2009年6月26日金曜日

書評・海音寺潮五郎『中国英傑伝』

中国の古典は、なんというか、僕にとって秘密の先生みたいなものだ。論語の話を誰かとすることなんてないし、王陽明なんて名前を知っている人はあまりいない。だからまるで僕が中国古典を幾つか愛読しているってことが隠し事みたいな気がするときがある。といって、僕が中国古典に詳しいと思われては困る。自慢じゃないが漢文は全く読めない。書き下し文も怪しい。訳文を読みながら、たまに書き下し文を見て使われている漢字を確認するくらいの幼稚な読み方しかできない。

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中国英傑伝
海音寺潮五郎
で、この本だ。海音寺潮五郎の『中国英傑伝』。上巻は主に項羽と劉邦の話で、下巻は春秋時代、つまり孔子が生きていた頃の話だ。この本は、タイトル通り、その時代の英傑たちのエピソードを楽しく分かりやすく書いたもので、とてもスピーディに話が進んでいくので気持ちがいい。中国古典の背景を知るのに最適な本だと思う。

時系列で見ると、まず周王朝の時代があって、春秋時代その後戦国時代となり、秦による統一、項羽と劉邦の激突、漢の成立、となる。あとがきによると著者は戦国時代についても書くつもりだったけど、体調が思わしくないということでやめたらしい。すごく残念だ。

とはいえ、英傑たちの数は多く、下巻だけでも、斉の桓公に晋の文公こと重耳、伍子胥と孫子(孫武)、魯に帰ってきた孔子と弟子の子貢、呉王夫差に越王匂践、夫差の側近伯嚭に匂践の側近范蠡と文種などなど、オールスターといっていい。

ある意味あきれてしまうのだが、こんなに登場人物が多いのに、各人各様の人生があるもので、しかもそれぞれに道行きの理由というか必然性のようなものがある。古典からダイレクトに教訓を引き出すと、なんだか薄っぺらい説教にしかならないものだけど、この本の英傑たちの人生も同様で、何か単純な教訓が学べたりするわけじゃない。ただ人がしがちなこと、考えがちな事、苦しみがちな事がよくわかる。人が何につまずいて、何に拘るのか。人間とは何なのか、ということの症例がたくさん載っている。中国古典が取っ付きづらいときは、この本がいいと思う。当時一体何が問題だったのか、人々の関心事は何だったのか、おぼろげながら雰囲気がつかめると、古典のほうも読みやすくなるんじゃないだろうか。

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孟嘗君と戦国時代
宮城谷昌光
ちなみに、戦国時代については、ごく最近出た宮城谷昌光『孟嘗君と戦国時代』という本がいいと思う。まるで『中国英傑伝』から漏れてしまった戦国時代を埋めるかの様な本で、特に孟子の入門的な解説になっていて、とても面白かった。孟子の時代にはまだ論語が成立していなかった、という話は不勉強な僕には衝撃だった。孟子は「たとえ孔子が言った事でも、自分が納得しなければ信じない」というようなことを言っていたと思うけど、なるほどね、まだ論語がなかったとなれば、孔子の言葉として伝えられるものもちゃんと吟味しないといけなかったんだろう。

2009年6月23日火曜日

「去私」の人?

この間所用でお役所に行った。んで、待ち時間があったので、壁にかかってるテレビをみて待ってた。テレビのニュースをじっとみるなんて久しぶりだなあと思ってたら、与謝野大臣が出てきた。僕は新聞も読まないし、大臣の顔を見るのはホントに久しぶりだったんだけど、なんか随分痩せてるじゃないですか。やっぱ三大臣兼務なんて無理ですよ。

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山本七平の
日本の歴史(上)
山本七平
『山本七平の日本の歴史(上)』の中で、著者は夏目漱石の『こころ』を分析しながら、日本人にありがちな精神的な態度を提示している。勝手な要約をしてしまうと、危機や変化に出会った時、日本人は「去私」足らんとする。つまり自分の欲望や理想や目的をなげうって、周囲の人のために動いているかのように振る舞うということだ。このような指導者は超人的な虚のエネルギーを生み出す。何せ本人には目的がないかのような状態だから、周囲の人はいくらでも忖度できるわけで、どんどん祭り上げられてゆく。そして周囲の思惑がぶつかり合って事態がどちらに転がるか、まったく予想ができない。このような人物の例として乃木希典があげられている。乃木は明治天皇が崩御した時に自決したが、「去私」であるのだからそれも当然だったわけだ。要約はここまで。

無理をするのも「去私」の一形態なんじゃないんだろうか。しかし「去私」は人の頭の中にだけ存在するのであって、現実の問題に対しては何の効力も持たない。もちろん与謝野さんが「去私」の人かどうか、僕は知らない。でも、三大臣兼務ってのはもう超人の域だと思う。また、彼がよく言う「責任」というのも、誰の誰に対する責任なのかよく分からない。国の債務を担うのは現役世代なのだから、返済の仕方はその世代に任せるのがスジじゃないの? と僕は思う。今増税したって債務の総額から言えば微々たるものだ。返済そのものよりも、返済しやすい経済状態を目指したほうがいい。時間をかけて返していけば負担も分散できる。

親になって子供が思春期くらいになると、「去私」の構えで子供に接する人たちを結構よく見かける。僕の母もそうだったし、友人の親もそうだったようだ。自分の目的や理想を押し殺して、ただあなたの幸せを願ってる、みたいな。それは美しい態度なのかもしれないが、子供達の不安や焦燥感を癒す事は無い。

僕たちが「去私」を回避して現実と向き合うためには、おそらく凡庸な理想を(ひっそりと)掲げることが大事なんじゃないかと思っている。子供達には善良であって欲しいものだし、国の債務の返済は過激なものでなく、余裕のあるものであって欲しい。まったく凡庸だ。しかし、「将来世代に負担をかけない」という理想は、人智を離れてると思う。これでは現実に対処することは難しいだろう。

なんか話がよくわからなくなりましたが、結局言いたいことは、無理したって行いが正当化されたりしないよ、ということでした。身体にもよくなさそうなんで、三大臣兼務は辞めて欲しいですね。