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2010年3月31日水曜日

寒かった3月。相変わらずのデフレ。

 さて、寒かった3月も今日で終わって、2010年ももうすぐ4月。そして相変わらずの不況ニッポン。3月26日に発表された2月のCPI(消費者物価指数)はこんな感じ。

 (1) 総合指数は平成17年を100として99.3となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
 (2) 生鮮食品を除く総合指数は99.2となり,前月と同水準。前年同月比は1.2%の下落となった。
 (3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は97.4となり,前月比は0.1%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。

総務省統計局のページ

 何度も言われていることだけど、広く知られているとはとても言えないことと言えば、CPIには上方バイアスがあるってことだろう。なんといっても管大臣も知らなかったし。CPIはだいたい1%くらい大きめの数字が出てしまうというクセをもった指標だ。なので、三つのカテゴリーすべてで前年比マイナス2%というのが実情に近い数字だと思われる。つまり絶賛デフレ進行中だ。

 とはいえ、アメリカのコアCPIも前年同月比+1.3%ということなので(参照)、日本だけが苦しいわけでもないけど、日本だけがブッチギリでダメだ。

 デフレがなんでヤバイのかというのも何度も言われてきたことではあるけれど、その理由の一つが、借金が増えてしまうということだ。デフレはお金の価値が上がる現象だから、例えば今日の1万円でりんごが十個買えたとすると、明日は二十個買えちゃったりするわけだ。これを借金で考えてみると、今日1万円の借金を返すのにりんごを十個売らなければならないとして、明日になると二十個売らなければ返せなくなってしまうということになる。

 責任、責任とかいって景気対策を拒んできた日本だけど、その間、国の借金は不当に増えてしまった。国が借金をして医療費や年金の支払にあてるのはしようのないことだと思えても、何もしないが故に現役世代の負担が増えるのは理不尽極まりない。

 いつの時代も政治力を持っているのは中高年以上の人たちだと思うけど、彼らはその辺のトコロどう考えてるんでしょうか。

追記(2010/April/14):CPIの上方バイアスについて、zajujiのお馬鹿ぶりがあらわに。コメント欄をみてください。

2010年3月16日火曜日

結局アレはなんだったんだ・書評・若田部昌澄『危機の経済政策 なぜ起きたのか、何を学ぶのか』

 結局アレはなんだったんだ、と思うことは多い。出来事が起きたばかりの頃は情報は少ないし冷静でもないので、かなりステレオタイプな説明をひねり出すのが精一杯だったりするけど、時間がたつと思っていたのとは全然ちがう側面が見えてきたりする。問題は時間がたって調べ直そうという気にならないという、僕の怠惰だってことはわかってます。

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危機の経済政策
若田部昌澄
 今回の本は経済学者の書いた「結局アレはなんだったんだ」本。取り上げる出来事は三つ。1930年代の大恐慌、1970年代の大インフレ、1990年代以降の日本の大停滞だ。どの出来事も人々の関心を集めたなんてもんじゃない大きなものだけど、結局なんだったのかという検証のほうはなかなか注目されない。

 もっとも、著者も書いているように、大インフレと大停滞はまだ結論を出すには早すぎる。けれど、経済学者たちの間に「何がどうだった」という合意事項がないわけじゃない。本書はその合意のあることとないこと、そして政策担当者たちの経済観と実際に採られた政策、さらにその帰結を時代ごとに追って行く。

 この書評では最初のイベント、大恐慌(本書では大不況)をとりあげたい。30年代の大恐慌は一体何がどうだったんだろう。

 池田勇人は総理大臣に就任するなり金融緩和を打ち出して、一気に日本の景気を良くしてしまったが、彼は大恐慌を「大戦の遠因」と評している(参照)。では当時のそして現代の経済学者はどう考えているのだろうか。

 大恐慌の最中、経済学者たちは安定化論者と精算主義者に分かれて議論していた。安定化論とは経済政策によって不況からの脱出は可能であり、そうすべきだという考えで、清算主義とは不況は経済にとって必要な出来事であり、不況によってこそ経済活動はより効率的になる、と考える。結論から言えば安定化論が勝利する。この安定化論から現在のマクロ経済学が生まれたわけだ。

 では当時の政策担当者(政治家や官僚たち)は大恐慌という現象をどうとらえて行動したのだろう。まず当時は金本位制の時代だったので、不況対策で金融を緩和する(お金を増やす)ためには、金(きん)の裏付けが必要だった。金を増やすにはお金が必要で、お金を増やすには金が必要だった。こんな状況で金を買うためのお金を増やす方法はただ一つ、今まで買っていた何かを諦めて、浮いたお金で金を買うというものだ。そのためには借金を清算し、財政を均衡させなければいけない、という考えが一般的だった。そうして人々の生み出したモノやサービスよりも金こそが大事な時代、つまりデフレの時代が始まった。

 こういう状況で目前の不況に手を打つためには金本位制から離脱する必要があるが、世界の政策担当者の多くは、振り返ってみれば大した根拠もなく金本位制に固執して対策が遅れた。そうしてただの不況が大恐慌に発展していき、各国とも追いつめられる。で、結局金本位制から離脱して金融緩和を実施した国から恐慌を脱出していく。そしてついに大量の金を持っているくせに引き締め気味だったアメリカも緩和に転じ、危機は去った、かと思ったら、景気回復が不十分であるのにローズヴェルト政権は再び金融を引き締め、またもや不況に陥ってしまう(ローズヴェルト不況)。

 現代の経済学者は、当時の不況が深刻化した理由を、不況下で金融を引き締めたことと、金本位制の下では制約が多く、適切な政策が採用しづらかったことであると考えている。

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日本の金融危機
三木谷、ポーゼン編
 こうやってみていくと、現在の日本の停滞とよく似ている。デフレを放置し、財政を均衡させることばかり考え、緩和を実施しながらもすぐにやめてしまう。幸いなことにこんな馬鹿げたことをやっているのは日本くらいのものなので、「大戦の遠因」のようなことにはなりそうもない。ただ日本国民が苦しむだけ。しかし、現FRB議長ベン・バーナンキ氏はかつて次のように述べている。「日本経済の弱さは、日本を自国製品の市場とも自国向けの投資の発生源とも考えている、豊かさで日本に劣る近隣諸国に経済的負担を強いている」(三木谷、ポーゼン編『日本の金融危機』p.158) 日本人だけの問題とも言い切れない。

 ここでは大恐慌を取り上げたけど、本書で一番勉強になったのは70年代を中心とした大インフレを扱った第4章から第6章だった。この時期はスタグフレーションという言葉に象徴されるように、何か矛盾した現象が起きたのだ、と僕は漠然と考えていた。でも、どうやらそうでもなくて、やっぱりこの時期にも金融政策の失敗があったんだということがわかった。例えば需要が超過しているのに金融を緩和し続けたこと、インフレが貨幣的現象であるという理解が広まっていなかったこと、そもそもFRBが政策を決定するときにさえ経済学の知見が活かされていなかったことなどだ。もちろんまだ疑問もある。超過需要(少なくとも当時はそのように見えた)なのに失業率が高止まりしていた時代であるから、謎も多い。本書によればこの時代の研究が盛り上がってきているということなので、これから楽しみだ。

 で、続く日本の大停滞についてもとてもよいまとめになっていて、その時々に経済停滞の原因を主張した説の検証が行われている。20年にも及ぼうかというこの大停滞を説明できる理論はそう多くない。経済学者の意見はやがて集約されていくだろう。その動きはすでに始まっているようだ。

 本書に欠点があるとすれば、とても読みやすいのでうっかりスルっと読んでしまいがちなところだろう。数ヶ月前に読んだのを今回あらためて読み直したんだけど、その面白さと栄養価の高さに驚いた。本文中で言及・参照されている文献が豊富なのも嬉しい。よい読書ガイドになるだろう。数ヶ月前の僕はちょっと急ぎすぎたかなと反省。読みやすい本ですが、結論を急がずゆっくり味わうのがおすすめです。

2009年11月30日月曜日

経済学者から首の短いキリンたちへ・書評・田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』

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偏差値40から
良い会社に
入る方法
田中秀臣
 学生の就職状況が悪いというニュースがでるようになってきた。で、関係ないけど、複雑だったり新奇だったりする出来事に出くわすと、知ったかぶりをしちゃうってのが大人にありがちな反応だ。その反応にも二種類あって、一つは「俺の経験」を大声で言って開き直るというやつで、人一人の経験なんてたかが知れてるんだからそこから一般化はできないよ、とスルーすればいい。もう一つは「そもそも論」で、「そもそも能力のあるヤツなら企業が放っておかない」みたいな確かめようのないことを大声で言ってみたらホントっぽく聞こえたというやつで、これは願掛けと変わらないから、そうなるといいですね、でスルー決定。でも口に出したらだめですよ、そういう人ってメンドクサイから(若者が大人を怖がるのも納得だ)。
 
 今回読んだ本、田中秀臣著『偏差値40から良い会社に入る方法』は「俺の経験」でも「そもそも論」でもない就活本だ(著者の経験も書かれてるけど)。本書のターゲットは就職活動が苦手なフツーの人なので、優秀な俺様が過酷な現実に立ち向かって勝利を得た話をしてやるからお前らもがんばれみたいな本ではない。著者は経済学者なのだ。かなり強引な引用をしてしまうと、経済学者というのはケインズによると、
経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な(自己責任という)哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。
 
 僕はこの前の就職氷河期を学生として経験してるけど、この時まともで、凡人にも実行可能なアドバイスなんて存在しなかった(なので『菜根譚』とか読んでた)。その時の僕は思い至らなかったけど、結局のところ大人たちもどうすればいいのか知らなかった。僕の出た大学はその年の内定率が50%で、本書にもあるけどそもそも職を探す学生が減ってしまっていたので、実際に仕事にありついた学生は50%よりも少ないだろう。しかもこれまた本書にあるように、離職率の非常に高い職種、金融営業とか、についた学生が多かったようだ。
 
 で、本書にはいままで見あたらなかった実行可能でまともなアドバイスが具体的に書かれている。特に大事なのは、企業の都合を良く知ろう、ということ。その調べ方、考え方も書いてある。なので、この本を読んで得をするのは学生だけじゃない。極端に言ってしまえば、一生役に立つ心構え(しかも超人的な努力を必要としない)が手に入る。が、その手の金言はいつもそうだけど、すぐに結果が出たりしないかもしれないし、時にはずっと結果が出ないかもしれない。
 
 その理由も本書にある。本書に載っているのは実践的なアドバイスだけじゃなくて、もっと根本的な疑問も提示されている。つまり、本当に個人の問題なのか? という疑問だ。就職活動は求職者側の負担が妙に重い。だからこそ不満足な職に引っかかる人が多いのだと思う。本来なら労働環境や離職率などの情報は求職者に提供されているべきだろう*1。どう考えてもフツーの個人が調べることは難しいんだし。個人の限界を超えているのなら、それは社会の問題だ。だから本書のアドバイスを実行しても結果が出ない可能性もある。
 
 ケインズは拙訳『自己責任主義の終わり』のなかで、キリンの群れを例えに個人の能力に頼る社会のデメリットを説いている。高いところに葉をたくさんつける木と、それに群がるキリンを想像してほしい。キリンは努力してめいっぱい首をのばすだろう。その努力の甲斐あって首の長いキリンが肥え太る一方で、首の短いキリンは飢えていく。

 キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。


 もちろんケインズは個人の能力を否定しているわけではない。彼は、個人の能力や成功は運次第だ、と言っている(のだと思う)。たしかに能力のある人物は存在するが、両親から受け継いだ才能と、それを育てる境遇があればこそだ。100%自力で優秀になる人なんていない。ちょっとマシな参考書にであうのだって運が必要なんだから。
 
 就職氷河期を繰り返してしまうということは、僕たちが何でも個人の問題にすりかえてしまう悪癖に耽っているということでもある。首の短いキリンが飢えているのを見て、「短い首のヤツにはそのような運命がお似合いだ」と言えるだろうか。感情的にそれは難しいだろう。しかし現実の判断としては、僕たちは首が短いという理由で飢えゆくキリンを見捨てている。しかも、首が短ければ、つまりこの場合就職活動が下手ならば、能力が低いといえるのだろうか? という大きな疑問も放置したままだ。あと、能力が高いはずの人たちがどれほど社会に貢献しているのか? という疑問も。
 
 本書の後半部分はまさに、次のケインズの言葉をわかりやすく丁寧に説いているといえる。
 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。


 さらに本書には一生役に立つ就職活動のコツも書かれているのだから、1,400円(+税)は安いと思いますよ。ちなみに、本書後半の内容を詳しく知りたいときは同じ著者の『雇用大崩壊』をおすすめ。
 
*1:本来ハローワークってそのためにあるんでしょうけど、現状では右から来た求人を左の求職者に受け流してるだけに見えますよね。

2009年11月26日木曜日

[訳してみた] J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』 目次と口上

目次



訳者の口上


 突然ですが若田部昌澄著、『危機の経済政策』を引用してみます。
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危機の経済政策
若田部昌澄

 しかし何といっても現在最も脚光を浴びているのはケインズ、あるいはケインズ経済学でしょう。「今の時代に頼りにすべき経済学者は一人しかいない。それはケインズだ」とグレゴリー・マンキュー(ハーヴァード大学)は『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムで書きましたし(Mankiw 2008)、2008年ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン(プリンストン大学)も現在は「ケインズの時」であるといいました。またジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学)はケインズ経済学の復活を宣言し、思想的にはリバタリアン(自由至上主義)に分類される人気経済ブロガーのタイラー・コーウェン(ジョージ・メイソン大学)はケインズ『一般理論』のブログ上読書会をはじめました。

[p. 248]
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The End of
Laissez-Faire
&
The Economic
Consequences
of The Peace
John Maynard
Keynes

 じゃあ読んでみましょうと思っても、日本語で手に入りやすいケインズの本って『雇用、利子および貨幣の一般理論』ぐらいですよね。あんなの読めるわけねー。ということでケインズの代表的な作品の中で、僕にもなんとか読める短いヤツを訳してみました。原題はJohn Maynard Keynes "The End of Laissez-Faire" (1926)です。普通『自由放任主義の終焉』と訳されているところを今風な感じに変えてみました。自由放任というと、最終的には立派なオジサンが出てきて責任を取る、みたいなパターナリスティックなイメージがあるので(僕だけかな)。『ケインズ全集 第九巻』に収録されている宮崎義一先生の翻訳を参考にして訳しました。
  

 この作品が書かれた背景を、もう一度『危機の経済政策』から引用しましょう。

 1918年に大戦が終了すると主要各国は金本位制への復帰を模索し、アメリカが先陣を切りました。その復帰(1919年)は旧平価によるものでしたので、その後に激しいデフレ不況(1920-21年不況)が到来しました。しかし、このデフレ不況を乗り切った後に、アメリカでは繁栄の20年代が訪れます。
 他方ドイツをはじめとする中欧諸国ではハイパーインフレーション(1922-23年)が起きます。その収束には、金本位制への新平価復帰が必要とされました。20年代のイギリスはマイルドなデフレが進行し失業率が高止まる停滞期を迎えました。1925年4月に旧平価による金本位制復帰を行いましたが、その是非と平価の設定をめぐっては論争が起きました。安定化論者たちは安定化を阻害する金本位制そのものに懐疑的でした。そして、意図的なデフレ政策を意味する旧平価での復帰には反対でした。しかしこれらの論者は金本位制を完全に廃止する提案にまでは至りませんでした。

[p. 30]
 「マイルドなデフレが進行し失業率が高止まる停滞期」、どこかで聞いたことのあるような話です。この『自己責任主義の終わり』はそんな中書かれた一般の人向けのパンフレットだったそうです。なので経済理論について詳しく語ったものではなくて、いかに政府が積極的に経済の安定を図るべきか(でも社会主義に陥らないようにするにはどうしたらいいか)、について解説したものです。安定化というのは今で言うマクロ経済政策の実施です。放っておけば経済は自然に調整されて回復するから何もするな、という考えに反対する人たちを安定化論者といい、彼らが現在のマクロ経済学の礎を築いたわけです。もちろんケインズはその超重要な一人でした。

蛇足:訳してて思ったんですが、第1章の前半部分がとくにメンドクサイです。それってマーケティング的にどうなんですか? ケインズさん。みんなちょっと読んだら引き返しちゃいますよ。

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訳者のあとがき


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対話でわかる
痛快明快
経済学史
松尾匡
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子どもの貧困
阿部彩
 訳してみて、ケインズが引っ張り出してくる例が恣意的なのでは? と思う個所がいくつかありました。ダーウィンってホントにそんな主張したの? とか、特に過激な人の発言だけを切り取ってるんじゃないの? とか。最近読んだ松尾匡『対話でわかる 痛快明快経済学史』でも、ケインズの主張に癖があることに触れていて納得。「わざと読者に論敵の主張を誤解させるような言い回しをして信用をなくして」(p. 185)おいてから攻撃している感じ。

 とはいえ、「タイミングよく有能であったり幸運であったりする個人が、その時点までに実った果実をすべて持って行ってしまうようなシステムは、確実に、良い時期によい場所に居合わせるテクニックを学ぶ大きなインセンティブを人々に与えるだろう。(第3章)」というケインズの言葉にはまったくもって同感です。友人の高校教師が「3教科に絞って小学校から教えれば、たいていの子は早慶に入れさせることができる」とものすごくイヤそうにつぶやいたのを思い出します。学力がまるで遺伝しているかのように親から子へ受け継がれている現状を、阿部彩『子どもの貧困』(参照)でも批判していましたが、これも世襲のひとつの形なのでしょう。

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国会学入門
第二版
大山礼子
 ケインズはイングランド銀行を例に「組織のための組織」を防ぐ仕組みを描いていましたが、この場合の民主的な基盤というのが議会でした(第4章参照)。この議会ですが、もちろんイギリスの議会ですから日本の国会とはちがいます。大山礼子『国会学入門 第二版』(参照)にあるように、イギリスの内閣は議会の中にあり、さらに政策を決定する場というよりも、与野党の意見を国民にアピールするパフォーマンスの場であるんだそうです。なのでケインズは、内閣がイングランド銀行総裁を選ぶ責任を、国民が明確に理解できる仕組みを評価しているのだと思います。つまり国民に見える形で、幾分大げさにでもアピールすれば、どこかの中央銀行みたいにこそこそしないだろう、ということなんじゃないでしょうか。その点、日本の場合、内閣は国会の外にある、ということになっているようです。そのため、内閣が議会で政策を堂々とアピールすることがない。総理は議会が選んでいるのだから、内閣に対するチェックも議会の仕事だと思うのですが。ところが、日銀の現総裁、白川さんを選任する時は、ねじれ国会ということで大もめにもめたので国民の注目も集まりました。そしてこのようなニュースもあります。

「日銀総裁人事に民主・西岡氏、反省の弁」


……西岡氏は、「純粋に武藤さんがいい、悪いという前に、政治状況があった」と述べ、当時の自公政権と対決するのが主眼であったと説明した。そのうえで「(財政運営と金融行政を分ける)『財金分離』を理由に武藤さんがはねられたのは、今でもおかしいと思っている」と語った。……

読売新聞
 国民の注目を集めるだけで、民主的な圧力が生まれるということだと思います。もちろんそれだけでは不十分で、ちゃんと議会による修正ができるようでないとダメですが。

 僕は『国会学入門』を読んだ時、イギリスのようなパフォーマンスの場としての議会の利点がよく分からなかったのですが、今回ケインズの文章を読んで、国民の見ている中でパフォーマンスをさせればコミットメントにもなる、と納得しました。日本の国会の本会議は何をやっているのかいまいちよくわからない状態にあります。事実上政策を決めるのは与党内部、そして国会の各委員会です。だから国民からは見えにくい。そこで党首討論が導入されたんでしょうけど、与党側の思惑で実施したりしなかったりするようでは意味がないでしょう(民主党政権になって一度も実現してませんし)。

 なんかケインズと関係なくなっちゃったんでここでおしまい。

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第5章

<<第4章||目次||

第5章

 本稿の省察は、組織的に活動する機関を用いて現代の資本主義における政策技術をめいっぱい改善することを目指してなされたものだ。この中に、私たちにとって資本主義の本質的な特徴と思えるものと深刻な矛盾を来すものは一つもない。その特徴とはつまり、個々人の金儲けと貨幣に対する本能的な愛着を、経済というマシーンの強力な原動力とし、それに依存しているという特徴だ。本稿も終わりに近づいたので、話題をそらすわけにはいかないが、それでも読者の皆さんには、次のことを覚えておいていただきたい。つまり、これから数年の間に勃発するであろう、とんでもなく激烈な論争や、絶対に埋まることなどありえなさそうな意見の溝というのは、主に経済政策についての技術的な問題を巡るものではなく、上手く言えないけど、心理的とか、あるいはおそらく道徳を巡る対立なのだということを。

 ヨーロッパ、少なくともその一部では——でもアメリカではちがうと思う——、私たちが個人の貨幣愛を育て後押しし保護しすぎている、という潜在的な反発が広範に存在する。私たちの社会を人々の貨幣愛を刺激することで動かしていくというやり方について、その刺激は少ない方が多いよりも好ましいのかどうか、無条件に決まっている必要はない。社会の事例の比較に基づいて決められるべきだろう。人それぞれ選んだ職業が異なれば、日常生活の中で貨幣愛の演じる役割の大小も異なってくる。さらに歴史家たちは、貨幣愛が現在ほど重要でない社会組織のあれこれについて教えてくれる。ほとんどの宗教とほとんどの哲学は、控えめに言っても、預金口座の数字を増やすことばかり考えている人生を全く評価しない。しかしその一方で、今日の人々の大部分は禁欲的な警句を無視するし、現実に裕福であることの有利さを疑ったりしない。それどころか、人々は、貨幣愛なしでは物事が立ちゆかなくなるし、無茶苦茶なレベルでなければ貨幣愛は上手く機能していることは明らかだ、と考えているようだ。その結果、平均的な人々は問題から目を背けてしまい、複雑で大局的な事柄に対して、自分自身が本当のところ何を考え感じているのか、はっきりしたイメージを持てないでいるのだ。

 頭と心の混乱は、言論の混乱につながる。資本主義的な人生のあり方に切実に反対している人の多くは、まるで資本主義がその資本主義的な目標を上手く達成できていない、として資本主義に反対しているかのようだ。その裏返しで、資本主義の熱烈なファンたちは、不必要なまでに保守的で、政策の技術的な改革さえ拒否する始末だ。それは、改革を実行すれば当の資本主義が強化され長持ちするかもしれないのに、改革へ踏み出すことが資本主義からの離脱の第一歩になるかも知れないと恐れているからだ。しかしそれでも、資本主義は社会運営の手段として効率的なのか、それとも非効率なのかと議論している現在よりも、そして資本主義は社会にとって望ましいのか、それとも本質的に問題を抱えているのかと議論している現在よりも、物事をより明確に把握できる時代が近づいているのかもしれない。私見では、資本主義は上手く管理されれば、現存するどの社会体制よりも効率良く経済的な成果を上げることが出来ると思う。しかし本質的に実に様々な問題を内包してもいる。私たちの課題は、人々の満足いく人生の条件を損なうことのない、めいっぱい効率的な社会の仕組みを機能させることである。

 そして次のステップは政治的なアジテーションや時期尚早な社会の実験ではなく、思考によって踏み出されなければならない。私たちは、理性を働かせて自らの感情を解明する必要があるのだ。現在のところ、私たちの人を思いやる心と実際に下す判断はバラバラになりがちである。これは痛々しくマヒした精神状態と言っていい。現実の行動に移す場合、改革を志す人々は、自分たちの知性と感情を調和させ、明確でハッキリとした目標に着実に近づいていくのでない限り、成功を収めることはないだろう。現在、世界には、正しい目標を正しい方法で目指している政党は、私には見あたらない。物質的な貧困は社会的に実験を行う余地がほとんどない状態でも、明確な変革へのインセンティブを人々に与える。がしかし、物質的な繁栄は、安全な賭に出るチャンスであるかもしれない時に、変革へのインセンティブを奪い去ってしまう。前進するために、ヨーロッパは手段を欠き、アメリカは意志を欠いている。私たちは心の内の感情と外的な事実の関係を誠実に検証して、そこから自然に生まれ出た新しい信念を必要としているのである。

<<第4章||目次||

J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第4章

<<第3章||目次||第5章>>

第4章

 事あるごとに、自己責任主義の根拠とされてきた形而上学的だったり一般的だったりする原理原則など一掃してしまおう。個人が経済活動において一定規格の「自然的自由」を有しているなんていうのは、まるで事実とちがう。「持てる者」あるいは「持たざる者」に永遠の権利を授ける「契約」なんて存在しない。この世界は常に個人と社会の利害が上手いこと一致するように天上から調整されてはいない。ここ下界でも、両者の利害はそれほど上手く調整されていない。経済学の原則から導いた、文化的で節度ある個人の利益追求はいつだって公共の利益にとってプラスに働く、という推理は正しくない。個人の利益追求がいつでも文化的で節度があるというのも、やっぱり間違いだ。バラバラに自分自身の目的へ突き進む個人は、大抵の場合、あまりにも愚かであるか、あまりにも貧弱であるので、ささやかな結果にたどり着くことさえない。人が集まって群れをなすと、いつだって先を見通すことの出来ないマヌケになってしまうから、個々人は独立していた方が有能であるなんてことは、私たちが経験してきたことと矛盾している。

 なので、私たちは抽象的な結論で満足するわけにはいかない。むしろ、バークが言うところの「法律を作る際の最も細かい問題、つまり、国家が世間知を用いて積極的に指図すべき事柄と、個人の能力が発揮されるのを極力邪魔しないようにほおって置くべき事柄に線を引くこと*1」の結果を詳しく検討し、そのメリットを議論しなければならない。ベンサムが使った用語で、忘れられてしまったがとても有用なものがある。Agenda(なすべきこと)とNon- Agenda(なすべからざること)だ。私たちはこの二つをはっきりと分別しなければならないが、その際に、政府の介入は「一般に不必要」であり、同時に「一般に有害」であるというベンサムが使った大前提*2は退けなくてはならない。おそらく、今時の経済学者の使命というのは、今一度政府のAgendaを Non-Agendaから区別してみせることだろう。そしてそれに続く政治学の使命は、民主主義の枠内でAgendaを実現できる政府のあり方を考案することである。そこで、私が今考えている二つのアイディアを記してみたい。

*1 マカロック(J.R. McCullock)の『政治経済学原理』(Principles of Political Economy)に引用がある。
*2 ベンサムの死後に刊行されたボーリング編『政治経済学綱要』(1843)より。

 (1) 統制力と行政組織の理想的な大きさというのは、大抵の場合、個人と現代国家の間にあるはずである。そこで私の提案は、国家の仕組みの内側で活動する準自治組織体(semi-autonomous organization bodies)の成長と普及の中にこそ進歩がある、というものだ。準自治組織体が担当する領域での活動の基準は、各組織体によって定められた公共の利益の追求、これ一点である。なので、その組織自身のための利益追求という目的は、この組織体のとりくみから除外されることになる。とはいえ、人々の間に利他的な行動が広まるまでは、特定の集団、階級、公共の機関にそれぞれの利益を追求する余地を残しておくことが必要であるかもしれない。またこの組織体は、日常の業務については明確な基準内で自治的に対処するが、究極的には議会を通して民主的に表明される国民の主権に従属する。

 私の提案は中世の独立自治組織の復活とみなされるかもしれない。しかし、いずれにせよイギリスでは、自治的な団体(corporations)が統治の方式として重要性を失ったことはなく、我が国の慣習にも親和的である。実は、このような組織の例をすでに存在するものからあげるのはとても簡単である。私が先に述べたような、独立した自治を獲得しているか獲得しかけている組織。総合大学、イングランド銀行[中央銀行]、ロンドン港湾委員会、そして鉄道会社を含めてもよいだろう。ドイツにもそんな例があるにちがいない。

 しかしもっと興味深いのは、株式組織(Joint Stock Institutions)の傾向である。株式組織は、ある程度の年季と規模に達すると、個人主義的な私企業というより、公的な自治組織といった状態に近づいていっている。ここ数十年で最も興味深く、それでいてあまり気づかれない社会の展開があって、それは、大企業が自ら社会のものっぽくなっていく傾向だ。巨大な組織——とくに大きな鉄道会社や公益事業団体、さらに大銀行や保険会社——がある程度成長すると、出資者たち、つまり株主たちはほぼ完全に経営から分離される。その結果、経営陣にとって、大きな利潤を生み出すことに対する直接的で個人的な関心が二次的なものになっていく。このような段階に近づくと、その組織の安定性と名声の方が、株主のために最大の利潤を上げることよりも経営陣にとって重要になってくる。そうなると、株主は社会的文化的に妥当な配当で満足しなければならない。というのも、一度このような状態が確立すれば経営の眼目は社会や顧客からの批判を回避することに置かれることが多いからだ。これは組織が大きくなったり半ば独占的な地位を得て人々の目に付きやすくなって、風評に弱くなったりした時になおさら当てはまる。理屈の上では自由な個々人の財産であり、なんら拘束されることのない組織が上記のような傾向を持つことの極端な例は、おそらくイングランド銀行であろう。これはもうほとんど真実と言っていいのだが、イングランド銀行総裁が政策を決定する時に、この王国のあらゆる階級の人々のことよりも株主を優先させるなんて事はあり得ないだろう。つきなみな配当を受け取ること以上の株主の権利は、もうほとんどなくなってしまった。それは、他の大きな組織についてもだいたい同様である。時間がたつにつれ他の大組織も、自ら社会のものになっていく。

 しかしこれは100%良いことばかりというわけではない。今見てきた事[組織の社会化]が保守主義の台頭と企業の衰えの原因となっている。実際私たちは国家社会主義の長所と同様、短所もたくさん経験してきた。それでも私たちが目撃しているのは進化の自然な経路であると私は思う。私的利益の際限のない追求に反対する社会主義の戦いは、些細な点においてさえ毎日のように勝利を得ている。この特定の話題——それ以外の話題では社会主義の戦いは熾烈なものだが—— では両者の対立は、もはや差し迫った問題ですらない。例えば、鉄道会社の国有化問題ほど、重要な政治問題と言われていながら、実際には重要でも何でもなく、イギリスの経済活動の再編成からほど遠いものはない。

 大きな事業、特に公益事業団体や他の巨大な固定資産を必要とする事業は、今はまだある程度社会化される必要がある。しかしこの「ある程度の社会化」の有り様について、私たちは柔軟に考えなければならない。昨今の自然な傾向[大組織の自発的な社会化]の利点を生かしていく必要があるし、おそらく私たちは国務大臣が直接的な責任を負う中央政府機関よりも準自治組織を選ぶべきなのだ。

 私が教条的な国家社会主義を批判するのは、それが社会の運営のために人々の利他主義的な衝動を求めているからではなく、それが自己責任主義に反するものだからでも、人々が金儲けする自由を奪うものだからでも、また、大胆な社会実験をためらわないものだからでもない。私はこれらすべてに喝采をおくろう。私が批判する理由はそれが現実に起きていることの重要さを見逃しているからであり、実際、国家社会主義というのは誰かが百年前に言ったことの誤解に基づいて作られた、五十年前の問題に対処するための古くさい計画の生き残りと変わるところがないからである。19世紀の国家社会主義は、ベンサムや、自由競争その他の理念から生まれたものであり、19世紀の個人主義に流れる哲学と同じものが、ある部分ではより明確に、ある部分ではよりわかりにくくなった別バージョンでしかない。どちらも揃って自由を強調し、一方は控えめに目前の自由に対する制限を回避しようとするが、もう一方は積極的に、世襲であろうが努力の結果であろうがとにかく独占的な地位をブチ壊そうとする。この二つは同じ知的雰囲気に対する異なったリアクションなのである。

 (2) さて次に、Agenda(なにをすべきか)の基準に移ろう。近い将来の内に急いでやらなければならないこと、やるのが望ましいことの中で、どれが特に妥当なのか示したい。私たちは、「技術上社会のもの」である事業と、「技術上個人のもの」である事業の区別を目指す必要がある。国家の最も重要なAgenda は、私的な領域において個人がすでに満足している活動に関係しないところで、個人の手には負えない役割や、国家が決めなければ他に決めようのない意志決定などに関係することである。政府にとって重要なことは、個人がすでに行っていることをしないこと(個人より上手に、あるいは下手にやってもいけない)、そして現在のところ全く手つかずのことをやることである。

 実際の政策を作ることは今回の私の目的から外れている。なので、私が最も頭を悩ませることになった問題の中から、具体例を示すにとどめよう。

 現在の悪しき経済現象の多くは、リスク、不確実性、そして無知の所産である。特定の境遇や能力に恵まれたものが、不確実性と人々の無知を大いに活用することから、さらに同じ理由で大事業はしばしばただのギャンブルになっていることから、富の大規模な不平等が生じるのである。また、これら同じ三つの要因が、労働者の失業の原因であるし、まっとうな商売が期待通りの利益を出さないこと、効率性と生産量が減っていくことの原因でもある。しかしその治療法は個人の働きの中にはない。それどころか、個々人の利害はこの病を悪化させかねない。これらに対する治療法の一つは、中央政府機関による貨幣と信用の計画的なコントロールに求めるべきであるし、一つは、すべての有益な、必要とあらば法で定めてでも公開させたビジネス情報を含む、ビジネス環境に関わる大規模なデータの収集とその広い告知に求めるべきである。これらの対策は、適切な機関が民間事業の複雑な内部構成に働きかけることを通して、社会に対し人々のマネジメント能力(directive intelligence)を十分に発揮させることを促すだろう。その一方で、民間の指導力や私企業の妨げになることもないだろう。そして、たとえこれらの対策が不十分なものであったとしても、現在私たちが持っているものより有益な、次のステップに進むための知識を提供してくれるだろう。

 さて二つ目の例は、貯蓄と投資に関することだ。次の三つのことに関して、知的な判断に基づいた、調和のとれた行動が求められている、と私は考えている。まず、共同体が全体として貯蓄すべき規模について。そしてその中から海外投資として国外に出すべき規模について。さらに現在の投資市場の仕組みが、国内の最も生産的な経路に沿って貯蓄資金を分配できているのかどうかについてだ。わたしはこういったことを、現状のように民間の判断と私的な利殖活動の出たとこ勝負に全面的に任せられてはいけないと思う。

 三つ目の例は、人口に関することだ。各国にとって最も適切な人口の規模が現在よりも大きいのか小さいのか、それとも同じ水準を維持するのか、真剣に考えなければならない時期がすでにきている。そして政策が決定されたら、絶対に実行しなくてはならない。そうすれば、共同体が将来生まれてくる人々の頭数ばかりでなく、彼らの生まれ持った素質にも注目していくような時代がやってくるだろう。

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第3章

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第3章

 経済学者というのは、他の科学者たちと同様、初学者を前にしたときには最もシンプルな仮説を取り上げて説明を始めるものだ。これは決して最もシンプルな仮説が最も現実に近いからではない。経済学者が次に記すような想定をするのも、一つにはそのような理由からだが、私のみるところもう一つの理由があって、それはただこの科目の伝統に従っているだけ、とうものだ。その想定とは、個人の試行錯誤を通して正しい道を進んだものは栄え、誤った道を選んだものは滅びていくというプロセスを経て、生産的な資源の最適な分配が行われる、というものである。この想定は、誤った方向に自身の資本や労働力を投入しようとしているものを止めるべきではない、ということを暗に意味しているのだ。つまりこれこそが最大の利益を生み出せるものを発見する方法である。効率の悪い弱きものの破滅によって、最も効率の良いものが選び抜かれる血も涙もない過酷な生存競争というわけだ。このような考え方は、過酷な競争のコストを無視している。それでいて、競争によって得られた結果を勝手に永続的なものと想定し重要視している。もしも生きることの目的が出来る限り高いところにある木の葉をむしり取ることであったなら、最も効率の良い方法は、首の短いキリンが餓死するのに任せてればいい。そうすれば最も首の長いキリンが得られることだろう。

 異なる産業間で生産手段を理想的に分配するこの方法に対応して、購買力の理想的な分配についても似たような想定が存在する。まずはじめに、個々人はいろいろな選択肢を試行錯誤して検討して、自分が最も欲しいものを「最もお得だと考えたところ」に見出す。さらにこれは、各消費者が自らの購買力を自分にとって最も有利になるように使うというだけでなく、商品の方も、その商品を誰よりも欲しがっている消費者の下へたどり着くということになっている。なぜなら、一番欲しがっている人が、一番良い値をつけるから。ということで、もし私たちがキリンを放ったらかしにすると、(1)木の葉の消費量が最大になる。なぜなら、低い位置にある葉っぱしか食べられないキリンが飢え死にするから。(2)キリンたちは届く範囲で最もみずみずしい葉を選んで食べ、(3)「あの葉っぱが食べたい!」と最も強く思ったキリンが最も遠くまで首を伸ばそうとするはずだ。このようにして、よりジューシーな葉っぱから食べられていくし、首を伸ばす努力に値すると思われる葉から食べられていくだろう。

 自然淘汰が邪魔されることなく進歩を導き出していく。そのためには今見てきたような条件を想定しなくてはいけないわけだが、その想定は自己責任主義を支える二つの急ごしらえな想定の一つでしかない(にもかかわらず文字通りの真実として受け入れられているのだが)。そのもう一つの想定は、個々人の全的な努力を引き出すにたるだけの必要十分なチャンス(個々人が自由に金儲けできるチャンス)が存在している、という想定である。自己責任主義の下では、利益というのは、己の能力だか運だかを使って、自分の時間や資本を正しい時に正しい場所で保持しているものに転がり込むことになっている。タイミングよく有能であったり幸運であったりする個人が、その時点までに実った果実をすべて持って行ってしまうようなシステムは、確実に、良い時期によい場所に居合わせるテクニックを学ぶ大きなインセンティブを人々に与えるだろう。こうして人間の行動の理由のうち最も強力なもの、つまり貨幣に対する愛着が、最も効率よく富を生むとされる方法を通して、経済の資源を分配するために利用されるのだ。

 ここまでに簡単に触れてきた経済的な自己責任主義と、ダーウィニズムの間の平行関係は、ハーバート・スペンサーが真っ先に気づいたように、今ではとても接近してきている。ダーウィンは、性愛が性的な選抜を通して作用することで、競争による自然淘汰を補助し、最適であると同時に最も望ましい進化のコースを導く、と主張した。同様に個人主義者は、貨幣愛が利益の追求を通じて作用することで、自然淘汰を補助し、(交換価値で計られた)人々が最も欲しがるものの最大規模の産出をもたらす、と主張するのである。

 このような理屈のシンプルさと美しさは実にたいしたもので、当の理屈が事実に基づいているのではなく、簡便のために用意した不完全な仮説に基づいていることなんかを見事に忘れさせてくれるほどだ。個人が自身の利益のために自律して活動することが、社会全体として最も多くの富を生み出すという結論は、一つどころではない非常識な想定に基づいているのである。その想定は生産と消費のプロセスにまで及んでいて、将来のビジネス環境や必要な所得などをしっかりと予見することは可能であり、またそのような予知をする機会は十分に存在するという全く人間的でないものだ。経済学者というのは、たいてい、次のような複雑な問題が持ち上がった場合、議論のシンプルさを保つため、そういう問題を後回しにするものだ。(1)有効な生産力が消費に比べて大きい場合。(2)共通費用、結合費用がある場合。(3)内部の諸経済が生産の集約に向かう傾向を持っている場合。(4)様々な調整に長い時間が必要な場合。(5)無知がはびこり知を圧倒している場合。(6)独占企業と労働組合が取引の平等を妨げている場合。——このような場合に経済学者たちは、現実の分析を後回しにするのである。さらに、先ほどの単純化された仮説が現実を正確に反映したものではない、と理解している経済学者の多くでさえ、あの仮説が「自然」であり、だからこそ理想的な状態を表していると結論づけているのである。彼らは、あの単純化された仮説を健全なものと見なし、それ以上に複雑なものはどこか病的なものと見なすのだ。

 しかし、事実の取り扱いに関する疑問の他にも考えなきゃいけない問題があって、生存競争そのもののコスト、その性質についてや、富というものが好ましくないところに集まりがちであることなども、ちゃんと計算に入れているのかどうかという問題だ。キリンたちの幸せを心から望むのであれば、首が短いばっかりに飢えていくキリンの苦しみを見逃すべきではないし、激しい闘争の中で踏みにじられていくおいしい葉っぱとか、首の長いキリンの肥満とか、群れの穏やかなキリンたちの表情に垣間見える不安や強欲の邪悪な気配なども素通りしてはいけないはずだ。

 ところが、自己責任の原則には、経済学の教科書の他にも頼もしい味方がいるのである。立派な思想家や、分別ある人々の頭の中に自己責任主義が根付いているのは、彼らの天敵——その一つは保護主義で、もう一つはマルクス派社会主義——が低レベルな連中だからである、というのは認めざるをえない。この二つの主義は、主に自己責任主義にとって好都合な前提をブチ壊す性質を持っているというだけでなく、全く理屈に合わないという点でも共通している。両者とも貧弱な思考、そして物事のプロセスを分析して結論を導く能力の欠如の見本である。この二つへの反論のために自己責任の原則にお呼びがかかるわけだが、別に絶対にそうしなければ論破できないわけではないのだ。二つの内、保護主義は少なくとも説得力はあるし一般によく受ける主張であるから、それにすり寄っていく連中がいるのは不思議ではない。しかし、マルクス派社会主義は、人類の思想の歴史をたどる者たちにとって、凶兆でありつづけるだろう。あんなにも非論理的で鈍くさえない教義が、いったいどうやって人々の頭脳と歴史的なイベントに対して、あんなにも強力で消えがたい影響を及ぼすことが出来たのだろう。いずれにせよ、この二つの主張のあからさまな科学的欠陥が、19世紀において自己責任主義が特権と権威を手にするのに大いに貢献したのである。

 あの誰の目にも明らかで、大規模な社会活動の中央集権化——先の戦争の遂行——でさえも、改革を志す人々を勇気づけたり、古くさい偏見を追い払ったりすることはなかった。いや実際、どちらの側にも言い分はたくさんあるのだ。国家に統合された生産組織のなかでの戦争体験は、おりこうさんたちの頭の中に平時でも同じ事をやってみたいという楽観的な渇望を残していった。戦時社会主義は平和時には想像することさえ難しい程の大量の富(wealth)を生み出したことは間違いない。というのも、大量に作られた財やサービスは、すぐに何の役にも立つこともなく消えてしまう運命にあったが、それでも富ではあったからだ。無駄にした労力の異常な量や、浪費的でコストを全く気にしない雰囲気は、倹約で将来の蓄えばかり考えている精神にとっては唾棄すべきことだったはずなのに。

 個人主義と自己責任主義は古くは18世紀後半から19世紀初頭にかけての政治的道徳哲学にそのルーツがあるにもかかわらず、社会がどうあるべきかということに関して、ついにがっちりと人々の心をつかんではなさなくなった。だがこれは、当時のビジネス界のニーズや願望に追従しなければ成しえなかっただろう。この二つの哲学は、かつて我らのヒーローだった偉大なるビジネスマンに目一杯の自由を与えた。マーシャルは常々このように言っていた。「西洋世界で最も才能のある人々、少なくともその半数はビジネス界にいる。」 当時の「より高いレベルの想像力(the higher imagination)」はそこで活用された。そのような人々の活動に、私たちの進歩への希望が集中していったのだ。マーシャルは次のように書いている*1。

「この階級の人々は、自らの頭の中にこしらえた常に変化するビジョンの中に生きている。そのビジョンというのは、彼らの望む結果へと至る様々なルートのことで、どのルートを進んでも自然が彼らの邪魔をするという困難がある。だからビジョンには、自然の障害に打ち勝つためのアイディアも含まれている。しかしこのような想像力も、人々の信頼を得ることはそんなにない。なぜなら、好き勝手に暴れ回ることが許されているわけではないからだ。その[想像力の]力強さもまた、より強固な意志の統制を受ける。なので、その[企業家の]想像力の最高の栄誉とは、とても単純な方法で偉大な結果を出すこと、になるのだ。その単純さとは、どうやったらパッと見そのアイディアと同じくらい素晴らしい無数のアイディアを退けることが出来たのか誰にもわからないほどに、あるいは、専門家だけがようやく推理できる程に単純なのだ。このような人物の想像力は、チェスの名人の想像力にも似て、壮大な計画の妨げを予測することと、素晴らしい提案に対し常に反撃の手段を用意して拒絶していくことに使われるのである。人間の本質において、彼の強靱な精神力はお手軽なユートピア思考を受け入れる無責任な精神の対極にあるものだ。その無責任さというのは、チェスのたとえで言うならば、白駒も黒駒も自由勝手にに動かしてチェスの最大の難問を解いている下手なプレイヤーの図々しい手際の良さといったところだろう。」

*1 「経済騎士道の社会的可能性」("The Social Possibilities of Economic Chivalry," Economic Journal, 1907, xvii, p. 9)

 この文章はまさに、「産業界の勤勉なるリーダー」のよくできた肖像画である。いわば彼は、個人主義のお師匠なのであり、他の芸術家たちと同様に、自分の利益のために生きることで、私たちのために生きているのである。とはいえ、芸術家同様、彼ら実業家もすすけた偶像になりかけてはいるのだが。というのも、その手で私たちを楽園へ連れて行ってくれるのが彼らなのか、大変疑わしくなってきたから。

 こういった様々な要素が現代の知性がもつバイアス、精神構造、正統性をもたらしている。本来の理屈が持っていた説得力の多くはすでに失われているにもかかわらず、よくあることだが、結論の方が理屈よりも長生きなのだ。今ロンドンのシティ[金融街]で公共の利益のための行動を呼びかけることは、60年前にカソリック主教と『種の起源』について話し合うようなものだ。どちらも最初のリアクションは知的なものではなく道徳的なものになるに決まってる。正統性こそが問題なのだから、議論の説得力が増すほどに敵意も深まる。それでも、こののろまなモンスターの棲みかに飛び込んで、その主張とその系譜をたどってきたのは、そのモンスターが私たちを支配してきたのは、彼の優れた能力のためではなく、親から受け継いだもののためだったことを示したかったからだ。

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第2章

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第2章

 18世紀の哲学と、白日の下にさらされた宗教の破綻。この中からでてきたのが、ビジネスマンこそが利己主義と社会主義の矛盾を解くことが出来る、というアイディアである。私は経済学者がその考えに科学的なお墨付きを与えた、と書いた。が、それは簡便のためであったので、急いで補足したいと思う。正確に言えば、経済学者たちは、そのようなことを言ったと思われているのである。偉大な経済学者たちの著作にはそのような教条的な発言はみられない。自己責任主義とは大衆を煽るだけのような連中の言葉の中にこそあるものであり、ヒュームの利己主義を受け入れる一方で、ベンサムの平等主義も受け入れてしまうような功利主義者たちの言葉なのだ*1。それは彼らがこの両者を統合するために信じるしかなかった信条なのだ。経済学者たちの言葉は、自己責任主義の解釈に確かに役に立った。しかしこの教義が人気を博したのは、当時の政治哲学者たちのお気に入りだったことにその理由がある。政治経済学者のせいではない。

*1 レズリー・スティーヴンが要約しているコールリッジの主張は実に共感できるものだ。「功利主義者というものは、すべての結束をブチ壊し、社会を個人的利益を追求するための闘技場にしてしまい、秩序、郷土愛、詩的な心情、そして宗教を打ち落とす。」

「我らに自由を」という格言は、17世紀の終わり頃にコルベートに進言した商人ルジャンドルのものであると長い間言われてきた*1。一方で、この文句を明確に自己責任主義とかけて書き記した人物は疑いなく判明している。1751年頃のアルジャンソン侯爵だ*2。侯爵は、政府が貿易に手出しをしないことの有利さを熱心に説いた最初の人物だ。より良く統治したければ、より少なく統治せよ*3。彼曰く、製造業が不振である真の理由は、私たちが彼らに与えている保護なのだ*4。"Laissez faire, telle devrait être la devise de toute puisssance publique, depuis que le monde est civilisé." "Detestable principe que celui de ne vouloir notre grandeur que par l'abaissement de nos voisins! Il n'y a que la méchanteté du coeur de satisfaites dans ce principe, et l'intérêt y est opposé. Laissez faire, morbleu! Laissez faire!!"[ zajuji:この二つの文はご覧の通りフランス語です。zajujiはフランス語が全くわからないので、『ケインズ全集第九巻』より、宮崎義一先生の訳を以下に引用させてもらいます。「自由放任、この言葉こそ、世界の文明化とともに、あらゆる政府当局の標語にならねばならなくなった。」「われわれの隣人の地位を低下させることによって、はじめて自分自身の偉大さを望むことができるような、憐れむべき原理よ! この原理によって満足させられる精神は、悪意と敵意しかなく、そこでは利害が対立している。おお神よ、願わくは自由放任をこそ! 自由放任をこそ!!」 ]

*1 "Que faut-il faire pour vous aider?" とコルベートは尋ねた。すると"Nous laisser faire,"とルジャンドルは答えた。
*2 この言葉の歴史については以下を参照せよ。オンケン『自由放任の格率』(Oncken, Die Maxime Laissez faire et Laissez passer. ) 次に続く引用の大部分はここからとられたものだ。アルジャンソン侯爵の主張は、オンケンによって指摘されるまで、見逃されてきたものだ。その理由の一つは、私が引用した文章が発表されたときを含め、存命中、彼は匿名を用いていたこと(Journal Economique, 1751)。もう一つは彼の作品が完全な形で公開されるのは1858年までなかったことによる(おそらく存命中は回し読みされていただろう)(Mémoires et Journal inédit du Marquis d'Argenson)。
*3 "Pour gouverner mieux, il faudrait gouverner moins."
*4 "On ne peut dire autant de nos fabriques: la vraie cause de leur declin, c'est la protection outrée qu'on leur accorde."

 ついに私たちは見まごうことのない自己責任の経済原則を手に入れた。そしてその最も熱心な主張は自由貿易であった。このフレーズと考え方はその時からパリ中を流れるうねりとなっている。しかし、自己責任主義が時代を超えて読み継がれる著作の中に定着するのにはまだ時間がかかった。重農主義者——とくにド・ゴネーとケネー——と自己責任主義を結びつけようという試みは古くからあったものの、自己責任主義を訴える著作上ではほとんど支持されてこなかった。もちろん重農主義者たちは個人の利益と公共の利益の根源的な調和という考え方の支持者たちではあったのだが。一方で、自己責任というフレーズは、アダム・スミス、リカード、マルサスの著作中には見あたらない。さらにこの考えが教条的な形で示されることもない。アダム・スミスといえばもちろん自由貿易主義者であり、18世紀の様々な貿易制限に反対していた。しかし彼の航海法や高利禁止法に対する態度は、彼が教条的な人物ではなかったことを示している。彼の有名な「見えざる手」についての文章も、ぺーリーの神の摂理につながるものであって自己責任という経済的ドグマではない。シジウィックとクリフ・レズリーが指摘するように、アダム・スミスの「自然的自由の明らかで単純なシステム」という主張は、政治経済の専門家としての問題意識からではなく、有神論的で楽観的な世界観からでてきたもので、それは彼の『道徳感情論』(Theory of Moral Sentiments, 1759)のなかに見て取れる*1。自己責任主義というフレーズが英国で初めて一般的に使われたのは、有名なフランクリン博士の文章であったろうと思う*2。実際、私たちの祖父たちがよく理解していた、そしてやがて功利主義哲学に取り込まれた自己責任主義は、ベンサム——彼は経済学者ではない——の後期の著作の中にようやくちゃんとした形で発見できるという有様だ。例えば『政治経済学綱要』(A Manual of Political Economy)*3の中で彼は、「一般的な原則として、政府は何もしてはならないし、しようと思ってもいけない。こういった場合、政府のモットーあるいは標語は、お静かに、であるべきだ。……農家や製造業者や商人の政府に対するこの要求は、ディオゲネスのアレキサンダー大王に対する要求、私の日差しを遮らないでください、のように穏やかで妥当なものである。」

*1 シジウィック『政治経済学原理』(Sidgwick, Principles of Political Economy, p. 20.)
*2 ベンサムは"laisseznous faire,"という表現を使っている。『著作集』(Works, p. 440)
*3 1793年に執筆され、一つの章が1798年に『イギリス双書』(Bibliothequé Britannique)で発表された。全文はボーリングの編集による『著作集』(Works)で1843年に刊行された。

 この時から自由貿易のための政治キャンペーンが始まった。マンチェスター学派とか呼ばれる連中やベンサム流の功利主義者たちの影響、そして二流の経済評論家の発言力、マルティノー女史とマーセット夫人の啓蒙書、こういったことが重なり合って、自己責任主義は政治経済学が到達した実用的で正統な結論であるとして、一般の人々の心に定着してしまったのだ。とはいうものの、この間にマルサス的な人口過剰の考え方が今あげたような人たちに広く受け入れられたから、 18世紀後半の陽気な自己責任主義はなりをひそめ、19世紀の前半の自己責任主義は陰鬱なものになっていくという大きな違いも生まれたのだが*1。

*1 シジウィックの前掲書を参照(op. cit., p. 22)。「アダム・スミスがいう政府の活動範囲の制限をおおむね認めた経済学者たちでさえ、晴れやかに制限を主張したのではなく、悲しげに、しぶしぶそうしたのである。つまり「自然的自由」がもたらした結果として現在の社会秩序があり、それを賞賛するために主張したのではなく、政府が選び取るかも知れないその他の人工的な秩序にくらべたら一番マシ、と考えての主張だった。」

 マーセット夫人の『政治経済学にかんする対話』(Marcet, Conversation on Political Economy, 1817)の中で、「キャロライン」という登場人物は富裕層の支出をコントロールするという考えに固執する役回りである。が、418ページにいたり、彼女はついに敗北を認めるのであった。

キャロライン——この問題について学べば学ぶほどこれまで対極にあると思っていた国同士の利害と個人の利害が完璧に調和するって事が納得できました。

B夫人——自由で広い視野を持っている人は皆、いつだって同じような結論にたどり着くものです。さらにお互いに寛容な心で接するよう教えてもくれますね。ここからもわかるように、科学というのは単なる経験的な知識に止まるものではないのです。


 B夫人は、キャロラインが感じた自己責任主義への疑問を時々は認めてくれていたが、キリスト教知識普及協会が1850年までばらまいていた『若い人々のためのやさしい教訓集』(Easy Lessons for the Use of Young People)では、それすらも許されていない。それによれば「引き締めであろうと、緩和であろうと、あるいは買い入れであろうと、売却であろうと政府が市場のお金のやりとりに介入するのは、悪い結果を引き起こしこそすれ、良い結果を生むことなどほとんどない」のであって、真の自由とは「まわりの人々に害をなすのでない限り、自分の持ち物、時間、強み、技術を自分の思うとおりに使えるような状態のこと」を言うのだという。

 つまり、自己責任主義という教義は教育システムをも取り込んでしまったのである。そうしてつまらないお説教になってしまった。この政治哲学はそもそも、 17、18世紀に王やお偉い聖職者たちを追い落とすために急造されたわけだが、今や赤ん坊のミルクとなり、文字通り、子ども部屋に入り込んでしまった。

 そしてついに、バスティアの著作の中に、この手の政治経済学が信奉する宗教の最もあからさまで、最も熱狂的な表現を私たちは発見する。『経済の調和』(Bastiat, Harmonies Economiques)の中で彼は、「私は、この人間社会を司る神の摂理がいかに調和しているか、それを立証してみようと思う。この法則が不調和に陥ることなく調和しているのは、すべての原則、すべての理由、すべての行為の源泉、すべての利害、これらが互いに協力し合って一つの大いなる最終目標への向かっているからである。……その目標というのは、すべての階級が同じ水準に向けて限りなく接近するということであり、しかもその水準というのは上昇し続けるのだ。これを言い換えれば、社会全体が良くなっていく中で、個人間の平等が実現するということになる。」こんな調子だから、他の司祭連中と同じく、彼が自身の信仰告白を記したときも、次のようになったのは当然だった。「この物質世界を絶妙なバランスで作り上げた神が、人間社会の調整を躊躇したはずがないと、私は信じる。また神が、自ら動き出すことのない分子と同様に、自由な個々人を結びつけ調和に向かって動かしてきたと信じる。……私は何ものにも邪魔されない社会の傾向というものを信じる。それは、人類が一段上の共通の倫理、知能、肉体レベルに向かって恒常的に接近するという傾向である。しかも同時に、それのレベルは、無限に上昇していくのである。人類の平和的発展を一歩ずつ実現していくために必要なのは、この傾向が乱されないようにすることであり、個々人が持っているこの傾向が発揮される自由を破壊しないことであると、私は信じる。」

 ジョン・スチュアート・ミルの時代から、著名な経済学者たちはこのような考え方に強く反対してきた。キャナン教授は次のように述べている。「名声も実績もあるイギリスの経済学者が、社会主義に対する全面的な攻撃の最前線に参加することは、まずないだろう。」 とはいえ、キャナンはこう補足する。「名が知られていようがいまいが、すべての経済学者には、社会主義的政策の欠点を指摘する準備が常に出来ていると言っていい。*1」 経済学者はすでに、「社会と個人の調和」を生み出した神学的な、あるいは政治的な哲学とのつながりを絶っている。経済学者の科学的な分析からも、そのような結論を導くことはない。

*1 キャナン『生産と分配に関する諸言説』(Cannan, Theories of Production and Distribution, p. 494.)

 ケアンズは、1870年、ロンドンのユニバーシティカレッジの「政治経済と自己責任主義」(Political Economy and Laissez-faire)という講義において、おそらくオーソドックスな経済学者としては初めて、自己責任主義全般に対する真っ正面からの攻撃を行った。彼はこう断言する。「自己責任という格言は、いかなる科学的根拠も持たない。せいぜいお手軽な経験則でしかない。*1」 これこそがここ50年の主導的な経済学者たちの見解であった。例えば、アルフレッド・マーシャルの最も重要な著作のいくつかは、個人と社会の利害が調和しないケースの解明に向けられている。にもかかわらず、経済学者というものは、個人主義的で自己責任主義を教えて回っている人であり、また、そうあるべきだという一般的な印象に対し、最も優れた経済学者たちの慎重で独断を避ける姿勢が広く評価されることはなかった。

*1  ケアンズは同じ講義の中で、この「支配的な見解」について、実によくまとめている。「今現在の支配的見解とはつまり、政治経済学は富を最速でため込む方法と、それを最も公平に配分する方法を解き明かす、という類のものだ。人間社会において、個々人は手つかずのまま放置されているときにこそ、最も繁栄するというその見解によれば、個々人として己の感じるままに自己利益を追求させ、政府や世評などの締め付けのない状態、しかし暴力や詐欺のない状態、そういう時に、個々人は最も力を発揮するのだという。これが、自己責任の原則としてよく知られたものだろう。そして政治経済学というのは、この格言の科学っぽい表現だと思われているようだ。その表現とは、個人、私企業の自由の証明であり、あらゆる産業が抱える問題に対する充分な解決策なのである。」

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J・M・ケインズ『自己責任主義の終わり』第1章

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自己責任主義の終わり

ジョン・メイナード・ケインズ


訳:zajuji
[ ]内は訳者による補足です。

第1章

 私たちが便宜的に個人主義とか自己責任主義とまとめている社会のあるべき姿についての考え方がある。それは他のライバル思想とか、人々の感覚から飛び出してきたようなものからいろいろと栄養分をもらってたりする。実に100年以上にわたって、哲学者たちは私たちの精神を支配してきた。というのも、この[個人主義って大事だねという]件について彼らは、それはもう奇跡的に一致してたし、少なくともそう見えた。というわけで、相変わらず私たちはまだ新しい音楽にあわせて踊ってさえいないが、雰囲気は変わってきている。とはいえ、かつてくっきりはっきりと政治的な連中を導いていた声も、いまではぼんやりと曖昧にしか聞こえない。さまざまな楽器によるオーケストラ。正確な音を発するコーラス。こういったものがついに遠く去ろうとしている。
 
 17世紀の終わり、君主の神権は自然的自由と社会契約に置き換えられ、教会の神権は宗教的寛容の原理と「絶対的に自由で自発的」な「人々の自発的な共同体としての教会」という見方に置き換えられた*1。 そして50年後には、神聖さの根拠と義務としての絶対的な発言力は、利益(効用)の打算に置き換えられることになった。ロックとヒュームの手によって、この原則は個人主義の礎を築いた。社会契約論は、個々人に様々な権利がそなわっているとする。それが新しい倫理学である。それは個人を中心に据え、合理的な自己愛がもたらすものを科学的に探求するということ、それ以外の何ものでもない。ヒュームはいう。「徳が要求するただ一つの関心事とは打算であり、より大きな幸福へのたしかな選好である*2。」 このアイディアは、たしかに保守派や法律家たちの実際の考えと一致している。彼らは所有権や所有しているものを個人がどうしようとかまわない自由に対して、知的で申し分のない足場を提供した。これこそが、今私たちが感じている雰囲気への、18世紀からの貢献の一つだ。
 
*1 ロック『寛容についての書簡』(John Locke, A Letter Concerning Toleration.)
*2 ヒューム『道徳の諸原理に関する一研究』第60節(David Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals, section lx.)

 個人を称揚する目的は君主と教会との決着をつけることだった。その影響として——社会契約論がもたらした新しい倫理的な意義を通して——所有権と時効取得を強化することになった。が、まもなく、世の空気は自らを再び個人主義と相対する立場におくことになる。ぺーリーとベンサムは、ヒュームとその先輩たちの手から功利的快楽主義*1を受け取ったが、それを公共の利益にまで応用して見せた。ルソーは、ロックから社会契約論を取り出し、そこから一般意志を描き出した。どちらの場合も、新しく人々の平等を強調するという美徳によってその移行を遂げている。「ロックは彼の社会契約論を、社会全般の安全を考え、人類の生得的な平等というアイディアを修正するために活用した。その平等に、財産や特権の平等をも含意させようとしたのだ。しかしルソーの社会契約論では、平等はスタート地点であるというだけでなく、ゴールでもある*2。」

*1  ぺーリー大執事はいう。「私は、人間の本質的な威厳と許容力についてのよくある熱弁のほとんどを退ける。肉体に対する魂の優越だとか、人間の動物的な部分に対する理性の優位だとか、あるいは、満足感には価値あるもの、優雅なもの、繊細なものがある一方、下品で、不潔で、好色なものもあるといったものだ。なぜなら、持続性と強度以外の点で、これらの快楽は互いに変わらないものだからだ。」——『道徳および政治哲学の諸原理』(Principles of Moral and Political Philosophy, Bk.I, chap.6.)
*2 レズリー・スティーヴン『十八世紀のイギリス思想』(Leslie Stephen, English Thought in Eighteenth Century, ii, 192.)

 ぺーリーとベンサムも同じ地点にたどり着いたのだが、たどったルートが異なる。ぺーリーは、自身の快楽主義に対して利己的な結論をもたせることを回避したが、そのために、超自然的で都合の良い神を用いた。「徳とは」と彼は言う。「人類への奉仕であり、神の意志への従順さであり、永遠の幸福のためにあるということである。」——こうやって、「私」と「他人」を同等のものに引き戻したのだ。ベンサムは同様の結論に、純粋理性を使ってたどり着いた。彼の議論では、特定の個人、あるいは自分自身の幸福を、他の誰かの幸福よりも大事に思う理論的な根拠などないという。故に、最大多数の最大幸福が人生の唯一の理性的な目標となる——ヒュームから効用の概念を持ってきてはいるが、その賢人の[次にあげる]皮肉が効いた命題は忘れてしまったようだ。「自分の指がちょっと傷つくことよりも、全世界の破滅を選ぶというのは、まったく理性に反しているというわけではない。同様に、どこかの国の全く知らない人がちょっとしたことで困らないようにするために、自らの破滅を選ぶのも、全く理性に反しているとは言えない。... 理性とは、情の奴隷であるし、ただそうあるべきだ。そして情以外のものに従い奉仕するなんてことは、フリだってできない。」
 
 ルソーは人類の平等を自然状態から引き出した。ぺーリーは神の意志から、ベンサムは血も涙もない数理的な原則から引き出した。こうして平等と利他主義は、政治哲学の世界に足を踏み入れた。そして、ルソーとベンサムが合わさったところから民主主義と功利的社会主義が生まれ出た。これが二つ目の、長く忘れられていたが今もなお命脈を保っている潮流である。この潮流は多くの詭弁を生み出し、未だに私たちの思考が持つ性質に浸透している。
 
 しかし、この流れは第一の潮流を駆逐しなかった。19世紀初頭に奇跡的な合体が起こったのだ。ロック、ヒューム、ジョンソン、そしてバークの保守的な個人主義[これが第一の潮流]と、ルソー、ぺーリー、ベンサム、そしてゴドウィン*1の社会主義と民主的平等主義[第二の潮流]の調和が起こったのだ。

*1  ゴドウィンはすべての政府は邪悪である、というところまで自己責任主義を広げた。この点については、ベンサムもほとんど賛成していた。ゴドウィンの場合、平等という原則は極端な個人主義そして無政府主義へ近づいていった。彼はいう。「どんな時でも私的な判断を行使すること、これこそは言葉で表せないほどに美しいドクトリンなのだ。だから、真の政治家たるものは、このドクトリンを少しでも妨げようなどという考えには、無限のためらいを必ず感じるだろう。」——レズリー・スティーヴン、前掲書(Vide Leslie Stephen, op. cit., ii, 277.)
 
 しかしながら、この両極端の合体は、この時期にノリノリな状態だった経済学者たちがいなければ実現が困難だったろう。私的な生活の優位と公共の利益の神聖な調和は、明らかにぺーリーの主張に見て取れる。そして、その考えに充分な科学的根拠を与えたのは、経済学者たちだった。個人が自然の摂理に従って、自由に、文化的に自分の幸福を追求すれば、いつだって社会一般の利益も同時に満たすようになるというのだ! 私たちの哲学的な困難はこれで解決だ。少なくとも、己の自由を守るために全力で取り組むことの出来る人にとっては。
 
 政府には人々の生活に介入する権利はない、という哲学の原則。そして一切の介入は不要であるという完璧な神の計画。そこに、やっぱり介入は不必要であるという科学的な証拠が現れたのである。これが人々の思想の第三の潮流である。この思想はまさに、「個々人が己の生活を良くしようと励むこと」が、公共の利益の基礎となると考えていたアダム・スミスに見いだすことが出来る。が、19世紀が始まるまでは、意識的に発展させられなかった。しかしやがて、自己責任主義の原則は、個人主義と社会主義を調和させるに至った。そして最大多数の最大幸福をヒューム的な利己主義の中に実現させた。そうして政治哲学者は、ビジネスマンにその席を明け渡すことになったのだ。ビジネスマンは自分の利益を追求することで、政治哲学者の最高善(summum bonum)を手に入れることが出来てしまうのだ。
 
 それでもプディングに必要な材料はまだそろっていない。まず、その多くが19世紀にまで持ち込まれてしまった18世紀の権力の腐敗と無能である。政治哲学者たちの個人主義は、自己責任主義を指向していたし、(場合によっては)神による、あるいは科学的な個人の利益と公共の利益の調和もまた自己責任主義を指し示してはいた。しかしそれ以上に、当時の支配者層の愚かさというのは、現実的な人々を自己責任主義へと強く駆り立てた。人々のそういった想いは今も変わっていない。18世紀の政府がやったことは、ほとんどすべてと言っていいほど、有害で不必要であったか、そういうふうに見えたのだ。
 
 その一方で、1750年から1850年の間に、個々人の創意によって物質的な進歩がみられた。しかも、統制のとれた国家なんていうものの指図を受けずになされた進歩だった。この経験がとても自然に感じられる理屈を補強した。哲学者と経済学者たちは、いろいろ深い理由があるけど、結局私企業が自由に活動したら社会全体の幸福を増進させるよ、と語るようになった。ビジネスマンにとってこれ以上の哲学があるだろうか? また、これを実際に目撃した人が、彼の生きた時代を彩る進歩の恩寵を否定することが出来ただろうか? しかもその恩寵は、「金儲けに夢中」な個人の活動がもたらしたのだ。政府の介入は最小限にとどめ、経済活動には手をつけずあるがままにして、成功を求めるというあっぱれな動機に突き動かされている人々の技術と創意にゆだねられるべきである。つまりそういう教義をはぐくむ土壌が出来上がっていたのだ。神聖であったり、自然であったり、科学的であったりする土壌が。
 
 そしてそのころまでには、ぺーリーとその眷属の影響力は衰えていて、ダーウィンによる革新が人々の信念を揺さぶっていた。古い信念と新しい信念。これほどまで相容れないものはないと思われた。この世界を神聖なる時計職人の偉業とみる教義と、この世界を確率と混沌、そして気の遠くなるような長い時間から成り立っているとみる教義。しかしある一点において、新しいアイディアは、古い考えを補強することになった。それまで経済学者たちは「富、商業の発展、機械化は自由競争によってもたらされたのであり、自由競争こそがロンドンをつくったのだ」と教えていた。しかし進化論者たちはさらに先を行っていた。「自由競争が人類をつくったのだ」と。もはや人間の目は超人的なデザインの存在を示すものではなく、すべてが奇跡的に上手くいった結果得られたものであり、自由競争と自己責任主義の下でこそあり得たことなのだ。適者生存の原則は、リカード的経済学の幅広い一般化と捉えることができた。この壮大な統合の下では、政府による介入は不要であるばかりでなく、邪悪な行為であるのだった。なんといっても、私たちが太古の海のバクテリアからアフロディーテのように立ち上がった力強いプロセスの前進を妨害するものと見なされたのだから。
 
 それゆえ、私は19世紀の政治哲学に特異な調和をみる。それは、多様で相争う学派を統一し、もろもろを一つの結論に一致させることに成功している。ヒュームとぺーリー、バークとルソー、ゴドウィンとマルサス、コベットとハスキッソン、ベンサムとコールリッジ、ダーウィンとオックスフォード主教。実際のところ、彼ら [対立者たち] は互いに同じこと ——つまり個人主義と自己責任主義——を説いていたのだ。これこそが英国国教会なのであり、その使徒たちなのだ。さらに経済学者の一団が、この教義からわずかにでも逸脱すれば、不信心の報いとして経済的困窮は免れない、と証明することになっていたわけだ。
 
 これらの理屈や雰囲気が、自覚のあるなしに関わらず、私たちがここまで強力に自己責任主義に惹かれる理由であるし、貨幣価値の操作、投資の方向性や人口問題に政府が介入しようとすると多くの人に熱のこもった疑念を抱かせる理由でもある。とはいえ、この堕落した時代、私たちの多くはこの問題に気づいてさえいないのだが。ところが実際には、私たちは彼らの著作を読んでさえいない。仮に読んで理解したならば、彼らの議論はバカげていると考えるだろう。にもかかわらず、もしホッブス、ロック、ヒューム、ルソー、ぺーリー、アダム・スミス、ベンサム、そしてマーティノー女史が、彼らが考えたように考えずに、そして書き記しように書き記さなければ、私たちは現在考えているようには考えていないだろうと思うのだ。人々の間で有力なものの考え方の歴史を研究することは、人間の精神の解放のためには不可欠な準備作業である。現在のことばかり知っていることと、過去のことばかり知っていること、私にはどちらがより人を保守的にするのかわからない。

||目次(PDFあります)||第2章>>

2009年10月8日木曜日

統計のもやもや

 世の中のことをわかってる人になりたい、と子供の頃はよく思っていて、大人の振りをよくしたけど、参考にした大人たちがかなり見栄っ張りで知ったかぶりする人たちだったので、思春期以降、おかしな振る舞いをなおすのにずいぶん苦労した。どんな話題でも、瞬間的に「そりゃそうだよ」と言いそうになってしまう。今はそういうのはなくなったけど、あぶないのが統計の数字を聞いたときだ。ついつい「統計上それはナントカだ」とか言いたくなってしまう。が、それをこらえてちょっと考えてみると、統計の数字だけではなかなか納得できない、もやもやした感じが残ることも多い。

 社会の変動を統計を通して見るのは社会科学では必須の作業だ。でも、これが難しい。先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだときも、統計ってこわいなーと痛感した。書評にも書いたように、実際に人が殺された殺人事件の統計は存在しない。なので、被害者数から推測したり、事件の性質から分類したりしなきゃいけない。つまり統計上の数字をそのまま議論に持ってくるのは危険だよ、ということだ。

 同じように、統計の比較も難しい。なんでも殺人事件の統計に毒殺を含めない国があるそうだ。こんなところにも、歴史的なバリエーションが生まれるんですね。一つの統計をそのまんま真に受けるとしっぺ返しを食らうかもしれないのだから、それを比較するのはそうとう慎重にならなきゃいけない。

 20代のとき就職難で非正規雇用しかなくても、30代ではちゃんとした職に就けている。だから景気と非正規雇用問題はあまり関係がない。雇用のミスマッチが起きている。という話を聞いた。その実際の数字を不勉強な僕は知らないけれど、なんかおかしいな、と感じた。まず思ったのは、景気が悪くなれば一番最初に削られるのが非正規雇用だから、非正規 / 正規で割合をみると、分子が減っていくので、そりゃ数字上は改善かもね、ということ。失業率との比較が必要な気がする。でも失業率は失業率で問題を抱えた数字だしね。

 次に思ったのは自殺者の数のこと(以下はここを参照)。自殺が景気とはリンクしていない、という研究もあるようだけど、日本の場合、やはり97年に激増していて、そのときの水準から戻ってきていない。たしかに自殺者数はこの10年間の失業率にはリンクしていないけど、不景気と無関係というのは考えづらい。というか、失業率と自殺者数の動きがばっちりつながっていないから両者は関係ない、と言えちゃうんだろうか? いや、それはここではいいや。そうじゃなくて、30代の自殺は一貫して増えている、ということが言いたかった。団塊ジュニアの数が多いから? とも思うし、確かに団塊ジュニアの先頭(1970年生まれ)が30歳になった2000年以降20代の自殺は減り始めるんだけど、2003年になると微増、そして横ばいになっていく。これは世代のボリュームだけでは説明はつかないんじゃないかな。というか、若い世代の人口が減っているのに、10、20、30代の自殺者数(割合ではなく)は横ばいか増加ってなんか怖い。

 田中秀臣先生がブログで書いていた。

まだ僕の本務校は統計とってる真っ最中ではっきりいえないんだけど、他の大学の来年3月卒業の学生の就職率がどうも実質ベースで10〜20%程度前年比で低下しているという情報がある。このブログたぶん多くの大学教員がみているはずだから、学生の就職状況がちょっとまずいのは直感でもわかってるんじゃないか、と思う。

 高卒の方はかなり深刻化しているわけで、この事態をみてまだメディアとかは「雇用のミスマッチ」とかたわけたことを書いている。そりゃ、見つかりますよ。この不況だって構造的に人材難もしくは待遇低くて人手が来ない企業なんて日本にごまんとあるから。


 正規雇用が増えたのは、景気が悪いので、非正規雇用が削られ、ひどい待遇でも我慢してる人が増えたからかもしれない。いやこれもそういうことが言いたいのじゃなくて、30代で正規雇用の割合が増えたとして、それを不景気で説明することもできるよ、ということが言いたかった。そして自殺者数の推移は、待遇の低さや本当の失業者数を示唆しているのかもしれない。

 以前書いたんだけど、オバマ政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長のクリスティーナ・ローマー先生が、職の数だけじゃなくより良い職を作り出すことが重要だ、と力説してた。それが景気対策なんだ、と。

 さらに勝間和代さんとの対談で飯田泰之先生は「効用とは心で感じる満足度」であり「効用は経済学では重要な概念」と言っている。たぶん、統計の数字で議論をひっくり返しても、それが人々の効用を反映しているものでないとあまり説得力はないんだろう。といって効用を計る手段はなくて、統計を参考に推測するしかない。なので僕のような粗忽者としては、いい加減なこと言っちゃうフラグが立ちまくりで、まあこれまで通りこれからもいい加減なことは言っていくんだけども、やっぱり今生きている人の効用が大事だよね、長期的には我々は皆死んでいるんだから、と思う。んで、統計の数字が話題になるときに感じるもやもやは、統計がどうしても長期的な視点になりがちだからだろう。二年くらいの統計を真に受ける人はあんまりいないだろうし。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール

 最近、ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』を読んだときのメモを読み返していた(感想)。で、ケインズの貯蓄に対する考え方のまとめがあった。彼は貯蓄する意図を問題にしていた。そりゃ長期的には貯蓄は将来の消費と同じだろう。お金を貯め込んだ本人が死んでしまえば、遺産として家族の手に渡りいくらかは消費されるだろうし、一部は税金として吸い上げられて公共サービスの維持なんかに使われるだろう。でもそれはもうずいぶん気の長い話だ。実際にはお金を貯め込むような人は消費もしないし、リスクの大きい投資もしない。ので、人の一生程度の時間では、貯蓄は格差をいっそう拡大させているし、なんだかんだいって世代を超えて受け継がれている(つまり長期的に貯蓄=消費というのは理屈だけで、実際は違う)。

 だからケインズは「長期的には我々は皆死んでいる」と言ったわけだ。だから今すぐなんとかしなきゃ、と。長期的には貯蓄は消費だし、北海道の失業と沖縄の求人だって、長期的にはマッチするだろう。では、貯蓄が消費に変わるまで、僕たちは10年も20年も待ち続けなければいけないのだろうか。待つことに失敗してしまったら、それは自己責任なんだろうか。もし待たなければいけない時間が100年だとしたら、運が悪かったとあきらめるしかないのだろうか。

 長期的な視点から現状を肯定するのは危険だ。統計が話題になったときのもやもやは、僕たちがその危険をなんとなく感じとったということなんだと思う。

2009年9月19日土曜日

勝間和代のBook Loversを聴いた その2

はい。珍しく予告通りのその2です。前回のエントリーは経済学者の田中秀臣先生をはじめ、ブログ等で紹介してくださった方々がいました。ありがとうございます。

さて、今回は経済学者の飯田泰之先生です。前半はミクロ経済学の話ですが、徐々にマクロの話へ移行していきます。経済成長とは具体的に何なのか、何をどうすれば経済成長といえるのかが語られます。

僕はさっそく本編で紹介されている『哲学思考トレーニング』と『将軍たちの金庫番』を買いました。んで、江戸時代の経済史を解説した『金庫番』は僕もおすすめします、文庫本ですし。前回の内容とも関わりますが、官僚と金融政策がテーマと言ってもいい本で、とくに幕府とハリスの交渉の解説は必読でしょう。官僚的な人ってのはいつの時代でも変わらないのか、と脱力すること間違いなしです。江戸の三大改革の経済的な実態は、もうなんというか情けなさでいっぱいです。自分の不遇さや劣等感を、倹約や禁欲と称して正当化し、周囲に押しつけるオジサンがたくさん出てきますよ。

さて、前回同様、実際の文言とはかなり違います。あとやっぱり長いです。何を言っているのか正確に知りたい方はBook Lovers本編を聴いてください。(2009年8月17日から21日までの放送です。)

(一日目)
勝間さん(以下 K):経済学の面白さ、志した理由を教えてください。

飯田さん(以下 I):もともと歴史好きなのですが、歴史が大きく動くときは経済も大きく動きます。例えば世界恐慌、そして昭和恐慌を経て、日本は貧困の問題を抱えて軍国主義に向かいました。こういうダイナミズムを研究してみたい、と思って大学院にいきました。院にいくと民間の就職先はそうそうないんで、気づいたら大学の先生になってましたね。

K:経済学は日常でこそ活きるんだ、と私は思ってるんですが、あまり理解されません。

I:そうですね。経済学のベースは個人の選択、何をして何をしないか、です。そこで問題になるのが限りある貴重なものをどう分配するか、ということです。勝間さんの本の中にもよく出てきますが、僕らにとって最も貴重なものは時間だと思います。その時間の割り振りというのは、一番経済学的な思考を必要としていると思います。これは日常の時間の使い方にも当てはまります。貴重なものの分配をどうするか、これをロジカルにやるのが経済学です。

K:私は会計士の勉強で経済学をやりました。経済学的に考える習慣がある人ない人で随分違いますね。

I:そうですね。特に機会費用という考え方が重要ですね。家で半日ぼうっとしているコストはどれくらいでしょう? お金を使わないのでコストゼロだ、と思ってしまうところですが、何か楽しいことをしたり、将来のために勉強したり、仕事をしてお金を稼いだりすることができたわけです。その実際の利益と実際には生まれなかった利益の差額が機会費用です。

K:時間の使い方に対する考え方が変わってきますね。

I:一般に経済学というとGDPとか為替というイメージですが、それはかなり応用の話で、基本は身近な意思決定です。応用の話はビジネスの最前線にいる人でないと、あまり重要ではないかもしれません。

K:応用がわかったところで予測も難しい。

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哲学思考
トレーニング
伊勢田哲治
I:予測できない、ということがわかります。なので日常に活きる経済学的思考が重要だと考えています。今日の本はそういう本です。

K:タイトルに「哲学」がついているのでわかりにくいですが、内容としてはロジカル・シンキング、クリティカル・シンキングの本ですね。クリティカル(批判的)にはネガティブなイメージがあるようですが、そうではないんですよね。

I:確かに批判というと文句ばっかり言っているイメージですが、考え方をブラッシュ・アップしていこう、ということだと思っています。この本はタイトルで随分損をしていて、なんだかカントとかが出てきそう。実際には論理的思考トレーニング、といったところです。

cover
ロジカル・シンキング
照屋華子・岡田恵子
K:類書に照屋華子さん、岡田恵子さんの『ロジカル・シンキング』という本があります。

I:はい。大学の僕のゼミでは必ず『ロジカル・シンキング』が一冊目です。これで基本の型を作ります。そして次に自分にあった思考法を今回の本で見つけてもらいたいんですね。自分で思考の型を作るための支援をしてくれる本です。具体的には、良い推論と悪い推論のちがいや、演繹法だけでなく帰納法も必要な理由、科学と疑似科学の差、などがやさしく解説されています。

(一日目はここまで)
(二日目)
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東大を出ると
社長になれない
水指丈夫
I:この本は小説なのであまり内容に触れるわけにはいかないのですが、昨日お話しした機会費用が大きく関わってきます。サラリーマンにとって起業はとても大きな賭けです。起業10年後に生き残っている会社は実に3%しかない、というデータもあります。この本は、ある男の子が起業をしようとするけど周りから止められる、迷っているうちに友人が……、というふうに進んでいきます。普通ビジネス小説というと、努力して困難に打ち勝って成功する、というイメージですが、この本はかなり違います。経済学的に妥当な展開をしていきます。

K:本文中に経済理論の説明が出てきます。

I:はい。経済理論に基づいた意思決定が描かれています。経済学の教科書というのははっきり言って面白くないんですね。この本は身近な出来事を題材にしているので、入門に良い本だと思います。この本を読んだ後、すこし堅めの経済学の本に進んでみるといいと思います。

K:小説の中で屈曲需要曲線に出会ったのは初めてです。

I:(笑) 実際に経済学を必要としているのはビジネス・パーソンです。しかし、経済学の本の多くはそういう人に向けて書かれていません。これまで経済学者たちは、経済学そのもののセールスをしてきませんでした。

K:アカデミックな場面以外で経済学が使えるということを、一般の人に知ってもらおうとしてこなかったわけですね。

I:僕は自分のことを「経済学のセールスマン」であると思っています。今大学では経済学があまり人気がないんです。

K:特に女子に人気がないですね。

I:ないですね〜。大学にもよりますが、男女比8:2くらいの大学も多いと思いますよ。東大に至っては9:1くらいでしょう。これは実にもったいないことです。英米系の大学ではエコノミクスが一番メジャーな専攻*1です。日本の場合、社会科学なら法学部、文学部。あとは工学部でしょうか。経済学は世界言語といえますから、これはホントにもったいないです。

K:私は日常で「効用」という言葉を使ってしまうのですが、通じていないのかもしれません。

I:効用というと、お薬の効能のことだと思われているかもしれません。効用というのは、自分の心の中で感じる満足度、のことです。経済学では重要な概念です。

K:機会費用を考えるというのはまさに、効用を比べるということですね。自分にとって一番満足のいく選択肢を探るということですから。自分の満足と手持ちの資源(時間やお金)、これを計って選択をしていくと、とても人生が面白いですよね。

I:そうなんです。「どうやったら自分の効用を改善していけるんだろう?」という疑問を頭の片隅に置いておくだけで、小さな意思決定の際に良い方を選べるようになってきます。逆に漫然と何かをすると、結局何もしないで終わってしまいがちですよね。

K:機会費用の概念を理解するだけで人生は随分変わってきます。

I:経済学というと金のことばっかり考えてる、と言われてしまうんですが、重要なのは自分の心の中の満足や目標です。それがちょっとづつでも改善したり前進したりすることが大事です。

(二日目はここまで)
(三日目)
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景気って何だろう
岩田規久男
I:昨日と一昨日は個人にとっての経済学の話でした。実際にビジネスを続けていくと、景気や経済政策が重要な意味を持ってきます。僕は景気についての理解が、日本の場合あまり広まっていないと思います。一般的にもそうですが、新聞記者さんでも曖昧な理解しかしていないようです。そこでこの本を紹介します。

K:サイクルとしての景気と、絶対水準としての景気がありますが、日本の場合、絶対水準としての景気ばかり注目されているようです。

I:はい。絶対水準としての景気と、景気が拡大しているかどうか(良くなっているのか悪くなっているのか)。この二つを区別しないと政策はうまくいきません。例えばいざなぎ越えと言われた2003年から07年にかけての好景気があります。一応これは景気の拡大、です。が、好景気だったのは一年もないと僕は考えています。

K:つまり絶対水準としての景気は良くなっていない、ということですね。そもそも好景気って何なんでしょうか。

I:経済学的には、潜在成長率を越えて成長しているかどうか、です。潜在成長率というのは計測が難しいんですが、今ある資源や人材を全て活かしたらどの程度モノが生み出せるのか、ということです。潜在成長率は計測する人によってバラバラの数字が出てきますが、大変おおざっぱに言いますと、年率2%です。なので名目GDPから物価上昇率を差し引いた実質GDPで2%以上成長していれば好景気といえます。

K:それは日本だけでなく?

I:はい。潜在成長率は、世界的にここ100年くらいそういう水準です。日本の場合、実質GDPがここ20年、年率0.数%でしか成長していません。なので、いざなぎ越えといわれる好景気でも、自分たちの暮らしが良くならない、と感じるわけです。そこで「景気が良いなんてのはイカサマか?」と言われてしまうんですが、景気は拡大しているんですが、絶対水準としての景気は良くなっていない、ということなんですね。この程度の拡大ではどうにもならないんです。

K:実感できないんですね。

I:そのせいで、経済成長や景気に対する非常に大きな不信感を生んでしまいました。さらに、日本銀行や財務省は、景気が良すぎる、と言いはじめました。

K:はあ!?

I:2006年の量的緩和解除の理由の一つが、バブル的に景気が良くなるかもしれない、というものでした。その予防的な措置だ、と日銀は言っています。予防も何も良くなってないじゃないかと思うのですが、なんだかよくわかりません。

K:解除は大失敗でした。

I:『景気って何だろう』にはそういった問題がよく整理されて載っていますし、ちくまプリマー新書の想定読者は高校生ですから、とてもわかりやすく書かれています。本書のなかにもありますが、景気の話で重要になるのはインフレとデフレです。景気の拡大を継続して、絶対水準で良いところに持っていきたいわけですが、デフレ状態では不可能です。デフレで景気が良いというのは、ほとんど形容矛盾です。

K:ハイパーインフレは恐れるのにデフレは恐れないというのが本当に不思議です。

I:その理由の一つに、デフレで心地よくなる人が結構いるってことが言えると思います。

K:はあ!?

I:(笑) 自分で商売をしている人や、ビジネスの最前線にいる人にとっては、まさに「はあ!?」としか言いようがないんですが、例えば僕の母親は「モノが安くなった」と大変喜んでいます。

K:お給料が一定で支払われいる人にすれば、収入は変わらないわけですからモノが安くなるほうが良いに決まってるわけですね。

I:そういう人びとが初めてデフレの害に気づくのは失業したときと倒産したときです。そこまで行かないと気づかないというのは、とても恐ろしいことです。

K:貧困問題のディベートに参加したときに、「デフレがいけないんですよ」と言ってもまったく理解してもらえませんでした。一体それが貧困問題とどう結びつくのか気づいてもらえませんでした。

I:貧困問題は企業が強欲だからだ、と言い返されてしまいますよね。しかし企業を攻撃するのはあまり意味がないと思います。実際に価値を生み出しているのは企業セクターですから。

K:デフレは例えるなら血液がどんどん減っている状況です。不健康になるのは当然といえます。

I:そうですね。ここ一年間でイギリスの中央銀行、Bank of Englandは貨幣の供給、つまり血液の供給を倍にしています。ものすごく輸血しているわけです。アメリカの中央銀行FRBも、80%くらい増やしてます。ケチで有名なユーロ圏の中央銀行ECBも50%くらい増やしてます。もちろんこれらの措置は金融危機に対応するためです。で、日本銀行は、だいたい5%くらい減らしています。さらにお金を増やしたときの波及効果(貨幣乗数)も下がってきていますので、急速な勢いでお金が足りなくなっている、といえます。血が足りない、でも輸血はしたくない、という状況です。

K:どう考えたらそういう政策になるのか、そこが謎なんです。謎といえば、法学部をでている人がなんで日銀に行くのかも謎です。

I:それは確かに不思議なんですが、日銀に入る人はエコノミスト組もけっこういます。しかし彼らの意見が政策に反映されることは全くありません。関係ないって思われているようです。

K:ひどい話です。

I:日銀は国民の審判を受けていない組織です。なので逆に世論を過度に気にします。つまり「自分たちは国民の信任に基づいて政策を実行する」という風に強気には出れないんですね。なので国民が嫌がるであろうインフレ政策を採用できないんです。

K:なるほど。飯田さんのお母様だったら「物価が上がって困る」と感じるから、ですね(笑)。

I:そうなんです(笑)。

K:この間石油や小麦(コモディティ)の値段が上がったとき、国民は大騒ぎでした。私はこれでインフレになるかも、と期待していましたが。

I:そもそもコモディティの値段は、中央銀行にはどうしようもないわけです。石油価格が上がって、それによってインフレになるのを日銀がコントロールすることはできません。仕方のないことですから。逆に石油価格が上昇しているのに金融を引き締めてしまえば、ますます血液が足りなくなってしまう。他の商品を一部あきらめて石油にお金を割かざるを得ないのに、さらにお金が減ってしまうわけですからね。資源インフレのときは、むしろ金融を緩和する必要があったんです。

K:それは経済学を学んでいればわかることですよね。

I:これは僕の仮説ですが、日銀が世論をすごく気にするのは、政治家がインフレを嫌がる国民の期待に応えて、日銀法を改正して独立性を取り上げてしまう、そうなることを一番恐れているからだと思います。なので、政治家以上に過剰に世論に反応してしまう。これがデフレの原因の一つだと思っています。

K:合成の誤謬ですね。一人一人の利益と国民全体の利益が相反している。こうなると国民の正しい理解がカギになってきます。

(三日目はここまで)
(四日目)
cover
将軍たちの
金庫番
佐藤雅美
I:今日の本は、江戸時代の経済の歴史の本です。江戸時代の経済政策、そのなかでも金融政策について詳しく書かれています。著者の佐藤雅美さんは小説家ですが、佐藤さんの小説は変わっていて、いつも江戸時代の経済、裁判、医療の話なんですね。今日紹介する本は小説ではなくて資料の解説のような感じです。

K:江戸時代の社会学的な作品をつくる作家さんなんですね。

I:僕は将来歴史小説家になりたいんですが、それほど江戸時代におもしろさを感じています。江戸時代に唯一足りなかったのはエネルギー革命だけだったと考えています。

K:それで人口も増えなかったんですよね。生産性もそんなに上がらなかった。

I:商業のシステムは発達していました。世界で初の先物取引所がありましたし、商人の力もあり教育水準が高い。国内の流通、郵便網もできていましたし、貨幣経済も発達していました。ここまでできて日本で産業革命が起こらなかったのは、やはり蒸気機関が日本にはなかったからでしょうね。

K:石炭はとれていたわけですから、作っていてもおかしくないんですけどね。発想がなかった。科学における遅れは、やはり貿易制限の影響でしょうか。

I:そうですね。それと日本の場合は、誰が偉いかといえば文系が偉いわけです。

K:どうしてもその話になりますね(笑)。士農工商ですもんね。

I:時代劇で見るような江戸の町並みはすべて1820年代を再現したものです。また、僕たちが江戸っぽいな、と思うもの、寿司、うなぎ、天ぷら、歌舞伎、浮世絵、こういったものも1820年代のものです。

K:もう明治の直前なんですね。

I:そうなんです。なので時代劇で徳川吉宗や水戸黄門が1820年代の江戸の町並みを歩いているというのは実に困った話なんですが、撮影されている太秦の町並みが1820年代ですからそうなっちゃうんですね。

K:私たちが2300年代にいるような感じですね。

I:ではなぜ1820年代がこんなに影響力を持つほど素晴らしい時代だったのかというと、これが金融政策の話になります。徳川家斉という浪費家の将軍がいまして、彼が老中に「どうしても贅沢がしたいんだ」と、そんなことを言うわけです。で、老中はお金をなんとか集めなきゃいけなくなるんですが、そこで貨幣の改鋳を行います。一枚の貨幣に含まれる金や銀の量を減らすことで、貨幣をより多く作ったわけです。例えるなら、一円分の銀しか入っていないのに、これは十円です、って言い張るわけですから、九円儲かるわけです。

K:今のお金の作り方と同じですよね。

I:そうなんです。これを乱発したんです。そうするとどうなるかというと、インフレになります。その結果、江戸の街は好景気になりました。そして、うなぎを食べたり、初鰹に一両なんて値がついたり、みんなで歌舞伎を見に行ったり、お伊勢参りに行ったりするようになったんですね。

K:バブルですね。

I:そう、文政バブル絶頂期というのが、今の日本人の江戸のイメージを作り上げているんです。

K:バブルというのはいつか弾けますが、文政バブルも弾けたんでしょうか。

I:ここが非常に賢いところで、急激なバブルを起こさないようにゆっくりとお金の量を増やしていったんですね。年率にすると1%くらいです。1%というのは現代ではすごく少ないんですが、当時はお金の量というのは減るかそのままかどちらかでしたから、その頃としては1%インフレが10年続くというのは充分に影響力のある数字です。そのおかげでとても安定して成長していきました。

K:まさにインフレ・ターゲットですね。

I:やがてバブルも弾ける、というよりもしぼんで終わってしまうのですが、それはこの政策をすすめた老中が在職中に亡くなってしまったからです。そうするとやはり、「こんな貨幣を乱発するような政策はけしからん」という雰囲気になってきます。そうして引き締め政策、つまりデフレ政策がとられるようになりました(天保の改革*2)。さらに、「商人は儲けすぎている」ということになって、規制が増えていきました。

K:そんなことをすれば大変な失業を生み出しますよね。

I:このデフレ政策によって、江戸というのは、ほとんど街の火が消えてしまったような状態になりました。

K:どこかで聞いたような話ですよね(笑)。1980、90年代の日本みたいです。

I:そうなんです。実は日本は江戸時代の頭からこれを繰り返しています。景気が良くなると意図的に引き締めてしまう。80年代後半からのバブルでも、アメリカのサブプライムローンバブルのように派手に弾けることはしないで、意図的に規制や金融引締めを行って潰しましたよね。そこで問題なのは、弾けたときよりも、意図的に潰したときの方がダメージが少なかったと言えるのか、ということです。

K:とんでもない。長期停滞を招きました。

I:弾けた後に手を打った方が軟着陸となったかもしれません。江戸時代の経済史を見ていくと、景気を重視し商人の活躍を評価する人たちと、商人がのさばるような世の中はけしからん、という人たちのせめぎ合いがあるようです。

K:それもどこかで聞いたことがありますね(笑)。

I:はい(笑)。江戸時代はそれでもいいんです。武家政権なわけですから、お侍が一番偉い。でも現代でも何故かそういう考え方が残っているんですね。

K:経済学部が不人気だというお話がありました。私は商学部なんですが、経済学部よりもさらに人気がないんです。ビジネス、商売、というとさらに女子が少なくなります。MBAというと元々商学部なんですが、こちらは何故か人気があります。

I:女性がビジネスに関心を持つ、ということに抵抗を持っている人がいるんですよね。会社の中に優秀な女性を囲い込もうとしない、結婚退職させる、なんていうのはとんでもない資源の浪費です。女性がビジネスに向かないと考えるのは男だけですね。

K:日本の男性だけですよ。日本は先進国のなかでも女性経営者、女性管理職の割合が極端に低いです。その上でそういう浪費をするから景気が回復しないんです。なので、潜在成長率は2%というお話がありましたが、それを越えて成長するためには、お金を刷って、典型的な働き方をしなくても人びとが活躍できる社会にすればいいんですよね。ある意味これだけなんです。

I:そうなんです。僕は非常に単純な一本道だと思っています。

(四日目はここまで)
(五日目)
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経済成長って
なんで必要なんだろう
芹沢一也・飯田泰之ほか
K:最終日の本は『経済成長ってなんで必要なんだろう』です。飯田さんが中心となっている対談を収めた本です。なぜ経済成長は必要なんでしょう?

I:どうやら人間というのは、毎年2%くらい要領が良くなっていくようなんです。人びとが2%分、より仕事ができるようになっているのに、経済の規模が成長しない場合どうなるかというと、毎年2%の人が必要なくなっていくんです。

K:恐ろしい話です。

I:言い換えると、毎年2%の人が失業していくわけです。アメリカやヨーロッパでは、もちろん経済の成長が2%を下回ることはあるんですが、平均すると2.5%~3%で成長しています。こうなると、いつもちょっと人が足りていないような、そういう状態が維持できます。

K:新しく社会に出る若者の雇用が生まれるわけですね。

I:そうです。それに対して日本の場合、1%かそれ以下の成長がずっと続いています。そうすると、だんだん人が要らなくなってくるわけです。長い目で見ると経済成長の源泉は、人びとが仕事に馴れて、そして新しい発明が生まれ、付加価値をより多く生み出していくことです。個々人が2%の成長を繰り返していく中で、新しい産業が起こり、経済全体も成長していきます。ところが、若者に雇用が足りていないと、2%成長するチャンスがない、ということになりますから、周囲との格差が生まれますし、経済も長期的に停滞します。これを防ぐためには、経済が2%成長しないと話になりません。

K:最低限実質成長率が2%ないと社会が維持できないんですね。

I:定常型社会を目指す、とかよく言われますが、定常型社会というのは0%成長のことではありません。人間の成長に会わせた2%の経済成長がなければ無理です。こういうふうに言うと、経済成長はもう出来ない、と言い返されます。これだけ物が豊かな社会のどこで成長するのか、と。この主張に対する重要な反論は「日本以外全部成長してますが、何か?」です。むしろ、なぜ日本だけできないのか説明して欲しい。なぜか日本では若者でも「もう成長をあきらめよう」というようなことを言う人たちがいますね。

K:アメリカもヨーロッパも成長しているのに。

I:はい。しかも、多くの人が経済成長のイメージとして、米を二倍食うとか、服を二倍買う、という感じでとらえているようです。付加価値という考え方が広まっていないんですね。

K:機会費用の考え方が理解されない、というのが今週のテーマのようになっていますが、付加価値の考え方もですか。

I:どうしても量で考えてしまって、もっと美味しいもの、もっとデザインの優れたもの、という質的な経済成長の考え方になかなか至らないんですね。しかし現実には1970年代に量的な成長というのは終わっています。

K:買い物をするときにいつもより高いシャツを買う、とかそういう成長なんですよね。

I:それと、この本で貧困問題について取り組んでいらっしゃる湯浅誠さんと対談しました。何が貧困をつくりだしているのか? デフレと不況がつくっているんだ、ということが、貧困問題を語る人たちの考えから抜けてしまっているように思いました。

K:私も湯浅さんと対談しましたが、そこが議論になりました。湯浅さんは介護や農業にまわればいい、と言っていましたが、それだけでは全然足りないと思います。

I:現在ここまで失業が深刻になったのは、まさしく不況だからです。さらに、不況で失業者が多いですから、上司は部下にプレッシャーをかけやすくなります。「お前の代わりはいくらでも」というわけです。これが生きづらさ生む要因にもなっているでしょう。このように考えますと、様々な問題がありますが、本丸は景気が悪いこと、です。もし景気が良くなって、人手不足になれば企業は労働者の様々な要求に応じるでしょう。例えば、労働時間を自分で選ぶ、とか。

K:なぜ日本では景気が悪くなると長時間労働になるんでしょう。

I:景気が悪くなると、企業は給料を下げたくなるんですが、これはなかなか実現しません。なので同じ月給で長時間働かせることで時給を下げるわけです。デフレで売上げが落ちてますから、企業としてはそうでもしないとペイしないわけですね。

K:デフレだからこそ長時間労働になるんですね。だからインフレ・ターゲットと総労働時間規制を一緒にしないとだめだと思うんです。そこで最低賃金だけ上げてしまうと、単に失業者を増やすだけになってしまう。

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脱貧困の経済学
飯田泰之・雨宮処凛
I:そうなんです。最低賃金についてはこの本でも語りましたが、雨宮処凛さんと出した『脱貧困の経済学』という本でも解説しています。最低賃金がもし1,000円になったら、地方のサービス業は壊滅です。例えば東北地方の県庁所在地じゃない市の居酒屋さんは一時間1,000円も稼げているわけがないんですよ。

K:民主党はマニュフェストに入れてしまいました。

I:一つカラクリがあるとすれば、日本では最低賃金を守っている企業はほとんどないということです。守っているのは一部の大企業だけ。しかも破ったところで目立った罰則もないですし。なので、今は選挙直前ですが、もしかしたら民主党は最低賃金を上げると主張しても実害はない、と踏んでいるのかもしれません。

K:各政党のマニュフェストを見るたびに、そこが本質じゃないだろう、というような話ばかりです。

I:そうなんですよね。各政党の経済理解の問題もありますが、選挙民の前で経済の話をしてもわかってもらえない、というのもあると思います。インフレにする、なんて言ったら選挙には落ちてしまうでしょうね。増税や再配分のしかたを変更する、というのも同様でしょう。しかし実際には、2%のインフレと2%の実質成長があると、毎年だいたい4.5%税収が伸びるんですね。

K:良い話じゃないですか。今デフレで国債の実質負担がどんどん増えてますよね。額面だけが注目を集めていますが、政府は何を考えているんでしょう。

I:それには財務省内のセクト主義が関係しています。景気が良い時には、国債の額面の金利が上がります。お金を返す時、名目では利子が高くみえるわけですね。それがいやだから、デフレを放置している。

K:ええ!? クーポン(表面金利。国債の額面の金利)なんかより元本のほうがよっぽど大きいじゃないですか。物価が下がれば発行した国債全ての実質負担が上がってしまいます。新しく出す国債の額面の金利なんか問題にならないでしょう?

I:その通りなんですが、「それはウチの課の仕事ではないんで」と言うんですね。「ウチは国債のクーポンを決めるのが仕事であって、返済についてはヨソでやってます」ということです。

K:……。一度二人で行脚しましょうか。国会議員に経済学を知ってもらわないと。

I:どちらの政権になるにせよ、議員の先生方に説明しなくてはいけないでしょうね。ところで、今日紹介した二冊の本の中では、ベーシック・インカムの導入を推奨しています。

K:今の税制や社会保障は、国民を年齢や家族形態で分けて扱っています。そうではなくて、人びとの生活における必要性で分けていくべきですよね。

I:そうですね。そこで一番大きな問題は、日本の若者の場合、税金を取られた後の方が不平等度が上がってしまっているんです。普通の国では、税金というのは多く持っている人から多く取るわけですから、取った後再配分すると、人びとの不平等はちょっと是正されるはずなんです。ところが日本の場合は不平等が拡大されてしまう。

K:特に高所得者の負担が意外と低いんです。これは社会保障料が一定額であるからだと思います。どんなに貧乏でも国民年金保険料には14,660円、どんなにお金持ちでも14,660円です。社会保障における税金の割合を上げて、社会保障料の割合を下げないと不公平感はなくならないでしょう。お金持ちは税金で5割取られてるんだからもう充分だ、と反論してくるでしょうけども。

I:しかしそれも10年くらい前までは最高で75%でした。75%はやり過ぎですが、せめて90年代半ばの水準、60%にはもどして欲しいですね。

K:5割取られるのがイヤな人は法人税にしてしまうんですよね。それでおおむね4割になりますから。他にも抜け穴があります。納税者番号のない弊害です。

I:納税者番号がない、そして消費税がよくわからない大福帳方式、というのが問題です。

K:益税の問題ですね。消費者が税金として支払ったお金が、事業者によって納税されずにどこかに消えてしまう。

I:今日紹介した二冊では、今何が必要なのか語っています。生活が苦しかったり、ビジネスがうまく行かなかったりするその元の原因はなんなのか、知って欲しいですね。
(おしまい)

さて、統計は難しいなあとつくづく思うのですが、日本の経済が過去20年、どれくらい成長したのか、ずばっと言い表すのはなかなか難しいようです。というもの、数値が過去にさかのぼって改訂されることがままあるからです。本編中で飯田先生は「0.数%」「1%かそれ以下」としていますが、扱う数値によって差があるようです。しかしそれでも2%は超えないみたいですよ。(僕の手元にある伊藤元重・下井直毅『マクロ経済学パーフェクトマスター』の付録には2001年までの数値しかありませんが、1990〜2001年の経済成長率の平均は、1.583%です。また、飯田泰之・中里透『コンパクトマクロ経済学』では「1993年から2002年の平均経済成長率は1%前後であり、これは過去の日本経済や最近の先進国と比べてもとくに低い成長率となっています。」[p.170]とあります。)

アメリカの経済学者レベッカ・ワイルダーさんがブログで、FRB、BOE、ECBの比較をしていました。それによると、この3中央銀行の金融緩和は不十分であるかもしれない、とのこと。貸し出しがのびておらず、信用創造が進んでいないので、金融緩和を止めるにはあまりにも早すぎる、としています。もちろんこの比較に我らがBOJは出てきません。だって始めから引き締めてるんだもの。

追記:飯田先生が紹介している伊勢田哲治著『哲学思考トレーニング』を読んで書評を書きました。コチラです。

*1:……。

*2Wikipediaの天保の改革のページをみると、風紀取り締まりの一環として、歌舞伎の都心からの追放があります。しかも明治まで復活しないんですね。またクメール・ルージュばりに都市住民を農村に強制移住とか、貸出金利の引き下げとかもしてますね。一部の商人が流通を独占しているから物価があがるんだ! として、株仲間が解散させられたりもしました。なぜか21世紀に生きる僕らにとって妙になじみ深い「改革」であります。日本人にとって改革=デフレなんでしょうか。

2009年9月11日金曜日

勝間和代のBook Loversを聴いた

さてちょっと涼しくなってきたので更新再開です。ってさぼってただけだけども。今回は前回の続きじゃなくて、べつの話題。

八月に経済学者の飯田泰之さんが、勝間和代さんの「BOOK LOVERS」というwebラジオ番組に出る、と聞いたので楽しみに待っていました。で、ついでにどんな人たちがこの番組に出てるのか、と思ってさかのぼってみてみたら、元財務官僚の高橋洋一さんが出ているじゃありませんか。この間の衆院選、もし高橋さんが活動できていたら、まああんまり結果は変わらなかったでしょうが、こんな発言のいくらかは減ったかもしれないと思うと、返す返すも残念な事件だったなと思うのでした。

「BOOK LOVERS」は勝間さんが毎週ゲストを迎えて、ゲストおすすめの本を五冊くらい紹介するという番組。10分くらいで、一日一冊紹介したり、時にはトークだけの日もあるという感じ。ゲストには小飼弾さんや、押切もえさんなどなど。

で、僕が聴いたのは高橋さんと飯田さんの回で、とても楽しかったので、今日は勝手にまとめちゃおうという趣向。まずは高橋さんの一週間から。リフレ派はこんなに批判しているのになぜ日銀や財務省は政策を変えないのか、その理由が語られます。長いです。実際の文言とは全然違いますのでご注意。(高橋さんは2008年の12月22日から26日まで、飯田さんは今年の8月17日から21日まで)

追記:飯田さんの回のまとめも書きました。コチラです。

(一日目)
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日本は
財政危機ではない!
高橋洋一
勝間さん(以下 K):財務省の人は東大法学部出身だったりしますが、経済学を学ばなくてもできるものなのでしょうか?

高橋さん(以下 T):経済官僚が経済学を学んでいない国は、確かに珍しい。彼らは経済政策を作る時、経済学を使っていないんです。

K:じゃあ何を使うんですか?

T:雰囲気とか空気を読んだり、政治的な折衝で政策を作る。日本の独特なところといっていいですね。これは90年代以降の日本の経済停滞をどう解釈するか、というところが問題です。マクロ経済政策が失敗したという解釈と、仕方がなかったという解釈。仕方がなかったという人が多いので、なかなか政策が変わっていかない。というのも、日銀も財務省も、失敗したとなれば責任問題になると思っているから。

K:でも責任問題ではないですよね? 間違ったのならば改めればいい。

T:私は過去に役所の評価制度を作る仕事をしてましたが、みんな反対してました。なんであれ役所は評価されるのをいやがりますからね。

K:役所の終身雇用に問題があると思うのですが。

T:身内の論理になってしまいがち。外部からの評価をいやがります。さらに、自分たちの政策を後になって評価することもしません。よくある役所の弊害なんです(笑)。

K:……。でも被害を受けるのは役所の人も含めて国民ですよね。

T:役人はあまり困らないですね。終身雇用で年功序列ですから(笑)。

K:今、非正規雇用の解雇が問題になっています。これも政策の失敗でしょうか?

T:景気を良くしないと対策が難しい問題ですが、景気の底上げをやっていない。

K:財政危機だから景気対策はできない、という話を良く聞きますが。

T:日本政府の負債はネットで300兆円。財務省は1,000兆円とか言っているが、資産が700兆円ある。さらに国には徴税権、つまり税金をあつめる権利があって、これは確実な収入だから、債務超過といっても一般企業と違ってすぐに破産にはならない。借金をいくら増やしてもいいとは言わないが、今すぐ増税という段階ではまるでないんですね。

K:プライマリーバランスが悪いから増税! みたいな議論が横行しています。

T:プライマリーバランスは指標としては財政収支より優れている。プライマリーバランスは企業で言えば営業収支(営業利益)。プライマリーバランスはちょっと景気が良くなれば簡単に改善するものです。景気の話をしないで増税の話をするのがおかしい。

K:増税して景気の足を引っ張るよりも景気を良くしたほうがいい。それも財政じゃなくて金融で、ということですね。

T:そうです。金融というとすぐにゼロ金利だからもう無理っていうんですけど、金融の世界では実質金利(物価の影響を差し引いた金利)でみます。アメリカはもうマイナス金利です。日本は他の国にくらべて引き締めぎみなので円高になってます。円高は景気の足を引っ張ります。そうやって悪循環になってますね。

K:2008年10月の先進各国の協調利下げに日銀は参加しませんでした。

T:驚きましたね。円高になるに決まってます。

K:その三週間後にちょっとだけ利下げしました。

T:後だしにしても意味ないです。他の国と同様に、金融緩和を断行する、と宣言すべきなんですが何故かしませんね。今の日銀総裁は以前、金融を引き締めて失敗した人。なので、ここで緩和策を打って成功してしまうと、過去の失敗を認めなきゃいけなくなると考えている。日本にとっては不幸なことです。

K:いくら財政政策を発動しても金融政策が縮小しては意味がないですよね?

T:両方拡張しないと意味ないです。政府と中央銀行が協力する必要があります。現在はどちらも引き締め気味ですね。協力もしてませんが。

K:それは経済学者にとっては常識だと思うのですが、なぜ政府や日銀には通用しないのでしょう?

T:一つは98年に日銀法を改正するときに、世界的に例がないほど、日銀の独立性を強めてしまったこと。それで日銀が政府を無視するようになった。法律をつくった人たちがあまりよく分かってなかったんですね。もう一つは政府のリーダーシップの問題。麻生総理(当時)が金融政策を否定してしまっている。

K:なぜ?

T:麻生さんに最初に言った人がいるから。誰かが麻生さんに「財政政策だけでいきましょう」と言って、それを麻生さんが表で言っちゃう。そうなると、それをひっくり返すのは難しくなってしまう。よくあるパターンです(笑)。

(ここまで一日目)
(二日目)
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「生きづらさ」について
萱野稔人・雨宮処凛
T:経済政策のしわよせはどこに行くかというと、この本に描かれているような所得の低い人たちのところに行きます。

K:私たちは金銭格差ばかり問題にしがちですが、人的な資本でも格差ができてしまっている。経済政策で景気が良くなれば、こういった窮状はなくなるのでしょうか?

T:ちょっと景気が良くなればそれで解決、という話ではないです。でも、一番最初にするべきことは上げ潮、つまり景気を良くして失業を減らすことです。しかし失業率だけでは非正規の窮状は分からないですから注意が必要です。

K:上げ潮という考えには私も賛成ですが、小泉・竹中路線ではそれをねらったにも関わらず格差が拡大したという批判があります。

T:上げ潮で一番重要なのは最下層の所得を上げること。ですが、それがうまく行かなかったのは事実です。平均的にはちょっと上がったんですが、最下層の所得は上がりませんでした。政策としては成功しませんでした。

K:何がいけなかったんでしょう? 最低賃金が低すぎる?

T:名目成長率が上がらなかったことです。名目成長率が上がると、最下層の賃金は結構上がります。

K:なるほど。彼らには資産も資本もないので、額面通りの賃金が一番重要だから、名目成長率の上昇が直接効くわけですね。

T:名目成長率はこの10年間くらい、0%から2%の間。これはいくら何でも低すぎる。この状態では最低賃金は上げられない。今、政府の目標として、名目成長率2%となっているが、3年間達成していない。これじゃ経済政策は落第です。他の国は4%くらいです。それくらいだと最下層の賃金はけっこう上がります。最下層が上がると、富裕層の所得が増えても、社会的な問題は起きにくいようです。要するに、最下層の賃金が下がるとか上がらない、というのが一番悪い結果です。なので、マイルドインフレーション、物価の上昇が1%か2%、そういう状態にしておけば、名目成長率は4%前後になります。そうなれば様々な貧困対策がやりやすくなりますよ。

K:そんな簡単な道があるのになぜ日銀はそうしないのでしょう?

T:引締めに生き甲斐を見出している人たちですからね。白川総裁の発言を聞いていると、デフレでもよい、と考えているのがよくわかります。

K:どうすればいいんでしょう? 誰が日銀を制御できるんでしょう?

T:総理大臣です。経済財政諮問会議の議長は総理です。日銀総裁が議員として参加してますから、そこで「頼むからやってくれ」と言うだけでいいんです。総理や与党の議員が公の場で日銀に要請して日銀がどう答えるか。流石に無視はできないでしょう。とはいえ、日銀は政府と目標を共有、と口では言いますが、実際には拒否しています。

K:そうなると何のための日銀なのか、と。

T:自分たちの組織を守ることが大事なんでしょう。

K:政府も日銀も国民の幸せのために存在するはずですよね?

T:もちろんそうです。こういう危機的な状況では、言葉は悪いけど「挙国一致体制」になって、各省庁で連携することが大事です。どこの国も同じです。しかし日銀がどこまで政府とコミュニケーションをとっているのか、私にはよくわかりません。

K:これではいくら財政政策でお金を使っても効かないですよね。

T:マンデル=フレミング理論というノーベル経済学賞をとった理論があります。変動相場制のもとで財政政策をするとその国の通貨が強くなり、政策の効果が外国に流れ出てしまう、だから金融政策のほうが有効である、という理論です。まさに今日本で起こっていることです。

K:日銀に方向転換する勇気も度量もなさそうです。

T:総裁選びにすでに問題がありました。総裁になったら何をする、と目標を掲げる人を選ぶべきでしたが、官僚的な人物を選んでしまいました。

(二日目はここまで)
(三日目)
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資本主義と自由
ミルトン・フリードマン
T:この本は私の愛読書です。私は学部では数学を学んでいました。この本はその後経済学を学びはじめたころに読んだ本です。他の経済学の本は何を言っているのかよく分からなかったんですが、この本は理論的で、言葉の定義もちゃんとしているので読みやすかったです。経済学的思考をわかりやすく説明してくれます。私がアメリカに留学しているとき、経済学者が自分の教科書以外でどの本をすすめるかといえばこの本が一位でした。1960年代の本ですが、今でも売れている名著です。

K:現在、新自由主義やリバタリアニズムが攻撃されています。ミルトン・フリードマンといえばそういった主張をする人だと言われますよね。

T:フリードマンを新自由主義者とかリバタリアンと呼ぶのは、ただのレッテルはりだと思います。彼の本を読んでいないんじゃないでしょうか。この本は社会保障について非常に立派なことを言っています。この本には負の所得税というアイディアが載っているんですが、これは今、ヨーロッパで議論されていますよね。彼はそれを50年前に言っているんです。

K:ベーシック・インカム、つまり(全ての、あるいは低所得の)国民に一定水準のお金を支給する、という考え方ですね。フリードマンのそういう主張を無視して攻撃している、と。

T:やっぱり読んでいないんだと思いますよ。著者の初期に出した本というのはその人の考え方をよくあらわすと思います。私は読んでいて彼のやさしさを感じました。数式も使っていないのでおすすめします。

K:さて現在の日本の場合、社会保障費がどんどん減額しています。必要な人にさえ行き渡っていない現状です。

T:そうですね。日本の場合、社会保障を複数の省がバラバラにやっています。その最たるものが、歳入と社会保障がべつの役所で扱われていることです。こういう状態なので、後期高齢者医療制度のように利用者の年金から捻出みたいなことになるんです。こうすると厚生労働省の一部局の裁量の範囲で収まるというわけです。フリードマンは、社会保障は税務当局と一緒にするべきだ、と言っています。そうすれば後期高齢者医療制度でも、年金ではなくて税金を使えます。フリードマンはまた、社会保障を支給する際に官僚の裁量に任せてはいけない、とも言っています。水準を下回る所得の人には無条件にお金をわたすべきだ、と。正しいと思います。今、生活保護の認定基準は現実にはとてもあやふやですから、所得で基準を設ければ必要な人にも行き渡るでしょう。しかしそれをしてしまえば、担当の役人は必要なくなってしまいます。だから反対するでしょうね。

K:官僚は官僚のルールで動いてしまう。

T:フリードマンは官僚について、まず裁量をあたえるな、と言います。どうしても必要なときは明確なルールをかすべきだ、と。この本では補助金の問題も扱っています。官僚を通して補助金を配るのはだめで、たとえば学校に対する補助金は官僚経由にするのではなくて、学生に配ってしまえば良い。そうすれば学生が自分で学校を選びます。そして多くの学生を獲得した学校が学生を通して補助金を受け取るわけです。これをバウチャーと言います。バウチャーを導入すれば、学校は官僚ではなく学生のほうを向くようになるでしょう。この訳本の解説にも書きましたが、日本の現状はフリードマンに笑われてしまうようなものが多いです。たとえば雇用能力開発機構。廃止が議論されて役人が反対していますが、問題はそのお金を他の人に配った時何ができたのか、ということです。フリードマンは政府の機能を全部民間企業にやらせろなんて言っていません。同じことをやるにしても、市場を通してやるやり方も良いんだ、と言っています。彼はある意味で政府の役割を重視していました。私は「役所がやるよりもっと良いやり方がある」ということをフリードマンから学びました。実際仕事でもよく使った考え方ですよ。

K:官僚の問題は、依頼人(プリンシパル)が代理人(エージェント)をどう動かすか、というプリンシパル=エージェント理論の問題なんですよね。

T:そうです。官僚がちゃんと働くようなインセンティブを考えなくてはいけないんです。日本の役人には監視がついていません。そしてお金だけは集ってくるわけですから、やりたい放題なんですね。

(三日目はここまで)
(四日目)
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経済は感情で動く
マッテオ・モッテルリーニ

四日目は正直つまらない。高橋さんは行動経済学に対して結構距離をおいている感じだ。まあ僕も同感。まだよくわからないジャンルだと思う。なので一部だけまとめて、あとは飛ばします。

T:プリンストン大学に行っていたときに、まわりに行動経済学をやっている人が結構いました。経済学の想定する合理性があわない人も多いので、こういう本だと入りやすいんじゃないでしょうか。とはいえ、経済学の想定する合理性はあくまで仮定ですから、経済学者が「どんなときでも合理的な人間」の存在を信じているわけではないです。複雑な経済現象をあつかうモデルを作るときに、そのような人間を想定しているだけですし、そこから応用が効きます。が、結果だけみると「経済学はありえない仮定の上に成り立っている」と思われてしまうようです。

(だいぶ略)

K:この本では人は同じものでも自分が持っているものの価値を高く評価しがちである、という考え方が紹介されています。

T:取り替えるのがメンドクサイ、とも言えます。行動経済学の理論で説明できることを、普通の経済学の合理性で説明することもできますね。天の邪鬼に読むと面白いですよ。

(四日目はここまで)
(五日目)
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この金融政策が
日本経済を救う
高橋洋一
T:この本では普通の教科書を書いたつもりです。数式を使って説明しても分かってもらえないので、普通の言葉で書きました。ベースはオーソドックスな経済理論です。

K:デフレにどう対処するのか、とても分かりやすく書いてあります。

T:政府は100年に一度の危機と言っていますが、それならばそれなりの政策が出てきそうなものですが、そうはなっていない。つまり危機だと思っていないんです。

K:危機だと気づいていればデフレを放置したりしませんよね。

T:今の問題だけじゃなくて、2006年3月にも金融を引き締めました。外国では考えられないことです。その時物価上昇率が0.5%という数字でした。私は当時は総務省にいましたから、統計の基準が変わったことを知っていましたし、もちろん、この指数は数字が実態よりも大きめに出るものだということも知っていました。ですからそう述べました。実際には物価はマイナスだったんです。にもかかわらず、日銀は金融を引き締めてしまいました。景気が悪くなって当然です。なので竹中大臣(当時)にも言ったんです。大臣はその通りだ、と理解してくれましたが、日銀の当時の総裁の福井さんはまったく聞いてくれなかった。とにかく量的緩和の解除をしたかったようです。マスコミや役所の金融政策に対する理解に問題があると感じます。

K:理解の問題ならまだ良いんですが、もうマインドシェアの問題なのではないでしょうか。

T:日銀がこれだけ批判をうけても頑であるというのは、確かに理解の問題ではないかもしれません。

K:補正予算の話題が新聞に載るシェアはとても多いのに、金融政策の話題はほとんどありません。議論の俎上に載せられていないようです。

T:役所は載せたくないんでしょう。アメリカのウォールストリートジャーナル紙などではFRB議長のバーナンキさんの名前がすごくよく出てきます。日本の新聞に白川さんの名前が出てくることはあまりないですね。

K:金融政策を変えるには日銀総裁候補の育成も含め、戦略的な視点が必要なのではないでしょうか?

T:日銀法を変えなければ無理でしょう。

K:しかし私たちは間違いに気づいたわけですから、改善できそうですよね。

T:金融政策の話題は実にマイナーです。この話題が日経新聞にしょっちゅう載るくらいにならないと、間違いに気づいた、とまでは言えないでしょう。

K:前述の協調利下げの時、メディアの反応がほとんどありませんでした。

T:信じられなかったですね。誰かが「ゼロ金利にはできない」というと、それが簡単に受け入れられてしまう。アメリカではすでに量的緩和に入ってますよ。もうやらなきゃいけない時ですが、やりませんね。不思議です。

K:日本人の多くの人が名目と実質の区別がついていない、というのが障害ですね。

T:名目と実質の区別については、ちょっと前の日本銀行の総裁もわかっていませんでした。これは議事録に載ってますよ。今でもゼロ金利が低金利だという認識がありますね。でもそれは名目値が低金利なだけです。

K:以前、海外の金融商品で名目金利が高いものがあるけど、こういうものは買わないでください、という記事を書いたことがあります。計算するととても不利なんです。

T:海外の実質金利の計算は為替の影響があるので難しいかもしれません。でも国内は簡単です。2001年に竹中さんが大臣になったとき、実質金利の良い指標はないか、と問われたので、物価連動国債というのを導入しました。これが実質金利の指標になります。今10年で2%くらいではないでしょうか。

K:名目金利より高いんですよね。

T:はい。将来のデフレ予想、物価が下がるという予想がはいっているからです。名目は0.5%くらいですが、実質は2~2.5%くらいの金利であるわけです。これをみれば実質金利はすぐにわかります。

K:物価のデータは公表されています。メディアがこれを活用していません。

T:そうですね。あと、マーケットには予想値があります。今の数字だけでなく予想値もみなくてはいけません。実質金利というのは 「名目金利」 − 「将来の物価の予想値」 です。今は将来の物価がマイナスなので、実質金利が名目金利を上回っています。驚くべきことですが、日銀の政策決定会合では、最近までこの予想値のデータがありませんでした。

K:それでどうやって政策を決めるんですか?

T:よくわかりません。経済対策閣僚会議を通してこのデータ(ブレーク・イーブン・インフレーション・レート)を使うようにしてもらいました。でも見てる人はすくないようです。日銀の人はこの資料をいっつも批判します。あてにならない、と。それで彼らは自分たちが作ったアンケート調査の予想値を使います。アンケートですから、正直に言って彼らに都合のいい数値がでていると思います。そう言う意味で、今の金融政策はフェアではありません。

K:そういうアンケートではインフレ気味の結果がでるんですよね。

T:もちろんそうです。ブレーク・イーブン・インフレーション・レートですと、マーケットは-2.5%くらいの数値を予想しています。これはとんでもない数字ですよ。

K:最後に、これだけはやって欲しい、という政策を教えてください。

T:デフレというのはお金が必要なのに、どんどん少なくなっていくことです。だからどんどんお金を刷ることが大事です。日本銀行がお金を出さない、というのが現状ですから、ならば政府が出せば良いんです。GDPの5%くらい、20兆から30兆円のお金を政府が発行する、というのを検討して欲しいですね。

K:日銀に頼らない金融政策が可能なわけですね。

T:そうです。それにこのお金は財源になりますよ。増税ではなく、このお金を財源に社会保障をやったらいいと思いますよ。この政策は普段やればインフレになりますが、今はデフレですから丁度いいんですね。デフレの場合この政策が世界でも標準的です。歴史をみても同様です。

K:いっぺんに30兆じゃなくてもいいんですよね。様子を見ながらでも。

T:年10兆で三年間とか。途中で景気がよくなったら止めればいいんです。

K:是非政府紙幣の発行を検討して欲しいですね。
(おしまい)

と、こんな感じです。この放送を聞いて、97年に橋本総理にウソの不良債権額を報告した大蔵省の人たちは、その後どんな人生を歩んでいるんだろう、なんて考えてました。偉いお役人ってのはどの程度先を見てるもんなんでしょうかね。因果な人たちだなと思います。

そして、この放送から総選挙を経て、さて民主政権はどうなることやら、という状況の現在ですが、ブレーク・イーブン・インフレーション・レートはだいたい-1.5%近辺のようです(財務省のページ。「ブレーク・イーブン・インフレ率の推移」でPDFをダウンロードすると見れます)。つまりマーケットはデフレ予想のまま、というわけですね。残念ながら民主党も自民党と同様、金融政策を軽視しているようですから、目覚ましい改善は期待できません。

追記:このエントリを書いた翌朝、こんなニュースが。

【政権交代 どうなる経済】「日銀とアコード」波紋

民主党の大塚議員が、「日銀との政策協調(アコード)をしていく」的な発言をしたら、なんと「金融界などから批判が続出した」ので議員が釈明に追われているというニュース。金融界が誰のことなのか記事中には書いてないけど、日銀に独立性を与えすぎているといういい例だと思います。アコードに言及するだけで大騒ぎなんですね。そのうちやんごとなき日銀関係者の前を横切ったとかで国会議員が辞職しちゃうんじゃないの?

さらに追記 2009/09/23:

Baatarismさんの「混迷するアコード論議」という記事で知ったんですが、民主党大塚議員が事実関係として以下のように語っています。

今日の大手紙及びその関連紙が、「アコード」に関連した動きについて興味深い報道をしていました。おもしろく読ませて頂きましたが、記事にあるような「批判続出」ということは全くありません。「火消しに奔走」という事実もありません。日銀からのクレームも一切ありません。記事を書いたと思われる記者からの取材もありません。驚くべきことです。マスコミの体質は社会にも大きな影響を与えますので、報道の質の向上に真面目に取り組んでいる記者、正当派のジャーナリストの取材にはできる限り応じていきたいと思います。


なんか、こわ〜。Baatarismさんは、日銀が産経新聞の記者を通して議員に圧力をかけようとしたのでは? と推測しています。たしかにそれ以外の理由ってちょっと思いつかないです。こわ〜。



次回は飯田先生の回をまとめてみたいと思います。ひと月以内にはやるぞ>自分

追記:書きました。飯田先生の回のまとめ

2009年7月22日水曜日

読んでみた・ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』

"The Art of Learning"はちょっとお休みで、今回はジル・ドスタレール『ケインズの闘い』について。

何せ五千円以上もする本なので図書館で借りて、で、もうすぐ返さなければいけないので、急いで感想など。

cover
ケインズの闘い
ジル・ドスタレール
ジョン・メイナード・ケインズが誰か、なんて説明はいらないだろう。とにかく市場に任せておけば全てはやがて効率的になる、という古典経済学に反旗を翻した人だ。この本はケインズの伝記のようなところもあるけれど、重点が置かれているのは彼の思考や主張で、友情や恋愛など人間関係はそこそこ詳しく描かれるものの、あくまで彼の考えの道筋を説明するためのものだ。

そのケインズの考え方の基本は、「不確実性の性格を考慮すると、将来の善のために現在の幸福を犠牲にすることには危険がともなう」[p.208]というものだ。有名な「長期的にはわれわれは皆死んでいる」というやつですな。この考え方があるので、彼は計画経済、つまり共産主義を敵視したし、物事が時空を超えて理論通り振る舞うと信じきっている古典経済学を攻撃したわけだ。

とはいえ、ケインズとその仲間たちの話もかなり面白い、が、それは実際に読んでもらった方が100倍楽しいこと間違いなしなので書かないで、ここではケインズとケインズ以前の経済思想をさくっとみてみよう。僕は経済学を専門的に勉強したことはないので、まったく的外れなものになる可能性大なのでご了承を。

なんといっても経済の大問題は失業だ。失業を放置すればやがて国が傾く。では、ケインズ以前の経済思想は失業をどうみていたのだろう。

セイの法則で有名なフランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは、供給があればそれと同じだけ需要もあるので、非自発的失業は存在しない、という考え。ま、古典的ですね。無茶いうな、という気もします。

次にデイビッド・リカード。イギリスの人ですね。ミスター比較優位。彼は、生産力が短期的に跳ね上がると失業が発生することがある、が、需要が足りないということなどありえないと主張。リカードはラッダイト運動(紡績機ぶち壊し運動)にある程度共感してたそうで、これは驚きだった。なんとなく自由主義を愛するオジサン、というイメージだったので技術革新にはもちろん肯定的なのかなと根拠なく思ってた。やり手の商人だし。

セイとリカードに共通しているのは、需要不足の否定、だ。貯蓄は将来の消費であるから、その分需要を生む。なので貯蓄=経済発展。だから金持ちの貯蓄は美徳である、と。

そして最近じゃすっかり偽予言者扱いのマルサス。この人もイギリス人。彼は貯蓄の購買力(お金の量)だけが問題なのではなく、買う意欲も重要だ、と考えていたそうで、つまり有効需要のアイディアですね。お金を貯めるだけで使わない人がいれば、そのお金の分失業が生まれる。買う意欲(=需要)が足りなければ失業が発生してしまう。だから買う意欲のないケチンボをなんとかしなきゃ、と。

そしてケインズはこのマルサスの考え方を完全に受け継いでいて、その最も過激な主張が、金利生活者の安楽死、というアイディアだった。まあ本気かどうか知りませんけど。さらにマルサスといえば『人口論』、人口は幾何級数的に増えるけど食物は算術級数的にしか増えないからアレだ、というアレですがケインズはこの見方にも共感していたそうな(wikipediaのリカードの頁をみたら彼もマルサスの人口論には賛成していたそうです。当時はすごく説得力が感じられたんですかね)。

cover
雇用・利子
および貨幣の
一般理論
J・M・ケインズ
ケインズはリカードをずいぶんこき下ろしていて、マルサスではなくリカードが学界で地位を確立したことで経済学は100年遅れた、とまで言っている。また、のちに『雇用・利子および貨幣の一般理論』とよばれる本の校正をしている時、ケインズはバーナード・ショウに、自分の新しい理論によって、「マルクス主義のリカード的基礎は打ち壊されるでしょう」[p.435]と言い、さらにヴァージニア・ウルフには「古いリカード体系が打ち捨てられ、すべてのことが新しい基礎のうえに築かれるのをあなたは見るでしょう」[p.436]と言ったという。

ケインズによれば経済を発展させるのは貯蓄ではない。貯蓄はケインズが唾棄しつつも慣れ親しんだヴィクトリア朝のいやらしい偽善的な道徳であって、人々にとって有害である。アニマルスピリットに導かれた投資こそが経済を発展させる。また、貯蓄は格差をいっそう拡大し、永続的なものにしている。だからこそ、金利生活者に安楽死を、という過激な主張がうまれたようだ。

ケインズ自身はエリート主義な人だった。そのせいか労働者の自己責任みたいな話には我慢ならなかったようだ。本書の最後の文を引用しよう。

 ケインズの見るところでは、貧困・不平等・失業・経済恐慌という問題は、外生的な偶発事でもなければ、不節制に対する懲罰でもなく、むしろそれは、十分に組織されていない社会や人間的誤謬の結果である。したがって、大きな改革の実行によってそうした問題を緩和すること、あるいはそれを解消することは、都市国家に集結した諸個人の手にかかっている。このような改革は、われわれが今日知っている資本主義経済の状況のなかで可能なのだろうか。ケインズは、それが可能であると信じていたか、あるいは少なくともそうであることを望んでいた。<福祉国家>の確立は彼が正しかったことを証明したように思われたけれども、情勢は一変した。それでもなお、資本主義の健康状態についての彼の診断ーー今となっては半世紀以上も前に提示されたことになるーーは、これまでよりもさらに適切なものとなっている。将来に何が起こるかを知っていると主張することは、誰にもできない。しかしながら将来をつくることは、われわれの手にかかっている。おそらくこれが、ジョン・メイナード・ケインズの主要なメッセージである。
[p.570]

 

2009年7月12日日曜日

最低賃金を上げるという話

民主党が最低賃金を1,000円に上げるという政策を思いついちゃったそうだ。

実際に実行したとして、結果がどうなるかよくわからないけど、働くことにまつわるルールっていうのは、一部の人が異常に有利にならないようにする、というものであるべきだ。国民の力がフルに活かされることを目標にすれば、当然、各人の意欲を大事にする社会をつくらなきゃいけない。特権階級がいるような社会で健全なやる気を維持できる人は多くない。

そして今最賃を値上げするというのは、一部の人を有利にしてしまうと思う。たぶん高学歴の若者が一瞬有利になって、その後馬車馬のように無慈悲な働き方を強いられる。で、全体的には採用が減るだろうから、今まで通り、既得権をもつ正社員がさらに有利になって、また若者の負担が増えるんじゃないかな。

働く人の権利を守らないことに定評のあるアメリカで、労働者の年齢差別を禁止したり、履歴書に写真をのせなかったり(これは法律? 習慣?)することの意味を考えなきゃいけない。それをしてしまうと一部の人が有利になりすぎてしまうからだ。裏を返せば、他の一部の人たちに負担が集中してしまうということだ。日本に住んでいて、年齢とか見た目のことで理不尽を感じたことのない人なんていないはずだ。最賃をいじる前にするべきことがいくらでもあるでしょう。最賃を上げるのは人手不足になってからで十分だ。

2009年6月27日土曜日

デフレ、再び

再びっていうか、バブル崩壊以降ずっとデフレですけどね。一段と物価が下がったそうです。以下は2009年5月のCPI(消費者物価指数)。

概況
(1) 総合指数は平成17年を100として100.6となり,前月比は0.2%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
(2) 生鮮食品を除く総合指数は100.5となり,前月比は0.2%の下落。前年同月比は1.1%の下落となった。
(3) 食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数は98.9となり,前月と同水準。前年同月比は0.5%の下落となった。



(3)の食料及びエネルギーを除いた指数が大事*1。何度も書いてるけど、デフレはお金の価値が増す現象だ。そしてお金の価値が増すということは、何か別のモノ(やサービス)、言い換えると、お金と交換して手に入るモノの価値が減っていることになる。それは労働の価値であったりするわけだ。

人が働くってことよりもお金のほうが大事ってんだから、ここ十五年の日本を拝金主義と呼ばずしてなんとする。

*1:農産物とか海産物とかって気候や災害の影響を強く受けることがある。つまり日本国民の経済活動と関係ないところで取れ高と価格が変化する。エネルギーはほぼ輸入に頼っているわけだから、外国の事情で価格が変化する。これも日本国民の経済活動とは関係ない。ので、この二つを除外した数字、コアコアCPIが重要になってくる。

2009年5月30日土曜日

失業率の悪化に思う


失業率が5%になった。

雇用情勢が急速に悪化している。4月の労働力調査では、完全失業率(季節調整値)が5.0%で、5年5カ月ぶりに5%台になった。

失業率の悪化は予想されていたので驚く様なことではないけれど、やっぱりいやなニュース。で、雇用対策用に15兆円の補正予算が通ったけど、なんだかなあ、という感じ。というのも、日本の1400兆円もあるらしい個人資産はどこいっちゃったわけ? と思うから。

為政者には、1400兆円の個人資産と金融政策と雇用をセットで見て欲しいと思う。貯蓄を取り崩すくらいなら借金したほうがマシってのは個人レベルではよく見られる不合理なんだそうだ。でも、個人ならその不合理のコスト(借金の金利)を支払うのは本人なわけだから、不合理な選択もまた自由、といえる*1。でも国家がそれをやると、借金のコストは国民全員で支払い、「貯蓄を取り崩さない」という利益は貯蓄している人たちだけが享受することになる。つまりお金のない人から、お金のある人に利益の移転が起きているわけだ*2以前にも書いたけど、お金を貯めることにもリスクはある。そのリスクはお金を貯める人が負わなきゃいけないものだ。

街を歩いていると、人通りの多い場所なのに何年もシャッターをおろしている建物があったりする。東京の世田谷通りなんかでもそういう建物は結構ある。以前は、「勝手すぎるなあ」と思ってた。だっていくら自分の土地だからといって何年もシャッターをおろしっぱなしじゃあ、まわりのお店だって辛いでしょう、と考えてたから。今もそういう考えをもってはいるけれど、勝手というよりは、どうしたらいいかわからないのかな、と思うようになった。高齢化の一側面なんじゃないだろうか、と。

ものすごく頭のいい官僚が作ったものすごく複雑な政策ならばこういう状態を打破できるのか、といえば、そんなことはまったくないだろう。たぶん、人々の活動を活発にすることでしか変わっていかないんだと思う。だが現状維持のコストを他人に押し付けられる環境なら、人はそうしてしまう。

短期的には借金で雇用を支える必要もあるだろう。でも長期的には1400兆円の個人資産を活用するほか道はない*3。そのためには経済をインフレ基調にすべきだと、やっぱり思う。


*1:限度はあると思うけど。

*2:車買うためとか、2、3年の生活費とか、そういった貯蓄の話じゃないですよ。

*3:長期的な経済発展に疑問をお持ちの向きもありましょうが、だから何? ですよ。せめて資本が十分に活用されたのを見届けた上で、それ以上の発展があるかないか論じればよろしいんじゃないかしら。気が早い。

2009年5月22日金曜日

定額給付金の正しい使い方

僕はまだもらってない定額給付金ですが、ニコニコ動画にこんな動画がありました。



正しい! そしてこれを見ると如何に給付金額が少なすぎたかよくわかります。でもこの動画のきっかけにはなったんですね。

定額給付金について以前書いたエントリー:減税の効果と定額給付

2009年5月1日金曜日

2009年5月1日の記録


たいしたエントリにはなりそうにないけども。

今日五月一日に、三月の失業率が発表された。前月よりも0.4%悪化した4.8%だった。また消費者物価指数も発表された。原油や食料品を含んだ数値でもマイナスとなった。

さらに日銀の政策決定会合も開かれた。結論は「様子見」だったそうだ。金利も現状維持。金融政策の効果を見極めたいらしい。

いったい彼らは失業を何だと思っているのだろう。日銀の政策委員に選ばれた時、「よし、失業を減らして、完全雇用を目指すぞ」と思わなかったのだろうか。思わなかったのなら、今すぐ辞めてもらいたいもんだ。

2009年3月16日月曜日

書評・田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』

日銀の白川総裁が財政政策をファイナンスすると長期金利に悪影響、とか発言してた。これは「インフレいやん」ということなわけで、各国中銀がデフレと戦おうとしているときにまさかのインフレファイター宣言。そこにシビれ(ry

cover
雇用大崩壊
失業率10%時代の到来
田中秀臣
そんな日銀への疑問満載の日々に読んだのが田中秀臣『雇用大崩壊 失業率10%時代の到来』。タイトルがかなりセンセーショナルだけど中身はそういう煽るばかりの本とはちがう。日本の経済政策に対するセンセーショナルじゃない本当の不満がぎっちり詰め込まれていた。失業率10%時代とはつまり、1990年代から始まった就職氷河期の再来であり、その時社会にでた若者たち(通称ロスト・ジェネレーション)が貧困の連鎖の起点になりかけているように、再び若者が不景気の犠牲になる時代ということだ。

こう書いては失礼だけれども、意外にも読みやすかった。著者の本は何冊か読んでいるけれども、どれも経済学に興味のない人にすすめるにはちょっと難しいという印象があった(そういった人に向けて書かれているわけじゃなかったのかも)。今作も図があったほうが良いのでは? という箇所(双曲割引のところ。参照されているエインズリー『誘惑される意志』は僕も読んだけど、図があっても難しかった)があったりしたけど、文自体は平易だし、難解な用語が突然でてくることもない(これは一般向けとしてはとても優れたところだと思う)し、といって用語の説明が延々つづくということもないので集中しやすいと思う。あとインフレターゲットなどのリフレ政策はなにかと妙な議論を呼びがちだけど、そこはすっきりとクルーグマンがよく使っていた例え話(子守り組合の話)でまとめていて、焦点は書名どおり雇用に当てられていることが、この本の訴求力を強めている印象を受けた。

で、政治、正規・非正規雇用、通説の誤り、セーフティーネットのあり方、そして財政・金融政策と、この本の議論は多岐にわたるので個々の議論はじっさいに読んでいただくとして、この本の精神を最もよく表現している(と僕が思う)あとがきの一番最後の文章を引用しよう。

それ(不況中の増税議論:引用者)に対して本書では一貫して、現役で働いている人たちの環境を良くすることが政府の果たす務めであることを強調してきました。現役世代、特に若い世代の経済的貧困を解消することが、彼ら彼女らだけではなく、その後の世代にも、そして現在の高齢者にとっても利益になることなのです。その意味で、不況を克服する積極的な財政・金融政策を行う政府の役割は「大きい」のです。これが本当の意味での「大きな政府」の重要性だと私は思っています。


ここでいう「大きな政府」の意味、つまり将来とか過去の話ではなく、今困っている人を助けるために税金を使う(さらに借金もする)、ということがこの本の基底となっている。そこから経済政策を語った本なので、話題性だけでとりあげられがちな年金やニートなどの議論も、日本経済の一部として扱われるのであって、なにか現代社会の病理とか昔はよかった的などうしようもない話ではまったくない。まさにノーナンセンス。

cover
誘惑される意志
人はなぜ自滅的
行動をするのか
ジョージ・エインズリー
以前クルーグマンが「経済にはエネルギー保存の法則のようなものがあって、価値がどこかからわいて出たりしない」というようなことを言っていた。だから、例えば増税で財政の辻褄を合わせたところで、日本経済の内側で富が移動するだけで貧困が解消されたりはしない。むしろそんなことに時間をかけているうちに日本経済そのものが縮小していってしまう。この本ではそういった現状を、椅子とりゲームの椅子が減っていくと例えている。また、椅子が少ないことはなんだかんだ言って特定の層(若者)の不利益になっている。しかもその層の子供たちにまでその不利益が受け継がれそうになっている(彼らの経済状況では子供たちに進学や就職に充分なチャンスが与えることができない)。だから本書は椅子を増やす政策を実行せよと強く訴えている。

僕はこの本が多くの人に読まれてほしいと思う。僕はロス・ジェネど真ん中なので特にそう思う。おそらく「景気を良くしよう」という訴えに対しては「しっかりとした…、ムダのない…、責任ある…」といった反論めいたものがなされるのだろう。でも、問題なのは眼前の貧困なのであって理想や大義や過去や未来の話じゃない。プラクティカルに、ノーナンセンスに必要な政策が実行されることを願うばかり。

2009年1月14日水曜日

減税の効果と定額給付


ハーバード大学の経済学教授マンキュー先生がニューヨークタイムスに記事を書いていた。要約すると、不況になると人々はモノやサービスを買わなくなって、しまいには作り出さなくなるので、代わりに政府が買えばいい。すると人々の収入が増えるので、またモノやサービスを買うようになる。と、いうのが伝統的な経済学の教科書に書いてあること。でも最近の研究では政府が公共事業で1ドル使うと、1.4ドル分のモノやサービスが作られてる。ちょっと少ない。で、常々、減税はあんまり効果がないと言われていたけど、これも最近の研究によると、減税1ドル分につき、3ドル分のモノやサービスが作られているそうな。公共事業の倍以上! つまり減税は思った以上に効果があるかもしれない、という話。

この減税の効果についての研究をしたのが、クリスティーナ・ローマー先生で、オバマ政権の経済政策諮問会議(ちゃんとした訳があるはず)の議長に指名された人でもある。なので、オバマ政権は、いままで金持ち優遇政策と揶揄されてきた減税政策にマジで取り組むつもりなんだろう。





で、上のはそのローマー先生のインタビューの動画。オバマ政権の雇用を増やす政策について説明している。要約すると、政府が建物をたてれば建設業の仕事が増えるので、とても分かりやすい。でも減税によって人々がお金を使うとどのような職が増えるか推測するのは難しい。それは人々がどの分野にお金を使うかによるから。でも、減税なら幅広い職種に効果があるはず。そして、作り出される職の数が重要ではないとは言わないけど、職の質、つまりどのような仕事が増えるのか、ということもとても重要。不景気が始まって340万人がフルタイムからパートタイムに移っている。一連の政策で、パートタイムの仕事がフルタイムの仕事に変わるような効果を期待している。健全な経済にとって、「より良い職」はとても重要。単純に職を作り出すのじゃなく、「より良い職」を作り出すことが国民にとっても良いこと。ただお金を使って景気を刺激するだけじゃなくて長期的にも有用な云々。

はい、そこ、ため息つかない。こちらのエントリで書いたけど(そして上手く書けなかったけど)、2003年からの日本の景気回復は、労働力が増えたことによる。つまり職が増えたわけだ。ではどんな職が? そう、派遣やアルバイトの増加や、サービス残業の蔓延などで労働力が安く利用できるようになったので、企業は生産を増やすことができたわけだ。で、国民の生活の質が向上しただろうか。うーん、実感なき景気回復と言われるのも無理はない。

もちろん、回復が無いよりはマシだったろう。でもなあ、人にとって「より良い職」に出会うのはかなり重要なことで、それは不況下では難しくて、だから国は不況を短くする、あるいは特定の職業じゃなくて様々な職が生まれる環境を整える使命があると思うんだけどなあ。

もちろん、減税の効果がホントに以前に思われていた以上にあるのか、よくわからない面もある。でも、こうやってアメリカの動向なんぞを横目で見ていると、我が国って…、という気にはなる。今回の定額給付ってさ、言わば減税じゃん。額が少ないから効果も少ないだろうけど、バラマキだからダメ、という扱いを受けるようなものじゃない。公共事業で特定の職を増やすよりは、なんというか、より民主的な景気刺激策でもあるだろう。額が少ないけど。バラマキ=悪というのは、不景気をナメているとしか思えない。景気が悪いと人が死んだり戦争が起きたりすることもあるんだぜ(放言)。バラマキに一時的でも効果があるのなら、そのことは否定しちゃダメよ。まあ、額が少ないからムキになってもアレなんだけど。

んで、「より良い職」について語る人が少なくないか? と思う。長期的にどうすべきか、という問いが非常に難しいのはわかるけど、それでも「仕事が有るだけマシ」といって諦めてしまうには早すぎるでしょう? 大恐慌時のアメリカのように失業率が25%とかだったら、そりゃ職の質なんかどうでもいいでしょうけどね。