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2009年12月14日月曜日

二兎を追え!・書評・濱口桂一郎『新しい労働社会——雇用システムの再構築へ』

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新しい労働社会
濱口桂一郎
 僕たちにとって働く環境は重要だ、ってもう当たり前すぎて何言ってんだかわからないけど、一般に労働環境が悪いって話は聞いても良いって話はとんと聞こえてこない不況の2009年ももう終わり。皆様いかがお過ごしでしょうか。で、今回読んだのは濱口桂一郎『新しい労働社会——雇用システムの再構築へ』。今若者が置かれている状態(低賃金とか長時間労働とか不安定な雇用とか)を思うと、この3、40年、日本人が今のような働き方をして暮らしてきたとは考えにくい。では今と昔、何がちがうんだろうか。
 
 山本夏彦とか山本七平の本を読むと、戦前と戦後の日本社会は地続きなのであって、敗戦によって一から社会を作り直したという漠然としたイメージは間違いである、という主張によく出会う。ひるがえって現在、経済的な停滞が続く中で「敗戦から立ち直った日本」のイメージがまぶしく見えてしまうことはままあって、なにか(戦争ほどではない)劇的な出来事が都合よく起きてガラガラポンってなことを期待してしまう心情が世にはある、と思う。
 
 本書はダブル山本がいうような連続性を過去の法令や判決をあげて、かなり明確に示していると思う。もちろんそれが本書のテーマではないんだろうけど、一読して強く感じたことだった。
 
 ということで、本書は日本の雇用形態とその変化をかなり詳しく描いていて、何というかもう漢字ばっかりで僕にはかなり難しかったんだけど、そんな僕がざっくりまとめてしまうと、当面日本国民が対処しなきゃいけない労働問題の大きな山は、オジサンのお給料には奥さんと子どもたちの生活費、教育費が含まれている(生活給という)ので高額になりがちだけど、オジサン以外の人は働いた分(職務給という)しかもらえないので、家族を養うことも出来ないほど(ときには自分の生活もままならないほど)少ないお給料になりがちだ、という問題だ。
 
 これは誰が国民の生活を保障するのかという問題で、職務給は景気の影響をもろに受けてしまうから、個人でどうにかできるようなものでもないわけだ。今時の議論なら、国民が生きていくための収入は国が保障すればいいんじゃないの? ベーカム(ベーシック・インカム)やろうぜ! となるんだろう。本書でも公的な給付の充実を提案しているし、僕も賛同する。ではなぜ、日本の企業はオジサンたちが働いた分だけでなく、生きていくための分まで彼らに支払ってきたのだろうか。
 戦前の賃金制度は職種別賃金から大企業を中心として勤続奨励給に移行してきましたが、生活保障の観点はありませんでした。これを初めて提唱したのは呉海軍工廠の伍堂卓雄氏で、1922年に、労働者の思想悪化(共産化)を防ぐため、年齢が上昇し家族を扶養するようになるにつれ賃金が上昇する仕組みが望ましいと説きました。この生活給思想が戦時期に皇国勤労観の立場から唱道され、政府が類似の法令により年齢と扶養家族数に基づく賃金制度を企業に義務づけていったのです。
 敗戦によってこれら法令が廃止されると、今度は急進的な労働運動が生活給思想の唱道者となりました。1946年の電算型賃金体系は戦後賃金制度の原型となったものですが、年齢と扶養家族数に基づく生活保障給でした。当時、占領軍や国際労働運動が年功賃金制度を痛烈に批判していたにもかかわらず、労働側は同一労働同一賃金原則を拒否し、生活給原則を守り抜いたのです。
[p.p. 119]
 この生活給のせいで日本の賃金制度の改革はベラボーに難しくなってしまっている。というか政府も経営側も何度も職務給の導入を働きかけたが、その都度失敗しているという。本書にもあるように、オジサンたちに生活給にかわる収入を保障しないかぎり、オジサンたちは生活給を絶対に手放さないだろう。もちろん、生活給は働いた分以上の金額になりがちだから、一部の人の生活給を保障するかわりに、他の人の給料が低いままで押しとどめられるわけだが。
 
 もちろんオジサンを悪者にしたところで解決したりしない。が、どのみち生活給制度の改革は避けられない。だって商売の実績に基づかない高額の給料を支払っていたら、会社なんか成り立たないし、そもそも会社がつぶれてしまえば元も子もない。それにやっぱり同じだけ働いて給料がちがうというのは、公平な社会とはいえず、とても差別的な現象だ。オジサンにしたって引き替えに異常な責任を背負わされてきたし、奥さんだって労働市場から閉め出されたりしてきたわけで、もう利点のほうが霞んできている。
 
 しつこく拙訳を参照してしまうんだけど、ケインズは「経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。」(『自己責任主義の終わり』第4章)と言っている。Agendaとは政府のするべき事。本書はもちろん後者の「政治学」に関わる本だと思う。で、本書でも何度か経済学者の発言が引用されているんだけど、彼らの発言は総じておおざっぱすぎる気がした。景気を良くしたり規制をなくしたりすれば改善されることも多いとは思う。けど民主的に実現されなければ意味がない。例えば生活給制度は一部の国民の利害を強烈に反映していて、他の国民の利害を軽視している。でも市場に任せたからといって、より多くの国民にとって望ましい分配が実現するとは限らない。この点はケインズも批判している。「先ほどの単純化された(個々人の自由な活動が最適な結果をもたらすという)仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。」(『自己責任主義の終わり』第3章( )内は引用者)*1
 
*1:これに似たことはノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授も言っていて、「国際的な財やサービスや生産要素の流れは、経済学者がよく仮定したがるような、なめらかで効率的な動きを見せないんです。実際の国際市場は不完全競争で、不完全な情報を特徴として、ときには露骨に非効率だったりします。」(『どうして為替レートはこんなに不安定なんだろうか。』山形浩生訳(PDFです))  日本の労働市場も効率的とはほど遠いと思う。規制をなくせば効率的だ、というのはかなり無理がある。規制があろうと無かろうと求職者には企業についての充分な情報が無いことが多いわけで、そんな状態で効率的な市場が実現するとは思えない。そりゃ長期的には効率的かもしれないけど、長期的には我々は皆、ってやつでして。
 
 不況こそが貧困が増えた最大の原因なのは間違いない。オジサンたちが馴染んだ雇用の仕組みでも以前はそれなりに上手くいっていたんだから。だから貧困対策は経済学者に相談しよう。しかしそれでも、例えば進学を諦めるとか、結婚出産を諦めるとか、ひどい労働環境という問題を、経済的であるか構造的であるかすっぱり切り分けることは難しい。経済状態が良くなればどれもかなり改善されると思うけど、といって一緒くたに扱うわけにもいかない。景気対策で生活給制度がどうにかなるわけではないし、生活給制度をいじくったからって景気が回復するわけでもないからだ。貧困の解決に経済的な基盤は欠かせない、というかそんなの当たり前。で、同時に生活給みたいなものを民主的に変えていく必要もあるわけだ。なんといっても差別的な現象であるわけだし。どちらか片方というわけにいはいかなくて、景気も良くしながら制度的な改革もしなけりゃならない。両方やらないといけないのが民主主義のつらいところだな、と某ギャング団のリーダーなら言うところだろう。
 
 本書はまさにタイトル通り、新しい労働環境を作る際に絶対に欠かせない資料だ。本書抜きの議論は全く民主的でなくなる可能性すらあると思う。もちろん本書が扱う問題は生活給制度だけじゃなくて、派遣や労働時間など幅広く解説している。専門家ではない大多数の国民にとってこれ以上の本は当面望めないだろう。そして、何はともあれ、景気をナントカしないとだめだこりゃ、と強く思い直した。パイが縮小していく中で各人の取り分を(民主的に)調整するのは死ぬほど難しいからだ。こんな身動きがとれない状態では、ガラガラポンを期待してしまうのも無茶とは言えない。そしてそれを避けるには好景気と本書が必要だ。

2009年11月30日月曜日

経済学者から首の短いキリンたちへ・書評・田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』

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偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
 学生の就職状況が悪いというニュースがでるようになってきた。で、関係ないけど、複雑だったり新奇だったりする出来事に出くわすと、知ったかぶりをしちゃうってのが大人にありがちな反応だ。その反応にも二種類あって、一つは「俺の経験」を大声で言って開き直るというやつで、人一人の経験なんてたかが知れてるんだからそこから一般化はできないよ、とスルーすればいい。もう一つは「そもそも論」で、「そもそも能力のあるヤツなら企業が放っておかない」みたいな確かめようのないことを大声で言ってみたらホントっぽく聞こえたというやつで、これは願掛けと変わらないから、そうなるといいですね、でスルー決定。でも口に出したらだめですよ、そういう人ってメンドクサイから(若者が大人を怖がるのも納得だ)。
 
 今回読んだ本、田中秀臣著『偏差値40から良い会社に入る方法』は「俺の経験」でも「そもそも論」でもない就活本だ(著者の経験も書かれてるけど)。本書のターゲットは就職活動が苦手なフツーの人なので、優秀な俺様が過酷な現実に立ち向かって勝利を得た話をしてやるからお前らもがんばれみたいな本ではない。著者は経済学者なのだ。かなり強引な引用をしてしまうと、経済学者というのはケインズによると、
経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な(自己責任という)哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。
 
 僕はこの前の就職氷河期を学生として経験してるけど、この時まともで、凡人にも実行可能なアドバイスなんて存在しなかった(なので『菜根譚』とか読んでた)。その時の僕は思い至らなかったけど、結局のところ大人たちもどうすればいいのか知らなかった。僕の出た大学はその年の内定率が50%で、本書にもあるけどそもそも職を探す学生が減ってしまっていたので、実際に仕事にありついた学生は50%よりも少ないだろう。しかもこれまた本書にあるように、離職率の非常に高い職種、金融営業とか、についた学生が多かったようだ。
 
 で、本書にはいままで見あたらなかった実行可能でまともなアドバイスが具体的に書かれている。特に大事なのは、企業の都合を良く知ろう、ということ。その調べ方、考え方も書いてある。なので、この本を読んで得をするのは学生だけじゃない。極端に言ってしまえば、一生役に立つ心構え(しかも超人的な努力を必要としない)が手に入る。が、その手の金言はいつもそうだけど、すぐに結果が出たりしないかもしれないし、時にはずっと結果が出ないかもしれない。
 
 その理由も本書にある。本書に載っているのは実践的なアドバイスだけじゃなくて、もっと根本的な疑問も提示されている。つまり、本当に個人の問題なのか? という疑問だ。就職活動は求職者側の負担が妙に重い。だからこそ不満足な職に引っかかる人が多いのだと思う。本来なら労働環境や離職率などの情報は求職者に提供されているべきだろう*1。どう考えてもフツーの個人が調べることは難しいんだし。個人の限界を超えているのなら、それは社会の問題だ。だから本書のアドバイスを実行しても結果が出ない可能性もある。
 
 ケインズは拙訳『自己責任主義の終わり』のなかで、キリンの群れを例えに個人の能力に頼る社会のデメリットを説いている。高いところに葉をたくさんつける木と、それに群がるキリンを想像してほしい。キリンは努力してめいっぱい首をのばすだろう。その努力の甲斐あって首の長いキリンが肥え太る一方で、首の短いキリンは飢えていく。

 キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。


 もちろんケインズは個人の能力を否定しているわけではない。彼は、個人の能力や成功は運次第だ、と言っている(のだと思う)。たしかに能力のある人物は存在するが、両親から受け継いだ才能と、それを育てる境遇があればこそだ。100%自力で優秀になる人なんていない。ちょっとマシな参考書にであうのだって運が必要なんだから。
 
 就職氷河期を繰り返してしまうということは、僕たちが何でも個人の問題にすりかえてしまう悪癖に耽っているということでもある。首の短いキリンが飢えているのを見て、「短い首のヤツにはそのような運命がお似合いだ」と言えるだろうか。感情的にそれは難しいだろう。しかし現実の判断としては、僕たちは首が短いという理由で飢えゆくキリンを見捨てている。しかも、首が短ければ、つまりこの場合就職活動が下手ならば、能力が低いといえるのだろうか? という大きな疑問も放置したままだ。あと、能力が高いはずの人たちがどれほど社会に貢献しているのか? という疑問も。
 
 本書の後半部分はまさに、次のケインズの言葉をわかりやすく丁寧に説いているといえる。
 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。


 さらに本書には一生役に立つ就職活動のコツも書かれているのだから、1,400円(+税)は安いと思いますよ。ちなみに、本書後半の内容を詳しく知りたいときは同じ著者の『雇用大崩壊』をおすすめ。
 
*1:本来ハローワークってそのためにあるんでしょうけど、現状では右から来た求人を左の求職者に受け流してるだけに見えますよね。

2009年11月5日木曜日

運まかせ・書評・阿部彩『子どもの貧困—日本の不公平を考える』

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子どもの貧困
阿部彩
 日本の貧困率が話題になっている昨今、読んでみたのが本書、阿部彩著『子供の貧困—日本の不公平を考える』だ。2008年の11月に出た本だから、ちょうど一年前になる。正直に言って、冷静に読み進めるのが難しかった。僕自身、母子家庭で育ったので立場の弱い人に負担が集中してしまうことは経験的に知っていたつもりだったけど、なんというか、壮大な無関心が進行中なのだな、とガックリきた。著者があくまで慎重に、淡々と描く日本の子供たちの現状は、「自己責任」というフレーズでは隠しきれないほど深刻だ。
 
 本書で言う貧困とは相対的な貧困を指す。先日長妻大臣が取り上げた日本の貧困率と同じものだ。なので日本国内で所得の多少を比較して、中央値の50%に満たない所得の世帯は貧困、となる。この数字を使うと、他国の貧困とくらべればマシとかいわれそうだけど、著者のいうように、その社会の中では比較的貧しいということと、文化や社会を考慮せずとも絶対的に貧しいという状態というのは、それほどかけ離れたものではない。
いま、仮に、靴が買えず、裸足で学校に行かなければならない子どもが日本にいたとしよう。日本の一般市民のほとんどは、この子をみて「絶対的貧困」の状態にあると考えるだろう。しかし、もし、この子がアフリカの農村に住んでいるのであれば、その村の人々は、靴がないことを必ずしも「絶対的貧困」とは思わないかも知れない。つまり、「絶対的貧困」であっても、それを判断するには、その社会における「通常」と比較しているのであり、「相対的観点」を用いているのである。
[p.43]
とはいえ、もちろんこれは目安だ。相対貧困率は所得でみているから、働いていないけど現金をたっぷり貯め込んだ高齢者も、貧困にカウントされてしまう。でもそういうケースはそんなに多くないと思うが、やっぱり、ここからこっちが貧困、という線を日常生活の中で引くことは無理だ。でも、何かあるとすぐに「感じ方は人それぞれだから」と言って問題をなかったことにしてしまうのはもうやめたい。

 さて、本書では数多くの理不尽が描かれている。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ! といいたくなるような話ばかりだ。こんな状態でよく年金をネタに馬鹿騒ぎができたな、と率直に思う。
 
 例えば、若い夫婦がいて夫の所得だけでは子育てがままならないとしたら、この夫婦はどうするだろうか。おそらく妻も働きに出るだろう。そうすれば世帯としての所得は増えるからだ。あったりまえの足し算だ。しかし、日本ではこの足し算がぎりぎりでかろうじて成り立っているという有様なのだ。これは、ふたり親世帯において、共働きすることで貧困率がどの程度改善するか、というOECDの国際比較から言えることだ(本書第2章)。例えばアメリカの場合、ふたり親世帯で一人が働いている場合の貧困率が30%と異常に高いが、共働きの場合、10%を下回る。ドイツの場合、一人就業の場合は7~8%の貧困率、共働きの場合はそれが2~3%まで改善している。では日本はどうだろうか。一人就業の時は12.3%の貧困率で、共働きの時は10.6%だ。もうぎりっぎりなのだ。
 
 これは、女性、小さな子を持つ親、新卒ではない人たちが労働市場で差別を受けていることの現れだろう。ふたり親世帯でこの有様だから、片親世帯はさらに追い詰められている。シングルマザーの場合、子育ての時間を犠牲にしなければちゃんとした仕事にありつくことは不可能と言っていいだろう(勝間和代さんみたいな人はめったにいない)。僕の経験から言うと、やっぱり小学校高学年から中学生の間、母と過ごした時間はかなり少なかったし、とにかく断片的だった。あの状況でもし僕が幼児であったら彼女はどうしただろうと思うと、なかなかひやっとするものがある。さらに、両親が離婚すると母親が子供を引き取るケースが圧倒的に多いが、圧倒的に多くの父親が養育費を払わない。僕の父もそうだった。こうして立場の弱い人ほど負担が重くなっているのが日本の現状なのだ*1。
 
 こういう風に書くと、辛い境遇から社会的に成功した人の話がでてきたりするが、その成功者たちも統計の数字を改善させるほどには成功していないようなので、その能力や努力、忍耐力を使ってもらってもうちょっとナントカならないものだろうか。さらに言えば、親が常人以上の能力や努力や忍耐力がなければ貧困にぐっと近づいてしまうというのならば、子供の貧困問題の解決は運まかせになってしまう。実際には、小さな子供を抱えながらも共働きだったり片親であるなら、当然、人並み以上の努力をしていると思うけれど。
 
 本書はデータがとても充実しているので、是非手元においておきたい一冊だ。テレビや新聞であつかえる量ではないので、この本を読まなければ、余程専門的な本を読んでいない限り、日本子供たちの現状を知ることは難しいだろう。
 
 さらに、本書を読んだ後に、景気対策を重視する経済学者の意見に逆らうのもかなり難しくなっているだろう。なぜなら、著者の考える貧困対策と経済学者たちの考える景気対策が同じものだからだ。長めに引用しよう。(日本にとって重要なのは、)
「多くの」ではなく、「よい」就労である。「よい」の中には、収入がよいというだけではなく、「ディーセント」(decent = まっとうな)という意味も含まれる。母親も父親も、「まっとうな」時間に帰宅し、子育てを楽しみ、かつ、「まっとうな」給与が得られる仕事をもつという意味である。
 第2章にて指摘した問題を思い出してほしい。日本のふたり親世帯は、勤労者が一人の場合の貧困率はOECD平均を下回るものの、勤労者が二人の世帯(共働き世帯)の場合の貧困率は、勤労者一人の世帯と大きく変わらず、OECD平均の二倍以上となる。つまり女性(母親)の収入が貧困率の削減にほとんど役立っていないのである。ほかの国では、ふたり親世帯が共働きであると、貧困率が大きく減少する。日本の母子世帯の貧困率が突出しているのも同じ理由による。
 今の日本の労働市場には、「ディーセント・ジョブ」がどんどん少なくなってきている。男性にも、女性にも、「ディーセント・ジョブ」を増やすこと、これが子どもの貧困を抜本的に解決する最大の方法である。
[pp.228]

 この主張は、オバマ政権誕生のときに大統領経済諮問委員会(CEA)の議長に任命されたクリスティーナ・ローマー氏の主張と同じだ。以前、彼女の就任時のインタビューについてのエントリーを書いたけど、彼女も職の数だけではなく、その質が重要だ、と説いていた。クリスティーナ・ローマー氏といえば、大恐慌の研究で有名な経済学者だ。彼女は、大恐慌の原因をデフレとその対策の失敗とし、デフレ脱却のための金融政策の重要性を強く主張している(英語版Wikipediaの記事)。本書の著者と経済学者の主張の一致は、この問題が個々人の能力や努力によっては(つまり運まかせでは)、解決しないということを強く示唆しているのだろう。


*1: どこで読んだのか正確には思い出せないので名前はふせるけど、ある女性作家が「日本のシングルマザーたちの就業率が高いのは、働かなければ得られない満足感があるから」的なことを書いていて、ずいぶんと悔しく思ったことがある。今思えば、彼女のその言葉のおかげで、僕は機会費用の概念を受け入れやすくなったのかもしれない。悔しいのは変わらずだけど。

2009年7月12日日曜日

最低賃金を上げるという話

民主党が最低賃金を1,000円に上げるという政策を思いついちゃったそうだ。

実際に実行したとして、結果がどうなるかよくわからないけど、働くことにまつわるルールっていうのは、一部の人が異常に有利にならないようにする、というものであるべきだ。国民の力がフルに活かされることを目標にすれば、当然、各人の意欲を大事にする社会をつくらなきゃいけない。特権階級がいるような社会で健全なやる気を維持できる人は多くない。

そして今最賃を値上げするというのは、一部の人を有利にしてしまうと思う。たぶん高学歴の若者が一瞬有利になって、その後馬車馬のように無慈悲な働き方を強いられる。で、全体的には採用が減るだろうから、今まで通り、既得権をもつ正社員がさらに有利になって、また若者の負担が増えるんじゃないかな。

働く人の権利を守らないことに定評のあるアメリカで、労働者の年齢差別を禁止したり、履歴書に写真をのせなかったり(これは法律? 習慣?)することの意味を考えなきゃいけない。それをしてしまうと一部の人が有利になりすぎてしまうからだ。裏を返せば、他の一部の人たちに負担が集中してしまうということだ。日本に住んでいて、年齢とか見た目のことで理不尽を感じたことのない人なんていないはずだ。最賃をいじる前にするべきことがいくらでもあるでしょう。最賃を上げるのは人手不足になってからで十分だ。

2009年5月30日土曜日

失業率の悪化に思う


失業率が5%になった。

雇用情勢が急速に悪化している。4月の労働力調査では、完全失業率(季節調整値)が5.0%で、5年5カ月ぶりに5%台になった。

失業率の悪化は予想されていたので驚く様なことではないけれど、やっぱりいやなニュース。で、雇用対策用に15兆円の補正予算が通ったけど、なんだかなあ、という感じ。というのも、日本の1400兆円もあるらしい個人資産はどこいっちゃったわけ? と思うから。

為政者には、1400兆円の個人資産と金融政策と雇用をセットで見て欲しいと思う。貯蓄を取り崩すくらいなら借金したほうがマシってのは個人レベルではよく見られる不合理なんだそうだ。でも、個人ならその不合理のコスト(借金の金利)を支払うのは本人なわけだから、不合理な選択もまた自由、といえる*1。でも国家がそれをやると、借金のコストは国民全員で支払い、「貯蓄を取り崩さない」という利益は貯蓄している人たちだけが享受することになる。つまりお金のない人から、お金のある人に利益の移転が起きているわけだ*2。以前にも書いたけど、お金を貯めることにもリスクはある。そのリスクはお金を貯める人が負わなきゃいけないものだ。

街を歩いていると、人通りの多い場所なのに何年もシャッターをおろしている建物があったりする。東京の世田谷通りなんかでもそういう建物は結構ある。以前は、「勝手すぎるなあ」と思ってた。だっていくら自分の土地だからといって何年もシャッターをおろしっぱなしじゃあ、まわりのお店だって辛いでしょう、と考えてたから。今もそういう考えをもってはいるけれど、勝手というよりは、どうしたらいいかわからないのかな、と思うようになった。高齢化の一側面なんじゃないだろうか、と。

ものすごく頭のいい官僚が作ったものすごく複雑な政策ならばこういう状態を打破できるのか、といえば、そんなことはまったくないだろう。たぶん、人々の活動を活発にすることでしか変わっていかないんだと思う。だが現状維持のコストを他人に押し付けられる環境なら、人はそうしてしまう。

短期的には借金で雇用を支える必要もあるだろう。でも長期的には1400兆円の個人資産を活用するほか道はない*3。そのためには経済をインフレ基調にすべきだと、やっぱり思う。


*1:限度はあると思うけど。

*2:車買うためとか、2、3年の生活費とか、そういった貯蓄の話じゃないですよ。

*3:長期的な経済発展に疑問をお持ちの向きもありましょうが、だから何? ですよ。せめて資本が十分に活用されたのを見届けた上で、それ以上の発展があるかないか論じればよろしいんじゃないかしら。気が早い。

2009年5月18日月曜日

書評・ドナルド・R・キーオ『ビジネスで失敗する人の10の法則』

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ビジネスで
失敗する人の10の法則
ドナルド・R・キーオ
本書はコカ・コーラの元社長によるビジネスの指南書、なんだけど、タイトルにあるように、どうすれば成功するかを説明するのではなく、続けていれば失敗する行いについて語ったものだ。なので、ビジネスで失敗したければリスクをとるのをやめればいい、とか失敗したければ官僚組織を愛するべきである、というふうに語られるわけだ。もちろん皮肉でそういう表現を使っているんだけど、本書を読んでいくと、誰でも見覚えのあるような光景ばかり描かれているので、皮肉もいっそう痛烈に感じちゃったりする。

著者のドナルド・キーオは、本書が書かれた時に81歳。今も現役のビジネスマンだそうだ。「はじめに」で著者の経歴が語られているので詳しくは書かないけど、著者ほどのビジネス経験をもつ人は、まあ滅多にいない。なにせ世界最大級の企業の社長だったわけだから。にもかかわらず、かなりの数の読者が彼の主張に深く共感するんじゃないだろうか。とても滋養たっぷりの本です。

本書を紹介するのに最も適しているのが、「法則5 反則すれすれのところで戦う」だろう。要約すると、あなたがルールすれすれで仕事をしているのなら、短期的、時には長期的にさえ成功するかも知れないが、最期には惨めな敗北となるだろう、となる。

以前に書評したCharles Murrayの"Real Education"で著者のMurrayは、現在の大人達の倫理は崩壊している、と述べていた(たぶん。うろ覚え)。本書でキーオも同様のことをいっていて、教育政策の本とビジネス指南書が同じことを言うというのは面白い。もっとも、Murrayは倫理教育にかなり期待していたけど、キーオはどうも否定的であるようだ。

で、真っ先に思いつくのは、労働環境のことだ。本書でもこの法則を説明するときに、労働環境の悪さについてコカ・コーラ社で実際に起こったこと、そしてそれに対処したことが語られている。

日本の労働環境が一般に良いのか悪いのか、僕はよく知らない。ただ、個別には無茶苦茶な企業があることは知っている。もちろん、無茶な基準のルールならば、ルールに問題があるといえるだろう。が、そんな込み入った話じゃない。八百屋がカボチャを他所の畑からだまって持ってきて店に並べるようなことをしちゃいけないのと同様、労働力を利用したらその代金を払え、といっているだけだ。なのにその、ただ働きしない、させないという基本的なルールがまったく守られていない企業が存在する。しかもそういう企業は、長時間労働に耐えられないとなれば、たるんでるの甘えてるのと罵り、ルールを守らないどころか、守る人間をバカにするような態度を取り、恥じない。あまつさえ、己が正義であるかのように「最近の若者は」「自分の若い頃は」「労働とは」とくる。まさに外道。盗人猛々しいとはことことだ。

キーオは、第二次大戦時に傷病兵を収容する病院に勤務していたことから、人の弱さ、を知ったという。誰でも傷つけばひどく落ち込む。時に「急速にどこまでも [p.51]」。だから、

思いやりと敬意をもって他の人たちに接するのは、人として義務だというに止まらない。われわれ人類が生き残っていくために不可欠なのである。倫理を無視する人はしばらくの間、うまくいくことがありうるし、かなりの期間にわたってうまくいくこともある。しかし倫理感覚に欠け、謙虚さに欠けることから、いずれ失敗する。土台が腐っていれば、永続する強固な事業を築くことはできない。[p.51]

ある、毎年過労死でニュースになるような企業では(中の人に聞いた話だと)、最近経営者が交代して、過去半年分くらいの残業代を全部支払う、と社員に伝えてきたそうだ。その企業は社員に対して敬意なんか全然払ってこなかったけど赤字続きだった。ルール違反をしてもうまくいくことがある、とキーオがいうように、そういうことがあるというだけで、常に競争で有利ということもない。なのになぜ(もちろん僕を含めて)人々はわざわざ罪深い道を選ぶのか。ちなみに、中の人は今回の経営陣の判断を「ずるい」と評していた。口止め料のような感じがしたのだろう。結局敬意を払っていないのだ。

「わたしは企業経営に一生をかけてきたが、成功を保証できる法則や段階式の方法は、どんなことについてでも編み出せていない [p.15]」という81歳のおじいちゃんが書いた本書を読んで、強く思ったことがある。それは、人の一生は一つの価値観の善し悪しを検証するには短すぎる、ということだ。別に命の尊さに気づくのに70年かかる、と言いたいのじゃなくて、男は仕事が一番とか言って安い労働力をさらに買いたたく様な真似をして、自分が自分と他人にしてきたことを自覚するころには、もう手遅れなんじゃないのか、ということだ。自覚しながら同じことを続けるなんて事はできないだろうし、自覚したときはしがみついてきた価値観が崩壊したときで、しがみついてきたということは、人生のうち相当な時間をその価値観のために捧げてきたということだ。そこから、心機一転、新しい人生の幕開けだ! YATTA! なんて人がどれ程いるだろう。人は「急速にどこまでも」落ち込むのだ。そう考えると、人の一生は短い。

著者はドラッカーを引いて、

ピーター・ドラッカーはビジネス倫理などありえないと語っている。あるのは、限定のつかない倫理だけだと。自分の生活の中で、ビジネスと他の部分を分けることはできない。

と言っている。まことにその通りだと思う。(もちろん僕を含めて)多くの人は「仕事だから」という理由でやりすぎたりやらなすぎたりすることがあるけど、これは人生においてやるべきでないことをやり、やらなきゃいけないことをやっていないということなのだろう。

やっちゃいけないことをして、やらなきゃいけないことをやらないのだから、やっぱり「反則すれすれで戦う」と失敗するのだ。では、どうすればいいのか? 本書には「法則6 考えるのに時間を使わない」という章がある。「どうしても失敗したいのなら、考える時間をとらないことが不可欠だ。 [p.116]」 そういうことです。

繰り返すが本書は成功のための本じゃない。こうすれば失敗する、という本だ。しかし、それでも失敗がなくなる、なんてことはない。人は弱いものだし、みんなやってるから、というのはそう簡単に振り払える誘惑じゃない。「経営陣はまともに仕事をしていれば、時々は失敗することがある [p.116]」と著者は言うが、経営陣に限った話では無いだろう。それでもこの本が滋養たっぷりなのは、失敗をゼロにはできなくても、どのように生きるのかは選ぶことができる、と教えてくれるからだ。ルール違反に加担するかどうか、考える時間をとるかどうか、究極的には自分で選ぶことができる。自ら失敗を大きく深くする道を選べば、失敗は致命的になるだろう。だからこそ、本書は別の道を読者に勧めている。

2009年3月16日月曜日

書評・田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』

日銀の白川総裁が財政政策をファイナンスすると長期金利に悪影響、とか発言してた。これは「インフレいやん」ということなわけで、各国中銀がデフレと戦おうとしているときにまさかのインフレファイター宣言。そこにシビれ(ry

cover
雇用大崩壊
失業率10%時代の到来
田中秀臣
そんな日銀への疑問満載の日々に読んだのが田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』。タイトルがかなりセンセーショナルだけど中身はそういう煽るばかりの本とはちがう。日本の経済政策に対するセンセーショナルじゃない本当の不満がぎっちり詰め込まれていた。失業率10%時代とはつまり、1990年代から始まった就職氷河期の再来であり、その時社会にでた若者たち(通称ロスト・ジェネレーション)が貧困の連鎖の起点になりかけているように、再び若者が不景気の犠牲になる時代ということだ。

こう書いては失礼だけれども、意外にも読みやすかった。著者の本は何冊か読んでいるけれども、どれも経済学に興味のない人にすすめるにはちょっと難しいという印象があった(そういった人に向けて書かれているわけじゃなかったのかも)。今作も図があったほうが良いのでは? という箇所(双曲割引のところ。参照されているエインズリー『誘惑される意志』は僕も読んだけど、図があっても難しかった)があったりしたけど、文自体は平易だし、難解な用語が突然でてくることもない(これは一般向けとしてはとても優れたところだと思う)し、といって用語の説明が延々つづくということもないので集中しやすいと思う。あとインフレターゲットなどのリフレ政策はなにかと妙な議論を呼びがちだけど、そこはすっきりとクルーグマンがよく使っていた例え話(子守り組合の話)でまとめていて、焦点は書名どおり雇用に当てられていることが、この本の訴求力を強めている印象を受けた。

で、政治、正規・非正規雇用、通説の誤り、セーフティーネットのあり方、そして財政・金融政策と、この本の議論は多岐にわたるので個々の議論はじっさいに読んでいただくとして、この本の精神を最もよく表現している(と僕が思う)あとがきの一番最後の文章を引用しよう。

それ(不況中の増税議論:引用者)に対して本書では一貫して、現役で働いている人たちの環境を良くすることが政府の果たす務めであることを強調してきました。現役世代、特に若い世代の経済的貧困を解消することが、彼ら彼女らだけではなく、その後の世代にも、そして現在の高齢者にとっても利益になることなのです。その意味で、不況を克服する積極的な財政・金融政策を行う政府の役割は「大きい」のです。これが本当の意味での「大きな政府」の重要性だと私は思っています。


ここでいう「大きな政府」の意味、つまり将来とか過去の話ではなく、今困っている人を助けるために税金を使う(さらに借金もする)、ということがこの本の基底となっている。そこから経済政策を語った本なので、話題性だけでとりあげられがちな年金やニートなどの議論も、日本経済の一部として扱われるのであって、なにか現代社会の病理とか昔はよかった的などうしようもない話ではまったくない。まさにノーナンセンス。

cover
誘惑される意志
人はなぜ自滅的
行動をするのか
ジョージ・エインズリー
以前クルーグマンが「経済にはエネルギー保存の法則のようなものがあって、価値がどこかからわいて出たりしない」というようなことを言っていた。だから、例えば増税で財政の辻褄を合わせたところで、日本経済の内側で富が移動するだけで貧困が解消されたりはしない。むしろそんなことに時間をかけているうちに日本経済そのものが縮小していってしまう。この本ではそういった現状を、椅子とりゲームの椅子が減っていくと例えている。また、椅子が少ないことはなんだかんだ言って特定の層(若者)の不利益になっている。しかもその層の子供たちにまでその不利益が受け継がれそうになっている(彼らの経済状況では子供たちに進学や就職に充分なチャンスが与えることができない)。だから本書は椅子を増やす政策を実行せよと強く訴えている。

僕はこの本が多くの人に読まれてほしいと思う。僕はロス・ジェネど真ん中なので特にそう思う。おそらく「景気を良くしよう」という訴えに対しては「しっかりとした…、ムダのない…、責任ある…」といった反論めいたものがなされるのだろう。でも、問題なのは眼前の貧困なのであって理想や大義や過去や未来の話じゃない。プラクティカルに、ノーナンセンスに必要な政策が実行されることを願うばかり。

2008年9月15日月曜日

鍛える話

cover
"The Black Swan"
Nassim
N. Taleb
逆境は人を鍛えるか。一般的にいえるかどうかわからないけど、そういうケースもあるかもしれない。けど、一般的に言えないのならば、逆境が人を鍛えるという信念は捨てて、手を差し伸べるべきだろう。どのみちどんな人にも逆境は訪れるものなんだから。

Nassim N. Talebの"The Black Swan"を読み返していると、「厳しく鍛える」ことの意味を問う話が出てきた。本書に記されている例をまとめると、数十匹のネズミがいるとする。ニューヨークのNNT研究所ではこのネズミたちに微弱な放射線を当てて「厳しく鍛える」(そして街に放つ)。当然、数回の実験ののち、生き残ったネズミはわずかな数になる。さて、この生き残ったネズミは強く鍛え上げられた、と言えるだろうか。ニューヨークの街は新種のネズミに支配されるだろう、と言えるだろうか。もちろん言えないし、鍛え上げられてなどいない。むしろ弱っている。

cover
"Hare brain
Tortoise mind"
Guy Claxton
高いハードルを設定し、厳しい選別を経ることにもリスクはある。最近読んでいる本(Guy Claxton "Hare Brain Tortois Mind")は、人の意識と無意識の関係について書かれた本だが、そこでClaxtonは、意識を使うには多大なエネルギーが必要となるので、計算とか計画とか判断とか暗記とか、意識にむち打って使っていると、無意識(Claxtonは無意識が直観やインスピレーションの源泉であるとする)がお休みしてしまう、という。

脳についても、負荷がつづくと弱体化するということが言えるのだろう。知性のあるハエは早死にする、とかいうニュースを最近聞いたような気がするし。しかし、世の中「厳しくする」ことに正義を感じて正当化している大人が多い。その「正義」の矛先は立場の弱い人たちに向かうし、おまけにもう目的を見失っているからただの嫌がらせになってる。苦しんでいる人が周りにいると自分も苦しいと思うけども。あ、見て見ぬ振りすればいいのか。

2008年7月22日火曜日

ワークライフバランス

ワークライフバランスというと、「そんなことより一人前の社会人(とか職人とか)になれよ。泥のように10年働けとは言わないけどさ」的な嫌味?を聞くことがよくある。

一人前というのも随分曖昧で、人を裁く基準としてはおっかないことこの上ないけど、そもそも、一人前を実現するために、一人分の努力と根性と忍耐だけで済んでいたのか? と考えてしまう。

家事とか子育てとか、もちろん夫として父としても一人前なんですよね、わかります。それでいて奥さんの働きたい気持ちも尊重してきたんですよね、わかります。と嫌味を返したくなる。ま、「それはあいつ(奥さん)が望んだこと」なんですよね、自己責任ですよね、わかります。

この本なんか読むと、90年代初頭までの女性新入社員キツかったろうなあ、と思う。一人暮らしができないくらいの薄給で、しかも自腹でペン習字を習わなきゃいけない、って人間なめてんのか。一人前ってのはこういうことをするんですね、わかります。

そうやって一人前の男性を生み出し保護したところで、不景気には勝てなかったじゃないの。その程度の一人前ならば、父であること、夫であること、息子であることを、若い男性は望むだろうし、女性だって夫を一人前にするために自分の人生を投げ捨てるようなことはしない。

道は人に遠からず、っていうじゃない。人に出来ないことは、人の道から外れてる。女性を犠牲にして男性を一人前にするのは、もう出来ないことだ。もう人の道から外れてる。べつにおじさんが悪いってんじゃなくて、時代が変わったんですよ、ということでしょう。盛者必衰なんですから。

2008年6月16日月曜日

通り魔事件の反応

テレビのニュースは見ないし、新聞もとってないし、最近だとネットでニュースを仕入れるのも抑え目なので、雑感という以上のものにはならないけども。

聞こえてくる秋葉原の通り魔事件の反応に、事件とは別のイヤな気持ちを持った。

なんでも各地で派遣社員に対する扱いが変わってきているという。上司が以前より丁寧な口調で接してきたりするのだそうだ。

しかし、あのような卑劣な犯罪の為に僕たちが変わらなければならないというのは、なんだかとても屈辱的だ。こう書くと、「派遣なんて自業自得」、というふうにとられるのかもしれないけどそうではなくて、相手が派遣社員だろうが誰であろうが、人として尊重しないような態度は、通り魔と関係なく恥ずべき行為だ。それを社会的に(マスメディア的に?)注目され同情が生まれてるっぽくなると手のひら返しというのは、なんというかもう、本当にやりきれない。

職場での扱いがヒドくたって、将来が不安だったって、人は通り魔にはならない。でも、こういう反応をきくと、原因は派遣! と言いたくなるのも理解できる。

今回の件で態度を翻した上司たちは、こんなことがなければ正しい行為と恥ずべき行為の区別もつかないのだろうか。『あなたの職場のイヤな奴』問題というのは、本当に根が深く、かつ、影響の甚大な問題なのだと、改めて思う。
 

2008年6月5日木曜日

メインバンク

池田勇人エントリはちょっとお休み。

友達から聞いた話。非正規雇用の労働環境を改善する、あるいは正規雇用化するには企業が変わる事が必要で、そのためにはメインバンクの理解が欠かせない、らしい。

最近の何かの記事らしい。検索下手なので見つけられなかったです。なんでも、労働問題の専門家の記事らしいですよ。

それにしてもメインバンクですよ、こうなったら(?)。日本を陰で操るメインバンクですよ。官僚、銀行、ヤクザが牛耳っているんですよ、日本は。なので銀行さんにお願いして日本を変えてもらいましょうよ、そうしましょうよ。

独占禁止法にこんな箇所がある。「原則として他の国内の会社の議決権のうち、銀行については5%,保険業については10%を超えて、議決権を取得又は保有してはならない。」これはお金の貸し手が、借り手企業を意のままにしたりしないようにするための法律だ。果たして日本の銀行はこの法律の精神を踏み越えてまで企業経営に介入しているんだろうか。もしそうなら、この国は結局官僚と銀行とヤクザに牛耳られてるってことなんだろう。

ありもしないメインバンクの理解を得ても、何も解決しないんじゃないの? 専門家ってこわいね。

参考:三輪 芳朗、J.マーク ラムザイヤー『日本経済論の誤解』


いもしない専門家にむけて書いているような気がしてきたけど、まあいいや。