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2008年10月22日水曜日

マンガ『サナギさん』

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サナギさん
施川ユウキ
僕の大好きなマンガが終了しました。『サナギさん』です。作品の完結は残念。もっと読みたかった。

何がそんなに好きだったのか、作品が完結した今、改めて考えてみました。

ある本*1に、「不安は身体の中にいる一体の動物のようなモノだから、そいつが騒いだからといってパニックを起こすな」みたいなことが書いてありました。その文を読んで以降よく思うのが、「自分が不安を感じているときは、じっくり観察ができていない」ということです。不安を感じている時の僕は、人や出来事に点数を付けることに忙しく、何が起こっているのか全く見えていないのです。「そいつが騒いだからといってパニックを」起こしているというわけです。

サナギさんやフユちゃんならどうでしょう。彼女たちなら、仮に人より劣っていると感じたとしても、パニックを起こして自分より劣っている人を一生懸命探したりしないでしょうね。どう考えても。あの二人なら、そもそもの優劣の基準とやらがどれ程のものか、のんびり観察し始めるんじゃないでしょうか。

僕の好きな例え話に「黒い白鳥」*2があります。黒鳥の存在は、オーストラリアが発見されるまでヨーロッパ人には知られていませんでした。なので、そこでは「白鳥=白い」は当たり前のことだったわけです。もし「白くない白鳥がいるかもしれない説」を唱えようものなら、アホ扱いされたのは間違いなしです。でも黒鳥はそんな時代にだって生きていたわけですから、間違っているのは「白鳥は必ず白い」、という人のほうだったのです。この話は何が言いたいのかというと、たとえ1万羽の白い白鳥を見た事があったとしても、黒鳥が存在しない理由にはならない、ということです。

「白くない白鳥がいるかもしれない説」唱えまくりの世迷い言フレンズ・サナギさんとフユちゃんは、「世の中そんなもん」とか言っちゃう事のバカバカしさを教えてくれました。だから僕は、世の中をのんびり観察していこう、「白くない白鳥がいるかもしれない」と言い続けよう、と思うのです。ぴょんごりして死ぬその日まで。

追記(11/7):たまごまごさんに取り上げていただきました。リンク先は『サナギさん』ファンの色んな思いが集まったエントリーです。是非どうぞ。

*1  Laura Day "Welcome to your crisis"

*2  この話はナシーム・N・タレブ『まぐれ』、同じ著者の"The Black Swan"(未邦訳)に書かれています。追記(11/7):「つーかポパーだろ?」とのツッコミを直にいただく。はい、そのとおりでございます。この例え話のオリジナルはカール・ポパーです。でも読んだことないのでどの本に載っているのかは知りません。無学なワタクシ。

2008年9月15日月曜日

鍛える話

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"The Black Swan"
Nassim
N. Taleb
逆境は人を鍛えるか。一般的にいえるかどうかわからないけど、そういうケースもあるかもしれない。けど、一般的に言えないのならば、逆境が人を鍛えるという信念は捨てて、手を差し伸べるべきだろう。どのみちどんな人にも逆境は訪れるものなんだから。

Nassim N. Talebの"The Black Swan"を読み返していると、「厳しく鍛える」ことの意味を問う話が出てきた。本書に記されている例をまとめると、数十匹のネズミがいるとする。ニューヨークのNNT研究所ではこのネズミたちに微弱な放射線を当てて「厳しく鍛える」(そして街に放つ)。当然、数回の実験ののち、生き残ったネズミはわずかな数になる。さて、この生き残ったネズミは強く鍛え上げられた、と言えるだろうか。ニューヨークの街は新種のネズミに支配されるだろう、と言えるだろうか。もちろん言えないし、鍛え上げられてなどいない。むしろ弱っている。

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"Hare brain
Tortoise mind"
Guy Claxton
高いハードルを設定し、厳しい選別を経ることにもリスクはある。最近読んでいる本(Guy Claxton "Hare Brain Tortois Mind")は、人の意識と無意識の関係について書かれた本だが、そこでClaxtonは、意識を使うには多大なエネルギーが必要となるので、計算とか計画とか判断とか暗記とか、意識にむち打って使っていると、無意識(Claxtonは無意識が直観やインスピレーションの源泉であるとする)がお休みしてしまう、という。

脳についても、負荷がつづくと弱体化するということが言えるのだろう。知性のあるハエは早死にする、とかいうニュースを最近聞いたような気がするし。しかし、世の中「厳しくする」ことに正義を感じて正当化している大人が多い。その「正義」の矛先は立場の弱い人たちに向かうし、おまけにもう目的を見失っているからただの嫌がらせになってる。苦しんでいる人が周りにいると自分も苦しいと思うけども。あ、見て見ぬ振りすればいいのか。

2008年7月9日水曜日

偶然について

今Talebの"Fooled by Randomness"を原書で読み返している(邦訳は読んだ)のだけれど、あらためて、人は(僕は)確率を理解できるようにはできていないのだな、と痛感している。

「過去の出来事はいつだって偶然じゃないように思える。」

とタレブはいう。これは気持ちの問題とかじゃない。人は何を見ても、偶然の反対、つまり必然=因果関係がある、と感じてしまうということだ。

あるお金持ちが毎朝素っ裸でベッドメーキングをする癖があったとしよう。ここに因果関係を見てしまう。毎朝素っ裸でベッドメーキングをするからお金持ちになれたんだ、という風に。人が出来事を「偶然じゃないように」思うとはそういうことだ。

人は因果関係ねつ造マシーンだ。雨が降ったら雨男のせいにするし、若者が犯罪を犯したらゲームのせいにするし、受験に失敗したら努力不足のせいにするし(全員が受かるわけじゃないのに)、障害児が生まれれば母親の飲酒のせいにする(そうやって自分を責めてしまう人もいる)。悪いほうばかりじゃない。若い頃努力したから自分は今の身分にふさわしい(景気が良かったことは何の関係もない?)とか、自分は気をつけてるから交通事故には遭わない(交通事故はすべて自業自得なの?)とか。

たぶん偶然じゃないことというのは、かなり見分けにくいものなのだろう。一度きりの出来事の中で因果関係を特定できるなんてことは、よほど単純な出来事でない限り、無理なんじゃないだろうか。

それでも、僕は因果関係に気づいてしまう。ありもしない因果関係をでっち上げてしまう。

タレブの次の作品"The Black Swan"では、博識であることがこの度し難い人間の病に対する薬であるという。でっち上げ因果関係の答え合わせをした結果が、博識だといえるから。「こいつは雨男だ。だからこいつといると雨がよく降る」という因果関係の答え合わせをするのは簡単だ。天気に気をつければいい。でも、「女だから」「年だから」「日本人だから」「○○大学出身だから」「ゆとり世代だから」という因果関係の答え合わせはどうだろう。その人を虚心坦懐にみることができているだろうか。

そうやって時間をかけて観察していけば、やがて博識になるというわけだ。もしあなたの運がよければ正しい(かもしれない)因果関係を発見するかもしれない。でもその正しさを確認するには、また時間をかけて偶然とそうでないものを選り分けなきゃいけないわけだけど。

2008年3月12日水曜日

When you down and troubled.

なんとなく落ち込んでいて、nothing is going rightってな気分。友達? うーん。

こういうときはアランだ。でアラン『幸福論』。

ぱらぱらとめくって読んでみる。「25 予言」

占い師の話だ。占い師の言う事には耳を傾けない方がいい、ということ。

この世ではどんな出来事が起こるかわからない。だから、どんな強靭な判断力をも揺るがすような偶然の一致も起こる。あなたは不気味だが起こりそうもない予言を笑っている。でも、その予言が一部分でも成就したら、もう笑わないだろう。そうなったら、どんなに勇気のある人でも結果を見てからという気持ちになるだろう。われわれの不安というのは、だれでも知っているとおり、 破局そのものと同じようにわれわれを苦しめるものである。二人の予言者がお互い知らずに、同じことを予言することだってある。こういう一致にもかかわらず、あなたの知性の許す以上に、あなたを不安にしないなら、ぼくはあなたに脱帽する。

今、タレブの"The Black Swan"を(まだ)読んでいることもあって、実に腑に落ちる話だった(偶然でしょうけど)。アランはこのあと、重要な出来事は、どんなに賢くなったって予測できないんだから、人生のあれやこれやに未来を読み込まないで、目前のことだけ見ていればいい、というようなことを言う。

タレブは予測すんな、と言う。予測すると予測できなかったことが起こるので、当然予測してないからダメージでかいよ、と。それは予測しなくても同じなんじゃ? と思うけど、人間一度予測を立てればそれに沿って動くのは人情、予測を立てなかったときより無駄に資本を使っちゃう。だって「破局そのものと同じようにわれわれを苦しめる」んだもの。自分一人ならいいけど、組織となると無駄とか言ってられない。人的被害は埋め合わせできない。

「長期的には我々は皆、死んでいる」とは北斗の拳の名台詞じゃなくてケインズのお言葉でした。未来のことを考えれば不安になる(そうでなければ脱帽する)し、100年後には僕を含めて皆さんのほとんどが死んでいる。先の事ばっかり言ってないで今、景気対策を! リフレ政策を!

あれ? そんな話だったっけ?

2008年3月6日木曜日

you cannot intend to discover something not discovered

何の展望もなく始めたこのブログ。まだありません、展望。

展望があるというのは計画できる状態とも言える。計画は当然、未来予想を含むわけで、ええと、以下略。

タレブの例え話。

石器時代。あなたは上司に部族資本の今後の運用計画を作れ、と指示を受けました。あなたはクビになったら一人でマンモスと戦わなければならないので、「車輪の発明」を予測し、積極的な投資を提案しました。

発明や発見は予測できるのか。あなたは車輪がなんたるかを知っていなければ、「車輪の発明」を予測できない。予測した時点で、すでに発明はなされている。つまり未来の話じゃなくなっている。

展望の中に発見も発明もない。なので依然ノー展望で行きます。

2008年3月1日土曜日

Do not focus!

選択と集中。

選択と集中を迫られているような気がする。

行った事ないけどカジノにルーレットがあるわけですよ。カジノのルーレットには答えが必ずある。19とか赤とか。それでも一点買いなんてしないんじゃないかな、よくしらないけど。

ルーレットみたいに正解が必ずあるものに賭けるときだって集中は避けるでしょう? 僕なら避ける。なのに人生みたいなルーレット以上には複雑かもしれなくて、しかも全員不正解もあり得そうな勝負で一点買いはないよね。リスクでかすぎじゃん。不正解の結果が生卵一気飲みぐらいならいいけど、何かプレシャスなもの、何十年という時間とか健康とかをつぎ込んだ賭けだと目も当てられない。

大きな組織もそう。傾斜生産方式ってしない方がましだったんじゃないか、成功例が思い浮かばないんすけど。この前の戦争(WW2ね)だってそう。間違った選択があり得て、しかもその代償が大きすぎる時、何も選択しないってのもアリでしょう。たぶんサンクコストの誤謬*1が、過去の選択を侵してはいけないものに見せてしまうんだろう。

偉い(あるいは偉そうな)人たちは選択と集中が大事とかいうけど、実際に出来てるわけでも、出来たわけでもない。なのに僕たちに押し付けないでほしいなあ。


*1過ぎた時間も使った金も帰ってこない。だから今、最も妥当な選択をすべき。ということが見えなくなってしまうこと。『注文の多い料理店』に入ってしまったら、「せっかくここまで来たんだし」とか「やっと予約取れたし」とか言ってないでさっさと逃げ出しましょう。

confirmation bias

タレブのThe Black Swanを読んでますよ。

前置き。一個前のエントリで書いたおばあさんは怖くみえるってだけで、他意はないです。

で、タレブですよ。途中も途中、大途中なんだけど、The Black Swan、おもしろい。前作『まぐれ』よりもまとまってる? いやそうでもないかな? でも『まぐれ』と同じくらい好きになれるかも。その前に『まぐれ』を原書で読まねばね。

「自分は絶対に間違っていない」哲学。この哲学に寄り添って生きていくのは難しくない。自分の正しさを確認するのが、ものすごく、ものすごく簡単だからだ。この複雑な世界で、都合のいい証拠なんていくらでも見つかるから。

自分の推測(例えば「デキるヤツ」はカルピスが好きだ、とか)を確認するために情報を集めると、推測に反する情報(例えば、一度も働いたことのない叔父はカルピスしか飲まない、とか)には目もくれない。ただひたすら自分の推測に沿った情報ばかり集めて、カルピスを飲まない部下をいじめたりする。

実に罪作りな生き方だと思う。だって、何の根拠もないモノサシで可能性を否定してしまうのだから。そして残念ながら、僕たちが人間である以上、誰もがこの傾向(confirmation bias)を持っている。

『まぐれ』にも出てきたエピソードで、9/11のあと、WTCビルが「飛行機が激突しても大丈夫なビル」でなかったことに批判が起きたそうだ。一度事件が起こると、どんなに予想外だったことでも、予想できて当然だったかのように思えてしまうという、これも人間のもつバイアスの一つなのだろう。

思うに、予想外の出来事を予想外だと受け止めることができれば、confirmation biasからちょっとは自由になれるんじゃないだろうか。でも年取るとキツいよな、たぶん。経験もスキルとやらも役に立ちません、って(予想外にも)認めなきゃならないわけだし。でも認めようが認めまいが経験やスキルは役に立ってないと思うんだけどね。

ここまでThe Black Swanをよんで、この本を思い出した。

『ノンちゃんの冒険』

年金さんはあんましっていうかまったく根拠のない理由でノンちゃんに酷い事を言ったよね。

年金さんが言ったような酷い事ってたいてい、親とか教師とか上司とか目上の人から言われる。場合によっちゃあずっと引きずるような出来事だ(とくに親から言われると)。なんて因果*1な生き方だろう。

僕はカルピス大好きだから大丈夫だけどね(春待ち白桃サイコー!)。



*1ここで言った因果はplatonifyされてないと言いたい。だって傷つけたのも傷ついたのも嘘じゃないんだもの。って読んでない人には通じないな、コレ。