうが、より高い成長率であると言えそうなんです。


日本のデフレと雇用について。

(宮崎)ここまでの話だと、今はデフレで経済が不安定なので、まず安定化政策を実施すべき、ということでした。そしてデフレから脱却して経済が安定してきたら成長政策をやる、これでいいんでしょうか。

(飯田)そうですね。ただ成長政策でも景気の足を引っ張らないものなら今からでもどんどんやっていけばいいと思います。例えば許認可の簡素化などは効率を上げて需要も掘り起こすでしょうからやっていい。しかし既存の産業を意図的に潰すような政策は、やるとしても今ではないです。むしろ人手不足とインフレでどうにもならなくなった時にやるべきです。
 労働者が常識的な範囲で目一杯働いて、工場や設備も使い過ぎじゃなくて丁度いいくらいに目一杯動かした時のGDP、これを潜在成長率とか潜在GDPといいますが、現在の日本では、これが実際のGDPよりも35兆円から、計算によっては50兆円高いんですね。GDPというのは詰まるところ日本人の所得です。その所得が今490兆円、日本の経済ががフル稼働するだけでこれが530~540兆円になるわけです。少なくとも一割弱増える。これが活かされるだけで全然状況が変わってきます。

(宮崎)ということは今はデフレのせいでそれだけの人的、物的資源が使われていないということですね。

(飯田)すごく怖いのは、先程もお話したように、現代の技術というのは人間に付随したものなんです。失業していたり単純労働を長く続けていたり、ニート、フリーター生活が長いと、働くことで身につく技術を身につける機会を逃している、そういう人たちが増えているのが本当によくないと考えています。そろそろ僕はオオカミ少年になりそうなんですが、2003年と2007年に出した本でもう今すぐにこの問題に手を付けないと大変だと書いたので今回は書かなかったんです(笑)。でも状況としてはどうにもならなくなってきてはいるのでせめて一刻も早く手を打つべきです。失われた時間は戻ってこないんですから。

(宮崎)でも今年も新卒は高校も大学も就職氷河期のようですし、再びロスト・ジェネレーションが生まれてしまうのではないかと言われています。

(飯田)そうなんですねえ。やはり企業側が新しい人を採るのをものすごく怖がっています。さらに言えば、これを言うといろんなところから石が飛んで来るんですが、50代正社員をどうしてもクビにできなんですよ。特に上場企業クラスになると、50代正社員一人のお金で、新入社員3~4人雇えるんですね。なのでなんとか新入社員のほうを雇ってもらえないかと…。

(宮崎)でも50代でクビになるのはキツイですよ。まだローンだって残ってるかもしれないし。

(飯田)そうなんです。そこで待遇の引き下げができればいいんですが、これは先進各国どこでもそうなんですが、待遇の引き下げというのは難しいんです。日本の場合さらに、50代の人数が多いという問題もあります。しかも年功序列賃金がまだ生きていたので、仕事に対して給料が上がりすぎているんです。大分下がってはきている部分もありますが。なのでこの経済状態で彼らの給料水準を維持するのは厳しいです。
 当たり前のことですが、自分の仕事以上のお給料を貰っている人がいるということは、自分の仕事以下のお給料を貰っている人がいるということです。では多く貰っているのが50代正社員だとすれば、少なく貰っているのは誰かといえば、非正規労働の人たちです。
 別に50代の賃金を新入社員と同じにしてくれというわけではなくて、1割カットを飲んでくれれば、かなり社会は変わるでしょう。

(宮崎)それでも難しいでしょうね。先ごろ政府の税制調査会が法人税の引き下げを決めました。税制の話はまたあとでしますが、政府は引き下げの交換条件としてナントカ雇用を増やして欲しい、と言っています。こういうやりかたは有効なのでしょうか?

(飯田)単純に言って意味が分からないですね(笑)。お願いするだけなのか? と。短期的に出来ることといえば雇用調整助成金の拡大くらいしかないですね。これは給料を肩代わりして失業を防ぐためのものです。


為替がどう雇用に影響するのか。為替政策の国際比較。

ここからは為替の話。前項から続いてます。

(宮崎)雇用に対して他に手はないんですか?

(飯田)そうですねえ、僕が安定化政策の範囲内と考えているものがあります。それが円がドルに対して108円になることです。105円でもいいです。少なくとも100円台。出来れば100円台後半にまでなると景色が変わってきます。2003年〜2005年に、有名なテイラー溝口介入というのがありました。菅政権も為替介入しましたが二回か三回、テイラー溝口介入は二年間に渡って行われました。この介入によって最も大きく変わったのは九州の北半分と東北の南半分です。何が変わったのかというと、製造業が戻ってきたんです。現在の物価で調整すると、1ドル105円をこえると国内での生産の方が得になるというタイプの企業が多いんですね。中国、最近はベトナムに移っていますが、そこに現地法人をたてて管理の人間をおいて部品等を輸送して、というコストを考えると1ドル100円だとトントンになり105円だと俄然日本が有利になります。
 この考え方をそのまま適用しているのが韓国です。もちろん韓国経済が問題を抱えていないということではないんですが、日本に比べるとはるかに優秀なパフォーマンスを残しています。

(宮崎)つまりウォン安が韓国の好調を支えているということですね。

(飯田)そうです。田中秀臣さんじゃないですけれども、いま第三次韓流ブームですね。この韓流ブームとウォン安を比べるとぴったりと合うんです。つまり韓国のコンテンツを日本のメディアが激安で買ってこれるんですね、ウォン安だと。実際にリーマンショック前と比べると、日本円から見てウォンは6割程度になっています。4割引セールをやっているようなものです。一時期個人が大きめのトランクをもってソウルに行きアウトレットでブランド品を買いあさり日本にかえってきてヤフオクで売る、それだけで結構なお金儲けになってしまう、そういうことがありました。

(宮崎)韓国のウォン安は皮肉なことに、通貨当局等が意図的にやったことではないんですよね。その逆に日本は意図的に円高にしています。興味深い現象です。

(飯田)僕は韓国に対して別の見方をしています。1997年の通貨危機によってウォン安が来た。その結果韓国経済はV字回復を遂げます。それ以降の韓国は、なんというか味をしめたようなそんな感じがあります。ウォン安にすれば何とかなる、そう考えているんじゃないでしょうか。実際その通り、何とかなってます。
 その韓国と同じ現象が、今ドイツで起きています。今ドイツの輸出産業の延びは戦後最大じゃないかと言われています。その理由ですが、ドイツには通貨安の意図もなにも、ギリシャのせいで勝手にユーロが安くなっているんですね。そのユーロ安の恩恵だけはドイツが受けているという非常に恵まれている状態です。
 それに比べて日本の場合、円高を指向する理由が分からないですね。


ここからは

日銀に対する疑問。インフレは怖い?

前項と続いています。

(宮崎)韓国もドイツもある意味で日本と似ていて、輸出が経済に重要な地位を占めています。ならばそういう成功例を見ていれば、当然日本も円安誘導をしたくなる、というのが普通の考え方だと思うんですが、なぜそうならないんでしょうか。

(飯田)それには学者っぽくいいますと、二つの仮説があります。
 第一の仮説は「バカ仮説」です(笑)。つまりバカだから、という。

(宮崎)その主体は誰なんですか?

(飯田)日本銀行、または政府ですね。
 もうひとつは別のインセンティブがあるからだ、という仮説です。これはちょっと陰謀論めいた話ですが、円の価値を継続的に高めたい、という思惑があるのではないか。なぜならば円を国際的に流通する通貨にしたいから。つまり円の国際化を果たしたいからである、という話です。アジア地域の基軸通貨になりたいということですね。日本銀行としては基軸通貨を統御している中央銀行になりたい。政府としては基軸通貨を持っている一等国になりたい。第二次大東和共栄圏というところでしょうか。

(宮崎)ホントにそんなことを思っている人がいるの?

(飯田)元日銀総裁の速水さんは明確にそういうことを言っていました。円の国際化のために必要な政策、とか。その次の福井さんはそこまで脇が甘くないのでそんなことは言いませんでしたが。現総裁の白川さんは福井さんよりはしっぽが出やすい人ですよ。
 話がずれるかもしれませんが、日本銀行は非常に国際的な評価が高いんです。日経新聞なんかでも「日銀の政策は世界中が褒めている」みたいな記事が出たりします。そりゃ褒めてくれるに決まってるんですよね、世界の不況を一手に引き受けようという覚悟ある中央銀行なんですから。

(宮崎)志高いねぇ。

(飯田)そうなんです(笑)。

(宮崎)国民経済を犠牲にしてでも世界経済に貢献しよう、と。

(飯田)世界経済のために死す、という。

(宮崎)そうやって国際的なプレステージを得ているので、なかなか円を適正な水準にしようという気にはならない、という仮説ですね。

(飯田)この二つの仮説のどちらかを採る人が多いんですけど、僕の意見はこの二つとはまったく違います。僕にも日本銀行に勤める友人がいます。彼らの話を聞くと、何をやっていいか分からない、というんですね。その理由は冒頭で出た「作為の契機」とつながるんですが、日本銀行がどこまでやってよくて、どこまでやったらだめなのか、全くわかならい状態なので何もできない。ここで意志をもって何かをしてそれが失敗してしまうと、「それは日銀が決めることじゃない」と言われてしまって困る。ならば何もしないでボンヤリしていよう、むちゃくちゃに政治圧力がかかってきた時だけちょっと動いたフリをしてやり過ごそう、それが個人の処世術として正しいんだ。日銀はそう考えている、というのが僕の仮説です。
 日銀の権限がどれほどのものなのか、実は日本銀行法を読んでもよく分からないんですね。

(宮崎)そういう意味では日銀の中にいる人たちの理解は正しいんです。日本銀行は法的には「ぬえ」のような存在です。ですから日銀内の人たちのためにも日本銀行法は変えたほうがいいと思います。

(飯田)僕も日本銀行法はさっさと変えて、権限を明確にしてあげたらいいと思っています。権限が不明確なままなので、日銀は政界の空気だけを読んで動くようになりました。そう考えると、実は日本銀行は独立以来、何も方針の無いままきたのではないか、という疑いもあるわけです。

(宮崎)真の意味で独立していない?

(飯田)そうなんです。どこまで独立なのかわからない。ちょっと専門的にいうと、中央銀行に独立性を与える場合は、目標設定とその手順についてかなり法律で縛られます。この一番の典型例がイギリス、ニュージーランドです。コモンウェルス系の国ですね。これらの国では中央銀行の役割が法律でぎちぎちに定められています。この逆に法律による縛りが極端にない国がシンガポールです。シンガポールの中央銀行は財務省の一部局のさらにその1セクションです。日本で言うとかつての政策投資銀行のような感じですね。

(宮崎)私がよく分からないのは、アメリカだと大統領とバーナンキFRB議長が一緒になって今の経済状況に対処するなんてことを国民に明言したりしますよね。日本ではなぜああいうのがないんでしょう。あれをすると日銀の独立性に触れるんでしょうか。

(飯田)ちょっと陰謀論っぽいですが、日本銀行総裁の後なんてきらびやかな人生が待っているわけです。ですから、じーっとして特に目立たなければ穏便に総裁をやめた後、どっかの総研の理事長をやって、そのあとナントカグローバル戦略研究所にいって、という感じですからね(笑)。

(宮崎)昨日の新聞なんかではFRBがアメリカの雇用情勢に深い関心を持っている、とありました。日本の新聞に載ってるわけです。でも日銀が日本の雇用情勢に懸念を表明して具体的な対策を明らかにした、なんて記事はついぞ見たことがありません。なぜですか?

(飯田)日本銀行総裁というのは97年までは大蔵次官になれなかった人のためのポストでした。

(宮崎)たすき掛け人事と呼ばれてましたね。

(飯田)大蔵省で事務次官に一歩届かなかった人か、事務次官を引退した人の最初のポストでした。そういう人たちは当然高い目標は掲げません。彼らは役人人生の最期の花道を飾っていたわけで、傷つくようなことはしたくないんですよ。なので可もなく不可もなくを狙ってその後の素晴らしい人生を迎えたいわけですね。

(宮崎)もっと根本的には、なんで財務省の人とか日銀にずっといた人しか日銀総裁になれないんでしょうか? バーナンキは学者さんですしグリーンスパンもFRBに長年勤めてた人じゃないわけですよね。そういう人たちを流行りの言葉で言えば政治任用してトップに据える、なぜこれができないんでしょう?

(飯田)…そうなんですよねぇ。実際アメリカでは戦後、FRB出身の議長はいません。アメリカには6個の連銀があるわけですが、そのトップはだいたい経済学者か民間の銀行の大物経営者です。さらにそのトップの議長は、学者か研究者、あるいは政治家に近いタイプの人です。日本の場合は、日銀が財務省の一部局だったころの習慣が根強くて、福井前総裁が典型的ですが、入行時に総裁レースに参加できる人が数名に絞られているんですね。

(宮崎)それは財務省の出世レースと同じじゃないですか。

(飯田)そうです。そのレールに乗っている人はこのレースがなくなると困っちゃうんですよね。官僚機構の典型的な問題点ですね。

(宮崎)よく言われるのは、日銀総裁というのは極めて高度な金融の技術に対する知識が必要で、経験と知識が両方なくてはいけない。だから民間の銀行家や、象牙の塔にこもっていた学者には務まらないのだ、という話です。これは本当なんですか?

(飯田)それは官僚がいっつも使うロジックですよね。じゃあ実際アメリカは上手く出来ていないのか、と問うこともできますし、現実には中央銀行で勤め上げた人が総裁になる国の方が少ないと思います。ですからそこに拘る必要はないと思います。もしも完全に官僚の領分にしたければ、97年以前の状態、あるいはシンガポールのようなスタイルにするべきです。有り体にいえば独立性を完全に無くして財務省や金融庁の一部局にしてしまえばいい。
 しかし現状は独立性もあり、官僚の領分でもあるわけです。非常に相性の悪い性質が同居しています。

(宮崎)政治家が選挙民の願うまま好景気を演出するために、国債を乱発し中央銀行にそれを大量に引き受けさせ通貨を増やして、景気を過熱させてハイパーインフレーションを発生させてしまうのではないか、その懸念があるから、日銀の独立性が必要なんだ、そう一般的には言われています。それについてはどうお考えですか?

(飯田)二つ考え方があると思います。一つ目はすごく乱暴な議論ですが、ご年配の方に窺いたいんですが、インフレが問題だった70年代と今、どちらの経済状態が悪いか、ということです。

(宮崎)(年配の来場者にむけて)いかがですか?

(来場者A)オイルショックがあってすごい就職難で大変でした。しかしちゃんと原因が分かる状態でもありました。

(宮崎)今のほうがマシのように思えますか?

(来場者A)老年にはいいでしょうね(笑)。

(来場者B)閉塞感があるんですね、今は。それが違いますね。70年代はこれから日本は発展するという夢があったと申しますか、今はこれからどうなるかわからないという不安感が先立つ感じですね。

(宮崎)漂流しているような感じですね。

(来場者B)我々年寄りは、先程もおっしゃられたようにデフレでもいいんですけれど、日本全体としてはね。

(飯田)オイルショック以後ですが、影響が極端に強く出た73、74年を除いた75年から80年までを見ると、指標面では今のほうが悪いんです。失業率も倍ぐらいあります。とくに若年失業については比べものにならないくらい今のほうが高いです。

(宮崎)あのころは2.5%くらいでしたよね、失業率。

(飯田)そうなんです。そのころは働いても物価が上がりすぎて食えない。今は働くところがない。

(宮崎)就職しても物価が高いから苦しいっていう状況だったんだ。

(飯田)それに対して今は就職ができないんです。深刻なところでは、大阪府で20代の失業率が20%を超えた月がありました。これは失業と呼んでいいのかどうか。若者だけに限って言うと『怒りの葡萄』のような状態です。

(宮崎)棄民ですね。

(飯田)インフレで働いても食えないという状況と、デフレで働き口がないという状況。閉塞感はやはり働き口がないほうが大きいんじゃないでしょうか。これがインフレに対する一つ目の考え方です。
 もう一つは、70年代のようなインフレの行き過ぎを防ぐために生まれたインフレーション・ターゲットです。実を言いますと、継続性こそが政策の命です。例えば、今日お金をあげるので(減税)来年倍にして返してくれ(増税)、と言われれば、もらったお金を使う人はいません。同様にインフレでも、今年はインフレを抑えるけれども、来年は選挙もあるしわかりません、では効果がないんです。来年もその先も最初の約束を守る必要があります。中央銀行の独立性はその最初の約束を守るために必要なものなんです。中央銀行に一度命令を出せば途中で方針を変えたりしない、これを実現するための道具が独立性です。決して中央銀行が方針から何から全部決めるという意味の独立性じゃない。
 ですから中央銀行が独立するためには、何年間どのくらいのインフレ率、あるいは失業率を目指します、という政府からの注文が必要なんです。一度その注文を受ければ、その期間方針を変えず政治介入もうけない、これが中央銀行の独立性です。


あるべき中央銀行の姿と日本の経済学者

前項から続いてます。

(宮崎)私は失業率ターゲッティング、雇用ターゲッティングが良いと考えています。なぜなら、雇用というのは景気の最終出口なんです。これを目標とすれば、必然的に長い時間をかけたコミットメントになります。

(飯田)そうですね。僕も両立てが良いと思っています。世界を見てみると、殆どの国はインフレのみでやっています。インフレーション・ターゲットですね。唯一違うのがアメリカです。物価と雇用を使ってます。なぜかというとアメリカの中央銀行法が出来たのは1930年代なんです。つまり大恐慌の頃で、人々の最大の関心が雇用だったからなんですね。

(宮崎)なのでFRBが雇用について積極的に発言していくなんてことがあるわけですね。

(飯田)そうです。だいたい、経済学者同士で議論すると雇用の最大化という目標はいらない、という結論になります。ただこれは経済学者のダメなところだと僕は思います。経済学者は名目成長率ターゲットがいい、あるいはGDPギャップのほうがいい指標だ、と言うことが多いんです。それは僕も重々承知です。研究者ですから。だけど、政治の文脈のなかで名目成長率ターゲットという言葉を使って、どう法案を作ってどう国会を通せばいいんですか? それだったらインフレと雇用の両睨みのほうが、より理解を得やすい言葉だと思います。名目成長率ターゲットに近いと言えば近いわけですし。純粋に理論的な解決策に固執するあまり、セカンド・ベストな方法に対してものすごく厳しい。これは日本の経済学界の問題だと思っています。
 インフレーション・ターゲットへの批判は大きく分けて二つあります。一つは経済学をまったく分かっていないタイプの批判ですが、もう一つは現代経済学の知見からするとそれはセカンド・ベストに過ぎないんだという批判です。それは僕も分かっていますが、今より良くなるってところは認めて欲しい。

(宮崎)政治はセカンド・ベストの世界ですね。

(飯田)そうなんですよね。あまりも純情というか純粋というか、政治の文脈の中で通せないじゃないか、と思うんです。そう反論すると、「お前はもう学者をやめたのか!」と怒られちゃうんですよ。


そして

税の話:法人税と相続税

やっぱり前項から続いています。

(宮崎)さて、税の話です。民主党は税制改革の大綱を出しました。どうお考えですか?

(飯田)大綱では法人税を下げてるんですが、日本の法人税は高く、しかし税収は低いんです。その理由は表向きの課税額は高いのに、控除がたくさんありすぎて実効税率は低いということです。なので企業がしっかり業界団体に入ってお上とつるむと言っては言葉が悪いですが、上としっかりネゴができていれば、意外と実効税率が低くなります。なので5%下がってもあまりうれしくないんじゃないですかね。
 僕自身は、法人税はもっと控除を無くす代わりに20%まで下げてしまえ、と思っています。

(宮崎)そのように法人税を下げるとどういう事になるんでしょう?

(飯田)まず海外から日本への直接投資がしやすくなります。今海外の企業がなぜこんなにも日本に入ってこないかというと、日本の表面税率は40%ですが、業界団体が日本に入ってきてほしくないと考えている外資系企業は、ホントにこの40%の税率が適用されるんです。内輪ではちゃんと控除税制を使い、よそ者には税率を全面適用する。このことを日本なのになぜかチャイニーズ・ウォールと呼んでいるんですが、これが関税障壁のような働きをしています。こんなことをするくらいなら、全員一律に課すかわりに税率を低くすれば、海外企業も入ってきやすくなります。
 さらに新しい企業の後押しにもなるでしょう。控除を中心にして実効税率を下げるという仕組みは、長くその業界にいる企業や、控除の使い方に長けている企業にとっては有利ですが、新参者には不利です。実際には、控除を無くして税率を20%にしよう、といえば経団連は大反対するでしょう。ただ堂々と大反対はできないでしょうから、いろいろな理屈を付けてくると思います。

(宮崎)税率を20%に下げても税収は今とそんなに変わらないものでしょうか?

(飯田)ちょっと落ちると思います。

(宮崎)ちょっとしか落ちない?

(飯田)現在の実効税率は25~30%だと言われています。それよりやや下げるのが良いと思います。

(宮崎)もし飯田さんのシナリオ通りに外資を呼びこむことができれば、税収は上がる可能性もあるわけですね?

(飯田)そうですね。20%だと事実上、世界でも指折りの低さになりますから。
 今回の大綱で一番どうしようもないと思ったのは、財政再建したいのか景気をどうにかしたいのか全然分からないというところです。
 法人税はなんとなく景気に配慮したのかな、という感じですが他はよくわかりません。

(宮崎)そうなんです。相続税は再分配と世代間での資産の流動性を高めるという意味合いが強いんでしょうし、所得税も再分配に関わるものでしょうね。

(飯田)仮に財政再建が必要だと思っていたとしましょう。その時に税率を上げなければいけないのは今回のような年収1,500万円超の層ではないんです。この層の人たちはとにかく人数が少ないので、本人にとっては増税は苦しいでしょうけど、国家財政にとってはほとんど影響がありません。本当は800万~1,200万円の層を増税しなくてはいけないんですが、これは民主党にとって一番増税できない人々なんですね。なのでそこからは取れないから500万円の層を薄く増税しました。
 海外と比べて日本で目立って税率の低い層というのは、為替次第なところもありますが、だいたい800万~1,300万、1,400万円くらいまでの層です。

(宮崎)この層は数が多いの?

(飯田)ボリューム・ゾーンなんです。平均よりちょっと上なので、人数が多くて、言葉が悪いですが絞れる、そういう層です。

(宮崎)今は1,200万円というと結構な高額所得者だと思います。そんなに多いんですか?

(飯田)もちろん700万~1,000万円というのも一つのボリューム・ゾーンですが、1,200万円前後もそれなりにいます。イメージとしては安定的な大企業で正社員の4、50代というところです。
 それに比べて、課税最低限の議論がよくされたりして話題になるんですが、年収500万円以下の層は人数はすごく多いんですけれども、その層を増税するというのは乾いた雑巾を絞るようなもので、もう出てこないんです。なので日本の税制を考えたときに何とかしなくてはいけないのは1,000万円超のボリューム・ゾーンなんです。
 そして最大のボリューム・ゾーンといえば、資産家、資産をもった高齢者です。が、ここには怖くて手をつけられない、という状況です。

(宮崎)本来なら税金は、消費、資産、所得、この三つに対してバランスよくかけていくのが良いとされています。ところが直接税、間接税の話、つまり所得と消費ばかりが話題になってしまって、日本は資産課税というのがものすごく立ち遅れていますよね。

(飯田)全くその通りですね。僕は、固定資産税を大幅に上げるのは難しいと思っていますが、せめて相続税を上げて欲しい。日本では毎年80兆円以上の相続財産が発生していると言われています。

(宮崎)一般的には、課税の対象になっている相続財産は10兆円と言われているんですよ。そのうちのだいたい10%が相続税として納められています。なのでだいたい1兆3,000億円くらいが相続税の税収になっています。

(飯田)これは緩すぎる。実効税率1%を超えたくらいですから。

(宮崎)実際は80兆あるんだけれどもさっきの話と同じように様々な控除があって、結局10兆円くらいになっている。

(飯田)どうやって控除を利用するかというと、7,000万円までは無税相続ができます。そしてだいたい男性のほうが早く亡くなりますから、まず奥さんと子供で第一回の分割相続をする。ここで無税相続が利用できますね。そして今度は奥さんが亡くなった時にもう一度控除を使うチャンスがあるわけです。このようにして、事実上日本人全体で、全相続の中で相続税が発生するのは4%と言われています。
 非常に変な話ですが、事故で亡くなった場合、相続税はガッポリ持って行かれてしまうんです。分割の順序が上手く出来ていなかったり、対策が出来ないないからです。例えば金融資産で持っていたりすると表面税率通り持って行かれます。
 このように節税があまりにも容易な税金が日本には多すぎます。で、このような状態よりは、相続税の場合、3億円を超える相続案件はほとんど出ないので、最高税率を下げてもいいから、ここでもやはりボリューム・ゾーンである5,000万~1億円の層にしっかり課税していくのが良いと思います。この層からとり逃しているのが相続税が集まらない理由です。
 僕の考えでは、配偶者の控除は仕方ないとして、配偶者以外の控除は無しにすると、年10兆円集まります。

(宮崎)10兆円というと今の消費税に匹敵しますね。消費税を倍にしたのと同じ効果がある。

(飯田)そうです。なので僕はまず、資産課税である相続税から手を付けるべきだと思っています。実際に相続する方も、5,000万円の土地を1,000万円で買える権利を一生に一回行使できるんですから、このくらいは払ってもらえないだろうかと。普通そういうチャンスは巡ってこないですから。


通貨切り下げ競争について

つづいて質疑応答から。

(質問者A)先ほど1ドル105円くらいが良いというお話がありました。今世界的な通貨切り下げ競争と言われています。ここでもし日本が円安に向かうとどうなるんでしょうか。

(飯田)例えば日本が金融緩和をしてドル安に持って行こうとする、そうするとアメリカがさらに金融緩和をするかもしれない。そうなれば円ドルレートは変わらないかもしれません。しかしそのとき円はドル以外の通貨に対して大幅に安くなるので、ある程度の効果があるでしょう。
 世界的な通貨切り下げ競争が起きるということは、ざっくりと言ってしまうと世界中、すべての国でお金を撒いているということです。これで世界経済は立ち直って行くでしょう。1929年に始まる大恐慌では通貨切り下げ競争が起きて良くなかった、というのがある時期までの教科書的な見解でしたが…。

(宮崎)今でもジャーナリズムレベルでは有力な見解です。

(飯田)1980年代以降ピーター・テミンなどの国際学派と呼ばれる大恐慌研究を行う人達によって、「大恐慌があの程度ですんだのは通貨切り下げ競争をやったからだ」という見解が出てきます。つまり通貨を切り下げるとインフレ圧力がかかるわけですが、それを各国が行ったおかげで大恐慌から脱出できた、そういう見解が有力になってきたんです。実際に、通貨切り下げ競争で唯一大きな被害を受けたのは、競争に参加しなかった国でした。当時はフランスがそうでした。フランスは最後まで大恐慌から脱出することなく終わりました。
 もしかしたら各国がそんな極端な緩和をせずにそこそこにしておくのがベストなのかもしれないんですが、少なくとも外国がやっている以上、自分のところにだけ影響はない、なんてことはありえないでしょうね。

(宮崎)各国がどんどんお金を出しているといことは、世界中で過剰流動性が発生しているということですよね。これの悪影響はないんでしょうか?

(飯田)たぶんどこかの国でバブルになるでしょう。過剰流動性がどこかの国でバブルを産む、このことを以て通貨切り下げ競争を批判する人がいますが、日本政府としては少なくとも日本じゃなければいいんじゃないかな、と思います(笑)。これは冗談ですが、バブルを防ぐ方法は金融政策だけじゃありません。インフレにするとか為替レートを変えるというのは金融政策でしかできませんが、バブルを防ぐには、例えば土地バブルなら総量規制を入れればいい。これは日本では実に良く効きました。つまりバブルには他に手が残されているのでそこまで神経質にならなくてもいいのではないでしょうか。

(宮崎)しかしバブルが起きて総量規制のような対策を取ってまた崩壊すれば社会には大きな禍根が残るでしょう。なのでそう簡単な話でもないと思います。

(飯田)その場合はトービン税タイプの短期保有に課税する税を導入するという手もあります。


民主党政権と経済政策

(質問者B)三点ほどよろしいでしょうか。一点目は先日菅総理が成長戦略として第三の道を提唱しました。それは福祉を産業として育てようというものでした。福祉関連の仕組みは非常に効率が悪いのが現状ですが、果たして福祉というのは経済を引っ張るような成長産業になるのか疑問を感じるのですが、どうお考えでしょうか?
 二つ目は事業仕分けについてですが、私はある市の事業仕分けに携わっていたのですが、そこで感じたのは政府がいろんな事業を作って地方都市でやっているわけですが、それは法律に基づいてやっているものの、非常に効率が悪いんです。それを批判しても法律を盾にしてやり方を変えないわけです。ということは、法律を変えなければ効率も変わらないということです。つまり法律の仕分けが必要だと思います。それについてお考えを窺いたいと思います。
 三点目は、名古屋市長の河村さんについてです。彼は減税を言い出しましたけれども、これこそ民主主義にとって大変重要な政策だと思っています。これからは減税政策というのが何かキーになるような気がしています。この河村さんの政策についてもお願いします。

(飯田)まず管さんの福祉の話はまったく仰るとおりでして、福祉という産業が日本経済の為になるということは、介護であるとか福祉サービスを受ける側が喜んでお金を払う、そういう状態になるということです。ところが、次のご質問にも繋がりますが、実際には法律でがんじがらめになっているために非常に典型的なサービスしか行えない。福祉は個別性が大変強い産業ですから、自由なサービス業として育てていくならば、成長産業になっていくことは可能だと思いますが、現在のように規制されたシステムのままで大きくしていこうと思ったら結局補助金を出すしかないでしょう。補助金を効率よく配るなんてことが出来るとは僕は思いませんので、管さんの政策の実現は非常に厳しいと思います。
 次に事業仕分けですが、これについては僕も言いたいことがありまして、あんなものに政治的資源を割き過ぎだ、ということです。事業仕分けで節約できる金額は何千億円です。もちろん僕個人としては一生見ることのない額ですが、現在の日本の財政規模は100兆円です。事実上、本丸である消費税、そして社会保障の議論に入らないために事業仕分けで盛り上がっているのではないか。そう見えてしまいます。

(宮崎)この事業仕分け的なことというのは今まで財務省がやってきました。それを公開の場でステージに立つ人を替えてやっているという以上のことではないように思います。もちろん政治的な意味はあるのかもしれません。先般特別会計の事業仕分けが行われましたが、結局その中核部分にはあまり手を入れられなかったわけです。財務省の所管である外為特会にも12兆円ほどある国債整理基金特別会計にしても手を付けませんでした。これを見ると、事業仕分けを動かしている人達というのは、実は表にいる蓮舫さんたちではないのかな、とそう思います。
 私も質問者さんの仰る改革が必要だと思いますが、今の事業仕分けは明確な法的根拠なくやっているので、先は長いなと考えます。
 河村さんについてですが、私は彼が日本で始めてのアメリカ型のリバータリアニズムの政治家になるんじゃないかと思っています。私はコミュニタリアンですが、リバータリアンの考え方を尊重しているんです。同意はしませんが。そういう意味で減税を自ら打ち出していく河村さんは、新しい政治家のタイプだろうと見ています。
 飯田さんに聞きたいんですが、減税というのは財政政策になるんですよね? それでずうっと前から言われている疑問ですが、減税と公共投資つまり積極的にお金を出していく政策とどちらが効果があるんでしょうか?
 アメリカだと共和党が減税指向で、民主党が公共政策指向という大まかな傾向があって有権者も投票しやすいと思うんですが、日本はそうなっていませんよね。

(飯田)日本では明確に減税を主張する人がほとんどいません。河村さんくらいのもので、中央政界では本当に少ないですね。
 単純にいって、経済効果だけの話をしますと、国民全体が均質的、つまり同じような働き方、収入であれば減税と公共事業の区別はあまり重要ではなくなります。ところが格差がある場合には、減税が効かない可能性はあります。あと付け足すと、地方レベルだと財政政策は未だに効果がある程度あります。
 減税はどちらかというと富裕層が好むもので、アメリカの共和党というのはある程度収入がある人が支持をするわけですが、ただ、貧しい共和党員というのがたくさんいますね。日本でこれに近いのが小泉内閣を熱狂的に支持した低所得者層でしょうね。
 河村さんの話ですが、僕自身は道州制にして、法人税と法人事業税を一本化したものと消費税の自主権を州に与えてはどうかと思っています。所得税は全国で一律である必要があると考えています。

(宮崎)消費税に関しては高橋洋一さんは消費税の本流は地方税だとずっとおっしゃっていますよね。

(飯田)はい。よくアメリカは消費税がない、と言っている人がいるんですが、アレは州によるんです。

(宮崎)まとめることが出来ないからない、と言っているだけなんですよね。

(飯田)そうなんです。国税としての消費税は確かにないんです。もともと消費税というのは安定財源なので地方自治のためのお金に向いているんです。それに対して格差を埋める政策というのは全国的なものですから国税が担当するんです。

(宮崎)所得税とか法人税とか。

(飯田)そうです。そこで法人税を地方に渡しちゃえば、切り下げ合戦になるんじゃないかと考えています。そうなると20%くらいで落ち着くんじゃないでしょうか。

(宮崎)不思議なのは河村さんと大阪の橋下さんが連携する動きをみせていることです。二人は少なくとも経済思想的には正反対です。橋下さんは税率はそのままで行政サービスの質を下げるという実質的な増税をし、河村さんは財政政策として減税をした。この二人が人気を得ているのは不思議です。

(質問者B)議員の数がすごく多くて給料が高い。こういう現象が全国にあります。河村さんはこの問題にも発言しています。

(宮崎)河村さんは国会議員のころから、議員の定数を減らし給料を下げるべきだと言っていましたね。

(質問者B)日本の議員の給料の水準は世界的にも高いでしょう。これはどう考えても財政危機を叫ぶ現状と合いません。

(飯田)河村さんと橋下さんという話に戻ると、この二人は共和党と民主党のような関係なんですよ。この二人がそれなりの支持を獲得している。ならば、自民党と民主党がある程度各階級の代表性をもつようにもう少し動いてくれたら良いのではと思います。

(宮崎)それは政界再編を望む、ということですか。

(飯田)はい、僕はそれを望んでいます。


どうすれば財政再建できるのか

(質問者C)私は増税ではなくて景気を良くして税収を増やすというのが良いと考えています。どうお考えでしょうか。

(宮崎)私は増税で財政再建は出来ないと思っています。景気を良くすることを通してしか日本の財政構造を改善することは不可能だと考えますが、そう思わない人が多いようです。

(質問者C)通貨発行益(シニョレッジ)を利用すればデフレからも脱却できて、景気も改善して一石二鳥だと思います。

(宮崎)その場合、政府発行紙幣のようなものをお考えでしょうか。

(質問者C)いえ、ただ中央銀行が国債を引き受ければいいと思っています。

(宮崎)私としては反論もなにもないのですが、飯田さんはすこしお立場が違いますね。

(飯田)財政について言うと、アレシナとペロッティという人たちの有名な研究がありまして、この研究によると財政再建を上手く成し遂げた国というのは、一個だけの手段に頼らなかったんです。寄与度でいうと三分の一を歳出カットで、三分の一を増税で、そして残りを景気回復でまかなったんです。実際には半分くらいが景気回復のおかげですが、この三つができた国が財政再建に成功しました。
 そしてそこで最低のパターンというのが、増税から始めることでした。

(宮崎)順番が重要なんですね?

(飯田)順番が重要なんです。景気が回復してきたところで少しずつ税金を上手に上げていき、歳出についても社会保障費の抑制をやる。これを順番にやらないといけないんです。
 増税を最初にやって失敗した国はイタリア、ギリシャ、スペインです。これらの国を見ていくと、まず与党が増税を発表します。すると与党が選挙に負けます。なので増税が出来なくなる。次の政権与党が大盤振る舞いをする。財政危機がくる。増税を発表する…。

(宮崎)ちょっと待って。聞いてたら日本がその道を歩んでいるような気がしてきたんだけど。

(飯田)真性財政破綻とでも呼ぶべきかたちですね。これではもう財政破綻という以上に、もう何も打つ手なしになってしまう。

(宮崎)民主党は増税を発表して参院選を大敗しました。今ココ、という感じですか。

(飯田)そうですね、さらに増税を訴えれば選挙に負けて政界再編、小党乱立になるかもしれません。その中で増税を口にしなかった、あるいは振る舞い酒をバンバン出した政党が相対的に勝つ。そしてもっと財政が悪化する。もっと大幅な増税が必要になる。こうやっているうちにデフォルト宣言に至る、これが一番典型的な財政破綻のパターンです。
 よく考えてみれば分かるんですが、日本は500兆円のGDP、そして1,000兆円の負債があるといったってその裏側には700兆円の資産を持っているわけです。まともな指導者がいれば財政破綻は絶対にしません。ですから日本が財政破綻するとしたら、まともじゃない指導部に率いられた時でしょう。

cover
消費税「増税」はいらない!
財務省が民主党に教えた
財政の大嘘
高橋洋一

(宮崎)その話は高橋洋一さんの『消費税「増税」はいらない! 財務省が民主党に教えた財政の大嘘』という新刊にも書かれています。飯田さんの本の次にはこちらもどうぞ。

(飯田)僕はある時点での消費税増税は不可避だと思っています。なぜかというと、消費税というのは唯一引退世代からも取れる税金だからです。これからどんどん高齢化していくわけですから少しは負担してもらわないともちません。
 そこで僕としては、消費税の増税を10%までに抑えられたら財政再建が成功したと言っていいと思います。もちろん形の上だけ、国民経済がどうなってもいいから財政再建しろ!といえば誰でもできます。

(宮崎)消費税40%にしてもいいんだったらそうだよね。

(飯田)なので、なんとか上手に経済成長と歳出削減を使って消費税10%までに抑えられたら成功、10~15%の間だったら優良可不可でいったら可、15%を超えたら財政再建に失敗したと言っていいと思います。そのくらいのじんわりと10%まで、という形にもっていければいいんじゃないかと考えています。

(宮崎)質問者の方が言った通貨発行益についてはどう考えていますか? マネタイゼーション、つまり国の借金を日銀が肩代わりする、そういう考え方というのはどうなんでしょうか?

(飯田)全くアリだと思いますよ。実際にはいつでもマネタイズが出来る、と法律上明記しておくだけでも効果があると思います。実際にマネタイズするかどうかは別の問題ですし、そこまでやらなくてもある程度回復すると考えています。

(おしまい)

 後半はまとめじゃなくなってますが、どれも省略するにはもったいない話なので載せました。こうやってお二人の話を聞いていると、日本の経済停滞について構造的な要因ばかり注目されて、景気という要因や金融政策が話題になりにくいのも理由のないことでもないよなあと思いますね。

 当日の池袋は忘年会シーズンで殺人的な人ごみでしたけど、お二人のお話は本当に楽しかったです。来場者は40名ほどでしたが、しっかし経済学ってホント女子に人気がないんですねえ(参照)。

 さて菅総理が買った本(参照)を見てズッコケた人も多かっただろう新年ですが、追い打ちのごとく与謝野さんが経済担当相になったりして、この調子だと残念ながら日本を幸福にする経済政策の実現は今年も難しそうです。とはいえ、なんだか日本社会の経済学理解は少しは進んでるんじゃないかな、と楽観もしてみたり。例えばこんなニュースが。

日銀法改正案、自民党も提出すべき=中川元幹事長


 この20年の停滞というのは無視できない結果なわけで、お役所のエリート(笑)な人たちがいくら一生懸命説明してもあまり説得力はなく、いいから早く手を打ってくれという声に応えられない菅政権の前途は険しそうです。

2009年12月14日月曜日

二兎を追え!・書評・濱口桂一郎『新しい労働社会——雇用システムの再構築へ』

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新しい労働社会
濱口桂一郎
 僕たちにとって働く環境は重要だ、ってもう当たり前すぎて何言ってんだかわからないけど、一般に労働環境が悪いって話は聞いても良いって話はとんと聞こえてこない不況の2009年ももう終わり。皆様いかがお過ごしでしょうか。で、今回読んだのは濱口桂一郎『新しい労働社会——雇用システムの再構築へ』。今若者が置かれている状態(低賃金とか長時間労働とか不安定な雇用とか)を思うと、この3、40年、日本人が今のような働き方をして暮らしてきたとは考えにくい。では今と昔、何がちがうんだろうか。
 
 山本夏彦とか山本七平の本を読むと、戦前と戦後の日本社会は地続きなのであって、敗戦によって一から社会を作り直したという漠然としたイメージは間違いである、という主張によく出会う。ひるがえって現在、経済的な停滞が続く中で「敗戦から立ち直った日本」のイメージがまぶしく見えてしまうことはままあって、なにか(戦争ほどではない)劇的な出来事が都合よく起きてガラガラポンってなことを期待してしまう心情が世にはある、と思う。
 
 本書はダブル山本がいうような連続性を過去の法令や判決をあげて、かなり明確に示していると思う。もちろんそれが本書のテーマではないんだろうけど、一読して強く感じたことだった。
 
 ということで、本書は日本の雇用形態とその変化をかなり詳しく描いていて、何というかもう漢字ばっかりで僕にはかなり難しかったんだけど、そんな僕がざっくりまとめてしまうと、当面日本国民が対処しなきゃいけない労働問題の大きな山は、オジサンのお給料には奥さんと子どもたちの生活費、教育費が含まれている(生活給という)ので高額になりがちだけど、オジサン以外の人は働いた分(職務給という)しかもらえないので、家族を養うことも出来ないほど(ときには自分の生活もままならないほど)少ないお給料になりがちだ、という問題だ。
 
 これは誰が国民の生活を保障するのかという問題で、職務給は景気の影響をもろに受けてしまうから、個人でどうにかできるようなものでもないわけだ。今時の議論なら、国民が生きていくための収入は国が保障すればいいんじゃないの? ベーカム(ベーシック・インカム)やろうぜ! となるんだろう。本書でも公的な給付の充実を提案しているし、僕も賛同する。ではなぜ、日本の企業はオジサンたちが働いた分だけでなく、生きていくための分まで彼らに支払ってきたのだろうか。
 戦前の賃金制度は職種別賃金から大企業を中心として勤続奨励給に移行してきましたが、生活保障の観点はありませんでした。これを初めて提唱したのは呉海軍工廠の伍堂卓雄氏で、1922年に、労働者の思想悪化(共産化)を防ぐため、年齢が上昇し家族を扶養するようになるにつれ賃金が上昇する仕組みが望ましいと説きました。この生活給思想が戦時期に皇国勤労観の立場から唱道され、政府が類似の法令により年齢と扶養家族数に基づく賃金制度を企業に義務づけていったのです。
 敗戦によってこれら法令が廃止されると、今度は急進的な労働運動が生活給思想の唱道者となりました。1946年の電算型賃金体系は戦後賃金制度の原型となったものですが、年齢と扶養家族数に基づく生活保障給でした。当時、占領軍や国際労働運動が年功賃金制度を痛烈に批判していたにもかかわらず、労働側は同一労働同一賃金原則を拒否し、生活給原則を守り抜いたのです。
[p.p. 119]
 この生活給のせいで日本の賃金制度の改革はベラボーに難しくなってしまっている。というか政府も経営側も何度も職務給の導入を働きかけたが、その都度失敗しているという。本書にもあるように、オジサンたちに生活給にかわる収入を保障しないかぎり、オジサンたちは生活給を絶対に手放さないだろう。もちろん、生活給は働いた分以上の金額になりがちだから、一部の人の生活給を保障するかわりに、他の人の給料が低いままで押しとどめられるわけだが。
 
 もちろんオジサンを悪者にしたところで解決したりしない。が、どのみち生活給制度の改革は避けられない。だって商売の実績に基づかない高額の給料を支払っていたら、会社なんか成り立たないし、そもそも会社がつぶれてしまえば元も子もない。それにやっぱり同じだけ働いて給料がちがうというのは、公平な社会とはいえず、とても差別的な現象だ。オジサンにしたって引き替えに異常な責任を背負わされてきたし、奥さんだって労働市場から閉め出されたりしてきたわけで、もう利点のほうが霞んできている。
 
 しつこく拙訳を参照してしまうんだけど、ケインズは「経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。」(『自己責任主義の終わり』第4章)と言っている。Agendaとは政府のするべき事。本書はもちろん後者の「政治学」に関わる本だと思う。で、本書でも何度か経済学者の発言が引用されているんだけど、彼らの発言は総じておおざっぱすぎる気がした。景気を良くしたり規制をなくしたりすれば改善されることも多いとは思う。けど民主的に実現されなければ意味がない。例えば生活給制度は一部の国民の利害を強烈に反映していて、他の国民の利害を軽視している。でも市場に任せたからといって、より多くの国民にとって望ましい分配が実現するとは限らない。この点はケインズも批判している。「先ほどの単純化された(個々人の自由な活動が最適な結果をもたらすという)仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。」(『自己責任主義の終わり』第3章( )内は引用者)*1
 
*1:これに似たことはノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授も言っていて、「国際的な財やサービスや生産要素の流れは、経済学者がよく仮定したがるような、なめらかで効率的な動きを見せないんです。実際の国際市場は不完全競争で、不完全な情報を特徴として、ときには露骨に非効率だったりします。」(『どうして為替レートはこんなに不安定なんだろうか。』山形浩生訳(PDFです))  日本の労働市場も効率的とはほど遠いと思う。規制をなくせば効率的だ、というのはかなり無理がある。規制があろうと無かろうと求職者には企業についての充分な情報が無いことが多いわけで、そんな状態で効率的な市場が実現するとは思えない。そりゃ長期的には効率的かもしれないけど、長期的には我々は皆、ってやつでして。
 
 不況こそが貧困が増えた最大の原因なのは間違いない。オジサンたちが馴染んだ雇用の仕組みでも以前はそれなりに上手くいっていたんだから。だから貧困対策は経済学者に相談しよう。しかしそれでも、例えば進学を諦めるとか、結婚出産を諦めるとか、ひどい労働環境という問題を、経済的であるか構造的であるかすっぱり切り分けることは難しい。経済状態が良くなればどれもかなり改善されると思うけど、といって一緒くたに扱うわけにもいかない。景気対策で生活給制度がどうにかなるわけではないし、生活給制度をいじくったからって景気が回復するわけでもないからだ。貧困の解決に経済的な基盤は欠かせない、というかそんなの当たり前。で、同時に生活給みたいなものを民主的に変えていく必要もあるわけだ。なんといっても差別的な現象であるわけだし。どちらか片方というわけにいはいかなくて、景気も良くしながら制度的な改革もしなけりゃならない。両方やらないといけないのが民主主義のつらいところだな、と某ギャング団のリーダーなら言うところだろう。
 
 本書はまさにタイトル通り、新しい労働環境を作る際に絶対に欠かせない資料だ。本書抜きの議論は全く民主的でなくなる可能性すらあると思う。もちろん本書が扱う問題は生活給制度だけじゃなくて、派遣や労働時間など幅広く解説している。専門家ではない大多数の国民にとってこれ以上の本は当面望めないだろう。そして、何はともあれ、景気をナントカしないとだめだこりゃ、と強く思い直した。パイが縮小していく中で各人の取り分を(民主的に)調整するのは死ぬほど難しいからだ。こんな身動きがとれない状態では、ガラガラポンを期待してしまうのも無茶とは言えない。そしてそれを避けるには好景気と本書が必要だ。

2009年11月30日月曜日

経済学者から首の短いキリンたちへ・書評・田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』

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偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
 学生の就職状況が悪いというニュースがでるようになってきた。で、関係ないけど、複雑だったり新奇だったりする出来事に出くわすと、知ったかぶりをしちゃうってのが大人にありがちな反応だ。その反応にも二種類あって、一つは「俺の経験」を大声で言って開き直るというやつで、人一人の経験なんてたかが知れてるんだからそこから一般化はできないよ、とスルーすればいい。もう一つは「そもそも論」で、「そもそも能力のあるヤツなら企業が放っておかない」みたいな確かめようのないことを大声で言ってみたらホントっぽく聞こえたというやつで、これは願掛けと変わらないから、そうなるといいですね、でスルー決定。でも口に出したらだめですよ、そういう人ってメンドクサイから(若者が大人を怖がるのも納得だ)。
 
 今回読んだ本、田中秀臣著『偏差値40から良い会社に入る方法』は「俺の経験」でも「そもそも論」でもない就活本だ(著者の経験も書かれてるけど)。本書のターゲットは就職活動が苦手なフツーの人なので、優秀な俺様が過酷な現実に立ち向かって勝利を得た話をしてやるからお前らもがんばれみたいな本ではない。著者は経済学者なのだ。かなり強引な引用をしてしまうと、経済学者というのはケインズによると、
経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な(自己責任という)哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。
 
 僕はこの前の就職氷河期を学生として経験してるけど、この時まともで、凡人にも実行可能なアドバイスなんて存在しなかった(なので『菜根譚』とか読んでた)。その時の僕は思い至らなかったけど、結局のところ大人たちもどうすればいいのか知らなかった。僕の出た大学はその年の内定率が50%で、本書にもあるけどそもそも職を探す学生が減ってしまっていたので、実際に仕事にありついた学生は50%よりも少ないだろう。しかもこれまた本書にあるように、離職率の非常に高い職種、金融営業とか、についた学生が多かったようだ。
 
 で、本書にはいままで見あたらなかった実行可能でまともなアドバイスが具体的に書かれている。特に大事なのは、企業の都合を良く知ろう、ということ。その調べ方、考え方も書いてある。なので、この本を読んで得をするのは学生だけじゃない。極端に言ってしまえば、一生役に立つ心構え(しかも超人的な努力を必要としない)が手に入る。が、その手の金言はいつもそうだけど、すぐに結果が出たりしないかもしれないし、時にはずっと結果が出ないかもしれない。
 
 その理由も本書にある。本書に載っているのは実践的なアドバイスだけじゃなくて、もっと根本的な疑問も提示されている。つまり、本当に個人の問題なのか? という疑問だ。就職活動は求職者側の負担が妙に重い。だからこそ不満足な職に引っかかる人が多いのだと思う。本来なら労働環境や離職率などの情報は求職者に提供されているべきだろう*1。どう考えてもフツーの個人が調べることは難しいんだし。個人の限界を超えているのなら、それは社会の問題だ。だから本書のアドバイスを実行しても結果が出ない可能性もある。
 
 ケインズは拙訳『自己責任主義の終わり』のなかで、キリンの群れを例えに個人の能力に頼る社会のデメリットを説いている。高いところに葉をたくさんつける木と、それに群がるキリンを想像してほしい。キリンは努力してめいっぱい首をのばすだろう。その努力の甲斐あって首の長いキリンが肥え太る一方で、首の短いキリンは飢えていく。

 キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。


 もちろんケインズは個人の能力を否定しているわけではない。彼は、個人の能力や成功は運次第だ、と言っている(のだと思う)。たしかに能力のある人物は存在するが、両親から受け継いだ才能と、それを育てる境遇があればこそだ。100%自力で優秀になる人なんていない。ちょっとマシな参考書にであうのだって運が必要なんだから。
 
 就職氷河期を繰り返してしまうということは、僕たちが何でも個人の問題にすりかえてしまう悪癖に耽っているということでもある。首の短いキリンが飢えているのを見て、「短い首のヤツにはそのような運命がお似合いだ」と言えるだろうか。感情的にそれは難しいだろう。しかし現実の判断としては、僕たちは首が短いという理由で飢えゆくキリンを見捨てている。しかも、首が短ければ、つまりこの場合就職活動が下手ならば、能力が低いといえるのだろうか? という大きな疑問も放置したままだ。あと、能力が高いはずの人たちがどれほど社会に貢献しているのか? という疑問も。
 
 本書の後半部分はまさに、次のケインズの言葉をわかりやすく丁寧に説いているといえる。
 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。


 さらに本書には一生役に立つ就職活動のコツも書かれているのだから、1,400円(+税)は安いと思いますよ。ちなみに、本書後半の内容を詳しく知りたいときは同じ著者の『雇用大崩壊』をおすすめ。
 
*1:本来ハローワークってそのためにあるんでしょうけど、現状では右から来た求人を左の求職者に受け流してるだけに見えますよね。

2009年10月8日木曜日

統計のもやもや

 世の中のことをわかってる人になりたい、と子供の頃はよく思っていて、大人の振りをよくしたけど、参考にした大人たちがかなり見栄っ張りで知ったかぶりする人たちだったので、思春期以降、おかしな振る舞いをなおすのにずいぶん苦労した。どんな話題でも、瞬間的に「そりゃそうだよ」と言いそうになってしまう。今はそういうのはなくなったけど、あぶないのが統計の数字を聞いたときだ。ついつい「統計上それはナントカだ」とか言いたくなってしまう。が、それをこらえてちょっと考えてみると、統計の数字だけではなかなか納得できない、もやもやした感じが残ることも多い。

 社会の変動を統計を通して見るのは社会科学では必須の作業だ。でも、これが難しい。先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだときも、統計ってこわいなーと痛感した。書評にも書いたように、実際に人が殺された殺人事件の統計は存在しない。なので、被害者数から推測したり、事件の性質から分類したりしなきゃいけない。つまり統計上の数字をそのまま議論に持ってくるのは危険だよ、ということだ。

 同じように、統計の比較も難しい。なんでも殺人事件の統計に毒殺を含めない国があるそうだ。こんなところにも、歴史的なバリエーションが生まれるんですね。一つの統計をそのまんま真に受けるとしっぺ返しを食らうかもしれないのだから、それを比較するのはそうとう慎重にならなきゃいけない。

 20代のとき就職難で非正規雇用しかなくても、30代ではちゃんとした職に就けている。だから景気と非正規雇用問題はあまり関係がない。雇用のミスマッチが起きている。という話を聞いた。その実際の数字を不勉強な僕は知らないけれど、なんかおかしいな、と感じた。まず思ったのは、景気が悪くなれば一番最初に削られるのが非正規雇用だから、非正規 / 正規で割合をみると、分子が減っていくので、そりゃ数字上は改善かもね、ということ。失業率との比較が必要な気がする。でも失業率は失業率で問題を抱えた数字だしね。

 次に思ったのは自殺者の数のこと(以下はここを参照)。自殺が景気とはリンクしていない、という研究もあるようだけど、日本の場合、やはり97年に激増していて、そのときの水準から戻ってきていない。たしかに自殺者数はこの10年間の失業率にはリンクしていないけど、不景気と無関係というのは考えづらい。というか、失業率と自殺者数の動きがばっちりつながっていないから両者は関係ない、と言えちゃうんだろうか? いや、それはここではいいや。そうじゃなくて、30代の自殺は一貫して増えている、ということが言いたかった。団塊ジュニアの数が多いから? とも思うし、確かに団塊ジュニアの先頭(1970年生まれ)が30歳になった2000年以降20代の自殺は減り始めるんだけど、2003年になると微増、そして横ばいになっていく。これは世代のボリュームだけでは説明はつかないんじゃないかな。というか、若い世代の人口が減っているのに、10、20、30代の自殺者数(割合ではなく)は横ばいか増加ってなんか怖い。

 田中秀臣先生がブログで書いていた。

まだ僕の本務校は統計とってる真っ最中ではっきりいえないんだけど、他の大学の来年3月卒業の学生の就職率がどうも実質ベースで10〜20%程度前年比で低下しているという情報がある。このブログたぶん多くの大学教員がみているはずだから、学生の就職状況がちょっとまずいのは直感でもわかってるんじゃないか、と思う。

 高卒の方はかなり深刻化しているわけで、この事態をみてまだメディアとかは「雇用のミスマッチ」とかたわけたことを書いている。そりゃ、見つかりますよ。この不況だって構造的に人材難もしくは待遇低くて人手が来ない企業なんて日本にごまんとあるから。


 正規雇用が増えたのは、景気が悪いので、非正規雇用が削られ、ひどい待遇でも我慢してる人が増えたからかもしれない。いやこれもそういうことが言いたいのじゃなくて、30代で正規雇用の割合が増えたとして、それを不景気で説明することもできるよ、ということが言いたかった。そして自殺者数の推移は、待遇の低さや本当の失業者数を示唆しているのかもしれない。

 以前書いたんだけど、オバマ政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長のクリスティーナ・ローマー先生が、職の数だけじゃなくより良い職を作り出すことが重要だ、と力説してた。それが景気対策なんだ、と。

 さらに勝間和代さんとの対談で飯田泰之先生は「効用とは心で感じる満足度」であり「効用は経済学では重要な概念」と言っている。たぶん、統計の数字で議論をひっくり返しても、それが人々の効用を反映しているものでないとあまり説得力はないんだろう。といって効用を計る手段はなくて、統計を参考に推測するしかない。なので僕のような粗忽者としては、いい加減なこと言っちゃうフラグが立ちまくりで、まあこれまで通りこれからもいい加減なことは言っていくんだけども、やっぱり今生きている人の効用が大事だよね、長期的には我々は皆死んでいるんだから、と思う。んで、統計の数字が話題になるときに感じるもやもやは、統計がどうしても長期的な視点になりがちだからだろう。二年くらいの統計を真に受ける人はあんまりいないだろうし。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール

 最近、ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』を読んだときのメモを読み返していた(感想)。で、ケインズの貯蓄に対する考え方のまとめがあった。彼は貯蓄する意図を問題にしていた。そりゃ長期的には貯蓄は将来の消費と同じだろう。お金を貯め込んだ本人が死んでしまえば、遺産として家族の手に渡りいくらかは消費されるだろうし、一部は税金として吸い上げられて公共サービスの維持なんかに使われるだろう。でもそれはもうずいぶん気の長い話だ。実際にはお金を貯め込むような人は消費もしないし、リスクの大きい投資もしない。ので、人の一生程度の時間では、貯蓄は格差をいっそう拡大させているし、なんだかんだいって世代を超えて受け継がれている(つまり長期的に貯蓄=消費というのは理屈だけで、実際は違う)。

 だからケインズは「長期的には我々は皆死んでいる」と言ったわけだ。だから今すぐなんとかしなきゃ、と。長期的には貯蓄は消費だし、北海道の失業と沖縄の求人だって、長期的にはマッチするだろう。では、貯蓄が消費に変わるまで、僕たちは10年も20年も待ち続けなければいけないのだろうか。待つことに失敗してしまったら、それは自己責任なんだろうか。もし待たなければいけない時間が100年だとしたら、運が悪かったとあきらめるしかないのだろうか。

 長期的な視点から現状を肯定するのは危険だ。統計が話題になったときのもやもやは、僕たちがその危険をなんとなく感じとったということなんだと思う。

2009年7月22日水曜日

読んでみた・ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』

"The Art of Learning"はちょっとお休みで、今回はジル・ドスタレール『ケインズの闘い』について。

何せ五千円以上もする本なので図書館で借りて、で、もうすぐ返さなければいけないので、急いで感想など。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール
ジョン・メイナード・ケインズが誰か、なんて説明はいらないだろう。とにかく市場に任せておけば全てはやがて効率的になる、という古典経済学に反旗を翻した人だ。この本はケインズの伝記のようなところもあるけれど、重点が置かれているのは彼の思考や主張で、友情や恋愛など人間関係はそこそこ詳しく描かれるものの、あくまで彼の考えの道筋を説明するためのものだ。

そのケインズの考え方の基本は、「不確実性の性格を考慮すると、将来の善のために現在の幸福を犠牲にすることには危険がともなう」[p.208]というものだ。有名な「長期的にはわれわれは皆死んでいる」というやつですな。この考え方があるので、彼は計画経済、つまり共産主義を敵視したし、物事が時空を超えて理論通り振る舞うと信じきっている古典経済学を攻撃したわけだ。

とはいえ、ケインズとその仲間たちの話もかなり面白い、が、それは実際に読んでもらった方が100倍楽しいこと間違いなしなので書かないで、ここではケインズとケインズ以前の経済思想をさくっとみてみよう。僕は経済学を専門的に勉強したことはないので、まったく的外れなものになる可能性大なのでご了承を。

なんといっても経済の大問題は失業だ。失業を放置すればやがて国が傾く。では、ケインズ以前の経済思想は失業をどうみていたのだろう。

セイの法則で有名なフランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは、供給があればそれと同じだけ需要もあるので、非自発的失業は存在しない、という考え。ま、古典的ですね。無茶いうな、という気もします。

次にデイビッド・リカード。イギリスの人ですね。ミスター比較優位。彼は、生産力が短期的に跳ね上がると失業が発生することがある、が、需要が足りないということなどありえないと主張。リカードはラッダイト運動(紡績機ぶち壊し運動)にある程度共感してたそうで、これは驚きだった。なんとなく自由主義を愛するオジサン、というイメージだったので技術革新にはもちろん肯定的なのかなと根拠なく思ってた。やり手の商人だし。

セイとリカードに共通しているのは、需要不足の否定、だ。貯蓄は将来の消費であるから、その分需要を生む。なので貯蓄=経済発展。だから金持ちの貯蓄は美徳である、と。

そして最近じゃすっかり偽予言者扱いのマルサス。この人もイギリス人。彼は貯蓄の購買力(お金の量)だけが問題なのではなく、買う意欲も重要だ、と考えていたそうで、つまり有効需要のアイディアですね。お金を貯めるだけで使わない人がいれば、そのお金の分失業が生まれる。買う意欲(=需要)が足りなければ失業が発生してしまう。だから買う意欲のないケチンボをなんとかしなきゃ、と。

そしてケインズはこのマルサスの考え方を完全に受け継いでいて、その最も過激な主張が、金利生活者の安楽死、というアイディアだった。まあ本気かどうか知りませんけど。さらにマルサスといえば『人口論』、人口は幾何級数的に増えるけど食物は算術級数的にしか増えないからアレだ、というアレですがケインズはこの見方にも共感していたそうな(wikipediaのリカードの頁をみたら彼もマルサスの人口論には賛成していたそうです。当時はすごく説得力が感じられたんですかね)。

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雇用・利子
および貨幣の
一般理論
J・M・ケインズ
ケインズはリカードをずいぶんこき下ろしていて、マルサスではなくリカードが学界で地位を確立したことで経済学は100年遅れた、とまで言っている。また、のちに『雇用・利子および貨幣の一般理論』とよばれる本の校正をしている時、ケインズはバーナード・ショウに、自分の新しい理論によって、「マルクス主義のリカード的基礎は打ち壊されるでしょう」[p.435]と言い、さらにヴァージニア・ウルフには「古いリカード体系が打ち捨てられ、すべてのことが新しい基礎のうえに築かれるのをあなたは見るでしょう」[p.436]と言ったという。

ケインズによれば経済を発展させるのは貯蓄ではない。貯蓄はケインズが唾棄しつつも慣れ親しんだヴィクトリア朝のいやらしい偽善的な道徳であって、人々にとって有害である。アニマルスピリットに導かれた投資こそが経済を発展させる。また、貯蓄は格差をいっそう拡大し、永続的なものにしている。だからこそ、金利生活者に安楽死を、という過激な主張がうまれたようだ。

ケインズ自身はエリート主義な人だった。そのせいか労働者の自己責任みたいな話には我慢ならなかったようだ。本書の最後の文を引用しよう。

 ケインズの見るところでは、貧困・不平等・失業・経済恐慌という問題は、外生的な偶発事でもなければ、不節制に対する懲罰でもなく、むしろそれは、十分に組織されていない社会や人間的誤謬の結果である。したがって、大きな改革の実行によってそうした問題を緩和すること、あるいはそれを解消することは、都市国家に集結した諸個人の手にかかっている。このような改革は、われわれが今日知っている資本主義経済の状況のなかで可能なのだろうか。ケインズは、それが可能であると信じていたか、あるいは少なくともそうであることを望んでいた。<福祉国家>の確立は彼が正しかったことを証明したように思われたけれども、情勢は一変した。それでもなお、資本主義の健康状態についての彼の診断ーー今となっては半世紀以上も前に提示されたことになるーーは、これまでよりもさらに適切なものとなっている。将来に何が起こるかを知っていると主張することは、誰にもできない。しかしながら将来をつくることは、われわれの手にかかっている。おそらくこれが、ジョン・メイナード・ケインズの主要なメッセージである。
[p.570]

 

2009年7月12日日曜日

最低賃金を上げるという話

民主党が最低賃金を1,000円に上げるという政策を思いついちゃったそうだ。

実際に実行したとして、結果がどうなるかよくわからないけど、働くことにまつわるルールっていうのは、一部の人が異常に有利にならないようにする、というものであるべきだ。国民の力がフルに活かされることを目標にすれば、当然、各人の意欲を大事にする社会をつくらなきゃいけない。特権階級がいるような社会で健全なやる気を維持できる人は多くない。

そして今最賃を値上げするというのは、一部の人を有利にしてしまうと思う。たぶん高学歴の若者が一瞬有利になって、その後馬車馬のように無慈悲な働き方を強いられる。で、全体的には採用が減るだろうから、今まで通り、既得権をもつ正社員がさらに有利になって、また若者の負担が増えるんじゃないかな。

働く人の権利を守らないことに定評のあるアメリカで、労働者の年齢差別を禁止したり、履歴書に写真をのせなかったり(これは法律? 習慣?)することの意味を考えなきゃいけない。それをしてしまうと一部の人が有利になりすぎてしまうからだ。裏を返せば、他の一部の人たちに負担が集中してしまうということだ。日本に住んでいて、年齢とか見た目のことで理不尽を感じたことのない人なんていないはずだ。最賃をいじる前にするべきことがいくらでもあるでしょう。最賃を上げるのは人手不足になってからで十分だ。

2009年5月30日土曜日

失業率の悪化に思う


失業率が5%になった。

雇用情勢が急速に悪化している。4月の労働力調査では、完全失業率(季節調整値)が5.0%で、5年5カ月ぶりに5%台になった。

失業率の悪化は予想されていたので驚く様なことではないけれど、やっぱりいやなニュース。で、雇用対策用に15兆円の補正予算が通ったけど、なんだかなあ、という感じ。というのも、日本の1400兆円もあるらしい個人資産はどこいっちゃったわけ? と思うから。

為政者には、1400兆円の個人資産と金融政策と雇用をセットで見て欲しいと思う。貯蓄を取り崩すくらいなら借金したほうがマシってのは個人レベルではよく見られる不合理なんだそうだ。でも、個人ならその不合理のコスト(借金の金利)を支払うのは本人なわけだから、不合理な選択もまた自由、といえる*1。でも国家がそれをやると、借金のコストは国民全員で支払い、「貯蓄を取り崩さない」という利益は貯蓄している人たちだけが享受することになる。つまりお金のない人から、お金のある人に利益の移転が起きているわけだ*2以前にも書いたけど、お金を貯めることにもリスクはある。そのリスクはお金を貯める人が負わなきゃいけないものだ。

街を歩いていると、人通りの多い場所なのに何年もシャッターをおろしている建物があったりする。東京の世田谷通りなんかでもそういう建物は結構ある。以前は、「勝手すぎるなあ」と思ってた。だっていくら自分の土地だからといって何年もシャッターをおろしっぱなしじゃあ、まわりのお店だって辛いでしょう、と考えてたから。今もそういう考えをもってはいるけれど、勝手というよりは、どうしたらいいかわからないのかな、と思うようになった。高齢化の一側面なんじゃないだろうか、と。

ものすごく頭のいい官僚が作ったものすごく複雑な政策ならばこういう状態を打破できるのか、といえば、そんなことはまったくないだろう。たぶん、人々の活動を活発にすることでしか変わっていかないんだと思う。だが現状維持のコストを他人に押し付けられる環境なら、人はそうしてしまう。

短期的には借金で雇用を支える必要もあるだろう。でも長期的には1400兆円の個人資産を活用するほか道はない*3。そのためには経済をインフレ基調にすべきだと、やっぱり思う。


*1:限度はあると思うけど。

*2:車買うためとか、2、3年の生活費とか、そういった貯蓄の話じゃないですよ。

*3:長期的な経済発展に疑問をお持ちの向きもありましょうが、だから何? ですよ。せめて資本が十分に活用されたのを見届けた上で、それ以上の発展があるかないか論じればよろしいんじゃないかしら。気が早い。

2009年5月1日金曜日

2009年5月1日の記録


たいしたエントリにはなりそうにないけども。

今日五月一日に、三月の失業率が発表された。前月よりも0.4%悪化した4.8%だった。また消費者物価指数も発表された。原油や食料品を含んだ数値でもマイナスとなった。

さらに日銀の政策決定会合も開かれた。結論は「様子見」だったそうだ。金利も現状維持。金融政策の効果を見極めたいらしい。

いったい彼らは失業を何だと思っているのだろう。日銀の政策委員に選ばれた時、「よし、失業を減らして、完全雇用を目指すぞ」と思わなかったのだろうか。思わなかったのなら、今すぐ辞めてもらいたいもんだ。

2009年3月16日月曜日

書評・田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』

日銀の白川総裁が財政政策をファイナンスすると長期金利に悪影響、とか発言してた。これは「インフレいやん」ということなわけで、各国中銀がデフレと戦おうとしているときにまさかのインフレファイター宣言。そこにシビれ(ry

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雇用大崩壊
失業率10%時代の到来
田中秀臣
そんな日銀への疑問満載の日々に読んだのが田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』。タイトルがかなりセンセーショナルだけど中身はそういう煽るばかりの本とはちがう。日本の経済政策に対するセンセーショナルじゃない本当の不満がぎっちり詰め込まれていた。失業率10%時代とはつまり、1990年代から始まった就職氷河期の再来であり、その時社会にでた若者たち(通称ロスト・ジェネレーション)が貧困の連鎖の起点になりかけているように、再び若者が不景気の犠牲になる時代ということだ。

こう書いては失礼だけれども、意外にも読みやすかった。著者の本は何冊か読んでいるけれども、どれも経済学に興味のない人にすすめるにはちょっと難しいという印象があった(そういった人に向けて書かれているわけじゃなかったのかも)。今作も図があったほうが良いのでは? という箇所(双曲割引のところ。参照されているエインズリー『誘惑される意志』は僕も読んだけど、図があっても難しかった)があったりしたけど、文自体は平易だし、難解な用語が突然でてくることもない(これは一般向けとしてはとても優れたところだと思う)し、といって用語の説明が延々つづくということもないので集中しやすいと思う。あとインフレターゲットなどのリフレ政策はなにかと妙な議論を呼びがちだけど、そこはすっきりとクルーグマンがよく使っていた例え話(子守り組合の話)でまとめていて、焦点は書名どおり雇用に当てられていることが、この本の訴求力を強めている印象を受けた。

で、政治、正規・非正規雇用、通説の誤り、セーフティーネットのあり方、そして財政・金融政策と、この本の議論は多岐にわたるので個々の議論はじっさいに読んでいただくとして、この本の精神を最もよく表現している(と僕が思う)あとがきの一番最後の文章を引用しよう。

それ(不況中の増税議論:引用者)に対して本書では一貫して、現役で働いている人たちの環境を良くすることが政府の果たす務めであることを強調してきました。現役世代、特に若い世代の経済的貧困を解消することが、彼ら彼女らだけではなく、その後の世代にも、そして現在の高齢者にとっても利益になることなのです。その意味で、不況を克服する積極的な財政・金融政策を行う政府の役割は「大きい」のです。これが本当の意味での「大きな政府」の重要性だと私は思っています。


ここでいう「大きな政府」の意味、つまり将来とか過去の話ではなく、今困っている人を助けるために税金を使う(さらに借金もする)、ということがこの本の基底となっている。そこから経済政策を語った本なので、話題性だけでとりあげられがちな年金やニートなどの議論も、日本経済の一部として扱われるのであって、なにか現代社会の病理とか昔はよかった的などうしようもない話ではまったくない。まさにノーナンセンス。

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誘惑される意志
人はなぜ自滅的
行動をするのか
ジョージ・エインズリー
以前クルーグマンが「経済にはエネルギー保存の法則のようなものがあって、価値がどこかからわいて出たりしない」というようなことを言っていた。だから、例えば増税で財政の辻褄を合わせたところで、日本経済の内側で富が移動するだけで貧困が解消されたりはしない。むしろそんなことに時間をかけているうちに日本経済そのものが縮小していってしまう。この本ではそういった現状を、椅子とりゲームの椅子が減っていくと例えている。また、椅子が少ないことはなんだかんだ言って特定の層(若者)の不利益になっている。しかもその層の子供たちにまでその不利益が受け継がれそうになっている(彼らの経済状況では子供たちに進学や就職に充分なチャンスが与えることができない)。だから本書は椅子を増やす政策を実行せよと強く訴えている。

僕はこの本が多くの人に読まれてほしいと思う。僕はロス・ジェネど真ん中なので特にそう思う。おそらく「景気を良くしよう」という訴えに対しては「しっかりとした…、ムダのない…、責任ある…」といった反論めいたものがなされるのだろう。でも、問題なのは眼前の貧困なのであって理想や大義や過去や未来の話じゃない。プラクティカルに、ノーナンセンスに必要な政策が実行されることを願うばかり。

2009年1月14日水曜日

減税の効果と定額給付


ハーバード大学の経済学教授マンキュー先生がニューヨークタイムスに記事を書いていた。要約すると、不況になると人々はモノやサービスを買わなくなって、しまいには作り出さなくなるので、代わりに政府が買えばいい。すると人々の収入が増えるので、またモノやサービスを買うようになる。と、いうのが伝統的な経済学の教科書に書いてあること。でも最近の研究では政府が公共事業で1ドル使うと、1.4ドル分のモノやサービスが作られてる。ちょっと少ない。で、常々、減税はあんまり効果がないと言われていたけど、これも最近の研究によると、減税1ドル分につき、3ドル分のモノやサービスが作られているそうな。公共事業の倍以上! つまり減税は思った以上に効果があるかもしれない、という話。

この減税の効果についての研究をしたのが、クリスティーナ・ローマー先生で、オバマ政権の経済政策諮問会議(ちゃんとした訳があるはず)の議長に指名された人でもある。なので、オバマ政権は、いままで金持ち優遇政策と揶揄されてきた減税政策にマジで取り組むつもりなんだろう。





で、上のはそのローマー先生のインタビューの動画。オバマ政権の雇用を増やす政策について説明している。要約すると、政府が建物をたてれば建設業の仕事が増えるので、とても分かりやすい。でも減税によって人々がお金を使うとどのような職が増えるか推測するのは難しい。それは人々がどの分野にお金を使うかによるから。でも、減税なら幅広い職種に効果があるはず。そして、作り出される職の数が重要ではないとは言わないけど、職の質、つまりどのような仕事が増えるのか、ということもとても重要。不景気が始まって340万人がフルタイムからパートタイムに移っている。一連の政策で、パートタイムの仕事がフルタイムの仕事に変わるような効果を期待している。健全な経済にとって、「より良い職」はとても重要。単純に職を作り出すのじゃなく、「より良い職」を作り出すことが国民にとっても良いこと。ただお金を使って景気を刺激するだけじゃなくて長期的にも有用な云々。

はい、そこ、ため息つかない。こちらのエントリで書いたけど(そして上手く書けなかったけど)、2003年からの日本の景気回復は、労働力が増えたことによる。つまり職が増えたわけだ。ではどんな職が? そう、派遣やアルバイトの増加や、サービス残業の蔓延などで労働力が安く利用できるようになったので、企業は生産を増やすことができたわけだ。で、国民の生活の質が向上しただろうか。うーん、実感なき景気回復と言われるのも無理はない。

もちろん、回復が無いよりはマシだったろう。でもなあ、人にとって「より良い職」に出会うのはかなり重要なことで、それは不況下では難しくて、だから国は不況を短くする、あるいは特定の職業じゃなくて様々な職が生まれる環境を整える使命があると思うんだけどなあ。

もちろん、減税の効果がホントに以前に思われていた以上にあるのか、よくわからない面もある。でも、こうやってアメリカの動向なんぞを横目で見ていると、我が国って…、という気にはなる。今回の定額給付ってさ、言わば減税じゃん。額が少ないから効果も少ないだろうけど、バラマキだからダメ、という扱いを受けるようなものじゃない。公共事業で特定の職を増やすよりは、なんというか、より民主的な景気刺激策でもあるだろう。額が少ないけど。バラマキ=悪というのは、不景気をナメているとしか思えない。景気が悪いと人が死んだり戦争が起きたりすることもあるんだぜ(放言)。バラマキに一時的でも効果があるのなら、そのことは否定しちゃダメよ。まあ、額が少ないからムキになってもアレなんだけど。

んで、「より良い職」について語る人が少なくないか? と思う。長期的にどうすべきか、という問いが非常に難しいのはわかるけど、それでも「仕事が有るだけマシ」といって諦めてしまうには早すぎるでしょう? 大恐慌時のアメリカのように失業率が25%とかだったら、そりゃ職の質なんかどうでもいいでしょうけどね。

2008年7月22日火曜日

ワークライフバランス

ワークライフバランスというと、「そんなことより一人前の社会人(とか職人とか)になれよ。泥のように10年働けとは言わないけどさ」的な嫌味?を聞くことがよくある。

一人前というのも随分曖昧で、人を裁く基準としてはおっかないことこの上ないけど、そもそも、一人前を実現するために、一人分の努力と根性と忍耐だけで済んでいたのか? と考えてしまう。

家事とか子育てとか、もちろん夫として父としても一人前なんですよね、わかります。それでいて奥さんの働きたい気持ちも尊重してきたんですよね、わかります。と嫌味を返したくなる。ま、「それはあいつ(奥さん)が望んだこと」なんですよね、自己責任ですよね、わかります。

この本なんか読むと、90年代初頭までの女性新入社員キツかったろうなあ、と思う。一人暮らしができないくらいの薄給で、しかも自腹でペン習字を習わなきゃいけない、って人間なめてんのか。一人前ってのはこういうことをするんですね、わかります。

そうやって一人前の男性を生み出し保護したところで、不景気には勝てなかったじゃないの。その程度の一人前ならば、父であること、夫であること、息子であることを、若い男性は望むだろうし、女性だって夫を一人前にするために自分の人生を投げ捨てるようなことはしない。

道は人に遠からず、っていうじゃない。人に出来ないことは、人の道から外れてる。女性を犠牲にして男性を一人前にするのは、もう出来ないことだ。もう人の道から外れてる。べつにおじさんが悪いってんじゃなくて、時代が変わったんですよ、ということでしょう。盛者必衰なんですから。

2008年6月5日木曜日

メインバンク

池田勇人エントリはちょっとお休み。

友達から聞いた話。非正規雇用の労働環境を改善する、あるいは正規雇用化するには企業が変わる事が必要で、そのためにはメインバンクの理解が欠かせない、らしい。

最近の何かの記事らしい。検索下手なので見つけられなかったです。なんでも、労働問題の専門家の記事らしいですよ。

それにしてもメインバンクですよ、こうなったら(?)。日本を陰で操るメインバンクですよ。官僚、銀行、ヤクザが牛耳っているんですよ、日本は。なので銀行さんにお願いして日本を変えてもらいましょうよ、そうしましょうよ。

独占禁止法にこんな箇所がある。「原則として他の国内の会社の議決権のうち、銀行については5%,保険業については10%を超えて、議決権を取得又は保有してはならない。」これはお金の貸し手が、借り手企業を意のままにしたりしないようにするための法律だ。果たして日本の銀行はこの法律の精神を踏み越えてまで企業経営に介入しているんだろうか。もしそうなら、この国は結局官僚と銀行とヤクザに牛耳られてるってことなんだろう。

ありもしないメインバンクの理解を得ても、何も解決しないんじゃないの? 専門家ってこわいね。

参考:三輪 芳朗、J.マーク ラムザイヤー『日本経済論の誤解』


いもしない専門家にむけて書いているような気がしてきたけど、まあいいや。