2009年10月8日木曜日

統計のもやもや

 世の中のことをわかってる人になりたい、と子供の頃はよく思っていて、大人の振りをよくしたけど、参考にした大人たちがかなり見栄っ張りで知ったかぶりする人たちだったので、思春期以降、おかしな振る舞いをなおすのにずいぶん苦労した。どんな話題でも、瞬間的に「そりゃそうだよ」と言いそうになってしまう。今はそういうのはなくなったけど、あぶないのが統計の数字を聞いたときだ。ついつい「統計上それはナントカだ」とか言いたくなってしまう。が、それをこらえてちょっと考えてみると、統計の数字だけではなかなか納得できない、もやもやした感じが残ることも多い。

 社会の変動を統計を通して見るのは社会科学では必須の作業だ。でも、これが難しい。先日書評した河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだときも、統計ってこわいなーと痛感した。書評にも書いたように、実際に人が殺された殺人事件の統計は存在しない。なので、被害者数から推測したり、事件の性質から分類したりしなきゃいけない。つまり統計上の数字をそのまま議論に持ってくるのは危険だよ、ということだ。

 同じように、統計の比較も難しい。なんでも殺人事件の統計に毒殺を含めない国があるそうだ。こんなところにも、歴史的なバリエーションが生まれるんですね。一つの統計をそのまんま真に受けるとしっぺ返しを食らうかもしれないのだから、それを比較するのはそうとう慎重にならなきゃいけない。

 20代のとき就職難で非正規雇用しかなくても、30代ではちゃんとした職に就けている。だから景気と非正規雇用問題はあまり関係がない。雇用のミスマッチが起きている。という話を聞いた。その実際の数字を不勉強な僕は知らないけれど、なんかおかしいな、と感じた。まず思ったのは、景気が悪くなれば一番最初に削られるのが非正規雇用だから、非正規 / 正規で割合をみると、分子が減っていくので、そりゃ数字上は改善かもね、ということ。失業率との比較が必要な気がする。でも失業率は失業率で問題を抱えた数字だしね。

 次に思ったのは自殺者の数のこと(以下はここを参照)。自殺が景気とはリンクしていない、という研究もあるようだけど、日本の場合、やはり97年に激増していて、そのときの水準から戻ってきていない。たしかに自殺者数はこの10年間の失業率にはリンクしていないけど、不景気と無関係というのは考えづらい。というか、失業率と自殺者数の動きがばっちりつながっていないから両者は関係ない、と言えちゃうんだろうか? いや、それはここではいいや。そうじゃなくて、30代の自殺は一貫して増えている、ということが言いたかった。団塊ジュニアの数が多いから? とも思うし、確かに団塊ジュニアの先頭(1970年生まれ)が30歳になった2000年以降20代の自殺は減り始めるんだけど、2003年になると微増、そして横ばいになっていく。これは世代のボリュームだけでは説明はつかないんじゃないかな。というか、若い世代の人口が減っているのに、10、20、30代の自殺者数(割合ではなく)は横ばいか増加ってなんか怖い。

 田中秀臣先生がブログで書いていた。

まだ僕の本務校は統計とってる真っ最中ではっきりいえないんだけど、他の大学の来年3月卒業の学生の就職率がどうも実質ベースで10〜20%程度前年比で低下しているという情報がある。このブログたぶん多くの大学教員がみているはずだから、学生の就職状況がちょっとまずいのは直感でもわかってるんじゃないか、と思う。

 高卒の方はかなり深刻化しているわけで、この事態をみてまだメディアとかは「雇用のミスマッチ」とかたわけたことを書いている。そりゃ、見つかりますよ。この不況だって構造的に人材難もしくは待遇低くて人手が来ない企業なんて日本にごまんとあるから。


 正規雇用が増えたのは、景気が悪いので、非正規雇用が削られ、ひどい待遇でも我慢してる人が増えたからかもしれない。いやこれもそういうことが言いたいのじゃなくて、30代で正規雇用の割合が増えたとして、それを不景気で説明することもできるよ、ということが言いたかった。そして自殺者数の推移は、待遇の低さや本当の失業者数を示唆しているのかもしれない。

 以前書いたんだけど、オバマ政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長のクリスティーナ・ローマー先生が、職の数だけじゃなくより良い職を作り出すことが重要だ、と力説してた。それが景気対策なんだ、と。

 さらに勝間和代さんとの対談で飯田泰之先生は「効用とは心で感じる満足度」であり「効用は経済学では重要な概念」と言っている。たぶん、統計の数字で議論をひっくり返しても、それが人々の効用を反映しているものでないとあまり説得力はないんだろう。といって効用を計る手段はなくて、統計を参考に推測するしかない。なので僕のような粗忽者としては、いい加減なこと言っちゃうフラグが立ちまくりで、まあこれまで通りこれからもいい加減なことは言っていくんだけども、やっぱり今生きている人の効用が大事だよね、長期的には我々は皆死んでいるんだから、と思う。んで、統計の数字が話題になるときに感じるもやもやは、統計がどうしても長期的な視点になりがちだからだろう。二年くらいの統計を真に受ける人はあんまりいないだろうし。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール

 最近、ジル・ドスタレール『ケインズの闘い』を読んだときのメモを読み返していた(感想)。で、ケインズの貯蓄に対する考え方のまとめがあった。彼は貯蓄する意図を問題にしていた。そりゃ長期的には貯蓄は将来の消費と同じだろう。お金を貯め込んだ本人が死んでしまえば、遺産として家族の手に渡りいくらかは消費されるだろうし、一部は税金として吸い上げられて公共サービスの維持なんかに使われるだろう。でもそれはもうずいぶん気の長い話だ。実際にはお金を貯め込むような人は消費もしないし、リスクの大きい投資もしない。ので、人の一生程度の時間では、貯蓄は格差をいっそう拡大させているし、なんだかんだいって世代を超えて受け継がれている(つまり長期的に貯蓄=消費というのは理屈だけで、実際は違う)。

 だからケインズは「長期的には我々は皆死んでいる」と言ったわけだ。だから今すぐなんとかしなきゃ、と。長期的には貯蓄は消費だし、北海道の失業と沖縄の求人だって、長期的にはマッチするだろう。では、貯蓄が消費に変わるまで、僕たちは10年も20年も待ち続けなければいけないのだろうか。待つことに失敗してしまったら、それは自己責任なんだろうか。もし待たなければいけない時間が100年だとしたら、運が悪かったとあきらめるしかないのだろうか。

 長期的な視点から現状を肯定するのは危険だ。統計が話題になったときのもやもやは、僕たちがその危険をなんとなく感じとったということなんだと思う。

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