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2009年8月1日土曜日

集中すること、待つこと。書評なのかな? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その5(完)

承前:その4

ジョシュはまわりからのプレッシャーが増えていくなかで、ジャック・ケルアックの作品を通じて東洋思想に(いささかエキセントリックな)興味を抱き、やがて老子にであう。18歳の少年にとって、「老子は、物質的な欲求に対する自分の複雑な思いをほぐしてくれた[p.96]」という。

古代中国の思想をもっと学びたいという思いで、ジョシュはウィリアム・C・C・チェンという人の太極拳のクラスに入る。当初はテレビでよく見るようなゆったりした動きの訓練を受けていたのだが、その学びの早さと深さから、ジョシュはpush hand クラスへ入ることを勧められる。

push hand というのはどうやら投げ技が中心の格闘技のようだ。(参考動画)本書によると、大会は一日で行われ、ケガを負わずに勝ち進むのはかなり難しいのだそうだ。

心優しいチェス少年のジョシュがそんなものに挑戦するのもすでに驚きだが、彼は数年のうちに全米チャンピオン、そして世界チャンピオンになってしまうのだから、なんだかもうあきれてしまう。しかも自分の体重に比べて重い階級に挑んだというんだから。

太極拳のチャンピオンへの道はまるでドラゴンボールなんだけど、相変わらずジョシュは優しい青年のままだ。学ぶことが人の感情と密接に関わっているという、彼の心に深く根ざしたアイディアをもとに、彼は早く深く学ぶあり方を探っていく。

それは僕が読むところでは、強がったり悪ぶったり、世慣れた風を装ったり、知ったかぶりをしたりするようでは何も学べない、ということだ。そんなの当然だろ、と思ってしまうところに僕の浅はかさがあるんだなと痛感してます、ハイ。

より実践的には次の三つのステップで学習を深めていく。まずやる気をなくすような事が起きても真正面から対応したり、あるいは全否定したりしない。慌てない。感情を爆発させない。力を抜いて、やり過ごす手を考える。ちょっと顔でも洗って気分転換しよう。散歩するのもいい。

次に逆境を利用する。猛獣に立ち向かうような勇ましさではなく、逆境におかれた時にしかできないような事を考える。ジョシュの場合、利き腕である右腕を負傷してしまった時、ケガの治療に専念するのではなく、それと並行して、左腕一本で相手の攻撃を無効化する練習に取り組んだという。平常時ではなかなか思い切った特化というのは踏み切れないものだからこそ、逆境を利用しない手はない、というわけだ。

そして三つ目。それは己を知ること。自分が特に集中できた状況をよく観察して、その原因を知ること。そうすれば、自分にとって優れた環境を意図的に造り出すことができる。本書の例では、あるバスケットボール選手の場合、敵地でブーイングを浴びてると調子がいいことに気づき、相手チームのファンを挑発するような仕草をしたりするんだそうだ。これはたぶん、自分を刺激するストレスの種類を見分けよう、ということなんじゃないかと思う。時間的なプレッシャーだったり、怒りであったり、恐怖や不安であったり。感じてしまうと身動きが取れなくなるようなイヤなストレスは上手に避けて、良い刺激になるようなストレスを選びとっていくということなんだろう。ジョシュの示唆するところでは、何らかのかたちで緊急事態を連想させるような状況が、人をぐんと集中させクリエイティブな状態にさせるという。なので肉体的なストレス、空腹とか疲れとか、から探っていくといいかもしれない。

本書はジョシュのパーソナルな話と、プラクティカルな話の両方が上手く組み合わさっていて、読んでいてとても楽しかった。どちらの話にせよ、この書評もどきで扱ったものはほんの一部でしかないので、とても読み応えがあると思います。

最後にジョシュのいいやつっぷりが最も良くでてると僕が勝手に思ってる箇所を引用して、このだらだら書評を終えよう。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
My answer is to redefine the question. Not only do we have to be good at waiting, we have to love it. Because waiting is not waiting, it is life. Too many of us live without fully engaging our minds, waiting for that moment when our real lives begin. Years pass in boredom, but that is okay because when our true love comes around, or we discover our real calling, we will begin. Of course the sad truth is that if we are not present to the moment, our true love could come and go and we wouldn't even notice. And we will have become someone other than the you or I who would be able to embrace it. I believe an appreciation for simplicity, the everyday --the ability to dive deeply into the banal and discover life's hidden richness-- is where success, let alone happiness, emerges.

拙訳 ( )内はすべて引用者による。:
(突然大きなチャンスが訪れたらどうすればいいのかという疑問に対して)僕の答えは、質問をよく見直してみる、というものだ。僕たちは待つことが得意にならなきゃいけないだけじゃなく、愛さなくてもいけない。というのも、待つことは待つことじゃなくて、人生だから。僕たちの内の多くの人が、その精神を遊ばせたまま、本当の人生が始まるのを待っている。退屈のうちにいく年も過ぎていくが、それでいい。だって、本当の恋人に巡り会えた時に、あるいは天職を見つけ出した時に、僕たちの人生は始まるのだから。もちろん、残念な真実として、その決定的な瞬間に僕たちが居合わせなければ、生涯のパートナーはただ通り過ぎるだけだし、僕たちも気づくことさえないだろう。そして僕らは、その瞬間をものにした僕やあなたとは、ちがう人物になってしまっているだろう。それでも、僕はシンプリシティ(単純さ)に価値があると信ずる。平凡さのなかに深く潜って人生の隠された豊かさを発見する能力があれば、日常こそが成功とそして当然幸福が、現れる場所になる。

2009年7月27日月曜日

二つの道 書評じゃないよ・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その4

承前:その3

ストレスフルな状況に接したときに、自分の感情(怒りとか、つらい、寂しいという気持ちとか)を否定すべきではない、とジョシュはいう。そうではなくて、自分に対する攻撃的な要素を自分のために利用するべきであるという。が、彼自身認めるところだが、そんなことは簡単にはできない。

今日は、あの『ボビー・フィッシャーを探して』の少年がなぜチェスを辞めてしまったのか、という話。

ジョシュが16歳のとき、チェスプレイヤーとして次の二つの道のどちらかを選ぶことになった。それは、より攻撃的な戦い方を身につける道と、彼自身の持ち味をのばす道。
あの映画を見た人ならば、ここで不思議に思うだろう。そんなの決まっているじゃないか。選ぶ必要なんかない。ジョシュはジョシュらしく戦うことで勝利してきたんじゃないか。

映画のなかで、ジョシュの母はとても賢く愛情深い女性として描かれているけれど、本書によれば、彼女、ボニー・ウェイツキンはそれ以上の人物であるようだ。

彼女は動物たちと瞬間的に仲良くなってしまうムツゴロウさんのような人でもあるらしい。田舎に旅行した時の話で、牧場の人は馬がおびえたり騒いだりしていると、ボニーを呼んでなだめてもらうのだそうだ。

ボニーによると、馬をなつける方法は二つあるという。一つは馬が逃げないようにロープでつなぎ、馬が我を忘れるような騒音をたてて脅す。馬はやがて疲れきって服従するようになる。「衝撃と畏怖」と呼ばれる方法だ。

もう一つは馬と正面から対峙することなく、やさしくなでる。食べ物をあたえる。毛繕いをする。やがて馬はなれてきて、あなたを好きになる。馬の魂を壊さずに、馬を、時には成長しきった馬でさえも、そうやって手なずけることができる。こうしてできた人と馬の関係では、個性が塗りつぶされるというようなことはない。

にもかかわらず、ジョシュのチェスプレイヤーとしてのキャリアは、「衝撃と畏怖」の道を行くことになる。あの映画の反響が、ジョシュとそのまわりの人々にそのような選択を迫った部分もあるようだ。そしてその結果ジョシュは、「競技者としての重力の中心を失った(I lost my center of gravity as a competitor.)[p.87]」のだった。

つづき:その5

2009年7月17日金曜日

書評? Josh Waitzkin "The Art of Learning" その3

承前:その2

もう書評じゃないよなあ。今回は太極拳の話に行く前に、ジョシュの転機になった出来事についてです。

インドでのチェスの大会の時、ジョシュは16歳なのだが、大事な試合中に突然、地震にみまわれる。まわりの人々は急いで建物から出て行ったが、ジョシュはそこに残り、どうすれば勝利できるのか考えていたという。

その時の様子を、彼は次のように語る。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
Everything started to shake and the lights went out. The rafters exploded with noise, people ran out of the building. I sat still. I knew what was happening, but I experienced it from within the ches position. There was a surreal synergy of me and no me, pure thought and the awareness of a thinker ---I wasn't me looking at the chess position, but I was aware of myself and the shaking world from within the serenity of pure engagement--- and then I solved the shess problem. Somehow the earthquake and the dying lights spurred me to revelation. I had a crystallization of thought, resurfaced, and vacated the trembling playing room. When I returned and play resumed, I immediately made my move and went on to win the game. [p.53]

拙訳:建物が揺れはじめ、明かりが全て消えた。屋根の木材がものすごい音をたてていて、人々は建物の外へ逃げ出した。僕はじっと座っているだけだった。何が起きているのかちゃんとわかっていた。でも僕は地震をチェスの駒の配置の中から感じていたのだった。それは僕と僕でないもの(純粋な思考と、思考するものの気づき)の非現実的なシナジーだった。僕はチェス盤を眺めている僕ではなく、純粋な没頭の持つ静けさの中から、自分自身と地震で揺れている世界を認識していた。理由はどうあれ、地震とそれに続いて明かりが消えたことが刺激となって、僕は啓示を受けたのだった。僕は水晶のように明晰な思考に入り込んでいたけれど、我に返り、まだ揺れている会場を後にした。そして試合が再開されると、僕は席に座り、すぐさま一手打ち、一気に勝利した。


なんだかスーパーサイヤ人誕生! みたいなシーンだけども、ジョシュは自分の意志でこのときの明晰な状態に入れるようになりたい、と考えた。そのために「気をそらすもの」に対処しなければならないのだが、ジョシュの経験した地震はそうとうに大きな「気をそらすもの」なわけだ。にも関わらず、ジョシュは心をクリエイティブな状態に保っていた。つまりジョシュの発見は、「気をそらすもの」への対処の仕方によって、人のパフォーマンスは劇的に変化する、ということだ。喫茶店でおばちゃんが騒いでて本に集中できない、バイクの音がうるさくて勉強が続かない、というようなことから、大きい地震がきているのにトップレベルのチェスの試合に勝ってしまう、というようなことまで変化の幅は大きい。

そうしてスーパーサイヤ人になるためのロードマップをジョシュは示しているのだが、それによると、まず何が起きても(作業なり何なりを)続けられるようになり、その後に、何が起きてもそれを自分の有利なものにしてしまえるようになり、最後に、完全に充足した状態で自分で何かを起こして、それを刺激にクリエイティブな状態になれる、という。

さあ、だんだんアヤシクなってきましたね。つづきます。

つづき:その4

2009年7月9日木曜日

書評・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その2

承前:その1

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
映画のヒットで、ジョシュは一夜にしてセレブの仲間入りを果たした。チェスの大会に出れば人だかりができて、女の子が電話番号を書いた紙をわたしてくる。フツーの高校生なら有頂天になって我を忘れてしまうところだが、幼い頃からチェスを愛してやまない彼だから、ミーハーな注目を集めてしまうことは、対処しなきゃいけない大きなノイズではあったが、自分を見失うということはなかったようだ。

本書によれば、トップレベルのチェスの世界とは何かとおっかないトコロのようで、試合中、対戦相手の気をそらすために、色々仕掛けるプレイヤーも多いんだそうだ。例えば、映画でも描かれていたけど、先手がなかなか試合を始めなかったりしていた。ジョシュがローティーンのころにソ連が崩壊して、ロシアから亡命してきたチェスプレイヤーが多かったそうで、中でも子供達はチェスのコーチとともにアメリカにわたってきていたという。彼らは独特なワザを多く持っていたそうだ。例えば、試合中にロシア語で何かを言う。コーチとロシア語で何か話す。机の下で相手の足を蹴る、等々。一度、ジョシュとロシア出身のプレイヤーがアメリカ代表としてインドの大会に参加した時、他国からアメリカへの抗議が殺到したそうだ。

もちろんジョシュはそういった戦い方を嫌ったが、対戦相手がそうである以上、何か対策を練らなければならなかった。そしてこの「気をそらすもの」との戦いが、本書の最大のテーマである。つまり『ボビー・フィッシャーを探して』という映画の成功は、ジョシュに一層の「気をそらすもの」対策への傾倒を迫ったわけだ。

そのうちにジョシュは、普段以上の集中力が発揮される瞬間に気づく。それは「気をそらすもの」にどう対処するかによって現れたり消えたりする異常な集中力だった。気をそらされる、というのは、どうやら自分の感情やあり方と深く関わっている、とジョシュは考えた。そしてその頃、彼は太極拳とであう。

つづく

追記:書きました。その3

2009年7月5日日曜日

書評・Josh Waitzkin "The Art of Learning" その1

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ボビー・フィッシャー
を探して
『ボビー・フィッシャーを探して』という映画をみて、とても面白かったので、登場人物のその後が知りたくなった。映画はある実在の天才チェス少年の話で、その父親が書いた同名の本("Searching for Bobby Fisher")が原作だ。タイトルのボビー・フィッシャーはチェスの名人。奇行で有名な人だったそうだ。映画に出てくるわけじゃなくて、彼のエピソードが少年によって語られるだけだ。それでもタイトルに出てくるのは、少年がボビー・フィッシャーの再来であると期待されていたから。少年が周囲の期待にどう反応するか、というのがこの映画の見所だろう。

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
その少年がジョシュ・ウェイツキン。これから書評しようとする本"The Art of Learning"の著者だ。彼は21歳以下の全米チャンピオンに8回なった。その彼にとって上述の映画はとても重要な役割をもっている。映画はアメリカ本国でかなりヒットしたそうだが、そのことが、ジョシュのチェスプレイヤーとしての人生に大きく影響することになった。映画はジョシュが6歳から8歳くらいまでをえがいているが、封切られた時、彼は高校生だったそうだ。

著者のことを、僕はあたりまえのようにジョシュと書いてるけど、彼にはそうさせる魅力がある。とてもやさしいのだ。『ボビー・フィッシャーを探して』は、彼の優しさについての映画でもある。

本書"The Art of Learning"のタイトルは、おそらく孫氏の兵法"The Art of War"をもじってつけられたんだと思うけど、タイトル通り、学習法についての本だ。でも、ジョシュの人生についても多くページを割いている。

チェスも将棋もわからない僕が本書を手に取ったのは映画のジョシュがあまりに素敵な人物であったからだが、一読してみて驚いたのは、彼がすでにチェスを辞めていたことだ。

もちろん、個人的にはプレイしているんだと思うけど、大会に出てタイトルを争ったりはもうしていない。そしてそのきっかけが、あの映画だったという。

その2へつづく

2009年6月27日土曜日

詩人のように考える "Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ その3

(その3とありますが、一応このエントリだけで読めるように書いたつもりです。
とはいえ
その1
その2 d-modeとはなにか


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Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
Guy Claxton"Hare brain, Tortoise mind"(以下HBTM)という本について、今年の始めに二つのエントリを書いたのだけど、で、五回ぐらいつづきます、みたいなことを言っておきながら半年放置してたのを再開。でも今回で終わりです。だってあの本の英語にもう一回挑む気にはならないんだもの。丁度なくしたと思ってたメモが出てきたのでそれを基にHBTM最終回です。

で、ちょっとおさらい。人の脳は、いわゆる論理的な能力に関して、あまりすごくない。世の中の複雑さに対して、人間が理解できる程度の論理はあんまり力を持ってない。物理学とか数学に比べ、経済学がいまいち結果を出せないのもそのためだろう。対象が複雑すぎる。で、すごくないだけならともかく、そのすごくない論理的な能力を頑張って使っていると、他の能力のリソースまで喰ってしまうので、脳的に全方位すごくない状態に陥ってしまう。脳にとって得意なことをさせずに苦手なことばかりやらせるのだから、意識の上でも日々が辛いものになっていく。このあんまりすごくない論理的な能力を、本書ではd-modeと呼んでいる。deliberation(熟考)、default(初期値)のdからとられている。つまり熟考したり、何か問題が起きた時にそのまま真っ正面から取り組んだりすると、d-modeが脳をコントロールしている、ということだ。

d-modeの主な特徴として、結論を急ぐ、曖昧さや複雑さを嫌う、言葉にひっぱられる(例えば男という言葉。「男のくせに」とかd-modeは言ってしまう。本人を見てない)、上手く説明がつけば事実はどうでもいい(例えば、アイツがひどい目にあったのは前世で悪い事をしたから、とか)など、人としてろくでもないところが目立つ。最後のやつはどこが論理的なんだ、と言われそうだけど、次の特徴を考えると納得できるかもしれない。それは、完璧な情報があれば事態は完全に説明できる、と思い込んでいる、という特徴。前世の行動が現世に影響すると確認できれば、不幸の原因は特定できるわけで、これは十分論理的だ。が、問題はそんなことは確認できない、ということだ。にもかかわらず、d-modeは「もし前世の行動が現世に影響するならば」という前提に固執してしまう。そして結論を出してしまう。どうも人の差別感情は結論を急ぐ、というところからきている様な気さえしてくる。

d-modeは意識にだいぶ近いが、意識により遠い機能をHBTMではundermindと呼んでいる。無意識と言ってもいいと思うが、もっとオートマティックな感じなんだと思う。コンピューターでいうと、ユーザーが見る事のないバックグラウンドで情報を処理しているような現象を、著者はこの語で指しているようだ。

そして、d-modeは速い。すぐ結論を出したがるし、実際に出してしまう。ということでウサギさんに例えられてる。undermindは亀だ。遅い。小学校時代の記憶と昨日のコロッケが突然結びついて感情がわき上がったりする。どんだけ遅いのかと。で、ま、このウサギさんと亀さんのバランスが大事ですよね、という話なのだけど、現代社会では圧倒的にウサギさんが重要視されているのは問題です、とそうなるわけだ。まあよくあるといえばよくある話。

で、今回はどうしたら亀さんに活躍の場を与える事ができるのか、その方法を考える、ということでした。「詩人のように考える」その方法は、実にカンタン、だって脳の得意なことだから。それは、ただ待つ、だそうだ。ただじっと待つ。

d-modeにコントロールされている状態だと、人はすぐに確実さを求めるが、人が理解できる確実さなど世界の複雑さの前では何の根拠にもならない。確実=みんながそうだから、なんてこともよくある。確実=いままでそうだった、これもすごく多い。これについてはN・タレブ『ブラックスワン』をどうぞ。翻訳は読んでないけど(高すぎる*1)、人の論理的能力の限界がよくわかる本ですよ。

効率よく確実だと思う選択をしても、間違った答えを出してしまえば問題は解決しない。あたりまえ。著者が繰り返しているのだけど、まともなアイディアが生まれるには、それがどんなに突然の天啓のように思えても、時間がかかる、ということだ。まるで妊娠期間のように、アイディアやソリューションにはじっとしている時間が必要なのだ。

では、ただ待つ事がなぜ新しいアイディアや問題解決のひらめきにつながるのか。このことについては著者はかなり細かく説明しているので、僕のd-modeを使ってまとめるのは難しい。それでもざっくり言ってしまうと、問題の解決に意識の焦点を強くあてると、d-modeが思考の主導権を握る事になる。d-modeは効率を重視するので、「馴れた考え方」に沿って問題を扱おうとする。そしてそのこと自体が「馴れ」をさらに深化させてしてしまうので、d-modeを使っている限り、いつまでも同じ考えをぐるぐる巡らすことになってしまう。考えすぎは良くない、というのは誰しも経験していると思うが、その説明になっていると思う。

ひるがえって、ただじっと待つ時、人は何にも焦点をあわせないので、「馴れた考え方」にはまってしまうことはない。が、それだけではアイディアは生まれてこない。新しいアイディアは、今まで脳の中で無関係だった情報同士が、新たにつながる事で生まれると考えられる。そのためには刺激が必要なのだ。

刺激といっても奔放な性体験とかそういうことじゃなくて、一年前に観た内容も覚えていない映画の漠然とした印象とか、友達から借りパクしたゲームの思い出とかそんなことだ。さっき読んだ本の細かい内容が今意識的に思い出せないからといって(あるいは、d-modeで扱う事ができないからといって)、その情報が頭の中から消えてしまったわけじゃない。意識できなくても脳はundermindで情報を処理している。そしてそういった事に思いを巡らすことが刺激になるのだ。ただし焦点を絞りすぎない(low-focus)状態で。

この状態はただ待つ、というよりも、瞑想している、といったほうがいいのかも知れない。瞑想のことは(も)よく知らないが、その方法として、follow one's breathということばをよく見かける(気がする)。どういうことかというと、ゆったりと座って、自分の呼吸に集中する。吸ってるなー、とか、はいてるぜー、とか。するとそのうちに、先週定食屋で食べた鮭がおいしかったなあとか思ってたりする。それはそれで思考を遮ったりせずにしていると、やがて思考がおとなしくなるので、また呼吸に集中する。これの繰り返し。座禅もこんな感じなんじゃないのかな? と勝手に思ってます。

この方法だと著者のいう「詩人のように考える」ことになるんじゃないかと思う。著者は、編み物とかがいいよ、と言っている。ぼうっとすることが重要なんだよ、ともいってるけど、そうしているつもりでも、すぐに世界のあら探しをてしまうのがd-modeの特徴でもある。あと、テレビをぼうっと観ることも著者はすすめているけど、コチラの本(池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』)によると、テレビを観てても人はぼうっとしてないみたいです。まあ十年以上前の本ですからその後わかったこともあるんでしょう。


*1:上下巻で一冊1,890円。高すぎる本をおすすめするのも何だか変なので、タレブの前著『まぐれ』もおすすめします。

2009年3月23日月曜日

書評・Charles Murray "Real Education"

(2010年3月14日に文章を少し修正しました。)

なんか書評ばっかりだけど、ま。おもしろい本、というかなんだろう。Charles Murray "Real Education"という本。

コチラのブログに素晴らしい記事があるので、続編も含めて是非どうぞ。

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Real Education
Charles Murray
本書はIQ=いわゆる学力とその人の全体的な能力には相関があるよ、という著者の以前からの主張を基に、現代アメリカの教育制度の問題点を語った本だ。計量心理学、サイコメトリクスというのは日本ではあまり聞かないけど、統計を基にした心理学ってことですよね? んで、IQの話となると荒れがちになるのはどこでも同じで、この本もその点にはかなり配慮をしていて、「IQが高い=能力が高い」というのは統計的な話なので例外はいくらでもあるし、IQが高いから偉いとかそういう話ではなくてある種のタスクに向いているということであって、運動能力や手先の器用さ、音楽の才能などと同列の「向き不向き」の一つであるとしている。

また、ここでいうIQが高いというのは上から10%の人々のことを指し、ごく少数の選抜されたエリートという意味じゃない。つまりどこにでもいるちょっと目端の利く人といったところ。

で、著者の言う教育制度の問題点は、この「向き不向き」を無視したところにあるという。それは、例えば僕には身体能力的に絶対に無理なバク宙をやらせるようなもので、そんなものは「やればできる」とか「チャレンジすることに意味がある」的な言葉でごまかした辱めでしかない。さらに本書にある例をあげると、かけ算ならばほとんどの生徒が習得できるが、微分積分となると三分の一の生徒しか習得できないという。残りの三分の二の生徒は努力をしても微分積分を使いこなすのは相当に難しいし、また努力の甲斐あってハイレベルなクラスに進学できたとしても、少しの労力で理解できる生徒と共に過ごす時間が増えるわけだから、彼らに追いつくためだけでも更なる努力が必要だし、もちろん彼ら程優れた結果は出せないし、「自分はできる」という満足感も得られなくなっていく、という。この「向き不向き」を無視した努力が本人を幸せにするのか、というのがこの本の出発点といっていいと思う。この本は学業に向いている人々をメインに扱っているが、常に「向き不向き」が問題になっている。だから学業以外のことに向いている人々には彼らに相応しい教育制度(職業教育を含め、より実践的なもの)が必要であって、不向きなことをやらせて低い評価を与えるなんてことをしている場合じゃない、としている。

で、学業に向いている人々は複雑な問題を扱うことに向いているので、放っておいても組織の運営に関わる地位に就いていく。その組織のというのは地元のボランティア組織から企業、国家にまで多岐にわたる。つまり学業に向いている人々が文化的社会的に直接的な影響力を持っている、ということになる。なぜなら、彼らがスケジュールをたててリソースの分配をし、新聞記事を書き、テレビ番組を作り、法案を準備したりするわけだからその影響力はかなりのものだろう。

そこでMurrayは、彼らは本人の努力でもなんでもなく不当に高いIQをもって生まれたのだから、現状のような事実上の特権*1なんぞを与えるのではなく倫理的な使命を負わせるべきだという。今の大学生たちはおおむね優しくて良い子たちだが、現在の教育システムを通して「みてみぬふり」という態度を身につけてしまっている。そのことが、基本的には善良だが肝心な時に無責任な態度を見せてしまう大人を作っている。

で、どうすりゃいいのよってなるわけだが、その前に、どうしちゃいけないのか、ということが書いてある。自分に自信がないので云々というのはよく聞くが、じゃあ自信があるとあなたの秘められた能力が開花するの? という一瞬まごついてしまう疑問を著者は投げかけている*2。僕も、そして僕の友人たちも、まあ自信からはほど遠い人生を送っているし、たしかに自信が持てればなあ、と思うこともある。が、最近の研究の示唆するところは、高い自己評価は、心理的な健全さ、学問的な成果、収入のどれとも関わりがないっぽいよ、ということだそうだ。だから子供たちの自己評価を高めるためになにかする必要はないよ、ということ。

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夏目友人帳
緑川ゆき
安心しました? はい、僕はなんか安心しました。だってどうやったって自分に自信は持てないなあ、と思ってたから。で、この高い自己評価についての箇所を読んで思ったのが、『夏目友人帳』というマンガで、ある登場人物が高校生の主人公に向かっていう言葉。「何を焦っているのか知らないが、無茶をしたって人は強くならない。まずは自分を知ることだ」 確かになー。自信よりも自覚が重要なんだよなー。

で、どうすりゃいいのよってことでした。答えは簡単、倫理教育。学業に向いている人たちに特別コースをもうけて倫理を教えろ、と著者は言う。うー、僕としてはここで疑問がある。倫理なんて教えられるのか? 権威にひれ伏すなと権威を使って教える? ここでポパーを引用しよう。長いけど。


これ [教育制度による選抜をポパーが批判したこと:引用者] は政治上の制度主義の批判ではない。それは以前に言ったこと、われわれは当然最善の指導者を得るように努力すべきではあるが、常に最悪の指導者に備えるべきであるということを追認しているに過ぎない。だがそれは制度、とくに教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能な課題を追わせようとする傾向に対する批判である。このようなことは決して制度の課題とされるべきではない。このような傾向は教育体系を競争場に変え、学科課程を障害物競走に変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますのではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければならない障害を越すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。換言すれば、科学の分野においてさえも、我々の選抜の方式というものは、やや粗野な形の個人的野心への呼びかけに基づいているのである(熱心な学生が仲間から疑いの目で見られるというのもこの呼びかけに対する自然な反応である)。知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥れるのである。

カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』p.138

で、文科省が倫理教育のカリキュラムを決めるとかやっぱむりだよ、と思うのだ。それとこの本全体に言えることなんだけど、長い時間をかけた人の成長をあまり考慮に入れていない。これはおそらく統計的に把握しずらい現象だからかなと思う。そしてそれ故に、IQですべてが決まると主張している、という印象を抱かせているのだろう。ただ一カ所だけ、「たとえ学業にとても秀でた子でも、高校を卒業してすぐに大学に入るのは正しい選択ではないかも」みたいなことは言っていて、著者が人の成長に鈍感であるというわけではないようだ。あくまで統計的に観察できることをベースに考えるということなんだろう。

なので、Murrayがいう倫理教育というのはもっと基礎的なことであって、ポパーが心配するような「知性の生命」の危機とか権威云々とかそういう事ではないのかもしれない。もっと統計的に観察できるような汎用性のある倫理教育の事なのかもしれない。そしてMurrayの自信は次のアリストテレスの考え方が倫理教育を押し進める最大の原動力になるという確信から来ている。それは「人生の最も根源的な喜びの一つは、己の能力を自覚し発揮することである」というもの。つまり学業に向いている人々は倫理的な生き方を模索することに「向いている」しそれを楽しむだろうということだ。

IQの事もあって、かなり否定的に受け止められるだろう本書だけど、僕は妙に納得してしまった。倫理教育への疑問はあるけど、「向き不向き」とそれを無視した努力の悲劇は、あまり他人事じゃないなあと思ったり。努力家の負のオーラに巻き込まれてしまうこともよくあるし。

「学力低下が問題だ」と言う人はたぶん学業に向いている人たちなんでしょう。だから学業には向いていない人々の違和感が分からないんじゃないだろうか。本書はその違和感、「自分には絶対にできないと分かっていることをなぜやらなきゃならないのか」という違和感を伝えるために、具体的なテスト問題とその解説をしたりもしている。そんなこんなで、自覚を促されるような、そんな本でした。文は読みやすかったです。難しい単語も少ないし。


*1: 著者は、現状では学業に向いていることが有利になりすぎているという。例えば、その職種と学歴に本当になにか関係があるの? みたいな場面でも学歴が重要視されたり、複雑すぎて多くの市民が利用を諦めてしまう制度など。

*2: そんなにはっきりとは投げかけてないです。ちょっと大げさに書きました。

2009年1月5日月曜日

"Hare brain, Tortoise mind"を読んだ その2 d-modeとは何か

(1/7 一部表現、タイポを修正しました。)

続きものです:その1

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Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
さて、Claxtonが言うundermindは無意識と同様に、脳に実体があるわけじゃなくて、機能というかそういう働きを結果的にしている現象みたいなことなんでしょう。彼の言うd-modeのスイッチが入ると、undermindが十分に働かず、人は自分を見失ってしまうのだという。

で、人が意識できる意識という感じのd-modeは一体どんなもので、何故これが現代人の人生への不満のもとなんだろうか。今回はd-modeの特徴をまとめてみる。以下は7ページから12ページに載ってます。

長いので、始めに要約してしまうと、d-modeは計画や計算や分析をする機能であり、言葉にならない想いや状況を極端に嫌う、ということのようだ。では具体的に見ていこう。

D-mode is much more interested in finding answers and solutions than in examining the questions.

試訳:d-modeは問題を検証するよりも答えを見つけることを優先する。


結論に飛びついてしまう。手近な言い訳で納得してしまう。よくあります。

D-mode treats perception as unproblematic.

試訳:d-modeは感じたことを事実として扱う。


自分が抱いた印象を事実であるとして疑わない。もっとよく見てみれば事実は別のかたちをしているかもしれないけど、よく見ないで決めてしまう。戦国武将の思惑を語る人、みたいな。

D-mode sees conscious, articulate understanding as the essential basis for action, and thought as the essential problem-solving tool.

試訳:d-modeは、物事の意識的で明確な理解が行動や思考に欠かせない基礎であり、問題解決にとって不可欠な道具である、とする。


ここだけ読むと、そりゃそうだろ、と思うのだけれど、要は「方程式とフローチャートと難しい専門用語」を駆使すれば何でも出来る、という態度のことだそうだ。仮説を検証せずに突っ走ってしまう状態*1

D-mode values explanation over observation, and is more concerned about 'why' than 'what'.

試訳:d-modeは観察より説明に価値をおく。そして「何」よりも「なぜ」に関心を持つ。


何が起こっているのかよりも、その理由を知りたがる。そして言葉で表現できるものにこだわる。言葉で表現の難しいものは、ハナから存在しないものと見なす。

D-mode likes explanations and plans that are 'reasonable' and justifiable, rather than intuitive.

試訳:d-modeが好む説明や計画というのは、「合理的」で正当化ができるものであって直感的なものではない。


簡単に言えば、○○博士が言ってました、と付け加えると、ぐっと説得力が増す、ということ。

D-mode seeks and prefers clarity, and neither likes nor values confusion.

試訳:d-modeは明快さを求め選び取る。が、混乱を好むことも意味の有るものとすることもない。


つまり試行錯誤を好まない。問題を把握し、分析し、解決する。寄り道も、新奇な道も避ける。○○博士がやった通りに進む。

D-mode operates with a sense of urgency and impatience.

試訳:d-modeが活動している時は、時間が無いような、待っていられないような感覚が伴う。


自分にとって重要ではない、と感じていると、さっさと答えをだそうとしてイラついてしまう。問題は自分にとって何が重要なのか、そう簡単にはわからないってことだろう。だからd-modeは僕たちに、いつだって「どんな種類の苦境」でももたらすことができる。複雑な問題にも安易な答えを要求してしまうというのは、たとえば、政治家=悪、みたいな単純なものの見方をしてしまうということだろう。

D-mode is porposeful and effortful rather than playful.

試訳:d-modeは意志が強く、努力型である。遊び心とかは無い。


こうして見ていくと、d-modeには一般的に言われる長所が多いな、と思う。が、この意志が強く努力型、というのも常に時間に追われている感覚があるからこそ生まれた特徴なのだという。つまり、時間に追われているからこそ、答えが早急に必要となるわけだ。たとえ取り組んでいる問題が「人生の意味」であったとしても。

D-mode is precise


d-modeは精確である、と。きっちり測れるものを好むということのようだ。これは人間の計算能力の限界のためだろうな、と思う。経済学では、現実の経済現象は複雑すぎて手に終えないので、モデルを作って分析するわけだ。ただそれがモデルであって現実ではないということを忘れがちになることも多々有る。統計が精確だから現実だ、ということにはならないんだけども、なんかそんな感じがしてしまう。

D-mode relies on language that appears to be literal and explicit

試訳:d-modeは文字通りで明快に見える言葉に頼る


「見える」というのがポイントだろう。そのように見えていれば、ホントに明快である必要は無いわけだ。構造改革とかバラマキとかね。その一方で曖昧さや比喩は疑うのだという。詩なんかもう最悪。

D-mode works with concepts and generalizations, and likes to apply 'rules' and 'principles' where possible.

試訳:d-modeは概念と一般化を武器に機能する。また、ルールや原則をギリギリまで適用したがる。


具体的なことは嫌いで、抽象的な話が大好きなd-mode。「労働力」とか「合理的な消費者」とか、「典型的な教師」、「環境」、「休日」、「感情」などなど。そういえば以前、ダウンタウンの松本人志が「休みの日何してるんですか、という質問が大嫌い。その日によって違うから」と言っていた。抽象的な話=万人に共通、というルールを適用してしまうことはよくある。

意識できる思考とそうでない思考を分けるのは思考のスピードである、とClaxtonはいう。ものすごく速い思考、つまり反射は、速すぎて意識がとらえることは無い。同様に、非常にゆっくりとした思考もまた、意識できないのだという。どちらにも概念と一般化という武器が通用しないので、予測が立たず、答えが出なくなってしまうから、d-modeはそれらを嫌う。抽象的な言葉を用いれば、あとは演繹的に答えが出てくるわけだから*2、ある意味で言葉に従属的な立場、といえる。

D-mode works well when tackling problems which can be treated as an assemblage of nameable parts.

試訳:取り組んでいる問題が、名付けられた部分の集合体として扱えるとき、d-modeは良く機能する。


d-modeは分割して統治するのが上手いというわけだ。なんだか分からないものは分割できない。「分かるというのは分けられる、ということなんですな」って桂枝雀が言ってた。ただし分割するためには言葉が必要だ。そして言葉が扱える複雑さには限度がある。例えば「あきらくんはおじいちゃんが会計士さんの牧師さんはいい人だという発言をまにうけているのを白々しく思った」という文はどうだろう。まだなんとかいける。ではさらに、「おまわりさんは洋子さんがまことくんのあきらくんはおじいちゃんが会計士さんの牧師さんはいい人だと言う発言を真に受けているのを白々しく思ったことを言いふらしているのを咎めると笑った」*3と、このようにだんだんと複雑さが増していけば、すぐに誰が何をしているのか分からなくなってしまうだろう。

さて、長々書いてきたこういった特徴が、僕たちのd-modeにはある。ではなぜこんなイヤな上司みたいな機能がたっとばれるようになったのか。Claxtonは、17世紀以降、時間が貴重なものとされるようになったことに一因があるという。時間が無いことは無茶苦茶やるための格好のいいわけになる、というわけだ。

そして物事を知る方法は一つしか無い、つまりd-modeを使うしかない、というのは欧米文化の偏見である、とClaxtonはいう。ゆっくりと知る方法もあるのだ。

長くなりましたがここで終わりです。次のエントリではd-modeの弱点と、亀さん登場です。

書きました:その3


*1 「1940年体制」とか「中国発デフレ」なんて言葉が思い浮かびました。

*2 バラマキ=悪ならば、定額給付=バラマキ=悪、定額給付=悪となるわけだ。高い学歴=優越ならば、とドンドン続く。

*3 これを書いているとき、谷川俊太郎・和田誠『これはのみのぴこ』を思い出しました。

2009年1月1日木曜日

"Hare brain, Tortoise mind"という本を読んだ

あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良い年でありますように。

cover
Hare brain,
Tortoise mind
Guy Claxton
さて、今年一発目から五発目くらいまでのエントリはだらだらします(いつも以上に、という意味です)。Guy Claxtonという人が書いた"Hare brain, Tortoise mind"という本を随分前に読んで、ブログに書評を書こうと思っていたんだけど、全然うまくまとめられないので投げ出していた。せっかくだから書きたいので、うまくまとめるという目標を放棄して、だらだらと書きます。ま、五回くらいに収まれば、と思ってます。

認知科学の成果を一般に紹介する、みたいな本で、コーディリア・ファイン『脳は意外とおバカである』や、池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』のような感じ。ただし十年前の本なので最新情報というわけにはいかない。とはいえ、ダニエル・カーネマンやエイモス・トヴェルスキーの研究も出てきたりして、話題の行動経済学にも通じるものがあったりもする。著者のGuy Claxtonは心理学者で、基礎的な教育が研究対象だそうだ。

正直なところ僕はこの本を読み終える気がしなかった。もうすごい難しいんだもの、英語が。主語があって述語が出てくるまで三行くらいあったりしてさ、もう忘れちゃうよ、主語。だからひと月かけて読み終えたとき、満足感なんて微塵も無くて、ホントに読んだのかオレっていう感じで手応えなしでした。

で、認知科学とか行動経済学とか呼ばれる学問の一端が一般に紹介されると、その度に驚きもあるし考え方を変えなきゃいけないこともある。それでも、じゃあどーしたらいいのよ、という疑問が解消する事はなかったし、その為のヒントさえも滅多に得られない。それはたぶん、実験室の脳と実際の脳*1に差があるからなんだと思う。なので、人間の本性が実験であぶり出されても、僕たちがその結果を活かすには通訳のような実践者のような人*2が必要なんだろう。

で、この本はその学問の結果を活かす事を真剣に考えている。目標は、言うなれば、詩人の様に考えること。たとえば、人が閃く仕組みを考察し、古典や先人たちの言葉を参照して検証する。そうすれば詩人の心が得られるというわけだ。

本書のタイトルはウサギと亀のお話からつけられていて、「ウサギ脳と亀ゴコロ」とでも訳しましょうか。

Claxtonは本書で二つの造語を使って、脳の機能を説明していく。一つ目は"undermind"で、こちらが亀だ(こち亀だ)。試みに訳せば下心、じゃなくて「奥心」という感じでしょうか。無意識というより、無意識の持つ機能という感じ。奥心こそが知性なんだよ、ということが言いたいらしい。で、二つ目。意識的に計算したり推測したり決断したり記憶したりする能力を、"d-mode"と呼んでいる。"d"は"deliberation"=熟考と"default"=初期設定から取られている。こちらがウサギ。脳にはウサギと亀、二つの機能がある。人はこの二つの機能を使って、感じたり学んだり考えたりする。で、この本のメインとなるメッセージは、

D-mode and the slower ways of knowing work together, but they can get out of balance, and lose coordination.(p.86)

試訳:d-modeとゆっくりと学んでいくやり方は、ともに協力して機能するものだが、バランスを崩し、協調を失うこともある。


という箇所がよく表していると思う。「ゆっくりと学んでいくやり方」は僕の訳がヒドいが、"undermind"、つまり亀のことだ。Claxtonは現代の欧米文化は、d-modeの能力を過大評価している、という。それこそが、現代人の人生に対する不満や恐怖、不安や絶望につながっているのだ、と。また、本書でもそのようなd-mode偏重文化を作り出した犯人として、デカルトがあげられている。なんか最近読む本はデカルトの悪口しか書いてないよな、と思うのであった。

んで、ウサギと亀のバランスをとる、というのが目標なわけだけど、じゃあd-modeとはなんなのか。どんな特徴があるのだろう、というところで今回は終わります。


書きました:その2 その3



*1 マッドサイエンティストな話じゃなくて、やっぱり実験室で起こることは現実の模倣であって、現実とは違うんじゃないですか、ということ。

*2 マインドマップのトニー・ブザンとか、『影響力の武器』のロバート・B・チャルディーニとか。